どことなく闇の密度が濃い夜であった。深く落葉樹の葉が積もった林を、一人の男が草臥れたように歩いている。夜空から、あえかなる月光が渓谷に染みこむように立っていた。
男にはあたりを警戒する冷たさの奥に僅かの安堵があった。背には獣の死骸がある。開襟の制服には似合わぬ野良作業も、男の燃えるような赤い髪がどこか際立った所作に変えた。
歳は十八。連れはいない。
腰には立派な差料が伺える。鞘中の刀身は隙間もないほど血脂で溢れていた。油断ない周囲への警戒心も合わせてその腕前が常人とは遥かにちがっていることの証明である。
名はホアン・ロペス。
士官学校七〇小隊隊長にして、遠征演習第一中隊における斥候役に任ぜられた男である。ただ、現在この村には中隊はいない。彼は遅延する行軍円滑化のため、使番としてロヴィニ村の代官へ派遣されていた。今は中隊到着までの時間潰しとして、近在の獣退治に繰り出している。
(今日は、こんなもんだろう)
用意した籠に入れておけば、村衆が勝手に革と肉に変えるだろう。ホアンは気乗りしない顔つきで、ゆっくりと宿へ向かった。
足取りは重い。解放されたしがらみを再び巻きつけねばならないからだ。
ホアンがロヴィニ村の使番――体のいい雑用――の仕事を受けたのは、なにも偶然ではない。志願者がいなかったのもあるが、多少の我儘が許される立ち位置を確保していることでもあるのだ。
元友人アンヘルが大神祇官ドミティオスと内々の縁を持ったのと同じく、彼もまた、この二年のうちに飛躍を遂げることになった。
きっかけは、一年次選抜試験である。当時まだ平民派として名の知られていなかったシュタール家次男エルンスト特科生に剣の腕前を褒められたのだ。当時のホアンの成績は下の上あたりを彷徨っていたが、剣の腕なら悪くなかった。
ただ、どこか誇るようなところがあったから、普通は気に入られにくい。しかし、若武者エルンストはそれを才気とみた。ホアン自身も学内で横行する身分差別には辟易としていたから、高潔な志にはつよく共感した。
さらに時代は加速する。
帝国はいま、建国以来空前の大混乱に見舞われている。バアル教団の皇居爆破事件、オスカル教官殺害から端を発した事件、「救国」主義者たち。新勢力として平民派を名乗るホアンは、時代の潮流に乗っているといえるだろう。
隊内ではそこそこの発言力。その権力を行使して、同じ中隊のアンヘルと一緒に故郷を踏むのを避けた形である。
だが、こうして一人でいると虚しさが迫った。どこか遠いところへ来てしまったような、空虚な感情が。
ホアンはそっと息を吐いた。
――またこれだ。一人だと不安になってしまう。
駆け抜けてきた過去そのものを懐古した。その目が酷く冷たい。氷河のような眼差しである。それこそが、男が辿った足跡そのものであった。
(やめよう。疲れるだけだ)
嫌気が差すような己の思考を頭を振って掻き消した。
すると、ガサガサっと腰のあたりに違和感がある。いやな予感がして、制服を脱いでからばっと広げた。
上着の脇に、鋭い爪痕が残っている。先ほどの獣退治で引っかけたのか。その痕は大きすぎて、男のなまくら針仕事では直せそうにない。
「やっちまったよ」
深いため息を吐きながら、肩をガックリと落とした。制服は士官候補生の象徴である。ロヴィニ村には気の利いた仕立て屋なんてないから、修繕はむずかしい。見てくれは悪いが、なんとか縫い合わせるしかないだろう。
沈鬱なのは、部下たちの手前狼なんぞに備品を破損したなどといいづらい点である。気の強い士官候補生をまとめるには、隙を一部たりとも見せられない。唯一の救いは、傷は負っていないことだろう。あくまでも損害は制服の上着だけだ。
だが、手があるわけでもないし、ホアンは項垂れたまま帰途についた。
「どうしましたか。そんなに暗い顔をして?」
その声にふと顔を上げた。
村はずれの小さな小屋の入り口に、一人の女が手を口元に当てて笑っていた。
