ただ、泣いていた。時が過ぎるのも構わず、ただ涙を流していた。
掌で五個の虹色に輝く石を弄ぶ。アンヘリノの懐にあった虹色の石だ。それはいつか見た、魔法石と呼ばれているモノに見えた。
くだらない。心底そう思った。
だが、泣き疲れたのか、それとも儚い夢を信じたのか。神にでも縋りたくなったのか。
石を放り投げながら、呪文を唱えた。
「召喚」
紡いだ呪文と共に虹色の石が煙となって消失した。
だが、何も起きない。
目の前には何も残らない地面があっただけだった。
やっぱりか。そう思った。握った剣の刀身が鈍く光っている。喉を貫けばそれで終われるな。じっとそれを見つめた。
「人の子よ」
後ろからの威厳に満ちた声で振り向く。そこには神々しく輝く男の姿があった。『光輝』と呼ばれ、天界の輝きを放つ胸当てをつけ、聖獣の鷲を引き連れている。輝く雷霆は時空すら溶解させるほどのエネルギーを持つ。全知全能にして全宇宙を支配する神、ゼウスがそこに降臨していたのだ。
「人はなぜ争うのだ。短いその生、それをなぜ、他者から奪う道に逸れる。他者を愛し、愛されることが生あるものの定めであろう」
神の有難き言葉にも何も感じない。
だが、続く言葉が心臓の鼓動を止めた。
「我は定命の者の魂を取り扱う。常ならば、貴公を思う少女を天に送るべきであろう。だが、まだ死してはいない。我の力によって、少女を引き留めているのだ」
アンヘルの思考が蘇り、記憶を辿った。神話では、ゼウスは次々と女性に手を出した好色な面も描かれているが、弱者の守護神にして秩序を創造した神としても描かれている。
正義と慈悲の神。そんな存在にならばマカレナを生き返らせることができるのかもしれない。アンヘルは縋った。
「蘇らせられるのですか? だとしたらお願いします。もし、マカレナが蘇るのなら僕はなんでも、なんでもします!」
地面に座り込みながら懇願していた。
「我を召喚したのは貴公である。我の力により、肉体を再構成し、その体に魂を呼び戻すことなどたやすい。だが、それでよいのか?」
神ゼウスの言葉がアンヘルを打ち据えた。
「少女マカレナはこの世の絶望を味わい、去っていった。あらゆる男の欲望にさらされ、三日三晩嬲られ、助けも来ず、命を落とした」
湖から吹き込む冷たい湖風が、アンヘルをなじった。
「それでも少女の蘇生を望むのか。この世の地獄のすべてを味わった少女にそれでも生きろと、身勝手な欲望を押し付けるのか? 自然の理を曲げて奇跡を望むのか?」
「ぼくが、決めるんですか?」
「当然よ。生という苦しみから解放され、虚無の世界に旅立つのが少女の望みかも知れぬのだぞ。短い生をさらに縮めるのやもしれぬ。見送ってやることが優しさではないかね?」
神の問いは、すべての人類に送られている気がしてならなかった。
躊躇した。そんな奇跡が存在し得るのか。そんな奇跡の上に蘇ったマカレナは幸せなのだろうか。
答えは出ない。出るはずのない問いだ。
月光が神を克明に照らしていた。
答えを出せずにいると、目の前の神が霞掛かってゆく。
「やはり長時間は顕現できぬな。時間がないぞ、定命の者よ」
アンヘルは最後まで迷い、そして頷いた。
神の纏う電光が虹色の輝きとなり、人の身体を包むように球体を作り出す。自然の摂理を根本から書き換えるような超高位魔法の輝きが練られ、球体の内部を埋めつくした。それは、人には実現しえぬ超常現象だった。
薄い光の中で少女の頭部や胴体、手足や筋骨、肉、神経網を恐ろしい速度で修復していく。滑らかな肌がまるでスプレーで塗られたように色づいていく。
そして、虹色の輝きは唐突に消滅した。
目の前で少女が目を開いた。
少女の血が通っていない青白い肌が徐々に温かみを帯びていき、頬は朱色に染まっていく。月光が眩しいかのように、瞼が痙攣し睫毛を揺らす。瞼が開くと、瞳を揺らめかせていた。ゆっくりと視線を交差させる。
「あれ、どうして、アンヘルが?」
少女の瞳には疑問符が浮かんでいた。
自分の体を見下ろし、そしてアンヘルを見上げた。
「死んだとおもったのに、どうしてだろ? 生き返ったとか? あはは、そんなわけないか」
