「検査しましたが、ほぼ完全に回復していますね。明日には自宅療養でも構わないだろうと先生から伝言を預かっています。よかったですね」
胸元の体温計を取りだしながら中年の看護師が声を掛けてきた。サラサラと記録用紙に記述している。白衣の天使というにはあまりにも年季の入った女性に少しばかり気が削がれた。
意識が回復したのは入院してから次の日。予定では所属する七八小隊の迷宮探索二日目である。
「そういえば午前中、来客がありましたよ。茶髪の綺麗な女の子でした」
看護師が敷布を畳みながら背中越しに茶化してきた。寝台に横たわりながら曖昧な返事を漏らす。
(茶髪となると、エルサさんかなぁ。でも迷宮探索中だしなぁ)
入院中出会った人間はオスカルだけだが、眠っている最中に訪ねてきた人物が他にも居るかもしれない。なんとなくだが、クナルは訪ねていないだろうなという確信がアンヘルにはあった。
看護師が、
「あの、候補生なんですよね」
と、正面に向きなおって聞いてきた。彼女は不安げに膝を整えていた。
「息子も候補生なんです。時折、弱音を吐くものですから心配で。少し相談に乗ってくれませんか?」
「いいですよ。何回生なんですか」
「二回生の二科なんですけど」
「ゆ、優秀なんですね」
「ふふ、そうですか」
一般に、士官学校に通う生徒はエリートだと思われている。危険がないとまでは行かないが、十分に安全装置を付けたうえで実施される管理迷宮での鍛錬。先進的かつ実践的な知識の数々。ともすれば士官は破壊の化身として恐れられるが、敬意を表する一般市民のほうが多い。
世は法律の整っていない中世だから、地方では「力こそが正義」と荒っぽい手法で舵取りをする人も多い。適切な倫理観と能力を併せ持った士官候補生上がりの軍人は頼りになる。引退後、警備役などの仕事を請け負う軍人の数がその商会の信用度の指標となっているくらいだ。
十分ほどの会話だった。基本的に同意を示すだけだ。「危険ですよね」と問われれば「そうだ」と返し、「やり甲斐はありますよね」と問われれば「そうだ」と返した。まるで生産性がない。ただの共感装置だ。だが、悩み相談の本質とは如何に説得力のある人物が同意してやるかにかかっていると思っているから、アンヘルはただ頷きつづけた。
その後、ひたすらに不味い病院食をかき込んだ。疲れから窓の外を眺めたアンヘルは見覚えのある顔を発見した。大神祇官たちだった。
大神祇官は部下のアグリッサとイズナを連れて見舞いに訪れた。
服装は司祭の帽子に黒衣という比較的目立たない格好だったが、見れば素材の良さがまるで違う。拵えの良い黒地が白金の指輪に映えていた。イズナも狩人服とは違う黒の礼服だ。キョロキョロと視線の定まらない様子と相まってまるで似合っていない。アグリッサだけがいつもと変わらぬローブ姿だった。
イズナが一般的な見舞いの言葉と共に持っていた果物籠を置いた。
「元気になれなのですぅ」
能天気な言葉に空気が固まる。頭を抑えたドミティオスが小さく言った。
「退出していてくれないかね」
イズナはぶー垂れながらもアグリッサに引きずられ、病室を後にした。
「すまない。イズナは色々ある子でね」
「色々、ですか」
「特殊な出自ということもあって、主人のアグリッサも配慮せざるを得ないのだよ」
ドミティオスが小さく笑みをこぼす。静謐な白い病室で、暫時の沈黙の後、老司教が口を開いた。
「まずは感謝を述べたい。君たちの働きによって無意味に候補生の命が失われずにすんだ」
「私はただ教官の指示にしたがっただけです。護衛という観点に立てば、責められても仕方ありません」
アンヘルは照れ臭くなって窓の外を眺めた。褒められた人生を送っていなかったから、真正面から賞賛を受けるとどうにもむず痒くなる。逸らした視線の先で見覚えのある商会印の馬車が入ってきていた。
「そんなことは言わないでくれたまえ。護衛としては落第かもしれないが、そもそも何の為の護衛か。こんなつまらぬ儀礼剣に価値などないさ」
ドミティオスはアグリッサが置いていった袋を開くと、黒檀の箱をぱかりと開けた。中には黄金に輝く剣があった。鞘は精緻で唾彫りは壮麗だ。だが、それだけで、魔道具特有の波動は一切感じない。アンヘルは首を傾げた。
