イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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第七話:来路花は地に落ちて 下

 それからの数日間、アンヘルは少年義勇兵の訓練に努めた。

 イゴルからの信頼を通して他の少年たちとも仲を深めたアンヘルだったが、やはりリーダーとしての威厳を欠いていたのか、何時まで経っても少年たちに指示を徹底させるのは叶わなかった。

 

 打ち合い稽古に都合がよく、それでいて扱いやすい兄ちゃん。それが数日間の訓練で確立した地位である。本人としては真っ平であったが。

 

 アンヘル個人の立ち位置も変わった。変わらざるを得なかったというべきだろうか。いくら個人行動が多くとも社会性動物であるのに違いない。何かを頭と仰ぎ、群れなければ生きていけないのだ。

 

 元々、仲間内に居場所のないアンヘルはよく目立った。それを見かねたエルンストは派閥の人間にも引き合わせてくれた。知性溢れる学士、猛々しい武人、才気あふれる学士と能力あるエルンスト少年の仲間は若く、それでいて彼に劣らず才能の輝きを放っていた。

 数度言葉を交わしただけだが、彼らが優れた人材であるとすぐに分かった。

 

 知己を得るとはすばらしい事である。それが、未来ある徒であるなら尚更だ。しかし、思惑渦巻き、信頼できる味方が何よりも重要な傭兵達との間では良い方向へ働くはずがなかった。

 

 つまり、本人の意思にかかわらず、アンヘルはエルンスト派のシンパとして周囲から看做されるようになった。

 

 立ち位置が変われば環境も変化する。撤退派に属するスリート商会での居心地は、裏切者のアンヘルにとって(すこぶ)る悪いものであった。内心は撤退派の意見を否定できないどころか、むしろ賛成派に近いため、より気疎い思いを抱えることになった。

 唯一、仲間に迎合していない新入りの青年だけはエールを送ってくれたが、焼石に水である。

 

 そんな経緯で天幕内での居場所を完全に失くしていた。

 

 そこで手をあげたのがイゴル達であった。

 彼らは今回の迷宮スタンピードによって両親を失くしていた。イゴルは寂しかったのだろう。彼の刺々しさは、つまり、彼の内面の裏返しでもあったのだ。

 

 また、イゴルの姉には思惑があった。村では先行の見えない将来の不安が募っており、その中でも殊更、成人しているイゴルの姉は焦りが強かったのだろう。探索者としてある程度の実力を持つアンヘルは相手として不足はなく、この先の見えない現状で、人間が相手を求めるのは必然であった。

 

 イゴルの姉は積極的にとまでは行かなかったが、進んで世話を買ってでて、熱心に奉仕してくれた。

 彼女の女の魅力。ムチッとした太ももに盛り上がった双丘、時折見える腋の艶美さに心揺らされながらも、日々耐える暮らしを送ることになった。

 

 そんな三者三様の思惑が一致によって、まるで三人の家族のごとく日々を過ごしていた。

 

 アンヘルは朝起きて、来路花が咲いた花瓶の水を取り替える。そして、イゴルの姉が作る朝食を食べ、イゴルと共に訓練所に向かう。イゴルは訓練所で人が変わったようにしてかまってきた。「兄ちゃん、兄ちゃん」と付いてくるイゴルは、父親を失った代償行為だとしても、悪感情を抱かせるものではなかった。

 そして、日が暮れると家に戻り、夕食をとる。そして、イゴルやその姉としばしの間、緩やかな団欒を楽しむ。そして、大人の共同作業を姉と取り組むはずだった。妙に勘のいいイゴルがいなければ最後以外は実現した、異郷の地に来てからのはじめての緩やかな日々であった。

 

 しかし、現実は無情で、穏やかな日々は続かない。

 

 家に住み込み始めてから数日後、防衛派と撤退派の間で最終の話し合いが持たれた。日々激化する言い争いに終止符を打ったのは、ここ一帯を支配する領主軍が渓谷の防衛のために出陣したという情報であった。

 

 元々、折り合いの付かない話し合いであった。それでも、話し合いの席が持たれていたのは、(ひとえ)にエルンスト少年が持つ能力と見え隠れする家格のせいであった。大男が如何に優れた傭兵で、五十に近い傭兵を派遣できる商家のお抱えであったとしても、正面から支配階級の人間とやり合うのは避けたかったのだろう。大男との諍いは、そんな板挟みのもどかしさの顕れであった。

 

 しかし、領主軍に従うという大義名分を掲げれば話は別だ。領主の判断にしたがって撤退する判断をした傭兵たちの考えを改めさせるには、エルンスト少年は領主を直接問い詰める必要があった。しかし、立場を隠しており、領主に再考させる時間すらなく、傭兵団を引き留める理由を創出できなかった。

 

 傭兵たちはすぐさま撤退していった。

 

