血の海で嬲られるカサを見た瞬間、ベップの中で強烈な感情が噴火した。そして、彼女の身に悲劇が襲いかからなかったことを神に感謝した。
絶叫しながら、剣をおどり狂わせる。
まるで生命を与えられたように、名刀”七つ首切落鬼斬り“が妖しく輝いた。
右、左と従者たちの喉から血が噴きだした。
唐突な闖入者に驚きはまたたく間に伝播した。奇襲は誰しもが弱点だ。寡兵の戦いに慣れるベップは、勢いそのままに十人近くを血祭りにあげた。
鍛えあげられた技を認めて、驕っていた勇者レブドスキの笑みが深まってゆく。ベップは小岩に脚をかけると、役者のように見得をきった。
「一騎討ちだ。犬っころ」
「ふ、今度は人族の傭兵といったところか。いいだろう、掛かってこい。……といいたいのだが、お前なんで脱いだ」
「あぁ?」
レブドスキは戦意と呆れのない混ぜとなった、奇妙な表情をうかべた。
「てめえらの流儀に合わせたのさ。羽とペイントで誤魔化してやがるが、んな変わらんだろ」
「ふざけるなキサマ。これは代々伝わる戦化粧。それに下は隠しているっ」
「おいおい、男の嫉妬は見苦しいぜ」
ベップは立派な分身を掴みながらぶるんと震わせた。近所の女の子に「どうして膨らんでいるの?」と尋ねられたとき「それはね、股間にドラゴンを飼っているからだよ」と答えたことを思い出した。やべぇ、俺ってもしかして召喚師かも。
レブドスキは惚けたように頬を弛緩させると、その意味を悟り、顔を真っ赤にさせた。
「な、な、ななな、なんと破廉恥な男だ。神聖な決闘に挑む勇者として恥を知れ!」
「カサを性奴隷にしようとして何をいいやがる。おーら、テメエの小せえナニじゃ女を満足させられねえだろぉが。それともあれか、テクなら勝てんのか?」
「かかか、神に捧げられるべきこの俺の身を穢そうと誑かす悪魔め。妻はそのような邪悪極まりない行為に手を染めぬ。ただ、この俺を崇め、たてまつるのだ」
勇者レブドスキは女子のように身体を抱えた。
「けったいな神さんに仕えてんだな。なんのために生きてんだ?」
終生童貞の身分らしい。憐れになって、ベップははらりと涙を流した。
「我らが主神を愚弄するか」
「やべえ、同情心湧いてきたわ。ちょっとやめようぜ、そういう身の上話を持ちこむの」
「い、言いたい放題言いやがって。そっちが勝手にやったんだろ!」
「ストップ。情が移っても困るしな、こっからはコレで片をつけようぜ」
「……はじめたのは俺じゃないぞ」
と、呟きながらも、レブドスキはぐっと表情筋を引き締めた。侮りの気配は一切なく、眼光だけが鋭く尖っている。強者を数多も屠ったのか、格下に対する余裕さえ伺える。
「だが悪くねえ、悪くねえぜニンゲン。てめえからはビンビン力が伝わってきやがる。ちょうど退屈していたところだ」
レブドスキはすすっと鎌を動かすと、倒れた雄兎の眼窩から果実の種でも取りだすようにして、目玉を口に運んだ。
耳を劈く絶叫が辺りにこだます。
じっとりとした嫌な粘液が唇の端からこぼれ落ちる。ごきゅりと喉で潰すような音が連続すると、至福の味を堪能しているといったような表情で頬を染めた。
常軌を逸した行為に絶望していた兎たちが息を呑んだ。止めとレブドスキが頚椎を粉砕する。穿たれた雄兎の眼窩は、あらゆる嘆きが渦巻いているかのように虚無であった。
「どうもこの女はお前に期待しているようだ。いいぜ、すばらしく良い舞台が整った。これであとは、この最高潮に高まった期待ってやつを、ポキっとへし折ってやるのが勇者たる俺の努めよ。なあ、そうだろう」
「あ、そう。で、一対一でいいんだよな」
「……どういう意味だ?」
十分な闘気をぶつけたつもりだったのか、レブドスキは肩透かしに合って瞳を血走らせた。これほど殺気立つ陣中にあって、ベップが奇妙なほど自然体であったからだ。
「いや、仲間と一斉に踊りかかられちゃやべえと思ったのよ。そんな臆病者でなくて助かった。さ、かかってこいや犬っころ」
