歌声と、それに合わせたギターの音色が響いている。柔らかな弦の旋律に合わせるのは、透き通るように響く歌声。誰もが聞き惚れるような響きが紡がれているのは、セントラル・カセドラルの一室だ。声の主はユナであり、彼女はただ一人に聞かせる為だけに歌っていた。
英雄は未だ目覚めず、彼が倒れてから三カ月の時が経った。
シノンやラン、ユウキの献身的な看護。仲間達はほとんど毎日、代わるがわる見舞いに訪れている。それは整合騎士も同様であり、設立された人界守備軍の中からも彼の様子を見に来る者さえ居た。半月ほど前に北の防衛へと旅立った整合騎士のアリスとユージオ……ベルクーリの家名である『ハーレンツ』を貰い、ユージオ・ハーレンツとなった彼も出発前にはオーリの様子を見に来て、挨拶をしていった。
この不可思議な仮想世界で、オーリは二十年近い時間を過ごしてきた。現実よりも千倍ほど時間が早く過ぎるこの世界だが、それでも過ごした時間は本物だ。シノンにも、ユナにも、ランにも、ユウキにも届かないその年月がこの世界に積み重なっていた事を、彼の事を心配している人達が証明している。
やっぱり凄いなぁ。
ユナは旋律を奏で、歌を響かせながらそう思う。記憶を封じられて、現実とは違う世界で、それでもオーリはオーリだった。SAOで自分を助ける為に死地に飛び込んでくれた人は、この世界では人々の未来の為に自分の全てを投げ打った。ユナは彼のその在り方を尊いと思うし、助けられた自分が非難するのは間違っているとも思う。
それでも心配させられて、やきもきさせられたら文句の一つも言いたくなってしまう。どうにも、この世界でも彼の事を好いている女の子がいるようだし、と護衛に就いている二人以外の少女の顔を思い浮かべる。
メディナ・オルティナノスと名乗った少女は、彼の姿を見るなり抱きついてリネルとフィゼルに止められていた。そこに
(まぁ……この世界で好かれたのはキリトさんも同じようですが)
学院から志願兵として来た五人の男女……オーリやキリトが目的の為に学院に居た時の後輩で傍付きだった五人。彼らの動揺はメディナに比べれば小さいものだったが、それでも随分とショックは大きかった。シノンやアスナが話を聞けば、後輩達は随分とオーリ達に世話になったという事で、今はストレアやキリトの手伝いでカセドラルを駆けまわったり、暇を見ては剣を教えてもらっているようだ。
その中で、ロニエという焦げ茶色の髪の少女はキリトに付いていて、彼女が彼に向ける視線がユナにとても馴染みがある物であるのに気が付いた。他にもここに居ないユージオの事を尋ねていたティーゼという少女にも、ユージオに対するそう言う感情が見て取れた。
「ふぅ……」
一曲弾き終えて、ユナはオーリの顔を覗き込む。顔色に変化はなく、相変わらず眠り続けたままの顔には何の表情も浮かんでいない。仮想世界の中で眠って、夢を見るのかどうか……少なくともユナは覚えていない。
オーリは今、天命の自然減少を凍結している状態だ。眠ったままのオーリは食事が出来ない。食事が出来なければ空腹状態となり、天命は減少していく。そして、天命が全損すればオーリはこのアンダーワールドから
「わたしの歌は、君に届いていますか?」
歌う度に掛けるユナの問いに、オーリが応えた事はない。聞こえているかどうかも分からないのに問いかけている彼女が愚かなのかもしれない。しかし、ユナは届くと信じて歌っている。その想いは強く、翳りは一切なく、故に彼女の歌はこの世界において比類無き天上の旋律となっている。
初めて歌った時などは、その時聞いていたアンダーワールド人の全員……何と騎士長やカーディナルですら涙を流すほどのものだった。現実側の人間でも、キリトやアスナは久しぶりに彼女の歌を生で聞いたとあってしばらく余韻に浸り、リーファやラン、ユウキは少々呆然とした様子で拍手を送り、シノンも素直に賛辞を贈るほどだ。
『……歌って、凄いね』
ストレアが零した言葉が、ユナにとっては一番印象的だった。万感の思いが込められた涙と言葉は、まさに彼女自身の感情そのものであったように思えたからだ。ストレアがAIである事は聞き及んでいて、しかし彼女が人間と全く同等の感情を紡いだことで、ユナはこの世界が単なる仮想世界でない事を魂で理解した。
