「怪我自体は大したことないでしょう。全治数日といったところですかね」
藁詰めの嘴マスクを被り、表面を蝋でコーティングされた革製のガウンが特徴的な治療院の医者が粛々と告げる。
ベッドの脇に座るテリュスが医者の言葉に対して静かに耳を傾けている。その瞳は、ボロ雑巾になった兄をじっと見ていた。
「一応、治癒士を呼ぶこともできますが、数日もすれば腫れは引くでしょう。どうされますか」
治癒士は限られた人材で、日に発動できる魔法にも限りがある。中々貧民に払えるような額ではないのだが、テリュスは迷う素振りを見せなかった。
「え、ええっ、お願いしま――」
「ま、まってくれないか。テリュス……」
ベッドに伏せっていた男が身体を起こす。頬が腫れているせいか、発音がはっきりせずくぐもっていた。
「先生、数日もあれば治るんですよね」
「ええ、貴方は若いですから、とくに問題なく治るでしょう」
医者が太鼓判を押す。それを聞いた男は治癒士の派遣を丁寧に断る。医者は事務的に「大事にしてください」と言うと、看護師と共に廊下へ消えていった。
「セリノ兄さんっ。どうして、治療を断ったんですかっ」
医者が消えると、テリュスが詰問を開始する。確かに、財政事情を鑑みると治癒士派遣程度は大した痛手にならない。だが、問われた男――セリノは乾いた笑みを浮かべるだけだった。
「いやあ、数日もあれば治るんだし……」
「それは、お金がない場合の話ですぅっ! ウチにはお金がありますしっ、なんだったら私がお金を払っても――」
「一応、僕も成人しているのに。親や妹からお金を無心するだなんて……。折角、頑張って働いているんだから、そのお金でお稽古事に通ったりして、もっといい人と……」
テリュスの兄セリノは古風な価値観を有していた。名家としては当然の思想とも言える。格好もボロの上下に、髪はナイフで切ったようなザンバラ、身体は上背に対してかなり細っこい。賢者饑し伊達寒しというが、まさにその通りの学術肌の青年で、ある意味、名家の爪弾きものらしい姿だった。
「兄さんには関係ないでしょっ! そもそも、父さんに無理やり働かされてるんですからっ、私は道場を継ぎたいんですっ!」
「それはダメだよ。テリュスは、女の子なんだからっ、そんな危ないことやっちゃあ」
「なにが危ないっていうんですかっ! 別に戦いに行くわけじゃなくて、生徒さんに教えるだけでしょうにっ」
激熱していく二人に合わせてイズナがワーワーと喋りだす。迷惑になってはと彼女の口を塞ぐが、今度はムームーと抗議の悲鳴を上げる。かなりの力を込めているが、好奇心旺盛な少女は激しさを増すばかりだった。
「そもそも、兄さんは武道をまったく齧ってないんですから、口を挟まないでくださいっ」
「けど、女の子なんだよ。心配じゃないかッ!」
「だからなんだっていうんですか。それだったら、兄さんはどうなんですかっ! いい歳して、定職にも就かずにフラフラして。そんなんだから、家でもバカにされるんですっ」
「僕は無職ってわけじゃ……」
「売れない画家なんて、ただの無職とおんなじです」
ズバッと切り込む言葉にセリノはパクパクと口を閉会させている。反論できる要素を失った兄を見て、テリュスはそさくさと病室を出ようとする。
「家のほうから、治癒士を呼んでおきますから、そこから動かないようにしてくださいっ」
捨て台詞のような言葉を残すと、それっきり去っていく。部屋には、蚊帳の外二名が残されていた。
「結局、どういうことなのですかぁ~?」
――僕が聞きたいよ…………。
とりあえず帰るかと、セリノに断りを入れてから病室を後にしようとすると、急にイズナがすり寄ってきた。クンクンとまるで犬のように鼻を胸板に擦りつけてくる。
「え、ええっと、なにをしているの?」
