『私の具合が悪い時に、母はいつもこうしてくれたんですよ』
そう言って笑った顔を憶えている。
『──また逢いましょう。今日のような、月の綺麗な夜に』
それには……なんと返したのだったか。
それから毎日そこへ行った。飽きることもなくそこに行った。綺麗な月は、その日以来見ていない。
すべて、短な夜に見た夢だったのかと思うほどだった。その夜の体験は、何よりも素敵で、何よりも鮮烈で、その経験があったからこそ今の自分ができたんだろうと思う。
その日から、夜が長く、静かに感じるようになった。
『私は、誰かを嫌うよりも、誰かを愛していたいのです』
その少女は、嫌われ者だった男には眩しすぎた。
『私を優しいと思うあなたのほうこそ、優しいのですよ』
そんなわけがない、と否定することは簡単だった。
『あなたはただ、人の愛し方を知らないだけですよ。
まず最初に、あなたはあなたを愛してあげてください。
あなたこそが、ぼろぼろなあなたの一番そばにいるのですから』
少女が人を愛していたいと言ったから。
少女が自分を愛してやれと言ったから。
──和邇煉瓦の人生に意味はない。意味などない。
けれど、意義ならある。
彼はその日、初めて生きている理由を知ったのだった。
反転した術式を正位置に戻すのは、基本的に難しい。
それはそもそも、
だからこそ完全に元に戻すのは、難しい。
だが俺は違う。ゾラの記憶から多くの術式の記憶を知っている。メルという、意思を持った術式の中でも最高といえるほどのものの事例を知っている。
──だから、俺は理解できる。
正位置を。元に戻す方法を。道標に寄り添うように、母が子を手まねくように。俺は術式を正位置へと案内できる。
それをする方法は──一度、術式を弱らせる必要がある。今の術式は、久しぶりに起動したばかりで衝動を押さえられていないのだ。だから、一度弱らせて俺の声に耳を傾けてもらえるようにする。
その方法は──
「メル」
『──ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおん』
呼び掛けに、応えた。
うちにメルを持つ俺が一番うまく扱えるのは、水の属性だ。だから俺は、水で弾丸を作り出した。それを放出する。相手の防護を貫通して着弾した弾丸は、確実に相手にダメージを与えた。呻き声……相手が怯んだのを見て、もう1発加える。
それを術式は、頭突きで相殺し──飛んだ。
「逃がすか」
『空中戦は得意分野だ──!』
この間の反省から、空中戦の特訓をしたのである。故に、術式に容易に追いつき、
「捕らえろ」
閉じ込めた。
それは水の檻だ。相手を拘束する檻。術式が体当たりをするが、けれどびくともしない。当然だ。
ただの術式に、始まりの術式の本気が破れるはずがない。
「──お前の記憶、見せてもらうぞ」
そして、触れた。
メルの術式の得意分野は秘匿である。
秘匿に優れるが故──暴きも、相応に存じているのだ。
「術式展開」
──それは、記憶だった。
『ねぇ、あなたは何をしているの?』
鮮烈に焼きついた1日の記憶。それは彼女が、永遠に求めていた記憶。
彼女は何も知らなかった。
彼女は何も知らなかった。
外の世界の綺麗さも、初めて見る川のせせらぎも、喉にへばりつく冬の空気の冷たさも、初めて感じた愛という感情も。
だから、彼女は何もかも知らなかったが故に──愛してしまったのだ。
けれど。
奇跡の如き邂逅は、再現性を持つことのない──それこそ、夢のような奇跡でしかなかった。
『今日もあの人はいるのかしら?
……ふふ。ああ言われたけれど、あの方は私のお家を知りませんものね』
そう思い、夜中に再び家を抜け出した彼女は、昨日と同じ道を通り、──そして、たどり着いた。
変わり果てた、その場所に。
川は都市化の影響で汚れ、月などもう映りそうにもない。河原は縮み、すぐそこまで泥のような水が来ていた。
『──え?』
たった一晩。
たった一晩だけで──その場所は、信じられないほど荒れ果てた。昨日、ここで2人出会ったことがまるで嘘のように……何もかもが、変わり果てていた。
翌日も、その翌日も。
水面に映る月も──ここで、確かに笑いあったはずの少年も。姿を現すことはなかった。
『……こんなところに、毎晩なんの用があるというのだ』
『……父様』
『ここは、既に死んだ土地。お前が求めるものなどなにもないよ』
『そんな──嘘です。私はたしかにここで見ました!