ユナが感じたのは、かつてキリトも同じように感じた事。《ソードアート・オンライン》を生み出し、一万人ものプレイヤーを仮想世界に閉じ込めた茅場晶彦が目指した《真なる異世界》。そこに限りなく近づいた物がこの《アンダーワールド》である、という事。
ユナは茅場晶彦の事を良く知らない。精々が、かつて父である重村徹大の教え子だったという事と、その目的くらいだ。その目的も父がキリト達から聞いた事の又聞きであり、彼女自身が共感できるものではなかった。しかし、彼のした事は世間的には歴史に残る大犯罪であろうと、こうして技術は脈々と受け継がれ、ついにはここまでの物に至った。発端に関わり、そしてその先の物へと自分が触れている。そこに何かしらの物を感じる程度には、彼女の中にも《ソードアート・オンライン》と言う物は息づいていた。
「毎日わたしの生歌を聞けるなんて、贅沢なんですよー?」
うりうり、とオーリの頬を指で突けば、ほどほどに柔らかい感触がユナの指に返ってくる。こうしたスキンシップについては、オーリの《フラクトライト》を刺激するという事で推奨されている。その為、良く手を握ったり、顔に触れたりはユナもしていた。ランやユウキは彼の身体を拭いたり、たまに一緒に寝ている。シノンに至っては姉妹のやってる事に加えて、毎日の口付けを欠かしていない。
ユナもキスしてみようとしたが、顔が近くに来ただけでフリーズしてしまったために未だに果たせていない。ちなみにその時の光景をランとユウキに見られており、二人はユナを煽るようにオーリにキスをしていた。
『えっ、なっ、はっ?』
『……何か問題でも?』
『き、兄妹でキキキキ、キスしました!?』
『家族でもするのに何か問題ある?』
『くちーッ!? 唇同士ーッ!?』
『『だから、何か問題でも?』』
『無敵状態ッ!?』
そんな一幕もあったのだが、後で姉妹が悶えていたのをユナは見ないふりしてあげた。
しかし、《愛》を伝えるというのであれば口付けというのは最上の方法の一つと言えるのは、ユナも分かる。シノンが日常的に行っているのも、姉妹が後に悶えたとはいえやり通した事も、間違いではない。
「……
「
意を決して動き出そうとしたユナの頭が後ろから掴まれた。その相手は声を聞いただけでわかってしまう。
「し、シノンさん……」
「寝てる旦那相手に禅問答?」
ユナの顔の横にシノンは自分の顔を寄せて、あくまでも平坦な声音で問いかける。表情も普段と変わらない物であり、それがユナにとっては怖い。
「いや、これは気合というか、掛け声というか……」
「キスの度に気合を入れるつもり? ムード台無しよそれ」
ぐはぁ、と声を上げてユナが崩れ落ちると同時にシノンは手を放す。ぼふん、とベッドの端にユナの頭が落ち、彼女は恨めしそうに視線を上げた。
「シノンさんはキスし過ぎだと思います」
「こんな状況だから妥協してるくらいよ」
「え、重すぎません……?」
「毎月好きな人に向けたラブソングを出してたアーティストに言われたくないわ」
世間一般的にはどっちも重い女である。
「……今日も起きませんでしたね」
「そうね……あのひび割れみたいなものは消えたけど」
そう言いながらシノンが彼の頬を撫でる。そこには再会した時のような黒いひび割れは無かった。その事実があるだけでも、彼女達は救われている。自発的な物は返してくれなくても、確かに彼が自分達のしている事に反応しているという証左なのだから。
「シノンさんは、辛くないんですか?」
「あの二年に比べたら、何てことは無いわ。涼がいる所に私もいる……十分すぎるわね」
それに、シノンにとっては何かしらの反応があるというだけで喜ばしいのだ。ただ痩せ細っていくだけの彼を見るだけだったSAOの二年と比べれば、世話のし甲斐があるとも言える。
そんな彼女が、ユナにとっては非常に羨ましい。何処までも好きな人を信じていけるという事が……それだけ深く信頼関係を、愛を紡いできたという事だから。一方通行ではない、相互理解によって結ばれた絆は、こんな時であるからこそその強さを示している。
