イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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第十四話:砕けたつるぎ

「素晴らしい成果だよ。これで第四区画にのさばっていた破落戸たちを一網打尽にできた。これも君の入念な調査のお陰だ」

 

 背広に身を包んだ大柄な男が、口許に蓄えられた白い髭を歪めて笑っている。ダビドの手を握っている手はゴツゴツしていおり、武人らしい無骨な手だった。

 

「とはいえ根絶できたわけじゃないがな。根本のプロビーヌ商会は蜥蜴の尻尾切りをしてお茶を濁すだろう。だがあの不正人身売買にメスを入れることができたんだ。君は誇っていい」

 

 ガハハハと大仰に笑っていた。

 

 ダビドは日頃の鈍重さを脱ぎ捨てた後、月例会議にて第一級禁制品密輸情報を掴んだと声高に叫び、第四区画に大鉈を振るうことを提案した。すると、たまたま上役である幹部の目に留まった。

 

 ダビドにとってはララノアを不幸にぶち込んだ奴隷商人を捕らえたい一心だったが、その上役は元軍人であり、制御の効かない地域を苦々しく思っていたのだ。

 

 ダビドの執念は実を結び、大きな成果を残した。

 

 大成果に機嫌を良くした幹部は、ダビドを飲みに誘いそのまま意気投合した。終始上機嫌な上役に彼をよろしくと頼まれれば、事務所の同僚たちも配慮するしかなかった。

 

 数日後、事務所のナンバー2。老齢の主任監督官が体調を崩し、退職する運びとなった。万年ヒラの冴えない男だったダビドにはまったく縁のない地位だと思われたが、実績とコネを手に入れた彼は数多の候補を叩き落とし、数段越えの大出世、父すら超える地位を射止めたのであった。

 

「あんな奴になにができる」

 

 大出世に陰口を叩く者もいたが、現実は位がすべてだった。

 

 監督官といっても、然程仕事内容が変わるわけではない。長年に渡って仕事を押し付けられていたダビドは職場の誰よりも仕事に精通していた。

 

 実績と地位を持つ彼に公然と逆らえるものはいなくなった。少し前までは雑務を押し付けていた同僚・後輩は打って変わって犬のように尻尾を振るようになった。

 

 彼らは影で、醜女だと言われている恋人を罵ることで精一杯だった。ある日、バスケットを持った少女が現れるまでは。

 

「あの、ダビドさまはいらっしゃいますか?」

 

 金髪の髪を束ねた小柄な少女は、白のワンピースを身にまとい、おずおずと室内を見回していた。頭には大きな麦わら帽子をかぶっている。深く被っているためほとんど見えないが、その人並外れた容姿は誤魔化しようがない。

 

 不安そうに身を縮こませながら、小さなバスケットをギュッと握り込んでいる。男の庇護欲を誘う仕草と相まって、その少女の非凡さを称えていた。

 

「ララノア。もしかして、弁当を届けてくれたのか」

 

 その美しい少女は、元奴隷にして恋人のララノアであった。

 

 違法奴隷商人たちの本拠地が壊滅した今ララノアを縛るものはなにもない。恐る恐るも外の世界に興味が向かうようになっていた。

 

 ララノアは多数の人間から注目されたことに心細くなったのか、たたっと事務所の中を突っ切ると、事務所の奥のダビドに駆け寄った。

 

「おい、ちょっと待て。もしかしてあの娘主任の恋人か?」

 

「はは、そんなまさか。従姉妹とかそんなんだろう」

 

「けど、あんな美人な従姉妹がいるなんて話あったか?」

 

 ララノアはダビドに近寄ると心底ほっとしたように話し始めた。彼らの会話はいわゆる家の中の話で、同じ家に住む夫婦のような身近な人間の空気を醸し出していた。

 

 親友のラードも目を疑った。同僚たちが突然の大出世に文句をつけていたときも決まって擁護していた彼ではあったが、これ此処に至っては怒りの収まらぬ事案だった。

 

「おまえら、その、そういう、関係なのか?」

 

 その言葉に、ララノアは恥ずかしそうに頬を染めた。

 

 ラードは驚きのあまり脳が停止し、再び動きだしたときには上司であるダビドをこれまでもかと罵って早引きした。あまりにも失礼な反応である。ダビドは来月減給してやると心に誓った。

 

 その日から、ララノアは外出するようになった。とはいっても、その行動範囲はダビドの職場のすぐ近くに限られた。

 

 彼女は週に一度くらいのペースで事務所に訪れ、昼食を届けると近くの商店を見て回った。決まって事務所の近くのベンチにちょこんと腰かけ、ダビドが仕事を終えるのを待ったのだ。

 

 同僚たちは、文句一つ言わずに待つ少女を見て、だんだんとダビドを尊敬の念を持って接するようになった。

 

 勝ち組として女と地位を手に入れ、ダビドは絶頂期にあった。

 

 生活も落ち着いたララノアは、実家を離れてダビドの家へ越すことになった。元々、実家に通うのは面倒だった。彼女は拒否しなかった。

 

 たった二人、健全な男女が屋根の下で過ごせばなにも起きないはずがない。ダビドは健全な成人男性だ。性欲は当たり前のようにある。むしろ身体が大きい分、より強かった。

 

 正月が明けて、実家から帰ったララノアを見て、寝台へ押し倒したのは当然の成り行きだった。夜通しかけた行為は、二人にとって未知のモノだった。俯いてその白い肌を赤く染めるばかりだった彼女だが、未経験なせいもあり、ダビドの大きいモノにはたいそう痛がった。

 

 其れでも、事後には嬉しそうに微笑んでいた。

 

 それから数日経ったある日。ダビドは片膝をつきひとつの小さな箱を彼女に差し出していた。中には小さな宝石の嵌った指輪がひとつ輝いている。

 

 ――結婚指輪だった。

 

「君をこれからもずっと、ずっと守るから。だから俺と結婚してほしい」

 

 ララノアは面食らったようだった。それも一瞬のこと。心の底から嬉しそうにコクンとうなずいた。

 

 その顔には一筋の涙。そして名前にふさわしい輝かしい微笑み。

 

 数多の地獄を経験し閉ざされていた心が今、開かれたのだった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 翌日。日が昇るのと同時にアンヘルは行動を開始した。まず最初は遺体がある死体安置所に入るための手段を入手することだ。どこか焦燥感に揺れるホアンを連れたって、目的の中央区に赴いていた。

 

 目的の場所は知り合いの邸宅だった。大都市オスゼリアスでも十指に入る超がつくほどの大豪邸である。大庭園にそびえる白塗りの大豪邸。敷地自体はそれほど大きくなかろうとその荘厳な絢爛さは周囲の建物とは別格であった。

 

 その邸宅の門に向かって一直線に向かう。貸衣装屋から借りた背広を身につけて堂々と歩く。門番はホアンの一般人然としている格好に眉をひそめたが、一応なりとも礼装をしているアンヘルには礼を示した。

 

「止まれ、そこの二人組。ここはヴィエント家の所有する邸宅だ。此処にはどのような要件で参った」

 

 ピタリと静止する。そして、頭を下げながら告げた。

 

「この度は貴きヴィエント家が長子、ヴィエント侯爵令嬢さまに先日の御礼をと参りました。私のことは先々週の個展でお会いしたと尋ねれば、必ずや分かって頂けると存じております」

 

 仰々しく告げる。此処は今迄とは違う相手のフィールドである。一歩のミスが本当に死へ直結する。そもそもすべてがハッタリに過ぎないのだ。堂々と、そして大仰に告げることが肝要だった。