照れくさそうに微笑むマカレナに全力で抱きついた。
「どうしたのアンヘルってば。恥ずかしいよぉ」
「よかった、よかった。ほんとうによかった」
目から熱い涙がこぼれた。恥ずかしそうに頬を染めるマカレナを他所にずっと、ずっと抱きつき、涙を流した。
落ち着いた二人は帰途についた。いつものようにくだらないやり取りをしながら。途中で買い食いをしては、おかしそうに笑った。
邸宅では、マカレナとアリベールが向かい合っていた。アリベールは驚いたが、事情を話し終えると姉に抱きついた。
「姉さん。私を置いていくなんて、許さないわ」
「あはは、ごめんごめん。でも、もう大丈夫だって」
「そんなことないわ。大丈夫なの? 辛い記憶があるんでしょ?」
「辛い、けど大丈夫だから。私にはみんながいるしっ」
マカレナは快活に笑った。
コンコン。小さなノックの後に赤毛の男が申し訳なさそうな顔を浮かべながら入室してくる。
入ってくるなりその男――ホアンは土下座した。
「すまない。俺は、俺はあんなことを。許されるなんて思っちゃいない。好きなだけなじってくれ。牢獄にぶち込んでも、死刑にしてもいい。本当に申し訳なかった」
その言葉にアリベールやアンヘルは冷たい視線を向けていた。だが、マカレナだけが優しい微笑みでホアンを見ていた。唇を小さくかんでいる。それでも許しの微笑みを向けた。
「もう、許す。あなたはアンヘルの友達なんだもの」
ホアンは涙を流しながら、謝罪を繰り返していた。
彼が帰った後、不意にアリベールが切りだした。
「そういえば、あなたのお友達が遠方から尋ねてきているわよ」
促されるまま、大広間に移動した。そこには、背の小さな男――ホセとナタリアがいた。
「よう、久しぶりだな。なんだ、そんな驚いた顔をして? ちょっとばかり仕事があったから寄っただけさ」
ナタリアはホセに寄り添っている。相変わらず嫌われているのか目も向けてくれないが、嬉しさが勝った。
「ふたりはどんな関係なの?」
マカレナが嬉しそうに尋ねる。アンヘルの過去が知れて嬉しいのだろう。横顔が輝いていた。
「俺たち、同じ村で育ったのよ。だから初恋の人から好きだった奴までみーんな知ってるぜぇ」
「ええっ。なにそれ、聞きたい聞きたいッ」
「ちょ、止めてってホセ」
若いころの記憶をほじくられるのは恥ずかしい。マカレナは過去が知れて嬉しそうな、それでいて嫉妬も感じられるような顔で聞き入っていた。
だが、それでも平和な光景に口許が綻ぶ。
――これが、手に入れたかった世界なんだ。
唐突にマカレナが振り返る。
「でも今は、私のことが好きなんだよねッ?」
首元に飛びついてくる。視界の端に苛立たしく睨むアリベールの姿があった。
「あはは、えっと、そうだな」
「いいって、わかってる。今はそんな関係じゃないけど、いつか振り向かせて見せるから」
マカレナは飛びのいて、カラッと笑う。答えられない自分が情けなくなった。
「頑張っているな、***」
背後からの声に振り向く。そこにはスーツ姿の男と普段着を来た女性の姿があった。
「父さん、母さんッ」
「本当に頑張ったな。おまえは俺たちの誇りだよ」
「そんなこと、ぼくはほとんど助けられなかったんだ。イゴルも、リコリスも」
「そんなものさ。人間、全部が全部守れるわけじゃない。でも、おまえはひとつ守ったんだ。立派に育ったな」
優しい言葉にアンヘルは涙をこぼした。母がゆっくりと抱きしめてくれる。
「帰ってきていいのよ。もう疲れたでしょう?」
本当に優しい言葉だった。滂沱の如く涙が流れた。
「うん。でも、みんながいるし戻れないよ」
「どうして? 辛い記憶しかないでしょう?」
「でも、こうして生きているから、だからぼくはこっちで頑張るよ」
アンヘルは振り返る。そこには和やかに談笑する友人たちの姿があった。
「わかったわ。けど、忘れないでね。いつだって帰ってこられるんだから」
「僕は大丈夫。大丈夫だから」
「そうだ、それでこそ俺たちの息子だ」
両親が優しく抱きとめてくれた。
そこでアンヘルは目を覚ました。
