イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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第十九話:姉妹の絆に祝杯を

 ――イズン。私たちは一心同体なのよ。

 

 変身の呪文によって、木の実と成り果ててしまったイズンを救うべく、堕天も覚悟の上で解除の呪法を成し遂げた姉を見た、ある冬の記憶だった。

 

 人々に永遠の命を約束する黄金の林檎の管理人だったイズン姉妹は、深い考えもなく日々惰性に過ごしていた。疑問は持たず、ただ愚直でお人好しだった。青空のように真っ青な瞳と髪を持つイズンと晴れやかで優しげな金色の美しさを持つ姉イズーナは、生と死そして豊饒を司ったフレイラに並ぶと称された。ゆえに、周囲は皆、彼女らを姫として丁寧に扱った。

 

 だからこそ無知で、どうしようもなく人の悪意に弱かった。

 

 騙された。気づいたときにはすでに遅かった。イズンは男に騙され、ヨトゥンヘイムに連れ去られたのち、呪法に掛けられ、木の実と成り果てながら鷲に啄まれていた。

 

 ぐさぐさと、玩具のように。丸何日も木の実となって転がった日々は屈辱に過ぎたが、心を揺さぶったのは、何某かの助けを借り、囚われの身となっていたイズンを助け出した姉の姿を見たときだった。

 

 姉のイズーナは、妹の自分が贔屓目に見ても美しい人物だった。臆病な心を持ちながらも、それをおくびにも見せない強さ、不正や卑劣さを憎む清さ、そして、弱き者に慈悲深さのある優しさを併せ持っていた。人は皆姉を頼った。つまらないことでも、姉は根気よく親身に付き合っていた。物事を深く考えないイズンではあったが、姉のことは誇りに思っていたのだ。

 

「イズン。困ったことはない?」

 

 なにかにつけて姉はそう訊いてきた。姉とは違って奔放に、そして自由に生きてきたイズンに対して、少しばかりの文句がなかったとは思わない。けれども、どんなときでも優しい姉を心の底から信奉していた。

 

 ともに使命を果たし、幼い頃にはひもじい思いを共にし、たったひとりしかいない親族としてひとつ毛布にくるまって寝た。理想だったのだ。弓も短剣術も手取り足取り覚えた。すべて模倣だった。

 

 ――イズン、髪がはねてるわ。

 ――イズン、弓はこう、もっと胸を張ってね。

 ――イズン、寒いでしょう。ほら、もっと寄って。

 

 美しい日々だった。なにもない退屈な日常だったけれど、穏やかな日々だった。だから見たくなかった。冷酷な姉の姿は。

 

「イズン。気にしなくていいのよ。所詮、人間なのだから」

 

 目が覚めた時、焼け焦げるような異臭に違和感を覚えたイズンへ掛けられた言葉は、それだった。得体の知れぬ儀式。祭壇の中央で、イズーナは血化粧で己を染め上げながらそう凄絶に微笑んだのだ。

 

 あの、ロキとかいう男とどんな取引をしたのかは知らない。聞きもしなかった。だが、イズンを助けるため、その精神すら作り替えてしまうような最悪の取引をしたに違いなかった。

 

 それ以来、姉とまともに話したことはない。

 はじめて主人の命の下、この世界に降り立った今でも。

 でも、それでも。

 

 ――イズンは、ねえ様といっしょにいたかったのです。

 

 その気持ちには、嘘や偽りはなかった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 アンヘルは襲撃の所為でボロボロになった建造物を後にした。びゅううと風が強く吹いている。夏の真昼の風だというのに、凍えるほど冷たく吹き込んできた。

 

 イズナの肩、その握った感触や熱がいまだ残っている。熱く、冷たいその感触。そして、それ以上に柔らかな唇の感触。焼き付く、優しい聖母のような最後の微笑み。それが、揃って底に眠る憎悪を掻き立てた。ごおお、ごおおと魂が唸った。

 

 通りには予想した見物人の姿はなかった。これも魔剣の力なのか。白昼堂々の襲撃すら覆い隠してしまう力を尻目に、アンヘルは胸の奥が鬱屈していくのを感じた。

 