歳のころは、ホアンより幾ばくか下の十五、六。風に流れる優しい麦畑のような髪色をしていて、大きな瞳には紫水晶のような蠱惑な色気がある。村人、それも低階級らしいつぎはぎだらけの麻服を纏ってはいるが、そこに貞淑さのようなものが淡そかに香った。
ホアンは照れくさいところを見られたと、とっさに制服を背後に隠した。
「いや、べつになんでも」
「隠しても意味ありませんよ。後ろのそれ、見えましたから」
女はバツ悪げにしているホアンを、さらに揶揄った。
「軍人さんも、意外にお間抜けさんですね」
「……」
狭い村だから、余所者が来たというのはあっという間に広まる。彼女は、ホアンの身分を知っているような口振りだった。
女はあっという間にホアンの後ろへ回ると、さっさと制服を取り上げた。
「おい、なにをする!」
「そんなていじゃ、お家に帰れないでしょう」
女はさっさと家の中に入ると、中の机の上に制服を広げ、針仕事用の道具箱を開けた。
反応もできずボケっとしていた。それを見た女は「寒いから早く閉めてください」といった。いわゆる驚愕法というやつだ。ちょっとばかり判断能力を失ったホアンは言われるまま扉を閉め、指さされた椅子に座った。
部屋の中は、若い女の匂いが漂っている。花のような、それでいて生物だとわかる、そんな匂い。それが己の汗と混じって、なんとも言えない匂いが思考を満たした。
「こんなことをしてもらう謂れは」
「一期一会というでしょう。好意は受け取っておくべきかと?」
女はこてんと首を傾げながら、幼児を諭すような声でいった。
「だが」
「ふう。煮え切りませんね。男ならハッキリとしてください」
強引なやつだ。とホアンは心中で思いながらも、甘えることにした。彼の腕前では大して出来栄えは良くならないし、この時期に上着なしは辛い。そんなふうに言い訳して、彼女の隣で座してまった。
チクチクと針仕事を眺め続けた。おもしろかったわけではない。女に慣れていないわけでもない。男の甲斐性として遊郭で女と遊んだことはほどほどにある。ただ、眺めていると、彼女の怜悧な横顔が誰かに被るのである。それは昔ぶち壊した強引で優しい誰かを思い出すような気がした。
そうやって少しばかりぼうっとしていると、知らず時間が経っていた。
「あの」
「……」
「聞いてますか?」
「え、ええっ、ああ、聞いてるよ」
「本当ですか?」
女は頬を膨らませながら詰るような目をしている。「完成です」とでき上がった制服を渡してきた。
「こんな夜に招いたからとはいえ、すぐ体を開くような女だと思われちゃ困ります」
見惚れていたのを責めるためか声が拗ねている。ホアンは身を振り乱して、
「ちがう、ちがう」
と弁解した。
「冗談ですよ。わかってます。でも、あんまりジロジロ見るのは失礼ですから」
女自身も惹きつける容姿をしているのはわかっているのか、寂しそうにわらった。
なんとか相槌を打って、その後、修繕された制服を広げた。素人仕事だが、遠目には破れていることすらわからない見事な出来栄えである。
ホアンは礼をしながら、女に見送られて小屋の外まで出た。
「助かったよ」
「いえいえ、村の願いを聞いてくださっている軍人さまに、ちょっとばかりのお返しです」
「厚意には礼を返すものだ。そうだ、少ないがこれを」
といって、懐の銭袋を取り出した。が、女は首を振って拒絶した。
「私には無為なものですから」
小さい村では物々交換が主流なところもある。金を貰ってもしょうがないのかと合点し、他に候補を出したが、女は首を縦に振らなかった。
「夜も遅いですから、もうお帰りになってください」
「なら」
ホアンは勇気を奮い立たせた。
「明日、もう一度来るよ」
バクバクと心臓を高鳴らせながら、反応をまつ。女は、一度目を丸くしてから破顔した。
「なにがおかしい」
「いえいえ、そういうタイプには見えなかったので」
ホアンは憮然としたが、話を続けた。
