うちの脳内コンピューターが俺を勝たせようとしてくる 作:インスタント脳味噌汁大好き
新年を迎えて、指し初め式の日を迎えるが、来週には生石玉将と俺が玉将のタイトルを巡って7番勝負を行なうので、俺と生石玉将には色々と配慮された指し初め式になる。ゴキゲン研はしばらく打倒大木研になって俺と天衣が参加出来なくなる模様。関東で散々聞いた名前の研究会だな。
『久々にマスターの両親と会いましたが、元気そうでしたね』
(何なら直接会うのは1年ぶりだしな。会いに行こうと思えば1時間半で会いに行けるけど……向こうも忙しいそうだし、滋賀は近いようで遠いわ)
そして、約束通り天衣とあいは練習試合をすることになった。持ち時間は、奨励会の三段リーグと同じ1時間半。お互いに着物を着ており、傍から見ればタイトル戦を行なっているようにも見える。
この戦いは、あいのお願いを天衣が聞いてあげたから実現した戦いだ。しかし、ただの練習対局とは雰囲気が違う。これは何かあるな。
「何か、九頭竜はこの試合に条件を課しているのか?」
「ああ。この対局に勝てれば、あいのプロ棋士編入試験を考える」
「……なるほど。そのことを、天衣にも伝えたのか」
「本気で戦って欲しいから、天ちゃんにはさっき伝えて来たよ」
九頭竜によると、この対局に勝てれば空さんか天衣がプロ棋士になった後、大々的に開かれる女流棋士からプロ棋士への道に、あいを進ませるらしい。もちろん試験は厳しいものになるが、天衣に勝てるなら突破できると踏んだのか。
一方で、この対局に負けても女流棋士を休業して奨励会へ挑むとのこと。あいも天衣に触発されたか、プロ棋士への道を選んだようだ。もしくは、空さんから九頭竜を奪うためか。どちらかと問われれば、後者のような気がするな。
……しかしまあ、空さんか天衣がプロ棋士になって、1番得をするのは祭神だな。今年、とうとう祭神は帝位の予選トーナメントを勝ち抜き、帝位リーグ入りを果たした。女流棋士でプロ棋士相手にここまで勝つのは異常だし、前例のないことだ。ただそれでも、奨励会に入って三段リーグまで頑張ってきた天衣や空さんから女性初のプロ棋士という称号を奪える程ではない。
というか、俺と同じリーグに入ったから嫌でも祭神とは戦うことにはなるな。まあ今のアイなら、適当に遊んでも勝てるレベルだろう。天衣に負け越すレベルだし。
『……いえ、祭神もA級棋士並みの瞬発力はありますよ。1局を通じて棋力に波があるのは、それだけ気分が読む量に影響するということでしょう。今の祭神は、九頭竜と帝位のタイトル戦をすることで頭がいっぱいなんじゃないですか?』
(それはあり得るな。残念ながら、その夢は叶わないのだが。
というか天衣とあいの対局が珍しい形になっているな)
『生角と成角の対抗ですか。……角交換をしたのにお互い角と馬が自陣にいますね』
(天衣の馬を追っ払って、自陣に角を打つあいは九頭竜というより清滝先生に近いな)
天衣とあいの対決は、既に多くのプロ棋士が観戦していて注目の一戦になっている。空さんに勝った女流棋士は、あいが初めての存在だ。天衣は厳密には女流棋士じゃないからな。たとえ勝率が低くても、空さんに勝てるということはそれだけ他の女流棋士とは隔絶した実力があるということで……現状、天衣相手に良い勝負をしているのも納得だ。
『将棋は、天衣の方がまだ優勢です』
(まだ、ね。馬を作ったところまでは良かったけど、自陣に引かないといけなかったし、そこまで有利にもなってないな)
『まあ、持ち時間の使い方は天衣の方が圧倒的に上手いので大丈夫でしょう。……来年、このあいが奨励会に入るということは、また奨励会で旋風が巻き起こるでしょうね』
(まず間違いなく、1級受験だろうな。実力的には奨励会二段クラスを超えているかもしれないから、余裕で突破すると思う)
序盤、角交換から先に角をあいの陣地に打ち込み、馬を作って優位に立った天衣だったが、その後はお互いに玉を囲う展開となり、あいは天衣の馬に狙いを定めた。角を自陣に使って、その利きを利用して銀が天衣の馬に迫る。
結局天衣は、馬を自陣まで戻す羽目になった。この時点で、天衣とあいの差は生角か成角かの差だけだな。天衣の方が優位ではあるけど、その差は僅か。中盤の山場で、この状態は少し不味いか。
『……天衣が決めに行きました。これは、あいは時間を使いたいところですがもうありません』
(こうこうこうこうと読み始めたけど、間に合うのかな?)
『あー、間に合いませんね。時計のアラート音も、今のあいには聞こえないんじゃないですか?』
(ここで時間切れ負けかよ!これこのまま続いていたら、どうなっていたんだ?)
『天衣の一手勝ちになる可能性が8割強です。天衣が負けることは無いでしょう』
持ち時間が苦しいあいは、それでも盤面を読んで次の手を指す。しかし時計のアラーム音は着手と同時に切れ、電子チェスクロックの画面はあいの持ち時間切れを示す。あいの持ち時間が切れたのだから、当然天衣の勝ちだ。勝者である天衣は無言で立ち上がり、その場を去った。
「……まあ、凄い集中力ではあったな。時計の音、聞こえて無かったっぽいし。
あいはこれから、奨励会試験に向けて方針転換か?」
「……ああ、そうだな。持ち時間があっても、届かなかったか?」
「持ち時間があっても、天衣の一手勝ちじゃないか?……この対局の続きは、きっちりあいと検討しておけよ」
俺も九頭竜と少し話した後は、天衣の後を追う。天衣が逃げ出したくなるのも、分かるような気がするな。あれだけ努力して、それでも自分に食らい付いて来ている存在には恐怖を感じるものだ。
空さんとあいのタイトル戦は、双方に成長をもたらしたのかもしれない。……次の空さんとの対局は、5月頃の女王戦の空さんと同一視して良い存在じゃない。
「……別に逃げ出さなくても良かっただろ。あのまま続けても、天衣の1手勝ちだった。強さの差が、顕著に出た一手差だ」
「慰めになってないわよ。前まで、大差とは言わなくても結構な差で勝てていたのに……」
「弱い方が伸び代があるのは当然だろ。差が縮まってくるにつれ、この1手差は大きくなる。というか後手番を持って振り飛車をして、今のあい相手に一手差勝ちなら上出来だ。向こうは人生を賭けてきていたからな」
将棋指しは背負っているものが大きいほど強くなる奴と、背負っているものが大きすぎると手が震えて弱くなる奴の二通りに分かれる。あいは間違いなく前者であり、今日の対局はあいと天衣で本気度が違った。それでもあいを撥ね退けたんだから、自信を持っても良いと思う。