イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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第十三話:無知ゆえに

 死んだ。彼女が死んだ。

 ありえない。拒絶の言葉が口から溢れる。

 

「そ、そんなわけっ。だって数日前に家の庭で――」

「だからこそ、よ」

 

 黒髪の麗人は言葉を区切る。部屋の窓は吹き荒ぶ風によって激しく揺れ動いている。部屋の灯りがはらりと舞う雪の結晶を照らしていた。

 

「あなたは、疑うに足る人物よ」

 

 彼女は罪状を数える判事のように、冷然と弾劾(だんがい)していた。

 

「あなたは、私の姉と親交のある人物。けれど、姉は突然婚約してしまったわ。さぞ、恨んだ事でしょうね」

 

 喉元がカラカラに乾く。視線が、投げかけられる言葉が、痛くてたまらなかった。

 

「動機があるうえ、ここ最近、姉の婚約者について調査していたわね。我が商会の護衛や事情に詳しい商人たち、そして、婚約者の実家である宝石店でもあなたが見つかっているわ」

 

 厳しい言葉を投げ続ける。背後の護衛たちが、ジワリと剣を握りしめていた。

 

「そしてなにより、姉は最近行きつけになったパティストリー・レイの道中で拐われたわ。姉の行動範囲を熟知していないと、できない事よ」

 

 深甚(しんじん)な憎しみの篭った言葉だった。部屋に備え付けられた蝋燭が揺らいでいる。壁に飾られた風景画が、灯りの明滅に合わせて暗い陰を落としていた。

 

「最後に聞かせてくれる? 姉を、マカレナ姉さんを乱暴するのはどんな気持ちだったの? 快感だった? 手の届かない花を手折る気分ってのは、どんな気分だったの?」

 

 彼女の瞳が微かに潤んでいる。しかし、その奥に灯る激しい炎が、彼女の体の内側から焼き尽くさんと燃え盛っており、その熱が部屋の中を覆っていた。

 

「何か言いなさいよッ!!」

 

 叫んだ。ヒステリックで憤激に狂ったような声だった。

 

 ビリビリとした冷たい声が彼女の手元に置かれたカップを揺らす。注がれた珈琲が、波立っていた。

 

「……ぼくじゃない」

 

 問いただされたアンヘルには深い闇が降りてきている。それでも、震える心を押し殺して否定した。

 

「へえ、犯罪者っていうのは、お決まりの台詞を吐くのね。ほら、どうぞ。聞かせて。あなたがここ数日、家に帰らなかったと彼から聞いていたのだけど、それを覆す新事実でもあるのかしら?」

 

 ホアンに視線を向ける。額には流れ出る汗、強い焦燥感。アンヘルの近況を話したことに対する罪悪感かと思ったのだが、それにしては此方に意識を割いていない。どこか上の空のような空気すらあった。

 

「ちなみに、拐われたのは一昨日の昼。その時間帯、横の彼は私塾で士官学校試験の模試を受けていたことが分かっているわ。そして、あなたの目撃情報は一切ない。おもしろい回答を期待しているわ」

 

 怜悧な瞳が槍となって貫く。黒い瞳が、ただ怒りを湛えていた。

 

「……昨日と一昨日。ぼくは、湖を渡ったレイナルモンド港で荷運びの仕事を受けてた。今朝かえってきて、そのままの足で別の仕事に行った」

 

 突然の離別を癒す方法は人それぞれだ。

 酒に溺れ、薬で現実をねじ曲げる。それか、遊びで現実から逃げる。もしくは仕事に打ち込むことで忘れる。

 

 港での荷運びは探索者の仕事ではない。しかし、この年始の時期には港の働き手が激減する。誰だって、この凍える季節に働きたがるわけがない。半ば便利屋扱いされているアンヘルに、テリュスから白羽の矢が立ったのは半ば必然だった。

 

 アンヘルにとってもその提案は渡りに船だった。薬は危険で、暇を潰せる趣味もない。そして、酒は空虚だ。酩酊している間はごまかせても、酔いが醒めれば、忘れたはずの喪失感が押し寄せる。

 寝食忘れて仕事に打ち込み、泥のように眠る。痛みも悲しみも、時がすべてを彼方に追いやって、いずれ忘却してゆく。それこそが、神が授けた恩寵なのだ。

 

