――くそ、くそ、くそッ! なんで、なんで俺はララノアを一人にしたんだ。
美しい妻が、奴隷商人などというおぞましい下劣な者どもに捕まれば、どれ程責め苦を負わせられるのか。己の大切な妻を見失ったダビドは、頭がカッカと来ていた。が、手がかりがない。何処に攫われたのやら、完全な行方知れずだ。
ダビドは部屋中をひっくり返して、手がかりになりそうな物を探した。
部屋中はか弱い女性たった一人を拐ったとは思えないほど荒らされている。大規模摘発の報復、そう思い至るのは当然の帰結だった。
だが、なにも見当たらない。仕事道具を持ち帰っていないのだ。価値あるものもない。
ふと、壁に飾られている地図を見る。それは、日夜摘発に向けて準備していた頃に作成した、区画の情報が示された塗り分け地図だ。唯一、記念の品として飾ってあった物である。
だが、先日までとは違う点がある。それは血文字だった。
『女房を返して欲しければ、許可印を持ってこい』
血塗られた文字と一緒に、ある区画が朱く塗りつぶされていた。そこは、すでに廃墟と化した場所であった。
奴らは、妻を利用して、便宜を図らせようとしているのだ。
その事実に気がつき、頭が煮えくり返りそうだった。
心臓は鼓動を早め、巡る血が沸騰していく。
――俺が、おれが守ってみせる。
ダビドが自身の巨躯を怒らせ、憤怒を浮かべる。
得物と印鑑を握りしめ、部屋を飛び出した。
部屋を飛び出して、右手側に曲がろうとした。それを遮ったのは、若い男の声だった。
「あの、すみません。貴方がダビドさんで宜しいのでしょうか?」
「今、忙しいんだッ――」と怒鳴ろうとして振り向いたが、ぴったりと口が固着した。
声を掛けてきたのは、パッと見何処にでも居そうな若い男だった。
歳の頃は少年から青年の盛年というところだろうか。揃わない探索者風の格好は賤民のようで、垢ぬけていない容姿と相まって上京者の雰囲気も漂っている。
容姿はこれまた平凡だ。上中下に分ければ中だが、上下で分ければ下に入るだろう。適当にナイフで切ったと思われる雑で短い茶髪に日で焼けた肌。若者特有のソバカスが頬に浮いていた。童顔と相まって、幼子が好きな女性には顔だけならそこそこ受けそうだが、自身の巨躯より頭一つ分だけ低いという、この齢にしてはそこそこ大きめの体格で、チグハグというか、アンバランスと言った印象を受ける。つまり、強くて男らしい理想男性像からは程遠く、それでいてか弱く美しい帝国風美男子からも程遠い、なんとも不憫な男だった。
使用人の倅、というのがもっともしっくり来るだろうか。仕事において活躍する人間は、端正な顔つきか、不男であることが多い。ダビドの短い監督者の経験から言えば、死ぬまでうだつの上がらぬヒラ社員のような容貌であった。
だが、ある一点だけ、その一点だけは今までに経験したことのない光を放っていた。
しじま一点に煌々と輝く昏い双眸。
その奥には今まで見たこともないほど、大きな炎が燃え盛っていた。
ダビドはその視線を受けて、一瞬、自分が何を追っているのか忘れて縫い付けられた。
目の前の男は柔和な笑みを浮かべて問いかけてくる。
「職場の方からダビドさんのお宅を伺ったのですが、貴方が血相を変えて出ていこうとしたのが見えたものですから。もう一度お聞きしますが、貴方がダビドさんで宜しいのでしょうか?」
スラスラと落ち着いた声で男は語りかける。だというのに、世界が此処だけ切り取られたかのように、静謐さを保っていた。
いつもは煩い街路の喧騒が嘘のように聞こえない。ピタッと完全に世界が止まっているようだった。
ダビドの額から一筋の冷や汗が流れ落ちた。
「ああ、おれが、ダビドだが……。何か用か?」
絞り出して喉を震わせた。
男が頷き、目蓋を閉じて下唇を一瞬噛んだ。
「血相を変えていらっしゃったようですが、何かあったのですか?」
「い、いや、何もないよ。ちょっと忘れ物があっただけさ」
大ごとにすれば、取り返しのつかないことになるだろう。
