イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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第六話:『塔の入口』の戦い

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 

 アンヘルの息は荒い。

 

 背中には彼を覆い隠すほど大きい盾――鍛冶屋に面と向かって盾と言えるほど立派なものではないがある。

 横にも縦へも大きいそれは、木々が引っ掛かり前進できない。

 

 身体を左右に傾けながら、なんとかくぐり抜ける。

 大きなボロ盾は、角を擦ったのか大きくかけていた。

 

 塔までの行く手を遮る森は、相も変わらず陰鬱(いんうつ)である。

 薄暗く、太陽の光を通さないこの異界では、気分が沈むのも仕方ないことであった。

 

 アンヘルは半日続く移動に疲れきっていた。

 

「おいおいおい、へばんじゃねぇよ!」

「はぁっ、むちゃっ、言わないでよ、はぁっ。重いんだから、さぁっ」

 

 ホセは軽々とすすむ。もうこの森には慣れていた。大樹の根が張り出す悪路をすいすいと行く。尖った樹木の葉っぱで腕を傷つけることもある不気味な森を、ホセはたった一度の経験からホームグラウンドに変えてしまっていた。

 

 これは、ホセの能力が優れていたのもあるが、それ以上に村において、多数の害獣を度胸試し半分に狩っていた経験が大きかった。

 

 一方で、ほとんど森に入った経験のないアンヘルにとっては、重量、面積ともに大きい盾を背負っての移動にへばりきっていた。

 

 森は動物や昆虫などおらず、風によって葉の揺れる音が響くばかりであった。太陽の暑さを遮る効果以外は、森はとにかく不気味で不安を煽った。

 

 とはいえ、森はそこまで危険でないことも分かっていた。

 

 さきほども、ぶるぶるのゼリー状モンスター数体と戦闘を行ったが、不意をつかれないかぎり、負傷なしで乗り切ることが可能であった。

 つまり、狼や熊が出没する通常の森よりは危険ではないということである。ただし、戦闘する頻度はこちらのほうが圧倒的に高かったが。

 

「はぁっ。あと、どれくらいっ、なの」

「あとすこしだ。さっさとしろやぁ!」

「じゃぁ、これ、持ってよ」

 

 そう言ってアンヘルは盾を下す。

 そして、冷たい地面の上に腰をおろした。

 

 冷たい。雨が降ったわけでもないのに、まるで雪解け後に露出した地面のようだった。少し湿っている。

 

「それはよぉ、てめえのもンだろうが! なら、てめえがもつのがよ、筋ってもんじゃねえかぁ!?」

 

 ――それはそうなんだけどさぁ……。

 

 アンヘルは心の中でぐちぐち反論する。

 (でも、協力してくれたっていいじゃないか……。これほど長い距離なのに、少しくらい協力してくれても罰はあたらないよぉ)

 

 そう考えながらも、アンヘルは言い返せない。

 言ってもムダと分かっている事もあるが、元来の性格からこういう時には言い返せないのである。それは、現代社会においても、異郷の地においても損をする性分であった。

 

「……」

 

 諦めたようにもう一度背負いなおす。

 

「いじけんなよ。他の道具はもってやってんじゃねえかぁよ!」

 

 この話題は不毛であると結論付け、アンヘルは身体の疲労を無視することにした。

 そして、彼の言い分は正しい面もある。斧を持っており、攻撃能力の高いホセの体力を残しておいた方がモンスターと対峙したときに有効である。

 

 そうアンヘルは自身に言い聞かせて進んだ。

 

 

 

 それからどれほど進んだだろうか。

 急に前方が開けてくる。

 

 塔だ。

 あの魔法を使う獣どもが住んでいる塔の入口だ。

 前回は、何もできずに撤退へ追いやられた奴らだ。

 

 疲れた身体に何か燃料のようなものが注ぎ込まれた。背負っている盾が軽くなる。

 同時に、惰性で歩いていた足が、不安からか進まなくなった。

 