無言で匂いを嗅ぎ続けるイズナ。その眉は徐々に顰められ、不快な物を見つけたといわんばかりに訝しげな色彩を瞳に宿していた。
「なんか、とおっても嫌なニオイなのですぅ」
ひととおり嗅ぎ終えたイズナが正面に立って、上目遣いに媚びる。
「そ、そんなに臭いかな?」
異性に言われて凹む台詞ナンバーワンは、ぶっちぎりで「臭い」だろう。アンヘルは慌てて己の服の匂いを嗅いだ。清涼感溢れはしないが、普通の匂いだった。
「ご主人さまの匂いに似てるですぅ~」
「は?」
セリノの目が犯罪者を見るものに変わる。無抵抗な性奴隷に対して性的暴行を加える御曹司の気分だった。
いやいや、と誤解を解こうとするが、イズナが「ごしゅじんさま~」と騒ぐ為に取り返しのつかない事態に発展しつつあった。穏やかならぬ単語に、室内を覗き込む人間まで出る始末である。
社会的大ピンチに陥ったアンヘルを救ったのは、先ほど出ていったテリュスだった。
「ほら、ニートとおバカ。なにやってるですかっ。さっさと行きますよっ!」
周囲の視線がゴミ屑に対するものへと変わる。
助け舟ではなく、ただの泥舟でしかなかった。
夜もすっかり更けて、街角はすっかりきらびやかな大人の世界へベールを脱ぎ捨てていた。酔っぱらいたちが鼻歌を歌いながら路地を闊歩している。オスゼリアスの夜の顔であった。
「恥ずかしいとこを見せちゃいましたねっ」
ピタッと立ち止まったテリュスが此方に向きなおる。その眦は、身内の恥を悲しむように瞬いていた。
「私、あんまり家族、っていうか、兄と仲がよくないんですっ」
兄弟たちとの確執。良好とは言えなさそうな関係である。
「まあ、簡潔にいうと、こういうことなんですけど――」
彼女は、男兄弟の末っ子として生まれた。彼女の上には五人もの兄がおり、晩年になって生まれた彼女を両親は大層可愛がった。育てた長男は後継者として十二分な腕を備えつつあり、下の妹に武芸を仕込む必要がなく、辛く当たる必要がなかったからだった。そんな彼女の才能は、活発な性向もあり、武芸に発揮されることとなる。
活発だった少女に武芸はまるで木綿が水を吸い込むが如く高い親和性を示した。兄たちはほとんどが道場で学んでいる。幼い彼女が道場でチョコマカしているのを邪険にする人物は一人もいなかった。
だが、その関係は、彼女が大きくなり一人前の武芸者として身を立てたいと宣言したことで終わりを告げた。
彼女の父は一般的な帝国人的思想を持つ人間で、女性の幸せとは家庭を築き、子をもうけることであると考えており、剣を振り回しチャンバラごっこに興じるなど以っての他だと言い始めた。此れが軍家ならば理解ある親に恵まれることもあるのだろうが、不運にも彼女の父は、女性の社会進出に否定的だった。
「ということで、私は無理やりギルドの職員にさせられたというわけですっ」
明るい声だが空元気だった。言い切った唇はまるで震えを隠すようにきつく一直線に結ばれていた。
「ま、言いたいことはわかるんですけどねぇー。でも、馬鹿らしいじゃないですか。私より弱い人が探索者や軍人としてブイブイ云わせてるのって」
純然たる事実ではある。探索者はともかく、軍国主義の帝国では、軍人の発言力は限りなく高い。
その実態には大きな差があるとはえ、士官学校に通っていない平民も募兵に応じて戦争に赴かなければならないという考えが蔓延しており、民会では従軍経験のない人物を蔑視する傾向は消える気配がない。
夜風がすっと身体に染み入ってくる。イズナは何もわかっていないのか、ほへーと提灯を眺めていた。
「こんなこと言いたくないですけど、正直私、アンヘルさんより強いと思いますよっ。そりゃ、カルリト兄さんには勝てないですけど、他の人には負けませんし。探索者の人に声かけられても簡単にあしらえますから」