「他はどうした?」

 

 正面から声を掛けてきたのは麗人だった。街路の向こう側に背を付け、目を閉じていた男が歩み寄ってきた。

 

「死んだよ」

 

 いつもの皮肉はでなかった。相手も皮肉を言わなかった。責めもしなかった。両者の間に重苦しい静謐が降りた。

 

「宝剣はどうなった」

 

「奪われたよ」

 

 宝剣の警護担当だった護衛たち、そして候補生たちも皆一発の矢によって仕留められていた。感知もさせぬ一瞬の出来事であったのか、抵抗の痕跡は微塵も見られなかった。宝剣の納められた黒檀の箱は消えていた。

 

「僕たちは取り返さなければならない。君はどこへいったのか知っているんでしょ?」

 

「なぜわかる」

 

「君が無意味に待っているはずがない」

 

 元々一匹狼を好むクナルは、人に合わせないし、待たない。首謀者と鉢合わせし、それでいながら一対一で戦うことの部の悪さを感じとった、という読みだった。

 

「少し前、一人の女が出てきた。金髪の不気味な女だ」

 

 クナルはその読みに対して、不愉快そうに眉を顰めた。

 

「貴様が侍らせていた青髪の女に近い。そういえば、その女はどうした」

 

「死んだよ」

 

「そうか」

 

 それっきり、クナルは黙り込んだ。

 

「なにも聞かないんだね。君の予言どおりになったっていうのに」

 

「死体を蹴ってどうするのだ?」

 

「死体、死体ね」と苦笑いを浮かべながら唱えた。遠慮のない言葉だ。だが、今はそれが無性に心を癒した。普段の変わらない感情を湧き起こし、イズナがいた筈のいつもの風景が浮かんでくる気がしたから。アンヘルは再び彼の目を直視した。

 

「金髪の女はなんて」

 

「郊外の川の畔にある小さな小屋で我らを待ち構えているらしい。準備はいいな」

 

 返事はしなかった。腰にぶち込んだ剣を柄を握った。強く、痛いほど握った。ドッドっと迸る熱が、心臓を鼓動を早める。熾火が加速したようだった。クナルの横顔もどこか鋭く唸るような殺意が出ている。

 

 道ゆく人々が前を譲った。人々は剣呑な闘気を放つ両者に慄いていた。

 

 近くの商会の使用人を張り倒すと馬を強奪し、郊外まで駆けた。商業区を抜けた先、リシヒト荘園の田圃、その川の畔にある古びた木造の小屋である。家屋の横には水車の残骸がからからと音を立てながら回っている。屋根はボロボロに崩れ落ち、扉は用を成さぬようにして半分となっていた。

 

 その暗がりの奥。アンヘルたちが近づくと、ゆったりとした歩調で刻まれる足音が聞こえた。

 

 足音の主人。それは、狩人服を纏った金髪の美しい少女だった。

 

 黄金に輝く髪が一纏めにされて、ぱらぱらと風にあおられている。曇天の最中にあっても、目を惹く白くて透明感のある肌が、美しい曲線を描く胸部の脇から流れている。琥珀の瞳に美しい鼻梁が彫刻品のような紅い唇の上に納まっている。だが、なによりも目を引いたのは酷薄そのものの表情だった。

 

「ようやくのお出ましね。人間」

 

「満足ですか? なら宝剣を返してください」

 

 少女は足元に黒檀の箱を放り出すと、興味なさげにそれを蹴った。ごろんと小屋の奥に箱が転がった。

 

「あまりつれないことを言わないで。人間。あなたには聞きたいことがいっぱいあるの」

 

 禍々しい黒弓を愛おしそうに撫でながら、金髪の少女は腰から矢を引き抜いた。アンヘルは剣を引き抜きながら、ぎりぎりと奥歯を噛み締めて激憤を抑え込んだ。

 

「なんですか」

 

「どうだったのかしら。妹のはじめての唇を奪ったのでしょう?」

 