 ホアンに告げなかったのは一人になりたかったからだ。だが、結果的に疑わる原因となっていた。

 

「それは随分と都合がいいわね。事件が起きた当日、この街に居なかったと。それで、それを証明できる人物は?」

「……依頼をしてきた協会の受付嬢テリュス。それから、仕事先で同室だった探索者のノールとレガス。あと、現場監督のカルロスさんなら、確実にぼくのことを覚えていると思う」

 

 美しい顔が苦々しく歪む。憎悪を吐き出す紅色の唇が、口惜しそうに閉ざされていた。

 

 アリベールは長く逡巡していた。顔色は変わらなくても、瞳の色が憤怒と悲嘆を濃く映じていた。否定する材料は持ち合わせていないのだろう。彼女は振り返って護衛に確認の指令を下す。指令を受けた護衛の一人は、この寒空の中駆け出していった。

 

 静謐(せいひつ)が部屋を支配する。

 疑いが晴れたにもかかわらず、彼女の顔色は晴れない。むしろ、より(かげ)っていた。

 

「ひとつ、聞いても、いいですか?」

 

 彼女の黒眼(くろまなこ)が無言で先を促した。

 

「どうして、たった一人で調査しているんですか? あなたは、憲兵でも治安維持対策専門の騎士団でもない。ただの商会令嬢である、あなたが?」

 

 少女の顔が憎しみに染まる。

 

「理由が必要? 姉を殺した奴に裁きを与えることが」

「……それは、動機であって、調査する原因じゃない。あなたを突き動かす事情が何かあるんですか?」

 

 今度はアンヘルの冷徹な言葉が彼女を貫いた。非情な論理が、自身でもゾッとするほど、鋭利な刃物となって空間を切り裂いていた。

 

「……進捗が思わしくないのよ。目撃情報も、動機も、何もわからないのよ。ただ、可能性があるのはあなただけ。でも、それももう終わりね。なぜ、憲兵があなたを疑っていないのか疑問だったけど、裏が取れていたのでしょうね。今更だけど」

 

 自嘲気味に告げる。その諦めたような横顔は、姉のマカレナによく似ていた。

 

「条件が一致するのは、貴方だけだったのよっ。だから、これが最後だった。けど、それももう、終わったわ」

 

 茫然と天井を見上げている。疲れからか、身体を背もたれに預けていた。

 

「ねぇ、聞かせてくれる? どうして、姉さんと別れたの? どうして、姉さんは突然婚約したの? あんなに、あんなに貴方に入れ込んでいたのに。突然、別人になったように貴方のことを忘れたの? 姉さんは情の深い人よ。経営にはまったく向いていないけど、善良で優しい人」

 

 生きている間には言わなかったであろう言葉が、彼女の口から漏れる。姉妹の情が、ありありと照らし出されていた。

 

「教えて? どうして、姉さんと(たもと)を別ったの? あの姉さんが、どうやったらスッパリ綺麗に貴方のことを忘れられたの?」

 

 落ち着いた声。まったく変わらない音量。けれど、そこに悲痛さを見た。

 

「わ、かりません。ぼくにとっても、突然の別れ、でしたから……」

「そう……」

 

 沈黙が落ちる。ホアンの慌ただしそうな目が揺らいでいた。

 

「なら、聞かせて。姉さんとの最後は、どんなものだったの?」

 

 つまらないし、意味がない、とは言ったが、彼女には通じなかった。そこには、真相よりも姉の話が聞きたいという願望が有ったのかもしれない。ぽつりぽつりと、過去を語り始めた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 彼女は、個展以来、毎日のように部屋を訪れた。

 飲食店のアルバイトの日時はすでに告げてある。空いている日の朝にドアがノックされ、開くといつものようにマカレナが立っていた。

 毎日会っているにもにもかかわらず、彼女は満面の笑みを浮かべていつも「今日はどこにいく?」と元気よく言った。

 

 相変わらず彼女は活発で、その好奇心を生かして何処にでも行きたがった。アンヘルが飲食店のアルバイトをしているときにも店を訪れ、つまらない武器の整備にもついてきた。それどころか、洗濯、炊事、掃除すら手伝った。

