イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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第一章:旅立ちの塔
第一話:イセカイにて


 少年は気づくと視界一面に黄色が広がる自然の中にいた。

 

 空には雲ひとつない空が続いていた。やわらかい赤みのある黄色の穂がたくさん立っており、その穂にはびっしりと黴のような花が附いている。あたりには土と水の香しい匂いが漂っていた。

 

「あ、あれ……?」

 

 少年は戸惑っていた。

 

 この景色に見覚えはなかった。今見渡せる風景は田舎に行かなければ見ることがができないと確信させるものだった。遠くの畑には点のように見える人が作業しているのがみえる。

 

 唐突に放り出され、頭の中は混乱の極致にあった。脳裏にはここはどこ? 家の中にいたはず、という言葉が駆け巡る。そのくらい今の状況は理解の外にあった。

 

 耳にはピチッ、ピチッと虫の音が入り込んできていた。少年は落ち着くためはぁと息を吐き、さっきまでやろうとしていた事を思い出した。

 

 記憶が消えたような違和感はなく、意識がとぶほどの衝撃を受けた感触もなかった。一瞬前の記憶を明瞭に思い出せた。

 

「ぼ、ぼくは『パズドラ』をしようとしてたはず」

 

『パズドラ』――正式名称パズル&ドラゴン、スマートフォン向けのアプリゲームで、パズル要素とモンスター育成要素があるゲームである。総ダウンロード数は1億回をこえ、若者を中心に一世を風靡していた。

 

 少年は高校入学に際してきょう親に買ってもらったスマフォで、ずっと友達のプレイを見ているだけだった『パズドラ』をしようとしていた。

 

 ――僕はおかしくなってしまったのか。

 

 混乱しながら辺りを見回していると胸や肩が擦れてガサガサと痒いことに気づいた。気になって見てみると、教科書でしか見ないような麻のボロ服っぽいものを着ていた。同時に、自身の腕が日で黒く焼けているのに気づいた。

 

 中学時代、部活はしていたがアンダーで隠れていて腕はそこまで黒くなかったはずだ。少年はそう考えながら、記憶にある自身の腕と今の黒く焼けた腕を比較する。

 

(いや、気にするべきはそこじゃない。このボロい服はなんだ。着替えさせられたのか。そうだとしてもなぜこんなボロい服を)

 

 少年は状況を整理できずわけがわからないままでいると、後ろから声がかかった。

 

「ねぇ、ねぇってば、アンヘル。あんたさっきからなにやってんの? はやく収穫してくんない」

 

 聞き覚えのない名前に疑問を抱きながら振り向くと、女が呆れて立っていた。その女は少年よりも背が高く少し年上に思えた・

 

 ばさっとした茶髪にのっぺりした顔、少年と同じようなボロ服を着ていて全身砂がついているのかところどころ汚れていた。目はつり上がっており、気の強そうなのがありありとうかがえた。

 

「ねぇ、きいてんの? 日がくれるまでにここらへんのやつ全部とらなきゃいけないんだから。はやくしてよ」

 

 その女は明らかに少年に話しかけている様子だった。

 

 イライラしている。少年はそう思った。しかしどうすることもできない。戸惑ってしまい、うろたえているとよけいにどんどんいら立っているようにみえた。

 

 沈黙に耐え切れずそろそろと声をだした。

 

「え、えーと」

 

 彼女は、はっきりとしない少年の様子にいらいらとする。

 

 付き合いきれなくなったのか、ボンと近くにあった黄色い穂で編まれた屑籠を押し付けて、女は近くにある黄色の穂を収穫する作業をはじめた。いや、再開だ。辺りには鋭利なもので収穫された跡があった。女がやったものなのだ。

 

 少年はそう考えていると、小さな石の鎌のようなものが足元にあるのが目に入った。彼女がさっき持っていたものと同じものだ。

 

 ――もしかして僕もこの黄色い穂をとっていたのか。

 

 結局なにもわからないまま、少年は彼女をまねて穂の根本を鎌で切り、屑籠に穂を放り込んだ。

 

 困ったときは相手の言い分に従ったほうが良いと、少年は短い人生経験から理解していた。

 

 

 

 少し経つとある程度状況がわかってきた。いや、記憶がぶり返してきたといったような形だった。

 

 さっきの女は少年の姉であった。

 

 年は十九歳。少年の家の七人兄弟の長女にあたる。

 