だが、それよりも、ダビドには目の前の男が信用できなかった。
どこか、殺伐な、大広間で斬首に処された大犯罪者と酷似した雰囲気を纏っている。目的の為なら手段を選ばない男の眼だ。此れ程の若さで強烈な輝きを放てることに、ダビドは慄然を隠せなかった。
男は小さく横を向き、今飛び出てきた家に視線を向けた。
この男の目的はわからない。だが、これ以上嗅ぎ回られるわけにもいかなかった。
「君は誰なんだ? 目的はなんだ?」
震える身体を押さえつけ、男に毅然と立ち向かう。この状況でも無ければ、言葉も出なかっただろう。
男は一瞬逡巡するような様子を見せた。
「…………私は、ホアンというものです。その、貴方の事務所に助けられたので、お礼を一言申し上げようと参りました」
直感で、嘘だなと思った。
確証はなく、話に矛盾が見つけられるわけでもない。が、態度が真実だとは到底思えなかった。
だが、しかし、取り合っている暇はない。
この様子から察すれば、喫緊の事情ではないのだろう。ダビドにとって、妻以外のことは細事にすぎた。
「ああ、そうか。だが、今は忙しいんだ。また、今度にしてほしい」
――こんな不気味な男など、いつ迄も相手にしていられない。
男は話を打ち切られると、すぐさま礼をした。
ほっとしたのが本音である。だが、男が柔和な笑顔で、それでいて悲しそうな瞳で「お手数をお掛けしました」と言ったときの表情が頭から離れなかった。
§
集積場第四区画の外れにある大きな倉庫。大きな灯台が夕日の影を引いて、暗い影を落としている。ダビドは先客が開け放った鉄扉を抜けて、広大な倉庫へと進む。
倉庫内は大規模摘発の名残なのか、大量の貨物箱で埋め尽くされており、乱雑に積まれた荷物が砂上の楼閣のように崩れ落ちそうだった。
混凝土で敷き詰められた敷地が、薄く積もった塵芥で汚れている。居並ぶ倉庫の窓からは、見捨てられた廃屋が
頑丈そうな奥の扉に佇んでいる男を見つけて、ダビドは叫んだ。
「おまえ、ララノアは、妻は無事なんだろうなッ!!」
「へへへ、なあ、そんな焦んなって。ほら、アレ持ってきたんだろ?」
男は下卑た顔のまま、尋ねる。声色はどこかニヤついていた。
ダビドは懐から印鑑を取り出す。
「へへ、わかりゃいいのよ。ほら、こっちにあんたの女房はいるぜ」
男は背後の扉を開いた。ダビドは男を突き飛ばして奥に入る。
駆け抜ける。
埃の舞う通路を抜けて、もう一つの大きな扉に差し掛かった。力のかぎり押す。錆の浮いた扉はギギギと音を立てながら開いた。
ララノアの名を叫ぼうとした瞬間だった。小さな女の声が、ダビドの喉を詰まらせた。
断続的に女の叫び声が響いている。同じペースで、同じ間隔で響いている。張り裂けそうな、千切れそうな、悲痛でくぐもった声だった。
次いで届いたのは、
しだいに、ダビドの足が止まる。
同時に、恐るべき、決して認められない最悪の結果が見え隠れした。
「そんなに焦んなって、なぁ」
先ほど突き飛ばした男が、ニヤついた顔のままダビドの肩に手を回す。常なら弾き飛ばす行為も、今は応じることができない。
男に連れられるまま、ダビドは荷物に遮られているその声の元に辿り着いてしまった。
「かはッ――」
奥の、更の奥の布の上、男たちが取り囲む中央でそれは蠢いていた。
ダビドは、一瞬、それがなんだかわからなかった。
脳が働くことを、その事実を認めること拒絶しているのか。ただ、白い物体が、茶色の物体と絡みあっているとしか、認識できなかったのだ。
それらの物体がリズム良く蠢くと、白い物体からくぐもった悲鳴が漏れた。鳥の絞め殺される声に似ていた。
ダビドは声に導かれて、その物体に焦点を合わせた。少しずつ、その朧げな輪郭に焦点が合う。
リズムに乗って動くその茶色い物体は、男の尻だ。そして、その左右から、綺麗なしろい足がスラリと伸びている。手は見えない。後ろ手に回されたまま、下敷きになるような格好で戒められているのだ。