袖を捲り上げて力瘤をつくる。その横顔は評価されない悔しさと、己の能力に対する絶対の自信が滲んでいた。
事実、その言葉に嘘はないのだろう。先ほど見た黒豹傭兵団に対する立ち回りは、一般人の喧嘩とは一線を画するものだった。
どれほどの長い鍛錬を積んできたのだろう、とアンヘルは思う。道場だけでこれほどの力を育むには、類稀なセンス、そして、卓越した精神力が必要だ。
男女差別。ザ・モーニングショーに始まり、現代でもジェンダー平等は声高に叫ばれている。彼女が欲している、女性が公の場でなんの差別なく活躍できる社会は確かに素晴らしいのだろう。
だが、諸手を挙げて賛同はできなかった。ここは、現代ではないのだ。如何にテリュスが優れていようが、闘いという極限状態に身を投じた相手が、敗軍の兵となった彼女に紳士的でいられるとはまったく以って思えなかった。
「…………僕は、まず親御さんの了承を得たほうがいいと……」
だが、アンヘルの濁した真意を、テリュスは明確に捉えていた。
「あなたも、そういうこというんですねっ」
くるっと、悲しそうに顔を背ける。慰める言葉を持たない己の不甲斐なさに、虚しさを覚えるしかなかった。
「ま、いいですよ。今日は、ありがとうございました。夜も遅いんで、私は帰ります」
さっと去っていく。その後ろ姿は、孤独な翳りを帯びていた。
「ねぇ、アルぅ? お腹空きましたぁ」
でっかい子供ができたなぁと、くだらないことで己を誤魔化すしかできなかった。
§
「じゃあ、この一週間は訓練に充てて、次の週から攻略に乗り出すってことでいいかなぁ」
窓から差込む陽光を浴びながら、男女三人が向かい合って意見を交わしている。長机の上には、各科の講義予定と成績が並べられていた。
「ええと思うで~」
調子はずれに桃色の髪の女性――ユウマがのんびりと答える。その横では、眼鏡をかけたエルサが確認漏れをチェックしていた。
「でも助かりましたっ。全員の講義予定をまとめてくれたり、先輩たちの予定なんかを聞いてくれたりして」
か細い声で感謝を述べる。情報を纏めたユーリに向けたものだった。
「いえいえ、これはエセキエルさんが持ってきてくれたモノですから」
エセキエルが知らせてくれた情報は多岐に渡るが、その中でも重要と思われる情報は、例年の候補生踏破日程だった。
この管理迷宮踏破演習は、毎年基準となる、踏破者第一陣の存在がある。管理迷宮『試練の塔』の最上階には、侵入者を阻む迷宮ボスなる存在が立ち塞がる。これを倒さねば演習クリアとはならないのだ。が、当然ひよっこ候補生六人の小隊では迷宮ボスを倒せるはずもない。そうなると、必然、複数小隊合同で迷宮ボスを倒すことになるのだ。
例年、第一陣が最上階に辿り着くのが十日、迷宮ボスを倒すのは十五日目前後になるとされている。迷宮ボスが復活するのは十五日後だとされていることから、第二陣は迷宮ボスが復活するまでの間にすり抜け踏破する必要がある。
つまり、この演習は、迷宮ボスを倒した第一陣、それ以降滑り込みで踏破した第二陣、そしてクリアできなかった第三陣に分類される。エセキエルの提案は、この第二陣の中で如何に素早く踏破するかというものだった。
「それにしてもやー、エセキエルって人はどうしたん? 折角色々教えてくれたのに~」
「休日は、親の編集を手伝うんだっていってたけど……」
「休みだから責められませんね。そういえば、伍科の方はどうしたんですか? たしか……アンヘルさん……でしたっけ」
エルサが記憶を漁りながらなんとか名前を捻り出す。さもありなんといった所だろうか。伍科で目立たないアンヘルは日陰の存在である。ユーリは苦笑いを漏らすしかなかった。
「アンヘルはバイトだって。彼、上京組だからお金がないんだってさ」
