イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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第十一話:失くして

 ――ぼく、結構つよくなったよね? 2回も勝ったんだしさ……。

 

 そう心の中で呟きながら、アンヘルは家までの道のりを駆けた。

 

 最近の彼は充実期にあると言ってよかった。街に来た当初は、身体を限界まで酷使したとしてもにっちもさっちも行かない報酬であったのに、それに耐えて力を蓄え、探索者として必要な能力と装備が整い、歯車が噛み合い出したのである。

 人は変わろうとしても、中々に成長できるものではない。もがいてもがいてを繰り返し、けれど成長曲線が停滞することに人は諦めるのである。彼はその努力の壁を超えて、自分の殻を壊し始めていた。

 

(ホセはずっと先にいってるけど、ぼくも頑張るから! 明日からももっとがんばるぞー)

 

 エイエイオー。手を頭上に高く掲げたいほど、心ははずむ。それでも、人目を気にして不審な行動は慎んだ。

 

 道場から家までの道のりは小一時間以上かかる。黄昏時の街路は日中の熱が残っているのかうだるような暑さだった。それでも、足取りはまるで踊りだしそうなほど軽い。

 通りは人で溢れていた。夕方から夜にかけて、繁華街はガラッと姿を変える。昼間はやっていない食い物屋や酒場の魔灯が灯され、軒先に暖簾を出し始める。

 

(って、こんなにゆっくりしてる場合じゃないッ。もう、夕暮れ時だし、仕事をおえた職人たちが店にやってきちゃう。早くしないと、店に入れないよ!)

 

 アンヘルは息を整えて駆け出した。この後、剣術試合の反省会も兼ねてホアンと祝勝会を【菜の花亭】で上げる予定なのである。そのため、アンヘルは急いで倉庫へ着替えに戻っていたのだ。

 

 急いで走るアンヘルの視界に、ふたりの人物が入る。曲がり角から、スッと歩いて出てきた。それは、見知った顔であった。

 

 ひとりは男。背の低い男である。自信に溢れた表情は、男らしさの塊である。堂々と胸をはり、恐れることなどないと言わんばかりの歩き方は、その人物の性情をありありと表していた。

 その男――ホセを見たとき、アンヘルは声を掛けようとした。アンヘルとホセは別宅で住むようになったとはいえ、仲が(こじ)れたわけではない。むしろ、その逆である。違う仕事についたふたりの間に、利害関係は存在しない。その関係性は、何も絡まないからこそ純粋な友情に昇華していたのだ。

 

 休みの日、飲みに行くこともあるホセに対して喉元まで出かかかった言葉をギュッと押さえ込んだのは、その横に別の人物がいたからだ。

 

 アンヘルは近くの物陰に身を潜めた。とっさに。正に衝動的と言っていいほど、咄嗟に隠れた。別に隠れなくていいんじゃ? という気持ちはあったが、場の空気に流され隠れてしまった。

 それは、もうひとりの人物が穏やかならぬ人影だったのである。

 

 穏やかならぬといっても、その人物が穏やかではないという意味ではない。スラッとした体格に栗色の髪が特徴的な女であった。身長はホセより少し低いくらいで、遠くから見れば同じくらいに見えた。彼女は楽しそうに朗らかな笑みを浮かべていた。その女は、『菜の花亭』の看板娘にして長女であり、アンヘルの想い人であるナタリアであった。

 

 ――ぐ、ぐうぜん会っただけ……だよね? たぶん。

 

 アンヘルは顔を半分だけ出して、ふたりの動向を伺う。周囲からは奇異の視線に晒されたが、アンヘルには気にする余裕などなかった。

 

(こういうの、良くないよね――ストーカーみたいだし……。覗きって言うかさ。ううん。これは、ふたりが喧嘩しないか気になるだけ、それだけだからッ! ホセとは友達だし、ナタリアさんも、その……顔見知りだし)

 

 心中で免罪符を手に入れたアンヘルは観察を続ける。

 ふたりは話し合っている。ナタリアがあちこちと忙しなく指を差して捲し立てるのを、ホセが澄ました顔で返す。酒場でも見た光景だが、ふたりの距離は近かった。盛り上がっている様子だが、争い合う雰囲気ではない。会話の内容も、雑然とした繁華街では耳に届かなかった。

 

 どれくらい経っただろうか。それほど長い時間でないにもかかわらず、アンヘルは胸に痛みを覚える。ゆっくりと喋りながら進むふたりを追うのは、苦痛を覚える作業だった。それでも、追った。恥や外聞といった言葉は頭から抜け落ちていた。その時だった。

 

 ――えッ!!