 農作業に疲れたとき、手を休めると、彼女がどのような存在であるのかがぽつぽつと頭の中に浮かんできた。

 

 少年には兄弟はいないはずだった。両親との3人で、ひとつ屋根の下東京で暮らしていた。しかし、彼女の存在は名前から生活習慣まではっきりとわかった。奇妙な感覚であった。少年は自身が知らない事についてわかることに気味の悪さを覚えた。

 

 もう少し時間が経ち、わかったことがあった。少年自身の名前だ。さきほど姉が言っていた『アンヘル』とは自身の名前だと水たまりに浮かんだ自身の顔を見た瞬間はっとわかった。

 

 さらに付随して、農作業の方法や今日の仕事の内容などの記憶が断片的ながら戻ってきていた。アンヘルは何もわからないまま作業をしていたときとは違い、楽な作業の方法がわかりスムーズに作業を行えるようになった。

 

 作業にある程度慣れると、今の状況をゆっくり考える余裕ができるようになった。

 

 アンヘルはこれが転移だと思い至った。

 

 転移、転移だ。アンヘルの心は踊った。

 

 しかしその浮き立つ心はすぐに沈んだ。冷めた部分がどうせ夢だろうとも考えたからだった。

 

 さらに時間が経つと、転移にしてはくだらない世界だと思うようになった。普通、違う世界に来たのならば、物事を説明してくれるような人ややるべき使命があるはずである。しかし、そのようなものはない。

 

 姉らしき女性に強制されながら、農作業を行う。ただの農民であった。アンヘルはひたすら穂を刈るだけの世界など望んでいなかった。勉強するほうが遥かにマシである。

 

 家に返せ。それが本心だった。

 

 一度、心が冷たい方向を向くと止められない。現状に対する不満が噴火したように溢れだす。

 

 しかし、できることは何もなかった。

 

 アンヘルは突然沸いてきた記憶を嘘だとは断定できなった。姉であると考えられる人に反抗して、不審を抱かせたくなかった。

 

 夢とは思えない現実感のある世界で、無謀な行動をすることはできない。もし夢であれば、この大変な農作業から解放してほしい。アンヘルはそうねがった。

 

 照りつける日光、腰をかがめながらおこなう収穫作業、収穫した穂をどけるとその陰にいた虫たちが一斉に動きだす光景は、ずっと都内で暮らしていたアンヘルにとって耐えがたいものであった。もし顔に虫が飛んでくれば最悪である。

 

 とても苦労させられた田植えの校外学習について思い出した。ひとりひとりが苗を持ち、一列になって植えるのだ。

 

 しかしながら、この気の許せる友人もおらずたった一人孤独に作業するのは、昔より遥かに疲労を蓄積させるのだと身を持って体験させてくれていた。

 

 長い時間が経過した。アンヘルがこの平原に立っていた場所が遠く見える。近くには収穫した穂を集めた山がいくつも積み重なっている。太陽は傾いていて、空が赤く染まりだしていた。

 

 もう限界だ。一度休憩しようか考えていると、姉は滴り落ちる汗を拭っている。

 

「きょうはこんなとこかなぁ。あとは明日やればいいかぁ」

 

 疲れた様子で言った。

 

 アンヘルが作業の進まなかった原因であると顔ににじませつつ、てきぱきと取った穂を集めていた。アンヘルはほっとしたようにあたりを片づけていると、姉はこちらを見ながら言った。

 

「あんた、これ全部はこんでおいて。わたしは別のしごとがあるから」

 

 そう言い捨てるとサッと身を翻して畑を出ていった。

 

 アンヘルは絶望した。今日収穫したものは辺りいっぱいに積まれている。しかし、やるしかないのだ。強い姉を持つ弟とはこんな気分かと新鮮な気持ちになりながら。

 

 

 

 倉庫と畑を何度も往復して農作物を運ぶ。収穫した穂はぎすぎすしていて、半袖のアンヘルの身体に突き刺さった。肌が露出している箇所が異様に痒い。頭にも雪が積もったように藁くずがついている。アンヘルがヒイヒイ言いながら運んでいると、不意に名前が呼ばれた。

 

「おい。アンヘルよぉ。ちょっと、まってくれよ」

 

 荒っぽい声で呼ばれたほうには少年がいた。十代序盤くらいだろうか。黒髪の背の小さな少年がこちらにむかって歩いている。その歩き方は小さな背丈に似合わず堂々としており、自信があるように見えた。