二人の義妹もそうだ。最初こそ取り乱していたが、一日で表面的にでも立ち直り、一週間経つ頃には折り合いをつけたのかぎこちなさの抜けた笑顔も見せるようになった。一月経てば街にも繰り出すようになって、兄が見てきたであろう景色を見て、触れてきたであろうものに触れ、その事を眠る兄に話す光景が日常になった。
もう一人……この世界でずっとオーリの妹として生きてきたストレアも、たまに顔を出す。外から来たシノン達と違い、ストレアにはこの世界での確固たる立場も責任もある為にオーリにべったりというわけにもいかない。それでも時間を作ってはランとユウキに街を案内したり、アスナやリーファ達の仕事や立場の調整。貴族である為に自分の領地の管理から教会と社交界との橋渡しまで、それを一手に引き受けている。
教会と社交界の双方の事情に明るく、更には《外》にも理解があって調整役としての力量もある彼女は、まさに侵略に抗う準備を進めるのに必要不可欠な存在である。多少の無理は承知の上で仕事をしているとストレア自身は言っていた。
「……起きますよね。オーリ君」
「きっと起きるわ。皆が、待っているもの」
◇
《東の大門》が崩れると予告された日まで二カ月を切った頃、守備軍の訓練は個人の能力を高めるものから集団での行動を重視するものへと変わっていく。軍で最も数が多い歩兵隊……四帝国の衛士隊や騎士団からなる者達が数十の部隊に分かれ、隊列を合わせた行軍や集団戦を行っている光景は、現実で見る事が難しい圧巻の光景だ。
彼らに個人技の訓練を施したのは、連続剣の心得があるキリトやアスナ、リーファとユウキ、そして整合騎士団の中でその心得を持つファナティオ。その中で頭角を現した者が各部隊の隊長や副隊長として今、この集団戦で部隊を指揮している。
それを横目に、アスナ・シノン・リーファ・ラン・ユウキ・ユナは自分達をここに呼んだカーディナルを見た。騎士長の隣には腰に剣を佩いたキリトと、大剣を背負ったストレアが立っている。
「カーディナルさん、わたし達に用事というのは?」
「あぁ、お主らにも一応教えておくべきだと二人から進言があってな」
「まだ何か教える事があるんですか?」
ランが首を傾げて問いかけ、『うむ』とカーディナルが頷いた。六人はこの四カ月の合間の時間にアンダーワールドでの戦闘方法……《剣術》と《神聖術》について学んでいた。剣術の方はそもそもソードスキルであるために特に説明する必要はなく、ユウキに至ってはそもそも直感的に説明を受ける前から使いこなしてもいた。ユナは多少錆を落とす必要があった程度で問題はなかったが、弓のソードスキルは無かったためにシノンは特にする事が無かったが。
神聖術については、六人とも使用しているアカウントがこの世界で最高クラス……三人の神とその従者であるため、コマンドを覚える事とそれに慣れる事に終始した。こちらはアスナとランがあっと言う間にコマンドを覚えてしまい、使用に関しても実戦で問題ないレベルまですぐに仕上がった。他の四人も特に問題らしい問題も無く、教えていたカーディナルが『キリトが一番覚えが悪かったの』とポツリとこぼすほどである。違う意味でキリトは泣いた。
「まぁこれも神聖術の一種というべきじゃが、《武装完全支配術》についてじゃ」
「《武装完全支配術》?」
「やって見せた方が早かろう。ストレア」
「はーい。《システム・コール》」
背負っていた大剣を手に取り、ストレアが長い詠唱を紡いでいく。その内容に聞き覚えがない事にランが疑問を浮かべていると、『エンハンス・アーマメント』の結句と共にストレアの頭部に狼の耳が、腰の辺りに尻尾が生える。
「……コスプレ?」
「違う違う。こー言う事」
身を屈め、全身のバネを使ってストレアはその場で跳びあがる。全員の身長は優に超え、首が痛くなりそうな角度で見上げないといけない程の高さまで跳び上がった彼女を見て、六人は思わず声を漏らした。
「まぁあれは一例じゃがな。武器の記憶を紐解き、その一部を呼び起こす事で通常以上の能力を発揮する
「それが《武装完全支配術》……」