 商家の令嬢ということもあり、拙い家事だったが、そもそもとして男所帯である。誰も特別なスキルなど持ち合わせてはいない。流石に炊事はやらせなかったが、整理整頓に関しては女性として一日の長があり、部屋に小物が増えていくにつれ華やかさが増していった。

 

 最終的には、仕事から帰ると、部屋にマカレナが掃除をして待っていることすらあるほどだった。

 

 これには、受験前のホアンも嫌がるかと思ったが、案外何も言わなかった。それどころか、歓迎していた様子すらあった。彼も男である。いい気分転換になるのだろう。部屋を片づけてくれる女に文句を言うほど捻くれてはなかった。

 

 彼女とアンヘルの間には常に会話があった。

 弁達者な男はいない。活発な彼女が常にリードして、若い男女が語り合うようなそんな類の話を続ける。彼女の活発さも、アンヘルの没個性も、二人の間にはアクセントに過ぎなかった。

 

 二人の間で一致する趣味は絵画だが、それとは別に彼女はひたすら読書に熱中していた。

 部屋に本はない。彼女が持ってきた本を広げて、ゆったりとした午後を過ごすのが日常になった。

 

 彼女が読むのは二十年ほど前に出版された詩集だ。現代詩、主に恋愛を詠った詩集である。

 じっとしていられない性格な彼女だが、読書をしているときに声をかけると「じゃましないでよ」と言った。

 

 字を読み書きできるようになったのはこの頃だったかもしれない。

 寝台に寝そべって本を読む彼女の隣で、ただじっくりと字を書き写していた。

 

 一番記憶にあるのは演劇だ。

 週末には、毎週のように大通りの劇場に通った。

 劇場では、美姫と呼ばれる大女優が舞台で大立ち回りを演じていた。彼女はゴダールだか、ウダールだか以外は認めないとか熱く語っていたが、アンヘルにはさっぱりチンプンカンプンで、ただただ頷くしかなかった。

 彼女は、劇の終わりに近づくとうって変わって目を潤ませ、悲劇の主人公に感情移入していた。そんな起伏に富む彼女が嫌いではなかった。

 

 このころになると、もう完全に彼女の好意は理解していた。男として嫌な気はしない。しかし、身分がまったく違う。それに、彼女は妹としてしか感じられなかった。

 ただそうだとしても、心地よかった。もうすでに失くした、暖かさがそこにはあった。

 

 最後は唐突だった。

 

 ある日、アンヘルが仕事から帰ると、マカレナはいなかった。その日はディナーの予定だった。

 ホアンは一人居た。どこか歯切れの悪い彼の佇まい、なぜなのか、吹雪く日だというのに窓だけは開いていた。

 

 数日立つと、マカレナは急に現れた。

 それは、最後に会った日。二人ではじめて遠出をした日だった。

 

 最初から不思議な旅だった。

 道中すら、ほとんど会話がなかった。

 

 冬の風が優しく吹いている日。

 デンドロメード湖のほとりの村まで日帰りで馬車旅行をした。

 

 山並みを白い雪が染め、湖にその色が映っている。アンヘルたちは湖面を見下ろすベンチにすわり、その風景を眺めていた。

 

 湖の空気は柔らかだった。何処までも、透き通って見えた。暖かい陽射しが、二人を包んでいた。

 

「寒くない?」と告げると、小さく「大丈夫」と返答した。

 

 アンヘルたちは、長い間、そのまま動かなかった。黙ったまま、そうやって座っていた。

 

 マカレナが肩に頭を乗せてきた。風が吹き、彼女の髪がさらさらと頬を撫でた。心地よさと、くすぐったさを感じた。

 

 そのことを告げようとして、彼女を見た。

 

 アンヘルは口を閉ざした。彼女は泣いていたのだ。その眼から涙が一筋、流れ落ちていた。綺麗な雫が尾を引いて、頬に跡をつくっていた。

 

 そして、その瞳には静かな諦めの気配があった。目の前には、繊細なうなじがある。なにかが、なにかが過ぎ去ろうとしている。その場では分からなかったが、別れだったのだ。

 

 二人は、ただずっと無言で湖面に映る山々を見つめていた。

 

 言葉はない。けれども、言葉を紡ごうとしていたのだろう。ここに来ること自体が、何かのメッセージだった。しかし、彼女は口を噤んでしまった。

 