 アンヘルには選択の余地もなかった。情報が遮断されているためその情報を、話し合いという名の通告、退去の準備、そして漸く撤退が始まって村内ががらんどうになり、別れの挨拶としてイマノルだけが生き残ったら連絡してくれという台詞を聞いたとき初めて知った。

 

 スリート商会としてはさして重要ではない新人で、なんなら殺したほうが良いと指示されているのか、それとも単純に少年義勇兵にまとめ役が必要だったのか。アンヘルはあっさり置き去りにされた。

 

 なんとなくは察していた。こうなった以上、撤退側に与することはできないと分かってはいた。

 だが、青年傭兵の死にゆく者を見る慈しみと勇敢さを称える羨望の眼差しを受けたときは、これ以上もなく堪えた。

 

 しかし、覚悟は決まった。

 折を見て、少年義勇兵を連れて撤退すると。

 どれほど(そし)られても、どれほど蔑まれても、イゴルたちだけは救ってみせると。

 

 それだけが、自身に成せる唯一の事だからと。

 

 傭兵たちが去って数日経つと、モンスターを間引く人間がいなくなった事で明らかに存在密度が上昇していた。村の物見やぐらから見渡せば、至る所にモンスターを発見でき、周辺警備の危険度は加速的に上昇した。

 

 村民すべてが武器を取る。

 唯一、子供と未婚女性だけが隣町へ避難することになった。年長者には現実が漸く見えたのだろう。その決断を強行した。

 イゴルの姉は心配そうに、それでいて気丈に去っていった。弟に家族愛の証である来路花を、アンヘルに口づけをして。

 

 そしてまた数日後、事は起きた。

 

 迷宮から吐き出され続けたモンスターが限界を超え、大群をなして移動を始めた。

 

 怪物たちの行進が、地獄の濫觴(らんしょう)が、幕を開けた。

 

 

 

 §

 

 

 

 剣戦の煌めき、怒号と破砕音、そして血潮の臭いが辺りを支配する。曇天と戦場が交錯する草原は、暗澹(あんたん)たるものだった。

 

 パープルカーバンクルの投擲魔法を躱し、跳躍。青小鬼(ブルーゴブリン)の脳天に剣を突き刺す。剣を蠕動(ぜんどう)させ、脳髄を掻きだした。

 地面に足を着けると同時に、脳を掻き出された青小鬼(ブルーゴブリン)の腕を掴み仲間を殺されて唖然としている小鬼(ゴブリン)へぶん投げる。死体は数匹の小鬼を巻きこんで地面に転がる。

 

「はあぁぁああああッ!!」

 

 イゴル達少年義勇兵は、倒れ伏した小鬼に向かって槍を突き刺す。 喉頚、臀部、胸部をめった刺しにされた小鬼は不快な悲鳴をあげる。

 

 それを見たアンヘルは、続けざまに腰の鉈を投擲。パープルカーバンクルの胸部に突き刺さり、ブシュっと血流が吹き出る。

 そのまま疾駆し、倒れる死体から乱雑に鉈を引き抜くと、敵集団に向かって飛び込み回転。

 

 横薙ぎに振るわれた剣戟は小鬼達の胴をかち割る。桃色の贓物が腹圧に押されて排出。獣臭い血臭が漂う。

 内臓を掻き出されても命尽きない小鬼の顎を右足で蹴りつけ、その勢いのまま後方へ跳躍して退避。

 

 膝をついて息を整える。同時に、周囲の状況を見渡して怒鳴る。

 

「だめだッ、イゴル!! まえに出過ぎだッ」

 

 アンヘルたちが任された村の西門はダンジョンの真反対に位置しており、その防御の必要性の薄さから戦力が不足していた。当初配置されていた数人の傭兵・村の青年は開始早々攻勢の強い東門に向かっていき、今では傭兵の弓使いと老齢の狩人、そしてアンヘルたち少年義勇兵だけであった。

 

 彼らには叱責が届かない。指示を無視しているわけではない。ここにいる少年たち全員が戦場の空気に飲まれているのだ。それは大なり小なり、年長者たちも同じだった。

 

 舌打ちをすると立ち上がる。

 突貫してくるワルりんに向かって下から切り上げる。血潮が顔を汚した。

 

 ブッと口に入った血を吐く。そしてイゴルまでの最短距離を駆け抜ける。

 一歩二歩と疾走。通り道を妨げる障害を撫で斬りにする。断末魔の交響曲の中で一目散に走った。

 

 ――迷宮の中で戦うよりは、なんとかッ。

 

 迷宮のモンスターは強化の影響を強く受けている。そのモンスターが外界へ出てきた場合、通常よりもひと回りほど弱くなる。そのうえ、西門に廻ってくるモンスターは、スタンピード早期段階で生存競争に負け迷宮外へ脱出を図ったいわゆる負け組であり、西門の防衛機能を合わせれば十分に対応できる範囲内だった。

 

『塔』よりも一段落ちる強さであり、数多の戦いを潜り抜けてきたアンヘルにとっては手頃な相手だったが、しかし、素人である少年義勇兵はすでに限界を迎えつつあった。

 

