イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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第十二話:急転

 ふたりが塔から帰還するのには、一日を要した。

 大広間までの経路の一部は崩落しており、その通路から帰還するのは危険性が高く負傷しているふたりが取るべき選択ではなかった。それでも、帰還する道が其れしかないのならば致し方なかったが、この大広間には屋上に繋がる通路と下層に繋がっている複数の通路が存在しており、より容易な道を選べば良かったのである。

 

 とはいえ、悠々と帰還できたわけではない。ふたりは、そもそも何処にいるのかさえ把握していないのである。帰り道に直結したルートを一度で選択することは不可能であり、この状況に追い込んだ『湧き』を回避するために警戒を厳にしなければならない。負傷したふたりの足取りはひたすらに重く、生半なものではなかった。

 しかし、だからといって休息を十分に取るわけにもいかない事情があった。アンヘルたちは糧食や飲料水が詰まった荷物を落としてきていた。水が二三日無ければあっという間に干上がるのが人間であるが、とくに、激しく運動する探索者にとって飲料水は必需品であり、充分な水を確保できなければあっという間に行動不能となり脱水症状を引き起こすのだ。彷徨い歩き体力を消耗したふたりは、奇跡的に発見した袋が見つからなければかなり危ないラインまで踏み込んでいたのだ。

 半日かけて、命からがら塔を脱出したふたりは目尻に涙をこさえながら抱き合い、襲撃の予測が容易な見晴らしのいい喬木の下で眠りについた。

 

 とはいえ、彼らに収穫がなかったわけでも無かった。まず、アンヘルたちが入手した小鬼たちの武具であるそれらは、たいそう嵩張り脱出の重荷となったが、長さこそふたりに合う大きさではないが強度や鋭利さは十二分に有している。小鬼たちはモンスターではなくあくまでも住み着いた種族であり魔石が取れない(魔力(マナ)を扱う贓物がありそれらは一部取引されることもある)が、その代わりとばかりに身につけている武具は高価な値段で取引されていた。あくまでも、『塔』という括りの中においてはだが。

 そして、もうひとつ、頂上までの道順を記録することができたアンヘルたちは、ついに完全制覇が目前に控えていた。『塔』はその薄給さから探索者からも敬遠されており、頂上まで制覇したものは近年いないと口入れ屋のゴルカから訊いていたのだ。そして、『塔』の制覇が為されればアンヘルの探索者としての実力は証明され、ほぼ間違いなく見習い探索者としてスカウトされるだろうとも聞いていた。アンヘルの見習い未満の探索者生活に終わりが見えてきていたのだった。

 

 塔から、そして塔を取り巻く森から脱出したアンヘルの顔には笑みがあった。ケガも早々にリーンを召喚し、治療を行った。身体には疲労だけが残っていたが、喉元過ぎれば熱さを忘れるといわんばかりに探索成功に喜んでいた。

 

 ホアンも人間に近い造形のモンスターに対して勝利したことで、より一層自信を深めていたが、唯一、右腕のケガが直っていることに対してだけは首を捻っていた。流石に、アンヘルは自身の左肩の負傷は重く、それに対してリーンの癒しの力を使わないという選択肢は無かったが、その際にホアンの怪我を見て見ぬ振りをする事は難しかった。ホアンは現状最大の戦友で、命の恩人なのである。しかし、やはり召喚士としての能力を打ち明けるには度胸や覚悟が必要だった。もう、アンヘルにとって召喚士としての能力を隠すのは習慣と化していたのだ。そのため、眠っている間にひっそりと治療を行ったのであった。

 

 そんなふたりの成果ある、けれど苦難に満ちた攻略は終わりを告げ、這う這うの態で街へと帰還した。

 

 

 

 アンヘルは蒐集品を口入れ屋で換金したあと、ホアンに別れを告げてから『菜の花亭』に向かっていた。

 

 ――ああ。我ながら、女々しいなぁ……。

 

 アンヘルは独言する。

 