認めたくない。だが、嫌が応にも、はっきり見えてしまった。
――ララノアが、泣いていた。
己の妻は、仰向けにされ、白い足を男の両腕に抱えられ、のしかかられている。その体は、いたぶられた後なのか、赤く滲んで、また度重なる淫靡な行為でピンク色に火照っている。そして、眦から涙をこぼした痕が尾を引いて、化粧の崩れた痕となっていた。
微笑む太陽と冠されたその笑顔は曇り、絶対に避けなければならない運命が、彼女を襲っていた。
その光景を認識した瞬間、心臓が一瞬止まり、頭の中が焼き切れそうなほど燃え盛った。
「貴様らぁああああッ!!」
嫌な予感はしていた。
アルン人の人身売買を企む奴らが、主任監督官の許可如きで済ませるのかと。あの麗しき妻を見て、何もせずにいられるのかと。
だが、蓋をして、楽観視していたのだ。必ず、俺が助けると。そう願っていたのだ。
だが、現実は地獄そのものだった。
ララノアは、もはや性奴隷同然に扱われていた。裸にむかれ、腕を戒められ、口輪がはめられている。ならず者共に攻め抜かれ、がらんどうとなった少女は、虚な目のまま与えられる刺激に声を漏らしていた。
怒りに、怒りに震えた。
ララノアの、金糸を束ねたような美しい髪も、豊満な乳房も、丸く柔らかな臀部も、長くてシミひとつない白い脚も、この目の前の男たちに貪られたのだ。
ララノアが甲高く鳴いた。同時に男が腰を
「ぶっ殺してやるぅううう!!」
ダビドは握っていた棒を掲げて、ララノアを嬲っている男に飛びかかろうとした。だが、それは叶わず、後ろから殴られ、倒れる。背中には先ほどの男が腰を下ろし、体重をかける。ダビドはうめき声を上げながら、男たちを見上げるしかなかった。
「ほおう。威勢がいいな」
集団の中でも一際大きい体格で禿頭の大男は、ニヤニヤとダビドを睥睨した。
他の男たちが半裸となって行為に耽る男を囃し立てているにもかかわらず、この男は優雅に酒を飲んでいた。見かけこそ粗野な傭兵そのものだが、丸太のような太い腕には似合わない盃運びといい、動作の節々に只者ではないことを伺わせた。
泰然自若に盃を傾けながら、目の前の光景を肴に楽しんでいる風な、そこいらの傭兵とは別格の風格を帯びている。女の悲鳴と賊の叫びの坩堝の中で、大男は髭をしごいていた。
「貴様ぁあああッ! なにが目的なんだッ! おまえらの望み通り、印鑑は持ってきたぞッ!! 早く、早くララノアを離せッ!」
ダビドは押さえつけられたまま、大男を真っ直ぐに睨みつけた。
だが、顔色一つ変えず、顎で部下に指示した。部下は指示されると、ダビドの手から印鑑を奪いとった。
大男は部下から手渡された印鑑を眺め、手の中で弄ぶ。そして、少しばかり思案し始めた。
「何が目的か、か。そんな事を問われたのはおまえがはじめてだ」
「な、なにを」
大男は、戸惑うダビドを放って杯を置くと、腕を組んだ。その声は天から降ってくるような重圧を伴っていた。
「愉快、それにつきる」
「そん、なこと」
「剣を振るってなにもできぬ者どもを斬り殺すのが楽しい。妻や子供を奪われ、屈辱に塗れ、それでも立ち向かえぬ愚か者を見下すのが楽しい。時には復讐に燃え、立ち向かってくる者たちを、此れでもかと嬲り、そして、またそいつの大切なモノを奪ってやるのが楽しい。そして、そんな奴らが築き上げた家や村に火を放ち、金を奪い、奴隷にまで叩き落として絶望に染まるのが楽しくて仕方ない。つまり、結論を言うと、俺はおまえらのようなつまらない日々を送っている奴らから奪い、跪かせることが愉快でしかたないと言うことなのだろうな。たとえば、この女だ。この女のように、手のついていない新雪のような体を美しいとは思うが、俺はそれを汚したいのだよ。その美しきを踏み荒らし、泥まみれにして、穢し尽くす。それこそが俺の望みだ…………。だが……」
異常な男であった。けれども、有無を言わせぬとてつもない力が込められていた。