「イゴルッ!!」

 

 扉の付近から走り出して、倒れたモンスターに止めを差そうとしていたイゴルの首根っこを掴む。そして、後方へ放り投げた。

 

「なんだよ、兄ちゃんッ! じゃますんな」

「飛び出ちゃだめだ、木柵の後ろから門を死守するんだッ!」

 

 二体のドラゴンシードが横を抜けようとする。その先には槍を震えて持つ、リカリスがいた。

 

 バックステップからの反転、減速しないままドラゴンシードを穂群斬り(ほむらぎり)の要領で両断。銀線が虚空を通り抜ける。

 

「抜けたのお願いしますッ!」

 

 おうと返答した弓使いの傭兵が、矢を射る。矢は風を切ってドラゴンシードに突き刺さる。敵は苦悶の表情を浮かべて倒れ伏した。

 

 ホッとしたのも束の間、イゴルがさらに飛び出す。そして青小鬼に向かって槍を突きだす。同時に、反対側でも少年の飛び出す姿が見える。

 

 イゴルの槍が躱され、反対に青小鬼の三又の槍が突きだされる。小さい身体から繰り出される槍芯をアンヘルは左手だけをイゴルの顔の横から出し、決死の思いで掴む。摩擦で左手の皮膚が千切れる感触。それでも、イゴルの胸、数十センチ手前で槍が停止する。同時に右の手で握る剣が眼球を抉る。悲鳴と同時に槍を握る手の握力が喪失。青小鬼の槍を奪い取る。

 

 反対側で戦いに戸惑っている少年を狙う獣へ槍を投擲すると、間髪入れず傭兵の矢が到来。獣は血を吹いて絶命する。

 

 少年の援護に老齢の狩人が腰の手斧でモンスターに斬りかかる。老齢とはいえ、自然と獣を相手に生き抜いてきた経験は侮れるものでない。狩人の手斧が小鬼の頭蓋を粉砕。脳漿(のうしょう)を噴出させながら手斧を引き抜いた。

 

 アンヘルはイゴルの手を掴んで無理やり門前の木柵の後方へ連行すると、堀を乗り越えようとする紫紺幽体(アメリット)の姿が映る。

 

 属性石という名の手榴弾を抱えて浮遊するゴースト系モンスターは一対一ならともかく、拠点防衛には神経を使う相手である。地形を無視して走破できる移動性能と範囲破壊攻撃は放置できない脅威だ。

 

 村の周りに張り巡らされている木の壁に鉈を突き立てる。そして、その刃の上に飛び左足を掛け、さらに跳躍。右足で壁の天端(てんば)を踏みしめ、横幅三十センチもない道を疾駆する。一歩二歩と平均台を移動するように走る。目の前に堀を越え壁を乗り越えんとしていた紫紺幽体(アメリット)の姿をとらえる。

 

 紫紺幽体(アメリット)が抱える属性石を投擲する。濃紫の属性石が投擲された。

 

 アンヘルはそれを横に飛び躱す。足場失ったため落下するが、代わりに紫紺幽体の尾をむんずと握り、共に堀の中に墜落。血が垂れ流しになっている水堀の中に飛沫(しぶき)を上げて落ちる。

 

 音圧の波が水分子を揺らし、伝播することでアンヘルの耳に紫紺幽体のくぐもった悲鳴が響く。屈折の影響で歪んだ体躯を眺めた。

 

召喚(サモン)

 

 水中に幼水龍シィールを召喚。水中という得意領域において、シィールに敵うものはそういない。

 

 シィールが紫紺幽体の胴体(かじ)り付く。歯圧に負けたのか、幽体は身体を保てず悲鳴を上げながら煙となって消えた。同時にシィールが背びれでアンヘルを水の外に弾きだす。地上へ出た瞬間にシィールを召還(アポート)。髪をかき上げて戦線に復帰する。

 

 ――これで六十三体目っ。

 

 戦闘開始から数刻は経っただろうか。当初はアンヘルと傭兵の二人で排除していたモンスターは減ることを知らず、徐々に押し込まれつつあった。

 

 中でも苦しいのは開戦当初から働きづめの傭兵である。

 とくに、射撃にはどうしても打起し、引分け(弓を引く)の際に胸筋、上腕二頭筋、後背筋を酷使する。打つ詰めである傭兵の疲労は大きく、先ほどから明らかに矢の勢いと精度が落ちていた。

 

 疲労に関してはアンヘルも他人事ではない。こうやって戦場を駆けまわる戦い方は連続で続けられるものではない。それでも、モンスターの練度の低さと時折見せる狩人のサポートにより絶妙な均衡を維持していた。

 

 攻勢が一瞬弱まったことで傭兵が近寄ってくる。中年のその男は、周囲をぎらついた視線で観察しながらもアンヘルに声を掛けた。

 