 ナタリアとホセの間に割って入って、間男のような真似をするつもりも無ければ、無理やり奪おうとするつもりも無かった。彼らの仲については、もうすっぱりと認めていたのだ。それでも、『菜の花亭』に足が向いたのはもはや偶像(アイドル)に対する信仰に近かった。彼女が幸せにしている笑顔さえ見られれば、とそんな信者の如き思考がアンヘルを突き動かしていた。

 

 日も落ちた街路を潜り抜けて店の扉を開き、店員に案内されて端の席に腰をおろす。店内は大勢の人で賑わっており、若衆が赤みがかった顔で騒ぎ立てていた。アンヘルのように独りで席に着くものは珍しいのか奇異の目を向けられたが、慣れたことと素知らぬ顔で料理を注文した。

 

 ビールの入った杯を傾け喉を潤すと、たちまち酒精が身体を廻り困憊(こんぱい)した体躯に染みわたった。

 片手で料理をつまみながら、店内を眺める。すると、従業員の中に垢ぬけた少女――ナタリアが目についた。

 

 彼女は忙しなく動きながら、客からの対応に追われているが、どこかいつもよりも表情が硬く動きは精彩を欠いていた。顔に浮かべている笑顔にも影があり憂色を濃くしている。何時もしないようなミスを重ねていた。

 

 アンヘルは、そんな彼女を不審に思いながらも彼女の顔を久方ぶりに見たことで心が弾む。もう、彼女との邂逅だけを純粋に楽しめていた。

 

 しかし、そんなアンヘルの視姦による至福の時間はすぐに終わった。ナタリアはアンヘルを見つけると顔色を変えてアンヘルの元に大股で向かってきた。その表情は正に鬼気迫るといったもので、周囲の客は何事かと騒ぎ出す。

 

 ――っえ? もしかして、この前つけていたのがバレた? で、でも、それで怒られるほどのことじゃ……。

 

 彼女の形相に瞠目(どうもく)しながらこれまでの生涯を振り返るが、なにひとつ心当たりはなかった。あたふたと狼狽(うろた)えながら彼女が迫りくるのを見るが、事態が好転することはない。距離が縮まるのを待つだけだった。

 

 ナタリアはアンヘルの真ん前までくると、目を潤しながら口元を尖らせ、テーブルをバンと両手で叩きながら甲高い声で叫んだ。

 

「なにしてたのッ! ホセが、ホセが――ホセが大変だったのよッ!! あなた友達なんでしょッ!! 何処にいってたのッ!?」

 

 彼女の叫び声が店内のにぎやかな空気を引き裂いた。

 

 

 

 §

 

 

 

 アンヘルは、ナタリアの嗚咽の混じった支離滅裂な非難を戸惑いながら必死になだめ、なんとか彼女がまともな言葉を喋れるくらいまで辛抱強く待った。

 店内の客どもの認識が、アンヘルの事をナタリアに危害を加えた暴漢であるとの誤解が解けるぐらい長い時間が経つ頃には、彼女の目からの涙も止まりなんとかふたりで会話が可能となった。

 

 ――まわりの客、ぼくのこと、殺しそうな目で見てるんだけど……。

 

 ナタリアの人気ぶりが伺えるというものである。信者――ナタリア目当ての客の目には、少しでもアンヘルが狼藉(ろうぜき)を働こうものならすぐさま叩きのめすといった暗い熱意が感じられた。

 

 アンヘルが周囲の状況に戦々恐々としながらナタリアに話を促すと、ぽつりぽつりと語り始めた。

 

「そ、その。なにがあったの? いきなり言われても何が何だか……」

「ええ。カレがっ、ホセが捕まったの! それで昨日、刑罰が執行されて――」

「捕まったッ! ホセがッ!? どうして?」

「どうしてって、なんで何も知らないのッ!? 捕まったのはもう四日も前のことよ!」

「え、えっとそれは……」

 

 その日はホセとナタリアの逢引を目撃した翌日で、失意の底に沈んで自室に引きこもっており、そのままの流れで探索に出たアンヘルにはここ数日の世俗に疎かった。

 しかし、それを正直に告げるわけにもいかず、曖昧な笑みを浮かべながらごまかそうとした。

 