「要するに必殺技みたいなもんだ。俺も使えるし、《神器》を持つ整合騎士なら全員使える」
「それを私達に覚えろと?」
「出来るかどうかはわからん。そもそも《神器》に選ばれているかどうか、という話もあるしの」
「選ばれるって……」
ユウキが腰に佩いた直剣を見る。アスナ達もそれぞれダイブした時に装備していた武器……一人は楽器だが……を見るが、そう言う概念はしっくりこない様子だ。
「っと、簡単に言えばイメージの問題かな。その武器……まぁギターも殴れるし、武器扱いでいいと思うけど、その姿形や成り立ちを完璧にイメージできるようにした後、そこにどんな能力を加えたいかを強烈にイメージして
長い跳躍から戻って来たストレアが支配術を解除して、説明を補足する。
「イメージでそんな事が出来るの?」
「可能だ。この世界ではイメージ力や自分の意志次第で肉体の強さや、技の威力も変わってくる。日常の様々な事例から見ても明らかだし、戦闘においてはそれが顕著だからな」
リーファにキリトが答え、自分が見た例を話していく。華奢と言って良い女性の剣士が大の男に勝った事例や、特に言うならば整合騎士の女性陣も外せない。それらは日々の積み重ねによって培われた自負と自信……意志の力が源である事に疑いは無いと締めくくると、六人は頷いた。
「アスナ達には一応それぞれ管理者権限はあるけど、戦況を変える切り札になり得るのは乱発できない。だから、可能なら手札を一枚は増やしてほしいんだ」
「それは確かに……」
ストレアの言葉に納得を示して、アスナは少し思考を回す。スーパーアカウントそれぞれには管理者権限としての能力が付与されている。アスナの《創世神ステイシア》には《無制限地形操作》。シノンの《太陽神ソルス》には《広範囲殲滅攻撃》。ユナの《地神テラリア》には《無制限自動回復》といった具合だ。
リーファ達ハイアカウントにも権限という名の特殊能力は存在する。
《
《
《
どれも使い勝手という意味では特に制限が無い分アスナ達より上だが、決定打という意味では一歩足りない。逆にアスナ達の能力は決定打になり得る力を秘めているが、使い勝手は悪い。地形操作はアスナにかかる負荷が頭痛としてフィードバックされ、実験として小規模な物を試しただけでも酷い頭痛に襲われた。シノンの広範囲殲滅は単純に連射が出来ないし、ユナの回復は使い勝手が良さそうであるが、これは地面に足が付いていなければ発動しない上にペインアブソーバーが無い為、苦痛はそのままだ。下手をすれば苦痛を受け続けても
「わたしやシノノン、ユナさんは使いやすさを求めるか、能力を別方面に生かすようなイメージを持つべきだよね」
「逆にわたしやリーファさん、ユウはここぞという時の威力か範囲があれば良い、と」
「方向性としてはそうなんだけど、やってみないと分からない所があるからな……」
「幸いまだ時間はある。暇がある時にじっくりと考える事じゃな」
「あのー……」
カーディナルの言葉に頷いた面々の中で、ユナだけがおずおずと手を上げる。
「どうした?」
「あぁ、いえ……出来てるかもしれません。わたし」
「……は?」
彼女の発言に思わずぽかんとしてしまったカーディナルの反応は、キリトやユージオに支配術を教えたからこその驚愕だった。彼らの想起の時間も、概念を教えてから短いと思っていたがユナのそれはもっと短い。
ただ、キリト達にとって驚愕はあれど納得も出来る話だ。何故ならユナは自身の中にあるイメージを詞に、旋律に変える事を生業とするアーティストであり、そのイメージする力はこの場の誰よりも強く、深い物であるのは半ば必然。切欠……概念の説明さえあれば、辿り着くのは彼女にとって容易な事だった。
「それを、イメージしてみてくれんか?」
「わかりました」
ユナが一つ深呼吸を行い、カーディナルの目を見つめた。カーディナルはユナの目から、彼女のイメージするそれを受け取り、再び表情に驚愕を現した。
「――…何と言う事を考える」