 

「まぁたこき使われてんのかぁ。てめえはいっつもいくじがねぇなぁ」

 

 彼は少し呆れたような声で言った。

 

 また、知らない人だ。アンヘルはそう思った。

 

 アンヘルがどうやって返答そうか悩んでいると、ふと頭に名前が思い浮かんだ。こんな返し方で良いのか迷いながらこう返した。

 

「そんなこと言わないでよ、ホセ。仕事しないとご飯が無くなるんだから」

 

 そういいながら彼を見つめ返した。

 

 ホセ。この村の中で唯一、茶の栽培を行っている家の三男である。茶は高く売れるため、ホセの家には多少の余裕があり、せっせと農作業をしなくても良いのだった。

 

 そのためホセは弟や近所の家の子供を集めて遊んでいる日も多かった。しかし、いつも遊び惚けているわけではなく村の畑を荒らす大型のイノシシを何度か仕留めており、村の中では度胸のあるやつだとも思われているようだった。

 

 ――僕とは対照的に。

 

 アンヘルは日本の時の記憶を思い出す。部活では試合で打てなくてビビりだと言われていた過去を思い出し、少し心が沈んだ。

 

 村に年頃の少女がいれば彼は凄くモテるだろう。この村で結婚が決まっていない十代中盤はアンヘルとホセだけだが。

 

「で、どうよ。こんどいっしょに隣のむらに行くってはなしはよぉ」

 

「むりだよ。今は収穫の時期だし春になってからのほうがさ」

 

 アンヘルはホセから常々このような悪事に誘われているのを記憶から絞りだしつつ言うと、より不機嫌な声で返してきた。

 

「てめえが言ってたじゃあねえかよ。いっつもおんなじことばっかでつまんねぇよ」

 

 そうだった。今回の話に限っては、収穫の仕事に嫌気がさしてホセに相談したことから始まったんだ。

 

 アンヘルは自身の記憶の糸をたぐり、計画についての詳細を思い出す。姉とのやり取りでも何度か生じていたアンヘルの不審な返答は、多くの場合それは姉の機嫌を損ねる結果となっていた。

 

 アンヘルは不安を覚えながらその返答を不審に思われないように祈りながら言った。

 

「……で、でもさぁ」

 

 ホセは唾を吐き捨てながらいった。

 

「んだよ。てめえが言ったんだろぉがよ。いっつもそぉだなぁ」

 

 ホセは踵を返してどこかに去っていった。

 

 ほっとした。どこかへ行ってくれた。アンヘルはホセの機嫌を悪くしたのを憂いながら、これ以上不審に思われないよう細心の注意を払おうと心に決めた。

 

 たのむ、もし夢ならはやく覚めてくれ。この長いリアリティのある状況の中でアンヘルはそう願った。

 

 

 

 §

 

 

 

 結局、夢は一日二日といつになっても覚めず、これは現実であるとはっきりとアンヘルに思い知らせた。そうなると頭の中には暗鬱(あんうつ)一色であった。

 

 始めにアンヘルを打ちのめしたのは食事だった。毎日、朝と夜にしか食べられない米に似た細長い穀物*は、パサパサしていて有り体にいっておいしいとはいえなかった。そんな料理がひとつの皿に入っており、兄弟たちが我先にと素手で奪い取っていく食卓に、アンヘルはついていけなかった。

 

 個人の皿に入った食事は、父および一番上の兄だけにしか配られなかった。それは、ひとえに一家の大黒柱として仕事が期待されているからであった。アンヘルはなかなか兄弟の争奪戦に入っていけず、昼間はそこらに生えている草を食べたりしていた。

 

 そんなもので飢えを満たせるものではない。水をたくさん飲んだとしても、少し経てばお腹はすいたのだった。

 

 家は狭かった。小さな男兄弟たちが何人も集まって、小さなベットとも言えないような藁の塊にいっしょくたになって眠った。周りの音がうるさく眠れず、藁の寝具はグサグサと肌に刺さった。もし眠りにつけても、朝起きると、顔の周りを蟻のような虫が這いまわっている日も多々あった。

 

 アンヘルは違う世界に行ってみたいと想像したことがあった。現実はその想像を遥かに下回る最低の日常であった。

 

 打ち砕いたのは生活だけではなかった。ひとつは日々の労働である。機械を使わない農作業は、常にお腹をへらしつつ作業する身体を大いに酷使した。

 