 

 アンヘルは叫びそうになった。

 ホセがナタリアを抱くようにして、後ろから肩に手を置いた。自身の内側に迎え入れるような、そんな動きだ。ナタリアはそれに対して、ビクっとしただけで、反抗はしなかった。

 そして、ふたりで歩き出した。ナタリアは逆らわない。下を向いたまま、ついていく。しおらしく、従順に、まるで恋人のように。

 

 会話のトーンは落ち、喋っているのかどうかもわからない。唯一わかるのは、肩を抱かれて歩くナタリアが、夕焼けではない赤さで顔を染めていることだけだ。

 

 この通りは、ホセの家に続いていた。ホセの家は、繁華街から少し離れたところの借家であり、そこそこ新しい。ここからたった数分の距離にある家は、広さも十分でアンヘルの倉庫と比べれば豪邸である。若くして用心棒のトップとなったホセにふさわしい邸宅である。

 そして、明日は祝日である。探索者という就業日もなければ定休日もない仕事にはまったく関係ないが、街全体としては祝日なのである。その祝日の前夜に、若い男女が家に向かうとなれば、そうとしか言えなかった。ふたりの間は友達とは思えないほどに近い。アンヘルに誤解の余地を与えないほどの距離感だった。

 

「はぁぁぁ……」

 

 アンヘルは大きなため息をついて地面に座り込み、胸を押さえた。

 

(まぁいいけど……。そうだ。ぜんぜん大丈夫ッ! むしろ、全然祝福できちゃうっていうか。言ってくれればさっ。打ち明けてくれれば、なにもおもわないしッ。そうそう、驚いただけだから……。別にさぁ……)

 

 その言葉とは裏腹に、目から涙がこぼれ落ちた。胸を包丁で刺されて、身を切り刻まれたような幻痛が襲った。

 それでも、なぜ? という感情は湧きあがらなかった。大きなショックを受けたが、なんとなくそうでないかという予感はアンヘルの中にあったのだ。

 

 ナタリアは酒場の店員――酌婦だ。初対面の人間には普通の娘よりも夜の女と尻軽に見られやすいが、快闊な性質と朗らかな笑みがその印象を一転させる。そのうえ、ナタリアのガードは驚くほど固かった。誰に対しても親身に接したとしても、ボディコンタクトを伴うような態度はとらない。それは、酒場で育ってきた女の鋼鉄の守りであった。そんな度胸もないアンヘルはともかく酒の入ったオヤジどもをあっさりと躱すナタリアの手腕は、周囲の男性からの偶像化を促進していた。

 

 アンヘルはナタリアが近い距離で接しているのを見たことがなかったのだ。小突いたり、指で押したりといったボディタッチを含んだコミュニケーションは。

 しかし、一度だけ例外があったのだ。ホセとナタリアが喧嘩をしていたときだ。ヒートアップしたふたりを押しとどめようとあたふたしていたアンヘルに気づく余裕はなかったが、客観的に見れば明らかにふたりの距離は縮まっていた。

 それだけではない。ホセが自主的に『菜の花亭』を選んだりと、怪しい要素は他にもあったのだ。それをアンヘルは確信を持てないながらも察してはいたのだ。小さな違和感を。

 

 中々立ち上がれない。

 

 言ってくれれば、打ち明けてくれればというのは難しい注文だった。ホセに対して、ナタリアの事を漏らしたことはない。当初の経緯もあって、ホセは【菜の花亭】に近づいたことはなかった。そのため、アンヘルもナタリアについて話す機会が無かったのだ。

 

 そのホセが急にナタリアとの仲を縮めたことに大いに嫉妬した。アンヘルにとって、ホセは尊敬できるうえ一番の友人であり、そのホセに恋人ができれば大いに祝福し歓迎するが、ナタリアだけは別だったのだ。街に出て苦労してきた頃から一貫として変わらない態度とその垢ぬけた容姿に、一目惚れでこそないが数回会う内にアンヘルは彼女に恋焦がれていた。引っ込み思案な性格からは考えられないほどに節制して【菜の花亭】に行く代金を捻出していのだ。

 相手が街の騎士や上流階級出身の人間であれば諦めもついた。僕たちは所詮貧乏人なんだと悪態をついて酒を飲めば忘れられただろうが、それがアンヘルと境遇も変わらないホセだったのである。彼がいくら優れていたとしても、同じ村の出身で農民なのだ。スタート地点から考えれば、現代で高度な教育を受けたアンヘルのほうが、明らかに有利なはずなのである。

 

 それでも、この結果だった。

 

(まぁ、分かってたんだけどさ……。どうせ、脈なんてないって。ぼく、どうせビビりだしさっ)

 

