気付けばどれほどの時間が経ったのだろうか。ホアンは、ルトリシアらからロヴィニ村で騒動が起きたと聞いて、小隊員の静止も聞かず走り出していた。
(なぜだ、なぜだ! なぜ、こんなことが起きている。どういうことなんだ。頼む、だれか無事だといってくれ!)
ホアンはここ数日、ずっと塞ぎ込んでいた。というのも、あの現場を見て以来、なにも手付かずになってしまったのだ。だから、ロヴィニ村への魔軍急襲の報は寝耳に水もいいところだった。
すべてを放り出して帰ってきたとき、村では魔物たちが列を成して行軍していた。煉瓦造りの家屋には、逃げ遅れたと思われる村人の残骸が残っている。
焦る心をなんとか鎮めようとしたが、走る鼓動に煽られて、ひたすらに心配性な心が顔を出すだけであった。マリサの家は、親が猟師らしく森の近縁にひっそり建っているから、被害の可能性は低いだろう。そんな超観測的希望を拠り所にしていた。
それでも腕は錆びつかなかったのか、転がるようにして村を駆け抜けた。空の鋭いまでの青さが目に染みた。
(家は、まだ無事か)
ホアンは、雨で黒ずんだ古造の小屋に辿り着くと、一度立ち止まって疲れの溜まった身体から疲労を吐き出した。辺りは奇妙なほどしんしんとしている。
「マリサ、居るのか」
無事なわけがない。そんな恐ろしい予感を抑えきれないまま、扉を開け広げた。
血みどろの死体を貪る魔物の姿か。それとも、惨たらしく辱められている姿か。
しかし、そんな覚悟を他所にあっさりと開いた扉の奥、そこに逢いたかった彼女はいた。それも、極めて自然な状態で。一瞬、ホアンは村で何も無かったかもしれないと思い込んでしまった。
「君、なのか」
唖然としながら呟いた先には、いつかの淫靡な格好で俯きながら地面の一点を見つめているマリサの姿があった。
「無事、無事なんだな。よかった、よかったよ」
ホアンは彼女の両肩を飛びつくようにして抑えると、揺さぶって無事を確かめた。暖かい肉の感触が掌から伝わってくる。為されるがままになっている彼女は、そのまま揺さぶられ続けた。
「よし、よし。無事でよかった。すぐ、すぐ逃げるぞ。もう今は村が危ないんだ」
まったく動こうとしないマリサの顔を正面から覗き込んで、そうやって諭した。だか、彼女の瞳はがらんどうのままである。反応のない様子に戸惑っていると、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「なんだ、どうしたんだ?」
「……私……」
「なにか、なにか有ったのか」
ゆっくり、慰めるように彼女の目を見つめた。すると、口の形が、はっきりと見えた。
――ホアンさん……私、殺したの。
その瞬間、なにか恐ろしいものを感じて、ホアンは咄嗟に飛びのいた。遅れてその空間になにか恐ろしいモノが走った。
恐怖に慄きながら、彼女を見る。相手は眉間に皺を寄せたまま目を伏せた。
「避けて、しまうのですね」
マリサは悲しそうにいった。
「な、なに、を」
喉の奥から、意味をなさない言語が、ただ音となって吐き出された。目の前の現実が理解できない。
そのような恐ろしさは、再び彼女を捉えたとき、己の脳髄に偽らざる現実として映し出された。
彼女のは人であるとは決して思われぬ異形の翼を広げる。足元に真白の蛇を従えていた。その手には、魔の者特有の波動が波のようにうねっている。エナジードレインの濃紫色であった。
「あ、あ、ああ」
ホアンの中で漲っていた、生存確認の喜びが、みるみるうちに萎んでゆくのを感じていた。
マリサのこの立ち姿を見て、意味するところは、この一つしかなかった。
美しい姿を持ちながら、生者のエネルギーを糧にするもの。時の権力者や支配者に取り入り、古来から幾多の文明を破滅に追いやったという、全人類の敵。
――サキュバス。
彼女の正体とは、これであったのだ。
「嘘、嘘だ……そう、嘘に決まっている」
吐く言葉一つ一つが、虚しく空気に溶けていった。
ひび割れた唇から呼気が漏れるたび、自分の声とは思えないしゃがれた呻きが長々と響く。