 大抵の現代日本人はこんな労働を経験はないだろうと、悲劇の主人公のような感想を抱きつつアンヘルは日々働き、泥のように眠った。

 

 食料の不足も深刻だった。古代人は慢性的な栄養不足から背が低かったが、この現況はそれを体現する環境であった。とくに、今年は臨時の徴税が厳しく、徴税官は村の収穫品を根こそぎ持っていったのあった。また戦争があるんじゃないかと両親が語り合っていたのをアンヘルは聞いていた。

 

 それでも、なんとか兄弟やホセと協力し合い、なんとか冬を乗り切ったのだった。

 

 もし、アンヘルとしての記憶がなく、いきなり放り出されていたら確実に死んでいただろう。そんな最悪の結果を思い浮かべながら、アンヘルはいつもと同じように家族と食事を取っていた。

 

 今日の食事は、何時も通り細長い米と苦くて細長い葉っぱを煮詰めたものだった。いつまで経ってもこの世界の料理には慣れない。まれに、虫を煮たものが出てくるのも最悪だった。

 

 虫は最高のたんぱく源であるとか述べていた専門家を思い浮かべながら、食べてみろよと心の中で罵ってやった。

 

 唯一のご馳走はイノシシだった。アンヘルは冬ごもり前にホセが狩ったイノシシの肉の味を思い出しながら、沈んだ気持ちを無理やり浮上させようとした。

 

 ――あの時にようやく気の許せる友達だとおもえたんだよな。

 

 肉の味がこの世界にきて少しは良い面もあるんだとはじめて実感させてくれた。あくまであの瞬間だけだったが。ちょっと荒っぽいけれども、度胸があってぶっきらぼうだけど面倒見のいいホセの顔を頭に浮かべる。

 

 突然、急に父がアンヘルと姉に向けて言った。

 

「あしたなぁ、結婚道具みてったらどうだぁ、アンヘルは行商人みたことねぇっからなぁ。つきそいでさぁ」

 

 姉はきょとんとしていたが、パッと顔を輝かせながらブンブンと顔を縦に振って答えた。

 

「な、なんでも買っていいんっ?」

 

 一番上の兄は父の言葉が気に食わなかったのだろう。父の返事を遮ってガっとがなり立てた。

 

「おやじ、いまはくいもんもなんもねえぇ。そんなよゆうどこにもねえんだよぉ」

 

 一番上の兄は父がきにくわないのだろう。こういったやり取りは最近何回もあった。

 

「それでもさぁ、こいつは隣村にとつぐんだ。すこしくらいいい目したっていいだろぉ。ただしぃ、かっていいのは穂十束分までだぞ」

 

 父は長男をたしなめながら、姉に釘を差すかのようにそういった。

 

 当初、兄は隣町から嫁をもらい今年の冬に結婚することが昨年から決まっていた。しかし、父は姉の結婚予定であったこの村の男が徴兵で死んだのをきっかけに村長と相談し、姉の嫁ぎ先を探し始めた。大規模な徴兵があり、姉と同じ年頃の男が少なくなっていたためだった。最終的に、兄が嫁をもらう予定であった村と交渉して、嫁をもらう代わりに姉を隣村に嫁がせると、この冬決まっていた。

 

 姉はもう少しして完全に冬が明けると隣町の家に嫁ぐ予定であった。しかし、結婚を破談とされた兄は、その件について恨みを抱いているのか、父や兄弟に対して当たるようになっていた。

 

 兄は納得したのかしていないのか微妙な表情で食事を再開した。父はその様子をみて少し申し訳なさそうな顔をしながら、姉にこう言った。

 

「あしたもおんなじでよぉ、あさからうってるって、いうとったからさぁ。ひろばいってみいぃ」

 

 商人を見るのははじめてだった。冬ごもりで何もすることのない日常に何か刺激になるものはないか。アンヘルは浮かれる心を抑えながら務めて静かに言った。

 

「は、はい」

 

 

 

 

 

 次の日の朝、アンヘルは姉につれられて村の広場にやってきていた。

 

 びゅーと微風が吹いていた。まだ春が明けはじめて間もない山風は身体に刺さるような痛みを感じさせた。小さな動物達が遠くに見える。最近ぐっと暖かくなり、辺りにあった雪は見る影もない。恐らく動物達は雪の下に芽吹いた植物を食べに来たのだろう。そんなことを考えているとアンヘル達は小さな広場についた。