 

「ならぬ。此度は誰とも合うような予定は聞いておらぬゆえ、通すことはできん」

 

 当然と言えた。これぐらいの会話で通すようなら門番失格である。此処からが本当の勝負だと意気込みながら、堂々と語った。

 

「私はスリート商会の者として参りました。此度の事件は御耳に挟まれたかと思います。そのことについても少々時間を頂ければと思うのです」

 

 スリート商会は落ち目の商会ではあるものの、魔道具技術を用いるという性質から貴族界隈に太いパイプを持つ。その長女が殺されたとなれば、かなりの大事件であった。

 

 その話が少しでもあの翡翠の少女に届いていれば、必ずや面会できる筈である。後は、彼女の予定が空いているか。そして、門番からそこまで話が通るかという点に尽きた。

 

 結局、その天秤は成功に傾いた。門番には大きすぎる話だと判断したのだろう。その門番は名前を聞いた後、他の仲間に一言言うと、邸宅の中に消えていった。

 

「おい、結局だれの所なんだ?」

 

 ホアンが不安そうに尋ねてくる。

 

「まあ、気にしないで。どうせ入るのはぼくだけだから」

 

 今の格好のホアンを入らせるわけにはいかない。それに此処からは戦場である。彼は貴族に対してフランクに接した前歴を持つ。連れて行く気などさらさらなかった。

 

 幾分か待って、門番が帰ってきた。少しばかり意外な表情を浮かべていた。

 

「お会いになるそうだ。だが、粗相のないようにな」

 

 その言葉で門が開かれた。

 

 

 

 

 

「よくぞいらっしゃてくださいましたね。アンヘルさま」

 

 翡翠の君。ルトリシアはアンヘルが想像していた以上に歓迎の意をあらわして出迎えてくれた。テーブルには見たこともない高級そうな菓子がこさえられている。

 

 ルトリシアは慣れた手つきでティーカップに茶を注ぐ。そして、席に着いているアンヘルの脇からそっと皿と茶を置いた。

 

 ふんわりとした涼しげな香りが髪から漂ってくる。アンヘルは上位者たるルトリシアから給仕されたことで、恐縮しきりとなり茶を飲み終えるまでロクに受け答えもできなかった。

 

 一般社会ではジェンダー平等など望める筈もないが、意外にも、貴族社会は男女の差がない。それは、偏に魔法至上主義的側面を持っているからである。貴族とは、性差ではなく、その貴き血に基づく魔の法で差別されるのである。貴族の女性が茶会で給仕するというのは、魔法が発展していない頃の名残の一つであった。

 

「どのようなお味ですか? お口に合えば良いのですが」

 

「は、はひ、とてもすばらしい、お茶であります」

 

 ルトリシアはニコニコ微笑みながら、この茶はアッグア領から買い付けた茶葉であるとか、乾燥させ過ぎで風味が飛んでいるだとか、あなたはどこの茶葉がいいか、と尋ねてきた。

 

 いわゆる上流階級の遊戯、闘茶である。

 

 答えられる筈もない。緊張で味など飛んでいるし、茶の産地など知る筈もない。万年金欠のアンヘルは大抵水しか飲まない。

 

 ニコニコ笑ってはいるが、これが上流階級の教養ですよといわんばかりに茶葉談義に誘い込む目の前の少女の瞳には揶揄いの光が滲んでいた。

 

 ――知らなかったけど、性格悪。

 

 その後は政治、軍事、世情に経済など多様な話題を行き来した。アンヘルはおぼつかない知識を総動員しながら、なんとか話に喰いついた。

 

 この話を打ち切ることは許されない。なぜなら、これは面接と同義なのである。その会話は、祖父との会話に酷似していた。意見をただ述べるのではなく、相手の望んでいる話を予測して話す。涼しげな顔の裏で疲労困憊な自分を隠しながら、食らいつくしかなかった。

 

 カップの茶を飲み干したルトリシアが、さてと呟いた。

 

「あなたが私になにか頼み事をしたいということは分かっています。単刀直入にお聞きしますが、何が望みなのですか?」

 

 優しげな微笑みを浮かべるだけの少女はいなかった。顔は微笑をたたえている。しかし、目だけは昏く輝いていた。

 

「わ、わたしの望みはひとつです。ただ一つ、亡くなったマカレナさまの無念を晴らしたいのです。どうかお力添えをお願いいたします」

 

 椅子から立ち上がり、背筋を伸ばしてお辞儀をする。

 

「捜査に加わりたいと迄は申しません。ただ、自由にマカレナさまのご遺体を検分する委任状をお授けください」

 

 頭を下げ続けた。沈黙が続く。最終的に、少女は悲しそうな顔を作った。

 

「申し訳ありません。私には、騎士団の捜査に介入するような力がないのです」

 

 見た目だけは綺麗な言葉を紡いではいるが、嫋やかな微笑みの裏に副音声が降りてきていた。つまり、お前のために権力を行使する必要性がないと告げているのだ。

 

 だが、此処で挫けてはならない。激昂し、涙ぐんで情に訴えたところで優しく叩き出されるだけだろう。価値、アンヘル自身の価値を示さねばならないのだ。今まで生きてきた存在意義を示すのだ。

 

 アンヘルは平伏したまま尋ねる。

 

「で、では、私へお申し付けになる事柄はありませんか。微力な身ではありますが、なんなりとお申し付けください」

 

 ここまできて、ようやくルトリシアは逡巡に瞳を揺らした。これ程食い下がるとは思慮の埒外だったのだろう細く白い指で頬を触り、思考を彷徨わせていた。

 

「ではこう致しましょうか。ヴィエント家の者として日々の研鑽を忘れぬため、毎月二度、仕えている者たちの中から選抜して武闘技会を開いているのです。貴方にはその前座として力を披露して頂きましょうか」

 

 

 

 §

 

 

 

 アンヘルは半刻ほど待たされた後、貸し出された服に着替えて、邸内の庭、石畳を敷き詰めた遮蔽物のない決闘場に赴いていた。

 

 石畳の一角には観覧席らしきものがこさえられ、屋敷の上役と思われる年配の騎士数人がこちらを見下ろしていた。その中心では黒いドレスに身を包んだルトリシアが脚を組み微笑んでいた。

 

 決闘場に居並ぶのはアンヘル以外に三人の男たち。反対側にも、四人の男たちが並んでいた。

 

 通常、ヴィエント家恒例の月例闘技大会は選抜の六名によって行われる。観覧者たちは突如現れた闖入者に興味津々といった様子だった。

 

 ルトリシアはこの戦いを提案したにもかかわらず、

 

「貴方の対戦相手は士官学校で護衛を務めるハーヴィです。金剛流の優れた使い手ですが、若手という点を突けば貴方にも勝機があるやもしれませんね」

 

 という助言を残していた。

 

 退屈しているのだろうが、相手の流派を知れたのは都合が良かった。

 

 金剛流。東方一刀流と対をなす、多くの門弟を抱える流派である。特徴はなんといっても豪剣だ。流れるような連撃を信条とする東方一刀流とは正反対の流派で、どちらかといえば貴族に好まれる流派であった。

 

 進行役の若い騎士が開幕の笛を鳴らす。同時にアンヘルの名前が大きく呼ばれた。

 

 ふうと息を吐くと精神を集中させる。人同士の対戦はホアンとの訓練を除けば道場以来である。だが、泣き言を言っている暇はない。精神を集中させると、長剣を引き抜き無造作に構える。

 