「そうなんですか。なんだか意外な感じがします。結構、ハイカラっていうか。都会人っぽい雰囲気なのに……」
「そうだよね。ずっと敬語使ってるし、不思議なところがあるよねぇ」
いつも訓練に付き合って貰っているユーリだが、アンヘルについて知っていることは少ない。学術成績は悪く、対照的に基礎訓練ではそこそこ優秀な脳筋タイプの候補生だが、それにしては違和感がある。
言葉にできないもどかしさを感じながらも、決定的な確証を得られないまま頭を捻るしかなかった。
「そういえば、アンヘルさんとエセキエルさんってどれくらいの実力なんですか? 私、あんまり講義で一緒になったことがなくて。一応、ユウマさんが強いっていうことは知っているんですけど」
「へへ~、頼りにしてやぁ~」
肆科のユウマは、かなり高い実力を有している。そもそもとして、肆科の構成自体が、実技優先のシステムとなっているためだった。
完全に学力制となっている士官学校だが、実技に優れる入学生のために一種の裏技を用意している。それが、上科試験補欠合格である。一般と違い上科には実技試験がある。普通なら、学力の劣るものが士官学校上級課程を受ける意味などないが、実技試験を利用して、実技に優れる生徒は肆科に補欠合格できるのだ。
「ユウマさんって、どこか道場出身なの?」
「ううん、そんなことあらへんで~。ウチ、ただの平民や。別に道場にもあんまり通ってへんで~」
「じゃあ、どうやって訓練したの? 生まれつきってことはないよね」
「そんなわけないやろ~」とユウマが語るが、実際、肆科の実力者はほとんどが軍家や道場出身である。人がなんの訓練もせずに戦えるはずなかった。
「ウチな、普通に店やってるオカンを手伝ってたんやけど、あるとき先生に教えてもらえることになってんー。それでな――」
ユウマの話は要約すると道場のスカウトに掛かって、稽古を受けたという話であった。かなりの特例だが、まったくあり得ない話ではない。ユウマの才能、それは英雄症候群と呼ばれるものだった。
強化術の体得、上達の手段は大きく分けて三つだ。
――長きに渡って道場で研鑽を積み、自然とその強化術を体得する方法。
――迷宮など、パワーゾーンで力を自覚すること。
――極限状態、とくに生存本能が強烈に刺激される戦闘行為。
しかし、例外もある。ユウマの持つ英雄症候群とは、過去の英雄のように、生まれつき強化術に対して天賦の才を持つ者を指した。
そもそも、強化術には個々人それぞれに大きな差異が出る。動作に合わせて部位毎に強化することもあれば、持つ得物を集中的に強化したりもする。スポーツに例えるなら、強化の総量がフィジカルだとすれば、強化の繊細さはテクニックにあたる。テクニックが訓練なしで高いレベルにあるユウマは、頭抜けた才能といえた。
「じゃあ、ユウマさんを先頭においた方がいいかもしれませんね。私、実戦には自信がなくて」
「ボクも、かな」
二人して不安そうに縮こまる。ユウマは困ったように笑っていた。
「あのソニアって子は結構強そうやよね。キツそうな感じやけど」
「あ、確かに。じゃあ、残りはエセキエルさんとアンヘルさんってことになりますか」
「アンヘルのことは知ってるけど、エセキエルさんのことはよく知らないなぁ。誰か知ってる?」
「私はあまり……」
「ウチもしょうみよー知らんけど、見た目はあんまり強そうちゃうなあー。いんてりって感じや」
確かにとユーリも肯定する。見た目で判断することは愚かしいが、エセキエルは頭脳派に見えた。三人の中で意見が一致したのだろう。全員が参謀姿を想像した。
「アンヘルさんはどうなんですか? ユーリさんはお友達なんですよね」
「うーん。よく訓練しているけど、ボクが弱すぎるからかあんまり参考にならないような気がするなぁ。あ、そうだ。ユウマさんってアンヘルと試験で対戦してなかった?」