カーディナルは改めてユナを見たが、彼女の表情は変わらない。このイメージを組み上げると共に、彼女も覚悟を決めているのだろうという事がそれで理解できる。カーディナルが読み取ったものは確かに、彼女の技能と権能をこれ以上ない形で組み合わせ、昇華した物だ。故に術式の数も増えてしまうが問題はそこではない。
「それで、良いんじゃな?」
「えぇ、何の問題
「……そうか。式句を書き出したら持っていこう」
「はい。よろしくお願いします」
そう笑うユナの評価を、カーディナルは改める事にした。現実世界から来た六人の中で最も大人しい……性格的な意味ではなく能力的な意味での話であるし、そんな彼女も歌唱という点においては卓越した技量を有していたが、戦闘力という意味では六人の中で最も低い。それでも立ち回りなどは見事であり、整合騎士団の下級騎士との一対一なら勝つ事も珍しくない。
総じて、戦力として不都合はないが何処か物足りない……そんな印象であったが、それを改める。
「現実世界というのは、やっぱり魔境じゃな」
◇
謎の揺れからすぐに、けたたましい警報が《オーシャン・タートル》全体に響き渡った。それは緊急事態を示す物であり、襲撃を受けている事の証明。菊岡の『敵が来た』という言葉が事実であり、加藤がそれの迎撃に出たという事を想像するのは難しい事ではない。
そこからの二時間の出来事は衝撃的すぎて、凛子も比嘉も様々な事に追われてよく覚えているわけでは無いが、メインコントロールのロックは万全に行い、襲撃者が《アンダーワールド》へ干渉する手段の大部分はこれで潰された事になる。《STL》を使用しての直接介入の可能性も、危険性の高いスーパーアカウント及びハイアカウントは軒並みロックされた。
襲撃者が施設侵入後、この施設自体を破壊するような火器の使用をしなかった事から菊岡が相手の目的を『破壊』ではなく『奪取』であると判断、《A.L.I.C.E.》を奪われないように軒並みロックさせたのだ。
ただ、問題もある。
メインの制御権の移設作業が完了していなかったため、第一・第二制御室共に管理者権限による操作をロックしなければならず、菊岡達も襲撃者と同様に現実から《アンダーワールド》への干渉手段を喪失してしまった。
唯一の干渉……連絡手段は、内部に居るストレアと繋がっている加藤が持っていて、詩乃へと渡されたタブレットのアプリのみだ。しかしこれの使用も制限があり、現実と時間の経過が同一になっていなければならない。現状、《アンダーワールド》は現実の千倍の速さで時間が流れている為、連絡は取れない。外部から加速倍率を下げるのは第一制御室でしか出来ず、内部からも特定の位置に存在するバーチャル・コンソールからでしかできない。
ストレア達は最後の通信以降、セントラル・カセドラル最上階にあるそのコンソールに触れていない。そもそも、その部屋は一種の禁忌扱いになっていて、カーディナルすらあの決戦以来一度も立ち入っていないのだ。人界側にあるコンソールは他にも存在するが、悉くが秘されているため、カーディナルですら場所は知らない。
「状況を整理しましょう」
制服を着崩し、その隙間から血を滲ませた包帯を覗かせつつも、加藤は毅然と言い放った。頬や額にもガーゼがテープで止められており、一目で重傷であると分かる。
そんな彼女の言葉に、第二制御室に集められた人員である凛子、比嘉、菊岡は頷いた。ガラスを隔てた向こう側……《第二STL室》では安岐ナツキ二等陸曹が真剣な眼差しで四人のバイタルを注視し、護衛を任されている伊織は制御室の扉の横に座っている。
「非戦闘員及び研究スタッフについては全員、船首ブロックへと退避が完了している。ここ《アッパーシャフト》と連中がいる《ロウワーシャフト》は、《メインシャフト》の第一、第二耐圧隔壁を閉じて完全に分断済みだ」
「仕様上、それなり以上の工具を使用しなければ隔壁破壊は不可。連中の目的が破壊ではなく奪取なのも確定でしょう。船底ドックからの侵入という事は、潜水艦を使ってここまで来たという事ですから、オーシャン・タートルの腹に魚雷でも叩き込めばワタシ達は一巻の終わりでした」
「あぁ、それと負傷者は一佐だけと聞いている。というかあの人数相手に二時間稼ぎ切った功労者は寝てなくていいのかい?」
