イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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第十五話:豹の斑紋

 婚姻を申し込んでから、ララノアは人が変わったように明るくなった。

 引っ込み思案な性格に変わりはなかったが、ずっと俯いて粛々と従う奴隷のような立ち振る舞いがなくなり、燦燦とほほ笑むようになった。

 また、彼女の意外に頑固な面を知った。取り立てて意見を述べるわけではないが、約束や決まりごとは必ず守らせる頑なさがある。また、記念日にも煩い。ダビドがそれを破れば、優しい微笑みが悲しみに染まってしまった。

 

 互いにいい面ばかりの恋人の関係とは違って対立することも増えたが、それは誇らしいことに思えた。

 

 彼女の行動はそれからも一切変わりなかった。彼女は取り立てて家を空けることもなく、半を押したような決まりきった生活を送っていた。

 早朝、暗いうちから炊事に精を出し、昼は実家に通っては母と常に過ごしている。そして、夕方ダビドが仕事を終える頃には食事を用意しているという、理想の嫁の姿を体現していた。

 

 仕事、私事。人間万事塞翁が馬とはこのことである。

 薔薇色の未来を描くダビドは、狭い借家住まいを止め、新居に越そうと不動産に来ていた。

 

「どうですか。ここなら頭金の三百があれば、すぐに入居できますよ」

 

 バイル不動産の従業員が部屋を案内する。職場の集積所に程近い立地、商業区や実家にもほど近く、それでいて、経済的に払えないほどではない。

 庭には、小さな三畳分ほどの花壇が付随している点も気に入った。その分、家が多少手狭になるとはいえ、ララノアの出身を考えれば、造園は気散じになるだろう。

 

 大都市オスゼリアスの地価を考えれば、有料物件にあたる。

 尽日の見学の中でもっとも琴線に響いた物件だった。

 

「そうだな、ここにするよ」

 

 ダビドは即決して書類にサインする。そして、頭金に相当する小切手を切ると、従業員の礼を尻目に家を目指した。

 

 ――はやく、ララノアに知らせないとッ。

 

 喜び勇んで、足に羽が生えたようだった。雑踏を駆け抜けながら、一直線に家を目指す。ララノアが待つ、愛の巣に。

 

 ゼーハーと息を切らしてたどり着く。はぁはぁと息を整えて、扉を開こうとした。

 

 帰ったぞーという掛け声は封じられた。常日頃漂う夕餉の香しい匂いがない。規則正しい家内の見本たる彼女にはあり得ない事態だった。

 

 扉の奥は、人のいる気配もなく、シンとしている。不吉な予感を覚えつつ、ダビドはゆっくりと扉を開いた。

 

「お、おーい、ララノア? いるかー?」

 

 だが、その言葉はしだいに尻すぼみとなった。

 家の中はめちゃくちゃに荒らされていた。

 

 彼女が育てている植木鉢は引き倒され、椅子や家具は倒れている。床板には、血の滴が連なっていた。

 床には複数の足跡がある。誰かが侵入してきた証拠だった。

 

 ダビドは顔から血の気が引いた。

 

「ララノアッ! おい、居るんだろ! 返事してくれッ!」

 

 家中を駆け回ってタンスや棚の中を覗く。大声で叫びながら、ララノアを探し回った。

 

 だが、居なかった。

 ダビドが台所に帰ってくると、そこには血のついた包丁があった。彼女がいつも使っている、道具だ。

 

 奴隷商人、プロビーヌ商会の仕業。もしや、復讐なのか。

 ダビドは手元にあった棒を掴み取った。

 

 ――ララノアを、あの笑顔を、俺は守るって誓ったんだ。

 

 ダビドは顔を上げた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 いくつかの窓から差し込む陽射しが、四角く、斜めにさしこんでくる。その陽射しが、陰になっている室内に入りこみ、あちこちに反射することで翳りを照らしていた。

 その光が逆光となり、照らしてしまうせいで世界は見渡せない。それどころか、猛烈な光がなにか大事なモノを覆い隠してしまうような、暗闇すら塗りつぶしてしまう役目しか果たしていなかった。

 

 がりがりがり、と机を削る音が響いた。

 荒々しく使われた万年筆の先が歪む。

 