「どぉしてなにも知らないのッ!! あんなに大きな事件だったじゃないっ。四日前、繁華街の鉄火場で、殺人事件が起きたでしょ! ファロ*もあんなに騒ぎ立てて、夜だっていうのに大どおりや繁華街は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていたのよッ! それなのに何もしらないなんて、本当になにしてたのよっ!?」

「その、ご、ごめん……」

 

 ナタリアはからっとした性格で情にあつい少女だが、事ホセという想い人に関しては、気が違ったように冷酷になり、友人として手を差し伸べられなかったアンヘルに向かって汚物を見るような目で糾弾してきた。

 男は体面や見栄を気にして、愚行を繰り返すが、女は感情的であるが確信を捉えた対応をとる。ナタリアも例にたがわず、彼女にとってもっとも重要なモノを違えず、外聞も気にせずホセに対しての心配を露わにしていた。

 その態度に、アンヘルはもう彼女の気持ちが手に入らないことに対する一抹の寂しさと、恋慕を勝ち得ているホセを渇仰した。

 

 ――もう、ナタリアさんはホセにゾッコンなのかなぁ。チャンスがないのは分かってるけど、こういうのはあんまり見たくないなぁ。かなり虚しいし……。

 

 姿勢を正して、事件について尋ねる。

 

「そ、その。事件って何があったの。ぼく、仕事に出ていて……」

「そう……。その、ごめんなさい、怒鳴ったりして。……事件についてね。四日前の夜のことよ。賭場で殺人が起きたの。殺されたのは商業組合の幹部兼食品の小売を一手に引き受けている商家の会長アーロンさんよ。私も詳しく知っているわけじゃないけど、アーロンさんが賭け事に熱中している間に、その、カレの部下の人が、殺したって……。それで、カレは組織のトップだからって、捕まったの」

 

 ナタリアは声を押し殺しながら告げた。俯いた彼女の目には宝石のような涙が端にたまり、はらりと一筋の線ををつくりながら零れ落ちた。

 

「ほ、ホセの仕事は用心棒で、殺人なんかするような仕事じゃない。ど、どうして、そんなことに……」

「わたしだってしらないわッ!! でも、公示人の話だと、カレやその部下のひとたちが賭場に行っているときに、その部下の人が刺したって。カレは用心棒なんてやってるから、疑われてしまって……。なんとか、組織だっての殺人じゃなくてその人の独断だって分かってもらえたみたいだけど、大きな罰を受けて……」

「その、ホセは大丈夫なの……?」

「だいじょうぶなわけないじゃないッ!! 笞刑(ちけい)にあったのよ。背中には大きなあざが残ったし、丸一日寝込んだのよ。社の蓄えもすべて接収されたうえ、公衆の面前であんなに打たれたっていうのに、それなのに、なにが大丈夫よッ!!」

 

 笞刑(ちけい)。いわゆる鞭打ちの刑罰はその手軽さに反して尋常ならざる痛みを受刑者に与えた。人間とは酷くもろい。どれほど鍛えた筋骨隆々の大男であろうとも、皮膚を鍛えることは叶わず、大声で啼泣(ていきゅう)するのである。皮下の神経を強烈に刺激する鞭打ちは、五十も連続で殴打されれば、どんな人間でもたやすく痛みで死に至るのであった。

 

「えッ。じゃ、じゃあ、ホセはもう釈放されてるの?」

「いまは、家に帰ってる……。けど、仕事も会社も全部なくなったのがショックだったのか、家に行ってもいないのっ。だから、アンヘルなら何か知ってるかなって……」

 

 瞳に希望の光を宿しながら訊ねてくるナタリアに対してアンヘルは首をふった。

 

「ご、ごめん。ぼく、なにも知らないんだ」

「そう。わかったわ……」

 

 彼女の目が落胆に染まった。この世の終わりみたいにしょげかえり、俯く。

 アンヘルは、彼女を慰めるべきか手を開いたりしながら熟考したが、結局何もしなかった。資格がないと思ったのだ。彼女を抱きしめ、不安を払拭し、もとの優しく太陽のような彼女へ戻すのはアンヘルでなくホセの役目なのである。これほどまで弱っている彼女につけ込む人間には、いかほどの利益があろうとも成りたくはなかったのだ。

 