ユーリがパッと手を叩く。しかし、問われたユウマには苦々しそうに眉を顰めていた。
「ウチ、ああいういけ好かん奴、嫌いや」
ユウマはエセキエルやソニアのことを苦手だと称しはしたが、嫌いだとは言わなかった。ユーリは、彼女の強烈な敵愾心がまさかアンヘルに向いているとは思わず黙してしまった。
唐突な告白に一同言葉を失う。しんしんとした空間へ舞い降りた日差しが三人を照らしていた。その静寂を破ったのは、一人の闖入者だった。
「お、やってるなぁー」
ガチャリとオスカル教官が入室してくる。ユーリたちは立ち上がって敬礼した。
「いいって。そんなかしこまらなくて」
教官が片手を仰いでユーリたちを座らせる。教官も近くにあった椅子を引き寄せると、背もたれに肘を乗せる馬乗り座りをしながら机の上の計画表を眺めた。
「そろそろできてくる頃合いかな。一応、全員分の情報を整理できているみたいだし。おっ、もう例年の踏破記録について調べているのか。やるなぁ」
オスカル教官が拍手を送る。瞳には称賛の色があった。
「はいっ! みんながんばった結果ですっ!」
エルサが誇らしげに言う。彼女だけでなく、ユーリにも憧れの教官からおほめの言葉を頂いたことに対する照れが浮かんでいた。
「正直なところ、心配していたんだよ」
「心配、ですか?」
ユーリが聞き返す。
「ああ、最初の会議はうまくいってなかったし、元々実技の不得意な生徒が集まっているだろ? 及第点なのはソニアとユウマくらいだしな。だから、この班はうまくいかないかもしれない、とそう思っていたんだ」
心当たりありすぎる意見に、三人とも黙るしかなかった。
「けど、心配なさそうだな。計画もそれほど遅れているってわけじゃない」
「他の班は、もう提出したんかいな~」
「一応、クナルの班は提出を終えたが、もう一つはまだだな。そんなに焦る必要はないよ」
心配するなと、教官は朗らかに言う。そのあとは、他愛ない雑談を続けた。教官としても様子が気になっていたのだろう。
「ああ、そうだ。一応言っとかないとな」
「なんですかいな~」
そうだなぁ、と教官は頭をボリボリと掻く。言いにくい話をするとき特有の悩みの色があった。
「その、例年は第一陣踏破が十五日前後で、君たちは二十日目くらいに第二陣として踏破を目指す計画になっているよな」
「はい、ボクたちには迷宮ボスを倒せるほどの実力があるとは思えませんから。なんとか二陣の上位に名を連ねようと考えています」
その言葉を聞いて教官はより悩みを深くする。うーんと何回か頭捻った結果、回答を出した。
「ま、それは間違いじゃないんだろうけどな……。その、お前ら第二一三回生が他所からなんて言われているか知っているか?」
「え、えっと、確か奇跡の年……ですよね。私、先輩からそう聞きました」
「ああ、ウチも聞いたことあるで、それ」
教官はうんうんと頷く。ユーリもその話自体は聞いたことがあった。上科のクナルを始め多数の大型新人を拵えた第二一三回生には、軍派閥の面々も興味深く推移を見守っているらしいかった。
「今年は歴代演習記録が塗り替えらるんじゃないかと言われている。最初の踏破班が一五日目より手前なら、その年は豊作。それより後なら不作と言われている。歴代最速記録は知っているか?」
「え、ええっと、確かエセキエルくんの話では十日って」
「そう、その通りだ」
オスカル教官が候補生を見渡す。
「歴代最速は第一三二回生の十日。ついでにいえば歴代最小合同班数は六五回生の三班だ。けど、今年はそれが更新されるんじゃないかと言われている。だから、その計画も前倒ししたほうがいいかもしれないな」
がんばってくれとエールを残したオスカル教官はそのまま去っていった。三人は新たな情報に顔を見合わせる。とりあえず、ユーリは尋ねた。