「クソっ」

 

 手が動いては止まるを繰り返している。

 書き損じた紙片を破り捨て、屑籠へと放る。屑籠の辺りには幾つも屑紙が落ちていた。

 

 ここ数日、ずっとこの調子だった。

 

 ホアンは、空の寝台を見つめる。幾度となく繰り返した動作ではあるが、どこか厭うような感覚すらあった。

 

 取返しのつかない酷いことになってしまった、と胃が絞られるような痛みを感じる。罪悪感と虚しさが交錯して、心はまるで斑だった。苦い灰汁のようなものが湧き出てきている。

 

 繰り返し、ここずっと考えている。

 戻せるなら、やり直せるなら。なぜ自分があのような、獣そのものの行為に逸ってしまったのか、自分に問いただしたかった。

 

 友を裏切り、その友を慕う女を襲い、そして友を殺そうとした。

 死すら生温い、糞野郎だ。

 

 何もかも手につかなくなってしまった自分を嘲りながら、万年筆を投げ捨て、そして背もたれに身体を預ける。試験のために大枚をはたいて購入したモノだというのに、もうペン先はへしゃげて曲がっていた。

 

 ――結局はあの母と、父を裏切った母となにもかわらないということなのだろうな。いや、それ以下か。

 

 あれ程嫌った母。父が死んですぐ再婚した、毒蜘蛛妻と呼ばれた母。

 尊敬する父を裏切った母は、憎しみの象徴だった。母との離別のため決行した士官学校上級士官養成課程の受験である。それなのに、結局、憎む存在と同じ行為に及んだ。

 

 壊れていく二人の関係を見て、愉悦を感じたのか。

 当初は清々しい気分だった。何もかもが晴れた気分だった。だが、残ったのは後悔だけであった。

 

 ホアンはずっと怯えていた。失うことが、恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。だが、最悪の形で終息した。

 

 カラの寝台を眺める。すでに荷物はない。

 荷物は数日前に知らない男が回収へ来た。彼の腕には雑務ギルドの登録証があった。アンヘルが雇った雑用係だった。

 

 天を仰いだ。そこにあるのは、いつもの染みの滲んだ天井があるばかりである。

 

 ――俺はどうして勉強なんかやっているんだろう。どうせ、もう捕まって終わりなんだしなぁ……。

 

 惜しい、という気持ちがないわけではない。

 しかし、当然だろうという心情が心の中を占めていた。

 

 寝食を忘れて、勉学に励んだ日々。私塾で開催されている模擬試験の結果に一喜一憂する日々。リフレッシュに庭で打ち合いに励む日々。その隣にはいつもアンヘルがいた。自分ではない誰かが、常に助けてくれていたのだ。

 

 ――それもすべて、俺のせいで終わりなのか……。

 

 ふさわしい最後だと、そう思った。

 諦めが頭を支配し、身体からやる気がすべて抜け落ちていた。まるで干からびたミイラのように枯れ果てていた。

 

 身体をだらんと脱力させ、腕を投げ出す。映る景色は、滲んだ天井と壁ばかりだった。

 

 コンコンコン。

 誰かが扉を小さく叩く音が響く。控えめな弱々しい音であった。

 

 ――これで、終わりってことなのか……。

 

 小さな笑いが漏れる。諦めたような、寂しいような、それでいて納得の笑みだった。

 

 立ち上がり、歩き出す。死刑囚が昇る最後のきざはしのように、厳粛さをもって扉を開いた。

 

「少しいいかしら?」

 

 開いた扉の奥にいたのは、車椅子に座る黒髪の麗しい少女。マカレナの妹であるアリベールであった。

 

 

 

 §

 

 

 

「あー、犯人のひとりが見つかったって?」

 

 突如現れたアリベールの話は、ホアンを責めたてるものではなかった。

 アリベールとその車椅子を押す護衛はのろのろと街路を横切る。ホアンはその速度に合わせながら歩いた。

 

 街行く人々は冷気に身を縮めながら、足早に通り過ぎていく。世界は焦燥感に溢れていた。

 

「ええ、そうよ。あなたのお友達が見つけたの」

 

