《SWORD ART ONLINE》〜偽りの星空〜 作:P笑郎
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刹那の時間、目の前ではじけ飛ぶ無数の閃光に少女は見入った。
なんだか懐かしい。
突拍子もない、しかし確かな感覚が鍵となり、記憶の蓋がゆっくりと開いていく。
幼い頃の夏の日、のぞき込んだレンズの向こうに広がる天の川。都会の汚れた空に見慣れていた少女は思わず歓声をあげた。
紅潮した頬に冷えた夜の風が心地よい。そよぐ純白のワンピースを手で押さえ、少女は興奮気味に隣の少年へ話しかける。
『すごいね! お星様があんなにいっぱい。君はいつもここでお星様見てるの?』
『う、うん、ここはね、僕の秘密の場所なんだ。父さんに望遠鏡もらってからは毎日来てるよ』
恥ずかしがり屋なのだろう。はにかみながら精一杯しゃべった少年は、少女から顔をそらすように星空を見上げる。その黒髪が風に揺れ、間近にある少女の鼻をくすぐった。
『ひゃっ、くすぐったいよ』
『あっ、ごめん』
オロオロするその様子が可笑しくて、少女は彼に悪戯をしてみる気になった。少年の背中から抱きつき、むりやり草むらへと引き倒したのだ。
『うわぁ』
軽やかな笑い声と情けない悲鳴が木霊する。
葉っぱまみれの少年を見ると少女は笑いが止まらない。彼も釣られて笑い出し、2人分の笑い声で寂しげな森は俄かに活気付いた。
彼らが笑い合う間も、奇妙に胸を騒がせる星の光はただそこに在る。しばらくして再び星空を視野に収めた少女は、その無限の輝きに目を奪われた。
これまで思ってもみないことだった。まるで星の一つ一つが違った音色を奏でて、自分たちを宇宙へでも連れて行ってくれそうではないか。
隣の少年は、きっと毎晩こんな風に星空の海を泳ぐことができるのだろう。そこにはどんな嘘も悲しみも存在せず、思うまま、自由に、どこまでも・・・
『君が、羨ましいな』
『え?』
困惑したような少年の方をむいた時、風に乗って少女の名前を呼ぶ声が聞こえた。急に胸が重くなったように感じて、少女は溜め息をつく。自分を呼びに来たんだ。もう遅いから言うことを聞かないと。
『私のこと呼んでるみたい。もう行くね』
『そうなんだ・・・』
うつむいた少年に、バイバイ、と手を振った少女は、声が聞こえてきた方向へと駆け出した。
進めば進むほど、遠ざけていた現実に近づくようで息が苦しい。逃げるためにここまで来たのに、結局はこうなってしまうんだ。
あぁ、でも仕方ない。ちゃんとお父さんにお別れを言わなきゃ。
『あ、あの!』
不意に少年の声が背中を叩く。のど元までこみ上げていた嫌な気持ちを飲み下し、少女はなんでもない風を装って振り向いた。すると口元を蠢かせている少年がいて、『どうしたの?』と少女は無意識うちに尋ねる。
『ーーしないで』
『え?』
『無理は、しないで』
全く予想外の言葉に少女は目をパチクリさせる。真意を問おうと彼の表情を観察するが、途中でまっすぐな視線とぶつかり、逆にたじろぐ羽目になった。
鳶色の優しそうな彼の瞳。そこに映る泣き出しそうな女の子は誰?
