うちの脳内コンピューターが俺を勝たせようとしてくる   作:インスタント脳味噌汁大好き

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免状

天衣が無事に女王を獲得し、将棋界は揺れた。空女流二冠は空女流玉座となり、夜叉神女王が誕生する。メディアはこぞって新しく誕生した女王の天衣を持ち上げたけど、5年間頑張っていた空さんを持ち上げる所も少なくはなかった。まあ、容姿が容姿だし、ファン層っていうのはそう簡単に変わらないからな。天衣は天衣で、人気が出ると思うけど。

 

奨励会二段昇段とタイトル獲得の両方を成し遂げた天衣は、しばらく奨励会に専念させたい。だけど、そうさせてはくれない人達がいる。女流玉座戦を開催するスポンサーの、役員達だ。

 

「是非、夜叉神天衣先生を女流玉座戦にも!」

 

そう言えば、原作でも空さんは結構強引なやり方で女流玉座戦に挑戦させられたんだっけ。だからというわけじゃないけど、将棋連盟の会長は今の月光会長に変わった。将棋界で、方針転換があったわけだ。

 

「私が決めることではありませんから、天衣に選ばせましょう」

「いえいえ、師匠である大木先生に決めて貰えれば……」

「私が決めることではありませんから、天衣に選ばせましょう」

「あ、はい。分かりました」

 

遠回しな否定を繰り返しても、相手方には話が通じないみたいなので天衣に直接選ばせることにする。というわけで、スポンサーの役員達と一緒に夜叉神邸まで移動。門を潜ると、両脇にサングラスをかけた黒服達がずらっと並んで「お疲れさまです!!」と声を合わせる。ここ1年で結構な回数ここに来ているから、俺は慣れたものだけど、初めて来た人達は面食らって震えていた。分かる。俺も最初の頃はそうだったから。

 

『今ではご苦労様ですと言える程度には慣れましたよね』

(うん。

……ご苦労様です、で良いんだよな?一応、俺の方が上の立場なんだよな?)

『そこで不安にならないで下さいよ。

一応先生という立場なんですから、たとえ年齢が下でもご苦労様で良いはずです』

 

天衣のお爺さんである弘天さんも鋭い眼光で見つめてくる交渉の場で、交渉相手の雰囲気に呑まれたスポンサー企業の役員達は、天衣が言った「嫌ですわ」の5文字に説得する気概も起きなかったようで、素直に帰って行った。とりあえず、面倒くさい人達を処理出来たのは気持ちが楽になるな。

 

「ところで、何で断ったんだ?別に天衣が出たかったのなら、出ても良かったんだけど」

「空銀子が、女流玉座も失冠したら私が空銀子の代わりをしないといけないのでしょう?あそこまで取材やイベントの手伝いに時間を割かれるくらいなら、空銀子をタイトルホルダーにしておいた方が都合は良いじゃない」

 

天衣に女流玉座戦への参加を見送った理由を聞いてみると、空銀子をタイトルホルダーにしておいた方が都合が良いからだった。まだ10歳の天衣に、学校と奨励会、タイトル戦にタイトルホルダーとしての責務を果たしながら取材やイベントまでこなすのは辛い。

 

だから、空さんに押し付けられる部分は押し付けるわけだ。この辺も本当に師匠の俺に似て来たけど、屑な部分まで似て欲しくはなかったという面と、忙しくなり過ぎずに済む安堵の面とがせめぎ合う。

 

「あと、個人的にあの役員達は好きになれなさそうだったし」

「まあ、それは分かる。なんかねっとりしていて気持ち悪かったし」

 

将棋界において、師弟は親子の関係だ。親子が似るのは避けられないことだし、俺ももう少し言動は見直そう。

 

で、言動を見直した結果、今まで断り続けていた月光会長の呼び出しに向かう。……いや、用件は分かっているんだよ。察しはついているんだよ。だから何かしらの言い訳をして断り続けていたけど、とうとう女王戦が終わってしまったから言い訳材料が尽きた。

 

「男鹿さん、そこの馬鹿弟子を確保して下さい」

「いや月光会長、もう既に確保されてていてててて!」

「逃げたら駄目ですよ?大木三冠は、どれだけ会長に迷惑をかける気なんですか?」

「でも、免状への署名は嫌なんです。字が汚いので」

「大丈夫です。竜王に比べればマシだと男鹿さんも言っていたので。とりあえずこれから、300枚は書いて貰います」

 

将棋連盟は将棋の段位の免状を発行しており、これはわりと大きな収入源でもある。年間で1万枚前後の発行数があり、将棋連盟会長と名人と竜王はその全てで署名をしなければならない。ただし、その他の棋士についてはわりとランダム。それでも、人気の高い棋士が書くケースは多い。

 

例えば生石玉将の追加署名キャンペーンが開催されれば、会長、名人、竜王の横に必ず生石玉将の署名が書かれることになる。逆に言えば、会長、名人、竜王にならなければこの署名は絶対参加ではないわけだ。九頭竜とか、将棋会館に来たついでに毎回50枚は書かされているけど、年に1万枚の発行があるから仕方ない。

 

……全部直筆って、頭おかしくね?しかも俺の場合、文字にばらつきがあるから綺麗に書けた時と書けなかった時とで差が酷い。俺のせいで月光会長、名人、九頭竜の3人に書き直しをさせるわけにもいかないので、汚い字でも読めればそれで出荷されてしまう。

 

『文字を書く時だけでも、私が身体を動かせれば良いんですけどねえ』

(アイは文字が綺麗か汚いかすら分からないだろ。何となく、綺麗に書きそうなイメージはあるけど)

 

そして、この文字を書く作業は慣れてないととても時間がかかる。九頭竜なんか、最近免状の申請が多いからか延々と署名を書いていた。名人に国民栄誉賞で、筆と硯が記念品として贈られたせいだろう。

 

このタイミングで、大木三冠の追加署名キャンペーンをやりたかったのかな。初段でも33000円する免状は、300枚も発行出来ればそれだけで990万円。全部四段なら、77000円だから300枚だと2310万円。……もう一度言うけど、将棋界のわりと大きな収入源だ。

 

『……何で歪むんです?』

(わからん。あ、九頭竜の字が歪んでるからつられて歪んでるわ)

『マスターもヤバいですけど、九頭竜も大概ですよね。2人とも、中学生の時の習字セットを使っているからですよ』

(道具で、そんなに字の綺麗さは変わらんだろ。……あー、また歪んだ)

『……ゲームの時は、あれだけ正確な操作が出来るのに文字を書く時だけそうなるのは治らないんですか?』

(ゲームは練習してるし、上手くなろうとしているからじゃないか?)

 

悪戦苦闘しながら、300枚を書き切る。時間がかかるし、本当に面倒だ。……今年は名人のせいで、1万枚以上の申請が来るだろう。九頭竜に関しては、ご冥福をお祈りいたします。汚い字が、日本全国に出荷されるって辛いな。


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