「こっちです、セリノさんッ」
セリノは追跡を頼んだ男に先導されながら、その区画に辿り着く。後方にはカルリトとアンヘルの姿もあった。
「ありがとう、本当に感謝するよっ」
「いえ、いいんです。セリノさんには何度も助けられてますし、それに黒豹の奴らは許せませんから」
町民の男は黒豹傭兵団に対する不快感を隠そうとはしなかった。近隣に住む者たちにとって、害虫そのものであった。セリノのように暴行を受けて泣き寝入りした者や、娘や恋人を乱暴され塗炭の苦しみを味わった連中も多い。彼もそんな一人であった。
町民は「この角を曲がったすぐそこです」と言い残すと口惜しそうに去っていく。カルリトは一度立ち止まると、全員の顔を確認した。
「今から突入するが、俺が先頭になる。アンヘルはセリノを守りながら付いてきてくれ。それとセリノ。絶対に突っ込んだりするなよ」
カルリトは、三、二、一の合図と同時に勇み足で其処へ突入する。セリノも剣を構えながら突き進んだ。皆一斉に角を曲がって、その場に躍り出る。そこは異様な光景、小柄な少女が大男相手に大立ち回りを演じている様子が広がっていた。
「たぁあああッ」
「軽いなぁ、嬢ちゃんや」
テリュスは中央で佇立する大男に襲い掛かる。褐色の肌に立派な体格を持っており、まるで古代の大将軍樊カイを想起させる出で立ちだ。そして、その外面はけして見掛け倒しではないということを、ただの一瞬でセリノは理解できてしまった。
視認することすら困難なはずの、全速力で振りきったテリュスの剣撃を、男は半ば欠伸を漏らしながら右手のガントレットで受ける。
退屈そのものといった様子だったが、しかし、動きに鈍りはない。高速で右足を細動させると、突如うねりを伴って踵をぶん回した。
少女には躱す余裕すらない。待っ正面からもろに喰らうと、肉を打つ音と共に吹きとぶ。大きな音を立てて物置に突っ込むと、がらがらと瓦礫の中に埋まった。
「テリュスッ!」
鋭い悲鳴を響かせながら、駆け寄った。彼女は、ゆっくりと意識を立て直すと、がらがらと瓦礫の中から這い出てきた。
「大丈夫、大丈夫ですから」
強気な態度を崩さないが、身体には幾つもの痣があった。完全に遊ばれている。実力差は歴然であった。
セリノにとって妹は超常の戦士そのものである。元々身体の強くない彼にとって道場生たちは人外とほぼ同義だったが、あの一瞬の攻防で目の前の男がさらに高みにある存在であることは明白であった。
「増援の登場ってか。はあ、これならさっさと勝負をつければよかったぜ」
男が杜撰な計画をした部下たちを咎めるようにして睨む。蛇に睨まれた蛙のように男たちは縮こまっていた。
スポットライトが他の人物へ当たったことで、周囲を確認する余裕が生まれた。そこで、目についた男たちの中の人物、痩身の男に視線を奪われる。
「ドミンゴッ、どうしておまえがっ」
カルリトが驚愕に固まる。ならず者の先頭に立つ男は、弟ドミンゴだったのだ。その事実に気づき、セリノは愕然とした。
「お前は何をしているのかわかっているのかッ。自分の妹だぞッ!」
「うるさいッ、よってたかって、何様のつもりだッ! 兄さんたちに指図される筋合いは――」
