うちの脳内コンピューターが俺を勝たせようとしてくる   作:インスタント脳味噌汁大好き

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女王戦第5局

迎えた女王戦の第5局は、神戸の結婚式場で行なわれた。原作でも第3局で使われたであろう結婚式場は、中々に広くて良い景色だ。確か、天衣のご両親の墓も見えるんだよな。この結婚式場を第5局に用意する辺り、月光会長も孫弟子には相当甘い。

 

そしてこの会場を第5局に持って来たということは、月光会長と男鹿さんは第5局まであるだろうと予測していたということになる。女王戦が始まる前は、ほとんど実力に差が無かったからこうなる可能性は高かったけど、随分と思い切った采配だな。

 

「絶対に、勝ってくるわね」

「顔が怖い。対局が始まる前に、ラジオ体操でもしてこい。天衣なら全部、憶えているだろ?」

「はあ!?

……分かったわよ。力抜くためでしょ?やってくるわよ」

 

天衣の顔が怖いことになっていたので、落ち着かせるために体を動かしてこいと言う。こういうの、無理やりでも効果はあるからな。前世の大学時代、初めて大会に出た時に先輩から教えて貰ったことだ。

 

第5局は天衣の先手で始まり、天衣は2六歩と居飛車明示を行なうが、空さんが一手損角換わりを仕掛けて来た。ウキウキで恋人の得意戦法を使うんじゃねーよ。プロ棋士のトップ層相手には少々、勝ち辛い戦法になって来た一手損角換わりではあるけど、空さんはものの見事に指しこなしている。

 

『天衣の手が止まり始めましたね』

(遊び将棋のお陰だな。経験に邪魔が入ったことで、余計な手まで見え始めている。だけど読む力は上がっているはずだし、読み方にも無理やりなてこ入れが入った。どっちに転ぶかは、マジで天衣次第だ)

『……結局、運頼みになるのはやめて欲しかったですね。良い方向へ転ぶよう調整したとはいえ、弱体化する可能性もあるわけですし』

 

天衣は4八銀、3七銀、4六銀と腰掛銀の形を選択せず、平矢倉を選択。本来なら6七にある金が6八にあるから、横からの攻撃に強い形で、矢倉の変化形となる。

 

『平矢倉は優秀ですけど、7六の地点が弱くなるので一長一短ですね』

(一方で空さんは、綺麗な金矢倉だ。……第1局とは、また違った展開になるだろうな)

『お互いに、後がないという精神状態ですからね。これ、天衣が帰って来たら一発殴られるのを覚悟しておいて下さいね?』

(一発で済むなら、温情があるレベルのことをしたわけだしな。そのぐらいの覚悟はしてるわ)

 

一手損角換わりで角交換をした後、再度角交換をした後は、天衣が6一角と相手の陣地に角をおろす。3五銀から3四歩と良い感じに攻めていた時は良かったものの、空さんも馬を作って天衣の飛車を苛め始めた。そして空さんが天衣の銀を丸得した時、天衣の評価値は-1000に到達していた。ここからの逆転は、ほぼ不可能か?

 

(あ?ここで1二歩だ?)

『これは上手いですよ?ここから逆転するなら、何としても1六桂打としたのを活かさないといけませんし、2四桂を最大限活かす手です』

(1二桂成と、香を取れたのは良かったけど、向こうも3七歩成と桂馬取りつつと金作ったぞ?)

『ええ。まだ空さんの有利は変わりません。しかし、じわじわと差は詰めて来ています。まるで、試合中に成長しているかのようですね』

(となると、成功はしたわけか)

 

しかしまあ、長い将棋だ。100手を超えて、まだまだ中盤戦の山場は迎えて無いように見える。だけど徐々に、天衣の将棋は変化していた。

 

 

 

 

 

(あー、もう!見えなくて良いものまで見えるじゃない!)

 

女王戦の第5局。その対局で天衣は、余計な手順まで見えるようになっていた。それらは全て、遊び将棋のせいであり、大木の思惑が上手く行っていることの証拠でもあった。

 

100手目に空銀子は3八歩と天衣の飛車の頭に歩を打ち、天衣が2九飛、1九飛と逃げれば2八歩、1八歩と執拗に追いかけ回す。最終的に1七歩と、完全に飛車を抑え込まれた天衣は1九飛と素直に飛車を逃がすものの、既に天衣の飛車は完全に働きを失っていた。

 

その次に空銀子が目を付けたのは、自陣に打ち込まれている角であり、6二飛とその角に攻撃を仕掛ける。天衣は悩んだ後、4三角成と金を取りに行き、角を捨てた。

 

この時点で、天衣の評価値は若干回復しているものの、それでも-500前後と悪い。しかし徐々に、将棋の内容が変化していっており、空銀子はその対応に手間取る。

 

強引な形で天衣は空銀子の飛車を追いかけ、銀2枚を使って飛車と交換をした。既に150手を超え、両者共に1分将棋に入る。記録係を務めているあいは、第1局の時よりも2人が遥かに成長していると感じ、天衣はもっと遠い所へ行ってしまったんだと実感した。

 

その飛車で龍を作った天衣は、それでも顔をしかめる。実際、ソフトの評価値はこの時でも天衣の劣勢を示していた上、アイも天衣の負ける可能性は高いと感じていた。しかし次の一手で、それはガラリと変わる。

 

(えっ……?5三銀じゃなくて、3三銀?)

 

長手数の将棋で、体力を消耗していた空銀子は、思わぬ失着をしてしまう。体力が無く、身体が弱いことがここに来て影響した。天衣の評価値は、マイナスから一気に+500となり、天衣は冷静に空銀子のミスを咎める。天衣の、執念の粘り勝ちとなった。

 

173手目。天衣が空銀子の玉に必至をかけたところで、空銀子は形作りもせずに投了した。目に涙を浮かべ、顔を真っ赤にして堪えている空銀子とは対照的に、天衣は嫌な汗が止まらなかった。明らかに自身の指す将棋が変わったからだ。

 

安定していた大局観も、経験則から来る最善手も、全て不安定なものとなっていた。大事なタイトル戦、それもフルセットで迎えた大一番を前に、自身の根本的な部分を勝手に改造されたことに憤りを感じた天衣は、そこから更に思考を飛躍させた。

 

師匠は、この改造を夜叉神天衣に施さないと空銀子には勝てないと判断した。だから、決行したんだと。

 

天衣は記者達からのインタビューを終わらせると、師匠の元へと駆ける。天衣の師匠、天衣の目の前の男は天衣が勝ったことに、心底喜んでいるようで、どこかホッとしている雰囲気があった。天衣はそのことを察知した瞬間、目の前の男の鳩尾を目掛け、思いっきり踏み込んだ右ストレートを放つ。

 

しかし残念なことに、生粋のお嬢様である天衣はひ弱だった。いくら大木が華奢な体格とはいえ、10歳女子のパンチは、17歳男子の身体にダメージを負わせられるほどのものではなかった。


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