 あまりの無遠慮な言葉に、脳髄が沸騰した。

 

「なぜイズナは死んだんだっ」

 

 金髪の少女は長い髪を靡かせながら、唇をそっと舌で撫でた。淫靡でそして、陰鬱な微笑みだった。

 

「私たちは、主人には逆らえないの。妹はそれを知りながら、それでも貴方を助けた。いえ、違うわね。妹の力を持ってすれば人間ごとき助けることはできたわ。あれは鞍替えよ。私たちは愛と引き換えに力を与えるの」

 

 少女は薄く笑ったのを、クナルは心底不愉快そうにして唾を吐いた。

 

「これ以上戯言に付き合うな。さっさとこの女の首を掻っ切るぞ」

 

 クナルは自分の喉笛に大曲刀を当てると軽く引いてみせた。陽光に照らされた指が、飛び出た喉仏の上にうっすらと赤い線を引いた。その異様なパフォーマンスに怯むことなく、金髪の少女は妖艶な笑みを浮かべると、ぎりぎりと矢を引き絞りはじめた。

 

「やはり、人間など下等な家畜でしかないわ。冥土の土産に見せてあげましょうか。アースガルズ一と呼ばれた、弓使いの腕前を」

 

「御託はいいから掛かってこい」

 

「私の妹を殺害した罪、ここで断罪させていただきましょうか。人間っ!」

 

 アンヘルとクナルは剣を構えて、強烈な速度で走り出した。

 

 クナルの跳躍、豹かなにかを思わせる人体構造を遥かに超えた見事な跳び方だ。大上段に構えた大曲刀の切っ先が、大気を両断する鋼となって落ちていく。アンヘルは合わせるようにして、疾風のように剣を突きだした。

 

「人間。もっと本気にならねば、すぐ終わってしまいますよ」

 

 それは目を疑う光景だった。

 

 イズーナは金色の髪を振り回しながら宙返りすると、クナルのその剣撃を躱し、アンヘルの遅れてきた剣の上に着地した。まるで重みを感じない。両足を揃え、平均台に着地するコマネチのように、軽やかに剣の上に立ったイズーナをただ唖然と見上げた。

 

 遅れて、重力を感じた。突き出した剣に強烈な重みが掛かる。イズーナが後方に飛びながら矢を放った。光輝。金色と水を纏って放たれたその禍々しい矢を、コマ送りの映写機でも眺めるように見た。右眼目掛けて迫り来る。

 

 必死に、必死に身体を動かすが、まるで反応しない。当然だ。早い、早すぎる。相手の行動についていけるのが、辛うじて思考だけだ。緩慢とした神経は思考による従属を許さない。

 

「世話のやけるっ!」

 

 クナルが必死に蹴りを放ち、固まるアンヘルを跳ね飛ばす。頬を掠めながら、矢が背後の地面に突き刺さった。すっと流れ出る血。アンヘルは地面に転がりながら、相手を見据えた。

 

「どちらも真剣にやらねば、本当に終わらせますよ」

 

 イズーナが首を振って、余裕そうに言った。対照的に大量の汗を流すアンヘル。クナルにも憂悶が浮いている。だが、引きさがる選択肢ははなからない。アンヘルは左手を掲げた。

 

「いわれなくてもっ」

 

 召喚という叫び声と同時に、若水龍シィールと若火山龍フレアが顕現する。強烈な吠え声が世界を支配した。唸る双頭の頭を撫でながら眷属の怒りを鎮める。それ以上に自分の心に冷静さを保たせた。

 

「間抜け、遅れるなよ」

 

「そっちこそッ」

 

 クナルの身体。制服から覗く首元や手首がどんどん黒く染まっていく。白い肌に墨でも入れたかのごとく、黒光していく。握られる剣から強烈な闘気が噴出した。それが最高潮に達した瞬間、空間は爆発した。

 

 異様な咆哮。クナルが全速力で駆けた。先ほどまでとはまるで違う、暴力的なまでの身体能力。暴走機関車が駆け抜けるように、地面にレールが引かれた。

 