「俺は、そんな礼知らずじゃない」
「そんな怖い顔だと、こっちがお礼を強請られそうです」
「うぐっ」
ホアンの顔が一瞬で赤くなった。女の顔に揶揄いの色が濃い。
「わかりました、わかりました。明日ですね。昼は仕事なので夕暮れどきにおねがいします」
「ああ」
それを最後に背中を押された。もう寝る、という意思表示だろう。
ホアンは扉を閉めようとしている女を少しだけ呼び止めて、
「最後に、君の名前は」
と、尋ねた。
「ふふ」
女は、口元を手で隠して嫋やかに微笑んだ。
「マリサ、と申します。軍人さま」
§ § §
「アル」
鈴の音のような綺麗な呼び声を聞いた気がした。目も眩む神々しい後光が、遠くの人影に差している。それがチカチカと電飾のように明滅していた。
目を凝らした。輪郭がぼやけて、引き締まって。ふわふわと浮遊するような雲の上で、右手だけを伸ばして少しづつ歩み寄っていく。距離は縮まらない。いや、たぶん間にあるのは距離ではないのだ。超えてはならないそんな間。それでも、その声の懐かしさに惹かれてアンヘルは腕を伸ばした。
「いけない子ですねぇ、アルは」
ずっとその幻影を追いかけていると、なにかがぎゅうっと固まったようにして、一個の人を模った。髪は青く、小さく幼げな顔つきの中に嵌る切り立った目は、心の奥底に封じた記憶を蘇らせた。鋭い蒼穹の瞳が今は優し気に見ている。
イズナは手を伸ばしたアンヘルにそっと抱き着くと、頬を寄せながら耳元で目を閉じる。くすくす、と束ねられたツインテールの髪が鼻をくすぐる。爽やかで、蒼天を想起させるような爽快な香りが胸を満たした。
彼女の背をぎゅっと寄せると、身体の柔らかな部分が全身に絡みついた。細くて、壊れそうだ。そんな身体を離さぬように力一杯抱きしめた。離してしまうと、彼女を失ってしまうと思ったから。
「いたい、痛いですよう。アル」
背中を叩いてくるイズナを無視した。しつこいほど彼女を抱きしめる。
今はもう消えてしまったマカレナすら否定してしまう、そんなことすら思えてきた。
「もう、困った子ですねえ」
イズナは、ダメな子供を見守る聖母の眼差しでみた。アンヘルはそんな心地のよい言葉をずうっと聞き続けていた。
「ご主人様は激しいのが好み?」
豹変した女の声が、アンヘルを氷像へと変えた。
抱きしめていた女が髪を掻きあげると、グラデーションをみるように、鮮やかな金色へと移り変わってゆく。女がそのままアンヘルの耳を噛むと痛みが体中を駆けた。鼻腔を熟れた果実のような重々しい香気が通り抜け、頭の中をけばけばしいもので占領した。
女は背中に置いた指先を滑らせて、肩、鎖骨、胸部までをつつっと伝わせ、最後、愛おし人への行為のようにアンヘルの胸を、とん、と押す。力が抜けたアンヘルにはなんの抵抗もできずに押し倒された。
膝立ちになった女は、己の白と黒の衣裳に手をかけて、胸元の白い部分を開け広げるとあっさり男の上に身を乗り出す。そのままアンヘルの胸に手をおいて、赤い舌をのぞかせる。白い指が円を描くようにして胸と腹を行き来すると、その感触を噛み締めるように目を閉じて感じ入っていた。
女は片膝をあげると己の下着を掴んで少しずらし、アンヘルのベルトに手を伸ばすと、そのままずり下げて固くなった股の筋肉の上に腰をおろした。相手の熱を交換するようにして胸に両手をつけると、長い金髪を男の真横へ滝のように垂らし視線を交錯させた。
「嬉しいわ。こんなにも、ご主人様を感じるもの」
気づくと世界が走っている。駆け巡るようにして、いつかの郊外の小屋の中になっていた。家の隙間から入ってくる低い光が女の厳かな白い肉の起伏を影にして、壁に映し出した。
――やめろ。
女が膝立ちとなってゆっくり腰を動かすと、光悦に染まった表情をした。舌で己の唇を撫でて世界が揺籃となっているのを楽しんでいる。馬乗りの女が蕩けた声を上げるたび、身体中を甘い痺れが走った。女があまりの激しさに両手を顔の横についてくると、長い睫毛が映じられた。
