イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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第四話:強制クエスト発生

「なあ、どうしたんだ。包帯ぐるぐる巻きの大怪我で帰ってきたと思えば、今度はぼおっとして。組合で頭でも打ったか」

 

 宿舎の一室で、ホアンは机の上の問題と格闘しながらアンヘルの奇行に目をつける。慣れない勉強を続けた疲労が顔に色濃く浮かんでいた。

 

「えッ! いや、そんなことないよ。なにもないって」

「そうか? 心ここにあらずといった風に見受けられたが……」

 

 アンヘルは誤魔化すようにして、剣の手入れを再開する。砥石の擦れる音が響いた。

 晩秋の柔らかな光が差し込む昼下がりの一室でアンヘルは回想する。

 

 ――なんていうか、柔らかかったなぁ。

 

 これまでテリュスの事はあまり気にしていなかったが、性的接触を女性と持ったのは彼女がはじめてで、それを意識するなというのはどだい無理なことであった。

 彼女は二度も無理難題を押し付けられた存在だったが、しかし、可憐で女性的な魅力に(あふ)れていて、それでいて無茶をしても許される独特な愛嬌を持っていた。

 

 アンヘルの中で彼女は、迷惑な存在でありながらも意識してしまう複雑な存在へと昇華していた。そこには、女性関係の薄いアンヘルのチョロさが(にじ)んではいたが、同時に彼女の人間的魅力の表れでもあった。

 

「……まあいい。それよりも、砥石をあまり早く動かすな。ぶれて刀身にむらができるぞ」

「うん、ありがと。その……ごめん、試験前だってのに部屋で研いじゃって」

 

 そう返答すると、砥石を持つ手の力を緩める。ホアンはそれを見て続けた。

 

「いいさ、気にするな。……と、言いたいところなんだが最近はそうも言えなくなってきたよ」

「まぁ、試験前ってかなりナイーブな気持ちになるよね。試験ってどんな感じなの?」

「幾つもあるが――」

 

 士官学校上級士官養成課程の試験内容は多岐にわたる。実技による戦闘能力評価や身体能力評価は当然としても、筆記試験として多様な科目を修める必要があった。

 文章読解・作成、算術や史学に加えて建築知識などの専門分野の知識まで問われる。ひとつひとつの問題を取っても容易ではなく、たとえば算術の分野では魔導砲術器のための射角計算に三角関数が平然と使われており、高校数学を一切学んでいないアンヘルには文字が読めたとしても解けない問題がずらりと並んでいた。

 

「いやぁ、むずかしいね」

「難しいって、アンヘルは文字が読めないから、問題の意味なんてそもそもわからないだろ?」

 

 文字が読めない責められたアンヘルはごまかしの意味で視線を散らす。すると、机の上に波紋が広がったような地図に気が付いた。

 

「そうなんだけど……。あれ、この地図って等高線図? 分水嶺を見分けるってことじゃ無さそうだし。ってことは、用兵術の問題かな?」

「……まあ、そうなんだが。よく『分水嶺』なんて言葉を知っているな。結構な期間一緒にいるが、いまだにアンヘルのことが良く分からないよ」

「その、ちょっと聞いたことがあるだけで」

 

 ごまかしながらもぺらぺらと用紙をめくる。ざっと見ではあったが、ホアンの解いた問題には6割近く丸が入っているように見えた。間違えた問題のポイントを一問一問書いており、至る所からホアンの几帳面さが垣間見えた。

 

「アンヘルも勉強するか? 試験に受けるわけでなくとも、文字も読めないのはこれから苦労するぞ」

「それは、そうなんだけど……。勉強かぁ」

 

 アンヘルはため息をついた。

 

「探索者を続けていくといっても、文字を読めなければ依頼もまともに選べないぞ。っていうか、この前それで死にかけただろ」

 

 この世界の識字率は意外にも高い。それはひとえに魔道具の発展によって市民が能力のすべてを労働につぎ込む必要がなくなったからであり、より頭脳労働を行える人間の価値が高まっていることの証明でもあった。農村部の人間はいまだに識字率が低いままだが、都市部やその近隣の人間は私塾から文字や算術を習うのである。

 