 イズーナは静かに笑みを深めた。

 

 矢が高速で放たれた。クナルは器用に大剣を閃かせながら、高速で放たれる矢を叩き落とした。後方、アンヘルはフレアを駆りながら左方を塞ぐように回り込んだ。息を飲むような洗練された連携だった。

 

「それでこそ、やりがいがあるというものです」

 

 イズーナは回転しながら両者に間断ない矢を放ち続けた。必死に掻い潜る両者を嘲笑うように、飛びのき、放ち、時折体術や短剣を交えて踊った。

 

 もっと、もっと早く。アンヘルはイメージした。相手を凌駕するアイディアを捻りだせ。龍が呼応した。フレアの凶悪な顎を囮に懐へ飛びこんだ。

 

「これが人間の限界でしょうね」

 

 振り抜かれた短剣、そこの隙間にフレアの肉体を意識した。呼び戻せ。突き出される短剣をじっと見つめていた。身体と刃物、その微妙な隙間にフレアを召喚した。刃が突き刺さり、ぎぃやぁあと悲鳴をあげるフレア。それを無視して、アンヘルは冷徹に相手を見据えた。

 

 フレアは必死に肉を固めて、突き刺した短剣を抜こうとするイズーナに抗った。それを見たクナルが爆走する。水平に大曲刀を薙いだ。

 

 ふわりと再び宙を舞って躱したイズーナは小屋の屋根に降りたつ。剣を構えながら闘気を放出する二人を見下ろすようにして、太陽を背にした。煌々とした陽光がまるで後光のように差した。それがどうしようもなく、御稜威のような厳かなものに感じられた。

 

「いい、いいですね。快感でしょう? 肉を裂くこの感触」

 

 クナルは荒い息を吐きながら、呆然と相手を見た。

 

「何者だ貴様。我ら二人を相手にしてこの余裕。本当に人族か?」

 

「ふふ。見識に欠けますね。本当に私が人族に見えるのですか」

 

 イズーナは両腕を広げ、まるで宙に浮かび上がったかのような神聖なオーラを纏った。彼女の冷え冷えとした金色の瞳が、イズナの浮かべた微笑とまったく違うにもかかわらず、酷くかぶって見えた。

 

「人間は本当になにも知らない。使徒候補として選ばれたのでしょう。ならば、無知は背神とすら呼べるのでは?」

 

「まさか、貴様は神だとでも言いたいのか」

 

「人間と同じにしてもらっては困ります」

 

 イズーナはあきれ果てたように、肩をすくめてみせた。

 

「ですが、私の見たところ使徒として相応しくない。実に退屈な演目でした」

 

「最後に聞かせてほしい。何処までシナリオに関わっている?」

 

「ふふ、想像のとおり。今回の児戯のような計画にはまるで関与していない。所詮、最後に立ち塞がる悪役、という役割を振られたに過ぎません」

 

「どういう、意味だ」

 

「聞かなくてもわかるでしょう? 元の計画では妹は死ぬ予定ではなかった。妹と協力した人間は、なんとか闘いを潜り抜け姉である私を討つ。そんな筋書きだった筈よ。そうでしょう。そうでなければ人間に生き残る術はないわ」

 

 語られた言葉を信じるには、それはもう、途方もない嫌悪感が湧き上がってきた。屋根の上で放たれる詰る言葉が、否応なしに身体を蝕んだ。あらゆる人間が遊戯盤の上で踊っている。教官も、イズナも、目の前の女も。そして、アンヘル自身も。

 

 ――すべてが連なっていく。何者かの策謀の印が。

 

 ひやりと背筋が凍りつくと、恐怖に唇が戦慄いた。だが、それ以上に堪えようのない怒りが噴出した。それを誤魔化すようにしてアンヘルは懐から遺髪を取り出した。蒼穹の抜けるような青が、痛々しく滲んでいる。それを晒すようにして眼前に掲げた。

 

「妹の髪ね。それがどうかしたの?」

 

「古来から、髪は神威の象徴でありまた権威の象徴でもありました」

 

「だからそれがなに?」

 