「やはりわかるかい。ふふ。私にはまったくわからないんだがね。――宝剣と呼ばれるこの魔剣はすでに力を失っている。それはそうだろう。魔剣を誰が修繕できるというのだね。これは只の儀礼剣。歴史的価値ぐらいしかないのさ」
手元で詰まらぬそうに弄ると再び箱の中に戻した。
「よろしかったのでありますか?」
「なにが」
大神祇官は窓側に回ると木椅子へ跨る。瞳は外の風景を眺めていた。
「宝剣の秘を教えてしまって」
「構わないよ。万が一君が言い触らした所で信じる者はいない」
ひび割れた物悲しい表情を浮かべて、虚空の瞳を湛えていた。その妙に威厳のある発言が、アンヘルのなにか封じている所を無遠慮に触れた。
「さて、そろそろ本題に入ろう」
「なにか分かったのでありますか?」
「市内で横行する吸血鬼騒動について手の者を動かしてみた」
大神祇官はミスラス教におけるトップの座である。内々に伝わる執行官の能力を十全に使えるならば魔の眷属である吸血鬼について情報を得ることは可能であるし、それを簡単に告げるということは執行官たちが動いていないことの証明でもある。
「やはり」
「そのとおり。闇の眷属、吸血鬼の仕業ではないらしい。唯一神であるヤハウェやオーディンに誓おうじゃないか」
司教にあるまじき宗教問題を題材に、指で此方を指し示しながら情報を開示した。ミスラス教は各部族の宗教を飲み込み、ミックスすることでその版図を拡大させた超闇鍋教であるから、役割どころか唯一神のニ柱三柱同立は珍しくない。しかし、それはもはやブラックジョークの域を超えた禁句であった。
アンヘルは返しづらい冗句に脂汗を滲ませながら、続きを待った。
「恐らく今回の事件。魔剣がらみだろう。魔剣の能力は一応の報告を受けているが一致しない可能性はある。人ではなく世界を相手に幻術を掛けるなど聞いたこともない大魔法だ。魔剣の線から探るのが唯一の方法だろう」
「魔剣、でありますか」
確かにあの男はひけらかすように特殊な光を放つ剣を掲げていた。魔剣の線は追及する根拠が十分にある。
どうするかと考えていると、ふと、気になったことがあった。所々出てくる、
「信じる」
という言葉に、どこか自嘲の意味合いを感じた。そもそも、彼は司教の癖に世界を斜に捉え、神すらも冗談にする洒脱さがある。アンヘルは素直に思ったことをそのまま尋ねた。
「猊下は、神を信じていらっしゃらないのですか?」
窓の外を見上げるその背中は寂れていた。
「信仰の布告者にして守護者たる大神祇官の私にそんな涜聖を尋ねるのかね? ならば、問おう。君こそ神の存在を信じるのかね。塗炭の苦しみを糧に進んだ君自身が」
発された言葉は厳格な声となって空から降ってきた。声が実態を伴い、圧力となって人々を押しつぶす。まるで神託のように厳かな雰囲気を纏っていた。
「今回の君の働きに対して答えよう。私は、神など信じない。そもそもありはしないのだ。我らが信仰を捧げるべき尊き存在など。いや、神は実在するのだがね。だが、僧侶や教会が謳う苦難や神の試練は存在せず、またこの世の悲劇や苦悩を作りだした張本人でもない」
アンヘルがこの地へ召喚された理由はわからない。ただ、過去はすべて悲惨なものだった。神を呪った。それは嘘偽りない。なぜ、なぜ我らを苦しめる。信じるものは救われる。信じずとも善を成せば、正しき道を歩めば救われてしかるべきだろう。
目の前の男は、司教にありながら神を真っ向から否定していた。アンヘルは知らずのうちに圧倒されていた。
「私は立場もあって世界の細かな事情に通じている。だが、君は違う。何も知らぬし何の洞察力もない。幸せなことだよ、それは。知りすぎて得することなど一つもない。だが不幸だな。いずれ君は知ることになる」
「それはどういう」
「神の実在を知る、ということさ」
まごうことなき神託だ。同時に憐憫の色を伴っている。アンヘルにはまるで心当たりがないが、たしかに彼は憐んでいた。
静謐が両者の間を取り巻く。アンヘルは完全に黙したまま、じっと己の膝を見つめていた。大神祇官は立ち上がり、穏やかな表情を浮かべた。
「私からも質問なのだが、クナル君とは仲良しなのかね?」