「なぁ、おい。忘れてねぇよなぁ?」

 

 ホセはそういって確認してくる。

 

 それは、小動物どもの魔法攻撃を撃ち破る作戦の事であった。

 作戦は単純明解である。

 

 前回、2匹は交互に石弾を放つことによって、長時間敵を近寄らせない手法をとってきた。そこで、盾を持つアンヘルが囮となってひとりで2匹の注意をひきつける。その間に、周囲の瓦礫を利用して回り込んだホセが1匹を急襲する。うまく1匹を処理すれば、のこり1匹など如何様にでも料理できる……そう踏んでの作戦立案であった。

 それは、あくまでも盾を作っていないホセが、盾が通用すると判断しての作戦だったが。

 

 ――大丈夫、大丈夫、大丈夫。頑張って作ったんだ。小さな石くらい防ぎきれる、はず……。

 

 アンヘルは自分にそう言い聞かせる。

 見た目はぼろぼろで、取っ手も日曜大工以下な盾をフィルターをかけて、聖盾であると認識する。そうすると、なにか輝いてみえるような気がした。気がしただけだったが。

 

「だ、大丈夫だよ。だ、だから、そっちも気をつけてね」

 

 まるで説得力のない、つっかえた返事がでた。

 実際、泥船にのっている気分であった。

 アンヘルの背中は不安からの汗でびっしょりだ。

 

「ほんとぉかぁ? ビビってんじゃあねえのか!?」

「ダイジョウブ、大丈夫。ぜったい、大丈夫だから」

 

 さんざん大丈夫といって、少しだけ勇気がでた。

 足も震えていない。アンヘルは進みだす。

 

 小動物どもは、何の捻りもなく2匹でじゃれ合っていた。石弾を飛ばす危険生物とは思えない程愛くるしい。

 

 その愛くるしさがひっくりかえってアンヘルには憎らしさすら覚えた。

 

 大声を出した。

 弱気な心を奮え立たせるために。

 

 左手に盾の取っ手を握りしめた。

 囮となるために。

 

 右手に兄が授けてくれた棒を握りしめる。

 敵を斃すために。

 

 そして、駆け出す。

 

「はぁあああああああ!」

 

 視界の端で、ホセが回り込んでいるのが見える。

 同時に敵はこちらに振り向き、小さな魔方陣を紡ぐ。

 

 敵の周囲には、ピンポン玉ほどの大きさの石ころが浮きはじめた。

 

 ――く、来る。

 

 アンヘルはそう感じた瞬間、身体を盾の影に隠しながらも前進する。

 相手は、腕を突きだし石弾をこちらに向かわせた。

 

 後、十数メートル。

 

 盾に嵐のような衝撃が幾つも襲う。

 端はともかく、中央にぶつかる石は完全に盾でシャットアウトしていた。

 

 ――すごい、すごいぞ。行ける。

 

 不安視していた盾の性能に感心しながらすすむ。

 

 十メートルを切った。

 

 魔法を唱えていたモンスターが弾切れなのか魔法を中断した。

 間髪入れず、もう一方のモンスターが魔法を唱えた。

 

 その衝撃は足を一歩進めるたびに強くなる。

 絶え間なく打ち続けられる石の弾幕はまるで津波のような圧力を伴っていた。

 

 それでも、進む。進み続ける。

 ホセを信じて。

 

 後、もう少しで五メートルだ。

 敵は警戒したのか、移動しながら盾の死角をねらう。

 

 アンヘルはなんとか食らいつく。

 二匹が分かれずに攻撃を行わなかったことが功を奏した。

 絶えず変化する一方向からの攻撃に気を配り続ける。

 

 もう、飛び込めばすぐの距離だ。

 

 もはや盾を持つ左腕の筋肉が疲労して動かず、うまく取っ手を握れない。それでも肩で押すようにして前にすすむ。

 