 無論、アンヘルはナタリアが好きになるなどとはこれっぽちも思っていなかった。まったく、といっていいほど期待などしなかったのである。ナタリアの事が好きな人物は巷に溢れるほどいたし、それでなくても食い物商売の跡継ぎは魅力的だ。立地もいい『菜の花亭』の後釜を狙って、彼女と良い仲になろうとする人間はいくらでもいる。

 

 だから、アンヘルは考えないようにしていた。その感情を意識しないように蓋をして、心の奥底に閉じ込めた。そして、アイドルへ会いに行く気持ちで足繁く通ったのだ。自分を本音を心の奥底に閉じ込めて。

 それが、ふたりを見て溢れだした。

 

「うぅぅぅ……」

 

 胸が痛んだ。

 

 アンヘルにとって、初めての恋だった。苦しい中に現れた、まるで別世界の住人のような彼女。飛びぬけた美貌に接しやすい態度。向日葵のような笑みに、差別からは無縁な高潔な精神。明るく快活でそれでいて親しみやすい。真に完璧だった。彼女の存在が、この空虚な生活に潤いをもたらしていたのだ。

 

 アンヘルの頭に浮かぶ女の顔はたった3つだ。

 ひとつは現代の母親の顔。引っ込み思案なアンヘルに優しく、それでいて毅然とした態度で躾をした。男が最初に惹かれる女は母親だというが、その例にもれずアンヘルは母親に母性を感じていた。

 もうひとりはこの世界の姉である。母のように厳しくも優しい。アンヘルがもっとも困難な時期を助けた姉は、彼にとって最大の味方だった。

 そして、ナタリアである。彼女の笑顔はアンヘルの原動力だった。今思い返せば、それだけが楽しみだったのである。中学の同級生でもなければ芸能人でもない相手に対する初めての恋。それが、彼女だったのである。

 

 ホセが彼女の関係を想像するだけで、悔しさと嫉妬心で心が崩れそうだった。心の奥底にほんの少しだけ彼らの関係を認める気持ちが湧いたことに心底失望した。それには、無理やり入っていけるほどの度胸がない自分への失意であり、関係を宣言されてもいない内に諦めてしまう自分に対する情けなさが多分に含まれていた。

 それでも、一番の親友たるホセと初恋の彼女との仲を認めて、ほんの少しでも幸せを願える自身の精神性を褒められる気がした。

 

 アンヘルは呆然と真っ暗な空を仰いだ。

 

 激しく痛む胸には大きな穴があいて、心を失ったように感情が動かない。それは、大きな痛みが一斉に襲ってきたときの一種の自己防衛機能だった。それでも、空いた穴を埋める方法などない。鈍い痛みが続くだけだった。

 

 アンヘルは失恋した。

 いや、とっくに失くしてたのだ。

 

 

 

 §

 

 

 

「はぁ、はぁ。おいッ、しっかりしろよ! アンヘルッ」

「う、うん。ごめん。大丈夫だからッ」

 

 ふたりは九十九折りの階段を、息を切らしながら駆けがる。塔の中層は複雑に入り組んでおり、入り込む者を惑わせる。そのうえ、光も差し込まぬ暗闇の中では手に持っている松明ごときでは一寸先も照らせず、侵入者を引きずり込むかのような闇の中が広がっていた。

 

 はぁはぁと呼吸が定まらない。ただ、ひたすらに敵を破り進んでいくだけの足取りが重い。体中に錘をつるされ、魂が地獄へ引っ張られているかのように足が地面から離れるのを嫌がった。行動の隅々にまでおよんだ異変は明らかにアンヘルの体力を奪っていた。

 

「早くしろッ! 追いつかれるぞ!!」

 

 ホアンが叫ぶ。後ろからはモンスターの群れが大挙して、侵入者を根こそぎ狩り取ろうと襲ってくる。

 

 モンスターハウス。湧き。殺し間。モンスターが大量に発生するその現象に呼び名はいくつもあったが、それは危険性の高さを表していた。最も死亡率の高くなる素因が経験の浅さであるならば、もっとも死亡率が高くなる誘因はこの『湧き』である。どれほど武芸に秀でた戦士であっても、数の暴力に逆らうことはできない。

 

 道順に目印も付けずに、モンスターが闊歩する魔窟を短時間で走破するのは困難を極める。探索の原則として、逐一道程にメモをとり、十分な安全マージンを保ったうえで歩いて進んでいく。当たり前のことだが、大股での短時間踏破は足の負荷が大きすぎるため、戦闘に余力を残しておくことができないのである。