女は我を忘れたように動いている。脈が加速したように、どくんどくんと彼女の嫋やかな胸を上下させている。決して友情や愛ではない。熱っぽさはあれど、ただただ陰鬱な雰囲気ですらあう。見つめ合う瞳は魂を探り合っているかのようで、汗ばんだ肌から流れてくる栗粒大の汗が女の腕を伝って頬に落ちた。
「ああ、ああ、いいわ。ご主人様、お上手ね」
――やめてくれ。
「生きているって感じるでしょう」
女は片手で己の髪を弄ぶと、厚みの程よい唇を開いて純白の八重歯を光らせた。美しい顔の下についている白の喉が蠕動し、怜悧な顔立ちが徐々に迫ってくる。それが焦点も合わなくなるほど大きくなると、口許に柔らかい感触が広がった。
「やめろッ!」
ようやく身体が再起動させて、乗りかかっていた女を突き飛ばした。
「御言葉ね。なら、どうしたいの」
突き飛ばされた女は、しなやかな身体を傾かせた。右手を地面へつけた女の子座りとなりながら、健気に見つめる。そうすると、アンヘルは再び自由をもがれ、地面へ両肘をついて相手を見た。
「ご主人様は悩んでばかりね」
そろりと、女は這うようにしてにじり寄ってきた。薄くて白い双丘が地面に向かって垂れている。
「いつもそう。だから、皆死んでゆく」
胸の両脇からなだらかに流れ落ちる女の腕が伸び、アンヘルの頬を優しくなでた。しっとりと誘うように。
「教えてくださる。ご主人様はなにと戦うのかしら」
女がアンヘルの股の間に頭をさげると、中心が再び暖かいもので包まれた。そこで、世界は暗転した。
「――っ!」
アンヘルは、あまりの悪夢に銃声を聞いた猪のように身を飛び起こした。目に写ったのは、野営用の天幕である。夢か、と胸を撫で下ろしながら肩で息をする。腕で汗を拭ったが、無限に滲んできた。
「どうしたよ」
椅子に座っていた男が声を掛けてきた。彼は、アンヘルと同部屋のベップ・$ーー$・である。すらりとしたスタイルに制服の上着の袖を腰に巻きつけている。洒脱な彼らしい着崩しだが、見る人には肌寒さを覚えさせるスタイルでもあった。
他の人間はほとんど眠っている。彼は酔わなければ意外に早起きだから――というよりアンヘルが寝坊助――先に朝を堪能していたのだろう。
「なんか悪い夢でも見たのか?」
といいながら、コップに水を入れて持ってきてくれた。受け取って、飲み干す。
「……」
「だんまりか。アルバほどじゃねえが、アンヘルも大概不思議ちゃんだよな」
すでに空は白んでいる。暁の爽やかな薄明りが西日となって差し込んでくるが、やけに尖りついたように感じられた。アンヘルはたまらず目の上を腕で覆った。
「そんな様じゃもう寝られねぇだろ。さっさと顔を洗ってこい」
ベップの言にしたがって、のっそりと立ちあがると川の水で顔を洗った。水の一滴一滴は冷え込んでおり、手に突き刺さるようであった。外に干しておいた制服を取り込むと、着替えを済ませて戻る。
これからはいつもの遠征演習だ。そう思ったが、戻った天幕では驚くべき光景が広がっていた。
「あなたは――」
戸惑ったようにいったアンヘルに対して、男はむっつり黙り込んでいた。金髪をオールバックにして、神経質そうな顔立ちに目元のほくろが大人の色気を思わせる、ヴィエント家の筆頭護衛ハーヴィーであった。
こんな朝っぱらから何の用だ。そう思っていると、一言ぶっきらぼうに「付いて来い」といった。
助けを求めるようベップを見た。彼は苦笑いで首を振る。ドナドナ。養豚場の豚の如く、アンヘルは連れ出されていった。
§ § §
士官学校において低学年一、二回生の間、春夏に一回、秋冬に一回の頻度で各々の能力を見定める総合演習が行われる。一回生では教官主導の迷宮内訓練や科内模擬戦で、二回生夏には迷宮探索演習が執り行われた。
そして、二回生二期目の演習内容は、特科生を中心とした中隊規模の遠征演習と伝統的に決まっていた。