 どれほどの攻撃にも怯まないアンヘルに焦れたのか、魔法を唱えず休息していた一匹が腕を横に広げた。同時に、相手の背後にかつてない大きさの魔方陣が築かれる。大きさにして倍はあった。

 周囲に浮いた石が集まり、吸着し、塊となる。まるで鉄球の如く巨大な岩球が敵の目の前に形成された。そしてその小さな腕をこちらに向けると、巨大な岩球がアンヘルの盾目がけて発射された。

 

 射出された岩球は盾をさながら障子のように突き破ると、アンヘルの胸にガッと大きな音を立て、直撃した。

 

「あ――が、がふっ」

 

 ぶひゅぶひゅと、まるで風船に穴のあいたような音が口から漏れた。気胸状態みたく息が取り込めない。アンヘルの肺は、すべての空気を吐き出し膨らまない。息をしようとあえぐが、まるで取り込めなかった。

 身体は心臓を止められたと感じさせるほど動かない。

 

 視界が眩む。暗転しそうになった。

 片膝を突いた。

 

 アンヘルは朦朧とする世界で、敵を見る。その穿たれた盾の穴の先には、安堵と嘲りの混じった顔が覗く。

 

 ――もう、もう無理だ。

 

 身体は鉛のように重く、握られた棒はずり落ちる。素通しとなった盾は身体に立てかけられたまま、動かせない。

 

 間をおかず、相手ははまた小さな石弾を放つ。穴の開いた盾では身を守る効果は余り期待できない。

 

 アンヘルは石弾に打たれた。

 (うずくま)り、海老のように身体を丸めながら、惨めに耐える。石をぶつけられながら耐えた。両膝を地面につけ、耐えた。

 肩や腕に小さな斑点ができる。内出血の跡だ。

 まるで、罪を裁かれる罪人の如く石弾を受けた。

 

 薄れゆくアンヘルの意識のどこかで、獣どもが悪魔のようにぼそぼそと嘲笑うのが聞こえた。

 

 それが、アンヘルには、すごく、無性に気に入らなかった。

 

「あぁああああああああ!!」

 

 魂がガソリンを注がれたように熱くなった。燃え上がった魂が、身体に力を注いだ。ガリガリガリと歯車が強引に回るように動かないはずの身体が意思にしたがって動きだす。

 

 崩れていた膝に力を込め、両足を地面にドッシリつけた。持っていた棒を硬く握りしめ、背中に回して振りかぶる。下半身をかがめ、力を大きくためた。白く狭まったアンヘルの視界に敵の姿がはっきりと映る。

 

 穴のある盾を正面に構え、とびかかる。

 盾で覆いきれない身体に、無数の石弾がぶつかる。至る所に無数の打ち傷と切り傷ができる。構わない、構うもんか。アンヘルは呪文のようにとなえた。今にも止まりそうな身体を、力が尽きるまでふり絞った。

 

 もう、敵はすぐそばだ。

 獣の驚愕が張り付いた表情をみた。アンヘルは魔法を使う獣を盾で一度叩き、魔法を解除させた。敵は後退する。振りかぶった棒に渾身の力を込めて振り抜く。棒の先端がかすむほどの速度で敵の頭蓋に到達した。驚愕した表情を苦痛に歪めさせ、相手を瓦礫の方へ吹っ飛ばした。

 

 ボールのように弾み、大きな音をたて、瓦礫に突っ込む。立ち上がったときには、その大きな耳をしおらしくたらしていた。

 

「でかしたぜぇ!! アンヘル!」

 

 すかさず、ホセが瓦礫の影から飛び出る。大きく斧を構えて躍り掛かった。

 

「おらぁああああ!! しねぇえええ!」

 

 縦に勢いよく振られた斧が描く銀線は、阻害するものがないかのようにまっすぐ振り切られた。ホセ渾身の一撃は獣の額を真正面からかち割り、その血肉を辺り一面にぶちまけた。敵は真後ろに倒れながら、血の海に沈んだ。コロンコロンといつもより大きめの魔石が転がり落ちた。