 そもそも探索者は必要技能基準の高い仕事であった。逆説的にいえば、文字の読めない人間はこんな危険な仕事でも淘汰(とうた)されることも意味していたが。

 

 アンヘルは渋々ホアンの横に座り、ペンを片手に持った。ゆっくりと文字を書き記す。

 

「ええっと。『わたし”に”あんへるです』、っと」

「おい、そこは”に”じゃなくて、”は”だぞ」

「ええッ!? そっか。うん、ありがとう」

 

 間違えた文字を書き直す。

 

 アンヘルはこの作業がとてつもなく嫌いであった。どうしても日本語的思考が文字習得の邪魔をするからである。

 

 日本語は発声と文字が一致しており、会話可能で漢字や表現方法にこだわらなければ、文字の習得は難しくない。しかし、日本語のような言語はかなり稀で、前世でも日本語の特異性は異彩をはなっていた。

 そしてやはりこの世界の文字も英語と同様、発声と文字が対応していないのである。ひとつずつ単語の(つづ)りを覚える必要があるうえ、どの文字も似たり寄ったりの筆記体で読み取るのも書き取るのも一苦労である。のたうち回る蛇を書き写す作業は多大な精神的苦痛を与えられた。

 

 どれほど時間が経ったであろうか。

 アンヘルとホアンの書く音だけが響いていた。

 

 すると突然、どたどたどたという音が階下から響き渡る。それはどんどん近づいてきて、部屋の前で止まった。

 

「アンヘル。わたし、マカレナだけど居るー?」

 

 アンヘルが返事をする間も無く、がちゃっとドアは開けられた。いつか見た白いワンピースを来たマカレナが入室してくる。

 

「あれ、居るじゃない。返事してよ」

「……」

「おい、アンヘル。誰だ? 知り合いか?」

 

 ホアンの声でようやくアンヘル以外の人間がいることに気が付いたのか、そちらに向き直って笑みを作った。

 

「ええっと、アンヘルの友達さんかな? わたし、マカレナっていうの。気軽に呼んでくれていいから。……えっと、なにさんかな?」

「あ、ああ。おれはホアン。アンヘルの友人だ」

「そう! よろしくねッ」

 

 マカレナは右手を突き出し、握手する。握った手をぶんぶんと振った。勢いに押されたのか、会話に困ったホアンは話の矛先をアンヘルに向けた。

 

「おい、アンヘル。おまえ、おれがいない間、真面目に探索者をやっているのかと思ったが、まさか女をひっかけて遊んでいたのか?」

「いやいやいや、ちょっと待ってよ。そんなわけないよ。彼女とは依頼で知り合っただけで――」

「――襲い掛かられて。それで、裸に剥かれて。それで、それで……」

 

 マカレナはしくしくと目を伏せて泣くふりをする。アンヘルはブッと吹き出しそうになった。

 

「ちょっ。そっちも何言ってるのッ! 嘘はやめてってッ!!」

「べつに、嘘じゃないけど?」

 

 マカレナはうって変わって揶揄うような笑顔で口吻(こうふん)を尖らせる。

 

「いや、言葉だけ見れば間違ってないんだけどッ。けど言い方ってものが――」

「おい、アンヘル?」

 

 融通の効かないホアンが冷たい雰囲気を作り始める。ゴミムシを見るような冷たい目でアンヘルを貫いた。

 

「いやいや、ホアン信じて。ぼくがそんなことできるわけ――」

「そういうこと言う男の人を信じちゃいけないって、お母さんから教わったけどなー」

 

 四面楚歌である。アンヘルをいじめたいマカレナと、受験ストレスで疲れているホアンのスーパータッグは確実に逃げ道を塞いだ。

 とくに、マカレナの冗談が洒落にならない。何ら気負いなくトラウマ級の事件を投げつけてくるマカレナの心理が理解できなかった。それでいて、こちらから突っ込むと特大の地雷になりそうな危険な雰囲気を持っている。

 

 マカレナがふふっと笑う。

 

「冗談、冗談。そんなに本気にしないで」

「いや、けど……」

「わたしは気にしてない。なら、それでいいでしょ。ちょっと怖い目にあったってだけなんだから」

 