ふっと厳格な雰囲気は消え、どこか雑談めいた会話になる。先ほど以上の不快な内容にアンヘルは苦虫を噛み潰したような顔となった。
「良く聞かれるのですが、私はその全員に医者でも紹介したほうがいいのでしょうか?」
大神祇官はその不作法な態度に目を丸くしただけで、逆に笑みを深めた。
「彼の誘いで依頼に参加したんだろう?」
「彼は脳筋で、戦闘狂で、暴力的で、狂人ついでに、女にモテるという点を除けば良い友人だからです。これらを除いたとき、何が残っているのかは知りませんが」
はじめて心の底から笑ったというような、愉快そのものといった声を腹の底から出した。腹を抱えてクックッと喘いでいる。恐らく今自分は筆舌にし難い不快そのものな表情を浮かべているだろう。
「いやぁ、愉快愉快。しかし、君もモテたいだなんて世俗的な嗜好を持っていたんだねぇ。ああ、新鮮だなぁ。まるで学生に戻った気分だよ。でも、心配しなくてもいいんじゃないかな。彼ほどは無理だろうけど、君は女性運に恵まれているほうだ」
納得できない言葉に口を尖らせながら憮然としていた。そのとき、病室の入り口が控えめにノックされた。返事のする間もなくガラガラと扉が開かれる。
入室してきたのは長い黒髪を靡かせている美しい少女アリベールだった。肩を怒らせながら登場した彼女は中に客人がいることを知るとすぐさま頬を染め、黙礼すると「後で来ます」とだけ言って去っていった。
「ほら、言っただろう。とても可愛い子じゃないか」
パチっと片目を閉じられても寒気が先行するだけだ。茶目っ気の多いおじさんは始末に負えない。
「彼女は違います。ただの保証人です」
「そんな関係ではお見舞いになど来ないよ」
「ですが」
「それ以上の関係を望むなら自ら行動しなければ。異性へのお見舞いなんて相当親しい証拠だよ」
大神祇官はそれを最後に、荷物をすべて手に持った。
「じゃあ、お暇させて頂こうかな。うら若きお嬢さんを待たせても申し訳ないしね。ああ、そうだ。退院するまでイズナを置いていくよ。こき使ってやってくれ」
ひらひらと手を降って老司教は去っていった。アンヘルは病室の白い扉が閉まるまで、その背中を眺めていた。
「ちょっと、客人が居るなら言いなさいよ」
「そっちが返事も聞かずに入ってきたんじゃない」
白いチェニックを纏ったアリベールは病室に入ってくるなり、我が物顔で病室の寝台の横に備えつけられた木椅子へ座った。扉の外からは、看護師や病人に向かって「警護なのですぅ」と叫びながらはしゃぎ回っているイズナの姿が見えた。迷惑顔の病院関係者たちが足早に去っていく。
深窓令嬢たるアリベールはすでに車椅子を使っていない。日々のリハビリが報われ、今年に入ってから杖を使うことはなくなっているのである。足には上底の黒いブーツが光っていた。彼女が短い距離なら歩行可能な証明だった。
「もう怪我は良いの?」
「うん。明日には退院だって。だから大丈夫」
そう、と冷然に言った彼女は右人差し指にクルクルと自分の直毛を巻きつけていた。両者に沈黙が降りる。
突如として、アリベールは右手を振り上げると布団の下の太ももに叩きつけた。
「だいじょうぶ? はぁ? 意味分かってるの。貴方は運び込まれた一日あの世を彷徨ったのよ。それが大丈夫ですってぇ?」
「い、いたい、痛いです。アリベールさんっ」
グリグリと押しつけた右拳を捻るようにして回転させてきた。中指の第二関節、それも尖った部位で太腿の肉が薄い部分を抉った。実際にはそれほど痛くないが、様式美として小さな悲鳴をあげた。
その小芝居を数分続けると彼女がそっと手を引いた。鈍い痛みがいろんなものを誤魔化していく。アンヘルは底に溜まったものが押し流された気分となった。
「――ありがとう。君だよね。こんなに良い治療を手配してくれたのは。あと、この花。嬉しかった」
素直に頭を下げた。チラリと上目で顔色を伺うと、決まり悪げな感情と羞恥の感情がない混ぜになった複雑な面持ちをしていた。
「私じゃないわよ」
「え?」
「だから私は何もしていない。士官学校がやってくれたのではなくて? 個室、最上級治療。士官学校の一候補生には過ぎた施しに思えるけれど」
