イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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凱旋編第二話:虚実混交複雑怪奇

「しかし、貴様と仲良くお買い物とはな。愉快に過ぎる」

 

「部屋にずっといるからでしょ?」

 

「寝ていて何が悪いのだ」

 

 クナルはすっとぼけた様子でわざとらしく聞き返した。

 

「なにが悪いって……寝てただけじゃないでしょ」

 

 羨まけしからん状態を思いだすと徐々に憤りを抱えると、半目になって睨んだ。

 

「私が誘ったわけではない」

 

「だからって娘さんにちょっかい掛けて、問題起こしてりゃ世話ないよ」

 

 クナルはふんと鼻を鳴らしながら持っていた焼き串を喰らった。ぽたぽたと地面に汁が滴っている。

 

 朝からのくだらないやり取りに心がささくれ立つ。

 

 よく晴れた日の午後、グスタボ邸に赴いた翌日である。アンヘルたちは、遠征隊の実質的隊長であるルトリシア派閥から指示を受け、すでに買い付けた物品を宿まで運んでいた。主な品は、飲食料品である。

 

 ちなみに、彼らが運搬を担当している理由は単純で、一言でいえばクナルの容姿の良さにある。一瞬で宿の娘を引っかけると、褥を共にする。だけならよかったのだが、店主に発覚すると娘を取り返そうとして怒髪天を衝いたように暴れまわった。結局、なんとか事なきを得たものの、まさに前代未聞であった。

 

 そんな彼をルトリシアが許すはずもなく――総隊長であり婚約者候補ユースタスの遊び癖に気が立っている――いつもの優し気な雰囲気を消して、買い付けを命じたのである。

 

 美人は真顔になると異常なほど怒っている、と感じるいい例だった。

 

「というか、意外に云うこと聞くんだね」

 

 あまりに優秀な候補生には貴族側も気を遣わざるを得ない。超級の武芸者はどこも貴重で、何としてでも将来自派閥に来てほしいと横柄な物言いを控えることが多いのである。普段のルトリシアも無礼にならぬ程度ならクナルの自由行動を許可しているほどであった。

 

「あの女の髪を見ていると、婚約者を思い出してな」

 

「え? 婚約者がいるの?」

 

「だが、もう」

 

 クナルは顔を上げて遠くの連峰を見た。

 

「その、ごめん」

 

「なにを勘違いしている? 生きているぞ。私が会いたくないだけだ」

 

「……冗談の趣味が悪いと言われない?」

 

「よくわかったな。故郷では冗談の通じぬ男で通っていた。だが、貴様よりはセンスがあるだろう」

 

 仏頂面のアンヘルは、剣の鞘で相手の足を払おうとするが、容易く察知され距離をとられた。クナルの持っていた大八車が傾いて、ごろごろと地面に荷物が転がり落ちた。

 

「貴様が拾えよ」

 

 クナルが落ちた品物を指差した。

 

「いつか殺す。絶対殺す。犬の餌にしてやる」

 

「貴様にいい格言を教えてやろう――」

 

「負け犬の遠吠えでしょ。黙れ」

 

 アンヘルは手でしっしと遠ざけながら、食糧の詰まった樽を荷台に乗せた。澄ました態勢で佇立している麗人を見て周囲の女たちが惚けた顔をしているのが、荷物の重みを増加させた。

 

「それにしても貴様、昨日は何処に居た?」

 

「別に。どこでもいいでしょ」

 

「ふん。呑気だな」

 

 クナルはかぶりを振りながら、心底苛立たしそうに眉間に皺を寄せた。その仕草すら様になるのだから、まさに絶世の美である。

 

「此度の遠征演習。いつもの三倍以上の距離であろう?」

 

「そういえばそうだね」

 

 例年の遠征演習はオスゼリアス近郊の町々を廻り、湖港警備隊と呼ばれる湖賊に備える軍を視察するなど、もはや候補生の見識を広めるために存在しているといっていい。移動だけで十五日以上かかる地域に遠征することなど何者かの恣意が無ければあり得なかった。

 

「もしかして、これが仕組まれたものだと?」

 

 不吉な言葉に冷や汗を垂らしながら聞いた。

 

「その可能性も十分あるな」

 

「と、云うことは」

 