 マカレナは目をパチッとウインクしながらも、同意を迫るような強い声色で言った。

 

「なんだ、お前ら?」

 

 ホアンは(いぶか)し気に尋ねる。

 ふたりだけの会話に訳が分からなくて首を傾げていた。アンヘルのような消極的な人間が数日で女の子と知り合うという事態が理解できないのだろう。当事者でなければ、アンヘル自身も意味が分からなかった。

 

 ホアンの疑問を打ち切るようにしてマカレナに尋ねる。

 

「それで、どうしたの? 急に尋ねてきて?」

 

 マカレナはその言葉にパンと両手を胸の前で合わせてから、思い出したようにそうだと言い、深々とお辞儀をした。下げる前に見えた顔には苦々し気な顔が映っていた。

 

「その、ごめんなさいッ! アンヘルのこと、隠そうとしたんだけど、父さんにバレちゃって。それで、連れて来いって」

 

 ああ、やっぱりという感想が浮かんだ。アンヘルの厄日はまだ終わらないようであった。

 

 

 

 §

 

 

 

「じゃあ、わたしお父さんが今空いてるか聞いてくるからちょっと庭で待ってて」

 

 マカレナはそう言い残すと、ぱたぱたと駆けながら屋敷に消えていった。

 アンヘルは手持無沙汰になって辺りを見渡した。

 

「ひえー。大きいねぇ」

 

 豪邸。

 マカレナの家はまさに豪華絢爛(ごうかけんらん)と言う言葉がぴったりの豪邸であった。邸内に入ったわけではないが、外から眺めるだけでも想像は容易についた。個人宅では珍しいガラス窓や黒光りする大扉が目についた。

 なによりも驚いたのはマカレナ邸があった場所である。マカレナ邸は明らかに高級住宅街と思われる場所に立ち並んでいた。この地区はアンヘルが立ち入ろうとすると頻繁に職質され、これまで何度か訪れていたものの十分に見物できない場所であった。

 マカレナ邸は他の邸宅と比べて大きいわけではなかったが、それでも見劣りしない立派な豪邸である。

 

 庭には噴水や彫像、そして花が植えられており、庭師と思われる少年が枝切ばさみで剪定(せんてい)していた。

 

「確かに大きいな。というか、アンヘルは彼女のことを知らなかったのか? こんなお嬢様だって」

「いや、ちょっと変な出会い方だったから……。ホアンは来てよかったの? 試験までそれほど時間ないんでしょ?」

「まぁ、そうなんだがな。ずっと部屋に缶詰というのも効率が悪い。少しくらい外出するほうが、勉強も(はかど)るさ」

 

 ホアンは受験疲れの浪人生みたいな事を言い出す。

 アンヘルは受験の経験からなんとなく理解できたが、言い訳を口にして勉強をサボると大体良い結果にはならないと知ってはいたが、機嫌を損ねるだけだとわかっていたので黙っていた。

 

 そういえばとアンヘルは思い返す。

 

 ――突拍子もない事件の繰り返しで忘れてたけど、彼女、召喚士について黙ってくれているんだろうか?

 

 彼女が紹介してくれた魔導高等医療院で治療している間、アンヘルは召喚士の能力について黙秘してもらうよう頼んでいた。しかし、あの状態の彼女に強く言いつけることもできず、そのまま解散してしまった。

 マカレナは善人ではあったが、ポロッと情報を漏らしてしまう秘密事にはまるで向いていない性格をアンヘルはあの短い付き合いで何となく理解していた。

 アンヘルは、マカレナが父にどれ程情報を漏らしてしまったのか、急に気になって仕方がなくなった。

 

 たんたんとアンヘルがつま先で地面を打つ音が響く。

 

 ふたりは邸内に続く門の前で辺りを見渡していたが、数分も経てばそれにも飽き始めていた。美人は三日で飽きるとはよく言うが、動きもしない邸宅では尚のことである。

 

 ふと庭を眺める。

 庭園の奥、秋桜(コスモス)金木犀(キンモクセイ)など多様な植物で埋めつくされた小さなガーデンに、淡い藍色のカシュクール・ワンピースに包まれた少女が目に入った。

 