歴史は古く妨害魔道具が世に出る前から記録が残っている。当時では、指揮能力こそが雌雄を決する最大要因であるとして、もっとも過酷な訓練として知られていたが、昨今の技術革新や超武芸者の登場から時代は徐々に妨害魔道具仕様を前提とした小隊単位(士官学校における分類ではなく、軍隊における規模を差す)分隊単位の内容が濃くなり、遠征演習が形骸化していった。
そんな遠征演習第一中隊の目標は、スカリウ街道を南下、セグーラの街で南西に針をとったあと帝国南西端のプルトゥ渓谷近くのロヴィニ村まで辿り着くことである。
ここで遠征演習第一中隊の陣容を記しておく。部隊の編成は、
特待生科ユースタス・リンゼイ・アル・リエガーを中心とした隊。
七小隊アルベルト
一五小隊セルヒオ
六一小隊ホアキナ
特待生科ルトリシア・リーディガー・エル・ヴィエントを中心とした隊。
三小隊ラファエル
八小隊フェルミン
十九小隊マニュエル
特待生科エルンスト・オーゲル・シュタールを中心とした隊。
三四小隊オウル
七〇小隊ホアン
八八小隊アンドレス
に何処にも所属していない小隊、
七八エルサ班
三〇クナル班
九六ホルディ班
を加えた総勢八十九名である。
中隊の陣容を見れば一目瞭然であるが、所属のないエルサたち三班を除けば、真にエリートぞろいの集団である。部隊順が若いほど一回生の間に勁烈な結果を残したということだから、ラファエル班やフェルミン班を従えるルトリシアらはすでに強力な陣営を築いているといえる。
旅程は片道おおよそ二十日。遠征演習期間を目一杯に使った内容だが、教官がひとりしか居らず、お偉方の御子息さまを評定しようなどと熱意に溢れた人物でもないとなれば、ピクニックの様相を呈したことは、疑問に難くないだろう。
ただ、本年の例外として、基本近郊で執り行われる遠征が突如として長距離に変化したことをエセキエルが小隊会議で指摘した。そのあたりを補足したのは、以外にもエルサである。
「聞くところによりますと、上からの指示があったそうです。恐らくですが、私たちの総隊長を務めるリエガー様への忖度があったのではないでしょうか」
最近は中々上科にも馴染んできて、過熱化する派閥抗争から外れられればすいすい魑魅魍魎のエリート集団の中を泳いでいるらしい。
ともかく、彼女の言によれば、旧ペンシル現オリアナ州は遊楽地として名を馳せており、ユースタスへの配慮だろうということらしい。小隊隊長であるルトリシアはユースタスの婚約者――正確にはユースタスの方が婚約者候補――であるからして、唯一諫められる存在というのも中々考えられた配剤である。ただ、一抹の不安として、大神祇官の試練が隠されている感覚を覚えながら今に至っていた。
そんな事情で、遠征演習第一中隊はカラマツの落ち葉の雨がちかちかと陽を弾きながら振る立冬の時期に、セグーラの街を抜けて最終目標であるロヴィニ村に向かっているのである。
アンヘルは村まであと数日というところで、中隊の首脳部の一人、因縁のヴィエント家次期当主ルトリシア・リーディガー・エル・ヴィエントに呼び出されていた。
眼前で悠然と微笑んでいるのは、貴人ルトリシアである。翡翠と讃えられた緑髪が煌々と陽射しを反射させている。少女の冷え冷えした肉感が大人の美に変わり、神々しかった高雅な美貌をさらに讃えていた。
そんな彼女をボケッと見つめながら、護衛騎士の軍靴の遠ざかってゆく音を聞いていた。規則正しい歩行ではあるがどこか苛立たし気に思える。天幕の外に音が消えると、よくある密会の幕が上がった。
(拒否権なんかはないけど)
ルトリシアはこの朝っぱらだというのに、候補生の制服である木賊色の開襟を纏っていた。腰の佩刀がやけに似合っている。軍家の名門らしい出立ちであった。
彼女は立ち尽くすアンヘルに背を向けると、持参した箱から由緒正しき名工の茶具を並べはじめた。
「さて、呼ばれた理由はわかっておいでで?