 アンヘルの剣技は完全に実戦派であり、その対象はもっぱらモンスターであった。東方一刀流で学んだ基礎は長く続く実践で崩れ去っていた。

 

 不格好な構えに周囲から失笑が漏れる。ハーヴィと呼ばれた若い騎士は金色のオールバックを掻き上げながら、ニマニマと余裕の笑みを浮かべていた。

 

「それでは騎士ハーヴィ、探索者アンヘルの決闘を執り行う。ただし、騎士ハーヴィは神秘の法行使を禁じることとする」

 

 眼前の騎士も剣を抜いて構える。正眼に構えられた剣には迫力が篭っていた。

 

「では、はじめッ!!」

 

 掛け声と同時に、撃ち出された弾丸のように素早く疾走した。

 

 構えた長剣を後方へ隠すようにして、一直線に向かっていく。剣の間合いを計らせないための工夫だった。

 

 一方、ハーヴィは一切身動きしない。ピクリともせず、アンヘルの動きを見据えていた。

 

 白刃がびょうと唸る。

 

「む」

 

 そこではじめて反応を示した。

 

 ハーヴィの長剣は上方に打ち上げられ、体が無防備に晒された。

 

 アンヘルは体を小さく纏めると、腕をしならせて凄まじい速度で突きを繰り出す。光線が閃いた。

 

 が、騎士は飛び退いて突きを躱した。その顔には少しばかりの驚きがあった。

 

「探索者風情と思っていたが、なかなか腕があるようだ」

 

 虫から害獣程度には格上げされたのか。騎士の瞳は真剣な色を帯び始めていた。

 

「だが、所詮はその程度よ」

 

 今度は騎士が剣を持って躍りかかる。上段から繰り出された剣が火のように振り下ろされる。

 

 アンヘルは受け止め、飛び退き、転がって躱した。

 

 無呼吸で避けつづけ、しだいに疲労が蓄積されていく。明らかに動きが鈍りつつあった。だが、足を止めるわけにはいかない。行動を止めた瞬間、屠られるのは自明の理だ。

 

 対照的に、騎士ハーヴィに疲れの色はない。

 

 覚悟していたことではあったがキツイ。剣士たるもの、相対した瞬間に相手の力量が知れるものだ。一端の剣士たるアンヘルには、力量差が対峙した瞬間に理解できてしまった。

 

 勝負というのは、実力が拮抗していなければ一瞬でつくものである。ハーヴィが立ちあってみせたのも自信の表れであり、主君たるルトリシアに実力の程を披露したいという青い自尊心によるものだった。

 

 振り抜かれた剣を受け損なって吹き飛ばされる。

 

 ズシン、と石畳がなって白い埃が立った。騎士が自慢げな顔を浮かべる。

 

「無理をするな。魔力を持たぬ平民の体は柔い。貴様の腕では私には腕一本触れること叶わぬぞ」

 

「まだ、勝負は始まったばかりだよ」

 

 強く打った背中を押えながら立ち上がる。唾を小さく吐いた。

 

「強情よな。実力差がわからんと見える」

 

 ハーヴィは疾風(はやて)になると無造作に剣を振り下ろした。アンヘルは咄嗟に剣を水平にして刃を受け止める。

 

 とてつもない剛力である。膂力では真っ向から抗えそうもない。歯を食いしばり、必死に耐えた。

 

「貴様如きがお嬢様にお声をかけるなど一兆年早いわ」

 

 金属の擦れ合う音と共にのし掛かってくる。アンヘルは姿勢を縮こめながら耐えた。

 

 ハーヴィの目は憎悪に染まっている。平民風情が、騎士に立ち向かうなという傲慢さがそこにある。

 

 だからこそ、勝ち目がある。

 

 実践を知らぬ戦士ほど剣に拘るものだ。戦いは神聖なモノだと勘違いしている。

 

 だが、探索者のアンヘルにはそんな理念はほとほとない。

 

 勝つことがすべてなのだ。

 

 生死を賭けた争いに細事など無用である。

 

 アンヘルは右足を伸ばしてのし掛かってくるハーヴィの足を払った。相手はたたらを踏みながら一歩二歩と後退した。

 

 そのままポケットに忍び込ませた砂を握りしめると顔に向かって撒き散らした。ぶあっと細かい砂つぶが決闘場を舞った。ハーヴィは目を瞑りながらさらに後退する。

 

「き、貴様ッ!!」

 

 騎士が吠える。

 

 だが、無視した。真剣を握った戦場である。泣き言を喚くほうが愚かなのだ。

 

 身体を丸め、爆発させる。風となり、疾駆した。

 

 長剣を水平に構え、飛びかかろうとした瞬間だった。

 

「この下民風情がなめるなよぉおおおお」

 

 カッと目を見開くと、剣を天井に構える。神秘の粒子が騎士を取り巻き収斂した。

 

 ――術式の輝きだ。

 

暴風嵐(エアロストーム)ッ」

 

 人間ひとつ切り刻むなどわけない殺戮の風が吹き込んだ。

 

 ――くそっ、反則だろっ、それっ!!

 

 ルール違反を咎める暇もない。当たれば即死である。

 

 此方も切り札を切るしかなかった。

 

「っ召喚(サモン)

 

 盾になるように幼火龍フレアを召喚。身体を縮こまらせて、フレアを前面に押し出した。

 

「きゅう?」

 

 突然迫った死の風に混乱しながらもフレアが身構える。スピリチュアル属性は火。相手の風魔法に対する相性は最高だ。

 

 風半減。

 

 属性最強と尊ばれる火龍の耐久力は生半可なものでなかった。幼い身体であっても、半減属性に対する抵抗力は一端の龍そのものだ。

 

 暴風雨の中でも涼しげな顔を浮かべるフレア。眷族にも個体差があることは理解していたが、進化前ながらもその力は明らかにシィールを上回っていた。

 

 強引に突破すると、フレアを召還(アポート)。今度は相手の後方にシィールを召喚する。

 

 最近になって、なぜ召喚士の能力が危険視されるのか漸く理解できてきていた。一対一の戦いにおいて完全な部外者たる眷族を使役できる点もそうだが、なによりも虚空から唐突に召喚できるという点が卑怯すぎるほど強力だ。

 

 血筋に寄らない能力という点を鑑みると、魔女狩りの如く狩られるのも致し方なしというものだろう。

 

 激憤し、禁止された魔法を行使したにもかかわらず突破されたハーヴィの顔は驚愕に染まっている。背後のシィールを気にする余裕は吹き飛んでいた。

 

 蛇のようにシィールが忍び寄る。

 

 俊敏性はともかく、進化したシィールの剛力は人間と比べるべくもない。強靭な顎がハーヴィの左足を噛み砕き、身体を捻り倒した。

 

 アンヘルはそのまま走り寄り、切っ先を首筋に添える。

 

 進行役の「それまでっ!」という声が響きわたった。

 

 ざわざわと観客席の住人たちが騒ぎ立てる。

 

「あの男まさか召喚士とはっ。探索者などと勿体ない。我が家に勧誘するべきでは?」

 

「だがしかしあの不格好な剣術よ。砂を投げるなど、武芸をばかにしているとしか……」

 

「ふ、愚かな。戦いに美しさを求めるなど。勝つことが正義よ。だから貴様らはいつまで経っても第三格なのだ」

 

「なにぃ? あのようなみっともない戦い方をする輩を褒め称えるとは、騎士筆頭家の名も落ちたものよっ」

 