「はぁッ、なあ。どれくらいの余力があるッ」

「あ、後、持って一刻というところでしょうかッ!」

 

 視界の端で老齢の狩人が紫紺幽体(アメリット)を打ち落とす。

 

「お、おれはもう限界に近い。それに、矢弾が底をつくッ」

 

 そういって、腰の矢筒を見せる。後数本しか残っていなかった。

 

「け、剣の心得は?」

「あんま得意じゃねぇっ。女を落とすことよりは得意だがよ」

 

 どんな例えだと心で呟きながら、剣の血糊を反故紙(ほごがみ)で拭う。そして息をついた。

 

「あの、どうして村の防衛に残ったんですか?」

「ぁあ? なんだいきなり」

 

 中年の男は意表を突かれたのか、驚いた顔を作った。

 休息が口を開かせる。その口は率直な疑問を尋ねた。エルンスト少年の防衛派は若手で占められていて、彼のような中堅の傭兵は珍しかったからであった。

 

「シンパのお前に聞かれるとはな。それともなんだ、実は格好だけってことか」

「……」

「ハン、まあいいさ。……よくある話さ。村出身の傭兵が年食って辿り着いた村が、故郷に重なった。くだんねぇ理由さ」

 

 男は唾を吐く。

 

「そんな理由で、こんな戦いに残ったんですか?」

 

 今度はアンヘルが驚くことになった。故郷でもない村に過去の思い出だけで命を掛けるその精神を理解できなかった。

 男は破顔して笑う。若ぇ若ぇと呟いた。

 

「まだ、おまえさんには分かんねぇかも知んねぇけどよ。人が決断する理由なんざ三つくれぇしかねぇんだ。理想か、義務か、それとも過去か。結局よ、傭兵として色々ワリィ事やってきた俺も、そこいらの奴らとなんも変わらねぇんだよ」

 

 しみじみと呟いた。鳶色(とびいろ)の瞳が苦悩の色を浮かべる。

 アンヘルは男の悲壮感を感じ取って息をのんだ。

 

「おまえこそ、なんでこんなところに居やがる。ここは死地だぜ、間違いなくな。ぜってぇ生きては帰れねぇ。それなのに、義憤心に燃えてねぇなんざ自殺志願者もいいところだぜ」

 

 男は煙草に火をつけて、煙を吐き出す。視界の端では、リコリスが属性石の炸裂に驚いて尻もちを着くのが見えた。

 間髪入れずイゴルが飛びだしていく。「あいつは長生きしねぇなぁ……」と男は呟いた。老齢の狩人が援護に入るったのが目に映る。

 

「それは……」

 

 イゴル達のように下手な誤魔化しは通用しない。芝居が下手なアンヘルは嘘も下手だった。問い詰められ、返答に詰まった。

 

 男は「若いってのはバカだねぇ」と笑った。嘲る笑みではなく、懐かしいものを見る郷愁の笑みだった。

 

「まあ、いいんじゃねぇのか。もしかしたら、生き残れるかもしれねぇぜ。気づいてるか? さっきから、南から迂回してくる連中が減ってやがる。もしかしたら、スタンピードも打ち止めってことなのかもな」

 

 それは、と呟く。そういった男の声にも空々しさだけがあった。

 

「……それは、南門が抜けたという事じゃありませんか? 北門の迂回は変わらないままです」

 

 南門から迂回してくるモンスターが減ったとなれば、殲滅されたか、それとも突破されて村の中に侵入されているかのどちらかである。北門から迂回するモンスターが減っていないのならば、突破された可能性が高かった。

 アンヘルは考え得るかぎり最悪の可能性を述べる。

 

「もしそうなら、ぼくたちは後方からの攻撃に晒されること――」

「やめろって。んなのわかってんだよ、気休めさ、気休め」

 

 これだから坊ちゃんてのは気休めが通じねぇから嫌になんだよと呟くと、暗い声でいった。

 

「さっきから真後ろで怒号が聞こえやがる。おそらくだが、ほかのところが抜けやがったんだろうな」

 

 男は煙を吐き出す。遠くでイゴルの「俺はやれるんだッ!」という叫びと狩人の制止する怒鳴り声が聞こえた。

 

「そもそも、土台無理なのさ。モンスターを狩り尽くすならともかく、村を防衛するなんざ不可能に決まってやがる。人が影響を及ぼせる範囲なんざ決まってらぁ。あいつらリーダー連中が守ってる東門は生き残るかも知れねぇが、他のところは抜かれて村は崩壊さ」

 

 煙草を地面に放り、足でぐりぐりと火を消す。

 

「ここが、もう限界なのさ」

 

 覚悟していたアンヘルですらゾッとする昏い響きだった。

 力なく男は笑っていた。

 

「ほら、来やがったぞ、お客さんだ。盛大にパーティを開いてやらんとな」

 

 男はニヒルに笑って矢を数発放つと、終わりとばかりに弓を投げ捨て、腰の剣を抜く。アンヘルもそれに合わせて、剣を水平に構えた。男に指示されるまでもなく、招かれざる客の集団に突貫。