士官学校の治療は基本的に学内医療所があるが、衛生兵の訓練の場であり、基本的に至れり尽くせりの治療院とは違っている。またアンヘルが受けた治癒は相当高位の術者が派遣されたのか、今までの戦闘の傷が丸ごと消し飛んでいた。
「そっか、分かった」
お見舞いの品である花に言及しなかった点には触れなかった。彼女の表情に気恥ずかしさが混じっていたからだった。膝の上で指を組む彼女を見やりながら話題を変えた。
「この前の魔剣のことだけど」
「そういえば話したわね。何か分かったの?」
アリベールは身を乗りだす。ゆったりとした胸元から鎖骨が窺えた。ピタリと身体に張り付いた淡い色の下着の紐が小さく覗いた。
ええっと、とか言いながらアンヘルは視線を窓の外に移した。童貞と笑われても仕方ない初心さだったが、どうにも大神祇官の言葉で彼女を意識してしまう。
「どうしたの?」
「いや、なんでも。魔剣について聞きたいんだけど大丈夫?」
「聞きたい? 私の願いは報告だったのだけど」
ヒヤリとした声に変わった。物覚えの悪いアンヘルは試験前詰め込みに冷気を伴って覚えこまされたため、彼女の迫力ある顔が苦手だった。慌てて手を振って弁解する。
「その、必要なことなんだけど」
訝しむように眉が寄っている。アンヘルは恐れ慄きながらも、汗を流しながらつづけた。
「軍のことだから言えなくて。けど、教えて欲しいんだ」
「なにをよ?」
「君の商会傘下で調査した魔剣。どんなものがあるの」
アリベールは腰に手をあてて呆れてみせた。
「あのねぇ、知っていたとしても言えるわけないじゃない。情報漏洩で死罪になるわ」
「いや、そうなんだけど」
「そもそもすでに提出された情報は破棄したんだから――」
「でも、予備は隠してある。そうでしょ」
アリベールはうっと詰まった。商会は大きくなればなるほど、保険を掛ける術に長けていることを分かっていたから聞いた。
じっと睨みあう。譲るつもりはなかった。
大神祇官から齎された情報が本当で、もしこれが魔剣を巡る権力闘争だった場合、なんの対処もなしにのうのうとして居ては命を失いかねない。あの男の奇妙な動きである。あの吸血鬼は宝剣奪取の他にオスカル教官殺害を目的にしていた。最後の矢もそうである。あれは、イズナばりの超高精度の射撃だった。去り際の吸血鬼の慌てようといい、裏に一手か二手控えているのはもはや必定である。
アリベールは相手の折れぬ意思を瞳の奥に感じて、目を伏せながらため息を吐いた。
「何が聞きたいの?」
「とくに幻術関連の魔剣について」
「幻術、幻術ね。たしかイリュージョン・アックスと呼ばれる魔剣はあるわ」
「ううん。サーベル型の魔剣。ない、かな?」
「サーベルねえ。一応有ったわ。けれど光を放つだけの大した能力がないと判断されたモノだった。そう聞いているわ。あと知っているのは水を作りだす槍。私が知るのはその三つだけよ」
光を放つサーベル型の魔剣。それが世界に幻術を掛ける大魔剣だということは、未だ知れ渡っていない可能性がある。
アンヘルは掴みかけた尻尾を前に、ごくりと唾を飲み込みながら、ゆっくりと尋ねた。
「その名前は?」
「魔剣蘇芳。発光する色が『花蘇芳』に似ていることから名付けられたそうだけど、でも花の名前を剣につけるなんて変な話よね。騎士団側のゴリ押しだったような記憶があるけれど」
アリベールが不可思議そうに首を捻る。だが、アンヘルにあったのは確信だった。
――いや、それだよ。
薄い紅色の花を咲かせる花蘇芳。その花言葉は、
「裏切り」
である。アンヘルは渋る彼女に詳細な情報を頼んだ。
この盛大な魔剣騒動がひとつのうねりとなって収斂していく。姉妹と遊戯の劇が佳境を迎えようとしていた。
§ § §
ユーリたち七八小隊を主軸とした合同班の面々は中間点の第二十層の主を撃破し、さらに進軍。最終層付近である二十九階層を進んでいた。
合同班の面々は七八小隊を入れて十五人。他所の小隊四班から十人の補充人員を追加して、迷宮攻略に挑んでいる。
集団の規模が大きくなると、必然的に纏めることは困難となる。現在、迷宮攻略が開始してからすでに十七日経過しているから、最終層主人復活想定日まで後僅かだ。皆切迫した状況でも集中力を切らさずにいた。