構えた死の鎌が怒りで震えている。勇者レブドスキは悪鬼を思わせる相貌に変化すると、両目をかっ開いて全身から悍ましい気を放射した。
「最後の最後まで弄しやがって。上等だ、後悔するなよ!」
ベップは長剣を振りかざすと凄まじい勢いで駆けた。
同刻、レブドスキも鎌を逆手で構えると、目にも留まらぬ速度で跳躍した。
速い。
草木を踏みしめる音と杉の木を軋ませる音が連続する。
森は暴風雨に悲鳴をあげていた。
一際近くで、カッと乾いた音が鳴った。
樹々の隙間から差し込む陽光が何かに遮られ、僅かばかり翳った。
瞬間、反射的に身体を半身にして、剣を縦に構えた。
ガキンという音に遅れ、激しい閃光が視界を埋めつくした。
「ほう、よく躱したな」
勇者レブドスキは、さも感心したという風で木上から見下ろしている。鋭い三日月のような得物からは真っ赤な血が滴っている。一瞬のやり取りで、肩口を薄皮一枚裂かれたのだ。
判断をミスれば首を飛ばされていただろう。速度という点では太刀打ちできそうもない。
(この蝗野郎が、犬らしく地面を這やがれ)
ニタニタと笑う姿を見ていれば、彼が脚力に相当の自信を持つことは理解できた。カウンターで勝機を見出すのはむつかしい。かといって、持久戦も不利である。
「いくぜ、まだまだ楽しませてくれよぉ!」
ベップが激しく思考を動かしていると、たたみ掛けるようレブドスキは襲いかかってきた。
骸骨に等しい痩身だが、下半身最大の歯車、大腿筋はベップよりも太い。百七十近い肉体が弾丸のように打ちだされ、激しい勢いで飛来した。
避ける、という選択肢はない。
十貫程度しかない体重を反転させるのは、ベップが再び構えるより早い。
注意深く観察すると、第一関節から先が枯れ木に貫入している。見た目には出ていない異常なまでに発達した指先が、無理な姿勢制御を成しえているのである。
一瞬でも視線を切ればそのときが今生の別れとなる。とはいえ、勝機がないわけでもない。人間とは慣れる生き物だ。今は霞んで残像にしか映らぬとも、いつかは捉えられる。速度と旋回性能のために、相手も体重という戦闘最大の優位性を手放しているのだ。
捉えるのが先か、首を刈られるのが先か。
鼓膜が風を割くような鋭い音を掴む。
十度目となる衝突に喘ぎながら、ベップは返しの太刀を想像しつづけた。
「よく躱しつづけられるな。だが、それで勝てるわけじゃねえぜ」
「アドバイスあんがとさん」
「口の減らねえ野郎だ。それがどこまで持つかな」
ベップの身体能力はあくまでも常人の延長線上にある。耐久力、反応、速度。高いバランスで纏っているが、魔物や特殊能力に秀でた一点突破型には苦戦を強いられることがおおい。
だからこそ、東方一刀流に近い剣の道へと逸れた。根ざした金剛流は忘れぬとも、人体を標的とした殺傷術では生き残れぬ。怪物や、それを打ち倒そうとする狂人どもと戦列を並べるためには、真っ当に闘うのでは足りない。
だからこそ、自分の技に期待しない。要領の良さこそ唯一の武器。挑発、逃げの手、小細工、なんだって使った。使わねば生き残れぬことを学んだのだ。
幾重にも剣戟を交えた。
勇者レブドスキは衝撃を殺すためであろう、背中から藪の中に突っこんだ。金亀虫が舞う葉と一緒になって飛びたつ。腕部の筋肉を酷使したのか指先が震えていた。
「はぁ、はぁ、やるなお前。俺に真正面から立ち向かえた奴ははじめてだぜ」
「そいつはありがとよ。俺はてめえみたいな凡百、いくらでも見てきたがな」
「んだとぉ。お前のがズタボロじゃねえか」
「はっ、だからてめえは凡百なのよ」
「逃げまわってばかりのくせして吹きやがる。まさか、ニンゲンだからってだけで調子こいてんじゃあるめえな」
「勘違いすんな、犬っころ」
「あぁ?」
ベップの鋭い啖呵に、レブドスキは特大の青筋を浮かべた。