目覚めたのは港近くの廃屋。埃の舞う場所で疲れて眠っていたのだ。掌の中には虹色に輝く石ころがあった。
試しに放ってみた。
夢のように、消えていく泡沫のように、幸せが訪れるかもしれない。
呪文を唱える。しかし、石は消えなかった。
奇跡は起こらなかった。
現実には神など現れないし、マカレナは無惨に死んだまま生き返らなかった。虹色の石は魔法石ではなく、たった二、三日の食費に変わっただけの石ころだった。
悲憤や歓喜の涙など流さなかった。ただ、呆然と天を仰ぎ見るしかなかった。ホセとナタリアが現れることもなければ、ホアンが謝罪に来ることもなかった。当然、両親が突然現れ、日本に戻してくれることもなかった。
それからなにをしたのか記憶になかった。
貧民街のゴミ溜めのような地区の宿を借り、呆然自失としてソファに座っていただけだった。
眠っては都合の良い夢を見て、目覚めては現実に戻ることを拒否して、また眠りに戻ることだけを続けた。
砂のような時間だけが過ぎていく。そこで、ただ項垂れているだけだった。
どれほどの時間が経っただろうか。何も取らず、何も飲まず、ただジッとしているだけの時間が過ぎ去っていく。
復讐。マカレナを嬲った奴らを殺す。それだけを燃料にして心を奮い立たせてきた。
だが、終わってみれば何も残らなかった。
友人も、人間性も、何もかも、失っていた。
くだらない、と嘯いてみる。だが、本当にくだらないのは自分自身だった。
視線を逸らすと寝台の上には新聞が載っていた。思考から、そして現実から逃れるため文字を辿った。前の客が残したものなのか、それすら長い間気づいていなかった。
三度目にしてようやく文字の羅列が理解できた。プロビーヌ商会の次男、サンティアゴの婚姻。あの男が新しき恋人に毒牙を伸ばしていることを示す記事だ。
――まだ、やるべきことが残っている。
アンヘルはゆっくりと立ち上がった。
§
暗く冷え冷えとした廊下に魔導灯が灯っている。絨毯が引かれ、窓から月明かりが差し込んでいるそこは靴を鳴らす音だけが響いていた。
疲れた表情を浮かべた壮年の男は、灯りによる影を引きずりながら肩を回す。そして、勝手知ったる自室に向かい、今日最後の仕事を終わらせようと顔を引き締めた。
最後の角を曲がり、自室の扉まであと一歩という所まで来たとき、男は違和感で足を止めた。
自室の扉が開いている。
使用人たちに向けた叱責の怒声は喉奥に封じ込めた。これは違うと直感が囁いたのだ。侵入者の香りだった。
其処だけが、何時もより一段と暗く凍えた状態を映し出している。男はゴクッと唾を飲み込んだ。
近くにあった鉢植え用の鋏を握りしめる。ギイっと扉を開き、部屋に踏み込んだ。
「誰だ、賊かッ! 私は若い頃、従軍していたのだぞ――」
室内の明かりを灯す。人が隠れていそうな中央の机の裏にも誰もいない。取り越し苦労かと思い、安堵の息を吐いたときだった。
バタンという音と共に部屋の扉が閉じられる。扉の裏に潜んでいた男が姿を現した。
悲鳴をあげなかったのは、商会を束ねる長としての矜持故だった。
驚きのあまり揺れていた焦点がその男に合う。
そこそこ高い身長に茶髪の髪。何処にでも居そうな平凡そのものの容姿。探索者風の格好の男であった。
「あなたに、聞きたいことがあります」
その男は、娘であるマカレナがいつか連れてきた探索者の男であった。
眼前の男は驚き戸惑っている。だが、その驚愕を押し込んで平然を装っていた。
「なんだね、聞きたいこと? 金の在り処か? 其れなら、横の金庫にある。通報はしないから持っていきたまえ」
男は記帳が大量に収まる棚の横、黒光りする大きな金庫を指し示す。多少だが、犯人の正体を知って落ち着きを取り戻していた。
「そんなことを聞きにきたのではありません」
アンヘルの纏う衣服は血が染み付き、幾つもの風穴が空いている。その姿は貧民街の乞食そのものだが、ボロボロの装束のまま、煌々と輝く瞳は異彩を放っていた。
「なら、なんだ?」
「あなたの娘、マカレナさんのことで聞きたいことがあります」
しんしんと冷え込んでいる寒気が、壁に浸透して体の奥まで冷やした。