「――最近はなにをしてもつまらぬ。なにも、響かぬ。渇きが俺を突き動かすのだ」
大男は苦悩に揺れている。だが、その狂気は昂っていくばかりだ。ダビドどころか、仲間の男たちも恐怖に塗れていた。
ダビドは俯きながら唇をかみしめた。
この目の前の大男の言葉は、官吏として平凡に生きてきたダビドにとって異世界の住人のセリフに聞こえた。
幼い頃から、帝国人、そして文明ある人間として最低限の規範を両親から教わった。人を傷つけるな、欺くな、貶めるな。宗教も、文化も、国家すらもそう説いている教えを、目の前の大男はすべて否定していた。
大男は立ち上がる。そして、ゆっくりとダビドへにじり寄った。
「おまえでは、思ったほど楽しめそうにないな」
大男はダビドの髪を掴み上げると、頭を上に向かせ、つまらなそうな顔で顎をしゃくった。手下たちは指示を受け、ララノアを抱き起こし、四つん這いにすると、こちらに顔を向かせ後ろから嬲り始めた。
ララノアの口から悲鳴が漏れる。
ダビドは顔を上げさせられたまま、己の妻で他の男たちが土足で踏み入る様子を眺めさせられる。
「うぅうううう、うううう!!」
「そうだッ! もっと、もっとだッ!」
大男はダビドが唸るさまを楽しそうに見届け、続ける。
「おまえの恋女房は、今日からおれたちの共有便所だ。おまえのようなつまらぬ男に、こんな美貌が傅くなど、宝の持ち腐れだ。今日から、おれたちが便利に使ってやろう」
「ら゛らのあっ」
ダビドは大男の宣誓を聴くと、狂ったように暴れ出した。しかし、男にのし掛かられ、頭を掴まれている現状ではその場から一歩も動けなかった。
大男は立ち上がると、丸太のような大腕を振るい、ダビドの脇腹を打つ。そして、蹴りを何度も放った。
「ぐ、ぐえぇぇぇ」
ダビドは肺の空気をすべて吐き出しても止まらず、血を吐き出した。
大男はつまらなそうに立ち上がると、今度はララノアに近づいた。腰の短剣を引き抜く。
「ほら、どうした、己の妻を奪われる気分は? どうだ? 悔しいか。悔しいと言えッ!!」
背後から嬲られているララノアの頬を撫であげる。ダビドは殴られた痛みで動くことができない。霞んだ視界の先で、ララノアを見つめた。
大男は心底つまらなそうな顔をした。
腰から短剣を引き抜く。そして、ララノアの白い腹に突き刺した。
「アンヘリノ大将。殺しちゃ不味いですよッ!」
背後で腰を振っていた手下が悲鳴をあげる。それを大男は拳で黙らせた。
「立ち上がれッ! 憎かろう? 悔しかろう? 妻を奪った俺がッ」
イカれた男である。この目の前の男はダビドが復讐してくるのを心底楽しみにしているのだ。破滅願望と言い換えてもいい。闘いこそが、目の前の男を癒す術なのだ。
アルン人の性奴隷であるララノアも、監督官として物資の許可を一手に引き受けるダビドの権限すらどうでもいいのだ。
「ちっ、骨のない」
しかし、ダビドは動けない。
ダビドは大男ではあるものの、ただの官吏である。武技もなにもない。
アンヘリノは力加減を間違えてしまった。体格だけを見て、期待できる奴だと誤解した。無造作に放った蹴りは肋骨をへし折り、肺に突き刺さっていた。
脇腹が内出血で青く染まっていく。同時に、ララノアの腹から夥しい量の血が溢れていく。
――ごめん、ごめんな。きみを守るって、誓ったのに……
ダビドは眉間にシワを寄せ、苦悶の表情を浮かべながら、やめてくれと呟くことしかできない。
己の女房を守る。男としての尊厳を根こそぎ奪われ、冷たくなっていくダビドを見据えながらアンヘリノはつまらなそうに見ていた。
優しい微笑み。誰もが一目で引かれる美貌。意外にも頑固な一面。ダビドは彼女の善良さと温かさに惹かれていた。夫婦の契りを結び、彼女が再び微笑みを取り戻したとき、これほどの幸せはないとさえ考えていた。
苦しみの中、屈辱の中、犬のように這わされ、目の前で妻を嬲られている中で、絶望が徐々に染み入ってくる。