 マカレナが姿を消したのは、それからすぐのことだった。彼女が会いたいと思わなければ、会えない関係。身近にずっといたがため、それを忘れていた。

 

 整理はこの数日でついた。つけたはずだ。

 

 当然の事が起きた。ただそれだけだ。

 

 なにかの自然の流れにより、終点にゆきついたのだ。彼女は帰る場所を再び見つけたのだ。季節の巡りで移りゆく風のようなものだ。

 

 身分違いの関係。当然の成り行きだ。

 

 そう、思っていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 後日、就業時刻となると、ダビドは真っ先に仕事をあがった。要領がよくないとはいえ、元来生真面目な性格である。仕事の虫とも揶揄される彼が、不真面目な同僚を差し置いて早退きするのを、同僚たちは驚きながらも眺めていた。

 

 夜半に差し掛かる前、ちょうど黄昏時に家へ帰る頃には、母とララノアは仲良く夕飯の支度をしていたのだった。

 

「その、お帰りなさいませ。ダビドさま」

 

 ダビドに気がついたララノアが、おっかなびっくりな様子で深々と体を折って頭をさげる。白い前掛けが、夕陽に照らされて眩く輝いていた。

 

「ちょっ、いいって。ほら、顔を上げて」

「えー、べつにいいじゃん。ほら、なんか奥さんみたいだし」

 

 悪ふざけで家長に対する礼を教えた姪が意地悪く笑う。茶化されたことに、苛立ちを覚えた。

 

「こら、くだらないことを教えるんじゃないの。――ごめんなさいね。この子、ちょっとマセてて」

 

 母の雷が拳となって姪に落ちる。もういい歳なのに、いつまで経ってもやることはガキそのままだった。

 

「いえ、いいんです。これは、助けていただいたダビドさまへの感謝の証ですから」

 

 困ったようにララノアが返答する。

 そう返されると、どうしようもない。ただ、彼女には自由に、自分の意思でありのままにいて欲しいのにと、心の中で呟くしかなかった。

 

 ララノアが配膳する。

 容貌は一流を抜けて超一流の域にあったが、さすがに料理の腕までは一流とはいかなかった。

 

 そもそも風習が違うのである。使う食材や調味料も違うため、流石に二、三日で料理を完璧にこなせるようにはならなかったが、其れでも、筋は良かった。

 瞬く間に、料理の腕を上げていく彼女に、母ももうすぐ一人前だねと太鼓判を押していた。

 

 生まれてはじめて食べる母以外の女の手料理は、素直に美味しいと心から思える物だった。

 月並みな表現だが、雲から陽光が差し込んだような、そんな微笑みを見て、ダビドは、自分がこの美しい娘にどんどん傾倒していくことを自覚し始めていた。

 

 やがて、ダビドの務める検閲官事務所である噂が流れるようになる。

 それは、彼の家に居候している、家内同然の恋人ができたという話であった。

 

「あの、鈍臭いダビドのことだろ? どうせ、くっそ醜女に違いねぇ」

「いやいや、俺が聞いた話じゃ、年増な商売女の見受けをしたって話だぜ」

「あの素人童貞の彼女なんて、たかが知れてやがらぁ」

「けどよ、仕事の虫のあいつが、そんなもんに早引きしたりするもんかね」

「だがな、あいつの恋人なんて見たことがねぇんだろ? どうせ、毒物みてぇな顔に決まってやがラァ」

「まぁ、だろうな。誰か見たことがあれば、さっさとこんな噂もひっこむってもんだ」

「んだんだ」

 

 日頃の風評と相まって、件の恋人の評価は底辺を低空飛行していた。

 

 普通の人間ならここまで陰口を叩かれれば激昂しそうなものだが、アルン人の寛恕を持つダビドには迂闊に紹介できない理由がある。

 むしろ、ダビドには負け犬の遠吠えにすら聞こえていたところであった。

 

 手編みのマフラーを首に巻く。ララノアが編んだその緑のマフラーは、寒さを凌ぐだけではない、心の底から暖めるものだった。

 

 しかし、それを身につけるたび、事務所の同僚たちはわざとらしく近づいて、からかいの言葉を投げつけた。

 