「ずっと考えていました。なぜ、妹のアリベールさんが独自に調査しているのか。どんな意図があって彼女がプロビーヌ商会に拉致されたのか。そして、貴方はなぜ何もしないのか」
問いかけられた男――スリート商会の当主ミチェルは黙していた。
「その答えはまったく出ませんでした。けれど、推測はできます。プロビーヌ商会は、誰かを誘拐すると便宜を図らせるために脅す、ということを平然と行っていました」
ダビド事件からの推察である。アンヘルが無断侵入したダビドの家には、許可証を作らせるための印鑑を持ってくるよう指示があった。
元々奴隷の少女を取り戻すための作戦で、そのうえ便宜を図らせるとは常習的に犯行を繰り返している証明である。
マカレナはプロビーヌ商会の次男サンティアゴを振ったことで恨みを抱かれていたのだとしても、何も要求しないということはあり得ない。
つまり、何らかの要求が当主に届けられたことは想像に難くない。
「あなたは知っていたんですね。マカレナさんが、あなたの娘が誘拐されたことを。如何して、あなたは助けなかったんですか? そしてなぜ、彼らを糾弾しようとは思わなかったのですか?」
「何のことだかわからな――」
「答えてくださいっ!」
腰の剣を引き抜いた。刀身はアンヘルの激情にしたがって轟々と光を迸らせていた。
嘘をつけば殺されると観念したのだろう。ミチェルは深々と頷いた。
「そうだ、知っていた」
続く言葉を待った。あらゆる事情を話し、謝罪を述べるのを待った。
だが、降りてきたのは沈黙だけだった。
「そ、それだけですか?」
「そうだ」
「ふざけるなっ! 事情も謝意も見せず、それで許されると思って――」
ミチェルは冷然とアンヘルの言葉を遮った。
「許し? 貴様のような探索者風情に、なぜ許しをこわねばならんのだ」
「ぼくにじゃない! あなたの娘二人にだ」
「なぜだね? 必要あるまい」
男は冷徹な光を瞳に宿していた。
「確かに私はプロビーヌ商会が娘を拐ったことを知っていた。私宛に便宜の書類が届いたからな。無論、プロビーヌ商会が関与していると直接的には見せないよう内容を練ってはいたが、事情を知るものなら関与の匂いに気がついただろう」
悠然と執務室の椅子に腰かけ、背もたれに背中を預ける。
「だが、受け入れられない条件だった。それに逮捕などと、なんの意味もない。尻尾切りにより、実行犯が捕まるまで。我らと奴らとでは其れ程財力が違うのだよ」
葉巻を咥え煙をくゆらせる。娘の死を淡々と語るその顔は、人の情を考えない怪物そのものだった。
「あなたは娘が可愛くないのか」
「もちろん可愛いい。二人しかいない血の繋がった娘なのだからな。だが、商会の存続に比べれば安いものさ。そもそも、サンティアゴとの確執は娘自身が撒いたものだ。私のせいではない」
「元はといえば、あなたが婚姻させたんだっ」
あんな婚約者を娘に紹介しておいて平然な顔をしていられる神経が理解できない。いくら娘の婚姻が政略の道具にされる世界だとはいえ、あまりにも親子の情に欠けている。
だが、男は冷酷な言葉を続けた。
「仕方のない状況だったのだよ。落ちていく競争力。昔は当然のように技術界隈の頂点をひた走ってきた我が商会だが、近年ではその技術ですら負けている。革新が、ブレイクスルーが必要だった」
「あなたの話はすべて商売のことばかりだ。悔やむ言葉ひとつくらい吐いてみたらどうだ」
「貴様のような貧民にはわからんよ。人の上に立つということが、如何に難しいか、ということがな。私の肩には、スリート商会の従業員千人の将来と、今まで受け継いできた歴史というものがある。なんとしてでも、なんとしてでも守らねばならんのだッ!」
男は大きく手を広げ、アンヘルを睥睨した。
「わかるまい。自分の判断で何かを失う無力さを。己の天秤に私事と商会をかけ、片方を選び取らなければならない重圧を。貴様のように見たい世界だけを見て、綺麗な世界だけを見て、正しいと思うことをほざいて生きているやつには何もわからん。なぜ、貴様が賎民でいるのか教えてやろう。自分の価値観だけを信じ、それだけで人を断罪するような人間には、結果などなにもついてこないし、何も手に入らない。そうやって迷い続けて、どちらも失うしかないのだ。今までそうやって生きてきただろうッ!」