「そういう意味であろうな」

 

 今回の遠征地は突如後になってから変更されたものである。他の候補生たちも頭を捻っており、教官からは上から指示だの一点張りであった。

 

「あの男が絡んでいることは間違いないだろう」

 

 クナルの指す人物とは、二人が蛇蝎のごとく嫌っているドミティオス大神祇官のことである。今回の不自然な遠征演習は、魔剣騒動の貸しにより遠征内容を変えた可能性が高い。

 

 アンヘルはまた出てきた人物に大きなため息を漏らした。

 

「名前は言わないで。反吐が出そうになる」

 

「頼まれてもいうものか」

 

 クナルは眉が縦になるぐらい顰める。あまりに嫌悪感の溢れた表情であった。さすがの彼も堪えきれぬところがあるらしい。

 

「目的はなにかな?」

 

「知るものか。考えてもわかるまい」

 

「ろくでもないことが起こるのはなんとなくわかるけど」

 

「だが、この街では何もないだろう」

 

「この街で何か起きたら大惨事だよ」

 

 一万人規模の街で発生する事件。考えることすら恐ろしかった。

 

 アンヘルは己の握りしめた右掌をジッと見つめた。虚空を睨むような朧げな眼差しには、恐怖と怒りが含有されていた。

 

 あれ以来、己の持つ召喚術が恐ろしくてたまらないのである。双星の女神の力は強力だがあまりにも非人道的すぎる。召喚すれば、テリュスの意思を無視してイズーナは現れるだろう。さすがに使う気にはなれなかった。

 

 ふたりは言葉を喪失すると、黙々と歩き続けた。

 

 店を三軒回り、最後の天幕修繕を請け負っている布専門の店の筋に差し掛かった。外延部のため、人々の往来はまばらである。

 

「はあ。はやく帰りたい」

 

「なら早く進め、間抜け」

 

「槍が降ってこい。銀髪糞野郎の脳天に突き刺され」

 

「ならば私が降らせてやろう」

 

 クナルは荷台に乗っていた棒を真横に薙いだ。

 

 アンヘルは脚を止めて、その棒を両手でがっしりつかんだ。その完璧な防ぎ方ににやりと笑ったが、クナルは左手で口許を抑えていた。

 

 一瞬意味が分からなかったが、その笑いの意味を察すると頬がひきつった。

 

「天幕用の建材にヒビが入ってしまったなぁ。さて、どうしたものか」

 

「本当に死ね。消え失せろ」

 

「ふん。負け犬がほざいているが責められるのはどちらかな?」

 

「ひ、卑怯だ」

 

「戦はそういうものよ。『戦とは奇道を用いて制する』というであろう?」

 

「そんな絶滅危惧種部族の格言知らないよ。いつか絶対痛い目見せてやる

…………あれ、なにかな?」

 

 指差した先には、用水路橋の物陰に三人ほどの男がひとりの人間を取り巻いていた。普段は物見高い人々も寂れている地域とあって群がりはせず、時折気の毒そうに視線を向けては去っていく。中心の男の低い声が響くが、小声すぎていささか緊迫感に欠けたのも関係するだろう。

 

 絡んでいる男たちの恰好がやけに町民風で破落戸、という印象を受けないからだろうか。頑張って突っ張っている風で言葉を飾ってもチーマーぐらいにしか見えない。

 

「助けにゆきたいのか?」

 

「義を見てせざるは勇なきなりっていうでしょ。そっちこそ行きたいんじゃない?」

 

「この場面では触らぬ神に祟りなし、のほうが相応しいであろう。わざわざ助けに入るような局面でもあるまい。そもそも、我らが行ったところで問題が拗れるだけだと思うがな」

 

「そうなんだよねえ」

 

 アンヘルたちは明日街を発つ予定である。最後までは面倒を見切れないし、それに暴力が振るわれている気配がなく余計なお世話になる可能性もある。痴情の縺れから端を発した話かもしれないとなれば踏み込むのは余計度胸がいる。

 

 かなり迷ったが、結局割り込むことにした。マカレナのこともあって、どうしても女性が囲まれている姿を見ると強烈な不安に襲われるのである。

 

 アンヘルは大声で威嚇しながら騒動の中心に駆け込んだ。鍛えられていない町民然とした若者たちがギョッとした様子で女までの道を開けた。

 