ララノアの脇腹から流れた血が伝って、ダビドの元まで伝ってきていた。がらんどうの瞳が嵌る顔は、血が抜け真っ青になっていた。
――許してくれ。許されるなら、来世でももう一度……
滲んでゆく意識のなか、パチパチと弾ける音が響きだす。
地獄の狭間で、ダビドは周囲が燃えていることに気がついた。
手下の男たちが驚き戸惑ったように騒いでいる。
「ああッ!? なんだぁ、こりゃ?」
突然の轟音。
それと共に、雪崩のような炎が全員を包んだ。
燃料でも残っていたのか、巻き起こった炎がダビドたちを飲み込んだのだ。
死にゆくダビドの視界に、焼け焦げる手下たちの姿が映る。
神は、神は見捨てていなかった。
ダビドは必死に腕を伸ばしながら、動かぬララノアの頬を撫でた。
――かならず、君を守るから。だから…………。
薄れゆく景色の中で、大男だけが一点を見据えていた。その先には、茶髪の少年の姿があった。
§ § §
「よう、また会えるんじゃねえかって楽しみにしてたんだぜぇえええ!! 今度こそ、俺さまを楽しませてくれるんだろうなぁ!」
炎で荒れ狂う倉庫の中で、禿頭の大男アンヘルノは凄絶に嗤っていた。
部下や嬲り続けた夫婦すら気に留めず、じくじくと焼け爛れている自らの半身すら斟酌せず、此方を睥睨している。
相手はプロビーヌ商会きっての傭兵、他者を圧倒する巨躯に、膨大な経験。何をとっても歴戦の戦士である。
アンヘルもその腕前は身を持って体感した。一対一で勝負しても、まず勝ち目はないだろう。腕力、瞬発力、経験。あらゆるすべてにおいて相手が上なのである。だが、逃げるという選択肢はまるでなかった。
ついに捉えた敵だ。友に裏切られ、人を殺し、さらに畜生にまで身を落とした。ここで逃げるということは、今までのすべてを否定することになる。死など二の次だ。
「あなたの狙いは、一体何なんだ。誘拐して、乱暴して、殺して。何の得がある」
「さっきもいったが、得なんてものは如何でもいいのよ。確かに、仕事として、逃げ出した奴隷に制裁を加えろと指令を受けてはいるがなぁ。だが、そんなことよりも大切なことがあるのよ。ただ、今が、いまが愉しいかってことよッ! 今楽しめなきゃ、如何にもならねぇだろうがよぉおお!!」
「――そんなことで、マカレナさんを殺したのか」
「うん、ああ? マカレナってあの女か。もしかして、テメェはアンヘルって云うんじゃねぇか?」
大男が頬についた煤を右手でスッと拭った。
「だから何だっていうんだ」
「ハハハ、やっぱりそうか。この前の、お坊ちゃんの仕事でよ、如何にも気乗りしなかったんだが、その女が死際に何回もテメェの名を呼んでやがったからよ。ツマンネぇ女で、一日も輪せばさっさと壊れやがるから、気にも留めてなかったが、これも天の配剤ってやつか。最後の最後で盛り上がってきたじゃねぇかよ」
頭の中が激烈に燃え上がった。目の前の男を生かしておくことなど、誰が許しても自分だけは許せそうになかった。
こんな、こんな男によって、彼女の人生は潰えた。
なら、今こそ、己の手によって、冥府へと送ってやろう。
苛烈に、激情が燃え盛り、周囲の炎すら飲み込まんとする大炎になり蜷局を巻いていた。
「しね」
「いぃぃぃいいねぇ、やっぱりおまえは、いつか見かけた時から違うと思ってたんだよ。他の傭兵どもや腰抜けの子分どもとは違って、まったくこのオレさまにビビった様子がねぇ。今さっき、ボコボコにしてやった旦那とはわけが違う」
アンヘリノは二人寄り添って死んでいるダビドとララノアを見て嘲笑をあげる。大きな歯を剥き出しにして、まるで百獣の王のように咆哮をあげ、野卑な舌なめずりをした。
「ほら、やろうぜ。闘いってやつおよぉおおお」
男は半身の爛れなど気にせず、腰の剣を引き抜いた。決戦の火蓋がきって落とされた。
燃え尽きた背後の屋根が崩れ落ちる。残響が頭の中にじんと響いた。煤の匂いと灰があたりに立ちこめている。
均衡を破って、呪文を唱える。
「
