ギシギシと歪んだ床板。一歩踏み込むだけで、グラグラと身体が揺らぐ。窓も換気口もなければ、膨張した材木が扉の開閉を妨げるぼろ廃屋は、倉庫に挟まれて位置する部屋には陽光は差し込まず、ビュウビュウと入り込む隙間風がその空間と外を繋げる唯一の導きだ。その空間は、まるで拒絶するように外界からの干渉を拒絶していた。
荷物を端に積み上げ、人が包まってなんとかふたりが過ごせるその小屋の中はガランとしていた。扉から右側には、毛布や備品が置かれているが、反対側には荷物すら置かれていない。まるで、いるはずのない幽霊が住んでいるかのようだ。それくらい、部屋の中は片側だけがすっぽりと空いていた。
部屋のごちゃごちゃとした側に座り込んだアンヘルは、すっかり何もなくなった空間を見つめる。その瞳には欠落感が宿っていた。
アンヘルはゆっくりとした手つきで、傍らに座り込んだ幼水龍シィールの頭を撫でた。シィールは主人をいたわるように、頭を差し出しながら身体をこすりつける。
アンヘルは左手で酒瓶に口をつける。鼻腔一杯に酒精の匂いが入り込んでくる。グイッと煽り、深い海の底に沈んだ心を慰めた。ぽつりぽつりと言葉が湧いてくる。けれども、それをぶつける人間はいなかった。
「ねぇ。シィール。見てよ、こんなに部屋が広いなんてさ……。ぼく、しらなかったよ」
アンヘルの放つ言葉は虚空に溶ける。喜色に満ちた言葉とは裏腹に、その響きは無彩色だった。どよんとしたヘドロのような濁りを心の奥底にためる。吐息にはアルコールの臭気が強く混じっていた。
背中を壁にもたれさせながら立てた膝に顎を乗せる。反対の足は前方のガランとした空間に伸した。相手がいれば文句を言われた無作法も、いまは何の反論もない。それが、嬉しく感じたのは一瞬だけだ。この空間では、アンヘルに届く音は何もない。
――ああ、なんていうか、静かだなぁ……。
視界の片隅で、アンヘルの治癒を終えた獣――リーンが自分の指先を見つめていた。その目は、まるでアンヘルの心情が伝染したように重い。いつも活発に動き回るリーンとほど遠い状態だ。召喚獣の元気印たるリーンのありさまは、締め切った室内全体をより暗くした。
「ひとりって、心細いなぁ……」
その言葉が、たったひとりの空間に響き渡る。もうひとりいたはずの家主には届くことはない。
代わりとばかりに、シィールがその輝いた瞳を向ける。蒼いはずのその瞳は、アンヘルにはどこかくすんで見えた。
もう一人の家主――ホセはこの小屋を出ていった。郊外に位置するこの小屋は、鍵をかけることもできなければ主要商店街からも遠い。なによりも、歪んだ家屋と狭い室内による居住性能は限りなく最低である。そのうえ、治安のよくない郊外に位置するのであれば、住居としては雨を凌げるだけマシといった程度である。
ホセの手腕はそこいらの農村出身者と比べて抜きんでていた。探索者として培った戦闘技能と生来の人を引っ張る能力は、用心棒稼業にうってつけだった。そして、街が持て余し気味にしている農村出身の若い衆を扱う人脈が合わされば、ホセはおもしろいようにエスカレーターを昇るが如く駆けあがっていった。
そんなホセは、このさびれた住居から出ていってしまったのだ。そもそも、ここに住み続けていることが非効率だったのだ。ホセの配下達は、事務所や事務所から近い住居に住んでいる。ホセは頭である。仕事だけを考えるのならば、常に居場所が分かりやすい事務所やその近辺に住んだほうが良いのである。
それでも、ここに残り続けたのは、口には出さなかったがアンヘルのためだった。アンヘルは「ひとりは嫌だ」とまったく口に出さず、ホセも訊ねたことはなかった。それでも、頼るもののない街でひとり生きていくのは困難だとホセは人見知りのアンヘルのことを案じていた。口の悪いホセの、ぶっきらぼうな優しさであった。