「はいはい、そこまでにしてくれや。つまんねえ家族ごっこはさ」
男がパンパンと腕を叩く。ゆったりと戦斧を構えた。
「ほら、誰からやるってんだ。それとも、全員か? それでもいいぜ」
斧を構えると、ひと回り大きくなったようだった。重武装は、その威容だけでも相手を恐怖の坩堝へと叩き落とす。カルリトは小さく「血まみれグンドだ」と呟いていた。
血まみれグンド。黒豹傭兵団きっての凄腕である。異名通りの血をまき散らすような戦い方が特徴の男だ。セリノは仰々しい異名に身震いを隠せなかった。
「『血まみれグンド』ってなんですか?」
「…………僕も詳しく知っているわけじゃないけど、黒豹傭兵団の幹部だよ、たしか」
アンヘルの能天気な疑問に対して苛立ちを覚えながらも、頭の片隅に残っている記憶を引っ張り出す。しかし、問うた本人はふうんと呟きながら、意識を正面へと戻していた。
――クソ、本物の傭兵じゃないかッ。幾ら兄さんでも勝てるのかっ。
不安を隠せず周囲を伺った。だが、カルリトはその視線を受けて、ひとり神妙に頷くと、剣を正面に構えた。
「セリノはテリュスを見てやってくれ。アンヘルは周囲の奴らが乱入しないよう注意を頼む。こいつは、俺が相手をする」
カルリトは闘気を高ぶらせると、そのすべてを剣に集める。それが臨界点に達すると、一気に飛び込んだ。
「東方一刀流師範代カルリト、参るッ!!」
「名乗りたがりってのは、雑魚の証だぜ」
その掛け合いを合図に、両者は打ち合いを始めた。
カルリトは道場の師範代だけあって、かなりの使い手である。長剣を手先の延長のようにして自由自在に操り、薙ぎ、払い、突きと教科書通りに放つ。間合いの取り方、踏み込みの位置、強化術の洗練さなど、すべてが高い水準で揃っていた。その華麗な剣術は、セリノが道場で見た剣術そのものだった。
もっとも、数多の戦場を潜り抜けたグンドは実戦経験豊富な猛者である。『血まみれ』の二つ名は、伊達ではない。涼しい顔をして受けに回っていたかと思うと、突如として反撃を繰り出した。
まさに戦士の技である。剣をギリギリで見極めると、その巨大な戦斧を唸らせた。ボッと、大気を割って先端が迸る。カルリトはその攻撃に煽られて、幾度がたたらを踏むと後退を余儀なくされた。
「カルリト兄さんっ、おされてないか。くそ、助けに入ったほうが……」
「いえ、大丈夫ですっ。兄さんには、あの秘剣がありますからっ。それに、危なげなく剣を躱しています。なんとかなりますよ」
テリュスの言葉には絶対の自信が滲んでいた。確かに、巨漢グンドの斧と真っ向から打ち合う必要はない。重武装と打ち合いを避けるのは、道理でもあった。技術で躱し、致命の一撃を放つのが剣士の神髄だ。
「だ、大丈夫そうだな。よかった、よかったよ。な、アンヘル」
「……」
「どうしたんだい、アンヘル? まだ、不安なのかい」
「いえ、そういうわけでは……」
言葉を濁すアンヘルを見ていると、周囲を取り巻いている男たちから悲鳴があがった。カルリトが大きく剣を掲げている。その剣に力が収斂されて、青く光っていた。
――カルリト兄さんの、秘剣だっ!!