「どうしよっか?」
「…………いまさらなにもできませんし。数日早くなっても、それは割り切るしかないですね……」
「そやね~。計画はギリギリやし」
と、結論付けたものの、ユーリは脳裏にこびりつく不安を払拭できなかった。
§
デンドロメード湖を渡ってくる風が、汗の滲む頬や
陽はすでに中天を回っている。バイト帰りのアンヘルは、そのままの足で会議室へ向かっていた。
――講義で不可を取ると補習だからなぁ……。
アンヘルにとってこの計画は重大事項だ。成績の悪い人間にとって、講義を休むことは不可を取る可能性を限りなく増大させる。最悪演習を捨ててでも、講義不可を取らないようにする必要があった。
演習で踏破できずとも無能班扱いされるだけで、その責任は六名に分散される。寧ろ、班長でもないアンヘルの責任は限りなく低い。しかし、講義不可を取れば評価に消えることのない欠損ができる。優等生なら兎も角、成績下位者は演習に対して非協力的に成らざるを得なかった。
集団内の意識分断があらゆる目標達成活動に良い影響を与えないと知りながらも、利己主義に走ってしまう。人間とは業の深い生き物だと自戒しながらも、自嘲するしかなかった。
ぴゅーと吹き抜ける風に煽られて、視線を校庭の先、小高い丘になっている場所に走らせた。そこには、先日出会った痩身の男の姿があった。
手元には画材を幾つも置いており、膝には広い画板を立てかけている。
テリュスの兄、セリノである。彼女の話では画家であるらしく、風景を描くのは問題ないが、此処は士官学校である。当然、関係者以外立ち入り禁止であった。急ぐ身ではあるのだが、候補生として見過すことはできなかった。
「あの、セリノさん、でよろしかったでしょうか」
ふんわりとした黒髪が風に揺られている。手元のキャンパスは土色の校庭と白塗りの校舎の対比で色鮮やかに塗られていた。
「うん、なに? あ、あれ、キミは確か……」
「はい、昨日お会いしたアンヘルです」
「ああ、そうだ。確かテリュスの友達の。……そっか、君は士官候補生だったのか」
意外そうな表情を浮かべる。いつもの反応に、アンヘルとしては己の軍人らしからぬ容姿を喜べばいいのか、悲しめばいいのか複雑な感情を持て余すことになった。
「はい、それで聞きたいことがあるのですが。士官学校は一応関係者以外立ち入り禁止となっていますので……」
「ああ、そうだよね。ほら、はい。許可証」
セリノは懐から白い許可証を取り出す。士官学校事務局印が押されていた。
「これは申し訳ありませんっ」
「いやいや、良いよ。それよりコッチが感心させられるばかりだ。君の他にも何人か尋ねてきた。未来の軍人さんには頭がさがるばかりだよ」
セリノは遠い目をする。手は許可証を弄んでいた。
「なぜ、っていう顔をしているね?」
「は、そんなことは」
「いや、いいさ」
当然だからね、とセリノは続けた。画板を地面に置くと、その横をポンポンと叩く。座って話したいという合図だった。アンヘルは彼の横に腰を下ろした。
「僕の職業は聞いているかな?」
「画家と伺っています」
「まあ、そうだねえ。それは、間違いじゃない。けど、正しくもないんだよ」
一呼吸おく。彼の視線は士官学校に注がれていた。
「僕の仕事は確かに絵を描くことさ。けど、それは美術的価値のある作品を描きたいとか、そういうことじゃないんだよ」
「……と、いいますと?」
「君は知らないかもしれないけど、絵画の主流は宗教画か風景画のどちらかに二分されるんだ。けど、僕はそれとは違う作風を目指している。一種の社会風刺とでもいうべきかな。社会に対する警鐘を、絵にすることでメッセージにするんだ」