ゆっくりと首を振りながら、後退る。脳の配線がショートし、心の中がシェイクされたように乱れた。足が震え、喉から嗚咽が漏れそうになって慌てて口許を押さえる。
猖獗極まる村内の魔の兵。意味するところは、彼女も魔軍の一味であるということである。
好意を寄せていた。なんとかして、彼女を都まで連れていけないかと考えていた。もしも、あの代官ルイスとのやり取りが不本意なものならば、身分を捨ててでも、救ってやりたいとまで思っていたのだ。
そんなホアンの目に、魔の者に相応しい非人間的な美しい横顔が映じられた。それは、切り取られた絵画のような美しさと淫靡さが共同していた。
「ふぅん、これが貴方の言っていた情報提供者ですか」
その声は這い出るかのように、背後から唐突に響いた。
上半身をひねって背後を見ると、そこにはマリサとよく似た特徴を持つ、それでいて造形はまったく似ていない金髪紅瞳の女が佇立していた。
「な、何者だ!」
「うふふ。カワイイ子ですねぇ」
女はモデルのように腰を揺らしながら、悠然と小屋に入ってきた。出口を塞がれた格好になる。なんとか距離を取ろうとジリジリ壁へ移動した。
「なんの用ですか」
問いかけたマリサに嫌らしい笑みを浮かべると、近寄ってゆく。ホアンのことなど気にした様子はなかった。
「つれませんねぇ。折角指示を伝えにきたというのに」
「今は取り込み中です。下がりなさい」
「えぇ、いいじゃないですか。ほら、こんなに美味しそうな男なんですよ。すこしぐらい分けてくれてもいいじゃないですか」
入ってきた金髪の女は腕に傷があるのも気に留めず、ぽたぽたと血を垂らしたままである。こちらに微笑みかけながら、赤いトップスの上を右手で摘んで、下乳を晒しながらお茶目に笑ってみせた。
「仕事はどうしました」
「それがぁ、聞いてくださいよぉー。なんか、意味わかんないぐらい強いやつがいてぇ、しかも龍理使いだったんですよ! そんなの聞いていませんよ」
「――仕事はどうしました」
「はいはい。お察しの通り、一匹逃しましたよ。しょうがないじゃないですか」
女はぶー垂れたようにして、いった。
「なら、さっさと追いなさい」
「そっちはカオスさまが追ってるからいいんです。私のお仕事はここでおわり。そういうことですね」
女はそういうと、片手で髪をかきあげながらペロリと長い舌で己の唇を舐めた。その瞳は、草食動物を見る肉食獣のようで、情熱のようなものが滲んでいた。
「それにしても、本当にいい男ですね。燃えるような赤髪に知的な目。しかも、服を着ていてもわかるいい身体。こんな田舎には居ない男です――最初は冗談半分でしたが、惜しくなってきました。譲ってくれませんか? ねえ、聞いてます?」
女は勝手に苛立つと、無視を決め込んでいるマリサに詰め寄る。特段反応を示さない彼女に業を煮やしたのか、ホアンに向き直った。
「ねえ、そっちの貴方はどうなんです。私のほうがいいと思いませんか。テクはこんなマグロ女より遥かにいいですし、どっちの穴もばっちり整備してますよ」
女は恥ずかしげもなく、半ば露出したようなミニスカの上からパンパンと尻を打ち、こちらに向けて見せた。
ホアンは呑まれたまま、なにも答えられなかった。
「やっぱりおっぱいなんですかねぇ、カオスさまも、なんか最近淡白だし――」
女は、流れのまま左手の爪を伸ばすと、あっさりマリサの肩紐をきった。薄い衣服はハラリと落ちて、上半身裸となる。ホアンの目に、白く美しいうなじから珠のような汗まで明確に映じられた。
「ほら、どうです。これがあなたを魅了したおっぱいですよ」
女はぎりぎりと力のままにそれを握りつぶした。
痛みを堪える呻きと共にマリサが鋭く反応して女の手を払う。手が離れると、サッと上半身に被せて右手で押さえた。
「何するんですか。こんなのちょっとしたスキンシップですよ」
「やめなさい。これは命令よ」
「ええ、固いなぁ」
「命令は絶対のはずよ」
強く拒否を示すと、女は声を低くして、
「――おまえこそ、カオスさまに気に入られているからって。新参者のくせして調子に乗るなよ」