 アリベールの顔にはなんら含むものがなかった。明らかにホアンの悪行を知らない様子である。これで演技ならオスカー賞女優も真っ青であった。

 

 安堵したかと言わねば嘘になる。が、不可解さも残った。

 ホアンは、次の日には牢屋に繋がれ、惨めな死を迎えると考えていたのだ。だが、すべてを受け入れ、ただ宿舎でジッとしていたのだ。なぜ、捕まっていないのか。それは偏にアンヘルがホアンのことを話していないからに他ならない。しかし、その理由に見当がつかないのも事実だった。

 

「犯人はウチが雇っている庭師の少年よ。調査をする中で、彼が見つけたのよ」

 

 アリベールが吐き捨てるように告げた。その顔には、嫌悪と苛立ちが激しく浮かんでいた。

 

「まさか、ウチの家にそんな奴がいるだなんて。許せないわ」

「……どうやって見つけたんだ?」

「あなたのお友達の案よ。最初は私も反対したのだけど、姉の行動範囲内での犯行だったわけだしね。彼の言葉『人は誰でも裏切るから』だったかしら。本当にその通りなのね」

 

 ――人は誰でも裏切るから。

 

 その言葉を聞いた瞬間、ホアンの心臓は痛いほど締め付けられた。それは明らかに、糾弾の言葉だった。

 許すはずない。それを証明する刃が、鈍色に輝いて、心臓を真っ二つに切り裂いていた。

 

「……そ、それで、今日はどういう経緯で俺は呼ばれたんだ」

「…………捕まえたそいつ。今、家が所有する商業区外れの倉庫に押し込んでいるのだけど、どうもなにか隠している様子なの。当たり前だけど、あんな使い如きが姉さんを誘拐するなんて、そんな力があるわけないから」

 

 麗しい唇が、怒りの言葉をまき散らしている。唇が形を変えるたびに、炎が吐き出されているかのようだった。

 

「あなたは、士官学校の上級課程を志望しているのでしょう。関係者ということもあるし、尋問を手伝ってほしいの。こっちのイマノルはあまりそういう経験がないわ。それに、なんだかあなたのお友達って頼りなさそうじゃない?」

 

 アリベールの車椅子を押す護衛の青年が小さく会釈をする。剣には優れてそうな風貌だが、それ以外には疎そうな、剣術バカの雰囲気を醸し出していた。

 

「だが、俺には尋問の経験なんて――」

 

 とっさに否定の言葉がでた。これから赴く先にはアンヘルが居るのである。当然ながら、合わせる顔があろう筈もない。

 

 しかし、ほんの少しだけ、淡い期待を覚えないといえば嘘になる。もしかしたら仲直りできるかもしれない。そんな淡い希望を。

 

 ホアンのアンヘルの死闘。

 真剣を用いた殺るか殺やられるか、零と壱の世界で争った二人だが、両者とも生存したのは偶然ではない。

 

 勝負の、しかも真剣のやり取りで感情を爆発させれば、迎える結末は死一つである。だが、アンヘルとホアンという両者の戦いには、極僅かといえるほどだが、暗黙の了解の介在する余地があった。相手を殺さない、という一点においてのみ。

 

 両者は、得物や腕など、致死に至らぬ箇所ばかりを狙っていた。

 それは、実力の拮抗する者同士でしか起こり得ない、武芸者同士の武器を使った言語力に違いなかった。

 

 ホアンは、戦いを思い返すたび、その事実に驚愕するばかりであった。

 

 等しい実力を持つはじめて友人を見つけた。

 傲岸不遜な思考だが、幼き頃の華々しい経歴を見れば、さもありなんといったところだった。

 

 ここで、ホアンの幼少期について語ろう。

 

 軍の叩き上げ、いわゆる下士官の身であったホアンの父だが、幼き頃、友に優れた剣術家の出自を持つ男がいた。まったくの下民出ではあったが、先鋭的な武芸を遊びながらにして習得した彼は、生まれついての膂力もあり、軍内で多大な戦功を上げた。

 

 ホアンの父は、幼少時武芸に励む事の重要性を誰よりも理解していた。

 子にその技術を余すところなく伝えたのは、帝国文化である『父祖の遺風』として当然の運びだった。

 

