第一話 ありふれない私の日常
少し汗ばむ初夏の陽気が額に汗をにじませ、寂れたビル群の中を歩く少女が一人。欠かさず手入れされているだろう艶やかな黒髪と、凛々しさと意志の強さが滲み出る瞳が特徴的な少女だ。
その少女がなぜかやたらと存在感が希薄な崩れかけのビルの敷地へ足を踏み入れ、中へと姿を消した。
カツーン、カツーンとタイルも無く剥き出しになった素材にしては高い音を生み出す階段を昇ること三階分。私こと黒桐鮮花は今日も今日とて修行のために師匠の元へ足繁く通っていた。
私の師匠であり、兄の幹也からしてみれば雇用主でもある蒼崎橙子さんは、一言で説明するなら世捨て人だ。
常に怪しげな商品を買いあさっては金欠となり、従業員である幹也にちょくちょく金をたかってはすげなく断られている。
仕事場はバブル崩壊の煽りを受けて建設途中で投げ出された廃ビルで。本来は六階建てになるところを四階までしか出来ておらず、作りかけの五階の部分が屋上らしき扱いとなっている。
おまけに仕事と言えば完全なフリーランスで、売り込みに行っては報酬を前払いで受け取り制作に取り掛かる。表の顔である建築デザイナーとしても超一流なのに、依頼を受ける事はほとんどない。だから腕が良くても仕事が少なく、兄は給料未払いの件についていつも愚痴っている始末。
――うん、紛う事なき世捨て人ね。
私は師匠の評価を再確認し、やはりその評価は変わらなかった。
しかし、私が橙子に対して悪感情を抱いているかと言えばむしろ真逆である。私は橙子の事をいっそ尊敬すらしていた。
例え世間一般に社会不適合者の誹りを受けようが、そもそも一般社会の『常識』という物差しで測れる人物ではないのだから、仕方が無いではないか。
なぜなら、蒼崎橙子は魔術師だから。
魔術師。いい年をした大人なら一笑に付す、おとぎ話の中の登場人物。多くの子供が寝物語の中で心を躍らせ、胸を高鳴らせた儚い空想の存在。自分もほんの数年前までそう思っていた。
しかし、とある事件で魔術師は実在する事を知った私はは蒼崎橙子に師事し、愛しい人の奪還に燃えていた。
思考に意識をしばらく向け続けていたら、いつの間にか橙子さんが仕事場としている四階のドアへと到着していた。
少しひんやりとする金属製のドアノブを回すと、金属の擦れる不協和音と共に、少女たちのかしましいやり取りが聞こえてきた。
「ほらこれ、シオンがエジプトの名産品だってくれたスカラベのお守り! これがあると砂漠でも迷ったりしないし、幸運を運んでくれるんだって! みんなの分も送ってくれたからあげるよ!!」
「あら、かわいいですね。このつぶらな瞳などが特に」
「スカラベはエジプトでは再生や豊穣を司る縁起物だからな。ありがたく受け取っておこう。微かに魔力も感じるから、まんざらただの土産物というわけではなさそうだ」
現在はエジプトでとある研究に打ち込んでいる友人からの贈り物を、嬉しそうに応接用のテーブルへと広げる活発そうな少女の名は弓塚さつき。涼し気な半袖シャツ姿は他校の制服だが、ひょんな事から知り合い、今では良き友人だ。
そしてスカラベが現物そのままで標本にされているグッズを『かわいい』と表現するちょっと変わった清楚系美人が浅上藤乃。こちらも私の友人であり、同じ礼園女学院に通う友達である。
私含めて三人ともいわゆる『普通の人』ではなく、力のコントロールも下手なため、それを制御する術を見つけるまでという条件付きで橙子さんの事務所でアルバイトとして働いている。
最後に、やはり魔術師らしい観点から興味深げにお土産を見つめているのは橙子さん。
「こんにちは橙子師。それからさつきと藤乃も」