「速えだけが取り柄じゃ、ど辺境でお山の大将を気取れるかもしれねえ。土着民族を好きなように痛ぶれるかもしれねえ。けどよ、そいつは井の中の蛙ってやつだ。いいか、お前ら劣等民族がどうして未開の蛮地に住処を移すことになったか、上級国民であるこの俺が教えてやる。そのみっともねえ武器をへし折りながらなぁ!」
ベップは固唾を呑んで見守っている野次馬たちも一緒くたに、頬を吊り上げて嘲笑った。
本来、風鼬族は帝国人の分派であり、血脈を辿れば同じ根源に至る同族である。が、長い分断と転戦の末、惨めにも辺境の帝国大森林に棲家を移している。彼らの語る、宗教観や風習の違いなど歴史上の敗者の言い訳に過ぎない。
普段は帝国人に対し意識せずとも、部族民の深層意識には、無理やりに臣従させられ、生活を制限される側だという劣等感があった。
このことを、ベップは昔付き合った北方人との経験から知っていた。些細なことでも、差別を受ける側からすれば激しくコンプレックスをくすぐる。帝国文化と袂を分かちつつも、高い文明を保ち、ニンゲンと下に見ようとするのは強烈な自負心から来ているのだ。
勢い若者とは、親世代からきき齧った頑迷さを継承する傾向にある。世界を見る機会があるなら、改めることもあろう。だが、彼のように自己の武芸に心血を注いだ男は、歪な僻みを形成させていることがおおい。
規格外の巨躯を誇る勇者レブドフキは、ベップの思惑通り激憤した。
「ぐぉぉぉおお、殺す、殺してやる!」
「あっははぁ、おら、かかってこい短小野郎!」
爆発。
煽りは大炎を燃えあがらせた。
レブドスキの視野は狭窄と化し、顔色を目まぐるしく転じさせた。
樹々を飛びまわり、回り込むのを基としたが、目も振らず一目散に突貫してくる。ぐおお、ぐおお、と唸る風の音は聞くだに寒気をもよおす。
単純といえど侮りがたし。速度は倍にはならずとも、気迫は比べ物にならない。流れた残像さえベップの目に映らぬほどである。跳ね上げた森独特の土の匂いが辺りに漂った。
ベップは初太刀を紙一重で避けると、素早く転がりながら斜面を降った。一層樹々が茂り、陽光が失われてゆく。
ジグザグに駆けながら狙いをあいまいにして、レブドスキを狩人であると意識付けさせた。自分が死地へと誘導されている事実に思い至らぬよう。
頃合いとベップは一息で反転して、猛進してきたレブドスキと対峙した。刃がウズウズと嘶いている。当惑する勇者が大きく映しだされた。
たった一度の勝負。長剣を地に這わせながら、木の葉を巻きあげるようふるった。
タイミングは完璧。いくら勇者レブドスキといえども空中で姿勢制御はできない。
が、カウンターは想定内だったのか、すんでのところで鎌に阻まれる。
ぱっと血潮が舞って、赤い尾を引いた。交錯の際、憤怒に染まった瞳が獣のように細められている。
ベップは飛び抜けてゆくレブドスキの後ろ姿を見送った。
その瞬間、落ちていた衣服を跳ねあげた。
視線を切る恐怖は相手にもある。ターンすれば、相手は唐突に現れた壁に面食らうだろう。
ベップは飛びさがって軽やかにかわした。
直後、獣は目論見通り進路を変えられず、衣服の壁に飛びこんできた。衣服は彼を捉える網となる。ベップは無防備に空へと流れる勇者を両断した。
「がぁぁぁあ!」
胴を捉えたはずの一撃は、速度に合わせることができず足首へとそれた。
とばっと湯気の立つ鮮血が噴きでる。梢の木に頭から突っ込んだ彼は、失われた右足に手を添え激しくわめいた。
致死の一撃とはならなかったが、脚は彼の戦闘能力を支える生命線である。
勝負ありだ。野次馬たちが恐慌状態に陥ったのがわかった。
「なんで俺が服を脱いだかわからなかったか。お前の敗因はただ一つ、自分の能力を過信しすぎたな」
「さ、最初からこれを狙って……!」