「も、申し訳、ありま――」
「誰が発言を許しましたか?」
冷たい声だけが返ってきた。玉響の間だけ口を尖らせると、アンヘルはすぐに頭を下げた。
「結構」
しばらくの間、魔導伝熱器によって湯を沸かす音が響いてきた。ちょっとした静寂。頭を下げていたアンヘルの前方から、クスクスと笑い声が聞こえてきた。
チラリと上目遣いで伺うと、口元を片手で隠しながら上品に微笑んでいる。ちかちかと翡翠の髪が光を反射している。
「冗談、冗談ですよ。頭を上げてくださいな。アンヘルさまは中々染まりませんね」
おそらく上げた顔は憮然としているだろう。なんとか平静を装おうとしたが、感情が昂って仕方なかった。
「お戯れは――」
「あら、私に指図しようというのでしょうか」
コロコロと表情が変わる。再び頭を下げると、相手は満足したように鈴のような音で笑い声を上げた。
二人の仲は、我儘お嬢様とその使用人という関係が構築されていた。これはつい最近の話で、向こう側が度々アンヘル側にアプローチをかけてきているのである。
話は数ヶ月前に遡る。
魔剣騒動を解決した後、アンヘルは一時期茫然自失となった。というのも、テリュスの依代化に際して、あらゆる物事を信じることができなくなったのである。
――あれれ、私って今なにしてたんでしたっけ?
目を覚ました彼女の第一声がそれである。彼女の思いを踏み躙ってしまった罪悪感だけが、ぐるぐると渦を巻いて降りかかると、その場でただ黙り込んでしまった。
それ以来理由をつけては講師業の休業を要請し、遂にはやめてしまった。さすがにあれ程の悪行を成しておきながら、のうのうと仕事に行けるほど面の皮は厚くなかった。
と、そんな理由で退職したアンヘルだったが、借金という事情もあり手に職を付けねばならなかった。が、そこで性格「めんどくさがりや」を発揮すると、レイモンド並みの高速思考によって超紐理論が構築された。
選択したのは「綺麗なお嬢様に養ってもらおう」である。
馬鹿丸出しだが、今考えると鬱気味だったのだろう。富に不自由しない婦女子が出入りする集まりに参加し、個人的な親交を深めるため、取り敢えず特技を活かして絵画倶楽部に入会した。
一級上の先輩子女に釣られてではあるが、平民には珍しい素養も相まって可愛がられた。が、一週間もすると事情が変わってしまった。
新しくルトリシアが入会してきたのである。
彼女はすでに学内で目立った人材の募集を終え、あとは一般の掘り出し物探しに精を出していたのだ。とはいえ、講義の少ない特科はそれでも暇になったのであろう。趣味が絵画というのもあり、偶々鉢合わせしてしまった。
――あら、アンヘルさまではありませんか。
――そんなに遠慮なさらないでくださいな。ああ、一緒に描いてみましょうか?