「いやぁ、いいですな。手編みのマフラーとは」

「そうそう、愛が溢れてますなぁ」

「そんなばば臭い色。今時の若いもんが編むもんですかねぇ?」

「たしかに、たしかに。もしや、オフクロさんのもんってことはねぇよなぁ?」

「そんなんだったら、俺ぁ一生軽蔑するぞ」

 

 そんな揶揄いの中、ダビドだけは優越感に浸りながら薄く笑うだけだった。

 

「仕事の調子はどうだい? ダビド」

「ん? ああ、ラードか。別に、大したことはないよ。ただ、ちょっとばかり、気になることがあってね」

 

 居候の娘に対していくつもの噂が飛び交う中で、一足先に昇進した親友のラードが顔を出した。ブラッドはそんな彼に目をやらず、じっと地図を眺めている。

 その仕事一筋な様子に、ラードは失望を浮かべる。そして、深くため息をついた。

 

「なんだ、やっぱりダビドはダビドってことか」

「……? どういう意味だ?」

「だから、噂されている君の恋人の話だよ。まぁ、いいさ。どうせ、君に彼女がいるなんて少しも思っていなかったし。よし、次に飲みに行くのはいつにする?」

「はぁ、またそれか。だから、気にすんなって。そんな大した話じゃねぇんだから」

「まぁ、そうみたいだね。だって、こんなに仕事に打ち込んでいるんだからさ。はぁ、よかったよ。彼女ができたほうに賭けなくて。だって、一生素人童貞なんだから」

「……ぶっ飛ばされてぇんなら、最初からそう言えよ」

 

 ペンをゆっくりと置いて、ラードを見据える。

 巨躯のダビドに恐れを為して、慌てふためいた。

 

「いや、けど、みんな噂しているじゃないか」

「気にすんな、としか言えねぇんだよ」

「ううっ。わかった、分かったよ。ほら、そんなに脅かさないでくれよ」

 

 ラードは嗜めるようにして、両手を前で広げた。

 

「それにしても、なにを調査しているんだい?」

「ああ、これか」

 

 机にあった地図を広げる。それは、リックガルド集積所第四区画の地図だった。

 

「ここが、前の調査で踏み込んだところ。この色は今までも調査が入っている場所。それで、残ったこの場所がまだ調査に入っていない場所だ」

 

 しかし、説明されたラードの顔には疑問符。不可解の色が浮かんでいた。

 

「そんなの見たらわかるって。そうじゃなくって、なんでこの場所を調べているのってこと。第四区画なんて、この前の摘発以来、検閲官は危なくて立ち寄れないよ」

「まあ、そうなんだけどな」

 

 声のトーンを抑える。そして、耳の近くに口を寄せた。

 

「最近、禁制品の密輸があったってタレコミがあったんだ」

「え、ウソッ!」

「ああ、しかも、第一級禁制品だ」

 

 第一級禁制品。それは数少ない、見つかっただけで死罪が確定する代物である。それには、アルン人の人身売買も含まれていた。

 

 ダビドは誓う。

 絶対に、彼女を捕らえた奴隷商人を捕まえて、幸せな世界を作ってみせると。あの寂しそうな笑顔に、溢れんばかりの喜びをもたらしてみせると、自分に誓ったのだ。

 

「なぁ、俺を助けてくれるよな?」

 

 力強く、ラードの手を握る。

 そこには、鈍臭いと言われた男の姿はなく、力強い、活力に溢れた漢の姿があった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「ちょっと待って、あなた、姉さんの恋人じゃなかったの?」

 

 アリベールが驚いた声で尋ねた。後ろの護衛も驚いている。ここにきてはじめて、冷たさ以外の感情が渦巻いていた。

 

 アンヘルはゆっくりと頷く。

 

「そう、そうなのね。ここで、嘘をつく理由なんてないわけだしね。あなたの犯行じゃないことは、先ほどの報告で分かっている事だし……」

 

 長い語りの間に、探索者協会まで走らせた護衛の一人が帰ってきていた。彼がテリュスから聞き出した情報は、確実にアンヘルが街にいなかったとの事であった。そこには、すでに憲兵が情報を聞き出した後だということも添えられていた。

 

 これからも裏を取るのだろうが、出てくるのはアンヘルの犯行を否定する事実ばかりだろう。

 事実そうなのだから、当然といえばその通りなのだが。

 