「秘剣、清冽流しッ!!」
その轟々とした剣の闘気からは想像できないほど、滑らかな銀線となって剣が閃く。白銀の鋼が、入刀するような穏やかさで世界を切り裂いた。
スパッと綺麗に男の胸元を割った。一直線に筋が入ると、血が噴出する。しかし、傷は浅く、男は少しばかり顔を顰めただけだった。
「ここら辺にしておけッ、俺の秘剣を破ることはできないぞッ!」
「へ、箱入り坊ちゃんにしては中々やりやがらぁな」
グンドは胸元の血を手で抄うと、ぺろりと舌で舐めとった。その顔には余裕があった。
「けどよ、まだおわっちゃいねーのさ」
グンドの切れ長の目尻が、瞬間、恐ろしいほど昏く歪んで見えた。
爆音とともにその巨大が走りだすと、號と蛇のように地を走りながら恐ろしいスピードで斧が唸った。
おう、とカルリトが構えるが時すでに遅し。大気を割って迫る大斧は、彼が持つ剣を粉々に砕いた。
そのままグンドが右拳を脇腹に放つ。
ゴキゴキと骨が幾つも砕ける音と共に、カルリトは吹き飛んだ。宙を舞って血反吐をまき散らしながら地面へと倒れる。ドッと男たちの間で歓声があがる中、さも当然という顔でグンドが戦斧を肩に担いだ。
「カルリト兄さんッ!」
悲鳴をあげながらテリュスが駆け寄る。
「ごほっ、く、くそっ」
カルリトが上半身だけを起こしながら、ゆっくりと歩み寄ってくるグンドを睨みつける。しかし、その眼光からは常ある鋭さが失われていた。
「どうした? ああ? もう終わりだってか」
グンドが嘲るようにして笑う。ずんずんと進むその威容は、巨人の行進そのものだった。
一同に絶望が染みわたる。残っているのは傷だらけのテリュスと武芸がからっきしの自分、そしてアンヘルだけである。この場の最強戦力が倒れた今、絶体絶命の状況に陥っていることは皆理解していた。
男たちがにじり寄ってくる光景に、まるで心臓に針を穿たれたような緊張感が増大してゆく。狭まっていく包囲網の中、セリノたち兄妹は互いに身体を寄せあった。
不安感から、キョロキョロと周囲を見渡す。しかし、増援など望めるはずもない。万事休すかと嘆いていると、スッと横にいたアンヘルが前に進んだ。
「ここは、ぼくに任せてもらえませんか」
その右手は腰の剣柄にかかっていた。その横顔は気負いも恐れもない。出会った当初から変化のない平静そのものだった。
「なに考えているんですかッ! カルリト兄さんが敵わなかったんですよ。あなたなんかじゃ――」
「そうだ、止めるんだッ! そいつは只者じゃないっ」
全員が制止の言葉を投げ掛ける。対照的に、グンドの背後にいる男達は、此方の本命を大将が容易く一蹴したことで、虎の威をかる小物のように笑みを深めた。
「さすが、グンドの大将でさぁ」
「へへへ、諦めるんだな。それに、おまえらの実力なら、奴隷商にも高く売れんだろッ」
「いやっほおぉおおおおお。おんな、おんな、おんなぁあああああッ」
「おで、おでもっ」
男たちが包囲の輪を狭める。
テリュスは兄の重傷に気を削がれている。命に関わる傷ではないが、傷は重く、平時と同じ働きは期待できそうにない。この状況を一変させるには、グンドを一対一で破り、残りの男たちも片をつけねばならない。不可能に近い事態だった。
それでも、アンヘルに動揺は見られなかった。
「分かっています。しかし、このまま固まっていてもどうしようもありません。僕が彼を引きつけます。カルリトさんとテリュスさんは、他を倒してイズナさんを助けてください」
「だが、きみがっ――」
「なるべくはやく、戻ってきてくださいね」
ふっと笑顔を浮かべる。有無を言わせぬ態度だった。不思議な空気を漂わせる少年だと思ってはいたが、この状況でも笑顔を浮かべられるとはセリノにも予想外だった。