レブドスキは血色の失われた顔で、未練たらしく鎌を見つめた。いくら素早かろうと、空中では動けない。そこに視力まで失われれば、無防備を晒してしまうのは必然だった。
類稀なる能力を盲信し過ぎた。人は誰しも、怒り猛ると制御が効かなくなってしまうものである。
「さあ、別れは済んだか」
「い、いやだぁ、助けてくれぇ。俺は、俺は!」
「てめえも惨めったらしく泣き喚くじゃねえか」
あれほど敗北者を詰った彼も、同じ立場となれば、強者にすがりつく惨めな負け犬であった。
これには、付きしがたっていた従者も失望を浮かべた。
「ベップ様の女にゃ手を出すなって、覚えとけ!」
剣の峰で打ち据えると、激しく吠えた。
レブドスキの出血する脚は、打撲であざだらけになってゆく。
強烈な激痛に脳が意識を断ち切ったのだろう。白目を濁らせたレブドスキは、もはや王の面影などなかった。
「おまえ……!」
すべてを終え、傷だらけのカサが駆け寄ってくるのが見えた。
ベップはにやり男臭い笑みを浮かべると、空に向かって剣を突き立てた。
「へ、待たせたな」
瞳が濡れて艶やかに光っている。自分のものだと言わんばかりに飛びかかってくるカサを抱きとめた。
§ § §
ベップは長剣を振るって血脂を落とすと、油断のない目で周囲を睥睨した。
従者たちは未だ警戒感を強めている。ベップは疲れを隠しながら、刃を平青眼に構えた。
いかに優れた勇者といえど、数十の兵隊に勝るほどの実力があるとはいえない。腕の中のカサは、猫のように頬を胸板に擦りつけた。
「もう心配いらないぞ」
カサは鍔元に手を添えると、優しく耳元で囁いた。
とき同じく従者たちが捌けてゆく。勇者を取り返しにくることもなく、実にあっさりしていた。
「あいつら掛かって来ねえのか」
「一騎討ちに勝ったんだぞ。これ以上戦っても勝てるわけがない」
「いや、こっちは一人なんだけど」
「そんなの関係ないぞ。それに、あいつらは強いほうだ。他の奴らなら大将が死んだってだけで逃げだすからな」
「メンタルざこっ。教官が知ったらブチギレるぜ」
「そんなに悪いことか? 私たちだって、自分の大将が居なくて、相手に居たら怖いぞ。それに、目の前であんなにみっともなく打ち取られたら、誰だって腰を抜かしてしまう」
「そんなもんかねぇ」
ベップの認識では、軍とはイコール組織である。帝国軍では統率権が厳格に制定されており、上官戦死の際には速やかに権限が移譲される。また、決戦や決闘などといった「点」の戦闘はなく、小隊単位の「面」での浸透作戦が基本となっている。
だが、風鼬族の軍とは古来の将軍システムに依拠するような、原始的なものである。そのようないくさでは、大将の武威、名誉といったものが極限まで重要視された。
単純論、誰それだから付きしたがうのである。百獣の王は勝利者だけが群れを率いる。明快であるからこそ、勢力の趨勢は個人の勝敗に帰結した。
「それより、だな」
と、尋ねたカサは目尻が下がっている。声の調子もいつもと違って弱々しい。そのしおらしい姿に、ベップは珍しくときめいた。
「なんだ」
「その……私がオマエの女ってのは、本当か?」
「ああ」
ベップは断言した。カサはその態度に頬を赤らめると俯いて、言った。
「どうして……」
「悪いが拒否権はねえぜ、カサ。そっちが無理やり奴隷にしたみたいに、俺も許可を取ったりしねえ。いいな」
「う、うん。でも、いいのか?」
「なにが」
カサは尋ねるのさえ怖いという風で、おずおずと切りだした。
「オマエは帰るところがあるんだろ。私は、村から出ていくことはできない。だから」
「わーってるよそんなの。当然、俺も村に残る」
「そんな。だってオマエは……」
「荒れ狂う帝国は合わねえ。それだけのことさ」
ベップはがりがりと頭のうしろを扱くと、ふうと天を仰いだ。言葉にするとしっくりくる。カサの潤む瞳を真っ直ぐ見返して、にっと野生味のある笑みを浮かべた。
「だからこそ、ここが故郷だ。妻として俺を支えてくれ」