 彼女は深いため息を吐いた。

 

「……あなたの父君、スリート商会の御当主は今後どうするつもり?」

「父は、姉さんには興味がないわ」

 

 吐き捨てるようにいう。

 

「父は、今傾きかけている商会を立て直すことしか興味がない。ずっと、長い間、魔道具技術に憑りつかれているわ。一族、皆そうなの。祖父が死んだときも、母が死んだときも、ずっと、そう」

 

 父親に対する言葉ではない。恨みですらない、無情がそこにはあった。

 

「父にとって姉さんが死んだことなんて、婚姻の駒がひとつ失われたに過ぎないの」

 

 彼女にとっては、父を糾弾するひとつの言葉でしかないのだろう。

 だが、アンへルはその言葉に打ちのめされていた。

 

 聞きたくなかった言葉。

 駒。駒である。その言葉だけは、絶対に聞きたくなかった。

 

 マカレナは、ずっとアンヘルだったのだ。

 幼い頃のアンヘル。昔、アンヘルはずっと駒だった。

 

 もう、ずっと昔。

 忘れたはずの記憶が、ぶり返す。

 

 嫌いな、大嫌いだった祖父の姿が蘇る。

 それは、ずっと、記憶の奥底に封じ込めていた苦い記憶だった。

 

 

 

 祖父はしがない県議会議員だった。

 他県の人間には顔すら思い浮かばず、役職すらない、平凡な県議会議員。それが、祖父の肩書だった。

 

 しかし、なにもない地方では、議員の肩書は絶対だった。

 すべての人間は、祖父を先生と呼び、影で恐れていた。祖父は、幼いアンヘルにとって、神に等しかった。

 

 父は若い頃、バンドマンだった。

 母は「音は兎も角、詩が良くてねぇ」と昔を語った。

 

 しかし、祖父の選挙区の支持者は保守層ばかりで、息子である父のバンドマンとしての印象が懸念の種となっていた。そこで祖父が取った行動は、父との縁切りであった。それでも父は地元に就職し、仲間とバンドを続けようとしたが、圧力をかけることで就職活動を妨害した。

 父は祖父の影響が及ばない他県に移るしかなかった。CDを出す寸前だったはずのバンドは、メインメンバーがいなくなって自然と解散に追いやられた。

 

 悪辣極まりない行為である。

 しかし、彼の行為はそんなことに留まらなかった。

 

 男のサガなのだろうか。晩年になると、男は自分の血を引く人間に何かを残したがるものなのだ。

 祖父にとって、それは自分の創りあげた選挙基盤だった。

 

 父に息子であるアンヘルが生まれたことを風の便りで知った祖父は、子供を取り上げた。流石に、子供だけというわけにはいかず、アンヘルは母と一緒に田舎へ越すことになった。

 父は単身赴任という形になった。就職氷河期、夢を諦め田舎から上京し、苦労して掴んだ父の苦労に対してまったく斟酌せず、子供を取り上げる。非情さを幼い頃からずっとアンヘルは見つめてきた。

 

 父にとっても、祖父は神だった。彼の言葉で海が開け、山は割れた。カラスを白いと言えば白いのだ。母も、すっかり、飲み込まれていった。

 

 アンヘルの好みは、つまり祖父の好みだった。

 祖父に逆らうことは、原初の殺人者カインに匹敵する大罪なのである。

 

 地獄から解放されたのは、偏に祖父が病で亡くなったからだ。

 

 今でも、その瞬間を覚えている。

 機械音がピーっと病室に響く。心停止を知らせる音だ。

 冷たくなっていく手を握る。溢れたのは、たった一つ、安堵だった。

 

 

 だがしかし、神と等しい祖父の言葉がアリベールの糾弾と混じって蘇っていた。心の中を神の声が支配した。

 

 神は人間の歴史を『取引』だと称した。

 取引の象徴、それが金であり、人を何処までも卑しくする。つまり、卑しさこそが人の本質なのであると語った。

 

 ずっと嫌っていた神の言葉を、否定できない。

 神の言葉は、非倫理的だったが、それでいて真実だったのだ。

 

 なぜ、なにかを求めるのか。

 