と態度を急変させた。
バチバチと火花を散らして両者が睨み合った。それでもマリサが折れないのを見ると、女はぺっと唾を吐いてから、壁に背中を預けた。
「はいはい。ならさっさとやっちゃってください」
「……わかっています」
マリサは覚悟したように、一歩づつホアンに近寄り始めた。手には仄かに濃紫の光が灯っている。
「待てよ、待ってくれ。何を言ってんだ。マリサ。これがお前の望みなのか」
「……」
「本気、本気なのか! 全部嘘だってのか! 親父さんの故郷を見てみたいって言ってたじゃないか。なあ、本当の言葉で、お前の言葉でいってくれよ。頼む、頼むよ!」
マリサの両翼が大きく張られた。片手を突き出した態勢のまま、影を深めている。それは、人との訣別を表しているように思えてならなかった。
「俺と、俺が街を案内するっていたら、あんなに喜んでたじゃないか!」
「あはははは、変な人。機嫌を取るだけのお世辞に決まっているじゃないですか。バッカですねぇ」
「……」
女が後ろから嘲笑を浮かべている。
「でも貴方には感謝しなきゃですねぇ~。貴方が中隊の情報をペラッペラと話しまくったから、もう情報はだだっ漏れ。しっかもその中には、ヴィエントとリエガーっていう大物が混ざってるっていうじゃないですか。ほんと、男ってのは口が軽くてたまりませんねぇ~」
その言葉を聞いた時、あまりの衝撃にひどい立ちくらみを覚えた。
振り返ってみれば、時折、中隊の大して興味の引かれなさそうな情報に嬉しそうな顔をしていた。だから、聞かれるがまま中隊の構成員を知っている限り、いった。言ってしまったのだ。
「そうなのか」
「……」
マリサは無言だ。
「何とか言ってくれ!」
「……娼婦のリップサービスを信じるなんて、愚かそのものですね」
顔から、血の気がひいた。
魂を引き裂かれるような痛みとともに、消えることのない強烈な大炎が心の底から湧き上がってきた。
あの優しげな微笑みも。下らない話に相槌をうって見せたのも。それも、なにもかも、全部嘘なのか。
許せない。裏切った。自分を弄んだのか。そう思うと脳髄が沸騰した。咄嗟に、口から罵声が飛んだ。
「この、阿婆擦れが! 騙しやがったな。殺してやる、殺してやるッ」
「……」
「あはははは、みてくださいよ。本性が出ました、出ちゃいましたよぉ。好き勝手身体を貪っておいて、気に入らなくなると一転して罵りはじめる。あーあ、男ってなんて虚しい生き物なんでしょうか」
女が笑いながら腹を抱えている。目には隠しもしない蔑視が浮かんでいた。
ホアンは長剣を抜刀すると、大上段に構える。何度も救国を行なって磨いた剣の冴えは、入学前とは桁が違っていた。惨烈な剣気が噴き出しはじめた。
心の中で、宝物のように好きだったマリサの笑顔を、ゴミ箱にぶち込んだ。
そのまま、ツツと地面を滑るようにして、動いた。
全力で踏み込んだ。人生最大の気迫であったことは間違いない。
振り下ろした白刃が相手の手刀と噛み合う瞬間、横合いから鮮やかな唐紅の髪が写りこんだ。
「てやぁああああ、どっせーい!」
間合いに飛び込んできたのは、過去の迷宮探索演習で話題になったエルサ隊の実働隊員ユウマであった。
彼女は、身の丈に迫るほどの大槌を大上段に振りかぶりながら、大気を割って振りおろした。その巨体。さすがに面食らったのだろう。マリサは長剣に応対しようとしていた身体を旋回させ、手刀で受け止めた。
それを見たユウマは、ホアンの制服を掴みながら衝撃の反動で後方へ跳躍した。
吹き飛ばされるような他人任せの加速感。流れる景色を見終える。着地後すぐ問いかけようとすると、さらに畳みかけるように後方から魔導銃の爆裂音が連鎖した。
「ホアン隊長、ご無事ですか」
「っち、くそ。まさかこんな所まで追いかけさせられるとは」
「文句を言わない。さっさと牽制する」
エルサ、エセキエル、ソニアの順で三段撃ちのお手本ように連射すると、忽ち小屋の中は火の海になった。