「ふたりとも止めい、此処はルトリシア様の御前であるぞ。それよりも議論すべきは反則をした騎士ハーヴィであろう」

 

「そのとおりよ。反則をして魔法を行使したばかりか、よもや負けるなどと。幾ら若手筆頭とはいえ、ルトリシア様の護衛の件、考え直したほうがいいのでは」

 

「武門の面汚しめが。ハーヴィめ、覚悟しておれよ」

 

 上役たちが話しこんでいる。ルトリシアだけはアンヘルの意外な才能に驚きを示していた。

 

 予想外の結末だったのだろう。進行役の男もどうしていいか戸惑っている。ハーヴィの反則負けとすべきか、それともアンヘルの勝利とするべきか。アンヘルは召喚士の能力を行使したことが、より複雑な状況へと叩き込んでいた。

 

 進行役が上役に駆け寄る。話が長引くにつれ、矛先は反則をしたハーヴィに向いていった。

 

 アンヘルは完全に蚊帳の外である。勝敗よりも、罰をどう与えるかという方向に向かっていた。

 

 なにをしたものかと手持ち無沙汰になっていると、漸く起き上がったハーヴィがルトリシアに向かって嘆願した。

 

「ルトリシアさま、此度の戦い、まったく正道な結果ではありませんっ! こやつは、卑しくも己の能力を隠し持ち、私が魔の法を禁止されているにもかかわらず、使ってきたのであります!」

 

 ハーヴィは、尋常ではないほど憎悪に染まった瞳でアンヘルを見据えている。

 

 人から向けられた悪感情。それを今日ほど実感した日はなかった。

 

「もう一度、もう一度私に機会を。この卑劣な悪鬼めを私が打ち払ってみせましょうぞ!」

 

 大きくアンヘルを指差す。そして剣をもう一度構えた。

 

 反則したのはそっちだろ、という言葉は封じられた。上位者の嫉妬ほど恐ろしいものはない。これはもう委任状の話どころではなくなったなと思った。

 

 貴族は面子を重視する。たかが平民に負けたなどと許す筈がない。寄ってたかって殺されると考えたアンヘルは逃走経路を模索した。

 

 だが、それは空が落ちてくるのを心配するようなものだった。

 

 騎士たちの怒りは、アンヘルではなく恥の上塗りをしたハーヴィに向かっていた。冷然とした空気が、吹き荒んでいた。

 

「……そう、ですわね」

 

 ただ一人、穏やかな笑みを浮かべるルトリシアの麗しい紅色の唇が蠢いた。悠然と立ち上がる。

 

「アンヘルさま、貴方さまは今まで召喚士の能力を隠していらっしゃったのですか?」

 

 ゆっくりと近寄ってくる。艶治な所作だった。

 

「は、はい。その、通りです」

 

「聞きましたかルトリシアさま、こやつは卑劣極まりない奴なのです。わたしに――」

 

 告げようとしたハーヴィに指を一本立てて黙らせた。瞳は怜悧に輝いていた。

 

「おっしゃるように召喚士の能力は卑怯でしょう。ご存じないかも知れませんが、決闘では古来より暗黙の了解で禁止されているのですよ」

 

 ルトリシアは茶目っ気多くウインクをした。

 

 一体一において、第三者を召喚できる召喚士は強力にすぎる。血筋による力ではないため、貴族が禁止する理由も当然だった。

 

「ならば――」

 

 ハーヴィの顔が喜色に染まる。だが、ルトリシアの冷たい言葉が続けられた。

 

「とはいえ、探索者のアンヘルさまに我々の作法を押し付けても致し方ないでしょう?」

 

 優雅に、それでいてゆっくりとルトリシアの指先が虚空を薙いだ。

 

 予備動作なく神秘の輝きが灯り、取り巻いて結集した。

 

 風が流れた。

 

「え?」

 

 アンヘルの口からたまらず漏れた。

 

 紙を引き裂くようにして、袈裟懸けの風がハーヴィの右腕を断ち切ったのだ。真っ赤な血潮が石畳のうえに一輪の薔薇となって咲いた。

 

「どう、して、ルトリシア、さま……」

 

 重い袋が崩れるような音を残してハーヴィの身体が前のめりに倒れる。

 

 驚愕に震えるアンヘルを他所に、ルトリシアは倒れたハーヴィに歩み寄った。彼女は動物の死体を転がすように、足で瀕死のハーヴィを仰向けにすると、傷口を自分側に向かせた。それから片手をかざすと、光が渦巻いた。白い指先が、艶かしく動く。キラキラと神秘の光が舞っていた。程なくすると、血が抜けて真っ青になったハーヴィの顔色が朱色を増し、傷口が塞がった。ただ、千切れた腕がひとつ転がるのみだった。

 

 ルトリシアはドレスの端を摘んで、淑女が行う上品な動作で身を翻した。黒のドレスは、まるで血で染められ凝固したように見えた。

 

 その仕草に、アンヘルはたとえようもない嫌悪感を、はじめて、覚えた。

 

 祖父は自分の息子や孫すら駒のように扱う男だった。だが、目の前の女はそんなちっぽけなものじゃない。部下、それも己を慕う者の命すら、なんとも思っていないのだ。

 

「なんで、なんの意味があって」

 

 震える声でアンヘルは訪ねた。

 

 ルトリシアは常と変わらぬ微笑みと怜悧な瞳を持って応じた。

 

「信には褒美を、罪には罰を。当然の成り行きですわ。貴方さまが気になさる必要はありません」

 

 善も悪も正義も倫理も彼女には通用しない。すべては数字の上に成り立っているのだ。いま、敗北したハーヴィの価値は消え失せた。命を存えさせたのは、ひとさじの慈悲ゆえなのか。

 

 傲慢、傲然。

 

 ここまで、人を恐れたのははじめてだった。

 

 油断していたのだ。優しげな、その表情に。

 

 わかっていた筈なのだ。恐ろしい存在、なのだとは。

 

 震えるアンヘルを他所に、彼女は部下を指し示した。

 

「望みは叶えましょう。あなたの行く道に、幸があらんことを」

 

 そういって踵を返した。

 

 世界はこんな人間で溢れている。

 

 無力なアンヘルは呆然と立ち尽くすしかなった。

 

 

 

 §

 

 

 

 邸宅の前で待機していたホアンと合流すると、そのままの足で騎士団詰所の横に構えられた死体安置所を訪れていた。

 

 病院より白い、硬質な白。死者の怨念が取り憑いているような、おどろおどろしさがそこにはあった。

 

 手に持つは、美しい羊皮紙造りの封筒。翡翠の君、ルトリシアから持たされた委任許可証だった。

 

「それは本当に効力があるのか? ここは天下の騎士団詰所だぞ。紙切れ一枚で入れるのか?」

 

「問題ないよ。絶対に大丈夫」

 

 説明が面倒だった。律儀なホアンのことだ。取引があったとなれば、気にするだろう。

 

 二人は門を抜けて死体安置所にまでたどり着く。扉の前には一人の男。その男に向かって声をかけた。

 

「あの、これを」

 

 手に持っていた委任許可証を渡す。男はアンヘルたちを訝しげに見ていたが、封筒の印字を見て血相を変えた。

 

「こ、この度はなんの御用で?」

 

「先日殺害されたスリート商会ご息女の遺体を拝見したいのです」

 

「は、こちらです」

 

 姿勢を正し、かしこまった姿勢で案内する。二人は、その後ろに続いた。

 

「す、すごいな。こんなに態度を変えるなんて」

 

「だから心配ないっていったでしょ」

 