パチパチと油が弾ける音を聞きながら、ソニアとユーリはランタンの前に座り夜警を務めていた。近くには押し黙ったエセキエルの姿もある。他の班員は天幕の中で寝入っていた。
「エセキエルさん。もう上がっていいよ」
「バカにしているのか。俺は仕事をしっかりやるんだ」
「だけど」
「他の奴と一緒にするな」
この空間を諫めるために提案したが、相手を意固地にさせ、さらに事態を悪化させただけだった。苛立たしげにがじがじと干し肉を齧っているソニアが罵声を浴びせた。
「言うじゃない。元々二十五人の予定だった合同班をあなたの軽率な行動のせいで十人も減らして、それで自分の仕事はするですって? いい加減にしなさい」
「はっ、よく言うぜ。俺はお前と同じ行動を取っただけだ。むしろ感謝してもらいたいね。俺のお蔭で無事、踏破目前まで辿り着けたんだ」
怒りからか彼女の紅色の唇が曲がる。目を三角に尖らせ腕を組んで立っているエセキエルを強烈に睨みつけた。
「あなたの計画じゃたどり着けなかったわ。もう忘れたの? 班長の機転がなければそもそもこの合同班は解散だったわ」
この合同班を再編するにあたり、エルサが涙ながらに合同小隊の結成に渋る他班の面々を説得したのである。命が懸かる迷宮探索である。小隊内すら纏められない班長を誰が信頼できるというのか。彼女の心血を籠めた説得がなければ、計画は見送りになっていただろう。
「それはそうだろ、まとめるのが仕事なんだ。そっちこそ自分が実行班長になったくらいで尻尾を振りやがって。やっぱそんなもんだよな。自分が上の立場になりゃ、自分のやったことは棚に上げてすぐにこっちを責めやがる。女ってのはすぐにそれだ」
「だからってやって良い事と悪い事があるでしょう。今回は合同なのよ。班内の主導権争いとはわけが違うわ!」
「そうやってすぐ自分を正当化する。思い返してみろよ。俺のやったこと、おまえがやったこと。違ったか? 違わないだろ。厚顔無恥って言葉はおまえにぴったりだな」
ソニアは激昂して立ち上がった。ギロリとした鋭い瞳が相手を射抜かんと尖っていた。
それに怯んだ様子をまったく見せず、エセキエルは皮肉げに口を歪めながら背中を壁につけた。
「そらそら、気に食わないことがあるとすぐ暴力だ。さすがは壱科。別にいいぜ。ほら、殴れって。出発前みたいに好きなだけ殴れよ」
「言われなくたって。あなたなんかここで屍に変えてやるわ!」
「さすが壱科。惚れ惚れするくらいにクソ野郎だな。ほら、やれって。俺にお前の底を見せてくれよ」
「もうやめてくださいっ。今は夜警の途中ですよっ!」
ユーリは拳を振り上げるソニアの細い腰に抱きつきながら、静止を図った。
フーフーと吐きだす彼女を尻目にエセキエルが続ける。
「お前のこと調べたよ。はは、笑っちまったな。結構有名なとこの出身だが、その実ただの孤児の養子なんだって? 必死になって軍で成り上がろうとしているんだろうが、ああ、醜いねえ。そんなに人を蹴落としてでも成り上がりたいもんかね。俺には――」
ソニアがその無遠慮な言葉に声を失っているとき、ユーリはすでに動きだしていた。
身体を捻って、右拳を相手の顔に向かって突きだす。殴られた側は尻餅をつきながら背を壁に打ちつけた。
「おまえッ!?」
「あなたの非難合戦には興味がありません。けど、もし仲間を調べて悪く吹聴するのであれば、ボクは絶対にあなたを許しません」
エセキエルは両腕を突いて此方を睨む。だが、ユーリは毅然と睨み返した。譲れぬ一線、彼はそれを超えたのだ。常に弱々しく見られる自分でも負けるわけにはいかないときがある。
迷宮内の静かな夜には似つかわしくない騒音になんだなんだと班員たちが目を覚ましてくる。
「今日はもう、下がってください。残りは、ボクたちでやりますから――」
起きてきた班員にユーリはなんでもないと釈明した瞬間である。
うおぉぉんと吠え声が響き渡った。それは犬の遠吠えに似ている。遠方まで轟く叫びだ。全員がハッと顔つきを変え、姿勢を低くした。ソニアが鋭い動きで焚き火を消し、視界が暗がりに包まれる。薄暗いランタンの光の中で、ユーリは全身を緊張感で満たした。
「何、ですか。いまの?」
エルサがユーリの袖を掴みながら怯えた表情で言った。