しかし、それも限界だった。街の商売にうまく入り込んだホセは、多忙を極めた。そして、見栄もあった。用心棒の頭がこんなボロ小屋に住んでいるわけにはいかなかったのだ。驚愕に値するほどの速度で成長したホセの仕事と同じくらい唐突にホセとアンヘルの離別はやってきた。
「べつに、ちがう街に行くわけじゃねぇんだからよぉ……」
荷物をまとめて小屋を出ていくときのホセの声色は、いつもからは想像もできないほど優しかった。それに対して、アンヘルは頷くだけで返した。
ふたりには確信があった。これは別離の言葉だと。探索者として過ごした2か月あまりの間に決めた、ホセはしっかりとした、アンヘルは漠然とした進路が、これからは交わることがないのだと。そう宣言する別れの言葉だった。
「もう、行かなくちゃ。ホセも、頑張っているんだし」
最後に、シィールの顔を撫でた。くぅんと鳴き声をもらしたシィールとリーンを
力の入らない足を無理やり奮い立たせ、立ち上がる。そして、扉を開いて外界に飛び出した。
――ホセ。ぼく、がんばるよ……。
アンヘルは心に誓う。そして、近くに立てかけてある訓練用の棒を持ち上げて振り下ろす。明日からまた厳しい戦いだ。アンヘルは棒を強く、強く握った。
§
アンヘルは構えた棒を上段に構え、飛びかかる。
――
上段から斜めに放たれた銀光は、【モリりん】の身体に食い込んで破裂させた。そのままの勢いで、左方から薙ぎ払う。一匹、二匹と周囲のモンスターを弾き飛ばすと、相手のリーダー格までの道を切り開いた。
疾風の如く。目にも止まらぬ速度で、ホアンが道を駆け抜ける。
そして、雷光のような速度で剣をリーダーである【ワルりん】に振るった。ズバッと振られた長剣に真っ二つにされた相手は、地面に横たわる。
残り五体。
相手方の態勢が整わぬうちに、アンヘルは右手に持った棒を叩きこんだ。相手は、反応できない。
瞬く間にホアンが三体、アンヘルが二体倒すと、敵影はなくなった。
ホアンが剣の血糊を拭いながら、アンヘルを賞賛した。
「アンヘル! かなり、良くなってきたんじゃないか。【
「いや、そんな、まだまだだよ。まだ、うまくく行かないこと、多いしね……」
「そうかな? 今回のは、かなりうまくくいった技だったと思うけどな……。蓄えた闘気をうまく武器に込めていたと思うけど」
「今回は、相手の動きが分かりやすかったからさ……。もっと複雑な動きをされたら、もっと難しいし。それに、今の武器。剣じゃないし……」
「そんな、細かいこと。気にするべきじゃないとおもうけどな……。せっかくうまくくいったんだから」
「うぅん。まぁ、そうなのかなぁ?」
そう言いながらも、アンヘルはよどみなく魔石を回収する。その傍らでは、無言のヨンもたどたどしい手つきで回収を進めていた。8体分の魔石を回収すると立ち上がる。
「まあ、なんにしても。板についてきたってのかな。アンヘルも。漸く、入門は卒業かな?」
「入門卒業っていっても、次は準初級でしょ? さき、長いなぁぁ」
「そんなもんさ。それに、奥が深くていいだろう?」
「それは、大位に手が届きそうなホアンだから言えるんだよ。僕があと幾つ昇級しなきゃいけないか知ってて言ってるの? もう、イヤミにしか聞こえないよ……」
「たった、五階級だろ。体力はあるんだし、上がるのなんてすぐだよ」
「……もしホアンが五階級も上がったら、皆伝になるんじゃない?」
「あぁ。そうかもな。……じゃあ、楽じゃないか?」
そう言って、ホアンは笑ってごまかす。