 英才教育を受けたホアンには拮抗する相手などいようはずもない。齢十にして、相手になるのは師範のみであった。

 

 勿論、この大都市には敵わぬ神童が居るだろう。国全体や大陸全土に視点を広げれば、腐るほど現れるだろう。しかし、生まれ育ったセグーラの街では、ホアンの実力は擢んでていた。

 まったくの負け知らず、というわけにはいかない。師範には未だ劣り、対外試合で苦杯を舐めさせられたことはある。勝負の世界で、常に勝ち続けることは不可能だ。だが、同年代に限れば、実力で敵うものなし、とホアンは考えていた。

 

 その中で、アンヘルは違った。彼は、一年に満たぬ短い経験値しか持たぬ身でありながら、己の拠り所としている奥義を破ったのである。

 

 実力はほぼ等しい領域にある。勝負を分けたのは、奥義の有無でも、優れた武器の有無でもなく、単純な相性である。

 

 方や、流れるような豪剣と連打が持ち味の東方一刀流を学び、常に人を想定した剣術のホアン。

 他方、同じ流派に所属しているとはいえ、あらゆる手を使い尋常ならざるモンスターとの綱渡りを繰り広げるアンヘル。

 単純な相性が、二人の勝敗を分けたのだ。

 

 諦めきれない、という気持ちがホアンにはあった。

 だが、ひたすらに求めてきた、生涯はじめての対等の友人かもしれないのだ。

 やり直したい。心からの願いであった。

 

 そんな葛藤をかき消すようにして、アリベールが告げた。

 

「そんなことはわかっているわ。あなたが試験前で大変だということもね」

 

 からからと車椅子の車輪の廻る音が響いている。

 

「あなたには助言を貰えるだけでいいの。倉庫にはあなたのお友達と、私の護衛一人しかいない。とくに、あなたのお友達なんて最悪よ。この大事なときに大怪我して、そのうえ武器まで失って。そして、その代金を私に請求したのよ。信じられるッ!? ……動かせる人間がいないのよ。だから、色々見て、違和感があれば指摘してほしいの」

 

 彼女の顔には怒りと侮蔑が滲んでいた。車椅子の取っ手が握られた手によって軋んでいる。怒りが放出されていた。

 

 三人はそのまま無言で路地を行き、ひとつの倉庫に辿り着いた。

 路地と路地の間をぬっていくことでしか入れない、寂れた小さな煉瓦製の小屋が中にあった。

 

 アリベールに促されるまま、扉を開ける。目に飛びこんできたのは、開けた埃っぽい空間、そして、椅子に縄でぐるぐる巻きに縛られた少年、無言で少年を睨みつけている若い護衛。最後に見えたのは、目を瞑って、腕を組みながら背中を壁に預けているアンヘルの姿だった。

 

 腰には見たこともない大仰な柄の剣が差してある。静かに、佇んでいた。

 

 ホアンは、今すぐ土下座したいと、歩きながらずっと考えていた。腕の二本、三本くらい、好きなだけ斬り落としてもいい。だから、許しを乞いたかった。本当に大切なものがなんだったのか、ようやくわかったのだから。

 

 だが、そんな気持ちは悠然と佇む姿を見て、きれいさっぱり消し飛んでいた。なぜ、と聞かれればその瞬間は分からなかった。ただ、前までとは違う、なにか違う人に変わってしまったようなそんな違和感だけが小さく残った。

 

「どうしたの、早く入って」

 

 後ろからアリベールが催促の言葉を投げかける。その声に押されて、ささっと部屋の中に入った。

 遅れてアリベールが入室する。最後に入ったイマノルが扉を閉めながら、アンヘルに向かって「何もなかったか」と小さく尋ねていた。

 

 ――あのふたり、知り合いなのか?