 階段をのぼり角を二回曲がる。第二霊安室。その部屋はそう書かれていた。

 

「ここがその部屋になります。午後からも遺体見聞がありますので、できるだけ動かさぬようお願い致します」

 

 隊員は低頭低身で告げた。

 

 隊員に礼をすると、ガチャっと扉を開く。

 

 部屋の中央に台がひとつある。石造りの寝台のような台だ。あたりにはメスらしき医療器具。室内に窓はなく、魔導灯が白い壁面に反射して、異様な白さを映していた。台の中央には布が被せられていた。台すべてを覆う大きな布と先端に被せられた白布。

 

 アンヘルはゆっくりと近づいてその小さな布をめくった。茶色の髪がゆっくりと現れる。閉じられた目、鼻梁、唇が現れた。

 

 マカレナだった。

 

 動かぬ身となって、そこに横たわっていた。

 

 現実感がなかった。何かの間違いだったら良いなと心の奥底では思っていた。

 

 だが、現実だった。眠ったように、ただ、横たわっていた。

 

 身体の力が抜けた。たたらを踏んで、後ろによろめいた。

 

 ――嘘だ。

 

 みっともなく、叫びそうになった。

 

 彼女は眠っているようにしか見えない。見えないのだ。少しばかり、白いだけだ。だが、アンヘルの戦士の部分が否定した。動かぬ肉の塊でしかないと。

 

 喉がカラカラに乾く。酩酊したように視界が揺れる。そして、世界が暗がりに包まれていた。

 

 魔導灯がチカチカと明滅していた。

 

 堪らず台に手をついた。咄嗟の行為だった。それは最悪をもたらしてしまった。意図せず、身体にかけられた布を引っ張ってしまった。少しばかり傾いた布は物理法則にしたがってハラリと地面に落ちた。

 

 現れたのは、壮絶な仕打ちを受けたマカレナの裸体だった。

 

 まず目についたのは乳房のミミズ腫れ。鞭打ちの跡が幾つも走っていた。縦横無尽に走っているそれは、煌々たる灯りに照らし出されて、其のままの色と形の蛇や、蜥蜴や、蛙となって、今にも這いまわり始めそうなほど、痛々しさを浮かび上がらせていた。

 

 視線を下ろすと、太腿の内側に根性焼きの痕が幾つもある。鼠にでも齧られ、蚯蚓が其処から這いまわることで毒々しく滲んでいるのかと思わせるほど黒々とした点が連なっていた。

 

 彼女の中心には、いまだ生え揃っていないの陰部がある。そこは、まるで冗句のようにして鉄輪が幾つも縫いつけらていた。鉄輪に黒々とした血が伝っており、凝固して染め上げていた。

 

 とどめに首筋の青い手型。死因は絞殺だろう。馬鹿でもわかってしまった。

 

 酷い、あまりにも酷い死に様だった。どんな奴ならこんな殺し方ができるのか。吐くことも、涙ぐむこともできず、ただ絶句した。

 

 なにも言えない。ホアンは手で口を押さえて部屋を出ていった。

 

 頭がクラクラした。見なかったことにしたかった。けれど、無理だった。アリベールとの約束が震える体を突き動かし、蒼白なまま行動を実行させた。

 

 右手が鞄の中から匙をとりだした。彼女の女陰を開く。右手に握った匙を差し込んでいた。

 

 やめろと頭が言った。

 

 身体は、いうことを聞かなかった。

 

 硬かった。柔らかみのない、死した人肉の硬さがあった。胎内の内壁を血ごと掻き出し、瓶に詰める。それを数度繰り返した。

 

 涙で滲んで吐き気がした。心臓は震えて足は蠕動していた。魂が切り刻まれる思いだった。刻まれた傷口から穢れが滲んで苛む。

 

 これ以上の地獄はないだろう。人生最大級の地獄を味合わされた。

 

 だが、本当の地獄はこれから始まるのだ。

 

 

 

 §

 

 

 

 震える身体を引きずりながら、部屋を出た。中の時間はゆうに十年に匹敵した。廊下に差込む陽射しががやけに陰っていた。

 

 目の前に青い顔をしたホアンの姿がある。便所で吐いたのだろう。口元からは吐瀉物の匂いが漂っていた。

 

 二人は無言でその場を後にした。どの道をどう通ったのか分からない。

 

 一直線に宿へ帰っていた。大通りを外れて小さな路地に出る。そこを越えると誰も使っていない寂れた公園があった。

 

 真冬の寒空。寂れた公園には誰もいない。葉を失った木の枝が風に揺られていた。

 

 唐突に、ホアンが尋ねてきた。

 

「これから、どうするんだ」

 

 その声はなんだか不思議な感情が篭っていた。悲しみ、焦りだろうか。この場には似つかわしくない感情だった。

 

「今日、採取した組織と怪しそうな人物の組織を照合するけど……注意にあったように魔道具の調整をしないといけないから」

 

 アリベールの言葉を思い返す。

 

「使い始めてから十回程度は誤差が出てしまうらしいから、僕やホアンのと照合して調整しないと――」

 

「待ってくれ。アンヘル」

 

 ホアンが言葉を遮った。

 

「もう少しで俺は試験なんだ。これからは、アンヘル一人でやってくれないか」

 

「……どうして?」

 

 まったく意味が分からなかった。なぜここで試験の話になるのか。此処からは犯人を捜す作業だ。先ほどの地獄に比べれば、些細なことの筈である。

 

「まだ、ぼくたちは何もしてないんだよ。ここからここからじゃないか。ホアンだって悔しくないの?」

 

「だからこそ、さ」

 

 ホアンの目はこちらを直視できていない。額には汗が滲んでいた。

 

「もう、嫌なんだ。こんなの、見たくないんだ」

 

「けど……」

 

「頼むよ。な、お願いだ」

 

 二人の間を冷たい風が吹き荒ぶ。確かな温度差。それを肌で感じた。

 

「わかった。けど調整は手伝ってほしい。体液の一部があればいいから。それぐらい試験の邪魔にならないでしょ」

 

「そ、それは、困る」

 

「どうして? ただ、涎なんかを一滴くれれば良いだけじゃない」

 

 小さな雪の結晶が舞っている。一つとして同じ形のない結晶たちが、二人の上に舞い落ち溶けていく。

 

「もう、いいだろ。アンヘル、お前ももう止めろ」

 

 ホアンの顔には焦りと苛立ちが浮かんでいる。

 

「これで終わりだ。放っておいてくれ」

 

「――ッ。そんなにはいかないんだ」

 

 アンヘルはホアンに詰めよる。胸ぐらを掴み上げた。

 

「ここで終わりなんて、犯人を見つけないなんて、なにを考えているんだ!」

 

「お前は誰の為にやっている!」

 

 胸ぐらを掴み上げていた手が払われる。ホアンは努めて冷静に襟元を正した。

 

「怒り狂ってなにも言わず、なんだかよく分からない所から騎士団死体安置所に入る術をみつける。あまつさえ彼女の遺体を凌辱して、犯人探しをするなどイカれているとしか思えない! こんなことをして彼女が喜ぶと思うのか」

 

「なら、なら、なにをどうしろっていうんだ」

 

「だから、其れを考えろっていうんだ。葬儀やなんやら、やる事が幾らでもあるだろッ」

 

 葬儀に参列できる筈もない。アンヘルは、なんの身分も持たない下民だ。外から葬儀を眺めて、涙を流せばそれで良いというのか。

 