 しかし、ふたりにそんなことを考慮している余裕はなかった。すべてを無視して全力で駆走する。その後ろにモンスターの群れの姿が付かず離れず見えた。階段を駆けのぼり、曲がり角を曲がる。松明だけが頼りの視界の中、行き止まりがないことを祈りながらの逃避行。足元が覚束ない道を総力を上げて進んでいった。

 

「クソッ。こんなときに、ヨンがいないことだけが救いだッ!」

 

 ホアンが珍しく悪態をつきながら駆けはしる。

 

 ふたりの近くにヨンの姿はなかった。今日の探索に赴くとき、集合場所に来なかったのだ。しかしアンヘルはそのことについて意外性を覚えず、このときが来てしまったのかとある意味で納得してしまった。元々、ヨンは探索者稼業に向いている性向ではなく、その体格に似合わない臆病な性質は、幾度『塔』に来たとしても荒事に慣れることはなかった。そしてそれはヨンの探索者としての素質を開花させることはなかったのであった。

 

 この『塔』における最大の敵は、報酬の低さと距離にある。報酬の低さはホアンというモンスター殺戮兵器が加入したことで徐々に解消されつつあったが、距離は自力で克服するしかない。アンヘルとホセは積極的にモンスターを倒し、自身の肉体を精強に鍛え上げていったが、ヨンは戦闘には参加せず、後方支援に徹していた。人は苦難を受け入れ、乗り越えることで成長すると言うが、その意味ではヨンは探索者という仕事のすべてを拒絶していた。なまじ戦闘に特化して味方に成果を求めないホアンと、アンヘルがヨンに対して積極的に戦闘に参加することを求めなかった姿勢から、疎外する空気が育まれ、ヨンに成長の機会を与えなかった。

 それと、もうひとつ。ヨンに探索者の仕事に対する遣り甲斐が芽生えなかった。成功経験の乏しい人間は努力することに意義を見出せず、自身の成長に繋がらない無益な行動ばかりをとることになると心理学では考えらえている。それはヨンにも当てはまり、積極的に装備の更新や能力の向上に勤しんだアンヘルと違って、彼の報酬の使い道は稚拙に過ぎた。金の用途を詳細に訊ねたわけではなかったが、彼の恰幅の良さだけに拍車が掛かり、装備は一切更新される様子がないことを鑑みれば察するのは容易だったのだ。

 

 そんなヨンが今回の攻略に参加していなかったのは幸運だった。そうでなければ、アンヘルは見捨てて逃げるしかなかったのだ。今回起きた大群の襲撃は、ヨン不在による魔石採取時間の増加であることを考えれば皮肉ではあったが。

 

 

 整然とした塔の内部を駆け抜け、曲がり角を右に曲がる。少し進んで十字路をもう一度右へ曲がり、不揃いな階段を一段飛ばしで駆け登る。時折顔を出すモンスターの顔面にアンヘルは躊躇もせず棒を叩きつけて駆けた。アンヘルの目にホアンの背中が映る。

 

 ホアンの足は速い。持久力も瞬発力もアンヘルより余程優れていた。身体能力という面ではふたりに大きな差などないが、長年培われた『力』の使い方が違った。浪費のない力の制御は、道の先導と後方の妨害を同時にこなした。

 

「うらぁッ!!」

 

 ホアンは走りながら落ちている石を拾うと、右腕を振りかぶり投射した。力によって強化された剛腕が驚くほどの速度で石を投じると、モンスターの先頭『わるリン』に直撃し、そのモンスターを先頭とした集団が雪崩のように崩れるが、あっという間にそれを乗り越えた後方集団が襲い掛かってくる。

 

 ――キリがないッ!

 

 終わりのない耐久走に幾度も足が止まりそうだった。いや、それだけではない。足が死者に引っ張られるように進まない。『力』の制御は感情に大きく支配されるのだ。不安定な心がアンヘルのコンディションを悪化させていた。

 

 曲がりくねった長い距離を走り抜ける。行き止まりに当たれば一貫の終わりだった。無数に枝分かれする通路を勘だけで選ぶ。もはや、帰路について考える余裕などない。

 

 長い階段を登りきった後に、まったく横道のない一本道にたどりついた。その道の遥か先には塔の入口と似た青い光が見える。

 

 ふたりは顔を見合わせると全力で駆け出した。長い一本道には逃げ場などない。わき目もふらずで先に進むしか無かったのである。そんなふたりの前方にひとつの脇道が現れた。

 

 いや、正確には下方向の道だから落下というのが正しい。塔の内部は外観からは想像できないほど整備されていたが、年季からか経年劣化した場所は多々あり、崩壊した足場は上層に行くほど増大していた。その崩れ落ちた床からつづく奈落という死への道のりがふたりの顔の前に顔を出す。