雪の降る中、水に映る月を……つい、この間!』
『夢でも見ていたのか』
『違います! たしかに私は……彼と……!』
『……なぁ、娘よ』
『……なんですか?』
『雪など、降っておらんのだ。
ここ一ヶ月……世界は、信じられないほどの快晴が続いている』
『……え』
彼女は、けれど。
確かに見たのだ。
『で、でも……私は……』
本当に?
「──お嬢様が経験したのは……きっと、次元のズレですね」
「世界は時々、揺らぎますから。その揺らぎが他の時間と交わったときに、本来ありえない邂逅が起こり得るんです」
「……お嬢様は、その彼の事をどれだけ思っていたんですか?」
『生まれて初めて、好きになったの。みんなみたいに、父様が雇ったわけではない人。……初めて、私そのものを見てくれた人。ボロボロで、今にも擦り切れそうなのに……私に優しくしてくれた、とっても優しい人』
『傷を舐めあっただけの、勘違いに過ぎない恋心だとしても……本当に、心の底から好きになれたの』
「……神様は、残酷なものですね」
「たった1度の奇跡が、どれだけ人の支えになったとしても……」
「二度と、与えてはくれませんもの」
「……お嬢様。何をなさっているのですか?」
『祈っているの。あの月を、あの方が眺めていることを』
「……」
『……』
『本当は、わかってるの。あの方からすれば、私との出会いなんて大したことではないことを』
『……』
「……」
『あの方が』
『私のことなんて忘れてしまって、誰かと添い遂げて……今も笑っていることを。
月を誰かと見ていることを』
『……あの方が。
幸せであることを。
それが、私の幸せだから』
「……お嬢様」
『……?』
「……その。なんといえばいいか……」
「……それでいいんですか?」
『シュガー。あなた……今日はどこか、変ですね』
「……泣かないんですか?」
『……』
『私は、あの方が元気であればそれで』
『……それ、なんですか?』
「折り鶴です」
「お嬢様の祈りを込めて、いずれ届けてくれるように」
『……』
『作り方、教えて下さい』
「そういうと思っていました」
『……退屈です』
『私が美しいと思ったのは……』
『あなたと、一緒だったからなのでしょうか』
『……』
『……』
『夜は、退屈です』
『祈りましょう』
『あなたの行く末を。……あなたが私にそうしてくれたように』
『…………』
『……………………』
『……少しだけ、寂しいです』
──触れた。
術式に触れた。濁流のように、想いが流れ込んでくる。それは祈り。
少女が経た、月夜の邂逅。それが楔になっているのは、何も1人ではなかった。
方や人を想い続け、その身を仙人にまで昇華させようという域までたどり着いてしまった男。
方や人を想い続け、時間を超えて祈りを届けてしまうほどの奇跡を起こしてしまった少女。
「──術式展開ィィィイイイイイイ!!」
だから、この奇跡が、とても大きな少女の祈りが、彼女が吐いてしまったわずかな弱音で台無しになってしまうなんて──そんなのは、認めない。
「元に戻れ──!!」
──俺が知った祈りを、術式が忘れてしまった祈りを、同調術式を経由し無理やり流し込む。そして不純物となってしまった弱音を、俺のほうへ引っ張ってくる。
無茶な行為だ。術式側の抵抗は、ほとんどない。けれどこれはそもそも、ゾラと俺のように、互いが混ざり合わさった状態でなければ出来ない裏技。常人よりも遥かに多いと勇者に言われたほどの魔力が一気になくなっていく。
「──が」
そして、同調が切れた。維持するだけの魔力がなくなったのだ。宙に浮く魔力もなくなった。落下しながら、──鶴を見た。
「──サキ、大丈夫か!?」
『魔力の使いすぎだよ。攻撃をもらったとか、そういうのではない』
「すまん、ありがとな、親友」
──雲が、散った。
鶴は、空に咲き誇った。羽に光を受けて──儚く、輝いた。
「……綺麗だな」
「だな。……煉瓦さんは?」
「あそこだ」
指をさされたほうを見ると、煉瓦さんの前に、鶴が降り立つところだった。親友に背負われそこまで向かう。
「……お前は、一体どこからきたんだろうね。
俺も長いことここで人を待っていたけど。
お前みたいなやつと会うのは初めてだ」
『────』
「はは、くすぐってぇよ。よしよし。さっき俺を引っ張ったのも、あれか。
お前、寂しかったんだな。だから仲間がほしかったんだろ?