セリノは五つ以上年下の少年が浮かべるその涼しげな顔に、間違いなく呑まれ、そして無意識の内に縋っていた。しかし、男たちには認められなかったのだろう。まだ歳若い少年の生意気な物言いに腹を立て、罵詈雑言の嵐を巻きたてる。
「舐めてんのかっ、てめえなんて、大した役にたちゃしねえよ」
「おれがぶっころしてやろぉかぁ? ええ」
「おで、ころす、ころす」
男たちが肩を怒らせる。生意気な口を開いた愚かな少年へ罰を下そうと、粗野な悪意をあらわにしている。しかし、それをそれを遮ったのは大将のグンドだった。
「おい、テメエらはそこの雑魚どもを屠ってろ」
「へ、なんででさぁ。別のあいつなんておれらで……」
「いいからさっさと行け。俺に口答えするんじゃねえ」
男たちはかなりの不満顔を浮かべたが、さりとて大将に物申すほど愚かでもなかった。さっと離れるとイズナたちの方向に壁を作る。場は、グンドと他に分断された。
「イズナさんを宜しくお願いします。あと、お兄さんとも……」
「けどッ」
「止めるんだテリュスっ! すまない、アンヘル。本当にありがとう。すぐ、すぐ戻ってくるから……」
カルリトはグズる妹を引っ張って、新たな戦場に向かう。
彼らの戦いも容易ではない。実力は兎も角、手負いなのだ。男たちは幾人も残っている。待っ正面の戦いとなれば苦戦を強いられるだろう。付いていくべきなのだろう。だが、セリノは動かなかった。
「僕は残るよ。どうせ、向こうにいっても役立たずだからね。微力ながら、力添えするよ」
「はあ、わかりました。ただ、前には出ないでくださいね」
セリノは剣を構える。が、付け焼き刃の武術などなんの役にも立たないことは百も承知だった。
――勝てる可能性はほとんどない。なんとかして、戦いを長引かせないと……。
戦略を練っているセリノを他所に、グンドはジロジロとアンヘルを眺める。その瞳には、ほかの部外者など欠片も映ってはいなかった。
「……テメエ、なにもんだ。さっきまでの奴らとは格がちげえ。傭兵かなんかか?」
「アンヘル、といいます。ただの士官候補生ですよ」
「……あん、へる、アンヘル…………もしかして、スリート商会の奴か?」
唐突に飛び出した大手の商会の名前に首をひねる。奇妙な雰囲気だ。先ほどまで余裕たっぷりだった男が、警戒心を露わにしている。敵と相対した獣のような態度だった。
「……そうです。よく、ご存知ですね」
「はっ、知らねえわけあるめえ。あのアンヘリノをぶっ殺したって噂の野郎さ。まともな傭兵なら、朧げな噂くらいは聞いているもんさ」
二人だけが知る情報が飛び交う。セリノは完全に蚊帳の外だった。両者の顔を見比べる。
「チッ、たいした仕事じゃねえから来てやったのに。こんなんじゃ元取れねえぜ」
「…………意外と現物主義なんですね。傭兵も」
「そりゃそうよ。世の中、イカれたアンヘリノみてえな野郎ばっかりとでも思ってんのか?」
グンドがせせら笑う。
このまま、終わるかと淡い期待を抱いたセリノだったが、大男は再び瞳に戦意を宿らせる。巨大な戦斧を頭上で旋回させて、正面に構えた。
「けど、まあここいらで名を売るってのも悪かねえかもな。あのアンヘリノをヤった野郎の首引っ提げて帰りゃ、俺も裏社会のスーパースターさ」
男に闘気が満ちる。ブワッと身の毛のよだつ殺気が放出された。
ガチガチと歯が鳴る。冷や汗が止まらない。突然、巨人が聳え立ったかのように、グンドの威圧が強大化していた。
――ば、化け物だ。今まで、手を抜いていたのか……。