 誰の為にやっているか。そんなこと言われずともわかっているのだ。ただ、自身のためだ。アンヘルの許せない何かが、燃え盛っているだけに過ぎないのだ。

 

 君もそうじゃないのか。問い返そうとした。

 

 けれど、辞めた。

 

 何となく、彼の顔に別のモノが滲んでいるように見えたからだ。汗や挙動に、怒り以外の隠れている別のモノが見えてしまった。

 

 アンヘルは、尋ねてしまった。開いてはいけない扉を、開いてしまった。

 

「中学校の性教育で聞いたんだ」

 

「は?」

 

 唐突な独白。

 

 場違いで、奇天烈な台詞に不意を突かれたホアンは疑問符を浮かべていた。

 

「女性の卵子は、排卵後一日程度しか生殖能力を持たないらしい。けど、男性の精子は女性の胎内で二、三日、長いモノになると一週間を超えることもあるって」

 

「な、なにを言っているんだ?」

 

「ずっと、ずっと疑問だったんだ。ここ最近の君はどこか挙動不審だったから」

 

 風が服を揺らした。一際強い風だった。

 

「ホアン。きみはぼくがマカレナと夕食にいく筈だった日。彼女が連絡もなく部屋から居なくなった日、なにがあったの? いや、きみは、なにをしたの?」

 

 マカレナが突然居なくなった。そして、彼女は別れのように涙を流した。

 

 受験前だというのに、家に滞在することを許したホアンの心情。

 

 季節外れに開いて、換気されていた窓。

 

 会えなくなって以来、ずっと挙動不審なホアン。

 

 黙って涙を流すだけだったマカレナ。

 

 すべてが符号していた。獣の欲が連なって、蜘蛛の巣のようにひとりの少女マカレナに絡みついてたのだ。

 

 ホアンの顔は背後の陽射しを背景に黒い影となっている。苦味のある表情と相まって、まるで弾劾される罪人の凶相だった。

 

「どんな、どんな気分だったんだ? 悲鳴を上げる彼女を見て興奮したの? それとも、壊れていくぼくたちの関係を見て、愉悦でも感じていたの?」

 

「な、なにをっ」

 

「答えろ!」

 

 腰に差していた剣を抜き放つ。右手で水平に構えた。

 

 茶色の瞳の奥で体を燃やし尽くす焔が身を焦がす。激情に震えた。

 

「お、落ち着けって。な、そんなわけないだろ?」

 

「なら、証明してみせろ」

 

 実際にホアンが不義を働いたか証明するのは至難の技だろう。もう悪夢の日から二週間近くになる。証拠が検出できるとは考え難い。

 

 だが、ホアンには医学的知識がない。アンヘルの持つ現代知識が、彼の無知を突いたのだ。

 

 無言。怒りが怯え、そして無へと変わった。さらに怒りが現出した。それは混じり気のない怒りだった。

 

「なにが悪い」

 

 心底恨みの篭った言葉だった。

 

「無防備に部屋へ上がり込んで、それで襲われないなんてどうかしてる。俺は、試験で気が立っていたんだ。仕方ないだろ」

 

「それが、そんな言葉で正当化できると思っているのか!」

 

「黙れ!」

 

 ホアンも剣を引き抜いた。両手で正眼にかまえる。瞳には憎しみが強く宿っていた。

 

「彼女はいつもいつも、アンヘル、アンヘル。口を開けばおまえの言葉ばかりで、行動はおまえのためばかりだッ」

 

 ホアンの怒りは止まらない。波々と、吐き出される。

 

「俺はずっと惹かれていた。出会った時からずっとだ。けど、彼女のこころはずっとおまえの上にあった。嫉妬した。ああ、もちろん嫉妬したさ。おまえには何もない。俺と違って学もない。力もない。未来すらない。それに比べて俺はどうだ。あの士官学校のエリートを目指している。すべて持っているんだ。それなのに彼女ときたらまったく見向きもしなかった。探索者として粗野になっていくおまえに、誰の影響を受けたのか皮肉を口ずさみ始めたお前にすらうっとりしていた。俺が力を見せても、知性を見せても、贈り物をしてもまったく無意味だったんだ」

 

 ホアンの剣から闘気が放出されている。

 

「それなのに、お前ときたらずっと呑気だった。本当にのんきだった。鈍感とはまるで違う、山羊が草を食らっているようにのんきだった。彼女が慕っているのを知っていて、ずっとくだらない仕事に就き続けた。夢も希望もない仕事に、惰性に日々を費やしたんだ。俺が恋い焦がれて仕方ないモノを、下らないとばかりに無視していたんだ。それが、それが許せると思うか?」

 

 怒りが、暗く、暗く陰っていく。最悪の真実が明かされようとしていた。

 

「だから俺は、彼女が部屋でひとりのとき、後ろから襲い掛かったんだ。最初は抵抗したが、あとは死体のように横たわっているだけだったよ。お前らが別れて嬉しかっただって。ああ、清々したよ。最高の気分だったさ」

 

 聞き終えてアンヘルの中に残ったのは得体の知れぬ怒りだった。火が、炎が、くべられた燃料が多すぎる。抱えきれない。

 

 なぜなら、彼の論理には自分とアンヘルしかなかった。マカレナはまるで景品だ。

 

 この悪鬼を打ち払い、その髑髏を永遠に晒してやる。

 

 未来永劫まで、自らの罪を悔いさせてやる。

 

 その怒りが、身体を突き動かした。

 

 殺意が、視界を焼いて赤く染めた。

 

 手に持つ剣の柄が軋む。強く、強く握りしめられた剣が悲鳴を上げている。熱量すら感じさせる凶悪な闘気が全身から放射された。

 

「殺してやる!」

 

 背中の鉈を振りかぶり、上半身を捻りながら一直線に放り投げる。鉈はクルクルと回転しながら風を切り裂き、ホアンに迫る。

 

 彼は持った剣で弾いた。

 

 外套を翻し跳躍。大腿四頭筋がミチミチと収縮し、巨大なバネとなってアンヘルの身体を射出した。

 

「できるモノならやってみろ――だがな!」

 

 脳天目掛けて振り下ろされた刃が、澄んだ音を立てて噛み合った。鋼と鋼が激しくぶつかり火花をちらした。衝撃が周囲に轟く。

 

「剣を教えたのは誰だったか、もう忘れたのか!」

 

 ガリガリガリと鍔元で競り合う。ぶつけ合う二人の腕部が盛り上がり、筋が浮かぶ。血流が加速する。呼吸が身体の奥底まで強化した。

 

 ホアンの手首が回転する。鍔競り合ったまま、剣を巻き取ろうとしているのだ。

 

 左手はそのまま流れのままに剣を巻き取られる。それを無視して、右の拳を振りかぶって、怒る顔に思いっきり叩きつけた。

 

 鼻が歪んで潰れる感触がする。そのまま拳を振り抜いた。

 

 ホアンは後方にまで吹き飛び、転がった。鼻腔からは血流が止まらないようだった。

 

 ふと、右手を見る。熱い。巻き取られる際に薄く切られた。血が滲んでいた。

 

「こ、こんなことで勝ったつもりか」

 

 髪を振り乱して顎に垂れた血を拭っている。折れた鼻骨をぐいっと押し、真っ直ぐに伸ばしながら、低く呻いて血の混じった唾を吐き出した。

 

「おまえはそうやって、何時も剣術を馬鹿にしていたな」

 

「剣にこだわるなんて、愚の骨頂だ。だから、きみは負けるんだ」

 

「そういう透かしたところが、心底気に食わないんだ」

 