「この状況で二佐に指揮権を譲渡する気はありませんよ。この襲撃に至るまでの流れに貴官の不手際があったとしても、ワタシには今ダイブしている彼らに対する責任があります。日本国民を、未来ある少年少女を守るという義務の前に、このような怪我など関係ない」
眼光鋭く、加藤は言い切った。そこにあるのは覚悟であり、自衛官としての使命を全うすべく立つ一人の軍人としての矜持である。非常時であってもブレない彼女を見て菊岡は肩を竦め、凛子は呆れたように息を一つ吐いた。比嘉は顔が引き攣っている。
「システムのロックは?」
「連中がロックを解除するのは、専門家がいても不可能なレベルにはしたッス。ただその影響でこっちでもオペレートは出来ない状況ですが……」
「ならそれは構いません。内部からのオペレーションの可能性は?」
「それについてはあり得ますが……スーパーアカウントやハイアカウントは、使われてるもの以外軒並みロックしたッスよ?」
「
『あ』と声を漏らしたのは、菊岡と比嘉だった。
「修正」
「おごふぅっ!?」
振り抜かれた加藤の拳は、寸分違わず菊岡の肝臓を抉った。見た目よりも遥かに鍛え抜かれている彼の腹筋をやすやすと貫いた加藤は、少し開いた傷口の痛みに顔を歪めた後で比嘉を見る。
「今からロックする事は?」
「ふ、ふかのうであります」
ガクガクと震えながらの比嘉の回答に、加藤は考え込む仕草を取る。彼女としてもその事を強く責める気はない。菊岡への攻撃については、一番このプロジェクト全体を把握しているべき男がその辺りの事で抜けていたからだ。
だから、その場に崩れ落ちた菊岡については誰も助け起こさない。
「……世界の命運は、英雄に託された、か」
凛子が呟いて、《STL》に横たわる四人を見る。その内の三人は、彼女の恋人であった茅場晶彦が生み出した世界を攻略した、英雄と呼ばれる少年少女。何の皮肉か、因果であろうかと凛子は思ってしまう。
それを運命と呼ぶのならば、その運命を作り出した存在もこの近くに居るのではないか……そんな取り留めのない事を考えて、凛子は首を横に振った。
「これからどうするの? 加藤さん」
「襲撃者の存在は伏せ、《A.L.I.C.E.》となった《人工フラクトライト》の確保をお願いしたいものですが……」
「そのアリスについては、ログで彼らと行動を共にしていた事が確認されてるッス。連絡さえ取れれば、確保などは問題無いと思いますが……場所が、ちょっと」
「内部操作による《
「ッス……あそこは人界側じゃなくてダークテリトリー側……しかもその果てです。しかも変更不可能なスケジュールで動いてる《最終負荷実験》まで、こっちの時間ではもう一時間ほどです」
深刻そうな表情で言う比嘉であるが、加藤にとって状況は深刻であっても最悪ではない。少なくとも、どちらにも勝ち目が残っているという点においては公平であり、それを手繰り寄せるのは《アンダーワールド》にダイブする人間次第。襲撃者側は現実では百戦錬磨の兵隊であろうが、加藤達の側は仮想世界における最精鋭と言えるプレイヤー達。どちらも一長一短の、出目の分からない賭け。
「加速倍率の変化には注視してください。あちらが内部オペレーションに気付いたとしても、外部とは連絡を取るでしょうから」
「その隙にこっちも、という事ね。一応、他のコンタクトの手段を考えてみるわ」
◇
『被害は?』
第一制御室にて、黒ずくめの男達へ視線を向けた男が問う。その口から出る言葉は流暢な英語であり、その体格からしても日本人はおろかアジア系でない事は明白だった。問うた男が被っていた目出し帽を取れば現れたのは緩いオールバックで纏められた金髪であり、その目の色は青の、典型的な白人の容貌を持った青年。
彼の問いに答えたのは、短い赤髪を逆立てた壮年の男だ。筋骨隆々とした肉体をコンバットスーツの中に押し込み、その目には肉体に似合わない冷静さと叡智の光を湛えながら、彼は把握している現状を報告する。
『
『予想以上の反撃に、そして罠……平和ボケしたJSDFだと思っていたが、手練れは居るという事か』