威容に押されてどすんとと尻もちを着いた。助けを求めるようにしてアンヘルを見る。しかし、彼も平然と佇立していた。
ゆっくり剣を引き抜く。刀身に青と赤の光が迸り、ヴィィィィィィンと風切り音が周囲に轟く。リミッター解除した機関車のように、強烈な闘気を放出した。
その肉体から放射された闘気はグンドに劣らぬものだった。
うっと呼吸が詰まる。得体の知れぬ怪物が化けの皮を脱ぎ去ったかのような、異常な闘気が世界を支配していた。両雄に挟まれた間で、セリノの視界は霞んでいく。白と黒のモノクロ世界に落とされたような、異常な空間の中で、微かに響く声をその耳で聞いた。
「やっぱり、戦わないとだめなんですね」
悲しそうに一瞬俯く。それが、この戦闘においてはじめての人間らしい表情だった。
「なら………ぼくは、あなたを討ちます」
上げた顔は、闘争に慣れ、痛苦や悲哀を忘れ去ってしまった戦士そのものだった。
「かかれぇっ! 奴らは手負いだぞぉぉおおお」
恰幅の良い男が此方を指し示す。その掛け声と同時に、残った男たちが飛び出てくる。テリュスは痛む身体に鞭を入れながら、剣を構えて飛び出した。
瓦礫の上から射たれる矢を細剣で叩き落とすと、向かい来る男の小手を斜めから叩き斬る。鮮血がパッと舞い、痛がる男の腹を足裏で蹴り飛ばした。
「テリュスッ、左だッ!!」
腹を押さえたまま、カルリトが指示を下す。テリュスはその声に呼応して脚を旋回させると、ムーンサルトを男の横っ面にお見舞いした。倒れた男をトドメとばかりに、カルリトが剣を喉に突き刺す。肉が引き裂かれ、くぐもった絶叫が流れた。
先ではイズナが連れていかれようとしているが、テリュスたちが踏み込むことで場の人間は迂闊に動けなくなっている。手負いとはいえ、一対一では後れを取ることもない。
だが、楽観視できるわけではない。物陰では重症を負ったカルリトが青い顔で喘いでいる。出血しているわけでもないため、死に至る危険はないが、戦力として期待できるわけでもない。手負いの兄を庇いながら戦うことを余儀なくされていた。
男たちは残り少なく、またテリュスもまた痛みと闘いながら大粒の汗を流している。戦いは、佳境に移っていた。
あと、一息だと、白い喉を上下させて呼気を整えると剣を握り直した。柄は血と汗で塗れてすべり、気を抜けばころんと転げ落ちそうだ。
すでに剣の峰で打つという慈愛の精神は投げうっている。殺意を刃に乗せて、迫りくる敵を排除する。どばどば溢れ出る脳内麻薬が、殺しに対する葛藤を先延ばしにするが、じわりじわりと精神を追い詰めつつあった。
間を置かず、耳元へと投擲物の鋭い音が飛び込んでくる。のけぞって躱すと、石畳へと矢じりが硬質な音を立てて撥ねた。転がって物陰に隠れる。まさしく、呼吸の間すらない刹那のやり取りだ。
カルリトが落ちている石ころを拾って射手に投擲する。投石と侮ることなかれ。石の投射は古来よりありふれた戦闘方法だ。それが強化された武芸者にて用いられれば、簡易ライフルと同等の威力を誇る。男たちは石弾を受けて、瓦礫の上から瞬く間に落とされていく。その絶叫は尾を引いて伸び、やがて消えた。
「おで、ころす。おまえ、おかす」
口から涎を垂らしている。脳みその足りない男が、そのぜいにくをタプタプ揺らしながら進んでくる。その手には大きな戦槌が握られていた。
テリュスは叫びながら、襲い掛かってくる男の腹を薙いだ。ずどんと剣を放り込んだその腹部に深く突き刺さる。腹圧で細長いピンクの贓物が漏れ出してきた。
ぐげげと男が呻き、持っていた戦槌を落とす。そのまま身体の力が抜けるのかとおもいきや、男は踏ん張り立ち止まった。
――ぬ、抜けないッ――!!