「それは、こっちの台詞だ!」

 

 アンヘルは左方に向かっていきなり駆け出した。続いて、ホアンもそれに従い位置を変更する。

 

 両者は互いに駆け交差すると、それぞれの刃を脳天に向かって垂直に叩きつけた。

 

 震えるような金属音が鳴り響く。アンヘルは流れるようにして、蹴りを放った。身体が旋回して弧を描く。踵からの蹴りが右脇腹に突き刺さる。

 

「ぐっ」

 

 呻きながらも、ホアンは手首を器用に動かして、連弾の刺突を放つ。びょうと風を巻いた鋼は、顔面を捉えた。

 

 アンヘルはギリギリで顔を捻ってかわす。わずかに遅れた回避のせいで左耳が刃に擦れ、千切られる。耳のうえが開き、赤い花が中空に咲いた。

 

 堪らず後方に飛び退がる。後方に転がりながら、身を低くし、剣を水平に構えた。

 

「どうして、マカレナさんを巻き込んだ! ぼくが憎いだけなら、ぼくを遠ざければいいだけの話だろ!」

 

「お前なんかどうでもいい!。俺はただ、彼女を手に入れたかっただけだ!」

 

「なら、如何して犯人探しに協力的じゃなかった。当ててやる! きみにとって、彼女は景品で、道具でしかないんだ。好いても、愛してもいない。ただ、ぼくの側にいた異性が羨ましかっただけなんだ。だから、彼女が死んでも、自分の心配だけをしていられるんだッ!」

 

「黙れぇええええ」

 

 怒声とともに、剣を斜めに振り下ろしてきた。

 

 アンヘルの迎え撃つ長剣が銀線を鋭く描く。

 

 二つの刃が、虚空で煌々と動き、衝突し、激しくせめぎ合った。

 

 びりびりと衝撃で手が震える。アンヘルは剣の上を滑らせ、流れのまま回転し、脛を狙って剣を繰り出した。

 

 紺色のコートが空に素早く舞い上がるのが映る。同時に脳天目掛けて剣が振り下ろされた。

 

 剣を天上に構える。衝撃。

 

 叩き割るような急降下攻撃に剣がひび割れて軋んだ。流れのままホアンが蹴りを放つ。鳩尾に入った爪先が心の臓を一瞬止め、吹き飛ばす。

 

 土埃と溶けた雪に塗れながら、地面を転がる。転がるアンヘルの胸元に突き出された突きが変化して、薄く肩口を割った。

 

 転がるまま、破れた外套を引きちぎる。

 

 立ち上がって、外套をホアンの鼻先に叩きつける。水を吸い重くなった外套が、濡れ雑巾による鞭となってうねる。鈍い音が響きわたった。

 

 ホアンが顔を歪めて呻く。

 

 顔には外套に付着していた泥が飛沫となって付着していた。

 

 ホアンは薄く開けた左眼を頼りに、手に持つ剣を閃かせた。銀線は勢いそのままアンヘルの剣の鍔を裁断し、右腕を激しく割った。辺りに血飛沫が舞う。

 

 激痛で呻きが漏れた。後方に転がる。

 

 直前までいた空間には、剣が垂直に振り下ろされていた。

 

 泳ぐようにして転がりながら鉈を拾う。傷ついた右手へ添えるようにして鉈を構えると、左手で天高く剣を掲げた。

 

「醜い戦い方だな! 組討ち、蹴り技、そのうえ、鉈で二刀か。探索者らしい、節操のない姿だ!」

 

「きみには、ぼくたちの必死に生きる姿が醜く見えるんだな。そうやって人を見下して、楽しいのか!」

 

 二人は同時に跳躍した。

 

 空中で二人の長剣が撃ち合う。その瞬間、アンヘルの左手が剣から離された。

 

 相手の握り手を上から掴む。そして、残った右手で脇腹をかち上げるようにして鉈を振るった。ホアンは刃の根本を手で受け止めながら、致死の斬撃を止めた。

 

 両者の剣は弾かれる様にして散らばり、地面に突き刺さった。

 

 アンヘルは鉈から手を離すと、肩を巻き込んで相手を地面に倒す。右膝で蛙をつぶすようにして腕を押さえると、マウントを取った。そのまま、両拳で顔面を殴打した。

 

 右。左。右。

 

 鼻骨と頬骨が折れる感触とともに、ホアンの顔がひしゃげていく。

 

「どうした、これで満足か、こんなもんで」

 

「うるさい!」

 

 叫んだアンヘルの顔に赤い唾が吹きつけられた。堪らずに目を瞑る。その隙に、ホアンが落ちていた枝で脹脛を突き刺した。

 

 痛みに悲鳴が溢れる。続く右拳の衝撃に堪えきれず、体のバランスを崩して後ろに転がった。

 

 傷から噴き出す血が、理性を灼く。痛みと怒りが思考を崩落させた。

 

 息を吐く暇すらない激闘である。心臓から全身に送られた血液が沸騰して、全身をくまなく覆っているようだった。早鐘を打っている。体は、胸部を大きく膨らまして息を荒くしている。

 

 身体を止めると、まるで全身が泥で塗り固められたように重い。重りを背負い、水の中をゆくように、逝かれている。視界は重度の酩酊状態と同じように歪み、壊れたブラウン管テレビのように映像不良を起こして左右にブレていた。

 

「お、おまえ、なんかに、俺の苦しみが分かってたまるものか」

 

「だれが、きみの気持ちなんか、知りたいもんか! 此処で、くたばるんだ!」

 

「それは、これを受けきってから言え!」

 

 ホアンが剣をゆったりした動作で拾う。

 

 そして、両の手で剣を高々と構えた。

 

 それはホアンの必殺剣。未だ打ち破ったことのない最強の必殺剣。其れが今、放たれんとしていた。

 

 だが、敢えて撃たせる。

 

 正面から目の前の男の拠り所を粉々に粉砕するのだ。それから、骸を打ち捨てる。それこそ奴にふさわしい最後だ。

 

 眼前のホアン。振りかぶった剣を細動させ、一気に斬撃を繰り出す。斬撃が寄り集まって水となり、津波となって押し寄せた

 

「奥義、流水波濤剣!!」

 

 煌々と輝く刃が血に混じって尾を引いた。流水の如く、滑らかに繰り出された斬撃が面となり、塊となって大気を割る。

 

 一。

 二。

 三。

 

 三つの流れる流水が群れとなって飛翔する。迎え撃つようにして剣を振るった。

 

「はぁあああああああ!!」

 

 アンヘルは激しく咆哮しながら襲いかかる斬撃に剣を合わせた。

 

 握り締めた剣の刀身が鈍く輝き波濤となって押し寄せる衝撃を粉砕する。

 

 ひとつ。天から流れるような斬撃を斜めから外らせるようにして打ち鳴らす。

 

 ふたつ。流れのまま弧を描いて振り上げられた剣を、打ち下ろしで弾く。

 

 みっつ。水平に振られた斬撃を弾く。

 

 逸らし損ねた衝撃が刃となって全身を切り刻む。血潮が舞い上がり、霧となって立ち篭める。

 

 だが、打ち勝った。切り抜けたのだ。必殺の技を。致死の斬撃を。

 

「なんと」

 

 信じられないという表情で、眼前の男が呟いた。

 

 愉快だった。驚愕に歪む、眼前の男の表情がひたすらに愉快だった。

 

 叶わぬ存在だった存在が膝下まで落ちてきたような、そんな感慨を受けた。愉悦に頬が緩んだ。

 

 ――とどめだ。

 