後方に相棒のシィールを召喚し、同時に目の前に新たな仲間、幼火龍のレッドコドラ――この倉庫に火を撒いた張本人を召喚する。
何時もはまったく言うことを聞かない幼龍フレアだが、主人の増悪に乗せられたのか、気焔高らかに吠え猛っている。
アンヘルはフレアの尻尾を掴んで放り投げると、奔馬のように突進した。
幾らなんでも召喚士だとは思わなかったのか、龍を投げ飛ばしたアンヘルに対して反射的におよび腰になりながらも、飛びつきながら噛み付いてくるフレアの牙を剣で迎え撃った。
体重の軽い幼龍とはいえ、されど龍である。アンヘリノは弾き飛ばした衝撃でタタラを踏んだ。
それが隙だった。
アンヘルが號と光の迸る魔導剣を振るった。ガキンと甲高い金属音が鳴り響き、相手の刃物と噛み合った。
「やれぇ、シィール!!」
溜めに溜めた氷の息吹で己ごと飲み込ませる。絶対零度の空間が放射状に広がり、燃え盛る炎の中、銀の輝きを放ちながら二人を飲み込んだ。
アンヘルは外套で頭を包みながら、強烈な体当たりを喰らわせると、冷気の放射される方向にアンヘリノを蹴り飛ばした。
リーンの回復能力があるとはいえ、明らかにイカれた行為である。だが、アンヘルには己の死すら勘定に入れることができない。冷気に包まれ、炎煙に焼かれ、それでも剣を振るった。
アンヘリノは崩れた態勢を戻そうと、燃え盛る炎で焼け焦げている部下たちを蹴り飛ばし、こちらに向かわせる。男たちは半死半生のまま、わけもわからず走ってきた。
長剣が閃いた。
男は両手を突き上げ、万歳の格好のまま顔を両断され、背後に倒れた。そのまま横の男の顎を蹴り上げると、腹を思う存分に引き裂いた。真っ赤な流血が飛散し、燃え盛る炎に気休めの消火の水を撒いた。
アンヘリノが勢い余って蹴りつけすぎた男が地面に倒れた。アンヘルは、そのまま首元に足を置いて、ごきりとへし折った。
その瞬間、体勢を立て直したアンヘリノが剣を閃かせた。半身が焼け焦げ、使い物にならないというのに体重の乗ったソレは、アンヘルの胸元を割いた。
アンヘルは喘ぎながら後方に飛んだ。
リーンが癒しの光を輝かせる。両脇には、シィールとフレアが轟々と敵を睨みつけていた。
「まさか召喚士とは、さすがのオレさまも恐れ入ったよ」
言葉とは裏腹に嗤っていた。心底愉快というように、嗤っている。
アンヘルは呪文を唱える。それは、目の前の男を殺す呪怨の言霊だ。
燃え盛る炎で身体は蝕まれ、肺は活力を失っている。だが、だからなんだというのだ。身体を燃やせ。頭を凍らせろ。立ち向かえ。痛みなど必要ない。苦痛はすべてデリートするのだ。死がその歩みを止めるときまで、闘うのだ。
焼け落ちてきた木材が肩に当たり、よろめく。アンヘリノに切り裂かれた傷へ炎が入り込み、体内を焼いていた。
だが、まるで関係ない。剣を天上に掲げ、握る拳に力を込めた。
飛翔する。流星の如き銀線が振り下ろされ、アンヘリノの繰り出した長剣とかち合った。
火花が散り、鈍色の刃がからみあう。両者は額を寄せ合い、視線をかち合わせた。
「おらぁあああ! 戦いってのは、こっからだぜぇええええッ!!」
アンヘリノは片手だというのに、常人を大きく超えた力で対抗する。只人なら一歩も動けぬような重傷であるはずなのに、兇悪な笑みを浮かべて、アンヘルの刀剣を押し込んでくる。
グイ、グイと押すたび、アンヘルは足を引きずりながらズルズルと後ろへ下がった。
天下無双。
傭兵として暴力の世界を生き抜いてきた大男の底力は、自身やホアンの剣技などと比べればまるで児戯に思える。ごおおと別のエンジンが備えられているかのように、馬力がまるで違った。
上からのし掛かるようにしてアンヘルを押しつぶす。
主人を助けようと眷族たちが一斉にアンヘリノへ殺到する。だが、アンヘリノは飛び退くと、足を振り回してシィールとフレアを吹っ飛ばした。
――くそっ、強すぎるッ! もう、動けるはずないのに。