小屋の外に連れ出されると、ホアンにもさすがに状況が整理できて、ユウマの手を振り払った。
「手を離せ、何のつもりだ!」
「ええ……ウチ、ただ助けただけやのに」
「誰がそんなことをしてくれって頼んだ! お前ら『一般生』が指図するな!」
咄嗟に差別用語を使ってしまった。しまったと思うも、もう遅い。一度吐き出された言葉は取り消せないのだ。
ユウマの表情が曇ってゆく。関係ない。ホアンは彼女を押しのけて再び剣を構える。
「甘えないでよ!」
砂塵が立ち上り沈黙を保っている小屋を睨みつけていると、真横から張り手を食らった。
地面に倒れ込みながら、その相手を見る。
「なにをする!」
「貴方が死ぬなんてどうでもいいわ。でも、ここまで救出に来た私たちの意を汲みなさい! それに隊を纏める責務はどうしたのッ!」
ソニアが顔を真っ赤にしながら、いった。一気呵成に吠えられると、すっと頭が冷えた。
俯きながら「悪い」と小さくいった。相手は鼻を鳴らしただけだった。それでも謝罪の効果はあったのか、それとも見境を失ってすぐさま攻撃する可能性は低いと踏んだのだろうか。厳しい目つきをしていた他の人間も、前方へ意識を移し始めた。
「はあ、また邪魔者ですか。もう面倒くさいですねぇ」
「……」
炎の立ちのぼる小屋から、女たちがゆっくりと出てくる。マリサは大斧を受けたにもかかわらず、一切怪我を負った様子はなかった。
「げ、うそやん。手応えはあったんやけどなぁ。もう一回やってみてもええ?」
「やめなさい。想像以上に強敵よ。二人も居れば、損害は免れないわ」
「だな。目的は達したんだ。さっさとズラかるぞ」
「ホアンさん。貴方にも来ていただきますよ」
エルサがそういいながら、パッと右手を上げると、四人の小隊がひし形を描くようにして配置を変えた。先頭のエセキエルが懐に手を差し込む。
遅れて意味が理解できたホアンは、士官学校のセオリー通り、目を手で覆った。
「行くぞ!」
エセキエルが足元に野球ボール大の物体を投げつけると、全員が一斉に遁走した。一瞬後、空間が光で満ち溢れた。
魔力充填式使い棄て特殊閃光弾。フラッシュバン。光系統の魔道具工学技術を発展させた新世代の兵器で、現代の特殊音響閃光弾とは違って一七〇デシベルの圧縮衝撃破はないが、太陽光を凌ぐ閃光を撒き散らした。
それを予測していたエルサ隊は、素早く状況から脱出すると、撤退をはじめた。
小屋に業火の炎が上がり始めた。
後ろ髪を引かれるような、苦しい遁走であった。
§ § §
死者、七名。
行方不明者、十三名。
重病者、十七名。
総勢八九名の候補生内、三七名が行動不能に陥っている。重軽傷者を含めればその損耗率は半数を容易く上回り、軍事規則上に則れば*現状は事実上全滅を意味した。
天には鈍く光る積雲が漂っている。それが、もうすぐ夕暮れという時刻であるにもかかわらず、闇に閉ざされたような暗く荒涼とした大地を演出していた。
ロヴィニ村から十里。決死の逃避行を終えた候補生たちは、ガンジログゼロという近在の村に辿り着いていた。
開拓村でもかなり侘しく、荒作りの家々が居並ぶ土地では大した休息も取れない。ボロボロの候補生たちは俯いたまま地べたに座り込んでいた。
アンヘルは一人、嘆息するしかなかった。
(これから、どうする)
漂う雰囲気は、一種の鬱状態にも伺えた。
軍隊、というのは繊細なもので、どれだけ精強に鍛え上げたとしても、一度敗れれば、まるで新兵のように戦意が挫かれるのだ。
下等な昆虫ですら、メスを争って破れると神経伝達物質が分泌され、鬱になる。殊更、人間というのは自意識がつよく、また賢い生き物だから、昆虫のように二、三日したら忘れてしまうといった自己決着をつけられない。
人間のみに許された、知能レベルが高い故の弱点といってもいいだろう。それが、麻薬のような拭い難い依存性を持って、演習第一中隊に漂っていた。
(それに――)
邪竜、というインパクトは強烈に過ぎたのだ。
――一族伝来の体内魔力観測法によれば、成龍に果てしなく近いな。
――バカにせず一応聞くけど、それって精度は?