 退屈からか、脚が向いた。

 

「おいッ!」

 

 ホアンの咎める声が響く。

 

 後で考えてみればなぜそのような軽率な行動をとったのか、アンヘルは分からなかった。

 その姿に惹かれたと言われれば否定できない。それとも不安だったのか。雑事とは思えない少女から、今日の要件について情報収集をしたくなったのか。それとも、誰かと話して安心したかったのか。

 

 アンヘルは、ホアンの制止も聞かず、その少女に話しかけてしまった。

 

「あのー」

「あら、どなたかしら?」

 

 そう言って振り向いた少女は険しい目でこちらを見た。

 

 形のいい唇。浮世絵にでもありそうな細い鼻付きをした瓜実顔。幼さの中に見える儚さが黒髪に映えた。美しく、それでいて雰囲気のある少女であった。

 そして、なによりも特徴的なのは、車椅子に乗っていることだった。

 

 すべての印象がマカレナとは真逆で、それでいながらどこか共通する不思議な少女であった。

 

 ――なんか、深窓の令嬢って感じだなぁ。目はすごく怖いけど……。

 

「ええっと、ぼくたち、マカレナさんに呼ばれて来たんだけど……」

「ああ、噂の暴漢ね。姉さんを非行の道に引きずり込んだ」

「え゛。ぼうかん?」

 

 綺麗な唇から想像もできない暴言が飛び出す。アンヘルは一瞬何を言われたのか理解できなくて固まった。

 

「ええ。家で噂になっているわよ。バカな姉さんを巻きこんで一日中遊び惚けた末、ふたりとも傷だらけになって病院へ行って、馬鹿みたいに高額な治療費をスリート商会持ちにしてくれた間抜けな探索者さんのことよね」

「……」

「まぁ、間抜けというのが、本当に間抜け面だとは思わなかったけど」

 

 殴った拳を返して裏拳を与えるような少女であった。こちらが言葉を紡ぐ暇もなく毒を吐き続ける。見た目と中身が合わない人物というのは良くいるが、ここまで落差がある人間に遭遇したことはなかった。

 

「あら、だんまりかしら。間抜けな上に口まで動かないの? 可哀そうを通り越して哀れだわ」

「いや、ぼくはべつに――」

「ぼくって、子供じゃないんだから。もっと男らしくできないの? それとも、実は女なのかしら」

「ち、ちがう、ぼくは男で――」

「なら、男らしくすることね。そんなふうでは一生不遇なままよ。あなたの分身と同じでね」

 

 そういうと、口元を手で隠しながら薄く微笑んだ。絵になる仕草であるにもかかわらず、アンヘルには悪魔の嘲笑(ちょうしょう)にしか見えなかった。

 

 元来、男は女に口喧嘩では勝てないのである。口下手なアンヘルと弁達者な少女が対決すればどのような結果になるか火を見るよりも明らかであった。

 

 アンヘルは肩をガクッと落とす。完全な敗北宣言であった。

 

「あら、こんなのにも感情があるのかしら。意外ね」

「おい、あんた。いくら何でも失礼じゃないか」

 

 見かねたホアンが口を出してくる。

 

「事情はよくわからないが、人には引くべき一線があるだろ。いくらなんでも、言い過ぎだ」

「そうね。いくらバカな姉の為とはいえ、すこし言い過ぎたわ。えっと、あなたは誰かしら?」

「……ホアンだ。それでこっちは――」

「いえ、結構。ドブネズミの名前なんて知る必要はないわ」

 

 ホアンの紹介を一蹴する。上げて落とすとはこのことで、アンヘルのメンタルHPはレッドゾーンを爆走中だった。

 ホアンもお手上げと首を振った。

 

「それで、ドブネズミさんはどうしてここにいるの? あなたの住処はここじゃないわよ」

「ぼくはドブネズミじゃ――」

「ドブネズミ意外なら何がいいの? 借金まみれかしら? 好きに選んでいいわよ」

「……」

「ほら、そんなのだから、いつまでたっても間抜けなのよ。さっさと答えなさいよ。どうせいつも間抜けとか言われているんでしょう?」

 

 ――間抜けなんて正面きって呼ばれたのははじめてだよッ!