 さっと割れた空間の中、囲まれていた女が顔を上げた。彼女の姿を認めると、アンヘルは一瞬にして顔を青ざめさせた。

 

「ナタリア、さん」

 

 囲まれていた女性は緩やかな服を纏い、遠目から見ても身重だと判別できる。過去の想い人にして、正式なホセの妻、そして菜の花亭の看板娘であった人物であった。

 

 わなわなと唇を戦慄かせながら一歩踏み出すと、彼女は深く俯き、手ぬぐいのようなもので顔を隠した。だが、その突き出た腹といつも見ていた綺麗な指先は、隠しようがないものだった。

 

「どうして」

 

 アンヘルが戸惑った声をだすと、ナタリアは一歩二歩と下がった。表情は完全にコントロールを失っているのか、放心したように呆然としている。

 

「おいおいおい、なんだぁてめえはよ。急にしゃしゃり出てきやがって、おれたちゃただ喋ってただけ……」

 

 集団のリーダーなのか、男は踏み出しながらアンヘルを威嚇しようとするが、纏っている候補生制服を見ると語気は少しづつしぼんでいった。

 

 年頃は二十くらいであろうか。梳いた金髪に横を刈り上げて快闊な印象を与える。顔立ちは整っており、平均よりは良い体格をしていて拳一つ分ほどアンヘルより低い。黒目がギョロリとしていて、博徒特有の鋭い眼光を携えていた。

 

「へへ、なにか用かい、兄ちゃん」

 

「やめて、マテオ!」

 

「おまえはだまってろや!」

 

「あっ」

 

 マテオと呼ばれた男の怒鳴り声に続いて、仲間の男が身重のナタリアの口をふさいだ。

 

「いやぁ、誤解させちまったみてえだなぁ。おれたちゃ別に喧嘩してるわけじゃねえのよ。な、そうだろ」

 

 仲間たちも賛同するように首を縦に振った。

 

「な、だから兄ちゃんはお勤めを果たしてくれや。おれたちじゃなくてよ」

 

 卑屈な笑みを浮かべながら、へへっと手をごねる。

 

 アンヘルは無言で一歩近寄る。その態度が無性に気に入らないと、無言でその横っ面を張り飛ばした。

 

「ぶげふッ」

 

 マテオはつぶれたカエルのような声を出して、地面に倒れ込んだ。

 

 場の空気はそれで騒然となった。男たちが腰の短剣を抜く。が、震えている。実戦経験はないのか、怯えた顔で真正面に両手で突き出している格好だ。

 

「おい、おい。あんた、下がれって」

 

「この剣が見えねえのか、おい」

 

 残された男たちが後退りをしている。マテオも恐怖に慄きながら立ち上がった。無言で歩みを進めるアンヘルに全員が戦意喪失していた。

 

 当たり前だが、アンヘルの戦闘力は一般人とは隔絶しており、もはや違う生物のようなものである。一見ひょろいが、身長は高い。整っているとも言えない温和な顔も、能面となればより恐怖を煽る材料となっていた。

 

「ま、待ってくれよ。なあ、おれたち本当に話していただけだろ?」

 

「関係ない」

 

 相手の話を遮りながら、腰の長剣に手を掛ける。

 

「彼女は歴とした友達のおかみさんだ。理由なんてどうでもいい」

 

 尋常ではない闘気が場を支配した。男たちもすでに冗談で済む次元の話ではなくなったと察したのか、皆一様に蒼白になり、額に大粒の汗を浮かび上がらせた。

 

「待って、待って、ください! なんでも、ありません。本当に話をしていただけなんです」

 

 呆然としていたナタリアは悲鳴のように叫んだ。マテオは若干の余裕を取り戻し、冷静な声でいう。

 

「だ、だろ。な、あんたが誰なのかしらねえが、おれたちゃ個人的な話をしているだけなんだ。邪魔はしないでもらおうか」

 

「……」

 

「な、ほら、どっかいきやがれ」

 

 なにが起こっている。いや、この場をどうやって収めればいいのだ。アンヘルは怒りを前面に押し出した態度の裏で、強い苦悶に喘いでいた。

 