 

 刺突、撫で斬り、切り上げ、回転。残ったモンスターを水堀に叩き落として、相棒のシィールを召喚。悲鳴を上げさせる間も無くモンスターは水底に沈む。代わりに紅い血が水面を染める。

 

「イゴルッ。飛び出しすぎだッ! こっちにもどれ」

「うるさい兄ちゃんッ! いま、ここで頑張んなきゃ、何時頑張るっていうんだッ!」

 

 青小鬼の三又の槍を跳躍して躱す。そして、青小鬼の頭部の右半分に足を掛け、頸骨をへし折る。

 飛び降りると叫んだ。

 

「君は少年団のリーダーだろッ! リコリスをサポートしなくてどうするんだッ!」

 

 語気を意図的に強める。戦うことに必死なイゴルには届かなかった。

 しかし、瞬く間に周囲のモンスターを斬り殺したアンヘルの勢いに押されて、一瞬怯む。

 

「……けどッ、兄ちゃん。前で倒したほうが、リコリスのところには行かないよッ!」

「それは君がひとりで相手を打ち倒せる力がある前提だッ。いまの君じゃ、正面から戦ったら勝てないぞッ」

 

 老齢の狩人の額には大粒の汗。彼がイゴルをサポートするため、限界を越えて身体を酷使していることは明白であった。

 

「なんだよッ! 兄ちゃんもおれを除け者扱いすんのか。バカにすんじゃねぇ!!」

 

 イゴルがアンヘルに掴みかかろうとする。

 終わらない戦いに、少年義勇兵は限界を迎えつつあった。

 

 また少年たちが持ち場を離れて、水堀や木柵でからめとられたモンスターの止めを差そうとする。

 もう少し集団戦に長けた人間が居ればとないものねだりをした瞬間、後方から衝撃が轟いた。

 

 轟音。

 岩がぶつかったような重量のある轟音とともに、濃紫の槍が門から二本突き出ている。そして、その二本の槍が門の向こうに消えたと思うと、再度出現。門の別の箇所に穴を開ける。

 

 (かんぬき)に当たったのか、門が開いていく。同時に、門に風穴を開けたモンスターの姿が見える。

 

 両手に構える濃紫の双槍が妖しく光る。頭部は大仰な装甲で覆っておきながら、胴体部分は軽量化のためか薄い。尖った二本足が木偶人形(ゴーレム)という名の殺戮兵器に似合わぬ速度と俊敏性を可能にする。紫色の殺戮兵器(ダークゴーレム)。紫水晶の洞穴において突出したキルスコアを誇る、怪物である。

 

 その後方から、ぶよぶよ不思議生物の親玉、デカワルりんが襲来。その後方から覗く村は、悲鳴と炎に包まれていた。

 

 ――リコリスたちが危ないッ!!

 

 リコリスたちは、自分たちのすぐ真後ろに顕れた巨躯のモンスターに驚愕したのか、震えて動けない。身代わりとばかりに、傭兵が飛びかかる。

 

 ダークゴーレムの無機質な四つの機械眼が煌めく。同時に右の槍が構えなく突きだされる。

 突き出された槍は男の腹部を貫通。ダークゴーレムは獲物を掲げるようにして、中年の男を宙に掲げた。

 

 男の口がゆっくりと動くのが眼に入る。「あとは頼まぁ」と口を動かしたように見えた。

 

「うわぁああああッ!!」

 

 絶叫。

 アンヘルは一目散に駆け出す。

 

 ダークゴーレムは次の狙いを定めたのか、物言わぬ死体となった男を堀へ投げ捨てる。そして、次の獲物であるリコリスを目標にして、槍を振りかぶった。

 リコリスは震えて動けない。

 

 リコリスが逃げられるよう躍り掛かろうとするが、デカワルりんの一体が向かって突撃してくる。ワルりんとは桁が違う突撃に、剣で受けるしかなかった。

 

 衝撃までは消せず、後方に吹き飛ばされる。同時に、濃紫の槍が突きだされるのが見えた。

 

 スローモーションで世界が流れる。リコリスの悲壮な顔と無情な紫紺の槍の間がなくなっていく。

 その無限にも思えた悪夢は、双槍がリコリスの小さな胸部と頭部に穴を開けたことで終わった。

 

 豆腐にフォークを突き刺した軽さで双槍が突き刺さった。

 

「てめぇええええッ! よくもリカリスをッ!!」

 

 イゴルの絶叫が響き渡る。

 

 ダークゴーレムはその声すらも愉悦を感じるのか、それともただの定められた行動なのか、串刺しにしたままのリコリスを宙吊りにする。

 

 そして両腕に力を込める。ぎりぎりと少しづつ開かれていく二つの槍に合わせて、リコリスの体は開かれていく。

 眼窩に開けられた穴が拡張され脳漿をまき散らし、胸部に空いた穴からは血流と白いモノが見える。万力のような力を加えられたリコリスの口からは、即死にもかかわらず(つんざ)くような不快な響きを奏でていた。