 アンヘルは彼女を元気づけるためホセの捜索を申し出ようとした瞬間、横から無粋な声が届いた。

 

「なぁ、ナタリアちゃん。あんな奴のことなんざいいじゃねぇかよぉ。殺しだぜ、殺し。死んだほうが世のためじゃねえのかぁ? あんな小さい奴なんざ忘れちまえよなぁ」

 

 臨席の若い酔客が嘲笑うかのような態度でホセを侮辱する。その中には、人気者のナタリアを横からかっさらっていったホセに対する嫉妬が多分に含まれていた。

 

 そんな言い草にアンヘルは少しカチンときただけだったが、精神的に不安定なナタリアには堪えきれないほどの中傷だった。涙目で相手を()める。

 そんな彼女の態度にうっと引け腰になるが、酒の力か自分の正義に酔っているのか強気で講釈を垂れてきた。まわりに回った舌は、ツレの制止も聞かずに暴言をすらすらと吐き出す。

 

「あんなよぉ、浮浪者ばっかり集めたような礼儀のレすら知ンねえもねぇやつらがよぉ。街ででかい顔しよおってのがそもそもの間違いなのさぁ。その挙句に、殺したぁ、オテントさまにどう言い訳するってんだぁ?」

「カレはそんなことしてないわッ!! 罰だって管理不届きになってるもの!」

「いいや。そんなわけねぇ! どうせ金でも積んだんだろうがよぉ。なぁ、ナタリアちゃん。アンタはあの男に騙されてるだけなんだぜぇ。きっぱりと別れちまいなよぉ。あんなブ男なんざ捨てちまって、おれに乗り換えたらどうだぁ?」

 

 男はそういってゲラゲラと笑い出す。すると、店内の客も同じように怒号を上げながらホセを誹り始める。彼らには、横の酔客と違って周囲の人間の中にはホセに対する嫉妬心などなく、純粋にナタリアを案じている者もいた。

 

 質が悪い。周囲の雰囲気はそれに尽きた。

 酔客はともかく、老婆心からナタリアを案じている彼らのふるまいには、ホセという部外者の存在を徹底的に許さない空気が滲みだしていた。国の南東の端に位置し、周囲を山で囲まれたこの田舎街には優れた警備機構など存在しないため治安が悪くなりそうなものだが、人が少ない街ではそもそも罪を犯すメリットが余りない。知人関係が密接になっている地方都市では、利害関係が明白で、誰の犯行なのか容易に追跡することができる。必然、盗みなどの軽い犯罪行為ならばともかく、町人の殺人に対する忌避感は強くなった。

 そのうえ、公衆の面前での刑罰は娯楽の一面もあった。斬首などの残忍な罰はともかく、鞭打ちにはじまるような致死性の低い罰に関しては、受刑者の羞恥心を煽り再発を防ぐ意味からも公開される場合が多い。それは、この狭い世間においては、名誉を致命的ともいえるほどに貶めるのである。

 それに加えて、ホセが近年問題となっている農村からの成り上がりとなれば、彼に対する差別は加速した。なまじ、ホセが成功していたのがよくなかったのだ。誰であっても、用心棒として成功しているホセに面と向かって罵る度胸などない。しかし、いったん傷ができるとこれでもかと言わんばかりに世間はホセを排除し始めたのだ。

 

 こうなってはナタリアとしても言い返せるものではない。ギュッと拳を握りしめ、足元を見つめながら泣いていた。落ちた涙が床板に染みをつくる。

 

 しかし、加熱した空気は止まるはずもない。周囲の声援を受けたと勘違いした男は、調子に乗って罵倒する。

 

「いま、あいつが何やってんのか知りたいんだろぉ? 場末の酒場で飲んだくれてやがったぜぇ。はぁ~、いくら用心棒の頭やってようが、ああなりゃしめぇだ。いいざまだぜぇ」

「……」

「悪いことはいわねぇから、さっさと縁きっちまいなぁ。それとも、脅されてんのかぁ? なんならよぉ、おれが縁切りやすいようにぶちのめしてやってもいいぜぇ」

 