 なによりナタリアの態度である。彼女はこの男たちに恐れを抱いているようだが、それ以上に闖入者であるアンヘル自身を怖がっている様子だった。いつかの事件の陰は未だ差したままである。このままの状況では、よりましな選択肢としてマテオ側を選ばせかねない。

 

「個人的って、どんな内容なんだ」

 

「べつに個人的なことよ。男と女、個人的といっちゃあそれくれえしかあるめえ」

 

「それは、どういう」

 

「察しがわるいなぁ。俺はナタリアと良い仲だったのよ」

 

「そう、なんですか?」

 

 アンヘルがゆっくりと聞くと、怯えた様子のナタリアは、

 

「むかし、昔の話です。それにただの幼馴染ってだけですから」

 

 と小さな声でいった。マテオはへらへらと笑い出した。

 

「おいおい冷てえなぁ、自分の男によ」

 

 聞き逃せない言葉に、アンヘルは愕然とするしかなかった。

 

「どういう、意味だ」

 

「嘘、嘘です。信じないでッ! 本当に、ただの幼馴染で」

 

「へへ、そう恥ずかしがんなって。どうせこの腹の子も俺の子に決まってやがらぁな」

 

 マテオはそう言いながらナタリアの腹をゆっくりと撫でた。ぶたれた怒りが混じっているのか、執拗に押しこむ。

 

「へ、ま、そういうことよ。間に入るってのは野暮なもんだろうし、そもそも俺のことすら知らねえだろう? そんな奴に仲裁できるわけねえんだから、さっさと消えてくれや」

 

 ふふんと鼻を明かしたような態度を取る男に対し、なんの言葉も捻りだせなかった。

 

 引くか、それとも押すべきか。なにがなんだかわからない。強い懊悩に悩みながらも、間を採用することで改善の糸口を探る。

 

「そう、だね。確かに状況も事情もわからない。けど見過ごせない。いったん君に事情を聞くよ」

 

 さすがに軍人――候補生――の言葉である。反論の余地を与えなかった。文句を言ったら斬り殺しそうな雰囲気も従順にさせるのに一役買った。

 

 同意を得たアンヘルは、部外者一の存在を探した。

 

 少し待つと、細事を無視して店に入っていたクナルが漸く出てくる。事情を説明して、退避を頼む。一瞬嫌な顔をされたが、流石に選択のないと悟ったのだろう。ナタリアを託すと、マテオたちと残った。

 

 雑貨屋の裏手には資材置き場用の倉庫があり、その前が空地になっている。アンヘルたちはそれぞれ距離をとると、剣呑な雰囲気で向かい合った。

 

「それで、どういうことなの」

 

 完全に気圧されていたマテオだったが、時が空いたせいか幾ばくか平静を取り戻していた。

 

「へ。別におれはなにひとつ嘘を言ってねえよ。こっちにはてめえみてえな軍人さまとやり合うつもりは一切ねえんだ。俺が昔の男だってのも嘘じゃねえ」

 

「だけど、彼女は否定していた」

 

「おいおい。女ってのはそういう昔の情事を隠したがるもんじゃねえか。あんただって、ホセの野郎と寝るまで初心のねんねだったかどうかなんて知らねえだろう?」

 

 夜這いはペンシル地方五百年の田園の風だから、彼の言が間違っているとは言えない。ケソン村では、祭りの際に女を草むらに連れ込んで情事に耽るのは一種の娯楽ともいえようし、また娘の間はさまざまなことがあったとしても、家に入ってしまえば身持ちを固く保つことが規範となっている。どちらかといえば、そんな環境で童貞なアンヘルの方が珍しいだろう。

 

「だとしても、彼女には歴とした夫がいる。おまけに身重だ。あんな風によってたかって詰るような真似をするのは」

 

「そ、そりゃ悪かったよ。けど、おれだって切羽詰まってんだ。こっちはあいつのオヤジのせいで人生滅茶苦茶で、もうにっちもさっちもいかねえんだよ」

 

「どういう意味?」

 

「今更だが、そっちは事情を知ってるのか?」

 

 アンヘルはホセから聞かされた事情について話した。マテオが店の名前で借金をしていたこと。博打に目がなく悪い遊びも覚えていたこと。店の仕事についてもあまり真面目ではなかったことについて語った。

 