アンヘルはホアンのコネで、道場【東方一刀流】へ入門した。現在は師範の不足から剣術のみを教える門徒は取ってはいなかったが、ホアンが無理やり頼み込んでくれたのである。とはいえ、師範も多忙であり、中々稽古を見てもらう機会はなかった。もっぱらホアンと打ち合い、技能を教えてもらう毎日となっていた。
その流派に伝わる特殊な呼吸法。それによって、外界に満ちる
(リンヘルは、親方に呼吸法の訓練をつけてもらったって言ってたけど……。こんな技教えてもらえないんじゃ、なかなか独力で探索なんて無理だよなぁ……)
秘密主義ここに極まれり。
成果や手法をオープンにする思想が出てきたのは近年になってからだ。インターネットによる世界中の知識が共有されない世界では、リーナスの法則にはじまる共同開発という思想が誕生しないのである。そのうえ、特許にはじまる知的財産権を保護するシステムが整わない業界においては、秘密主義に拍車がかかった。
医学や数学のような学問でない市井の商売へ直結する技能の秘匿はなかなかに厳しいものであった。そして、それは探索者や戦士の技能である呼吸法も同じであった。
(使えるからって、身体が丈夫になるとか、ちょっと速く走れるとか、棒を早く振れるとかぐらいなんだから。広めても、問題ないとおもうけどなぁ……)
これは、帝国の軍国主義の弊害でもあった。
徴兵される農民の役割は、つまり肉壁であった。少しばかり闘技を鍛えたところで、生半可な訓練では戦闘能力を大きく向上させることはできないし、生存能力が著しく上がるわけではなかった。
そのうえ、貴族は街に住む人間を戦争に使いたがらない。街は貴族にとってお膝元であり基盤である。都市の人間には高度な教育を受けた上流階級の者や資産家が多く混じっている。貴族といえども所詮は地方の領主一族にすぎない。円滑な街運営には、有力者たちの協力が必要不可欠なのだ。自分の街が攻撃されるならばともかく強国として覇を唱える帝国は、なんの知識もない農民だけが戦場に赴き、肉壁としてやられるだけなのである。
当然、知識のない農民や戦場に行ったことのない町人の間に戦闘技術が広まることなく今に至っていたのであった。もちろん、この技術が一般生活において何ら必要でないモノであるということもあったが。
「おっと、敵だ!」
そういうと、ホアンは駆け出していく。アンヘルもそれを追いかけた。
ホアンが一太刀で1匹を葬り去るのと同時に、アンヘルも1匹に攻撃を行う。
――ああっ。ちょっと、ブレたかも……。
アンヘルの心情どおり、棒に込められた力は霧散して、相手に十分な打撃を与えられなかった。それでも、アンヘルは戸惑わずに、腰から引き抜いた鉈で止めをさした。
ずぶりと敵の肉体に刺さる感触が手に伝わた。ホアンはそんなアンヘルの失敗を伺っていた。
「やっぱり、毎回上手くいくってわけじゃないか……。ブレちゃうんだな……。とはいっても、実践で慣らすのはあんまり良くないんだよな。危険だし。もうすこしすれば、ミスはしないようになると思うんだがなぁ……」
「なにか、アドバイスとか。ある?」
「うーん。そういうのは、昔に通り過ぎたからなぁ……」
――でた。ホアンのこういうところ。
アンヘルは内心で呟く。ホアンは少しばかり天然だが、基本的に正義に熱く礼儀正しい青年だ。アンヘルは彼のそれ以外の面を見たことがなかったが、道場に通うことでホアンの違う面を発見していた。
ホアンは剣に対して非常に高慢な態度を取るのである。もちろん、それが見下したり卑下に繋がることはない。ホアンのその態度は、何故できないのか? 何故やらないのか? といった腕が劣るものに対する無理解であった。当初、アンヘルはホアンの天然故の自覚のない悪意かと思ったが、鍛錬中にホアンと他の門徒が話し合うのを見て考えを改めた。
――これこそが、強者故の悩みってやつなのかなぁ……?