「そして、髪は女の命ともいいますッ」

 

 アンヘルは遺髪の束を宙に放り投げた。イズーナが「あっ」と驚いた声を上げたと同時に、フレアのいかめしい顎門が開き、口腔から炎が吐き出された。

 

 伸ばされた手が届くことなく、青色の髪は炭へと変わった。

 

 イズーナが怒髪天をついた。顔を真っ赤に染めながら、激憤を露わにした。

 

「き、きさまッ!」

 

「そうだ、その顔が見たかったっ!」

 

 アンヘルは大きく跳躍した。矢が掠めるのすら気に留めず、相手に組み付いた。ゴロゴロと屋根を転がって相手の腰の上に跨り、膝で手を封じながら顔面を殴打した。三打目で無理やり姿勢を変えられた。とてつもない膂力だ。こちらが馬乗りになっているにもかかわらず、腹の筋肉だけで、即座に体勢を入れ替えられた。

 

 衝撃。殴られた顎が外れかかった。もがきながら必死に抗う。引き抜いた鉈で腿を抉った。少しの隙間ができると、背筋で跳ね上げて、屋根の上から川に叩き落とす。汗でぐしょ濡れになりながら、リーンを召喚して回復に努めた。息をつく暇すらない。ぜひぜひと呼吸が荒れた。

 

 川の中でクナルとイズーナが必死の攻防を演じている。唐突な奇襲によって、相手は弓をすでに落としており、水の中ということもあって踊るようなスッテプは見る影もない。それでも、クナルの勝ちの目は薄かった。あの巨塊の剣に対して、ひどく儚い短剣を持って、しかし、指揮棒のように相手を容易く操った。

 

 アンヘルは乱れる息そのまま水中に飛び込むと、ざばざば川を歩いた。腰ほどまでの水深な小さな川だが、沼のような定まらぬ足元に気を取られていると、水面を跳ねるようにしてイズーナが迫ってきた。

 

「間抜けっ」

 

 必死に剣を振り回しながら応戦した。

 

 舞うように飛沫を散らす相手に、アンヘルはクナルと必死の抵抗戦を演じる。潜って、倒れ込んで、組みついて。時折眷属を放って。まさに惨めそのものの戦い様だった。

 

 決定打を失くしていたのは、向こうも同じだった。小さな短剣ではリーンの力によって即座に治癒してしまう。アンヘル側はなんとか致命傷だけを避ければよく、場は膠着状態に陥っていた。

 

 両者は打ち合いを止め、距離を取った。

 

「なぜ、なぜあなたは、妹が辱められた程度でそれほど怒れるのに、どうして妹の死には無関心でいられるんだっ」

 

 息を切らしながら尋ねた。不可解だった。淡々と、まるで他人事のようにイズナの死を告げる目の前の女が。しかし、その疑問を嘲笑うかのようにイズーナは微笑んだ。

 

「私たちは、この世界では死なないのです。肉体の死は依代の死に過ぎない。それよりも、名誉や肉体の辱めのほうが遥かに許し難いのですよ」

 

 イズーナは水を滴らせながら、妖艶に微笑んだ。

 

「妹は、どうにも純真無垢な子でした。無知で、どうしようもなく善人です。そんな妹には決して暗い世界を見せたくないのです」

 

「そこまで妹を想うなら、どうして」

 

「だから言ったでしょう。真の主人を見つけることが、私たちの本懐であると」

 

 その言葉にクナルがかぶりをふった。大剣を肩に担ぐ。

 

「やめろ。この女を理解することは一生できん。イカれている」

 

「随分な言いようですね」

 

 イズーナは不快げに笑みを消した。変わらず目は轟々と燃えていた。短剣を真横に構える。

 

「さて、そろそろ本当にフィナーレと行きましょう」

 

 滑るように迫ってくる。アンヘルは剣を大上段に構えた。

 

「いつものパターンでいくよ」

 

「良いのか? 貴様の安全は保証できんぞ」

 

「元から保証してないでしょ」

 

「確かに、それはそうだ」

 