セリノは置いてあった風景画を掲げる。今見える光景を描いているようで、その中央には士官候補生らしき人物たちが楽し気に遊んでいる様子が描かれていた。士官学校ではありえない、日本の高校のような風景だった。
「士官学校を否定したい、ということですか?」
「いや、そこまで理想を見ちゃいないよ。士官学校は必要さ。ただ、僕は士官学校に入学する生徒たちも、未だ若い少年少女たちだと伝えたいんだ。候補生は皆、若い頃から行き急いでいる。やれ、外部演習や迷宮演習、有事のときには義勇軍となる。でも、君たちはまだ年若い子供なんだ。それを、大人たちに分かってほしい、というぐらいさ」
セリノは乾いた笑い声をあげた。寂しそうな声だった。
「この学校は死の危険が付き纏う。ウチは道場をしているから、何人も士官学校に送り込んだよ。だから、よく分かってるんだ。この学校が、どれほど大変なのかってことをね」
アンヘルは、彼の武芸嫌いの根源を垣間見たような気がしていた。
彼は武芸に触れず芸術の道を選んだ。送り込んだ生徒たちが再起不能となり、さらに箱に入って返される光景に幾度も直面したのだろう。青年の目には、士官学校に対する恨みが滲んでいた。
「ああ、君の質問に答えてなかったね。僕が士官学校にいる理由は、僕の作品に共感してくれる教官が少なからずいるからなんだよ。意外かもだけど、士官学校は理由があれば許可証を貰えるからね。ま、その理由自体が簡単じゃないけど」
ふふっと笑う。確かにアンヘルとしても意外な話であった。日本の自衛隊などと比べれば考えられない話だ。だが、個々人が強大な力を持つ異郷の地ならではのおおらかさであるかもしれなかった。
「妹のテリュスさんに対する姿勢も、そういう所から来ているのですか?」
「うん? ああ、まあ、そうなるのかな」
ハキハキと己の主張を貫き通す男が、はじめて言葉を濁す。迷いが手に取るように浮かんでいた。
「えっと、妹からはどう聞いているのかな?」
「……家族から、武芸で生きていくことに反対されている、と」
彼女の寂しさは、将来を家族から否定された若者特有の孤独感から滲んでいた。認めてもらいたい、認められたい、そんな焦りが根本にあるとアンヘルは思っていた。
「確かに、それは間違っちゃいない。僕や、カルリト兄さん、それに父さんは思いに差異はあれど、基本的には妹を武芸の道に進ませたくないと思ってる」
しかし、続く言葉でそれを否定した。
「けど、根本的な所は別にあるんだよ」
セリノが語った話は、それはもうドロドロとした兄妹の嫉妬にまつわる話だった。
五人兄妹であるテリュス一家は、長男のカルリト、次男のセリノ、そして末の子であるテリュスの他に、あと二人兄妹がいた。
三男、四男にして双子のダニーロとドミンゴである。
テリュスが幼い頃、兄弟たちの関係は悪くなかった。長男カルリトは歳が離れており、次男セリノは武芸に興味がなかった。一番下のテリュスは幼く、道場のアイドルだった。唯一、双子だけは日々喧嘩が絶えなかったが、それは稽古の延長で、互いにリスペクトしたライバルのような関係だった。
それを一変させてしまったのは、テリュスだった。
才能、その一点においてテリュスは、三つも上の双子より遥か高みにあった。よちよちと道場に顔を出しては、遊びながらに武芸を学んだ彼女は、成長するにつれ擢んでた実力を備えるようになった。その時からだった、双子とテリュスの間に、隠しようのない確執が生まれ始めたのは。
そして、道場の模擬試合において、それは決定的となった。一本試合、それも門弟たちが注目するど真ん中で、真っ向から双子を倒してしまったのだ。
グレた。それが一番的確な表現だろう。
上の兄、ダニーロは部屋へ引きこもるようになった。彼のプライドは、敗北したことに耐えきれなかったのだろう。だが、まだマシなほうだった。