だったら、俺でよければ、一緒にいてやるよ」
『────────』
「……さっきの姿。
久しぶりに、何かを綺麗だと思ったんだ。
そう思ったのは、俺が餓鬼の頃以来なんだ」
『──────────』
「ありがとよぉ。おかげで、思い出したんだ。
俺があいつに、なんて言ったのか。
『今度は、俺がお前に会いにいく』ってよ。
馬鹿な俺は、場所を聞くのを忘れちまったけど。
馬鹿みたいな間、待たせちまったんだから……頑張って、探すことにする」
『……──────────』
──鶴が、鳴いた。煉瓦さんの周りをくるくると舞い、そしてその胸に顔を擦り付ける。
『──────────────』
そして、高く空へと舞い上がった。
遠く、遠く、飛んでいく。
きっともう帰ってこない。
「振られちまったな。
ありがとう、助かったぜおふたりさん」
「……いえ。もともと、俺が頼まなければ煉瓦さんは巻き込まれなかったはずですから」
「お前らのおかげで俺はあいつに会えたんだ。
感謝こそすれ、責める気はない」
そういって、煉瓦さんはくくくと笑った。
「……あの。煉瓦さん。言いづらいんですけど……その……
煉瓦さんが、今会っても……相手は、わからないと思います。
でもそれは忘れてるとかじゃなくて、ただ……時間のせいで。相手は、ずっとずっと煉瓦さんのことを……ずっと。思っているから」
「……そうかい」
「……すみません」
「いいよ、別に。あの鶴みたいに……世の中には、俺が知らない不思議なことがたくさんあるんだろ。
それがなんなのか言わなくていい。だけど、お前がもし知ってるなら教えてくれ。
あいつは今も、月を見ていたか?」
……ああ。それは──
「──はい。月を、見ていました」
「……そぉかい、そぉかい」
そう言って、煉瓦さんは空を見た。
川に、陽の光が反射していて、とても綺麗だった。細々とした光が揺れるのを見て──俺は、呟いた。
「星みたいですね」
「そうさなぁ。
綺麗すぎて、泣いちまいそうなほどだ」
そう言った煉瓦さんの顔は、お面で見えはしないけど。
なんとなく、想像がつく気がした。
「俺は行くよ」
しばらく、そうしているうちに、煉瓦さんが言った。
「……そうですか」
「もう、ずっと待ったんだ。……待たせたんだ。
今度は、俺のほうから探しに行くよ」
「じゃあ、俺は……奇跡が起きるように、祈りますね」
親友が、言った。
「……ふふふ。
ありがとう。……君たちには、いろいろ世話になった。
これもある意味夜の奇跡──かな」
そう言って、彼は、去っていった。
その後ろ姿に手を振って──俺たちは、不思議な夢から始まった旅の、その終わりを迎えたのだった。
──少女は、家の外から出たことがない。それは彼女の持つ気力が、他人を害してしまうためである。
一般的に徳を積んで、他者の害気に耐えられる人間でなければ、彼女といるだけで体を病んでしまう。
だからこそ、彼女は外に出ることが許されないのである。
「──あら……? ふふ、はじめまして」
そんな少女の元へと、巨大な鶴が飛んできた。彼女はその頭を撫で、鶴へとその笑みを向ける。
「……私は今日、夢を見ました。とっても美しい景色の夢です。
あなたみたいに自由に飛べたら、たくさんの景色を見られるんでしょうね。……ふふ、妬いてしまいます」
『────────』
「……どうしました? なにか……きゃっ!?」
鶴は、小さくなって、少女の胸へと突撃する。ぶつかる、と思ったが衝撃を感じず、彼女はゆっくりと、閉じていた目を開いた。
「──あれ」
少女は、そして……何かを、忘れているような。大事なものが欠落してしまったような気分がして、窓の外を見た。
綺麗な月だ。
……けれど、どこか味気ない。
気づけば、涙が流れていた。なにが悲しいのか、何がそうさせているのかわからないけれど。
なにか、大切なものを──
「──どうした、嬢ちゃん」
──そして。
あふれる涙を、男の指がすくった。
「こんなに月が綺麗な夜だ。涙は似合わねぇよ」
お面をつけた、長身の男だ。見たことがない。見たことがない。
けれど。
──きっと。自分が生まれるよりずっと前の彼を、
「……ふ、ふふふ。なんですか、それは」
「な……あんまり笑わねぇでくれよ。カッコつけた俺が恥ずかしい」
そういって、彼女の頭を撫でる男は……きっと。
「はじめましてだな、嬢ちゃん」
「はい、はじめまして」
生まれる前に、好きになってしまった相手だ。
和邇 煉瓦
仙人になった。
人の理から外れたことがきっかけだろうか。
何年も願った奇跡を起こすことが出来た。
少女
未来の彼女が起こした奇跡が、1つの結末を呼び寄せた。
時間を超えた、細やかな約束の物語の終わりを。