できるがゆえに、できない人のことを理解できない。それを指摘することの愚かさは理解しているようだが、言葉にせずとも態度から滲んでいた。それは、道場に長年通っているが、才能がなく呼吸法を体得できない門弟や半ば遊びにきているような人に向けられた。
(ぼくが呼吸法を一週間でできたとはいえ、あの時はちょっと怖かったなぁ。べつに、無視すればいいのに……)
ホアンの無理解とそれでも見せる面倒見の良さが発生させた不幸であった。優等生らしいホアンの唯一の欠点である。
「今度、道場試合に参加してみるか? アンヘル。攻撃はともかく、闘技を使わない防御はうまいからなぁ。俺も、けっこう関心させられるときあるしさ」
「ううん。そうかなぁ? あんまり、自信ないけどなぁ」
「まぁ、大丈夫だよ。負けたとしても、死んだりしないしさ。ここと違って」
「うーん。そうなんだけどさぁ」
「男だろ、もう決定っ。今週の週末に試合があるからさ。師範に訓練みてもらうチャンスだろ」
「そうかなぁ」
「心配ないって、実戦経験のあるやつなんかそうはいないからさ。いいとこまでいけるさ」
ホアンの気楽そうな意見に反論できず、アンヘルは頷かされてしまった。ここまでくると、自分の力を試してやろうという気持ちになった。もう、やけっぱちだ。
そんな心情のアンヘルの横で、ヨンが疲れた表情をしていた。少し気になって訊ねてみる。
「どうしたの。ヨン? もう、疲れた?」
「な、なんでも、ねぇべさ……」
「そ、そうかな? なんか、顔色。悪いみたいだし」
「べ、別に、気にしなくていいだよ」
そういうと、ヨンは目を合わさないように俯いた。
同時に、アンヘルはヨンの薄汚れた靴が目に入る。側面には穴が空いており、靴としての役割を果たしているか疑問の一品だ。
「そういえば、ヨン。靴、新しいのに変えたほうが良いって言ったじゃない。そんな靴だと、走れないよ?」
「く、くつだべか? あ、あ、えっとだな……」
「えっと、もしかして。お金がたりなかったのかな? 三等分してるから、足りないってことはないと思うんだけど……」
「あ、……え」
ヨンはどもったまま、喋らない。ヨンはいつも本音で喋らなかった。
しかし、アンヘルはこうやってヨンの事ばかり気にしているわけにも行かなかった。
「ごめん、他にいろいろ必要なモノがあるんだよね……。けど、靴はやっぱり大事だから、早めに変えたほうがいいと思うよ……」
そう言って、アンヘルはヨンとの会話を打ち切った。
――ヨンって装備が変わる気配ないんだけど。注意したほうがいいのかなぁ……。でも、自分のことだしなぁ……。
3人に減って、以前ほど進まなくなった攻略も終わりが見えてきていた。塔の中間点、『旅立ちの間』に辿り着くまであともう少しだった。アンヘルは気合を入れなおした。
§
「一本ッ!! 勝負あり!」
師範が大きな声で宣言する。道場の中心には剣を落とした汗だくの男と、残心をとった長髪の男がいた。ふたりは姿勢を正すと、礼をして空いた席に座り込んだ。
「次、初級のゼントスと準初級のアンヘル!」
師範の大きな声に合わせて、アンヘルは所定の位置についた。アンヘルが立つ位置から五メートル先に相手も立つ。アンヘルは礼をすると、木刀を正眼に構えた。
相手は木刀を上段に構える。火の構えだ。刈り上げた短髪と燃え上がりそうなほど熱い目がよく似合っており、攻め重視なのがありありとわかる積極性を示していた。じりじりと空気が痺れる。ふたりの間に緊張が流れた。
師範が開始の合図を告げる。
上段に構えた男は、その長身を生かしてアンヘルを威圧する。頭上に構えた剣を左右に振り、斬線を読まれにくくする。その目には、一部の隙も見逃さない熱意があった。
アンヘルは剣で間合いを誇示するように、相手に突きつける。
すべては、相手の攻撃性をそぐためだ。
――相手は、僕よりもリーチも経験もある。まともに攻められたら、勝てっこない……。
アンヘルが狙うは、攻撃を誘ってからのカウンター。其の一点突破しかなかった。攻撃を誘うため、相手に攻めづらく、それでいて攻め込めそうな隙を作り出そうと間合いを探りあう。
ゆっくりと両者共に立ち位置を変えながら移動する。照りつける陽光が緊迫するふたりに容赦なく降り注いだ。
中々動かない戦況に、アンヘルは焦れそうになるがなんとか堪えた。経験の浅い者が、何の策も持たず攻め入る愚をアンヘルは学んでいた。
――相手は積極的な性格だ。こうやって焦らせば、いつか動くはず。
相手の間合いとその外の狭間で活路を見出そうとする。剣術経験が浅かろうと、実戦経験では劣らないアンヘル唯一の特技だ。
十数秒ほどの睨み合い。
無限に続くかと思われた睨み合いは、長身の男――ゼントスによって動きだす。
アンヘルが牽制の為に構えていた木刀を、ゼントスは上段から打ち下ろしてきた木刀で払う。そして、アンヘルの無防備になった間合いへ飛び込んだ。
男の木刀は、アンヘルの木刀にぶつけた反動で上方に構えなおされる。
男の強化された踏み込みの一歩は、一瞬で間合いをゼロにした。
――ここだッ!