 ふたりの前に鴻大な関門が立ちふさがった。

 

「クソッ! 行くぞ!」

 

 そういうとホアンは全力で駆け出し、崩落をまのがれている床ギリギリで踏み切った。威勢のいい掛け声とともにホアンが跳躍する。

 

 軽く五メートルは空を翔けた。強化された足による跳躍は、人にあるはずのない翼を与え、進めるはずのない道に橋を掛けた。鳥のように雄大で、それでいて陸上動物のように荒々しく跳躍したホアンは軽々と崩れた足場を飛び越えて向こう側に着地する。着地の衝撃を和らげるために、ゴロゴロと転がった。

 

 そして、ホアンがこちら側に向かって叫ぶ。

 

「おい! アンヘルッ。急げ!! 死んじまうぞッ!」

 

 アンヘルの耳にモンスターの到来を告げる轟音が届く。振り返ってモンスターを見ると、まるで立ち止まったアンヘルを嘲笑うように笑みを浮かべながら殺到していた。そのモンスターはまるで津波で、よける隙間なんてありはしない。

 

 アンヘルは前方に目を向ける。そして、崩れた足場の底を確認しようと松明で照らし目を凝らした。けれど、アンヘルの双眸に映じられたのは暗い闇だけだ。

 

 ――これって、落ちたら……たぶん死ぬよね……。

 

 そう思うと足がすくんだ。身体がまるで金縛りに遭ったかの如く硬直する。ホアンが叫ぶ声も、モンスターが迫りくる音もまるで他人事のように響いた。

 力がぬけて虚脱したみたいに動かない。死にたくない。生きたい。心の中で何時も叫んでいた気持ちがまったく入ってこない。原動力を根こそぎ持っていかれてエンジンがまるで掛からなかった。

 

 前方には五メートルを超える巨大な穴。三十メートル後方には、隙間もないほどに密集したモンスターの群れ。去るも地獄、残るも地獄である。

 

 アンヘルの脳裏に今までの人生がリフレインした。

 ユーモアに溢れた父、優しくも厳しい母に囲まれ退屈でありながらも平和でなんの不安もない日常。

 突然やってきた、過酷で救いのない、娯楽も無ければ食糧もない。家族の情すら感じることの難しい農村の日常。

 多大な困難と刺激に溢れ、自身の成長と過酷な生活から抜け出しつつある探索者としての街の生活。

 そして、一番の友達であるホセとアンヘルの想い人であったナタリアの顔が浮かんだ。

 

 過去の思い出が、浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。それはさながら走馬灯だった。

 死。探索者として、そして人間として逃げることのできない最大の敵がアンヘルに迫っていた。

 

 死は恐怖と諦めを促す。アンヘルは死を前にして腑抜けた脆弱の徒になり果ててしまった。もういいか、がんばったじゃないかという甘言を心の悪魔が囁いた。

 

 そんなとき、ホアンの声が響き渡る。

 

「飛べッ! アンヘル。探索者として成り上がるんじゃなかったのかッ!!」

 

 その言葉でアンヘルはシィールを思い浮かべた。

 

 シィール。か弱いシィール。素直で、従順で、甘えん坊で人懐っこい。シャープな顔も、間抜けな動きもすべてが愛らしい。行商人が授けてくれたアンヘルの相棒である。どんなときもアンヘルを助け、それでいてなんの不満も見せずに召還されないまま過ごしており、アンヘルとシィールが会うのはもっぱら魚を取ってもらうときだけだった。そしてアンヘル達を苦しめた獣であるリーンも同様である。すべては召喚士(サモナー)の都合のいいままに彼らは操られていた。それでも、彼らは不平不満を見せず、従順に、そして補佐を十分にこなしていた。

 

 ――もし、もしもぼくが死んだとしたら……。シィールたち眷属は、果たしてどうなるのだろうか。

 アンヘルの頭に最悪の結末がよぎった。そして、それに対する申し訳なさと、不条理に抗う反骨心が沸き上がった。

 

 ――ぼくが強くなって、シィールたちといつでも会えるようにするって誓ったじゃないか!