 

 そう言い返したかったが、出来なかった。言い返せば十倍で殴り返されると分かりきっていたからだ。

 なお、アンヘルは村では間抜けに近いあだ名を付けられていたことを知らない。

 

「……ドブネズミでいいです」

「そう、それでドブネズミさん。あなたはなぜここにいるの?」

「えっと、マカレナさんに呼ばれたからで……理由はよくわからないです。……えっとあなたは?」

 

 アンヘルの質問を鼻で笑った。

 

「私はアリベール。マカレナの妹よ。覚えなくていいわ。……それにしても、なぜ呼んだのかしら。いちいち呼びつける必要なんて――」

 

 最後の言葉はほとんど聞き取れないくらいに小さな声になっていた。元々、アリベールはアンヘルたちと会話する気がないのだろう。こうやって会話の最中に思考を巡らしているのがいい証拠だった。

 

「おい、アンヘル。なぜこの女に話しかけたんだ。口が悪すぎる」

「ご、ごめん。けど暇だったから」

「そんな理由で話しかけるな。はやくお暇するぞ」

 

 ふたりしてこそこそ話始める。ふたりはこの棘を持つバラのような美しい少女から逃げたくてたまらなかった。ただし、棘が大きすぎて「美しい花は棘を持つ」ではなく「棘を持つ美しい花」といった風だったが。

 

「聞こえているわよ?」

 

 アリベールはアンヘルをギロっとにらんだ。蛇に睨まれる蛙と相違なかった。

 

 アリベールはふうと息を吐くと、車椅子の取っ手に手を込め、ゆっくりと立ち上がる。そして一歩二歩と歩き出した。その足取りは生まれたての小鹿よりはマシという印象で、人間の力強さを感じさせる姿ではなかった。

 

「その、歩いて大丈夫なんですか?」

 

 ホアンの早く別れを告げろという視線が突き刺さるが好奇心から尋ねてしまった。

 アリベールが意表を突かれたようにして驚きの顔を作った。

 

「あら、気になるの? ふつうの人は気を遣って何も言わないのに」

「いえ、すこし気になっただけで……」

「まぁ、そうよね。あなたのようなドブネズミさんに気を遣って貰おうとして私が愚かだわ」

「……はい、すみません」

 

 もういいやとアンヘルの頭が言った。この人と対話するのは諦めて、さっさと門の前に戻ろうと思ったときだった。

 硬質な、これまでとは違う強い意思が込められた言葉をアリベールが放つ。しじまを彼女の意思が切り裂いた。

 

「あなたは、自分が歩けることをどう思う?」

「へ?」

 

 予想外の質問であった。

 歩けることについて何か深く考えたことはない。歩くとは手段であっても目的ではないのだ。そこに意味など求めない。

 

 きょとんとしたアンヘルを馬鹿にするようにして、アリベールは笑った。けれど、その瞳はカケラも笑ってはいなかった。

 

「そうよね。あなたたちみたいに普通の人は歩くなんて意識しないものね。けど、私からすれば、羨ましくてたまらないわ。……いえ、ごめんなさい。これは、他人に言っても仕方がないことね」

 

 そう言ったアリベールは愁然の面持ちで庭内の花を見つめる。そこには、これまでの毒とはちがう硬質な隔たりがあった。

 その横顔に気圧されたアンヘルは、その空気の中で立ち尽くしていた。

 

 アリベールは切り替える為なのか、一呼吸置くと、通告するようにして一方的に告げた。

 

「ねぇ、覚えておいて。姉はどうしようもないバカで、何処で野垂れ死のうが知ったことじゃないけど、これでもスリート商会の長女よ。あなたのバカな企みに姉を巻き込んだら、商会のメンツにかけてあなたを許しておくわけにはいかないわ。それをしっかり理解することね」

 

 そう言い残すと、アリベールは車椅子に座りなおし、ふたりの前から去っていった。

 

「大丈夫か? おまえ、あそこまで言わなきゃいけないことでもしたのか?」

「いや……」

 