「こんにちは鮮花。今日は少し遅かったですね」
「あ! こんにちは鮮花。鮮花の分もあるから持って行ってよ。ほら、これすごいでしょ」
ツーサイドアップの髪を揺らしながら手を振るさつきに鮮花は微笑を浮かべると、自分も輪の中に入る。
テーブル中央に並べられたのはヤクルトの容器より少し大きめのガラス瓶の中に、褐色の光沢を放つ甲虫と現地の砂らしきものが入れられているものだ。
石や木を彫った工芸品ではなく、本物のスカラベを標本にしてそのまま入れているらしい。生の昆虫独特のリアルなフォルムに一瞬、鮮花は委縮しかけたが、よくよく見ると確かにエキゾチックな情緒がある。藤乃の感想も案外、的を射ている。
鮮花はしばらく手のひらでそれを眺めた後、丁寧にカバンにしまうと、微かな違和感に気づいた。いつも事務所にいる猫のような自由人の姿が見えない。
「橙子師、式のやつはどうしたんですか? 食あたりかインフルエンザですか? 入院するんですか?」
「式がいないからといって露骨に嬉しそうな顔をするな鮮花。相変わらずいい根性をしているな……」
「式なら下の階で仮眠を取るって。サボってた補習を消化するのが大変らしいから」
「そんなの自業自得ですから兄さんが気に病む必要はありません。ついでにあの女とさっさと縁を切ってください」
呆れた表情の橙子さんの代わりに私の疑問に答えた幹也は、わたしのつっけんどんな態度に曖昧な笑みを浮かべるだけ。その子犬ように柔和で暖かな笑顔を独占しているであろう人物の事を思い浮かべると、ひどく心がささくれ立つ。
幹也が「お茶を入れてくる」といって四階の台所へ向かうと、私は橙子さんに向き合った。
といっても、橙子さんはデスクの後ろにある窓を開けて、そちらへ煙が行くようタバコをふかし始めたので背中越しではあるけれど。
「橙子さん、出された課題は全て終えてしまったので、次の課題に移らせていただけませんか」
私はカバンから人を撲殺出来そうなほど分厚い書籍を橙子さんのデスクにドンと置くと、こちらへ向き直った橙子さんは目をしばたたかせる。
何か言いたげに口を開閉させては、小さなため息と共に紫煙を吐き出した。
受動喫煙は御免こうむりたいが、この煙草の香りが私は嫌いではなかった。
「まだ三日だぞ。この厚さをもう読破したというのか?」
「私が速読術を習得しているのは橙子さんもご存じでしょう。それを駆使すればこのくらいは楽勝です」
何でもない事のように私が答えると、橙子さんはタバコの火を灰皿に押し付けて火を消し、私を落ち着かせるように言った。
「鮮花、物事には順序と段階というものがある。いくら鮮花が優秀とはいえ、焦りは禁物だ。桂馬の高跳びというヤツだ」
「焦ってなんかいませんよ橙子師、私にはぐずぐずしている暇なんて無いと――」
ピンポーン
と、私の言葉は気の抜けるようなインターホンの音で遮られた。
「む、ようやく届いたかな?」
「はーい、それなら私が行ってきまーす」
インターホンは構造上、一階に設置するため。もし重い荷物だった場合、運んでくるのは結構な重労働だ。ゆえにこの中で一番身体能力の高いさつきが自然と荷物を受け取る係となっていた」
さつきが階段を下りていき、配達員らしき男性と二言三言、会話を交わすと三十センチほどの小包を抱えて戻ってきた。
淡いピンクを基調とした花柄の包装紙でラッピングされ、ご丁寧にリボンが飾られている。まるで恋人に送るプレゼントのようで、この中にそういった物が送られそうな人物に心当たりの無い私は内心で首をひねる。
「ん? 弓塚、何だその包みは?」