炎の瓦礫に突っ込む眷族を見る。すると、アンヘリノは巨大な長剣を頭上で旋回させ、低い唸りをあげた。烈風に似た轟音が響き渡る。周囲の炎が巻き込まれるようにしてアンヘリノを取り巻いた。
「よそ見してる暇がテメェにあんのかよぉおおおッ!!」
アンヘリノは獰猛な笑みを刻みながら、全身する。巨人が炎の中を歩む。それは、神話の巨人にふさわしい威容だった。
汗が噴き出て、ポタポタと落ちた。アンヘルは剣を片手で構えて、徐々に後退した。
「こんなんで、くたばんじゃねぇぜぇえええ!!」
轟音を伴い、大気と炎を割って、長剣が繰り出される。水平に振られた長剣は、アンヘルを断ち切らんと迫る。
アンヘルは右手を刀身に添え、振るわれる剣を迎え撃った。
紫電が貫く。巨躯から振るわれた長剣は、大凡、人が繰り出したとは思えないほどの轟音を立て、防御ごと数メートル吹き飛ばした。
ゴロゴロゴロと煤の床を転がる。手は龍を受け止めたときと同じ衝撃を覚えていた。
人外。悪魔や龍と同じ、人知を超えた剣撃であった。
地面に伏せながら、相手を見上げた。双眸が、相手を呪い殺さんと貫く。
アンヘリノは其れを見て、本当に愉快そうだった。
「いいねぇ、その目。堪らねぇよ。それでなくっちゃいけねぇ。男ってのは、闘いってのは、そうでなくちゃいけねぇ。世の中、こんなやつがいねぇと、詰まらなくてたまらねぇよ」
「なにを」
「俺たちを一網打尽にしようと、こいつらが嬲られるのを見ながら、ずっと身を潜めていたんだろ? 手を伸ばしている旦那を見て、絶望に染まる女房を見て、それでも復讐の牙を研いでいたんだろ?」
「……だまれ」
図星だった。
卑劣極まりない行為だ。ダビドが死にゆくさまを、ただじっと眺めていた。ただ、チャンスが訪れるまで。
『理屈が間違ってないと思えば、どんな障害があろうと実行するべきだ』とは誰の言葉だったか。もはや思い出せないが、拒み続けてきた理念だったはずだ。だが、あらゆる障害が立ち塞がった。だから、情も倫理も捨て立ち上がったのだ。
だが、それをこんな男に見抜かれた。アンヘルを見透かしたように、嗤っている。
「黙らんさ。俺はな、嬉しいのよ。愉しくて、仕方ないのよ。女や金なんてのは、気晴らしの手段なのさ。テメェ見てえなキチガイ野郎が、こうやって復讐にくるのが、いっちゃんの楽しみなんだよぉおおおお」
「黙らないなら、今すぐ、その口を開けないようにしてやるッ!」
脳髄が沸騰し、爆発した。暗い怒りが燃え上がる。握った長剣が閃いた。
一太刀目。
剣線が業火となって落下し、アンヘリノの剣を握る腕を薄く割いた。
二太刀目
氷結のように鋭い突きがうねりを伴って直線に走る。耳元をスパッと割った。
三太刀目。
水平に薙いだ刃が紫電となって、大男の胸元を切り開いた。
「ぐぁあああ」
さすがのアンヘリノも悲鳴をあげた。だが、すぐさま反抗精神を立ち上げ、蹴りを放った。
明滅する視界の中で、大男が片手で長剣を掲げる。信じられない耐久力と膂力であった
「ぶっ殺してやるぅううう!!」
だが、アンヘルも黙ってはいない。大男の後方から這い出てくる水色の影に、思い切り叫んだ。
「シィール。引き倒せッ!」
蛇のように這い出た青き龍は、アンヘリノの爛れる足に噛みつき、思い切り引き倒した。
巨躯の弱点は、いつもその足にある。いつの世も巨人は足元を崩され、倒されるのだ。後方から飛び出た眷族には、さすがのアンヘリノも対応できなかった。
アンヘルは剣を杖のように突きながら、歩み寄る。そして、蝙蝠のように外套を羽ばたかせながら飛びついた。
アンヘリノが必死の形相で体をひねる。アンヘルの繰り出した渾身の突きは、肩口を切り開いて、膨大な量の血流を噴出させた。
バッと地面に朱い花弁が咲く。血飛沫が顔を濡らした。
アンヘリノが恨みがましく剣を振るう。苦し紛れに繰り出された斬撃が脛を切り裂いた。体重が乗っていないため、大きな傷ではないが、無防備な箇所への斬撃に苦悶を漏らした。