 もしかしたらとアンヘルは思った。

 彼女――アリベールは商会のメンツだなんだと姉のマカレナを下げる発言を繰り返していたが、もしかしたら姉を危険な事に巻きこんだ事に対して怒っていたのかもしれないとそんな疑問が湧いた。

 

 アリベールが去った後、マカレナが迎えにきたのはその数分後のことであった。

 

 

 

 §

 

 

 

「総額しめて200枚。それが君の治療費だ」

 

 立派な髭を蓄えた壮年の男が腕を組み、椅子に深く腰かけている。その口からしわがれた声で告げた。

 

「それに加えて嫁入り前の娘を一夜中引きまわしたのだ。いくら分別のない探索者といえども、どうなるか分かっているだろう?」

 

 壮年の男は部屋の中に入って来たアンヘルに一瞥した後は一切視界に入れず、机の上の書類に目を落としているばかりだったた。

 

 室内にはマカレナとホアンの姿はなく、武装をした護衛と思われる男が扉の前にふたりいるばかりであった。

 

 ――ぼく一人だけって、そりゃないよ……。

 

 ホアンとマカレナは、呼ばれたのがアンヘルだけだと言うと応接室で茶を飲むことになった。ホアンは半笑い、マカレナは謝罪に満ちた顔で去っていき、残されたアンヘルは孤独だった。

 そんな中で辿り着いたマカレナの父との面会は想像以上に過酷であった。

 

「いえ、その――」

「君に意見は求めていない」

 

 アンヘルの言葉は一刀両断された。

 壮年の男は手に持っていたペンを置きアンヘルをジッと見た。

 

「私が要求はひとつだ。君のような若い探索者が金を持っているとは思えないし、わざわざその程度のはした金を取り返そうとは思わん。良識を期待などしない」

 

 冷たい言葉、それ以上に冷たい瞳だった。壮年の男は探索者であるアンヘルの価値をこれっぽっちも認めてはいなかった。賤民(せんみん)以下、物乞いを処分するような冷酷さで告げる。

 

 ここまでくると悔しさなどは一切覚えなかった。

 

 もちろん、アンヘルの中には反論したい気持ちはあった。マカレナがついてきたのは自分の責任ではないと言いたかったし、殺人事件の調査で悪魔が出てくるなどとは思いもよらなかった。反論できる余地がなくはなかった。アンヘルの心は文句をいったが、頭だけは否定してきた。

 

 身分が違う人間に意見することは、高利貸しから借金をすることより遥かに愚かであると。

 

 身分差がないなどとは幻想だ。それは、この異郷の地に限らず、現代においても否定できない純然たる事実であった。地位、職業、年齢、人格、あらゆる場所で人間にはカーストが存在する。それが、集団ひいては組織を円滑にし、またその内部の構成員にとっても過ごしやすいことをすべての人間が本能的に理解しているのである。

 

 それは、アンヘルも例外ではない。むしろ、その生い立ちからより敏感であった。

 

 顔を伏せ、手を後ろで組み、卑屈に構える。礼儀作法に詳しくなどはなかったが、そうすることが正しいとわかっていた。

 自分を下げる。それこそが最大な礼儀であると。

 

 世界の不条理さでもなく、目の前の傲然としている男にでもなく、ただ自身の弱さに対してアンヘルは(わび)しさを覚えた。

 

 壮年の男はアンヘルの態度を気にもかけず続ける。

 

「いま、我々の商会に必要な魔石や部位を産出するダンジョンがスタンピードを起している。この街から離れていることから大規模な軍が動くのは先だろう。そこで、商会内で協力して傭兵や探索者を雇うことになった。スリート商会も10人ほど送ることになった。君にはそのひとりとして参加してもらう」

 

 そういうと、壮年の男はペンを握りなおした。その目はもうアンヘルを見てはいなかった。

 

 選択肢は「イエス」と「はい」しかなかった。

 アンヘルは小さく返事をした。

 

「詳細はその男に聞け。わかったな、ならすぐに出ていけ」

 

 アンヘルはその声にしたがって一礼すると、すぐに退出した。

 悔しさではない、それでいて似た暗いものが心の中に残った。

 

 

 オスゼリアに来てからの三連強制クエストにして、人生最大の苦行の旅が強制的に始まった。

 

 

 

 

 

 

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