 

 臨界点を越え、双槍が勢いよく真横に広げられる。

 拡張に耐え切れなかったリコリスの身体は、身体を穴の空いた頭部とそれ以外のふたつに分割され、地に落ちる。開いた瞳孔からは、絶望と恐怖がありありと残っていた。

 

 リコリスの幼い身体の頸から、血液が流れ血の海を作る。その体を、ダークゴーレムは踏み潰した。

 

 絶叫。いや咆哮か。

 喉が枯れそうになるくらい叫ぶが、水堀に沈んだはずの男の手が縁に掛かっているのが見えた。

 

 思い出せ、何故ここにいるのか。傭兵やリコリスの復讐をするためじゃないだろと心に言い聞かせる。

 そして、目の前に立ち塞がるデカワルりんを切り伏せる。

 

「これ以上無理だッ! ぼくたちはここで村を放棄して撤退するッ!!」

 

 同時にダークゴーレムへ襲いかかる。目的は倒すことでも、無力化することでもない。ただ、リコリスの死体を見て震えている少年たちに襲い掛からないように意識を引くためだ。

 それでも、脇をぬけていくモンスターを押しとどめる事はできない。下がれと叫ぶも、逃げ遅れた数人がモンスターに(たか)られ、悲鳴を上げる。

 

 落ちているモンスターの死骸を盾に槍を躱し、機械眼に向かって鉈を投擲。四つあるうちのひとつに突き刺さる。

 ダークゴーレムは怒りを噴出させるようにして槍を振り回す。アンヘルはチャンスと見て、生き残っているひとりの少年を連れ、イゴル達の元にやってくる。

 

「撤退するッ! イゴル、君もいくよッ」

 

 老齢の狩人は疲れか油断か、足をやられていた。置いていくしかない。アンヘルは老齢の狩人に一礼すると先に進もうとする。

 

「何言ってんだ兄ちゃんッ! ここで撤退ッ!? あんたも、腰抜けの傭兵たちと一緒だってのかッ!」

 

 イゴルは石の槍を振り回し、老齢の狩人ににモンスターを近づけないようにしながら続ける。

 

「それに爺ちゃんは動けないんだッ!! ここに置いていくっていうのかッ!」

 

 老齢の狩人が悲痛な眼をしている。それが眼に入った。

 

 このわからずやがと怒鳴ろうとした瞬間だった。後方から悲鳴が上がる。連れてきていた少年が青小鬼の槍が胸部を突き刺さっていた。

 クソッと叫ぶ暇もない。反射的に手に持っていた剣を閃かせ、青小鬼の頭蓋を半分に寸断。パカッと開き、うねうねしている脳みそが現れた。

 

「このままじゃ、皆死んじゃうんだッ! 見ただろ、ここで死にたいっていうのかッ!」

「それでも、オレたちの村なんだッ! 今ここで戦わなきゃ、いつ戦うっていうんだッ!」

「だからって、無駄に死んでも意味ないだ――」

 

 言い切る途中で、ダークゴーレムが濃紫の槍を振りかぶるのが見える。そして投射。うねりを上げて、槍が到来する。

 

 反応する暇すらなかった。

 飛来する槍をただ唖然と見守る。

 

 濃紫の槍は宙空に尾を引いて、真横を通り過ぎる。そして悲鳴。アンヘルは後ろを振り向いた。

 

 投擲された槍は、イゴルの脇腹を貫通。そして、倒れている老齢の狩人の頭部に刺さっていた。

 

「に、にいちゃん……」

 

 イゴルが血を吹き零しながら、地面に倒れる。

 

「あぁあああああああああ!!」

 

 相棒シィールとリーンを召喚(サモン)。シィールに冷気放射を、リーンにイゴルの治療を指示する。

 亜空間を作りだすかと錯覚させるほどの強烈な冷気を周囲に放射。その隙にイゴルを背負った。

 

 シィールが作りだした道を駆け抜ける。リーンはアンヘルの肩に飛び乗り、治癒を始めた。

 

 向かってくる敵を切り伏せる。足が重たい。あれほどいた少年たちや仲間はもういない。残ったのは、アンヘルと重症のイゴルだけだ。

 

「イゴルッ、がんばって、頑張ってッ! 街に行けば、医者が、医者がいるんだ」

 

 血に飢えた獣たちが跋扈(ばっこ)する草原を駆け抜ける。モンスターを切り伏せ、水たまりを踏みこえ、木々を迂回する。

 

 もう力が入らない。足が棒のように痛んだ。それでもアンヘルは走り続けた。

 

 背中にかかる暖かい命の水が足を突き動かす。走る、走る、走る。

 盛り上がっている丘陵を越える。後方には、轟轟と煙の立ち上がる村が小さく見えた。

 