天から降ってくるような重圧感とともに、男が吠えた。力強い瞳でアンヘルを見据えている。
力強い言葉にごくっと唾を飲み込んだ。
見たい世界だけを見ている。綺麗な世界だけを見ている。そう、その通り。迷っている間にすべてを失った。賎民として生まれ、賎民として生きている。そんなことは百も承知だ。
だか、今は違う。言葉だけで理解していた気持ちになっていたが、すべての経験がアンヘル自身を作り替えた。
打ちのめされ、引き倒され、地獄の夢を乗り越えて、今ここにいるのだ。その程度の言葉ではまったく響かない。
「……あなたの言葉は詭弁だ」
「なんだとぉ」
「取り繕ったところで、あなたは結局、自分と家が可愛かっただけだ。娘の婚約者だというのに、欲に駆られて調べず婚姻させた。最大級の爆弾を作ったのも貴方だし、独自に犯人を探すアリベールに真実を話して止める勇気もない」
アンヘルの冷たい言葉が男を刺し貫く。怒りで血が上っているようだった。
「あなたは僕が愚かで賎民だというが、あなたも結局変わらない。僕が選べないなら、あなたはひたすら間違った選択肢を選び続けているだけだ。あなたの判断が、マカレナを、娘を殺したんだッ!」
「黙れ小童がっ、知ったような口を開くなっ! なにも知らぬくせに」
「なにも知りたくない。あなたのことなんか、分かりたくもない」
最善を尽くした結果、マカレナが失われた。それなら、許せなくとも、納得の仕様がある。だが、マカレナの死は、そもそも目の前の男から始まったのだ。そんな男が家のためと嘯いて犠牲を語るなど、怒りすら湧いてこない。
此処には自身の人生を賭けて、目の前の男を殺すつもりでやってきた。捕まって死罪になろうとも、この男を殺すつもりで来た。サンティアゴを殺すのは護衛に守られていて困難だ。だからこそ、娘の事件でゴタついているこの家を狙ったのだ。
だが、そんな気は失せた。くだらない、と心底思った。
クルッと踵を返す。
最後っ屁とばかりに、男が問いかけてきた。
「貴様が私のことを理解できないならそれでいいがな。だが、貴様が無能なのは変わらんのだぞ。いつまでたっても、支配され、這いずりまわることしか貴様にはできんのだッ!」
その言葉を否定するつもりはない。そのとおりだ。幸せを享受するだけの、甘っちょろい思想をいつまでも抱いていては、何度でも繰り返すだろう。大切な彼女を失った、今回の事件を。
歩みをとめて、振り返らずそのまま告げた。
「あなたとは違う。ぼくは変わる。変わってみせる」
強くなってみせる。理不尽に立ち向かう力を手に入れるまで。
振り返らず部屋を去った。
§ § §
落葉した銀杏の枝の間から、冬の陽射しが漏れる。凍りつくような粒だった空気が撫でつける中、温もりのある陽射しだけが、枯れ果てた草木をねぎらうように照らしていた。
街の郊外、素朴な田畑の真ん中に建てられた教会には、喪服を着た参列者たちが献花を持ち、入っていくのが見える。葬儀自体は終了したというのに、故人を偲んだ人々が続々と教会に消えていく。
葬儀式は味気ないものだった。
遺体は陵辱のかぎりを受けたとは思えないほど綺麗に化粧され、まるでカステラの箱をそのまま大きくしたかのような飾り立てのない箱に押し込められていた。ステンドグラスから淡い光が差込む、白と木の教会で、聖書の朗読と賛美歌が司祭によって執り行われると、出棺式が開始され、遺体は土の中に沈んだ。その他にはなにもない。皆が皆、無言のまま此処に居並んで、去っていく。葬儀とは死者の為ではなく残った遺族のためにあるらしいが、実務的な儀式は、それなりに厳粛なもので、心の淀みが洗い流されるようだった。
少女は葬儀を終えた格好のまま、護衛のひとりに車椅子を押させ、教会を見渡せる小さな丘を訪れていた。
「こんなところにいたの?」
喪服姿で教会を見つめ続ける少年――アンヘルに向かって、アリベールは問いかけた。