 

 ホセと別れて、ナタリアという初恋を失って、それでも残った最後の願いだ。強く、強くなるんだ。その言葉を呪文のように唱え、アンヘルは全力で駆け出した。

 

「うわぁぁぁぁぁ!!」

 

 五体の生気を右足へ極限まで集約し、崩壊を免れている足場ぎりぎりを全力で踏み切った。敵が迫り来る後ろは見ない、奈落に続く下も見ない。前だけをみて、全力で跳んだ。

 

 ぐっと踏み切った右足が沈み込んだ。残っていた足場がアンヘルの重みに耐えられず崩壊したのだ。十分な反発を得られなかったアンヘルには飛距離が足りなかった。羽根をもがれた鳥のように落下してゆく。

 

 ――あと一メートルなのに。

 

 宙空でぐるぐると腕を回し、前に進もうとする。そして、身体を前方に倒し、空気抵抗を減らした。それでも手は反対側に届かない。空を掴むように手を伸ばしたが、何も届かなかった。

 

 アンヘルの後ろでは、勢いをつけすぎて急に止まれないモンスターたちが虚空に消えてゆく。

 それと同じようにアンヘルも奈落に吸い込まれようとしていた。

 

 伸ばした手は何も掴まない。落下してゆく浮遊感と地面が遠ざかってゆく絶望感が、生への渇望を殺いだ瞬間だった。

 にゅっと腕が伸びてきて、パシッとアンヘルの腕をホアンが掴んだ。

 

「もうちょっとだッ。アンヘル。頑張れッ!!」

 

 そういって、ホアンが両腕でアンヘルを引き上げようとした。アンヘルはそれに縋ってなんとか反対側に登った。

 

 ふたりは足場が崩れる心配のないところまでいくと尻もちをついて休息した。

 

「はぁ、はぁ。なにっ、やってるんだっ。さっさと、とんでくれよっ」

「ごっ、ごめん。こ、こわくてっ」

「な、なんだよっ。こわいってよっ」

 

 ふたりは息をきらしながら軽口を叩く。その声には助かったことに対する安堵の色があった。どこからともなく笑いがこみあげてくる。ふたりは声を出して笑った。

 

「ホアン。大丈夫? さっきから腕をさすってるけど……」

「あぁ。大丈夫さ。軽い脱臼だ。今日一日は動かせないが、利き腕じゃないからな。なんとかなるだろう」

 

 そういってホアンは自身の脱臼した肩を苦悶の表情を浮かべながら嵌めようとする。こういった簡易治療術も門下生の技のひとつだ。

 

「ごめん。ぼくが、落ちちゃったから……」

「気にすんなよ。足場が崩れちゃったもんな。しょうがないさ。強いて言うなら、もっと早く飛んで欲しかったってくらいでさ」

「うう、ごめん」

「そう落ち込むなって。ふたりとも助かったんだ。なにも謝ることないって」

 

 そう言いながら、ホアンは悩んだような表情をする。するべきかしないべきか2択で迷ったときの表情であった。数瞬の逡巡の後、ホアンは意を決して訊ねてきた。

 

「なぁ。なにかあったのか? いや、訊くべきじゃないかとも思ったんだが。どうにも、心ここにあらずと言った様子だったから。この前のからさ。違うか?」

「あ、いや、べつに……。そんなことは……」

「いいや。絶対になにかあったろう? 三日前の打ち上げのとき、道場を出るまではあれほど喜んでいたのに、店に来た途端終始無言だっただろ。飲みの席ではそんなものかとも思ったが、今日の様子をみれば明らかにおかしいからな……。なぁ、おれたちは一応仲間だろう。組んでからまだ日は浅いが、それでもひと月近く一緒にやっているんだ。もう少し信頼してくれてもいいんじゃないか?」

 

 ホアンは立ち上がるとアンヘルに手を差し伸べる。ホアンの瞳には、他人を案じる優しい色が映っていた。

 

「その。ほんとうに、何でもないんだ……。ほんとうに」

「はぁ。まぁアンヘルがそういうなら、良いんだが。なら、探索には集中してくれよ。一対一なら不覚をとることもないが、今日みたいに多数を相手にすれば厳しい戦いになるんだ。万全を期してくれ」

「う、うん。大丈夫。頑張るよ……」

「頑張るってアンヘル。それは」

 

 ふたりは向かい合って話し合う。訊きだしたいホアンとナタリアの事を話したくないアンヘルの会話は平行線で交わることはない。ホアンは諦めのため息をつくと、この話を打ち切った。

 

「なら、この話はおわりだ。集中してくれよ、アンヘル。ここはもう何処だかわからないうえ、逃走するのに夢中で荷物も置いてきてしまった。ここからは正念場だからな。探索のことだけ考えてくれ」

「うん。ごめん。わかったよ」

 

 口から出た言葉は空虚だった。数日でそんな簡単に切り替えられるはずがない。

 アンヘルはたった十五の少年だ。平和な現代で暮らしていたアンヘルは、おしなべてひと回り以上成熟した精神をもつ異世界人とくらべて、圧倒的に幼い。数多の経験を乗り越えて、権利が尊ばれる世界から一転不条理や不平等が跋扈(ばっこ)する劣悪たるこの世界に慣れ、成長したアンヘルであったとしても、世俗の認識であるジェンダー平等の欠落と偏った婚姻概念には簡単に恭順することはできなかった。アンヘルのような青少年にとって、恋や愛とは神聖なモノであり何人たりとも汚すことはできないはずなのである。