テリュスが腹に深く突き刺さった剣を抜こうとすると、男は血が溢れるのも構わず両腕でテリュスごと抱きとめた。その顔は嫌らしく歪んでいた。
「でへ、でへ、つかまえた、つかまえたぁ」
涎を垂らした顔を近づけてくる。テリュスはその悪臭と生理的に受け付けない顔の造形にたまらず顔を逸らす。しかし、男はさらに力を込めて両者の密着度をより高めた。
ぎりぎりぎりとテリュスの身体が締まる。すうっと、腕の力が抜けた。男の腕に歯を立ててなんとか抜け出そうとするが、そんなことでは緩むはずもなかった。
「いぃっ、いたっ」
テリュスの口から苦悶が漏れる。彼女の強化術はスピードに偏っている。それでも只の肥満体に負けるほどではないのだが、死に際の馬鹿力を発揮した男の膂力は彼女の力を僅かに上回っていた。
「よおぉぉし。そのまま押さえておけぇえい」
恰幅のいい男が怒鳴る。その脇には馬鹿そうな男と暗い笑みを浮かべるドミンゴの姿もあった。
カルリトは動けない。射手に集中狙いされている彼は、負傷もあってか物陰から飛び出すことができないのだ。
気道が絞められた事により、少しづつ意識が消えさる。白めく意識の中で、男の下卑た声を聞いた。
「おお、おおお、いいねえ。その顔はよお。だがよ、これからだぜ。許してって幾らせがんでも、ずうっとずうっと俺たちのモンで気持ちよーくしてやっからよお、ん?」
「きひ、きひ、あにきい、さすがでさぁ」
三人の男がゆっくりと近寄ってくる。テリュスが完全に意識を飛ばしかけたとき、新たな闖入者が顔を出した。
「うわぁあああああああああああッ!」
剣を正面に突き出したセリノが目をつむりながら一直線に肥満体の男に迫る。その直剣は、正確に脳天を貫いた。
荒々しく貫通したその剣から血が噴出する。テリュスが拘束から解放されると、その後方から新たな増援が到来した。
外套を翻して大きく跳躍したアンヘルは、テリュスたちの頭上を飛び越えると独楽のように高速回転しながら集団の腹部を切り開いた。朱色の飛沫が上がると、床に悪趣味なタペストリーを描く。そのまま片腕を地面につきながら停止すると、次の狙いを射手に定めた。
「こっちは僕が引き受けます。そちらはお願いします」
と言いながら、豹のように飛び出していく。生き残ったのは、なんとか輪切りから逃れたドミンゴだけだった。
一瞬にして、形勢は逆転した。テリュスはそのことに唖然としながらも、最後の敵にして己の兄、ドミンゴにつるぎを向けた。
「兄さんッ! もうやめてくださいッ」
「ふ、ふ、ふ、ふ、ふははは、は。また、またもやこの結果なのか。笑える、笑える話じゃないか」
茫然自失として、瞳から生気を失った状態で立ち尽くしていた。
ドミンゴにとって、妹はすべてを奪った憎き敵だ。
だが、しかし、現実はどうだ。己の仲間たちはすべて屠られ、その屍を晒している。眼前に立ち塞がるは、諸悪の根源と信じてやまない憎き妹なのだ。
仲間たちのことが好きだったかと問われれば、否と答えるだろう。知恵もなく、力量もない。そして由緒ある家に生まれたドミンゴは爪弾きに合っていた。好意を抱けるはずもない。
だが、それで済む話ではないのだ。許せる許せないは、己の心にのみ従うのだ。
ドミンゴは剣を上段八双に構える。得意だった、東方一刀流の構えだ。
「最後の勝負だッ。おまえに、おまえに負けてたまるものかぁあああッ!」
「もう、もうやめてくださいッ!」
ドミンゴは相手に構える暇を与えることなく、飛びかかった。
――先手必勝ッ!!
闘いとは、先手を取ったものが勝利する。決定的な先手を打たれた相手は、まず反撃の余地はない。初手がすべてを決するのである。
鋭く剣が振り下ろされる。
白い光芒が十字の交錯した。
「うっ!?」
ドミンゴが両足を床に着けたとき、手首から熱い炎柱が飛び出した錯覚を覚えた。
「もう、やめてよぉ」
眼前のテリュスが涙を零しながら、じっと此方を見ていた。嗚咽を漏らしている。手に持つその刀剣には、直前に肉でも切ったかのように、血が滴っていた。
右手の前腕伸筋群のほとんどが切り開かれ、白い骨が覗いている。それを理解すると、飛び散った血が誰のモノなのか、検討がついた。ついてしまった。
見上げる妹の瞳、そこには確かな憐憫が宿っていた。
――待てよ、俺はまだ、何もしちゃいねえんだよ。
だが、事実は妹に負けて、惨めに敗北し、地に転がっていた。許せない、と思うが、同時に意識が遠ざかっていく。
走馬灯のように過去の記憶が流れると、煌びやかだった過去が鮮明になる。楽しかったのは、いつも兄のダニーロと競い合っているときだった。尊敬していた。喧嘩したことは数知れず。されど、負けてもいいと唯一思える人物だった。
それをぶち壊しにしたのは、無邪気なテリュスに他ならなかった。
いつも可愛がられて気に食わない妹。厳しい訓練、辛い勉学すべて免除されワガママに育った妹。それなのに、どうしてか自分よりも遥か高みに登ってしまい、遂には兄ダニーロすら下してしまった。その結果、兄は人生のすべてを諦めた。
許せるものかと、一度は飛びそうになった意識をつなぎとめた。ドミンゴは、その胸元に手を差し入れると、鋭い短剣を引き抜いた。
薄れゆく景色の中、必死の力で短剣を突き出す。泣き崩れているテリュスの無防備な胸部に突き立てんと、鈍色の刃が唸る。
――ハッ、その甘さを後悔しやがれぇぇッ!