アンヘルは痛みを堪えながらも、必死に睨みつけた。アンヘリノもゆっくりと起き上がる。その双眸は憎々しげに燃え上がっていた。
だが、両者とも限界が近い。
夥しい出血が体力を奪い、燃え盛る炎が死へ誘っている。
それでも、目の前の敵を討ち払わんと、両者の空気は極限に達していた。
大男が剣を構える。それを見て、アンヘルも対峙した。
耳を劈くような咆哮をあげる。地を這うように剣を構え、姿勢を低くした。ゴリゴリと歯車が始動する。蒸気機関に変わったかのように、身体の出力が増大し、溢れ出る力が駆動力の証明となり鳴っているようだった。
弾丸のように疾駆し、躍りかかる。と見せかけて、アンヘルは地面に横たわるダビドの死体を掴んだ。
寄り添う二人を引き裂いて、死体を掴んだまま放り投げる。ダビドは、うねりをあげて飛んで行った。
――絶対に、殺してやる。
卑劣、極悪、最低。それでも、それでも、許せないのだ。眼前に立つ、男が。
龍が吠えたける。殺せと、哭いていた。
投擲に呼応して、シィールとフレアが冷気と炎の息吹を放射する。三方から浴びせられた冷酷無比の攻撃に、アンヘリノは腕で顔を庇うだけだった。
ダビドの死体によって、アンヘリノは倒れる。それを見たアンヘルは瓦礫に向かって駆けだした。
崩落した瓦礫を駆け上がる。炎と血に塗れた瓦礫はまるで地獄への門のようで、朱く染まっている。その地獄へのきざはしを、踏み締めるようにして駆け上った。
頂点にまで駆け上ると、剣を逆手に握り、重力に沿って落ちる。全体重を掛けたまま、切っ先にすべてを集中し、急降下した。
アンヘリノはダビドの死体に絡まったまま、もがいている。それを気にせず、アンヘルは繰り出した。
ざくりという不快な音とともに、ダビドの背中に剣が埋没する。そのまま、体を貫いて、アンヘリノの心臓を穿った。
「く、くそがぁ」
アンヘリノは呻いた。その顔は苦痛で染まっていた。
アンヘリノは手に力を込めた。だが、アンヘルは、剣をそのままねじり、ぐいぐいと傷口を広げた。
血を噴出させたまま、地面でもがき続ける。しかし、流れ出る血の海へ沈んだアンヘリノは徐々に力を抜いていった。
諦めと少しばかりの喜びが表れている。ヒヒヒと汚らしく嗤う。
「な、なにがおもしろい」
「べ、べつに、なんもねえ、よ。ただ、おわりかぁ、って思ってる、だけさ」
アンヘリノはゴフッと血を吐き出した。
「なぁ、よう。てめぇなら、よ。てめぇなら、いいようへいに、なれんぜ。おれがよ、たどりつけなかった、ホンモ、ノのたたかいによ」
「なにを、言っている……」
「ホしい、もんのために、なんでも、できるって、いうやつ、はいくらでも、いるがよ。ほんとう、に、できる、やつは、そうは、いねぇ」
最後っ屁とばかりに男は語る。それは奇しくも、祖父の言葉と酷似していた。
アンヘルは、打ちのめされ、立ち尽くしていた。
「じごくへ、さきに、いってるぜぇ」
コロンと事切れた。微笑みだけを残して。
感情が爆発した。
「くそぉおおおっ!!」
アンヘルは剣を引き抜き、死体へ振るった。刻んで、刻んで、粉微塵にした。燃え盛る炎のなか、顔を切り刻み、身体を凌辱し、膾に変えた。
それでも収まらず、剣を振り下ろした。
同類。そう、思われていた。
こんなやつに、見込みがある。そう思われていた。
ふざけやがって。
怒りが練られ、集り、高まった。剣に収斂し、振るわれる。
なにも、なにも収まらない。
マカレナは帰ってこない。ホアンとは、あのままだ。すべて、地獄のまま変わりない。
復讐の末、こんなものになってしまった。
すべてが終わっている。
剣が止まった。眷族たちが寄り添ってくる。だが、そんなことすらどうでもよかった。
剣の切っ先を見つめる。自死しようかな、と刹那思考が頭の片隅をよぎった。
ふと、視線を揺らす。
切り刻んだ男の懐から、虹色に輝く五つの石が目についた。眩く輝くそれは、なんだか、希望の光に見えた。
その石を握りしめる。命からがら、燃え盛る炎の中、なんとか駆け出した。