 それを聞いたマテオは、喉にため込んだ唾を道端にぺっと吐き捨てた。

 

「なんも知らねぇみたいだな。おれには貸しがあんのよ、あいつのオヤジにな。てめえのダチってのはホセの野郎のことだろう?」

 

「その、とおりだよ」

 

「はん、だろうな。残念だがよ、あの野郎はおれのことなんざなんも知らねえんだ。野郎の知ってる話は俺に不利な話ばっかりだろうよ」

 

 マテオは屈辱を噛み締めるようにして俯くと、両肩を震わせた。目は真剣で、顔面の神経全体を強張らせている。嘘を言っているとは微塵も思われなかった。

 

「まじめにゃやってなかった。けどよ、それは俺だけってわけじゃあるめえ。他の奴を見てみやがれ。買い出しの金で遊んだりしてる奴もいるじゃあねえか。誓って言うが、おれは店の金に手を出したりしたことはねえ」

 

「じゃあ、どうして仕事を首になったの」

 

「知らねえよ。どうせナタリアが昔の男が店にいると嫌だってんで、追い出したんじゃねえのか? けどよ、おれはガキの頃からずっと働いてきたんだ! 五年、五年だぜ。それを、新しい男が来たってんで追い出されちゃあたまらねぇ。急に放りだされる方の気になってみてくれよ!」

 

「お腹の子がどうって話はなんなんだ?」

 

「い、いや、そりゃあ、言葉のあやってやつだよ。てめえがナニモンか分からなかったからよ、ちょいと男女関係を匂わせりゃ引き下がるかとおもったんだよ」

 

「……何の話をしていたの?」

 

「おれはあの店に五年もいたんだ。それが、少々の素行不良ごときで放りだされちゃたまらねえ。おれはもう十九だ。新しくなんかを始めるには遅えんだよ。けど、あいつのオヤジは奉公分どころかまったく融通してくれそうもねえし」

 

 アンヘルはそういわれて完全に黙った。これはもはや、部外者が出張ってきて一朝一夕に片づけられる案件ではなかった。

 

 この世界には労働基準法などは存在しない。つまり弟子となれば、修業期間中は飯を食わしてもらう代わりとして、まったく無給で働くことになる。そんな弟子が、道半ばで放り出されたとしたら、あとは盗みでも働くしかない。異世界は通称「エコノミックアニマル」と呼ばれる日本人からすれば極楽まりないホワイト企業ばかりだが、ひとたび脱落してしまえば蘇ることはできないシビアな世界でもあった。

 

「今更他の仕事に手を付けようとしたが、結局潰れて借金までこさえちまった。これも全部、あのオヤジが支度金を寄こさなかったからだ。なあ、分かんねえか? あんただって一人の男だろ。この年で親元を頼るなんてできねえんだ。生きていくには金がいるんだよ。たしかにナタリアを暴行する形にはなっちまったが、ちょっとばかしカッカきちまってもしょうがねえだろう?」

 

「それは……」

 

「なあ、おれはあんたに物申せる立場じゃねえけどよ。これ以上邪魔しねえでくれや。これは俺らの問題だ。あんたもわかるだろ? おれに対して対価が必要だってな」

 

 最後まで血走った眼でマテオは語っていた。

 

 それだけ切羽詰まった状況だというのだろうか。彼の話だけで判断はできなかったが、しかし、不憫な所もあるように見受けられた。

 

 相手も責めることが出来なくなって、マテオと別れると、ひとりポツンと街路を歩いていた。

 

 ずしんと肩が重くなる。それは決して荷物の重みではない。あまりに別世界の複雑な人間関係が生み出した重みだ。

 

「こんなのホセになんて言えばいいの」

 

 非人道的な面を持つアンヘルだが、あくまでも武力や策略という点に対してであり、その方向性は主に戦闘に向かっている。彼の根幹となっている悲惨な過去は、強大な武力が必要ではあるものの、明確な敵というものが存在していた。

 

 だが、マテオの言葉が真実なのだとすれば、今回の案件は明らかにその範疇になかった。なにせ、明確な敵というものもなければ、力で解決もできやしないのである。

 