「うん!」
「俺より先に寝てはいけない。俺より先に起きてもいけない」
「うん」
「めしはうまくつくれ。いつも綺麗でいろ。できる範囲で構わないからぁ~」
「……馬鹿にしてるのか?」
「わり、これ教えてもらってよ。一回歌ってみたかった」
ベップたちは大勢の歓声を浴びて、帰還したケイブラビット族に受けいれられた。逃亡先は古びていたのか、元の居場所に戻れたことを度々感謝された。次いで、族長は一族の危機を乗り越えたことで、祭りを開くと宣言した。
献上祭。
雄が雌を誘う儀式である。勿論、第一格は異人の剣客ベップ・リベラ・フォルチと相なった。
祭りの喧騒は、質素を旨とする彼らには珍しく盛大なものとなった。民族舞踊であろう、タップダンスのようなもので情熱を伝える。これは実のところコミュニケーションの一つなのだが、雰囲気で大体伝わることもある。アピールをする若い兎に見惚れながら、カサに耳を引っ張られるということを繰りかえした。
酒はない。けれど、そこには人情のようなものがあった。古き良き片田舎の名残のような。シラフでこそあったが、心温まるひとときであった。
アルバが祭も半ば様子を窺いにきたが、こういう終幕になるとわかっていたのだろう。郵便を受けとり、少々非難の視線を浴びせながらも、文句一つ言わず頷いた。
折りしも、フィルドラビット族の行商人がたどり着いたことも功を奏した。現在地は大森林の西方部に位置するらしく、沢を降ってゆけば街道筋に出られるそうな。目的の一族が商いの中心地としているサイカ村についても聞いたので、旅路は終わりを告げた。
「と、そっちで何してんだ。さっさと来いよ」
「う、うん」
畏まらせてやってきたカサは、モジモジと身体の前で手を動かしていた。祭は大部分が終了し、気の早い若手衆などはさっさとしけ込んでいる。
いくさの後で我慢するのは苦痛だったが、ガッつくのもなぁ、という謎の矜持がベップを泰然自若とさせた。
「さてと……」
「な、なあ」
「もう遅いぜ」
ベップは、弱々しい抵抗を剥がすと、瑞々しい唇を吸った。やがて、覚悟を決めたカサが舌を触れあわせる。
彼女の潤んだ瞳を眺めながら、そっとその場に押し倒した。
「んっあ。その、あのね」
「抱くぜ。言葉はいらねえ、だろ」
「でも、私はじめてだから。その、うまくできないかもしれないけど」
「心配すんな。むしろ光栄なくらいだぜ」
横たえたカサの上に覆いかぶさる。相手の瞳に、自分が大きく映しだされているのを見た。
その瞬間、腹からぐうと情けない音が鳴った。
ベップは顔を真っ赤にして硬直した。カサは色っぽい雰囲気もなにもなく、大口を開けて笑っている。
「おまえ、こんなときに」
「笑うな。野菜ばっかで腹減ってんだよ」
「はふ、はぁ、やばい。死にそう」
「旦那様に向かって失礼だぞ」
「わかったわかった。ちょっと待て、私も少しお腹が空いた」
盛大な祭とはいえ、急遽開催されたこともあってか十分な食料があったとはいえない。口に合わないこともあってか元々外で調達していたので、けったいな野菜ばかりの食卓では満足できないのである。
保存食は大体出しつくしたはずだが、カサは迷いなく洞窟の奥へと向かった。上げ膳据え膳、彼女は指導部の人間で雑事に長けた印象はなかったが、祭りのときの動きを見るに小器用ではあった。野暮なことをいえば、火も通さないカット野菜だけだが。
(こいつはいい嫁さんを貰ったってことかね)
肉厚の尻をふりふりさせる妻を見ながら、まだ見ぬご馳走に夢を馳せた。なんなら、故郷の餉を教えこませるのもおもしろいかも知れない。ついでにアッチの方も鍛えながら。と、勝手に暢気なことを考えていると、カサが唐突に言った。
「ちょっと待て。誰か出してないか見てくる」
「出す?」
と、彼女はさっさと右手の穴に滑りこんだ。
というか食うならともかく、出すって意味がわからない。
