うちの脳内コンピューターが俺を勝たせようとしてくる 作:インスタント脳味噌汁大好き
三段リーグの第8局で、空さんと天衣がぶつかった。互いに7連勝中で、トップを走っている者同士の対決。空さんは、弱くなったとか小学生に負ける中学生だとかで嘲笑われることも多くなったが、普通に昨年よりも強くなっているし、今季の三段リーグで天衣を除いたら本命の一角だろう。三段昇段戦では椚に負けたけど、それももう一年ぐらい前だしな。
注目の対局ということで、棋士室でも空さん対天衣の対局が映る。それを観戦しながら、バカ売れし始めたタピオカミルクティーを飲んでいると供御飯さんと月夜見坂さんがやって来た。何か珍しいな。供御飯さんとは観戦記者モードの時によく喋るけど、こういうプライベートだとそんなに遭遇しない。九頭竜は月に2、3回は遭遇しているらしいが、俺は年に2、3回遭遇する程度だ。
「げっ、大木かよ。何でタピってんだ」
「店の売り上げ貢献のため。つーか第一声がゲッて何だよ」
月夜見坂さんと俺は、そこまで仲良くない。というか敵視されてる。まあ、全女流棋士にとってのラスボスとなり得る存在を育てている奴だからな。あと単純に、奨励会から逃げた時の姿をこっちは知ってしまっているのが大きい。丁度俺が三段リーグの下見に行ってる時に、退会しようとした月夜見坂さんとばったり会ってるし。
『あの強気な月夜見坂さんが、弱弱しい姿で退会届を出しに行く姿は新鮮でしたね』
(1年戦って降級して、メンタルブレイク中だったんだろ。しかしまあ、奨励会の5級や6級を相手に2勝8敗を二度繰り返さないと降級はしないんだよな。指し分けすら無理だったのが意外だ)
『……小学生の女性で奨励会に入ったのは岳滅鬼さんが最初ですが、その前にも女性で奨励会に入った人は存在します。大昔の規定では、女性は指し分け程度の星で昇級していました』
(ああ、流し読みした将棋関係の本に書いてあったな。その頃とは、かなり状況が変わったか)
奨励会は2勝8敗するとBに落ちる。6級から、6級のBに落ちるというイメージで良い。この状態で2勝8敗すると、7級に落ちてしまう訳だ。しかし6級のBから6級のA、通常の6級に戻るのは簡単で、3勝3敗という成績で良い。指し分けで元の級位に戻るのだ。
……だからまあ、月夜見坂さんの奨励会の通算成績は結構悲惨なもので、1年間の勝率は3割にも満たない。その末に降級したんだから、弱弱しくもなるわ。そんな月夜見坂さんと、空さんに「八一」呼びを奪われた供御飯さんが、三段リーグで全勝中の空さんと天衣の対局に注目するのは分かる気がする。
『先手で角頭歩戦法を使われると逆に違和感を覚えますね。本来は先手番の奇襲戦法なのに』
(それだけ天衣が、後手番角頭歩戦法を使い続けているということだろ。……空さんは、持久戦を選択か)
『賢明ですね。先手を持った天衣の角頭歩戦法に後手が8五歩と仕掛けた場合、もう後手番に勝ち目はほとんどありませんよ』
(それほどか。天衣の角頭歩が洗練されていっているのは感じてたけど、アイでも勝てない?)
『私は勝てます。ほとんどと言ったでしょう』
持久戦に移行したはずの空さんは、天衣が僅かな囲いで仕掛けて来たので持ち時間を使っている。これは、椚と同じパターンに入ったか。角頭歩からの向飛車は、既知の範囲内の方がおかしい。空さんはかなり対策を練っているけど、その対策法は結構前にアイが克服済みだ。
「……こんな戦法でプロ棋士になっても、勝てないだろ」
「三段リーグをこんな戦法で戦うことに意味があるんだよ。月夜見坂元女流玉将さん?」
「あ゛?喧嘩売ってるなら買うぞコラァ?」
「お燎は落ち着いとぉくれやす。……天衣さんは奨励会に入ってから、将棋が変わらへんのどす。将棋の天才集まる場所でも、壁に当たって将棋を変える必要の無かった超天才です」
「いや、天衣はむしろ壁にしか当たってないですよ?何だかんだ言って、初段前後は結構負けていましたし」
供御飯さんと月夜見坂さんとの会話に突っ込みを入れながら、将棋の行く末を見守る。天衣の将棋が変わってないように見えるのは、序盤の指し回しが特段上手くなってないからだな。多面指しの弊害だけど、思考の簡略化のためにこの辺は流石に身体が憶え切ってしまっている。言ってしまえばこの辺は経験則任せだ。
ただ、序盤を過ぎて中盤の捻じり合いに入ると経験則と共に深い読みも使っている。中盤の山場からなら終盤、下手すりゃ終局図まで読めるようになっているんじゃないかな。まあ速い寄せなんて数パターンしかないし、原作では速い寄せをパターン化して暗記したりしていたな。
『今は上手く噛み合っていますね。経験則から見える最善手を、疑って読んで超えることもよくある状態です。日に日に強くなっていますよ』
(まあ、放っておいても強くなる時期に過剰なほどアイとの対局を重ねたんだ。日に日に強くならないと困る)
天衣の使う、金銀2枚の囲いはもはや囲いとは呼べない代物だ。4八金、4九玉の僅か2手で基本形が完成する。ここから手を加えてから攻めることもあるが、今日は獲得した駒で囲いの補充をしている。一見柔らかそうだし、実際に柔らかい囲いなのだが、攻めが失敗しない限りは崩れない。
居飛車対向飛車。飛車が正面からぶつかり合う戦いは、金を攻めに参加させた天衣に軍配が上がる。……傍から見れば愚形にしか見えない棒金だけど、金銀交換はそこまで大きな差じゃないと天衣は考えているし、俺もそう思う。
空さんは金で天衣の角を封じ、天衣は角を切って金と交換する。一方で天衣は銀で桂馬を取りに行き、銀と桂馬の交換になる。これで金銀交換から始まった天衣の駒損は、角と桂馬の差になった。しかし強引な攻めの結果、天衣の飛車先の歩は、と金に変わる。
『8三歩成……このと金は、本当に大きいです。7五金以降、自然な応手だけでほぼ一本道。天衣の研究の成果ですし、空さんはものの見事にやられました』
(いやらしいのは、ここから空さんが見える挽回手段も大抵は挽回不可能ということだよな。必ず天衣の刃の方が先に空さんの玉に届く)
まだ局面は一見すると天衣玉が不安定だから互角に見えなくもない。実際、となりで供御飯さんと月夜見坂さんがこの対局をあーだこーだと検討しているけど、この時点で天衣の勝ちはほぼ確定。そして予想通り、十数手後にはそのことがはっきりとし、空さんは限界まで粘るものの、天衣はキッチリ空さんの玉を詰まして8連勝を決めた。