うちの脳内コンピューターが俺を勝たせようとしてくる 作:インスタント脳味噌汁大好き
梅雨が明け、恐らく桂香さん問題も片付いたんじゃないかと思われる7月中旬。とうとう天衣のマイナビ女子オープンチャレンジマッチの日が来たので、清滝一門と一緒に東京へ向かう。清滝一門と月光一門は、兄弟の関係なんだよね。月光会長と清滝さんは兄弟弟子の関係で深い関わり合いがあるけど、俺と会長の関係が書類上の師弟関係だから、俺と桂香さんの関係とかはかなり微妙な感じ。
「明日は棋帝戦の第3局で、今日は前夜祭のはずなのに東京行って間に合うのか?」
「俺は今日、体調不良になって前夜祭を欠席する予定だから安心しろ」
「おまっ、それは駄目だろ」
「冗談冗談。ギリギリ間に合うスケジュールにはしているよ」
九頭竜に前夜祭までに間に合うのかと聞かれ、ギリギリ間に合うとは言ったけどギリギリ間に合わないかも。まあでも、多少の遅刻ぐらいは許されるはず。前夜祭に顔だけ出して、すたこら帰る棋士とかもいるからね。
新幹線で朝一番に新大阪駅を出て、新幹線での移動中に大会での心構えを天衣に言っておく、
「大会に出るのは初めてだから言っておくが、相手の二歩や二手指しがあった時はすぐに手を挙げろよ。あと、反則負けで、死んだ奴とかいるから気を付けろ」
「……反則負けで、死ぬ?」
「年齢制限だ。この大会は、女流棋士になる最短ルートだということは話したよな?だからこの大会には必死になるアマチュアの女流棋士候補達が集まる。中には年齢制限が間近の人もいるし、そういう人でも反則負けで負ける時はある。そんな負け方で負けた後は……。
……まあ要するに、盤面から目を離すな。細心の注意を払えってことだ」
アマチュアの大会で、反則負けは日に何度も出ることが珍しくない。というか、プロでも二歩や二手指し、駒の利きを間違えての反則負けをする人がいるんだから、アマチュアの大会で出るのは当然だ。
そして嫌らしいのは、わざと反則負けを誘導する人。例えば二歩になるように盤面を誘導したり、酷い時には……。
「チェスクロックの押し忘れを指摘しないのは当然として、二手指しの誘導をしてくる奴すらいる」
「二手指しの、誘導?」
「相手が時計を押し忘れてよそ見している隙に、持ち駒を使ってその場でパシーンって高い音を鳴らすんだよ。その音で相手が指したと思って、時計を見ると自分の手番。騙されて指したら、二手指しで反則負けって寸法」
「そんなことまでする人がいるの!?
いえ、でも確かに後が無い人はやりそうね……」
持ち時間15分、30秒切れ負けという早指しで、よそ見をする奴は余裕のある奴しかいないけど、うちの天衣はその余裕のある奴なので反則に関する知識を今の間に教えておく。ちなみにこの二手指し、アマ高段でも普通に引っかかる奴がいるから要注意だ。
こういうのは、大会当日に注意しておくのが1番頭に残りやすい。今から詰将棋を解いたり定跡の手順を憶えたところで、上がる棋力なんてたかがしれてるしな。
「ごめん、ちょっとトイレ寄ってくわ。あとコンビニで飲み物とか食べ物買ってくるから、先に受け付けしておきなよ」
「あー、俺も飲み物だけ買って来るか。天衣は欲しい飲み物とかあるか?」
「午後の紅茶」
「りょーかい。まあ対局中は、甘い飲み物が欲しくなるよな」
東京に着いて、九頭竜が離脱するタイミングで俺も離脱。この後で祭神に九頭竜が押し倒されるんだよね。めっちゃ見たい。
とりあえずコンビニに入って、午後ティーを2本買うと九頭竜が迷子になる。あれ?一緒のコンビニに入ったよな?トイレにしては長すぎるし、もう外に出た?
会場周辺の薄暗い地域を探して、色々と見て回るけど九頭竜が居ない。一度会場に行って、午後ティーを天衣に渡し、あいや桂香さんに九頭竜が帰って無いか聞くと知らないと答える。
……あいつマジで何処に行ったん?
もう一度コンビニの近くから、別の階段を登ってみるとちょうど九頭竜と祭神が話している最中だった。あいつずっと、トイレに籠ってたのか?
「やーいち。久しぶり。
あのこと、考えてくれた?」
「何でお前が、ここにいるんだ。お前が出るのは次の1次予選からだろ」
「そんなこと、どーでも良いじゃん。というか早く答えてよ。私と、付き合ってくれる?」
「……何度も言ったろ。お断りだ」
久しぶりに見るけど、やっぱり祭神のスタイルは良いよなぁ。スタイルは。
『頭の中は、数段ぶっ飛んでますからね。マスターの紹介したネット将棋のサイトのお陰で、あれでも軟化しているのが恐ろしいですよ』
(そして九頭竜への執着心自体はそんなに変わらないという。今の祭神の言葉は80%ぐらいが純粋な好意だから、九頭竜が戸惑ってるぞ)
ずっと隠れて2人のやりとりを聞いていたけど、あいつら移動するから会話を聞き取り辛い。最後、手を振って祭神が去って行ったけど、九頭竜への首筋噛み付きまではしなかったな。あ、眼球舐めもしなかったか。押し倒しはしていたけど。
祭神が去っていくのを見計らって出て行くと、もっと早く来てよとげんなりした表情になる九頭竜。すまない。2人の雰囲気を邪魔したくなかったんだ。
「というか大丈夫か?あいつ、大木の弟子も標的にしていたぞ?」
「俺の考えは知っているはずだから、むしろ天衣のことを積極的に潰しに来そうだな。……五分に渡り合えれば御の字だけど、厳しいか」
「いや、本当に大丈夫か?もし天衣が襲われでもしたら」
「その時はマジもんのヤーさん達がチャカを抜くから大丈夫。天衣の付き人の晶さん、ああ見えてかなり強いぞ」
「……天衣って、お嬢様っぽいけどどういう家の出身なの?」
「今は真っ当な実業家の孫娘」
天衣が危ないという九頭竜だけど、天衣に手を出すとむしろ祭神の方が危ないという。今は真っ当な実業家だけど、少し前までは……。
まあ、九頭竜への執着心の方が強いし手を出すならあいだと思いたい。天衣に関しては、常に晶さんが傍にいるから安心感が違うな。そして会場の方に戻ると、組み合わせが発表されていた。
幸いなことに、天衣もあいも桂香さんも違うブロックだ。ただ全員が、女流棋士と当たっている。このマイナビ女子オープンのチャレンジマッチは女流棋士とアマチュアが当たる大会だけど、女流棋士の方が数は少ない。だから女流棋士と1回戦で当たるのは不運なんだけど、天衣なら問題無いな。