アンヘルは打ち払われた剣を見て迎撃するのは不可能だと判断した。そのうえ、引くことはできない。彼のような積極性のある武芸者に対して守勢に回るのは得策ではなかった。下がれば、相手の追撃が永遠と続く。それならばと、相手の飛び込みに合わせて、アンヘルは肩から飛び込む。
剣の根本は斬れないうえに、小回りも利かない。その法則に目をつけて相手の懐に飛び込んだアンヘルは、姿勢を低くしながらショルダータックルを見舞う。男は、剣に闘気を込めており、敵が前に突っ込んでくるとは微塵も考えておらず、無防備となっていた身体へのアンヘルのタックルは効果的だった。
ガッと大きな音がして、男は後方に転がる。相手が手に持っていた木刀はすでにない。
アンヘルは持っていた木刀を、尻もちをついてこちらを見ている男に突きつけた。
「そこまで!」
師範の大きな声が響く。同時に相手の悔しそうな表情が目に映った。
姿勢を正し、所定の位置へ戻ると、相手へ合わせるようにして礼をする。その時になって漸く、緊張と疲れからの汗に気が付いた。アンヘルの想像以上に強く木刀を握りしめていたのか、木刀を握る手の感触がない。手がぶるぶると震えた。
アンヘルは、試合初勝利に喜ぶような安堵したような複雑な気持ちで定位置の壁際に戻り座り込んだ。すぐさま、ホアンが駆け寄ってくる。
「おお、やったじゃないか。初勝利、おめでとう。まあ、あまり褒められた戦い方ではなかったけど」
「う、うん、ありがとう。分かってはいるんだけどね……」
「まぁ、分かってるならいいんだけどな。ここは、剣術道場だからな。体術が禁止されているわけではないが、推奨されているわけでもないからな。アンヘルも剣を磨く為に来ているわけだから、剣で戦うべきだろう?」
「こ、今回は、咄嗟にってだけだから。次は、剣だけを使うよう意識するよ」
「いや、そこまで気負う必要はないんだけどな……。アンヘルは探索者なわけだし、師範だって公然と批判しているわけじゃないだろ。ううん、難しいな。何ていえばいいか……」
「うん、大丈夫。分かってるから」
アンヘルは、ホアンに空返事を返した。
道場はどこか剣至上主義的な面があった。実戦を経験している師範は別としても、ホアンなど多くの門徒は剣のみで敵を打倒することに執着しており、体術および柔術による戦闘技能は軽んじられていた。それは、アンヘルが勝利したゼントスの不服そうな表情が物語っていた。とはいえ、公然と批判するほどに嫌っているわけではない。風潮として剣を最上とする空気が蔓延しているだけなのだ。
――剣も体術もそれほど変わらないと思うんだけどなぁ……。
アンヘルのように実戦から戦闘技能を学んだ者にとって、剣術と体術に差などない。戦士は、技能について驚くほど冷淡ともいえるような区別をする。ともすれば、道場内で孤立を引き起こすほどのシビアな精神をアンヘルは育みつつあった。
「でも、あの体当たりは強烈だったな! スムーズに強化を施せていたし、体術のほうが得意なのか?」
「うーん。自分でもよく分からないんだけどさぁ。正直、剣に力をのせて斬撃を放つってイメージが付きにくくて……。それよりも、身体を強化してってほうが簡単だから。ホアンは違うの?」
「普通は、いきなり強化なんてできないからなぁ……。大抵の人は指向性のある武器に力を乗せる鍛錬を重ねて、制御法を体得するからな。剣は苦手だけど、身体の強化はスムーズっていうのは聞いたことがない。恐らくだけど、アンヘルの経歴が関係しているんだと思う。中々いないからな、何の技術もなく探索者を始める奴ってのは」