制圧の途中で遭遇した女性士官の姿を思い出し、隊長と呼ばれた男は腕を組んで思考を回す。腹を撃ち抜かれても尚、ナイフなどを投擲して反撃して来た相手の精神力は驚愕の一言しかない。そして、そんな士官が居るという情報は彼らの耳に届いては居なかった。
『状況を確認しよう。現時点で突入から二時間半が経った。我々は今、オーシャン・タートルのメインコントロールルームに居る。目標施設の占拠には成功したが、ラース技術者の確保には失敗』
『システムはがっちりロックされて、持ち込んだラップトップ・マシンじゃ老いぼれてくたばるまでの時間を掛けても解除できねーですよ』
金髪を丸刈りにした、病的にまで痩せた白い肌の男が答え。
『隔壁については切断は絶望的ですな。最新のコンポジット・マテリアルが使われていて、持ち込んだ工具じゃ一日あっても不可能です』
巨漢の男がそれに続き。
『爆破についてはオススメしないわ。壁のすぐ向こうにはライトキューブ・クラスターの格納庫がある。中身を傷つけずに隔壁を爆破するなんて保証はないわ』
最後に口髭を綺麗に整えた長身の男が答えた。
各隊員の報告を受けて、隊長と呼ばれた男……ガブリエル・ミラーは更に思考を回した。彼らの目的はこの施設で研究されている《ソウル・トランスレーション・テクノロジー》及びその成果物である《A.L.I.C.E.》の奪取である。
ガブリエル・ミラーという男は、控えめに言って破綻者である。サイコパス、と言ってもいい。彼は物質的には現実世界において非常に満たされている。社会的地位を持ち、その能力的にも非常に恵まれていると言って良いだろう。しかし、彼は幼少の頃から追い求めているものがあった。
それは、魂とは何かという、ともすれば非常に哲学的な命題だ。ただ、この男がその為にやってきた事は、狂人のそれでしかない。幼少の頃に数多の昆虫を殺し、生き物に宿るというそれを確認しようとした。でも、昆虫では確認できなかった。
その果てに、彼は十歳の時に隣に住んでいた少女を殺害するまでに至った。
昆虫で確認できないならば人で――…少女はガブリエルが十歳の時に起こった、巨大投資銀行の破綻により起こった不況の波でそれまでの裕福な暮らしを失い、親類を頼って他の土地へと引っ越す当日であった。二人は非常に仲が良く、共に過ごす時間も長かった。
だから、ガブリエルは少女の魂が傷つき、穢される前に殺す事にした。
その時に見た物を彼は今でも鮮明に思い出せる。そして、その時からそれを追い求めて生きてきたのだ。故にガブリエルはこの任務の参加を志願した。依頼を受けた民間軍事会社の最高作戦責任者という地位に居る彼は、本来ならば現場にいるような人間ではない。しかしこうして参加しているのは、偏にそのテクノロジーを自分の物にする為。
魂を探求するために。
『どうだ?』
そこで思考を打ち切って、ガブリエルはコンソールの前で高速でキーボードを叩いている丸刈りの隊員……クリッターに声を掛けた。
『管理者権限でのログインは絶望的。出来るのはクラスターに収まってる《フラクトライト》たちが楽しく暮らすのを見るくらいですかねぇ』
クリッターが手元を操作すると、正面の壁にある巨大なスクリーンにウィンドウが開き、映像を投影する。広がった光景は、空が不気味な赤色に染まり、地面はアスファルトのように黒い世界。ガブリエルは漠然と、《フラクトライト》達が暮らす世界はもっと文明的な物だと思っていたが『違うのか?』と言う疑問が浮かぶ。
『ラースの連中が作ったアンダーワールドは二つのエリアに分かれてて、一つは真ん中より少し西側の《
映像の視点を移動させれば、ずんぐりとした体型の奇妙な生物が十体ほどいる場所に移る。なめし革を縫い合わせて造られた原始的にテントの横に居るその生物たちは何か騒いでおり、少し見ていれば中央に居た二体が取っ組み合いまで始めた。
『ゴブリン……?』
『オッ、詳しいじゃないの隊長』
『ほう……随分とファンタジー要素が強い世界なのか』
感心したように呟いたのは、右目の下に泣き黒子のある美男子。思いがけない人間の参戦に、クリッターは軽く口笛を鳴らした。
『へぇ、色男はゲームやんのかい?』