ベップが頭を捻っていると、呼び声が壁を反響している。耳を澄ますと許可しているようだった。後に続こうとして身を屈めると、強烈な異臭が鼻を突いた。
鼻が曲がりそう、というレベルを遥かに超えている。目や毛穴にすら入りこむ悪臭であった。
(いや、つかこの匂い、知ってるぞ)
ベップは恐る恐る声の主人の元までたどり着いた。予感は確信へと変わってゆく。信じたくない、そんな想いは無惨にも踏みにじられたのであった。
――シーシーしたいんでしょう。ずっとここに居るものねぇ。でも、出すなって言われてるし、何より今食事中だから。
――何より“今食事中”だから。
ここで、ある学者の言葉を引用しよう。
一定の種には、健康維持に不可欠な栄養素を体内で吸収できないことがある。それらは、消化器官が弱かったり、特定の餌からしかエネルギーが補給できないからである。
兎の場合、食物繊維を吸収するため、自分自身の糞を食べて補給することが知られている。とくに、盲腸の内容物であるとされるクリーム状の糞――軟糞――は、栄養素が多いとされる。
愛玩動物である犬などの場合、病気を引き起こしたりする可能性があるので必ず躾をしなければならない。が、兎の食糞行動は生態状極めて自然なものなので、矯正は客観的に見て虐待にあたる。
なお、これらの行動は獣人種である「ケイブラビット族」にも見られる。
フィルドラビット族は文明に混じってゆく過程で消失したため心配しなくてもよい。
以上、帝国学術院客員教授、生物学専門ジョーゼフ・スミス。
「なあ、どうした。めちゃくちゃ美味いぞ?」
カサは天使のような笑顔で朗らかに微笑んだ。
肥溜めのなかで顔中を茶色く染めあげながら、ベタベタと歯の隙間まで糞で塗れさせて。
「ぎょ、ぎょ」
「ぎょ?」
「ぎょえぇぇぇぇぇぇぇぇええええええ!!」
おえおえ言いながら、めちゃくちゃに駆けた。一回、二回。合計接吻回数であり、ウンコを口にした回数である。
ウンコを食う一族。ベップが娶ったのはそういう女である。
異文化恐ろしや。
ベップはすべてを放りだし、洞窟の外へと躍りでたのだった。
「そいつは無理ぃぃぃいいいいい!」
いまだ彼の求める安息の地は遠い。
§ § §
夜色の底に埋もれながら、河原蓬の葉を動かす。微風もまるで知らないように、沈々と更けていた。
しめやかで優しい川のせせらぎは、壁越しに聞く人の呟きのように密やかだ。遠靄の中には音も動きもない滝が小さく懸かっている。
物言わぬ星空は、はるかな山々のうえで佇む。雲にかくれた月の周囲の闇、山嶺の紫に近い闇、大空を覆う輝く闇と、僅かな変化で塗り分けられた闇がベップを包んでいた。
(お、おれはまだ何もしてねえ。ヤったわけでも、結婚したわけでもねえ。ギリギリセーフだから)
カサには申し訳ない気持ちもある。だが、それでもスカトロは無理だった。百戦錬磨の彼といえども、衆道と糞はごめんなのである。
(やべぇ、また吐きそう)
カサ、イコール、ウンコ。
女は当分、ミタクナイ。
おえおえとえずく彼を励ますよう、雲間から差し込んだ月光が道を照らしている。何かに導かれるよう、梢が風もなく揺らめいた。
唐突に、吹きすさんだ風が全身を嬲った。
木の葉が大量に舞いあがり、視界に靄をかからせる。天にまで高く昇ったつむじ風は、ざぁぁと滝のようにおちてきた。
鬱陶しくて目をつむった。葉擦れの音だけがしじまを覆いつぶす。風を顔中に浴びて目をあけると、急に視界が通った。
漁をしていた湖畔にたどり着いたのだ。そこには、見慣れぬ人影がぽつんとあった。
相貌を確認しようと木の股から顔をのぞかせる。
そして、ベップは大きく目を見開いた。
鋼鉄と茄子紺の溶けあった艶やかな髪が、淡い月明かりに照らされて輝いている。
胸には、白い牡丹の蕾のような紅色を含んだ丸みが二つある。それらはシンメトリーに重みで下へ垂れ、それぞれ薄い陰翳を落としていた。