 大口を開けて下品に笑いながら、力こぶを誇示してナタリアにアピールする。その浅ましく品性の欠けた行為にアンヘルの頭は沸騰しそうになったが、ナタリアが机の上にあったフォークを握りしめたことで冷静になった。

 

 ――彼女にそんなことをさせるわけにはいかない。

 

 立ち上がり、ナタリアを庇うために無言で男の前に立ちふさがる。毅然とした態度で相手を威圧したが、残念ながらアンヘルには相手を押しとどめるような威厳は備わっていなかった。ひょろっとした体格と間延びした顔は相手の神経を逆撫でして、怒りを増幅させた。

 

「なんだぁてめぇはよぉ」

「……その、ホセはぼくの友達でもあるんです。あなたはホセのことが嫌いなのかもしれないけど、今日はもうやめてくれませんか? 彼女にも、時間が必要なんです」

「あぁ!? なんか文句でもあるってのかッ? おれがなんか間違ったことでも言ったかぁ!」

「……いえ、そういうわけでは。けど……」

「文句がねぇんだったら、さっさとどきやがれッ!!」

 

 まるでチンパンジーとの会話だった。アンヘルは努めて腹を立てないようにしながら(なだ)めた。本音ではこんな男と喋ることに意味を見出せなかったが、ナタリアと会話させるよりは余程良いと思案したのである。アンヘルは、店員がなんとか収束してくれないかと願いながらも男の応対を引き受けた。

 

「その、それでも今日のところは引き下がっていただけませんか。どこか気に入らないところがあれば、僕の方からも謝罪させて頂きます。ですから、ここはなんとか――」

「はぁ!? じゃあ、謝って見せろや。ここでよ」

 

 そう言いながら、ビールをあおる。話題の矛先がナタリアから見知らぬ男に変化したことから、静観を決め込んでいた客が口々に罵声を浴びせてきた。ナタリアだけが心配そうに気遣ってくるが、アンヘルはそれを手で制す。

 

 謝罪。世の中には自身に非がなくとも頭を下げなければならないことなどいくらでもある。しかし、それを易々と受け入れるにはアンヘルは若すぎた。

 

 屈辱的な要求に憮然とした。

 憤懣(ふんまん)。いや、激憤だろうか。頭の中がまるで火をつけられたみたいにカッと赤くなるが、ナタリアとホセの顔を思い浮かべてそれをなんとか飲み込んだ。ここで暴れたら、それこそホセやナタリアの名誉は地に落ちるのだ。アンヘルはなんとか自分に言い聞かせて頭を下げた。

 

 頭を下げることで怒りに満ちた表情を見せずに済む。それだけが救いであった。

 しかし、男の要求はとどまることを知らなかった。

 

「オイオイ! てめぇは、礼儀もしらねぇのか。土下座だよ、ド、ゲ、ザ」

 

 そういうと、男はビールをアンヘルの足元に垂らす。床は水たまりのように水を張り、酒精の匂いがいっそう強くなった。周囲からは土下座コールが巻き起こる。

 

 アンヘルは眼下に広がる濡れたビショビショの床を眺める。

 アンヘルだって男だ。プライドがないわけない。しかし、いまここで男の要求に反旗を翻せば、ホセをどれほど貶め、鬱憤晴しにナタリアへどんな誹謗中傷が向けられるとも限らない。もう、すでに一度頭を下げたのだ。後一度下げることなど大したことはない。そう(うそぶ)きながら、覚悟を決め、濡れた床に膝と両手をつくと、アンヘルは頭を下げた。

 

 いままで生きてきた中でもこれほど汚辱に塗れたことはなかった。

 怒りと諦念、そして哀傷に苦しみながらもなんとか謝罪の言葉を告げる。アンヘルの鼻腔に酒と木のまじりあった匂いが入り込んだ。

 すると、ことの成り行きを見守っていた周囲の客たちから、アンヘルの臆病ぶりを笑う声が響いた。

 

「なっさけねぇな! 男だろぉがよ!」

「これだから、農民はよぉ。学もねぇうえに、根性もねぇときた!」

「おい、あいつ。たしか、探索者志望じゃねぇか?」

「嘘だろ、あんな根性なしでも探索者を名乗れるようになったとは、良い世の中になったもんだぜぇ!」

 