 そもそもとして、アンヘルは彼の話に同情的でもあるのだ。むろん、ナタリアに危険が迫るのなら強引に話を進めても構わないのだが、口論の末の諍いだというなら、むしろ理はマテオ側にある気すらするのである。思想は特異であっても、大本はゆとりっ子かつ働いたことのない人間には判断など出来ようもない。

 

 もくもくと歩いていると、オープンテラス喫茶の椅子にふたつの人影がみえた。

 

 ナタリアはアンヘルの姿を認めると目を伏せた。ゆったりとした服の下の胎が、やけに痛々しかった。

 

 いくらなんでもクナルの姿があっては目立ちすぎる。離れているよう指示すると、アンヘルは彼女が手を落いている円卓から離れたところに椅子を置いて、座った。

 

「お久しぶりです。このような再開となってしまい、申し訳ありません」

 

「……」

 

 相手は俯いたまま返事をする素振りを見せなかった。嫌われている相手に話など難儀に過ぎたが、しかし、ホセのこともあって見過ごせなかった。

 

 無視された格好だがマテオの言い分をすべて語った。ナタリアは一言も言わなかった。が、最後に、

 

「貴方が事情を言ってくれないのなら、ホセに相談するしかない」

 

 とアンヘルが言うと、顔をあげて即座に否定した。

 

「そんなのは嘘です!」

 

「どこまでが嘘なんですか?」

 

「それは……ぜんぶです。彼と恋人だったこともありませんし、仕事を失った理由も違います」

 

「じゃあ、お父様に言って首にしてもらったっていうのは」

 

「それは違います。それに、父は出ていくときに十分な支度金を渡しています。五年分には足りないかもしれませんが、なにも貰えないのが普通ですから。もう、いいですか?」

 

 ナタリアはそれを最後に立ち上がろうとした。そこには、話したくないという以上に、掘り返されたくないという感情が見え隠れしていた。

 

 奇妙な点がいくつもある。マテオは十分な金を貰っていながら、すでに金貸しから大量の負債をこさえているし、明らかに切羽詰まった風である。実家を頼れないとも云っていたが、瀕死の状況で、家人が手を差し伸べないわけもない。なにより、彼には裏街道を突っ走っている男特有の陰鬱な雰囲気が多少はあった。

 

「もうすこし、聞きたいんです」

 

「忙しいので……」

 

「なら、こちらで処理しても構いませんか?」

 

 冷淡な言葉に、ナタリアがびくっと肩を震わせながらこちらを見た。

 

「それって」

 

「言葉通りの意味です。貴方を信じれば、すべてマテオという男のいいがかりになります。領主軍憲兵へ頼んで裁いてもらうしかありません」

 

 アンヘルが冷厳に宣告すると、ナタリアは食って掛かった。

 

「通報だけはやめてください! たしかに、彼は悪い人です。けど、それでも幼馴染なんです。だから話し合いでなんとかできますから。だから、今回ばかりは見逃してください!」

 

 ナタリアは涙目で頭を下げた。悲痛な叫び声に街の人々の注目が集まる。

 

 慌てて宥めると、彼女は放心したように机の木目を眺めていた。己の伴侶であるホセのことを考えているのだろうか。それとも、昔馴染みであるマテオを思っているのか。

 

 ナタリアの諦観混じりの顔に黙るしかなかった。

 

 彼女は女ではなく一児の母になろうとしている。所詮歳若い平和ボケ人間にその心中が察せるはずもない。

 

 だが、わかるのだ。何もわからなくても、嫌な部分だけ察してしまう。人の悲劇に触れてきたアンヘルには相手の心情が透けるのだ。悲観に暮れすぎている。触れることすら憚られる痛みを心の奥底に見てしまった。

 

「ひとつだけ教えてくれますか?」

 

 ゆっくりと唇を動かした。察しの良い自分が嫌いになりそうだった。驚くほど冷たい声が発された。

 

「……勘違いなら、いいんです。こんなことを聞いて申し訳ないとも思います。

 でも、教えてください。ナタリアさん、彼と寝ましたか?」

 

 あまりに嫌な真実だった。

 

 その言葉を理解したナタリアは必死の形相で掴みかかった。身重の体ながら、どんな力なのかと思わせる握力だった。

 

「言わないでッ! あの人にはッ!」

 

 アンヘルはしがみつく彼女を引き剥がしつつ椅子に座らせた。

 