 

 アンヘルは小さく「何もないよ」と呟いただけだった。イマノルはそのまま、取り囲むようにして縛られた少年の後ろ側にまわる。

 

 五望星の頂点を描くようにして五人は少年を取り囲んだ。そして、少年の正面に位置する少女――アリベールが怒りの形相のまま、少年を睨みつけていた。

 

「それでは始めるけど、まず、聞かせて。あなたは、姉さんに暴行を働いたの?」

 

 静かな、落ち着いた声だった。しかし、それが何よりも恐ろしい響きとなっていた。どれほどの怒りが木霊しているのか、ホアンには想像もつかなかった。

 

「そ、そんなわけ――」

「良い、よく聞きなさい。あなたの犯行だってことは、もうすでに魔導具が証明しているの。あなたの返事はハイだけよ。もし分からないのなら、指を一本ずつ、この場で斬り落とすわよ」

 

 アリベールが短剣を抜く。血も見たことがない、か弱い少女に指を切り落とすなどできるはずがない。誰もが分かりそうな事だが、短剣を胸元で輝かせる少女の形相は、簡単に否定できるようなものではなかった。

 

「いい、これで最後よ。あなたは、姉さんを、暴行したの?」

「……あ、ああ、そう、そうだ。そうだよっ」

 

 青い顔で少年がぶんぶん首を振って頷いた。

 

 その言葉を聞いて、イマノルと呼ばれた男が激昂した。

 

「貴様、よくもマカレナお嬢様を――!!」

 

 腰の剣を引き抜き、天高く構えた。

 

「待ちなさいッ! まだ、聞きたいことがあるのよ!!」

「だけど、お嬢様をッ!!」

 

 イマノルは、もう一人の護衛によって羽交い締めにされた。怒りの吐息をフーフーと吐きながら、ゆっくりと引き下がった。

 

 アリベールは、自身の怒りを鎮めるようにして、握り拳を車椅子の取手に叩きつけた。

 

「あなたの、共犯はだれなの? 庭師風情がここまで大仰な事を為せるだなんて、これっぽっちも思わないわ」

「へっ、そんなの、いるわけないだろ」

「――ッ。なら、なんのためにやったっていうのよッ!」

 

 アリベールが激昂する。手の短剣が鈍く輝いていた。

 

「そんなの、決まってるッ! 忘れたとは言わさねぇ、ケールのことだ。あの女は、俺のケールが嬲られているっていうのに、ただ黙ってみていやがった。これが、許せるっていうのかッ!!」

 

 少年も叫ぶようにして、言い返した。

 これには、アリベールたちも少なからず驚いたようだった。

 

「何のことだ?」

 

 イマノルと呼ばれる護衛に小さな声で尋ねた。

 

「……ケールってのは、マカレナお嬢様付きの使用人で、昔、乱暴されて自殺した人だ。付き合っているという噂があったような覚えはあるが、コイツだったのか」

 

 イマノルは怒りを宿しながらも、少しばかり同情の哀れみを瞳に宿していた。それは、少なからず、他の人間にも言えた。

 

 同情の余地がないとは言えない。恋人を奪われたのだ。事情を詳しく知らないとはいえ、心底恨める気分ではなかった。

 

 それでも、アリベールは気丈に反駁した。

 

「だからといって、あなたは姉さんをあれほど苦しめたのよ。ずっと、仕えていた家の人間に手を出すなんて、何様のつもりよッ!」

「はっ、お前らはいつもそうだ。金を出しているからって、何時も偉ぶって俺たちを見下しやがる。俺たち金のねぇ奴らは、女が殺されたからって黙って見てろっていうのかッ!」

「それと、これとは、話が全然ちがうじゃないッ!!」

 

 アリベールは激昂しきっている。もう少しで短剣を振り回して、躍りかかりそうな雰囲気すらある。

 ホアンは焦りながら、車椅子の取手を持ち、後ろに引き離した。

 

「なによッ! 止めなさい!!」

「少し落ち着けッ。このままじゃ殺してしまうぞ」

「だからなんだっていうのよッ! こんな奴、こんなやつ、死んでしまえばいいのよッ!」

 

 アリベールの目尻には大粒の涙がある。髪を振り乱して、泣くように激昂していた。

 

 いつか見た冷淡そのものだったアリベールの姿はまったくなかった。姉を殺されたことをこれ程までかと恨む、ただの妹の姿がそこにあった。

 

 ホアンは完全にアリベールを引き離して、壁まで後退させた。

 

 怒りの残り香のようなものが部屋を支配していた。沈黙が鼓膜を破り捨てるかのように痛い。

 