「に、にい……」

「喋るなッ! だいじょうぶ、絶対にだいじょうぶだからッ!」

 

 アンヘルは止まらない。止まれない。

 若き命が、前途ある少年の未来が尽きようとしているのだ。止まるわけにはいかない。

 

 いや、違った。そんな他人行儀な考えではない。

 イゴルは、彼はアンヘルの現身で鏡なのだ。

 

 イゴルとアンヘルはまったく似ていない。けれど、イゴルを他人だとは一切思えなかった。

 

 アンヘルは傭兵の言葉を思い出す。

 なぜこの村を守っているのか。それは理想でも、義務でもなく、ただひたすら過去に、現状に縛られているのだ。イゴルはアンヘルなのだ。村人として日々を過ごしており、押し寄せる不条理に四苦八苦している。村人として、そして探索者として過ごしているアンヘルと何も変わらない。

 

 そしてイゴルの未来はアンヘルの将来を映しているように見えたのだ。力ない人間の、ありきたりな末路を。

 

 イゴルを死なせるわけにはいかない。

 それは、ただひたすらに、自分自身のためだった。同じ境遇・過去を持つ人間の人生の結末を直視したくなかった。自分勝手で、自己中心的で、ひたすらに自分本位な願い。それでも、イゴルには生きていて欲しかった。

 

 駆け続ける。

 草原を抜けて森に入る。早く走りすぎた影響か、途中で右手を葉で切り裂いた。ドロッとした血が流れ出る。剣を握る手から力が抜ける。それでも、イゴルを背負う力までは抜けなかった。

 

 目の前にドラゴンシードが現れる。アンヘルは、もう戦えない。

 

 相棒のシィールを召喚する。門から飛び出したシィールはドラゴンシードに噛みつく。相手には突如現れたシィールを躱す術なかった。

 

 首元に回しているイゴルの腕が急速に冷たくなっていく。

 そして、それに合わせ軽くなる。疲労が溜まっていく身体に反比例し、軽くなるイゴルの身体。

 

 避けようもない未来を幻視する。それに蓋をして走る。走った。

 

「い、いまは、よるなの?」

 

 イゴルが掻き消えそうな声で尋ねる。目を(しばた)かせていた。

 

 空には重い積雲が集り、光は木々に遮られているとはいえ、まだ日中で暗闇にはほど遠い。けれど、イゴルは周囲の物に反応しない。彼の目は、もう光を映していない。開かれている目はただの飾りだった。

 

 アンヘルの背中に意識が行く。そうすれば、否応なく命の水がこぼれていることがわかる。ドバドバと、とめどなく。

 

 リーンが悲壮な顔で顔を振っているのが目に入った。ふるふるとこれ以上は無理だと。

 

 うるさいと怒鳴る。リーンは叱られれば身体を縮こませるが、今はただ粛々と回復を続けた。癒しの光がイゴルを包む。

 

 はやく、はやく、はやく。駆けつづける。

 隣町までは徒歩で数日かかる。しかも今は森の中を走り抜けているのだ。街に辿り着くには、それ以上掛かるだろう。

 

 イゴルには今すぐ医者が必要だ。数日後なんて意味がない。そんな理屈は分かりきっていた。

 けれど、走った。

 

 理屈じゃない。ただ走った。

 ただ、イゴルを生かしたいという一心で。

 

 半刻は走り続けただろうか。疲れた身体でイゴルを背負ったまま、走り続けた。

 けれど、それは唐突に虚空から飛び出たシィールがアンヘルの腕を引っ張ったことで終わった。

 

 なんだと聞こうとして、シィールの哀しい瞳が映った。その瞳は、背中のイゴルをただジッと見ていた。

 

「に、にいちゃん……」

 

 小さな、小さな、葉擦れにかき消されそうな声が響いた。

 アンヘルは諦観と絶望を綯交(ないま)ぜにされた気になりながら、イゴルを地面に横たえた。

 

「……どうしたの?」

 

 アンヘルは優しく尋ねる。

 

「ね、ねぇ、ここは、どこ、なの? オレ、もう何も見えないよ」

 

 息をのんだ。

 ただの森、ただの木陰だ。その言葉を封じ込める。

 

「……ここは、ここはルゴスの村だよ。……ほら、あっちにお姉さんの声が聞こえるでしょ」

 

 咄嗟に嘘を吐いた。もう、イゴルの目は何も映していない。ただ、暗闇が広がっているだけだった。それでも、その嘘に目は喜びを表した。

 

「そ、そっか、それじゃ、オレたち……むらをま、まもった、んだね。へ、へへ、やった。やったなぁ」

 

 イゴルの眼から涙がこぼれる。そして、ぼそぼそと口を動かした。

 

「けどさぁ、オレ、し、しんじゃうのかなぁ……。なんか、もう、からだ、がうごかない、んだ。に、にいちゃん」

 

 イゴルは続ける。

 