 

 魔法を使う獣は死んだ。

 

 残ったのは、仲間を失い、大技を使い切った力の使えないおろおろするだけの獣だけだ。アンヘルはお返しに、嘲笑をくれてやった。

 

 同時に盾を投げ捨て、左足を踏み込む。右手を上段に構える力もない。それならばと、下段に垂れさがらせたままの棒をまるで打ち上げるが如く下から振り切った。その渾身の一撃は相手に回避の余地を与えない。

 強烈な攻撃は、相手をホセの近くまで吹き飛ばした。

 

「これで、しめえだぁ!!」

 

 ホセは宙に浮き、何もできない相手を赤く染まった斧で叩き割った。獣は何の抵抗も見せず、両断された。

 

 アンヘルは地に沈んだ2匹を、消え去りそうな意識の中で見る。そのとき、ホセがいままさに倒した相手は薄くなり、砂となった。そして、その死体から出た光がアンヘルの中に入ってきた。

 

 ――なんだ、今の?

 

 そう思った瞬間、こちらにホセが走り寄っていた。

 ホセはアンヘルが不審に思ったことなど目にも入らぬ様子で、満面の笑みでこちらに来た。

 

「よっしゃー! アンヘルもやるじゃあねえかよぉ!!」

 

 そういって右腕を大きく上げて手を開いた。

 アンヘルはそれをみて、弱弱しくハイタッチを返した。

 

 ――勝ったんだ。勝てたんだ。

 ホセを見るととても安心したのか、身体から力が抜けた。

 

「ぼ、ぼくだって……」

 

 カッコつけようと思った瞬間だった。

 ぶつりと切れた電線みたいに意識がなくなった。

 アンヘルは倒れた。

 

 

 

 §

 

 

 

「しっかっしよぉ、アンヘル。やっぱなさけねぇなぁ」

 

 はぁとため息を吐きながら、ホセは肩をすくめる仕草をした。

 

 アンヘル達は2匹の獣――『カーバンクル』に勝利したのち、少しの間身体を休め、セグーラの町に帰ってきていた。

 

「いや、だってあんなに大きな岩が直撃したんだよ! しょうがないじゃない」

 

 アンヘルは敵を打倒したものの、結局気絶してしまったことに言い訳をした。ホセは帰り道もこうやって、ねちねちとアンヘルをバカにしてきたのだ。とはいえ、本心からバカにしているわけではない。その言葉の節々には、全力で囮となったアンヘルの根性を褒め称えるている気配が感じられた。。

 とはいえ、アンヘルは穴に入りたい気持ちでいっぱいであったが。

 

 ホセはビールを口に運ぶ。

 つまみの料理をばくばくと食べた。

 

「鍛えてねぇから、そぉなんだよぉ。まあ、たたかいンときに倒れなかったのは、ほめてやっけどよぉ」

「だ、誰だって、あんなの苦しいに決まってる!」

「まぁ、そぉかもなぁ! おれなら、よけたけどよぉ」

 

 ホセの上機嫌な態度は止まらない。酒が入ると余計に饒舌だ。口が緩い。アンヘルが初めて見る一面であった。

 

「それなら、ホセが盾をやってよ! 運ぶところからだからね!!」

「へいへい。まぁ、そうおこんなよ。まあまあいい金になったんだからぁよ」

 

 獣の魔石はそこそこの値がつき、ひとつ3コインとなった。ただし、最後に倒した獣の死体はどこにもなく、魔石も入手することは叶わなかった。

 結局、行き帰りの道のりで得た魔石と狼の毛皮を合わせれば、合計でコイン5枚の収入である。多いとは決して言えないが、若い町民の日給よりはいくらか高いぐらいだ。浮草稼業の無頼の徒であるふたりにとってはなかなかの稼ぎであった。

 怪我をしないという前提に立てばの話ではあったが。

 