 強烈に罵倒する周囲の客の反応に男は自尊心が満たされたのか、カップに残っていたビールをアンヘルの頭に掛けると椅子に座りなおした。

 

 アンヘルは濡れた頭を振りながら立ち上がる。そして、元の席に座ろうとした瞬間であった。

 

「あなたッ、ほんとうにそれでも人間なのッ! こんな畜生にも劣るようなマネができるなんて、淫売の腹からでも生まれたのかしらッ!! この人非人!」

 

 ナタリアが烈火の如く怒る。品位をかなぐり捨てて叫んだ彼女の声は、広い店内に響き渡った。

 この暴言を受けて、一度は満足した男も黙ってはいなかった。

 男は立ち上がり、怒りに染まる。

 

「なんだとぉ!! このアマッ! ぶっ殺してやるッ!」

「やってみなさいよッ! あなたなんかに、絶対負けるもんかッ」

「やってやろうじゃぁねえかッ!!」

 

 場の雰囲気が一変した。

 立ち上がった男が隆起した右腕を振りかぶって、ナタリアの顔面に狙いをつける。

 ナタリアもそれに対して一歩も引かずに()めつける。

 

 周囲から悲鳴の声が響く。

 その瞬間、アンヘルの身体は独りでに動き出していた。

 

 激しく肉を打つ鈍い音が鳴った。女の悲鳴と男の怒号。非日常の空気が辺りを支配した。

 

 アンヘルは横っ面を張られたのだ。

 

「なんだテメェはよッ!!」

 

 男は邪魔された腹いせに、割り込んできたアンヘルの横面を再度殴りつける。

 ナタリアは急に割り込まれたことで面食らった様子だったが、男に連打されているアンヘルを見て悲鳴を上げながら庇うため前に出ようとする。

 

 しかし、アンヘルはそれを腕をつかってとめた。

 

 ――こんな殴り方じゃ、ぼくたちにとっては、遊びぐらいにしか思えないんだ。

 

 男の殴り方は、完全にど素人だった。アンヘルは見習い未満で若年に入るくらいの年であるとはいえ、歴とした探索者である。モンスターとの命のやり取りなど日常茶飯事だ。ダンジョンでおどろおどろしいモンスターから受ける攻撃に比べれば、何の訓練も受けていないただの力自慢の暴力など、大したものではなかった。

 

 身体を力で強化したアンヘルにはロクなダメージは入らず、顔からは鼻血が出ている程度であった。

 

 それでも、心に響くダメージまではなくならない。公衆の面前で殴打されるのは、誰だって悔しいものである。しかし、恥辱の土下座までこなしたアンヘルにはもう恐れるものなどなく、頭にあるのは如何にしてナタリアの不利益にならぬようこの場を収めるかということだけだった。

 

 男の腕が十は軽く往復し、ナタリアの甲高い叫び声にも慣れてきたころだった。

 

 店の従業員が奥で作業をしていたナタリアの父親を呼びに行ったのであろう。彼女の父親がその優れた体格を生かして恫喝しながら、暴行を続ける男を止めたのだった。

 

 

 

 §

 

 

 

「すまなかったな」

 

 ナタリアの父親――イバンは申し訳なさそうに頭を下げる。その横には同じように申し訳なさそうな顔をしたナタリアが俯いている。

 

 イバンは酔客を店の外に叩きだしたあと、治療のためにアンヘルを店の準備室まで連れてきていた。

 アンヘルの傷は浅いが、いくら素人の殴打とはいえ、力自慢の男が繰り出した拳を無傷で受けることなどできない。鼻血を止めるために詰め物をしている傍ら、少し腫れた頬を冷やしてもらう。

 

「ほんとうに助かったよ。娘も中々に自分を曲げないもんでね。いつかこんなことになるんじゃないかって思ってたのさ。俺が居ないときに起きるとは思わなかったがね」

「いえ、大したことはしていませんから……」

「いや、そんなことはない」

 

 イバンは一呼吸おいてから、一瞬逡巡すると、ナタリアに向き直った。

 