「ダンジョンの強化が関係してるってこと?」
「多分そうだろう。普通の人間には『塔』といえども幾重にも困難が立ちはだかる。ヨンを見ればわかる。俺たちがいるから、なんとか付いてこれているが彼ひとりではどうにもならないからな。アンヘルは、長期に渡って『塔』で鍛錬を積んだ事によって、無意識の内に強化を使いこなしていたんだろう。達人は、厳しい鍛錬の末に無意識化で強化を行えると聞いたことがある。アンヘルの場合、生存本能から簡単な強化ができるようになっていたんだろう。呼吸法の体得が早かったのも納得できる」
「やっぱり早いんだ。一週間って」
「かなり早いな。とはいえ、全然いないって程ではないからなぁ……。俺も同じくらいの期間だったからな。この情報だけで、アンヘルが身体強化を得意にする理由とするのは早計かもしれない。反論が幾つも見つかりそうだ」
ホアンは色々考えながら唸る。脳筋に見えるホアンだが、剣術に関することならば理論にも積極的に取り組んだ。この傾向は道場にもある。この国で、剣術がどれほど信奉されているのかがわかる光景であった。
「まぁ、今日の試合はあといくつもある。最低でも、
「うん、わかってる。もうすこし、守備型の人と対戦すれば試しやすいと思うんだけど……」
「あぁ、確かに。さっきの相手は、かなり攻撃的だった」
「長身の人に上段で構えられると、威圧されちゃって……。こっちから向かっていくのは難しいよ」
「そうなると、しんどいな。ウチの流派は中道派だが、どちらかといえば攻撃に偏っているからな。守備型の人間は少ない」
「あ、やっぱりっ。さっきから、上段に構えるひとが多いなぁって思ってたんだよ」
「だが、折角の機会だ。難しいとは思うが、無理やり攻めてみたらどうだ。それも、練習の内だろ?」
「やっぱり、そうなるのかなぁ。はぁ、自信ないなぁ……」
「負けたって、死ぬわけじゃない。思い切ってやってみたほうがいい」
「それは、攻撃な得意なホアンだからそう思えるんだよ。中々難しいんだけどなぁ……」
ふたりが他愛もないやり取りをしている間にも、試合は進んでいく。そういえばと、アンヘルはホアンに今日の流れを訊ねた。
「試合って、どんな組み合わせなの? トーナメントって訳じゃないんでしょ?」
「とーなめんと? いや、試合は階梯の近い人同士で組み合わせが行われる。アンヘルは準初級だから、それに近い階梯の初級や表位と当たることになる。準初級はアンヘルだけだからな」
「やっぱり、準初級っていないんだ」
「まぁ、半年も通えば自動的に昇級できる階梯だからな。アンヘルも実力だけなら準初級を超えているが、入門してまだ間もないからな。もう少し間を置かないと、昇級はしないだろう」
「ふうん」
「ふうんって。アンヘル。興味ないのか? 上位の階梯を目指すことは剣士として誉れ高いことだぞ」
「いや、そうなんだけど……。なんとなく、想像つかないっていうか……。遠い世界の話っていうか……」
「そんなんじゃダメだぞ。男は上昇志向に溢れていなければ。大成なんて夢のまた夢だ」
「そういわれると、言い返せないんだけど……」
そうやって離していると、師範がホアンの名前を呼んだ。ホアンの出番である。顔に自信をみなぎらせながら中央に向かって歩いていった。
――よし、僕も頑張るぞ。
アンヘルは、そのあとも初級に一度勝利したが、その後3連敗したのであった。
穂群斬り:東方一刀流の基礎技。道場内からは名前と由来がダサいともっぱらの噂