インパクトの瞬間、テリュスの驚愕した顔とカルリトの悲鳴が轟くそのとき、一筋の閃光が流れた。
セリノが、横合いから、涙を流しながら長剣を突き出したのだ。
視界が激しく明滅する。激痛なんて生易しいものでは語れないそれが、身体中を駆け巡った。世界が、ぐるりと一回転する。
すでに声など出るはずもない。視界すら真っ黒だ。
だが、その脳は、己の肉親を切り裂いてしまったことを悔いる兄の姿と、憎い妹がへなへなと泣き崩れるのをはっきりと幻視していた。
死の瀬戸際で、ドミンゴはようやく己のしがらみから解放され、憎かったはずの妹へ歩み寄れるような気がしていた。
ふう、とアンヘルは息を吐く。一度気を抜くと、倒れそうになるほど疲労が噴出してくる。それほどまでの強敵であった。
あの大男、『血まみれグンド』は生半可な実力ではなかった。人目がある故、召喚術を制限せざるを得ないアンヘルとでは、実力差はない。
砂塵の地特有の褐色肌に紺藍の髪、そして大柄な体。典型的なラドック人の特徴そのものだ。彼の強化や技術に不足はなかった。
それでも、勝利をこの手に掴めたのは、一年間に渡る鍛錬の成果といえよう。じっくりと基礎技術向上に励むことができたアンヘルは、実戦経験と相まってかなりの近接戦闘能力を有しつつあった。
にじむ額の汗を拭う。兄妹たちは皆遺体の前で涙を流していた。損な役回りを引き受けるのも仕事の内だと割りきり、ひとりポカンとしているイズナに駆け寄る。
彼女はひとり女の子座りで周囲を見渡していた。
「ねえねえ、アルぅ? どうして、姉さまは闘ってるのぉ?」
間抜けた質問だ。「いやいや君の為だから」という言葉を掛けながら、その腕を引っ張る。脱力させられる終わり方に肩を落とすだけだった。
(無事だったのはいいけど、本人がこの調子じゃ、なんだかなあ……)
はあ、と地面に視線を落とす。その時だった。はじめて、何かおかしいと違和感を持った。
ただの少女がこの状況で呑気にいられるはずがない。頭のネジが全部飛んでいなければ、あり得ない状況だ。そのうえ、男たちが手を出さないというのも異常事態だ。これほど麗しい少女なのだ。手を出さないほうが奇特者だろう。
そうやって違和感を持つと、あることに気が付く。
それは、力の気配だった。
水が、淡く渦巻いている。非常に薄い、力に慣れ親しんだものしかわからないほど微量な力で色づいていた。貴族特有の力ではない。例えるなら、いつかの火山龍が放つ根源的強者の闘気に似ていた。
圧倒的存在感。すべてが丸く収まったその横で、アンヘルは小さな蒼穹の少女の存在感に総毛立ち、縫い付けられていた。
――君は、なにものなの…………。
棒立ちとなったアンヘルに、夏の日差しが容赦なく照り付けていた。