 アンヘルの直撃弾の怪我は重症ではなかった。岩球がぶつかりはしたものの、鉄球ほど重量があったわけでも、速度が出ていたわけでもなかった。

 硬球のライナーが至近距離で衝突した程度だろう。その上、盾というクッションを1枚かましている。これが尖った物質であれば即死だっただろうが、球状であったため肋骨が折れた程度で済んでいた。あくまでも、異世界の感覚であり、現代日本においては重症だったが。

 とはいえ、肋骨の骨折はさほど珍しいことでもない。人によっては肋骨が折れていることに気づかないもまま放置した結果、直っていることもあるほど肋骨は折れやすい骨である。アンヘルも自身の経験からそれほど痛まない自分の胸に大丈夫と判断し、自力で街まで戻ってきていた。

 

 アンヘルは無言で料理を食べる。

 この店の料理は、疲れた身体に染みわたるようだった。

 

「しっかし、なんでこの店なんだ。めしは、わるかねぇけどよぉ。たけぇし、混んでんじゃあねぇか」

 

 ホセの言葉どおり、菜の花亭は裏通りにある店と比べると幾分か割高である。そのうえ、ちょうど飯時にやってきたふたりはなかなか店に入れず、外で待たされたのであった。

 

 今は、夜も遅くなってきたのか客は帰り出しており、店は少しガランとしていた。

 

「めずらしぃなぁ、てめえが、あんなに言うなんてよ」

「別にいいじゃない、せっかくの勝利祝いなんだから」

「まぁ、わるいっていってはねぇけどよぉ。なんか、意外でよぉ」

 

 ホセは少し訝しるように顔を覗いてくる。

 そうやって疑われると、バツが悪くなった。この店には明らかに私情で来ていたためだ。

 

 すると手が空いたのか、栗色の髪を束ねた美貌の少女――ナタリアが声をかけてきた。

 

「あれ、あれあれ、この前の君じゃん! 仲直りしたの?」

「う、うん! そうなんだ。そ、その。それできょうは、仕事がうまく行ったから、お祝いに」

 

 アンヘルはこの瞬間に少し期待していた。

 その期待した瞬間の到来に、声は上ずり、頬が赤くなった。

 

「へぇ。ってことは、『塔』でうまくいったの?」

「う、うん。塔の前にいた奴を追いはらってさっ」

 

 彼女は仕事をひととおり終えたのか、くたびれたような表情をしながらアンヘルの横の席に座った。汗をかいていて、疲れているそぶりを見せている。しかし、アンヘルは横から漂ってくる花のような香りが気になって仕方なかった。

 

 変態アンヘルが匂いに酔いしれていると、ホセが肩をつついた。

 

「おい、おい! この女はだれだよ?」

「むかっ。失礼ねっ、この女なんて。わたしはナタリア、ナタリアです。菜の花亭の看板娘兼長女です。よろしくね! お、チ、ビさん」

 

 ナタリアはホセの禁句を言った。

 

「はぁ!? てめぇ、舐めてんのか!?」

 

「べっつにぃー、無礼者をバカにしただけですけどぉ」

 

 ふたりは立ち上がって言い合う。

 

「ふざけんな! このむねなしが!!」

「いっ、言っちゃいけないことを! そんな乞食みたいな服きてるくせにっ!」

 

 ナタリアは胸を抑えながら、顔を真っ赤にして反論する。

 しかし、ホセには堪えた様子はない。

 

「へぇへぇ。おれたちゃ汚いですよ、におってみっかぁ?」

 

 アンヘルの胸にグサッっと来た。

 

 ――さっきの言葉を気にしないよう心掛けていたのに……。やっぱり汚いよね……。

 

 街に来るまで3日、街に来てから4日。洗ってはいるものの常に同じ服を来ている。服からは()えた生ごみみたいな匂いがしていた。

 