水面からは股より上が顔をだし、遠目には白い小鳥のようなお尻がぷっかり浮かんでいるようだ。
透き通る水中には可憐な脚が伸びている。細く長い脚は折れそうなほど華奢に見えて、竹のように嫋やかだった。
何よりも見事なのは、肌の白さだ。
新雪を固めた儚く美しい肌に、浴びた水滴一粒一粒が瑠璃のように煌めいている。
みなもに片手を浸し、髪を絞るその仕草ひとつさえ、幻想的な森に佇む美少女のワンシーンのようだった。
「そ、そんな……」
緊張で喉が震えて声をうまく発せない。気付けば、ベップは生唾を飲みこんでいた。
アルバ・エゴヌ。
二年屋根を共にしてきた同僚の艶姿を見て、はじめて心の底から、心臓を掴まれたような気持ちになった。
酩酊状態のような気分でさまようと、足元から波紋が伝わる。アルバが闖入者にびくりと肩を緊張させた。
彼女は胸を抱えて半身になる。むぎゅ、と押しつぶされた乳房の間に小さな谷間が生まれた。
小柄で可憐な少女。ベップは水面を掻き分けながら、溺れるように呟いた。
「わ、わるい。覗くつもりはなかったんだ」
「……」
何を白々しい、という目付きでアルバが睨んでいる。表情から感情を察せたのははじめてだった。
「けど、そのよ。ちょっと言葉が見つからねえんだけど……おまえってその、女だったんだな。すまねえ、気づかなくて。その月並みだけど、言わせてくれ。俺が見た中で、一番綺麗だ。いや、本当に。なんていうか、そのバステトみたいだ」
と、ベップは震える少女の腰に手をまわした。臀部の重みを掌で感じる。指を蜘蛛のように這わせると、絹のように滑らかな肌触りが伝わってきた。
「……おい」
「へ、へへ、こういうのなんか照れるな。こんな寒空じゃ冷えるだろ。あっちに行こうぜ」
やべぇ、やりてえ。めちゃくちゃやりてぇ。さきほどの騒動を忘れてムクムクと神槍が起立する。しかも、今宵は驚くほど硬かった。ベップの股間には、男娼も目を見張る巨大なテントが張られていた。
「心配すんなって。俺、優しいって評判なんだぜ」
いつもは氷のように揺るがない瞳に、ぎらんと激しい炎が灯った。
「……しね」
表情にはほとんど変化がなかったが、口の端が奇妙に強張る。筋繊維の一本一本が脈打った。腕の中からするりと抜け出すと、旋風のように回転した。
一直線に振われたまわし蹴りが、無防備なベップの後頭部に炸裂した。ケイブラビット族の時とはちがう強烈な打撃に、視界が明滅した。
続けざまに腹、顎と掌底をくらって、意識朦朧となって水面を漂う。
夜空の半月がしろく輝いている。いまのベップには、それさえアルバのお尻に見えた。
「あ、ああ、とても綺麗だ」
白濁とした意識は露と消える。
意識が消える直前、ぶつぶつと怪しげな呪文を聞いた気がした。
§ § §
行商人の言葉通り、近在の沢を降ってゆけば、そこには延々とつづく荘園だけがあった。
魑魅魍魎の怪物や民族の犇く大森林とはうって変わって、文明の匂いがつよく漂っている。
今度は地図を持とう。法や倫理という、彼には縁遠かろう代物に心の底から感謝した。
「あ~しかし、俺はなんで森に行ったんだ?」
ベップは頭をポコポコで叩きながら、靄の懸かる記憶に首を捻った。粗悪な量産魔道具にも負けない性能なのか、大まかな事情とやらも曖昧になる。これが若年ボケか、と一人ツッコミを入れた。
「……配達」
斜め後ろを歩くアルバがボソリと呟いた。
「そうそう思い出した配達だ。色々あったなぁ。そういやカサちゃんともうちょいでヤレるとこだったような気が。違ったか?」
「……失敗した、か」
「なんか言ったかアルバ? ……ま、どうでもいいか。覚えてないってことは、どうせ脈がなかったてことだろ」
ふうと安堵のため息を吐いたアルバは、ぷいとそっぽを向いた。その距離は開いている。なにやらかなり警戒されているようだ。
(俺、なんかしたか?)