「いやだなぁ、し、しにたく、ないよぉ。にいちゃん」

 

 眼前が涙で滲む。

 その滲んだ視界の中でイゴルの身体を見た。腹部に空いた穴からは臓器がゴソっとなくなっており、そこからは腸の残りが覗いていた。穿たれた穴は想像以上に大きい。

 血が噴出するように流れ出ている。黄色がかった肌から血が抜けたため、イゴルの身体は色白を通り越して青白くなっていた。

 

 アンへルは涙声でイゴルに語りかけた。

 

「だ、だいじょうぶっ! ほら、いまお医者さんが来てくれたから。ほら、だから、ひと眠りすればもう元通りだよ。し、心配なんかないってば」

 

 涙を零しながらも、空々しい明るい声で答える。

 

「そ、そっかぁ。じ、じゃあ、なおった、らたんさくしゃに、なろうかなぁ。おれもさ、にい、ちゃんみたいにさぁ……」

 

 もう、ほとんど聞き取れない。泣きながら、嗚咽を漏らしながらイゴルの口元に耳を寄せて言葉を読み取った。

 

「できる、できるよイゴルならッ! だから、だから――」

 

 命の灯が消えようとしている。イゴルのあらゆる所から力が抜け、生気が失われていた。

 

 アンヘルは神に祈った。この異郷の地に送り込んだ何者かに祈った。

 このか弱き少年を助けてほしいと。生涯ではじめて、心底なにかに縋った。

 

「へ、へ。にい、ちゃんが、そういう、なら、できるかなぁ……」

 

 イゴルは最後にそう言うと、二度と動かなくなった。

 

 頭を抱えて、膝を突き、蹲る。村を見捨てた傭兵たちに、無謀な選択をした若武者たちに、残酷な世界に呪詛を唱える。それよりも大きい、自分自身への無力感をひたすらに呪った。

 

 力なき自身。何も成せない、少年すらも救えない自分自身を呪った。

 その呪いは、ただ自身に跳ね返った。

 

 呪いをイゴルの前で吐き続けていると、シィールが主人を慰めるためか手の傷口を舐める。

 

 くぅーんと小さく鳴いた。同時に身体を擦り合わせる。その体表が、明らかに青くなっていることに気が付いた。

 顔を上げる。シィールの全身は深青に染まり、額から伸びる角は桃色の鋭利なモノに代わっていた。体格もひと回り大きく成っており、以前のシィールとはまったく違うものだった。

 

 【若水龍プレシィール】への進化であった。

 アンヘルは先ほど、シィールがドラゴンシードを噛みちぎった事を思い返す。そして、【幼水龍プレシィ】の進化条件がドラゴンシードであったことに思い至った。

 

 けれど、その姿を見てより暗鬱な気持ちになる。

 

「……ちがう、ちがうんだよシィール。必要なのは、僕たちに必要なのは、そんな力じゃないんだ」

 

 蹲ったまま、地面に顔を付けた。

 シィールは主人を慮るようにして、首をくぅーんと傾げた。

 

 ――違うんだ。そんな力じゃ、飲み込まれるだけなんだよ……。

 

 涙が滂沱の如く流れた。泣き続けた。それを分かち合うようにして、シィールは隣に寄り添っていた。

 蹲ったまま、数刻が流れた。漸く日も暮れ、雨が降ってきたところで、立ち上がった。

 

 そして、イゴルの遺体を背負って、歩き始めた。

 

 

 

 §

 

 

 

「申し訳ありませんでした」

 

 隣町に着いたアンヘルは、そのぼろぼろの身なりのまま、イゴルの姉に頭を下げていた。目の前には、イゴルの死体が横たわっていた。

 

「弟さんを死なせてしまったのは私の不手際です。謝罪の言葉もありません」

 

 能面のような顔のまま、頭を下げ続ける。友人たちに身体を支え続けられているイゴルの姉は、アンヘルの謝罪を最後まで聞き続けていた。

 一言一句、最後まで。

 

「お詫びのしようもありませんが、本当に申し訳ありませんでした」

 

 謝意を告げると顔を上げて、イゴルの姉を直視する。彼女も、アンヘルの顔をジッと睨みつけていた。

 

 友人たちに支えられていた身体に力を入れて、ツカツカと歩み寄る。そして、右手を振りかぶった。

 パシンと乾いた音が鳴る。

 

「こんな、こんなことをして悲しくなくなると思っているのッ! どっかにいってッ!! 二度と私の前に姿を見せないでッ!!」

 

 女の悲痛な叫びが辺りを支配する。

 

「申し訳ありませんでした」

 

 最後にそういって、踵を返す。

 すると、イゴルの姉の泣き崩れる姿がちらっと目に入った。

 

 それでも進んだ。他にできることなどなかった。ただ、進んでいった。

 

 イゴルがお守りとして渡された来路花は、泥にまみれて汚れていた。

 来路花の花言葉は家族愛。そのお守りは、地に落ち、散っていた。

 

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