「おい、いまの」
エセキエルも警戒心を露わにしている。「やばくないか。何、だ? 獣? だが、それにしては」と、唾を飲み込みながら、手で口を拭った。ユウマも目を見開いて脂汗を流している。
他の小隊の面々も冷や汗を流して、ヒリつくような刺々しさを隠そうともしない。それでも、誰一人として急に動きだしたりする者もいなかった。一年の訓練を乗り越えた士官学校候補生に軽率な行動をするものは一人もいない。調査を開始する。全員が無言の内に胸中を一致させた瞬間である。
爆発的にうねるような吠え声が連鎖した。獣の吠え声がまるで世界を支配するかのように木霊した。強烈な共鳴にユーリは咄嗟に耳を塞いだ。
「あかん、これはっ!」
ユウマの息を飲む音に続いてどすどすと恐竜の進撃音のような足音が響いてきた。地を揺るがす爆音が此方に向かってくる。獣の吠え声も同様だ。
「に、逃げよう!」
「何を言っているッ? もう最終層は目前で」
エセキエルの反論を無視して、エルサとソニアの腕を掴み「立って、ほら」と立ち上がらせる。
逃げねば、逃げねばならない。死んでは意味がないのである。
「いったん一層下がって様子を見ます。まだ迷宮ボス復活予定までには二日もある。それよりも態勢を立て直さないと。ソニアさん、指示をください」
「――そうね。ユウマは先行して道を切り開く。他の小隊は即座に集められる物資を回収。班長はそこの指揮を。ユーリとエセキエル、それから第五六小隊は殿を勤めてっ」
鋭い指示と同時に候補生たちが蜂のように飛びだしてく。ユーリたちは足音が響いてくる方向に向かって抜刀し、相手にそなえた。
(落ち着けっ。ボクたちは二十層のボスは倒したし、湧きも回避した。十五人もいるんだ。真っ当に対処すれば)
少しづつ飛びだしてくる小鬼をソニアが一刀で処理する。他の面々も危なげなく、飛びついてくるモンスターたちを葬り去っていった。
「装備の回収終わりましたっ。もういけます」
「撤退。エルサ班長に続いて!」
ソニアの掛け声と共に全員が駆けだした。ソニアが、エルサが後方に魔導銃を向けながら駆けぬけていく。ユーリは時折振りかえったり全体を確認しながら、時折不安定になる箇所へ位置を移した。
「やばいで、これ」
ユウマが呟くようにいった。
わかる、わかるのだ。小鬼が、スライム生物が、大鬼が無尽蔵に飛びだしてくるのだ。まるで、卵から生まれでた小鳥が、餌でも欲するかのように。曲がり角から、そこいら中から、モンスターが湧いてくる。世界を揺るがすような足音はどんどん大きくなっていった。
一個の軍団が眼前で立ち塞がるように壁を作った。
「ユウマさん、ぐるぐるタイフーンッ」
ユーリは叫んだ。
「はぁぁぁあ」
ユウマは戦鎚を身体を軸に回転させながら敵の塊に突貫。血肉を周囲に撒き散らしながら、モンスターを壁や床の染みに変えていく。悲痛な悲鳴を轟かせながら屍となっていくモンスターたち。それ以上に悲痛な怒声を聞きながらユーリは敵を殲滅した。
しだいに小隊はまとまりを欠いていく。基礎体力豊富な者、脚力に不安のある者。ユーリは全体を均すようにして逐一援護に入るが、焼石に水である。
ユウマが突出して、エセキエルも周りが見えていない。ソニアやエルサは必死になって集団を纏めようとするが、合同小隊の弱みか、突発的事態に遭遇すると各小隊が個別に行動を始める。個人で参加している人は孤立して取り残されていった。
(諦めるな、諦めるな、まだ道は)
弱る心を奮い立たせる。これじゃダメなのだ。イメージしろ。アンヘルを。あの動揺しない彼の姿を。
無能、雑魚、そう言われてきた。強くなれ、強くあれ。そう言われて無理やり入学させられて、そして戦っているけれども。
腕が痛む。切られたのか。関係ないと剣を強く握りしめる。弱る心が強く一本の芯となっていくのを感じた。
「ソニアさんっ。二十八層まであと」
「もう少し!」
「みんなっ、まず壁に寄って。先頭はユウマさんを中心に。後方は余裕のある人たちがカバーして」
傷のない者など一人もいない。だが、ユーリの声に全員が反応を示し、一つの集団となっていく。続くソニアの指示で集団が再び一個の生物となった。