下の兄、ドミンゴは、本格的に悪の道へと逸れる運びとなる。恐喝、暴力、さらにははぐれ者たちの仲間へと、留まることなく下へ下へと流れていった。
彼には、才能も努力を続ける精神力も備わってはいなかった。しかし、だからこそ、はみ出しもの集団に共感された。彼の体系付けられた戦闘技術を学んだゆえに歓迎され、気づいたときには浮上できなくなったのだ。
テリュスは何も知らなかった。そのような機微を理解するには幼すぎた。そして、後には兄妹の破綻だけが残ったのだった。
「もちろん、妹が悪いなんておもっちゃいない。子供ながらに、褒められたい一心で頑張ったんだろう。けど、世界はそんな優しくないんだ。これが家族の話だから、破綻ぐらいで済んだ。けど、男社会で進んでいけば
心底嘆くような声でセリノが言った。彼の言葉は、世界を知らぬ若者に語りかけているようだった。
日本にいた頃のアンヘルなら、鼻で笑えただろうか。それが、差別の理由に、不条理がまかり通る理由にはならないと。だが、現実は遥かに無情なのだ。生温い権利や人道など、クソの役にも立たない。
「君はどう思う? 妹の夢を応援するべきだと思うかい。いや、話が大きすぎるかな。妹の剣を腐らせるには、惜しいと思うかい?」
言葉に詰まった。惜しい、といえばそうなのだろう。拙い腕ながら、テリュスの才能は理解できる。その心情も理解できなくはなかった。
だからこそ、黙したまま、何も話せなかった。
「言いにくい、かな。君は、印象よりもずっと大人みたいだね。こういう話を若い子にすると、どちらかの意見に偏るものなんだけどね」
いろんな経験をしているからこそ、中庸という灰色に生きてしまうのだと、セリノは語る。
「なら、最後に聞かせてくれ。武芸はからきしだから知りたいんだ。妹は、どうなんだい。強い、のかな。それも、士官学校で潰れないほどに」
真剣な光を瞳に宿していた。嘘偽りは許されない、そんな空気感だった。
アンヘルは唾を飲み込む。誤解のない言葉を慎重に選んだ。
「弱くはない、そう思います。実際、伍科の人間と比べても、見劣りしないどころか勝っているでしょう」
けれど、とは続けなかった。求められている回答ではないし、蛇足だ。自身が見た事実だけを答えた。
「そう、なのかな。やっぱり。僕のわがままなのかな。家族とはいえ、一人の人間の将来を決めるなんて」
寂しそうな横顔で呟く。後悔やもどかしさなど、いろんな感情がブレンドされた複雑な面持ちで空を見上げていた。
「今日はありがとう。付き合ってくれて。つまらない大人の話をしてしまったね」
セリノが優しげに微笑む。アンヘルは立ち上がって、黙礼をすると踵を返した。
吹き抜ける風を浴びながら、アンヘルは再び思案する。告げなかった言葉を、いうべきだったのかと。家を貶める言葉を吐かないため、伝えるべき情報を飲み込んだのかもしれない、と。
――確かに、彼女の剣は綺麗で、強い…………けれど、綺麗すぎる剣など、実戦では何の役にもたたないんだ。
過ぎた過去を思いながらも、ユーリたちが待つ計画会議の場所に急いだ。
◇ 演習評価補足 ◇
〇例年の傾向
演習日程:三十日
例年の踏破日数:十五日
例年の踏破合同班:七班
迷宮ボス復活日数:十五日
〇評価方法
第一陣(優):迷宮ボスを倒したグループ。その中で合同班を主導した班が最優秀班となる。班の一割弱がこの評価。
第二陣(良):迷宮ボスが倒されてから踏破したグループ。踏破した速度で良評価内の順位が決まる。班の七割がこの評価。
第三陣(可):クリアできなかったものの、八割程度は踏破したグループ。年によっては迷宮ボスが復活してしまい、クリア不能になる場合がある。班の二割がこの評価。
第四陣(不可評価):最低評価。ほとんど出ることのない評価。迷宮の八割すら攻略できなかったグループ。