 しかし、結婚の権利が家長に一任されている社会では、その理念は通用しない。そのため、人は叶わぬ恋に焦がれることがあったとしても、社会的生涯が立ちさがったとき容易に諦めてしまうのである。当然、彼らにも愛念を尊ぶ気持ちはあり、壮大なロマンスである駆け落ちや身分違いの恋には涙を流が、それはフィクションの話であり現実世界では普段の生活がどうしても絡み、個人で身を立てることが困難な縁故主義色の強い社会では、自由な恋愛など生まれるはずもなかった。

 

 それでも頭を振って切り替えようとした。それだけがアンヘルにできることだった。

 ふたりは青く光る灯りに向かって進んでいった。

 

 

 

 長い一本道を歩き、青き灯りの灯る大広間に辿り着くと、アンヘルは腰から棒を引き抜いた。

 

 大広間の中央には二体のモンスター――『ゴブリン』と『ブルーゴブリン』が座り込んでこちらをずっと眺めていた。

 

 ゴブリン。邪悪なる人類の怨敵にして、魔の先兵かつ醜悪なる悪の手先である。人間のように氏族を形成し、彼らなりのコミュニティを形成する社会性動物である彼らは、ときに単独行動をとり、はぐれとして『塔』の中にも住み着いていた。はぐれは、『塔』に代表されるようなダンジョンの力に魅了され、種としての存続を放棄し、力のみを追い求めた者の末路であると言われている。その証拠に知性は退化し、見るものに見境なく襲い掛かる亡者と化していた。しかし、引き換えにその小さな体格からは想像できないほどの大きな力を持っていることが多いのである。

 

 醜悪たる彼らの相貌は醜く歪んでおり見るに堪えない。口からは涎を垂らし、視線も定まらぬようにぎょろぎょろとするさまは良く言っても知性を感じられなかった。しかし、彼らが放つ戦闘者特有の闘気は、弱き体だと侮ったものを総毛立たせるに足るものだった。

 

 相手は2体。こちらもふたり。

 

 アンヘルとホアンは示し合わせると、距離をとって一対一に持ち込もうとした。

 ホアンの技量はずば抜けており『塔』であっても少数を相手ならば容易に切り抜けられるが、半面、道場剣術しか知らず集団戦闘があまり得意ではない。それは、アンヘルにも言えた。これまでの成功体験が良くなかったのであろう。ホセと組んでいたときは完全に分業制で、ホアンと組み始めてからは連携が必要になる事態へ陥ることが無かった。

 

 その判断は相手にも伝わった。アンヘルの相手、青き小鬼『ブルーゴブリン』は槍の使い手だった。小鬼の体格に合わせられた三又の槍は切っ先が煌めいている。

 

 アンヘルは青き小鬼と対峙する。

 

 アンヘルと小鬼は同時に駆け出した。アンヘルは上段に構えて飛び込もうとするが、相手の構えを見た瞬間に悪い予感がした。

 

 ――あれは、まずい!

 

 構えを崩し、無理やり横に飛びのいて回避行動をとった。それとほぼ同時に、アンヘルの頭があった場所に小鬼の槍が突きだされた。

 剣と槍ではリーチが違い過ぎる。アンヘルの戦闘経験はモンスター、害獣、剣士に限定され、槍使いと相まみえたことはなかった。即座に真っ向勝負を諦め、打ち合いを避けるヒットアンドウェイに移行した。

 

 心臓の鼓動が加速し、頭の中から余計な雑音を消去する。

 視界が狭まり、時間がゆっくりとながれるような超集中状態が脳を支配する。

 目に映るのは敵の動きだけだ。

 

 大きく円を描くように走り、相手の出方を伺う。迷いはない。

 青き小鬼が構えた三又の槍を猛烈な勢いで突きだした。

 一突き目は躱した。大きく後ろへ跳躍し、間合いを外す。

 すると間髪入れず相手は踏み出す。突きだした槍を引き戻し、構えなおした。そしてもう一撃放った。

 その一撃はアンヘルの髪を掠めた。なんとか首を傾げながらも回避したが、避けきれず数本髪が弾ける。紙一重の生だった。

 

 小鬼の腕前はかなりのものだった。そのうえ、槍相手の経験が不足しているアンヘルには相手の間合いが無限に感じる。隙を見出すことができなかった。

 