 幾ばくかのやり取りの後、ナタリアは机の上に突っ伏して背中を震わせた。

 

「だって、だって、マテオがいうんです! お腹の子を降ろされたくなきゃ、いいなりになれって! それで、私怖くって。でも、抵抗したんです! うそ、嘘じゃないんです。けど、男が三人もいて、それで、脚を開かされて、手を抑えられてっ! しょうがないじゃないですかッ! お腹の子が死ぬなんて、嫌なんです。そしたら、みんなよってたかって、マワされて。でも、いうことを聞けば、あの人には黙っててやるって!」

 

「だから、通報できないんですか?」

 

「嫌なんですッ! マテオが捕まるってなれば、絶対あの人もわかっちゃう! せっかく結婚できたのに、それなのにっ! お金を払えば、黙っててくれるから」

 

 未婚時は兎も角、結婚後の不貞となれば離縁となっても仕方ない面がある。なにせ、世界は完全な男社会であり、女は半ば家の財産ともいえるのだ。財産が取られたとあっては、いかに女側に罪がなかろうと、家庭内に罅が入ったりすることは十分にありえる。

 

 さらに大きな問題は周辺に広く知れ渡ってしまう、という点にある。本人たちが如何に気にしないよう心掛けても、知人たちが白い眼で見てくるとなれば呑み下せない事実になることは間違いなかった。

 

「本当に、それだけなんですか?」

 

 聞いてから後悔した。言わなければよかったと心の底から思った。

 

 問われた側のナタリアは、泣きはらした顔をあげた。

 

「それは……」

 

「もしかして――」

 

「違う、ぜったいに違うのッ!」

 

 鋭い悲鳴があたりに響いた。裂帛の悲鳴である。ナタリアは身体を支えきれず地面へと崩れ落ちた。

 

 助け起こすべきなのだろう。しかし、身体は凍結したように動けなかった。

 

 血の気がひき、視界が歪んだ。

 

 アンヘルは唇を強く噛み締め、机を叩き壊さないよう抑えるので精一杯だった。幸せな家庭を作るはずだったふたりは、始まる前から壊れていたのだった。

 

 無論、ナタリアの言い分を信じたい心はあったが、どこまでが真実なのかわからない。だが、眦の涙を見ると己の勘が正しいのだと悟ってしまう。

 

「無理やり、ですか?」

 

「ちがう、ちがうったらちがう、ちがう、ちがうの」

 

 虚空を覗いているような声が尾を引いて流れた。じんわりと汗の滲んだ拳がいやに不快だった。

 

 彼女は夫がいる身でありながら他人にその身を捧げてしまった。この態度を見れば無理やりだったのだろうが、しかし、マテオのような男につけ入る隙を与えてしまったのは彼女である。

 

 いや、違った。間接的にだが、彼女をそんな不安定な状況に追い込んだのは、アンヘルとホセなのかもしれない。今更どうにかできるはずもないが、運命の巡り合わせが彼女を地獄へと誘った。

 

(本当にホセの子なら……)

 

 だが、そうでないなら本物の地獄だろう。その心労は察することもできない。胎に爆弾を抱えて生きているようなものである。

 

 このまま放置すれば、故郷に消えることのない後悔が刻まれる。しかし、もうどうしようもないところにまで来ていた。彼女の言い分を完全に信じ、マテオを始末することはできても、彼女を守ることはできないのだ。

 

 珍しくクナルも神妙な顔をしていた。興味はないだろうが、しかし、茶々を入れてくるほどでもない。彼の手の珈琲カップに波紋ができていた。

 

 アンヘルは呆然と立った。通りを抜ける鋭い風が身体の芯まで凍えさせた。

 

 もう帰すしかない。そう思い立ったとき、ナタリアが腹を抑えて呻きだした。

 

「う、ううぅ」

 

 アンヘルは急いで彼女を抱き起こした。倒れている格好が胎児に良くないと思ったからである。

 

 ナタリアはさらに痛がり始める。唸り声聞いていたクナルが、ぼそっと、

 

「陣痛が始まっているのではないか?」

 

 といった。破水がはじまる。店のオープンテラスは大騒ぎとなった。

 

 意識を朦朧とさせている彼女を荷台の上にのせて、街病院まで走ることになったのだった。

 

 

 

 

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