 

 小さい。それは、アンヘルが広場にはじめて来たとき抱いた感想であった。広場と聞いたとき、公園の噴水前のような場所を想像したが、ただ近くに村長宅や水車があるただの開いた場所であった。

 

 水車がカラカラと音をたてながら回っている。小屋の中では水車の力を利用して製粉を行っているのが見えた。その近くに、見かけない格好をした男がゴザの上に座っており、周りには数人が集まっていた。ゴザの上には布、食器、何らかの作業道具や骨董品のようなものまでが乱雑に積まれていた。

 

 箱の中には瓶状の物が見える。恐らく酒だろう。昨晩、父がこそこそと家の隅に隠しているのを夜中偶然見ていた。多分今晩にでも母にばれるのだろうと思いながら姉と一緒にその商人のもとに近寄った。

 

「ねぇ、きれいな布か細工、いいものないかしら」

 

 姉はゴザの上の物品を物色するのをそこそこに、商人へ問いかけた。

 

 このような物怖じしないところがアンヘルは羨ましかったが、同時に嫁ぎ先で苦労しないか不安になった。姉は当たりが強いが、その一方で情の深い面もある。兄弟との食料争奪戦に入っていけないアンヘルを見かねて、何度か食事を融通してくれていた。

 

 この世界で、いちばん初めに家族の愛を感じた瞬間であった。

 

 姉が嫁ぎ先でも幸せな人生を送れるようにと大きなお世話としかいえない願いをアンヘルは思い浮かべながら色々物色してみる。

 

 すると商人がこういった。

 

「結婚道具かなにかさがしてるのかい。いい細工はないけれど、そこそこ綺麗な布はあるよ……」

 

 その商人は40歳くらいのくたびれた中年だった。黒目に黒髪で、その体格は現代人の体格から考えれば遥かにたくましく見えたが、肉体労働よりも頭脳労働によって生活していることをうかがわせる風貌だった。格好も洒落ていてベルトのようなものをしており、明らかに農民とは違った。しかし、その眼だけは異様に濁っており、くたびれている様子がありありとわかる。アンヘルの日本にいた祖父のように、望まない仕事をしている者の眼だった。

 

 商人はガサゴソと近くに置いてあった荷台を探し始めた。恐らく高価な品物は荷台においているのだろう。少し待つと彼は二種類の布を取り出した。

 

「こっちの紫の柄がついた布は、ゼグーラで人気なやつさ。なんでも染色にベトニーを使ってるらしいからね。もうひとつのは亜麻で丁寧に織ったものだよ……」

 

 ベトニー。通称『お守りのハーブ』とよばれていて、魔女や魔物を遠ざける効果があると言われていた。この村の近くにも稀に生えており、母が何本か家に飾っている。

 

 しかし、彼はその説明をしなかった。普通、商人はこういったことをポイントに売り込むはずと疑問を覚えた。

 

 この商人は、売りたいという意欲よりも売れればいいという投げやりな印象を受けた。これはこの商人だけの特徴なのか、この世界における一般的な商人の姿なのか判断がつかなかった。

 

 ふと、アンヘルは中学の友人が海外旅行先で会った店の従業員について「あいつらは日本人と違って客を対等な存在と考えてるからしょうがねえけどさぁ……もっと丁寧に接してほしいぜ」と愚痴っていたのを思い出した。

 

 いや、それでもなげやりすぎだなと思いながら姉と一緒になってふたつの布を見比べることにした。

 

 姉はうんうんとうなっている。

 

 恐らくどのようなものを仕立てるのか考えているのだろう。姉はいままで花に興味を示した様子がなかったから、単純に色合いで亜麻を選びそうな気がする……アンヘルはそう思った。

 

 アドバイスを送ろうか一瞬悩んだが、彼女が真剣に悩んでいる様子を見て結局何も言わないことにした。一生に一度の品だ。口を出しずらい。

 

 キリがない買い物の悩みを横目に、アンヘルは面白そうな物の物色を再開しようとすると不意に商人と目が合った。その瞬間、彼の眼はキラリと輝いた。少し驚いたように口はパクパクとしていて、ゆっくりとアンヘルの全身を見渡した。

 

 そして他の人に聞こえないような小さな声でこういった。

 

「し、召喚士……」

 

 

 




* 細長い穀物:タイ米を想像してください。おいしくないよね。
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