――中々お上手ですね。しかもタッチは大胆で意外性があります。実はオレ様系統なんでしょうか。
所詮下位貴族や豪商の集まりであった絵画倶楽部でヴィエントの名は大き過ぎた。学芸会で本物の女優が出張ってくるようなものである。萎縮した部員たちは、こぞってアンヘルに世話を押し付けるようになった。
しかも、どこからかドミティオスに目をつけられた逸材ということを聞きつけたらしい。なんとか横取りできないかと、相手がセールスをかけてくるのである。
結果、アンヘルは探索者時代のような意味のない目立ち方をするに至っていた。
「さて、では冷めぬうちに」
そういって、ティーカップを一つ差し出してくる。アンヘルは恭しく両手で受けとり、震える手でゆっくりと嚥下した。
(味がしない)
いつものことである。彼女と一対一になると、恐怖と堪えようのない劣情が脳内を占領して、姦しく叫び立てるのだ。
色合いと香り、それから相手の嗜好で判断を下す。
「独特なスモーキーフレーバーにこの渋み。ロウグロウティーですね。色合いから考えて――バイオール州産のルフナ、でしょうか」
「はずれ、といったらどうします」
「自信があります」
無論、アンヘルには闘茶など出来ようもないが、事前に好みや流行を調査しているから色だけでも大体判別可能なのである。
一方、あっさり答えを言われた側は口惜しそうにパクパク口を開閉させると、可愛らしく頬を膨らませてみせた。外したら罰ゲームを遣らせるつもりだろ、とは口が裂けてもいってはいけない。
「知恵はつけたようですね」
「何度も痛い目を見ていますから」
「あら、なんて生意気な。次回は絶対判別不能なものを持ってきましょう」
「……」
「そしたら今度は月例大会に出場させましょうかね」
「そ、それは」
「楽しみにしておきましょうか」
ちなみにだが、ヴィエント家の週例大会には何度も参戦させられている。これは中々ない待遇で、アンヘル以外に複数回参戦したのは幹部候補筆頭のラファエルぐらいである。しかも、その彼にもダブルスコアで出場回数を上回っているのだから、大したものだろう。
そんな理由もあり、アンヘルは方々から多大な嫉妬の火種タイムセールを始めているのである。
因みにだが、騎士スキピオとは数度対戦しており、鉄芯の入った木刀で殴り殺されかけたことから、割と洒落になっていない。
ルトリシアは言い終えると、うっとりした表情で紅茶を口に含んだ。白い喉がゆっくりと動く。胸がすっと膨らんで萎んだ。
「そういえば、すでに給茶の意は説明しましたか」
「はい。はじめてお目にかかった際に」
「そうでしたかね――今一度説明しますと、給茶、つまり貴族の子女がお茶を淹れるのは、古来の男尊女卑社会の名残であると言われています。まあジェンダー平等主義者は毛嫌いしているようですが。PCが求められる昨今、愛好を公言しづらい世の中になりました」
「はあ」
「興味がなさそうですね」
「そういうわけでは」
「顔に書いてありますよ。どうでもいい、と」
「そのようなつもりは――」
「ないと言い切れますか?」
「う、いえ」
「顔に出やすいのは、アンヘルさまの欠点ですね」
ちょっとばかり本気の説教が入って、頭を下げた。
「結局なんの話でしたかね。そう、行為にはすべてに意味があるということを伝えたいのです。わかりやすい例なら、ヴァレンタインがそうですね」
こういうタイプの女性から出ると思わなくて、咄嗟に本音が出そうになった。
「商工会の戦略だと思っていますね。間違いではありませんが、あれも貴族慣習から生まれたもので昔は情人節と呼ばれておりました。他にも、配膳、着付けなど、行為の一つ一つで示唆するのが、貴族としての実力といえるでしょう」
「で、ありますか」
「ありますか、ではないのですよ。わかっていないようなのでもっと直接的にいいますが、ルフナを温めで出せば苦味が引き立ち、相手に目を覚まさせる意図が含まれています。他にも、二人きりでお酌するのは――」
そこまでいって、ルトリシアは頬を少し紅潮させてから、ぶんぶんと首を振った。言わなくていいことを言いかけたらしい。
「兎も角、言いたいことは分かりましたね」
「給茶は、昔からある作法ということでしょうか?」
「馬鹿にしていませんか?」
ピキッと青筋が浮いている。爆発一歩手前ガールに慄いて思考を巡らすが、脳内プログラムは迷宮入りして作動しない。
「申し訳、ありません」
取って付けたような謝罪は、相手を失望させただけで終わった。
ルトリシアは、はあと頬に手を遣りながら答えを教えてくれる。
「セグーラの街の件です。調べはついているので無関係を装っても無意味ですよ。こちらで手を回して起きましたので、罪状が振りかかることはないでしょう」
一瞬、笑顔が般若に見えた。砕けた言い方だったが、内心御嶽山だったのだろう。
「……」
「白状しないのは評価点としておきます――お仕置きとして仕事をいいつけますから、しっかりお馬鹿小隊長を見張っておくように」
ルトリシアがパンパンと手を打った。すぐに騎士ハーヴィーが出てくると、すぐさま腕を掴んで部屋から引きずりだす。
地獄の演習は説教から開幕したのだった。