 剣を持ち、歩みを進めようとした。違和感はその瞬間に起きた。

 

 左足が動かない。蜘蛛の巣に絡めとられたように固着していた。足を見る。赤い血が溢れている。パックリと拗ねが割れて、骨手前まで断ち切られていた。

 

 致死に至る傷ではない。だが、膝の力がカクンと抜けた。ホアンの必殺剣は破れていない。死の刃となって突き刺さっていたのだ。

 

 ゆっくりとホアンが剣を構えた。

 

「俺の勝ちだな」

 

 理由は簡単だった。

 

 アンヘルの剣は中程で分かたれていた。激戦に剣は耐えきれなかったのだ。

 

 ホアンの壮絶な必殺剣の前には剣を庇う余裕などあるわけがなかった。剛腕にして華麗な剣戟には全身全霊を持って挑まねばならなかった。

 

 その結果は砕けた剣。

 

 粉々になって、かけらとなり、砕け散ったホアンからもらったつるぎ。それが柄だけになって手に残っていた。

 

 絶無の世界。そこで繰り広げられた死闘は、ホアンに軍配が上がってしまった。

 

「くっそおおおおおお」

 

 力の入らぬ左足を引きずりながら、拳だけで躍りかかる。が、得物持たざるものに勝ち目などない。

 

 剣道三倍段とはよくいったものだ。徒手空拳の経験はほとんどないアンヘルに勝ち目などあるわけがなかった。

 

 哀れみの目でホアンが剣を振るう。剣の峰で打たれ、地面を転がった。天地が逆転し、何がなんだか分からなくなる。痛苦は極限に達していた。

 

 召喚と叫んだ。だが、声が出なかった。召喚術も無制限じゃない。体力が必要だった。転がったまま視界が滲んで、違う世界に送り込んできた。

 

 マカレナは、彼女は優しかった。

 

 誰よりも純朴だった。

 

 みんなが好きだった。

 

 だから、彼女を貶めた人間に報いを受けさせたかった。

 

 だが、気づけば、自身は地面に、友達だったはずの奴に転がされていた。

 

「なんで、なんでなの……」

 

 涙がこぼれ落ちた。一度落ちると、滂沱(ぼうだ)の如く流れ出した。

 

 なぜ。なぜなのか。

 

 ぼくは、ぼくたちは、ただ、ふつうに毎日を送りたかっただけなんだ。

 

 べつに特別なことなんか望んでない。ただ、毎日、平穏に、ふつうに、過ごしたいだけなんだ。

 

 美味しいものを食べたり、おもしろいものを見に行ったり、ちょっとばかり大変な仕事をしたり、恋や友情に悩んだり。

 

 日本のみんなが送っている、なにもかわらない日常をもう一度やり直したいだけなんだ。

 

 ぼくが送るはずだった、高校生活と同じ、たわいない日常を少しばかりやり直したいだけなんだ。

 

 望んだことは特別じゃない。誰だって享受しているじゃないか。

 

 くだらない話をして、くだらない娯楽にふけって、くだらない仕事に打ち込んで。毒にも、薬にもならない人生をみんな送っているじゃないか。

 

 幸せの総量は決まっているだって。そんなの誰が決めたんだ。

 

 日本人は世界中の貧しい人から搾取して暮らしているだって。マカレナが金持ちの商家に生まれたのは罪なのか。

 

 幸せを求めることの何が悪い。子供が生まれた環境を利用してなにが悪い。

 

 自分の生まれだって才能だ。人は平等じゃないなら、すこしくらい生まれに不平等があっていいじゃないか。

 

 あんな子供に、年端もいかぬ少女に責任などあるはずがない。彼女の幸せな幼少期の埋め合わせが、あの無残な最後なのか。そんなはずはない。犯罪者の子供が犯罪者なのか。親や環境の過失が、子供に及ぶはずがないだろう。

 

 ばかにするなよ。

 

 重力なんてものは誰が作った。

 

 ゼウスかオーディンか、ヤハウェかアトゥムかアイテールか天照か。誰でもいい。どうせ重力なんて天に向かって唾を吐きつつけた奴に自然と落ちるよう、神が定めただけなんだろ。

 

 くだらない。心底、くだらない。

 

 目の前のホアンも、マカレナをなぶった奴らも、ホセやナタリアを傷つつけた奴も。イゴルもリコリスもすべてがくだらない。

 

 ぼくのせいか。彼らの不幸はぼくのせいか。そんなわけない。そんなはずあってたまるものか。

 

 誰が悪いかだって。そんなの決まってる。みんな、みんな、悪行をなした奴が悪いに決まってる。そして、そんな悪を許容する社会や神が悪いに決まってる。

 

 なにもかも気に入らない。

 

 眼前のホアンも、ぼくを責めるアリベールも、彼女の父親も。傲然と偉ぶっているルトリシアも、能無しのエルンストも、ぼくを手駒のように扱った祖父も。ナセもアンヘリノも誰も彼も。

 

 全部が全部気に入らないんだ。

 

 立て、立つんだ。

 

 足が無くなって腐敗しようとも、血が吹き出ようとも、激痛に苛まれようとも。なせないものをなし通し、偉業を打ち立てろ。それが、勇者で英雄って奴だろう。

 

 殺戮人形も悪魔も龍も、この手で打ち倒してきたじゃないか。召喚術と剣術で乗り切ってきたじゃないか。すべてを打ち払ってきたじゃないか。

 

 やることは単純だ。

 

 立って、すべての敵を薙ぎはらえ。

 

 身体中に残るすべての筋肉に力を注ぎ込むのだ。

 

 根元からすべてを振り絞るのだ。相手を打ち倒すまで、戦い続けるんだ。

 

 ――異世界の英雄の力を見せてやる。そう息巻いた。

 

 だが、身体は一向に動かない。

 

 奇跡は起きない。なぜなら、アンヘルは勇者でも、英雄でもない。

 

 凡庸な人にすぎないのだ。

 

 現実は、無情だ。

 

「もう、止めろ。俺に、とどめをささせるな」

 

 ホアンの剣先が閃いた。

 

 膝立ちのまま、喉元に剣を突きつけられている。

 

 勝った者が強い? 努力した者が勝つ? そんなわけないだろ。強く、準備を怠らない者が勝利するのだ。奇跡など期待するな。あるのは、実力だけだ。

 

 善意、倫理、そんなもの勝負の前ではくそくらえだ。現実など、こんなものだ。

 

 マカレナを嬲った奴に剣を突きつけられ、哀れみの目を向けられる。こんな奴に叶わず、地面に転がされている。

 

 正義が勝つだって。なら勝たせろ。いますぐ、ここで。

 

 できるのは涙を溢すことくらいだ。声を上げれば、すこしでも動けば、切っ先が喉を貫くだろう。

 

 くたばれ、くたばれ、くたばれ。今見えるすべても、過去の記憶も、すべて灰塵に帰せ。なくなってしまえ。

 

 もういいよ。頑張ったねと誰か言ってくれ。救いの言葉を、誰か掛けてくれ。

 

 今すぐ、死にたいんだ。殺してくれ。死なせてくれ。一瞬の救いを、ぼくにくれ。

 

 母さん。父さん。マカレナ。もう一度、会いたいよ。

 

 ぼくに、もう一度だけ笑いかけてくれ。もういちどだけでいいから、はなしかけてほしいんだ。

 

 おねがいだよ。かみさま。おねがいします。

 

 ぼくをたすけて。

 

 

 ――まかれなを、たすけて。

 

 

 

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