 富めるものは、夢を持ち、それをただひたすらに追いかける。彼らには、卑しさなど関係ないのだ。ただ、ひたすらに目標に向かってひた走る。

 

 それは知性でも、努力でもない。

 ぶれない。其れこそが、力を得る唯一の道なのだ。

 その重要性を、富める者は理解しているのだ。

 

 それに比べて、アンヘルのなんと貧しいことか。

 歳は十五かそこらだ。日本の記憶を合わせれば、三十近い。

 現代知識を持ち、身の丈に合わぬ技術を修める。剣術もこなせれば、身体は戦士の肉体だ。それに加えて、召喚の秘術を使う。それだけ優秀であるのに、ずっと、ずっと惨めに生きている。

 

 貧しい。ずっと、ずっと追い立てられている。

 その場限りの美しい物に飛びついてしまう。

 

 だからこそ、ひとたび見つけた安寧も、粉々に砕け散る。

 

 ホセを見捨て、イゴルを見殺しにして、クナルから糾弾される。

 マカレナも、この世を去っていった。

 

 若武者エルンストを心の中で罵ったのは、とどのつまり、夢持つものに対する僻みに過ぎない。賢しらぶって、悲観的に物事を捉えて、なんの行動も起こさない。

 

 欲望に従い狂った強欲者でもなく、理屈の通らないバカでもない。革命や革新を志し、理想に殉じてすべてを捧げる覚悟もない。それでいて、ただ清く正しく、時には小さく悪の道に逸れる只の一般人にすらなれない。善を信じ、正しさを信奉して、綺麗な世界だけを見ているくせに、悲観的に物事を捉え許容する。

 

 口だけ男。醜く地を這う貧しき愚か者。其れこそがアンヘルに相応しいあだ名だ。

 

 心に潜む、神の声がアンヘルを糾弾していた。

 いや、今までの経験すべてが糾弾していた。

 

 見捨ててきたすべてが、アンヘルを取り巻いて、泥のように固着していた。

 イゴルが、リカリスが、ホセの叫びがアンへルを貫いていた。

 

 過去が、神の言葉が、永遠に駒だと言っているような気がした。

 

 実力者、そして富める者たちの駒であると。

 

 オマエは、いつまでもコマなのだと。

 

 顔は真っ青だった。

 絶望が暗い影を落としていた。

 

「ねえ、ねえったら、大丈夫? 突然顔色が悪くなったのだけど」

 

 アリベールが心配そうな声を出す。

 冷たい美貌が、優し気だった。姉妹の、マカレナにそっくりな姿だった。

 

「い、いや、何でもないよ…………」

「そう……」

 

 もう死んだ彼女を、妹の少女に重ね合わせる。

 自身の愚かしさを自嘲した。

 

 もう、愚かなのは分かった。

 

 それでも、だからこそ、報いは受けさせる。彼女を穢した人間に、怒りの鉄槌を下してみせる。

 暗い炎が、心の奥深く、魂の底から身体を焼きはじめていた。

 

 強い意思が宿る。瞳には、力が戻りつつあった。

 

 アリベールは深く考え込んでいた。そして、意を決したように口を開いた。

 

「あなたに、依頼があるの」

 

 護衛に顔を向ける。すると、護衛は近くにあった黒塗りの革鞄を開いた。

 パカッと開かれたその中には、四角の箱があった。電子医療器具に似ている。白塗りの箱に、二つの差し込み口があった。

 

「これは、最新の魔道具*よ。人体を構成する細胞の一部を照合して、別々の箇所で発見された人物を特定するものなの。商会の、最先端技術が使われているわ」

 

 少女が続ける。

 

「これは法的な証拠にならないわ。けれど、事件解決の糸口にはなるはずよ。あなたには、姉さんの遺体から乱暴した者の体組織を取ってきて欲しいの。勿論、今姉さんの死体は騎士団の死体保管所にあるから、侵入することになるけど。お願い、できるかしら?」

 

 彼女も辛さを堪えているのだろう。

 当然だ。姉の死体を漁って、体液を取ってくるのだから。

 

 贖い。

 構うものか。何でもしてやると決めたんだ。

 

「ぼくができることなら何でもします」

 

 ちりちりと、炎が身を焦がしていた。

 

 

 




*魔道具:魔道具式DNA検査キッドと考えてください
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