アンヘルは声をかけた主人を一瞥すると、また視線を正面へと戻した。その横顔には、深い翳りが差し込んでいた。
「今は招待者だけじゃなくて誰でも献花できるのよ。あなたも姉さんのために行って欲しいわ。姉さんが一番仲良かったのは、貴方だもの」
柔らかい棘のない声が発された。姉を誑かした気に食わない男だというのに、包み込むような母性が心から溢れていた。アリベールは、己がこんな言葉をかけられることに驚いた。
「あそこに、彼女はいないよ」
無表情。けれども、痛苦の蝕みに耐えているような、そんな悲しい背中だった。
「……なら、どこに居るの?」
「彼女は善良で、優しかった。だから、たぶん天国かな?」
まるで自分は善良でも優しくもないような口振りだ。自嘲の笑みで口が歪んでいる。参列者の誰よりも、悲しみに暮れていた。
最初は、喧嘩腰だった。
馬鹿、けれど大切な姉を誑かした卑劣な探索者。しかし、姉が久々に浮かべる満天の笑顔を見て、責められなかった。姉が唐突に婚約をしたとき、アリベールはすぐさまこの探索者が何かしたのだと思った。なにも言わず、悲しげに決意を固める姉を見て、暗殺者を送ってやろうと考えたことは数えきれない。
それから、しだいに信頼が増した。
姉の死を通して、彼は揺れ動いていた。彼にとっても、姉の死は重大事件だったのだ。必死に調査する彼は信頼できる友だった。
そして、今まさにこの瞬間。
教会をずっと見つめ続ける彼は、小さな背中だった。其れを後ろからずっと見続けると、心の中に得体の知れぬ感情が湧き上がってくるのを、アリベールは感じていた。
女が男に惚れるのは、ただ力に魅せられるからではない。ただ強い男になど、惹かれはしないのだ。陰がある寂しそうな男にこそ、心を許す。アリベールに恋愛感情などない。けれど、高まる自身の優しさが、なぜ姉がこの男を好きだったのか、理解させるのだ。寂しそうな姿を、なんとかして救ってやりたかったのだと。
「……あんなに嫌いだった祖父の言葉に従い、全部を捨てた。『理屈が間違ってないと思えば、どんな障害があろうと実行するべきだ』か。昔はくだらないと思ってたのにな」
少年が、誰にも向けられていない独白を語る。すべてを後悔するような、涙の言葉だった。
その独特な空気に呑まれて、アリベールは言葉を失った。心が締め付けられた。
震える足を押さえつけ、なんとか立ち上がる。
アリベールの身体は元々弱い。生まれついて此の方、ずっと病弱で、幼い頃は寝たきりだったことも珍しくなかった。けれど大きくなるにつれ、少しづつ問題は解消されていった。
彼女の足が欠けたのは、馬車の事故で同乗していた母が亡くなってからだ。医者の話では傷は精神的なものらしいが、治ることはなかった。
けれど、今は立ち直るための訓練ではなく、独力で、心のままに立ち上がった。よたよたと生まれた子鹿の足のように少年に近寄った。首元に腕を回して後ろから抱きついた。
「もう、泣かないで。大丈夫、大丈夫だから」
泣く子供をなだめるようにして優しい声を掛けた。彼の表情は変わらない。けれど小さな、小さな涙をこぼし始めた。
一度決壊すると嗚咽を漏らすようにして泣いた。顔はこちらには向けない。漏らす声すら最小限だ。弱さを見せない。そう誓った少年の、最後の悲鳴のようだった。
どれほど時間が経っただろうか。少年が背を震わせ続けるのに、アリベールは寄り添い続けた。吹き付ける風が痛いことすら忘れていた。
「あなたは、これからどうするの?」
少年は、絞り出すように答えた。
「僕は士官学校に入るよ」
アリベールはそんな彼にいつまでも寄り添い続けた。
帝国暦313年大寒。
オスゼリアス士官学校第二一三回候補生入学試験。士官候補生一般課程五〇〇位中、四七九位で、セグーラの街所属ケソン開拓村出身、アンヘルの入学を許可すると学内文書に記されている。
偉大なる召喚士として名を馳せることになる彼のキャリアは此処から始まった。
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