『・・・ねぇ、明日もここに来てくれないかな。きっと今日よりも星が綺麗だよ。天気予報、明日は晴れだって言ってたし。それに僕、君のためになんでもするから・・・だから君は・・・』
なぜ、そんなに必死なんだろう。少年の瞳が少女の心を映して揺れていた。
やめて、そんな顔をされたらこっちまで悲しくなってしまう。私は悲しくなってはいけないんだ。だって私が悲しいと、お母さんはもっと悲しいって言ったから・・・
強張った少女の両手を、暖かい少年の手のひらが包み込んだ。今まで感じたこともない体温が全身に広がり、私は、わたしは、ワタシは、何が何だが分からなくなる。ーーお父さん・・・なんで私を置いて行ったの・・・
『悲しくていいんだ。もう、無理はしないで』
少年の言葉が心の隅々まで行き渡り、凝り固まった感情を溶かしてくれるようだった。ゆっくりと目を開いた少女は、静かに頬を伝う涙すら忘れ、心の底から微笑んだ。
『ありがとう』
ーー綺麗な記憶だった。
でも、どうして今になって思い出すんだろう。自分でも忘れてかけていたのに。
もう、これで最後だからだろうか。
少女を少女にしていた重要な部品が焼かれて、あとに残るのは向こう側の冷たい体が一つ。少女に舞い降りた暗闇は星の光すら寄せ付けず、二度と少年を思い出すこともない。
寂しいな、そんなの。
体を切り裂かれる不快感に耐えながら、少女は他人事のようにそう思う。痛みはない。だが、自らの運命が決定的に変わってしまったことは理解できた。
そうだ、あの時の男の子。どこに行ったんだろう?
少女の探していた人物はすぐに見つかった。記憶と全く変わらないその瞳に自分の姿が映る。少女にとって、彼は何よりも大切なパーツなのだ。よかった、無事だったんだね。
不意に膝の力が抜ける。体が思うとおりに動かない、まるで自分の体でないようだ。
いや、違う。
もとから自分のものじゃなかったんだ。
ここにあるのは全部偽物だ。光も、音も、匂いも、美味しさも、そして、崩れ落ちた少女を支え、抱きしめる少年の温もりも。
「・・・嘘だろ?」
青ざめた少年は放心したように呟く。細やかに震える指先を感じた少女は、ズキリと心が痛んだ。
ごめん、ね。
精一杯しゃべったつもりだが、声にならない。これでは昔と立場が逆だと少女は薄く笑った。あの時は私の方がずっとおしゃべりだったのに。
それでも少女が何を言わんとしているのか少年は理解したらしい。彼は驚愕に顔を硬直させたのも一瞬、すぐに目元をくしゃくしゃにして叫んだ。
「謝まるなよ・・・約束しただろ!? 向こうに帰ったら、また僕と一緒に・・・!」
そこから先は言葉にならなかった。少年の暖かい雫を頬に感じながら、少女はちらと視界の左上を見る。もう、彼女には数ドット分の時間しか残されていない。
どうしよう。私はこの人に何をしてあげたらいい?
残していける物は何もない。美しい洋服も、最強の剱も、綺麗な宝石も、おいしい料理も、少女と一緒に砕け散る。当然だ。偽物だから。
本物がいい。この人には本物をあげたい。なのに、彼と一緒に涙を流すこの体さえも偽物なんだ。
悲しくて、悔しくて涙が止まらない。
ーー涙?
あぁ、そうか、やっと見つけた。
次の瞬間、少女は力を振り絞って少年の頬にそっと手を添えた。彼の涙が熱い。偽物だと分かっているのに、なぜ涙はこんなにも熱く、胸を締め付けるのだろう。
それは、涙の奥の悲しみを、本物の心が感じているからだ。
ありがとう。
嬉しかった、私の心を見てくれていた。出会った日から、ずっと感じていたこの想いは唯一の真実だ。それを君に託したよ。
できることなら、君はずっとこのままでいて欲しい。
君とこの世界で見た、偽りの星空。
本物だと証明できるのは、きっと君が感じた心だけだから・・・
それが最後だった。
少女の華奢な体が億千の輝きとなって砕け散る。しばしの間それは中空で瞬き、悲しみに抱かれた少年を星空のように飾った。
ーーありがとう。君がいてくれたから、私なにも怖くなかったよ。