 膠着状態に陥ったアンヘルは横目でホアンの戦闘をみる。ホアンは苦戦している。東方一刀流は両手剣の使用をそうていした剣術を基礎としており、ホアンが得意としている剣も両手で使う長剣だ。片手で使えなくもないが、どうしても力や技量で劣る。中々の実力者相手にホアンも苦戦を余儀なくされていた。

 

 一瞬ホアンに意識が持っていかれた瞬間、青き小鬼は飛びかかりながら槍を右から薙ぎ払ってきた。

 アンヘルは、気づくのが遅れながらもなんとか紙一重で穂先を躱すと伸びきった(かいな)を左手でつかみ、不可避の打撃を相手の額にぶち込んだ。相手は避けきれないと悟り頭の兜で受けたが、衝撃は吸収しきれずバランスを崩し、後方へ後ずさりする。アンヘルは、追撃とばかりにがら空きとなった脇腹を足裏で蹴り飛ばした。

 

 小鬼が地面に転がる。

 アンヘルは止めとばかりに左手で腰から鉈を引き抜き、腕を大きく振りかぶる。そして、しならせながら相手の脳天へ叩きこもうとした。

 

 その瞬間、相手の右腕が跳ね上がり、三又の槍がアンヘルの左肩を割った。血潮が舞い、鉈が手元から抜け落ちる。

 ウッと呻いて後方に下がるが、尖った先端は傷口を掘り返し、出血を増大させ激痛で視界を歪ませた。

 

 ゲキャゲキャと聞くに堪えない笑い声を上げ、槍を構えながら小鬼は立ち上がる。柄の中央に持ち替え、負傷したアンヘルの人生に幕を引かせようと槍を唸らせながら突きだしてくる。

 

 肩を押さえながら転がり、地面を駈けずり回った。

 相手から大きく距離をとり、息を整えると傷口を見る。傷口は熱湯をかけられたように熱いが、動かすには支障なかった。

 感覚が麻痺しているのか痛みはあまりない。ただ、熱がこぼれていく感覚だけが残った。

 

 歯を食いしばって、右手で棒を正眼に構えた。負傷した左肩から力を抜き、半身になって相手からの突きに対峙する面を最小限にする。

 そしてじりじり間合いをはかった。

 

 これからが正念場なのだ。

 

 棒をゆらゆら振り、相手を幻惑させる。

 視線を左右にふって狙いを絞らせない。

 

 相手の間合いギリギリでワルツを踊るように挑発する。

 死の境界での挑発は、相手の神経を逆撫でした。

 

 小面憎い戦法をとるアンヘルを叩き潰そうと、神速の槍がアンヘルの頭部目がけて唸りながら突き出される。

 此度の強襲に対して、一歩も下がらずに踏み込んだ。

 

 ――今度はひかない。

 

 三又の槍は首の右側すれすれを通過する。頬に小さな切り傷を作ったが、意も介さず腰を回転させ、突っ込む。

 棒を握りしめた拳へ五体臓腑に至るまですべての力を集中させ、槍を持つ肩に叩きこんだ。

 ゴリっと生々しい感覚と共に、相手の上腕骨と鎖骨を粉々に砕く。

 甲高い絶叫が耳をつんざく。

 

 青き小鬼は槍を落とし、地面に転がった。

 アンヘルは息を吐きながら棒を地面につき、近くに落ちていた鉈を拾い上げる。

 

 眼下には、地面に倒れ伏し肩を押さえながら呻く小鬼の姿が見えた。

 小鬼は惨めったらしく這いつくばってアンヘルから遠ざかろうとする。

 

「もう、おわりだよ」

 

 アンヘルは鉈を掲げる。

 這って逃延びようとする小鬼の頭蓋を叩き割るため、鉈を叩きこんだ。脳漿が飛び散り、血の海を作り出す。

 鉈を引き抜くと、ホアンの様子を眺める。

 

 ちょうどホアンも長剣で相手を叩き斬った瞬間であった。

 ホアンもアンヘルが勝利したことに気づいたのか、片手を上げて応答してくる。

 

 ――ぼくは、生き残ったんだ……。

 

 安堵とともに、痛みがぶり返す。それでも、アンヘルには生の実感があった。

 原始的で、刺激的で、蠱惑的な勝利による生の実感が。

 

 人生は続いてゆく。友人と別れて、初恋を失ったとしても日々の暮らしは変わらない。気持ちの整理がつかなくとも、もやもやが続いたとしても明日はやってくるのだ。今日という刹那的な一日でアンヘルは過去に片をつけ、新たな毎日を迎えられる。

 そう、割り切れる気がした。

 

 

 

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