 クナルはくつくつと笑いながら、一歩引いて力を溜めた。企鵝の構え。ラシェイダ部族でそう呼称される、アンヘルたちの得意戦術である。

 

 外套を翻して、アンヘルは跳躍した。ばっと飛沫が舞った。ガンと打ち砕くようにして斬撃を放った。上段から放たれた雷光は一直線に大気を割って相手の短剣を打った。がきんと、あまりに鈍い音が響き渡った。鋭く、耳を聾する音だ。山壁にでも当たったような巨大な存在感。微動だにしない膂力を前にして、彼女の金色の瞳がこちらを射抜く。

 

 突然、噛み合った剣の力が消失した。勢いを消せず前のめりになる。同時にイズーナの姿も消失。一瞬戸惑うと脛に衝撃が走った。視線を下に。水中に足ばらいを仕掛ける金髪の女の姿があった。

 

「シィールッ!」

 

 アンヘルを救いあげるようにして、相棒が割り込んだ。倒れ込む主人を支え、敵を尾でうつ。イズーナは軽やかに下がると、短剣を投擲してきた。眷属を盾にすると、アンヘルは悲鳴をあげるシィールを尻目に、必死に追撃した。じくじくと打たれた脛が痛んだ。

 

 だが、なんとしてでも、クナルの攻撃の隙を作らねばならない。

 

 舞うように剣を振るいながら、必死に喰らい付いた。二人でかかっても叶わない相手に、たった一人で挑む。なんと愚かしい行為だろうか。どっどっと心臓が弾んだ。燃える。身体が燃えるように熱い。魂が燃えているようだった。

 

「はぁああああああ」

 

 流線型。流れるようにして斬撃を繰り出した。視界が揺れる。霞む。パラノマ写真を見ている気分になる。疲れを自覚すると腕の重みが増した。真剣は重い。その物質的な重量も、精神的な重みも。少しの疲れ、最初から数えて十合目の隙にイズーナは懐に潜り込んできた。

 

 がちっと腕を両脇でロックしてきた。相手は背筋に力を込めると背後へ倒れる。肘関節が逆側へ、曲がらない方向に曲がっていく。アンヘルの口から悲鳴が漏れた。

 

「ふふ、どうですか? 気持ちいいでしょう?」

 

「いや、狙いどおり、だよっ」

 

 アンヘルは曲がる肘を気にもせず必死に相手に絡みついた。足を相手に絡め、抱き止める。

 

「クナルッ、やれっ」

 

「人間、何を――ッ!」

 

 イズーナが驚愕に染まりながら、必死に迫り来るクナルから逃げ惑う。しかし、しがみついてくるアンヘルが邪魔で逃げられない。

 

「人間、こんなことをすれば、あなた諸共っ」

 

 アンヘルは薄く微笑んだ。クナルが激しく跳躍。大上段に構えられた大曲刀が振りおろされた。

 

 どすん、と衝撃が肩に響いた。続いて、背中にまで届くような強烈な熱。燃えるような痛みと命の漏れ出るような感触が身体を支配した。血を吐いた。よろよろと身体がふらつく。それを、クナルが腫れ物でも持つように片手で支えた。

 

「本当に遠慮なくぶった斬る?」

 

「文句を言うな。骨までは届いてない」

 

 二人は水の中に沈んだイズーナを見た。彼女は顔だけを水面から出しながら、驚いたような、それでいて朗らかな笑みを浮かべていた。

 

「ふ、ふふ、ふふふ。人間。やりますね。まさか、こんな捨て身でくるとは。さいごの、さいごまで、驚かせてくれます」

 

 アンヘルたちの前で、少しづつイズーナの色素が薄くなっていく。それと同じくして、水が赤く染まっていった。

 

「使徒アンヘル。私たちを愛してくれますか?」

 

 ぷつり。唐突に、まるで糸でも切れるかのように。彼女は息絶えた。

 

 不気味な、本当に不気味な最後だった。アンヘルたちは燃えるような熱を誤魔化しながら、最後の戦いを終えた。

 

 

 

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