 そんな沈黙を切り裂いたのは一人の男の声だった。ずっと沈黙を保っていアンヘルが顔を上げた。

 

「それは、嘘だね」

 

 全員が疑問符を一瞬浮かべた。

 問われた少年が勢いよく口吻を尖らせる。

 

「なにが嘘なんだッ! 言ってみやがれッ!」

 

 なにが起きても、なにが語られても奇妙なほど沈黙を保っていたアンヘルが顔を上げてゆっくりと歩み始めた。

 

 一歩、二歩と近づくアンヘルに、縛られた少年は戸惑いを露わにして瞳を揺らしていた。

 

「第一に君は恋人じゃなかった。彼女の話では、その使用人は結婚相手がいるとのことだった。それに――」

 

 アンヘルがにじり寄る。少年は怯えたように顔をのけぞっていた。

 

「どうして、君の恋人を乱暴したプロビーヌ商会の傭兵連中と組んだの? 一応、君の思い人を襲った連中だろう?」

 

 その言葉に反応したのは、縛られた少年ではなく、アリベールだった。

 

「あなた、そうなのッ!! あの、プロビーヌの害獣に情報を売り渡したのッ!」

 

 今まで、少しばかり同情の雰囲気があった部屋の空気が一変していた。事情のわからぬホアン以外の護衛やアリベールは、少年を激情に染まった目で見つめていた。

 激情渦巻く中心の少年は額から汗を大量に流していた。

 

「だから何だってんだよ。それによ、どこにそんな根拠がっ――」

「根拠なんてなくていい」

 

 アンヘルだけが、冷静な声で切り捨てる。

 

「こんな大掛かりなことができるのは、組織だった集団だけだ。けれど、良家の子女を狙う奴はいない。個人的恨みを持つ、あの商会以外には」

 

 だからこそ、とアンヘルが続ける。

 

「君がなにをしたかなんて、どうでもいいよ。ただ、聞きたいだけなんだ。これから、プロビーヌ商会がなにをするのか、ただ――」

「待ちなさいっ!」

 

 続ける言葉を、アリベールが激しい言葉で遮った。

 

「ここからは、私が聞くわ。これは、家と家の問題なの。だから、あなたは口出ししないで」

 

 その言葉を受けて、アンヘルは意外にも簡単に引き下がった。情報を引き出した張本人だというのにもかかわらず、奇妙な物分かりの良さだった。

 

 アリベールは縛られている少年に向き直った。

 

「聞かせなさい。プロビーヌの目的は? あなた、どんな取引をしたの?」

「い、言えるかよッ! 俺が情報を売ったとなりゃ、殺されちまうッ!」

「よく考えなさい。今、言わなければ、この場で殺されるわよ」

「だ、だからってあいつらに殺されるよりはマシだ。あんな、あんな奴らにやられるぐらいなら、自分から死んでやるッ!」

 

 心底怯えたように少年が言った。アリベールが短剣で脅そうとするが、一向に靡かない。さもありなん。マカレナにあれほどの痛苦を味合わせた相手である。短剣を握った程度の少女風情では、比べようがなかった。

 

「なら、君が街を出る資金や次の街でやり直す資金を提供するよ」

 

 八方塞がりの状況を断ち切ったのは、またしてもアンヘルだった。

 

「黙っていても、今度は捕まるだけだ。なら、逃げられるように資金があれば大丈夫でしょ? それなら――」

「勝手に決めないで、こんな奴を野放しにするっていうのッ!」

 

 アリベールが激昂する。しかし、アンヘルは取り合わない。

 

「けど、ここにいる奴らが黙っちゃいない――」

「もちろん、そうだ。だから、しっかり思い出して。重要な情報だったら、ぼくが必ず逃げられるように手配するから」

 

 アンヘルがにっこり微笑んだ。君の味方だよと副音声が聞こえるほど、優しい笑みに見えた。

 

 提案された少年は、長い間悩んでいた。アリベールやイマノルはその間もずっと抗議していたが、なにが正しいのかは分かっているのだろう。最終的には、反論しなくなった。

 

 悩みに悩んだ少年は、絞り出すようにして言った。

 

「どれくらい、もらえるんだ?」

 

 なんと浅ましい姿勢だろうか。しかし、これが、これこそが、ホアンのやった行為そのものなのである。

 