「なあ。父さんは彼と話があるから、今日はもう寝るんだ。こっちで、お礼は言っておくから」

「けど……」

「もう下がるんだ。彼にもこんなに迷惑を掛けたんだ。これ以上、恥の上塗りをするんじゃない」

 

 そう強く諫められたナタリアは俯いたまま小さくお礼を述べると、ゆっくりと退室していった。

 パタンと扉の閉まる音が聞こえた後、部屋は静寂に支配された。

 

 アンヘルはとても気まずかった。ほぼ初対面の大人に感謝を述べられるのはどこかむずがゆいうえ、それほど優れた対処だったとは言い切れない。沈黙に耐え切れず声を出そうとすると、イバンが話しかけてきた。

 

「まずは、ちゃんとお礼をいわせてくれ。娘はかなりの器量よしだと思っているんだが、それ故にああやって絡まれることも多い。今回のことは大きな事件だったし、娘もかなり気落ちしていたのか冷静さを欠いていたんだろう。君に多大な迷惑をかけた。娘には注意しておくから許してほしい」

「い、いえ。そんなこと、ありません。ぼくなんか、なにも……」

「いや、君の恰好をみればよくわかる。かなりこっぴどくやられたみたいだな。これは気持ちだ。受け取ってくれ」

 

 イバンは小さな包みを取り出すと、アンヘルに手渡した。袋はジャリっとした感触がある。中にはゆうに10枚以上のコインが入っていた。

 

「そんな、受け取れません。こんな大金」

「いや、受け取ってくれ。娘を助けてくれたお礼に何もしないのは義に悖るんだ」

「で、でも……」

「そういわず。な、迷惑料だとおもってくれればいい」

 

 アンヘルは包みを無理やり握らされると、諦めたように懐にしまった。

 

「それにしても、あれほど殴打されたにもかかわらず、それほど頬は腫れていないな。君は身体が丈夫なんだな」

「いえ、そんなことは……。あの、少し聞いてもいいですか?」

「うん? なんだ?」

「その、娘さんと、ホセのこと。知っていたんですか?」

「ああ。まぁ、直接言われたわけではないがね。店での接客態度をみれば一目瞭然だった。他の客だって気づいていたはずさ。あんなに楽しそうに喋っているのは見たことがなかったからな。公然の秘密ってやつなのかな? とはいえ、娘が傷ついた彼を見てあれほど取り乱すとは思わなかったがね」

「……そう、ですか。もしかして、あなたも、娘さんとホセは別れたほうが良いと思っていますか?」

「……まあ、正直に言えばね。こんな言い方は良くないのかもしれないが、彼は農民出だろう。後ろ盾もなにもない馬の骨に娘を任せようだなんて奇特な親はいないだろ?」

「……」

「とはいえ、娘が本心で願うなら止めはしなかったがね。ウチには後継ぎがいないし、結婚相手を吟味するような名家ってわけでもない。この家で修行すれば、生活はどうとでもなる」

「……ありがとうございます。こんな、不躾なことをいきなり訊ねてしまって」

「いや、いいさ。君は彼とも友達なんだろう。覚えているよ。ふたりで店に来ていたのを。すごい友情だな、あれほど耐えるなんて」

「いえ、そんなことは……」

 

 アンヘルはその言葉に対して素直に頷く気持ちにはなれなかった。正直に告白すれば、ナタリアを助けたい気持ちの比重のほうが重かったのである。しかし、自身の浅ましい気持ちを告げるわけにもいかず、もやもやとした恥ずかしさだけが残った。

 

「なぁ、お願い続きでわるいんだが、娘を彼に会わせてやってくれないか? 彼は盛場や郊外なんかを転々としているみたいでね。娘も探したがっているようだが、女ひとりでそんな場所にやるわけにもいかない。娘が勝手な行動を取る前に、なんとか彼を探し出して欲しいんだ」

「わかっています。ホセはぼくにとっても友達ですから。言われずとも、そうするつもりです」

「そうか。そういってくれて助かるよ」

 

 イバンは立ち上がると右手を差し出してきた。

 

「ほんとうにありがとう」

 

 そう言いながら、彼は頭を下げた。




※ファロ:ファロティエ(ランタン持ち)事件が起きた際に騒ぎ立てる街公認の地域防犯員
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