実際の観察では、モンスターたちの攻勢も対処し切れぬほど強力ではない。数は多いが、やけに勢い走った若さのような必死さがある。また動きはバラバラで、湧き特有の無秩序さや無統制さがありありと映る。意外にも臆病で、ユーリたちが攻撃を加えると、怯むモンスターも少なくない。
相手とて生物だ。軍隊のように己の死によって仲間を助けるような集団特有の冷徹さが微塵も窺えない。野生そのもの。容赦なく殺害していく候補生に対して、その牙は未熟すぎた。
無論、遁走するユーリたちにも余裕はない。常に逃げるほうが疲労も緊張感も大きいし、強化術と持久力は相性が悪いから徐々にリスクは増大する。パニックにならなくなったことを鑑みても、いずれこの均衡は崩れさるに違いなかった。
「見えたわッ! 階段よ。早く」
ソニアの指ししめす先。そこには石造の階段があった。敵はすでに一掃されていて、道は切り開かれていた。希望が見えたからか運動神経の悪い他の小隊の人が転ぶ。
ユーリは、
「大丈夫っ。焦らないでっ」
と叫びながら、後方から来る敵に備えた。
階段は人がひとり通れる幅しかない。身を屈めながら、一人づつ降りていく。階段前の広場で一陣を作り上げながら敵を迎え打った。
「音、音がどんどん大きくなります」
恐竜のような足音は留まることを知らない。早く、早くという焦燥の鐘を鎮めながら、ユーリは必死に冷静さを保たせた。
「キャッ――」
「エルサさんッ」
エルサが腕を抑える。悲鳴を上げながら蹲った。
駆け寄ると、彼女の右腕に矢が貫通しているのがわかった。ユーリは彼女を助け起こしながら同時に敵を薙ぎ払う。血潮で顔を汚しながら前方を睨みつけた。
「ユーリ、さんっ」
「下がってっ。ここはボクが」
しおらしげに呟いた彼女の声を間遠に聞きながら、再び場を盛り上げる。ひとり、ふたりと消えていくとしだいにモンスターの増加も絶えていった。
だが、ユーリたちにあったのは、なにか恐ろしい前兆のような逼迫感だった。
「音、止まったなぁ」
「油断しないで。敵はまだ来る」
残り八人。必死に敵を処理しているその最中、のっそりとしたその腕が、曲がり角の向こう、そこから覗いた。
その巨大さに人々は愕然とした。
女の胴体ほどもあるその腕の先には、背丈は優に三メートルを超える。半裸の怪物が大きな足音を立て歩み寄ってきた。
頭頂部は巌のような鋼鉄の兜に覆われ、上半身と下半身を動きの邪魔にならぬ程度の鉄板で守っている。腰にはチャンピオンベルトのような、円形のベルトを帯びていた。張り出した肩の筋肉は巨岩を思わせる発達度合いで、腹筋は鉄板のように硬く、そして赤みを帯びていた。のっしのっしと熊のように歩くその姿勢は間抜けそのものだが、しかし息を飲むほどの威圧感がある。特筆すべきは巨大な右腕のモーニングスターだ。充血しきった血管の走る筋肉質な腕がその巨大な背丈に見合った巨塊を担いでいた。
『試練の塔』のボス、タイタン。
大きさとはつまり力の象徴だ。小さき者が巨人を打ち倒すことは、まさに雄々しい物語として語られるが、それは如何に巨人が強いのかの裏返しでもある。見るものに畏怖を抱かせる、人類を超越した肉体は圧倒的な存在感を放ち、眼前に聳え立っていた。
それを見た瞬間、ぶわっと全身の毛が総立ちとなり、知らずのうちに、大量の汗が全身から吹きだした。
これはヤバいっ。勝てるわけがない。ユーリは硬直した身体に鞭打ちながら、強烈に感じるプレッシャーを打ち払おうと努めた。
だが人は、強大な恐怖に遭うと、どうにも身を抑えることができない。その場を捨て、必死の遁走を図るか、それとも、無鉄砲に向かってしまうか。
少なくともユウマは後者だった。
「はぁあああああっ」
必死の咆哮はある種の悲鳴に聞こえた。彼女の身に迫るほどの戦鎚を巨人はこともなげに盾で受けた。
「皆、逃げて!」
その叫びは届かない。エセキエルはガチガチとなる歯音を誤魔化しながら、無理やりに笑った。
「は、むしろいい感じだ。あのクナルって野郎がたった一人で倒しやがったんだろ? こっちは八人だ。いや、仲間を呼び戻せば十五。余裕。余裕だよっ」
エセキエルは剣を構える。確かに巨人の動きは遅い。ゆったりとしていて、ユウマの動きにも対処できていないように見える。冷静さを少しばかり保っていた候補生が魔導銃をぶっ放す。階段の下から、雰囲気の変わったことに気づいたエルサが顔を出した。