「え? いつものように橙子さんのじゃないんですか? サインはいらないって言うから変だなーとは思いましたけれど」
心当たりが無いのは橙子さんもさつきも同じらしい。念のため、戻ってきた幹也や藤乃に聞いてみても結果は同じだった。
気になった私は包みを見せてもらうも、奇妙な事に差出人の名前が書かれていない。
「私が頼んだのはアマゾネス・ドットコムの電子タバコなんだがな。あそこはこんな洒落た袋に入れないはずだ」
「ああ、あのやたらとマッシヴな配達員のお姉さん方が運んできてくれるとこですか。確かに、あそこはもっと味気無い茶色の紙箱ですもんね」
慣れているさつきが思い出したように橙子さんに同意する。
アマゾネス・ドットコム。
近年、急激に通販業界で版図を拡大しつつある大手企業の名だ。『世界の果てどころかどのような次元、並行世界であろうと迅速に配達する事をお約束する!!』がモットーで、事実、品揃えと配達速度は目を見張るものがある。
橙子さんは妹の名義で買い物をしまくるという悪趣味があるので、今回もそうかと思ったが違うらしい。
「……とりあえず、開けてみませんか? 危険なものではなさそうですし」
おずおずと藤乃が最もな意見を口にし、橙子さんは慎重に包みを破いていく。
中から現れた箱の上にはメッセージカードが置かれ、胡散臭そうに橙子さんはそれを開く。
「げえっ!」
あまりに珍しい橙子さんの反応に、全員の視線が集中する。あの冷静沈着な彼女があんな素っ頓狂な声を挙げる事に、全員が意外そうな表情を浮かべる。
文字列を目で追う橙子さんの眼球がせわしなく左右を行き来し、その表情がどんよりと曇っていく。
やがて、全てを読み終えた橙子さんは頭痛を抑えるように額に手を当てると、新しいタバコに火をつけた。
「差出人は知り合いですか、橙子さん?」
換気扇のスイッチを入れながら幹也は尋ねると、橙子さんは苦虫を噛み潰したような表情で「ああ……」と重々しく呟いた。
気だるげに椅子の背もたれに全体重を預けると、肺腑に溜まった空気を全て吐き出すかのように盛大なため息をついた。
「……彼は時計塔時代の先輩でね。知人というか腐れ縁で、時々こういった嫌がらせをしにくるんだ……」
「嫌がらせ、ですか」
魔術師の世界における嫌がらせは、冗談では済まないような事も多々あるのを身をもって体感している私の頬は自然と引きつる。
つい先ほどまではお洒落な雑貨品でも入っていそうな箱が、今はテロリストの郵便小包に見えてくるのだから不思議だ。
じりじりと小包から距離を取り出した私たちに、橙子さんはひらひらと手を振って、私たちの考えを払拭する。
「あー、安心してくれ。あいつは確かに奇人変人で人をイラつかせる天才のろくでなしだが、人死にが出るような事はしない。……はずだ。多分、きっと、恐らく……?」
「そこは言い切ってくださいよ橙子さん!」
私たち全員の思いを幹也が代弁してくれた。
さつきは既に瞳を赤くし、藤乃も魔眼を発動しかけている。かくいう私も火蜥蜴のグローブをはめて臨戦態勢だ。これだけの戦力が揃えば、そうそう負けはないだろうが、今は非戦闘員の幹也がいる。幹也だけは何としても守らなければならない。
私たちの警戒をよそに、橙子さんは心底面倒くさそうに箱を開けると、中身をテーブルの中央に置く。その黒い物体が何であるかを脳が認識すると、私たちは呆けたような言葉を漏らした。
「……え?」
「……これは」
「……どう見ても」
「――――テレビ、よね?」
一辺、二十センチほどの小型テレビが全員そ視線を独占し、どこか満足気に鎮座していたのだった。
さて、このいかにも怪しげなテレビはなんでしょう……?