 そこにいるアンヘル以外が、人を殺せそうな視線で睨んでいた。

 

「三百」

 

 アンヘルが小さく告げた。後ろでアリベールが渋々頷いている。

 

「も、もう少し上げてくれないか?」

「……なら、五百だ。これ以上は無理だよ」

 

 勝手に値段を引き上げたアンヘルを睨みながらも、アリベールは渋々頷いていた。姉を殺した犯人に金を渡す。どれほどの苦痛を伴うのだろう。想像すら、したくなかった。

 

「あ、ああ、分かった」

「なら、話して」

 

 アンヘルが静かに続きを促す。

 

「あ、ああ、その、あんまり情報を知っているってわけじゃないんだけど、ただ、次のターゲットは逃げた商品を回収するとかって言ってたな」

「そのターゲットとは?」

「ええっと、たしか、主任監督官のダビデだかダビドだかって奴の女房らしいが……。これ以上はわからねぇ、なあ、ちゃんと喋っただろ。なあ、だから許してくれよ」

 

 少年がみっともなく懇願する。

 

「そんなことで助けるとでも思っているのッ! 知っているんでしょうッ! さもないと――」

 

 アリベールが短剣を掲げる。少年は怯えたように慄いていた。

 

「ま、待ってくれよッ! ちゃんと、ちゃんと言ったさ」

 

 震える声で弁明する。此処にいる誰もが納得していない、そんな空気だった。

 そんな中、アンヘルだけが反対の言葉を述べた。

 

「信じるよ」

 

 小さく言った。

 

「本当か。あ、ああ、助かったよ。本当、信じてくれて」

「ふざけないでッ! あなた、さっきから何様のつもりよッ!」

 

 アリベールの言葉にも、アンヘルは取り合わない。

 すべての言葉を無視して、アンヘルがゆっくりと少年に近づいていく。その顔には、柔和な笑みを浮かべていた。

 

「た、助かったよ、ありがげぇ――」

 

 安堵のため息を漏らしながら、感謝の言葉を漏らそうとした瞬間だった。

 

 アンヘルは腰の刀剣を目にも止まらぬ速度で抜き放つと、少年の口腔に正面から突き立てた。

 

 感謝を告げようとした少年の口腔、その喉奥を、赤と青の光の迸る刃が貫く。傷口から漏れる血流が、とうとうと刀を伝って刃を切っ先まで朱く染め上げていた。

 

 アンヘルは、物言わぬ死体になり果てた少年を睥睨しながら、切り払うようにして剣を抜きさった。

 

 剣に付着した血潮が周囲に飛散する。少年の遺体は、椅子ごと後方に倒れた。

 

 アリベールは絶句している。アンヘルの凶行を背後から見ていた彼女は、人がたわいも無く死ぬ様子を見て、驚き戸惑っていた。

 

 だが、アンヘルの行為を正面から見ていたイマノルとホアンはまったく別の感情に包まれていた。

 

 豹変。

 豹の毛が気候の変動によって変化を余儀なくされ、斑紋が鮮やかに移り変わったようだった。

 

 当初、この部屋に入った時、別人になったような印象を受けた。面構えには変化なかろうとも、まるで中身をそっくり入れ替えた。そんな印象が。

 

 その、正体に漸く思い至った。

 

 それは、龍だ。

 すべてを焼き尽くし、それでも未だ足りぬと燃え盛る、人のすべてを飲み込む龍の凶相。

 

 横に立つイマノルだけではない。

 ホアンは震えた。心胆から凍え震えた。剣の腕で優っているなど、なんの意味を持たない。

 

 龍に抗うこと敵わず。

 よく知っていたはずの人間は、其処にはもういなかったのだ。

 怪物が、そこに誕生していた。

 

 唯一、その燃える瞳を見なかったアリベールだけが、死体に青い顔をしたままアンヘルに尋ねる。

 

「――どうして、殺してしまったの? なんの、なんの情報もないじゃない。これから、どうするの?」

 

 それは戸惑ったような声だった。

 しかし、アンヘルはにべもない返答だった。

 

「君には関係ない」

 

 双眸の奥は、燃え滾っていた。

 

 

 

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