脾肉を削るようにして血潮を撒きちらす。エセキエルたちは相手の緩慢さに当初の恐怖感を紛らわせているが、後方から冷静に様子を窺うユーリには楽観視などできなかった。
(相手はまだ余裕を残している)
夥しい血流を撒き散らしながら、しかし、敵の悠然さは変わらない。ソニアが必死になって仲間を止めようとするのが目に入る。冷静な彼女らしい、客観視だった。
ぎらりと相手の瞳が光るのをしっかりと見た。隆々とした肩の筋肉が、唸って、爆発した。
その瞬間、すでに駆けだしていた。
エルサの鋭い悲鳴が尾を引いた。きゃ、とかではなく、裂帛の鋭い悲鳴だった。
下には驚愕を貼り付けたエセキエルが地面に転がっていた。自分は今、剣を頭上に掲げ、相手のモーニングスターを受け止めている。はずだ。筈なのだ。だが、両手で頭上に掲げたはずの刀身は視界の端の地面に転がっていた。
巨人の腕から伸びるモーニングスターは振り抜かれている。真上から振り下ろされたそれは、構えた筈の防御を抜けて地面に降りていた。
途中にあったはずの身体はどうなったのだろう。そんなことを思った。世界は赤い。赤いのだ。滲んで、霞んで、けれども赤い。朱色の世界。
右側がよく見えない。いや、無なのだ。それどころか右の感覚がない。そう言えば剣はどこに行ったんだろう、と脳裏を過るが、視線を下へと向けると折れた柄が落ちていた。ついでに、腕も一緒にくっついている。そういえば、剣を離さぬようにしっかりと握ったなぁ、と意味のない感想が浮かんだ。
「ユーリ、お前」
エセキエルが唖然と口を開きながら、ユーリの右半分を見ていた。知らずガクッと膝の力が抜けた。右手を突こうとして、何もなかった。代わりに左手を突いた。
逃げて、とか、早く、とか叱責をしたような気がする。間遠に聞こえる悲鳴の中で怯んだ彼に怒鳴った。けれども代わりに、カヒュだとか、こひゅだとか間の抜けた空気が漏れた。
「あなた!」
綺麗な声だと思った。はじめて会ったときは、多分嫌いだった。けれども、意見が一致すると優秀な人であると一目でわかった。女性がその身一つで立身を志すのは如何に難しいものか。それは女性でなくてはわからない。強さの裏には弱さがある。知らずのうちに彼女を目で追っていた。
しかし、彼女は一線を引いていた。多分、エルサに遠慮していたのだろう。エルサの好意は理解していた。キッパリ答えを言っていれば、もっと話し合えたのだろうか。
――あなたは損する人だ。もっと素直なあなたを見せれば、皆付いてくるんじゃないかと思うのになぁ。
視界が薄れていった。再び巨人の筋肉が隆々と膨れ上がる。とどめか、そうだろうな。よくクナルとかいう上科生はこんな怪物をたった一人で倒せたものだ。世界が違うのだ。やはり自分は、武芸者に向いていない。
ふふ、と笑みが漏れる。兄弟全員が学術院では格好がつかぬと親に強制された士官学校である。自分よりさらに学術肌な弟を武芸の道に行かせるわけにはいかないと決めた筈だったのだ。
だが、無理だった。無理だったなぁ。今、エセキエルを無視して、ソニアやエルサを助ければ生きられたのに。再び、迷宮に挑戦できたのに。ボクは致命的に向いてない。
(アンヘルだったら、たぶん、切り抜けられるんだろうなぁ)
嗚呼、嗚呼。膝は震えても立ち上がった。
ゴメンナサイ。父さん、母さん。不甲斐ないボクで。けど、頑張ったんだよ。だから許して。ボクは剣じゃ生きていけないんだ。
巨人が腕を振り下ろすのが見えた。「ユーリっ!」もっと、もっと笑顔で、涼しげにボクの名前を呼んでほしい。あなたともっと話したかったなぁ。でも、あなたじゃなくて名前だから、まあいっか。そうだよね。ユーリは微笑んだ。
振り下ろされる腕に組みついた。同時に強化術を爆発。これ以上は強化するなと言われた限界を遥かに超えて、身体を動かした。
沸騰。燃える、燃えて、もえた。燃え尽きた。
逃げて、とかいった筈だ。組みついて、離して、そして振り下ろされる。稼いだのは秒か分か。
暗闇。皆逃げたのかなぁ。意識が掻き消える寸前、よぎった思いはそれだけだった。