 気になってはいた。しかし、金がないんだ。そうやって言い訳していたら、ぼろきれを纏う浮浪者に職業を変更していた。きょうの金で、街行き用の服を買おう。アンヘルはそう心に誓った。

 

 へこむアンヘルを尻目にふたりはさらにヒートアップする。

 

「てめぇみたいなのが目にはいると、めしもまずくなんぜ。ブース」

「な、な、な。だ、だったら、店に入らなければ、いいんじゃない?」

「こっちは、金はらってんだぜぇ。客だぜ、客」

「あんたなんか、こっちから願い下げよ! さっさと帰んなさいよ。あ、えっと、君は別だからね……。って、君、名前なんだっけ?」

 

 そういうとナタリアはてへっと舌をだしながら、尋ねてくる。

 そんな仕草ひとつひとつにアンヘルは緊張した。

 

「あ、アンヘル。アンヘルです」

「ふむふむ。アンヘルね。覚えた覚えたっ。それで、あなたは? 一応聞いといてあげる。アンヘル君の友達みたいだし」

 

 そういいながら、ぶっきらぼうにホセへ尋ねる。よほど、胸なしが腹に据えかねたのだろう。怒りは冷める様子がない。

 

「ホセだよ、ホ、セ。そのちいさなむねにしっかりつめこんどけやぁ」

「さ、さっきから言っちゃいけないことをぉ!!」

 

 ホセも止まらない。チビはホセには禁句だし、なにより酒が入っている。シラフであれば、女に対してはそれほど熱くならない。

 

 もう、取っ組み合いになりそうなほどふたりはにらみ合っている。

 

「あぁ!? やんのかぁ?」

「これるもんなら、来てみなさいよっ。女を襲う度胸なんてないくせにっ」

 

 売り言葉に買い言葉。

 アンヘルはおろおろすることしかできない。

 まさかの、強敵出現である。

 獣どもよりも遥かに厳しい困難が街で待ち構えていた。

 

 アンヘルはこのような知り合い同士の喧嘩が最も苦手であった。

 コミュ障には厳しい戦いだ。

 

 何か、なにか止める方法はないか。

 そうやってアンヘルは考えていた。

 おろおろしているだけで意味はなかったが。

 

 よく見るとナタリアの顔も赤くなっている。

 おそらく、店の付き合いで少し飲んだのだろう。

 そうでなければ、これほどの小さな諍いで飲み屋の店員が憤るわけはなかった。

 

 ホセからは獣のような唸り声が聞こえる。

 ナタリアは腕を胸の前で組みながら、ホセを睨みつける。

 

 助けの声は店の奥から響いた。

 ナタリアの父にして、菜の花亭の店主、ペドロが声をかけた。

 

「おい、ナタリア! 遊んでんじゃあねぇ、さっさと片づけ手伝え」

 

 それは、言葉通りの意味ではなく、争いを止めるための言葉だった。新たな人手が必要なほど、店内は混みあってはいなかった。

 

 しかし、ナタリアはその言葉で客と争っていた自分を客観視して、冷静になったようだ。

 父親に対して、取り繕ったような声で元気に返事を返して、身繕いをする。

 

 そしてアンヘルに向き直って言った。

 

「ごめん、ごめん。もう行くね。……また来てね、何かサービスするかさっ。……あっちの子はなしで」

 

 そういって駆け出していく。

 その後ろ姿さえも可憐だった。

 

 ホセがぼやく。

 

「なぁんだ、あのおんな! むっかつくぜぇ!」

 

 そういってドガッと椅子に座る。

 怒りを冷やすためか、ビールをグイッと呷った。

 

 ――むかつくのはこっちだよ。楽しい時間をじゃましてさっ。馬に蹴られてしまえばいいんだ。

 

 喧嘩だったけど、ナタリアと喋っていたホセの顔が少し妬ましい。

 アンヘルはホセに対して初めて殺意を覚えた。

 

 げに恐ろしきはナタリアの魅力かな。

 

 

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