ぶっかけうどんをまだ恨んでいるのだろうか。小せえ奴だと、ベップは鼻を鳴らした。
「あ、あのですねおやびん。今日はあとどれくらい歩くんです?」
「そうだ。早く街を見たいぞ」
背後で付きしたがっていた二人組が喚きだした。鼻の尖った片足痩身の男とうさ耳のごつ男だ。
「うるせえ。風にでも聞きやがれ」
ベップは鬱陶しそうに手を払った。
二人の共を引き連れる経緯は複雑だ。
なんと、目を覚ましたベップのまえで、元勇者レブドスキと元覇王の”大きい雄“がおきあがり、仲間になりたそうにこちらをみている。仲間にしますか?
○はい←
○いいえ
つぶらな目をしていて断れなかった。街まで同行するということで手を打ったのだが、おやびんと尊敬の念を露わにしてくる。面倒この上なかった。
経緯は以上。アルバは興味も示さなかった。
舗装路などはなく、農道らしき踏みかためられた道を進む。自然の囲まれているが、いまはもう懲りごりだった。遠景に民家らしきものがあるが、どうも農奴用の共有住宅らしく、街のまの字もない。
彼ら愉快な郵便配達員が一休みできそうな街にたどり着いたのは、日が翳りはじめたころだった。
南部行商の集積地、ポーキスである。狭い斜面の土地に、ひしめくように木造住宅がひしめいている。地方の宿場町に着いた一行は、すぐさま宿を取った。
食文化が豊富で、パン食が主な東部と違って調理一つ繊細だ。不具者、兎、盗賊、遊び人のパーティーは豪勢な食卓に舌鼓を打った。
「つか、アルバって意外に健啖家よな」
「……」
スパイスの効いた卵料理を〆に、ベップは酒精の混じったゲップを吐いた。ぼりぼりと腹を掻いていると、よこしまな欲求が高まってくる。するりと立ちあがった。
「どこに行くんです、おやびん」
”大きい雄“改めビッグンが尋ねる。彼ら愉快な仲間たちははじめての贅沢に顔を赤らめさせていた。
「ちょっと散歩に行ってくるわ。先帰ってくれていいぜ」
千鳥足で歩きだしたベップの行き先はもちろん色街である。博打なんざ興味はなし。彼は生粋の帝国男児なのだ。
ポーキスは行商人の宿場町として栄えているだけあって、そういう類の店は豊富にあった。また、勤める女たちはよく日に焼けていて、そそるほど健康である。
道ゆく娼婦を冷やかしながら、ベップは己の経験を生かし、最高級の店を探しもとめた。
「と、ここにすっか」
帝都風キャバレー「亀頭洗士ガンナメ」。大通りにでんと構えられた老舗である。恐らくだが、メガ粒子砲を撃つ店だ。毒電波を受け取りながら、禿頭の護衛二人組を横切った。
「ようこそいらっしゃいました。当店、歳は十五から三十まであらゆる好みにお応えできます。お客様のご希望がありましたら、なんでも仰ってください」
支配人であろう油ぎった中年が営業スマイルを浮かべると、一斉に嬢たちが頭をさげた。色黒の美女に細身の美少女。金髪碧眼の貴族っぽいお嬢さんまでいた。
なかでも一際目立つボンキュボンの美女。フィルドラビット族の彼女は、豊に実った胸を持ち上げるよう腕を組み、きっと釣りあがった目で睨んでいた。
一番人気、白き導き手のセイラ。一等豪奢なドレスを纏っていて、どこかのお姫様にさえ見えた。
あぁと感心したように支配人が頷いた。その顔には、にへらとした卑しい笑みが浮かんでいた。
「彼女は当店でも随一の人気でして。本日も予約がいっぱいなのです。代わりに彼女などはどうでしょう。愛嬌たっぷりで古馴染みが多いのです」
元気溌剌としている芋っぽい女フラウが末尾から進みでた。明らかに人気のない枠である。
中年はゴマでも擦るように両手を擦りあわせているが、表情の端には傲慢さがにじんでいる。纏う襤褸きれのせいもあり、副音声で金のねえ奴はお断りと聞こえた。
舐められたもんだぜ。天下の遊び人たるこのベップさまがよ。
ベップは懐の袋を開くと、大量の金貨をぶちまけた。
「色白のロリ系で」