『コントローラーを握るのは性に合わんが、フルダイブは現実の感覚に近いからな。作り込まれた建物などを見るとクリエイターの熱意を感じる』
『ホントに意外だな! お前さんはずっと女をとっかえひっかえしてると思ってたぜディオ!』
『フルダイブゲームなら言い寄られない。これは素晴らしい事だぞクリッター』
『モテる男は言う事がちげぇな!?』
盛り上がるクリッターとディオと呼ばれたの二人はさて置き、ガブリエルは画面を見ながら脳裏に浮かんだビジョンの輪郭に手を伸ばす。
『クリッター、このゴブリン共はシステムの一部なのか?』
『んー、どうやら違うようです。こいつらもある意味じゃ本物の人間だ。クラスター内のライトキューブにフラクトライトをロードされてますよ』
『えぇ……こいつらも俺らとお仲間だってのかぁ?』
げんなりした様子で口を挟んできたのは、明るい茶色の髪で片目を隠した痩躯の青年。
『ターゲットのアリスってのは、流石に人間だよな?』
『当たり前だろロッド。ただ、無茶苦茶広いからこうして見てるだけじゃ、絶対見つけらんねぇよ』
『でもよクリッター。さっきお前さん、管理者権限は使えねぇって言ってたよな。何ならダイブして聞き込み……するにしてもくっそ広いのか』
『それに日本人が作った世界で、中の言葉は当然日本語だからな。まず話せんのかって事』
「あ、それは問題ねぇ」
ロッドと呼ばれた青年が流暢な日本語で話せば、クリッターは目を丸くした。
「俺も話せるぞ」
『マジかよ!』
『日本人女性……大和撫子に声を掛けるのに、話せる必要があるだろう?』
『くたばれ色男』
続いて日本語を披露したディオに辛辣な言葉を投げかけた後、何か思いついたようにクリッターがモニターを注視しながらキーボードを高速で叩き始める。
『どしたい?』
『いや、いや、何もダイブして逐一聞き込みする必要はねぇんだよ。ラースの奴らが中から観察や操作をするのに、高レベルのアカウントを用意してないはずがねぇ』
『……そうか、高レベルアカウントからの命令という形でアリスを探そうという事か』
『イィエーッス! ボス』
大モニターにたちまちいくつものリストがスクロール表示されるが、それを見ていたクリッターが盛大に舌打ちをした。
『ちっ! その辺はやっぱ抜かりねぇか。ヒューマン・エンパイアの高レベルアカウントは軒並みロックされてる。レベル一の一般市民が精々だな』
『クリッター、高レベルアカウントはダークテリトリーのものはないのか?』
『ダークテリトリー? そっちにアリスがいる可能性は低いと思いますが』
『エリア的に完全不可侵でないのなら、アカウント権限によっては超えられる手段があるかもしれない』
ガブリエルの言葉を聞きながらクリッターの指が軽快なタイプ音を響かせて、新たにウィンドウが四つ開いていく。
『エンパイアと違ってダークテリトリー側の高レベルアカウントは四つ。とびぬけて高いのが……《エンペラー・ベクタ》。続いて《
『使える《STL》も四台か。可能なら全台使用したいな』
『とは言っても、俺とロッド以外に日本語ができるメンバーが?』
「私も多少は出来る」
ガブリエルの口から飛び出た、聞き取りに問題ないレベルの日本語に部屋に居る部下全員が目を丸くした。
『……三人も居たら、あと一人くらい出そうだな』
「ならばそこに私も立候補しよう」
『レオ副長もかよ!?』
ガブリエルに被害状況を告げた壮年の男……レオの日本語を聞いて、クリッターは四度驚愕を見せて疲れたように溜息を一つ付いた。
『ダイブの準備を開始します。ちょいと時間をください』
『ならば私達はSTLで準備をする。動ける者は警戒を怠るなよ』
『
レオ〇〇〇
ディ〇〇〇〇・オ〇〇〇
ロ〇〇〇ッド
きくおか「よく生きて逃げれたね……」
かとう「地の利はこちらにありましたし、少ないながら罠を張る時間もありました。それでもなお負傷を負った事については、恥ずかしい限りですね」
りんこ「普通なら死んでるのよ……?」
かとう「防弾ベストも着ていましたし、この程度では死なないように鍛えております」
ひが「じえいかんこわい」
きくおか「彼女が例外なんだ……少なくとも僕は撃たれたら死ぬよ?」