――確認を取る術がないから知らぬが、勘では高いはずだ。上位属性だから、戦力勘算を五割増ししておけ。
闇龍、光龍は、五大属性で常に序列一、二を争う極めつきの化け物である。以前、火山龍と闘ったアンヘルは、すでに子持ちの老龍といっていい火山龍に、その戦闘力、脅威を魂の隅々まで刻み込まれていた。
絶望的な情報に呆然としながらとぼとぼ歩いていると、帰還に気がついたベップが歓迎の意を示してくれた。
「アンヘル、か。斥候の手応えはどうだった」
やや疲れを表情の端にのぼらせている。アンヘルが斥候を言いつけられてからも何かしらあったのか、どことなくやけっぱちな印象を受けた。
「なにも」
首を振りながら、ブーツの踵を打ちつけて泥を落とす。
「かなり先まで見回ったけど、追撃の気配はないよ。それどころか衝突地点にすら敵影はなかった」
「そうか」
ベップは報告を受けると、頭をガリガリ掻いた。首脳部が会議を行なっている以上、現場統括は彼に任されているのだろう。手には指示用の手帳があった。
アンヘルはルトリシアを抱えての救出後、その行為を見咎めた騎士スキピオ、隊長ラファエルによって、外回りの仕事を押し付けられていた。
まあ、意識のない貴人をゼロ距離で抱き抱えていたのだから仕方のない差配である。ホアン班とエルサ班――ホアンには脱走疑惑が浮上しており、その追跡に当たっているらしい――が行方不明な以上、手空きの人員はアンヘルだけという理屈もあった。
「そっちは、何かあった?」
「まあ、有ったといえば有ったかな」
ベップは苦々しい顔を隠そうとしない。いつも飄々とした態度を標榜とする彼には、珍しい姿勢である。
「ココだけの話だが――」
と、ベップは音量を抑えながら辺りを見渡した。
「ヴィエントさまの容体は相当悪いな。化粧や元々の白さで誤魔化してるが、あの戦略魔法は堪えたみたいだ」
「そう、なんだね」
「後悪い知らせなのは、エルンスト派で序列の変動があったらしい。まあ、こんな事態だからしょうがねえが、隊はぐっちゃぐちゃよ――いい知らせなんてのは、アンドレス隊が戻ってきたことぐらいか」
「行方不明だった隊だよね。無事なの?」
「命はな。戦線復帰は数日じゃ効かねえだろうさ」
そういうと、ベップは疲れたように馬車へ寄り掛かると、適当に手帳を放り投げた。
「まあ、どうでもいいさ。こっからは逃げるしかねえだろう。ピンピンしてんのは、ウチの隊長殿くらいさ――村の連中には悪いが、自殺までは職務に入らねえよ」
すでに彼の許容範囲を逸脱している事態なのだろう。いや、それはすべての人間に当てはまり、現状の空気を鑑みれば敗戦の機運は明瞭に伺えた。
それでも仕事は仕事なのか、結局ベップは首脳部に報告するよう言いつけると、再び現場整理に向かっていった。
アンヘルはそのままの足で、ガンジログゼロの村長館へ赴いた。この屋敷――というには寂しすぎる作りだが――土間が大きめに作られているから、多人数が集まって会議、治療するのに良い空間である。部屋の片隅では持ち直したルトリシア派が中心となって重傷者の看病を行なっており、奥では首脳部と思われる人間たちの会議が行われていた。
ルトリシア派の主要人員は、筆頭護衛ハーヴィ。次は召喚師のラファエルである。
一方のエルンスト派は、彼の助勤を中心とした面々である。名前は聞いたが、アンヘルの記憶にはなかった。
「散歩の気分はどうであった」
「僕は犬かよ」
アンヘルはそこで驚愕することになる。
入り口で腕を組んで静かに佇んでいたのは、クナルだった。健康状態、戦闘能力を加味した結果、首脳部の護衛官の立ち位置を得たらしい。不服そうなのがこの男の異常性を表してはいたが。
「それで、状況は?」
「知らぬな」
他人事のようにいった。相変わらず会議には参加しようとしないのか、聞いていなかったらしい。
「方針ぐらいは知っているでしょ」
「ふむ――ほとんど聞いていなかったから知らぬが、恐らく撤退になるだろうな」
「どういう意味? 反撃一択じゃないの」
少しばかり予想外の結論に、疑問をもった。
「貴様は、蟻の生態には詳しいか?」
「は? 今関係あるの、それ?」
突然意味不明なことを言われて、ポカンとした。
「南部熱帯地域の蟻は、夜になると巣の外に斥候を出す。それらは巣を外側から塞いだりと複数の作業をこなす重要な役割を持つのだが、翌朝には全滅する」
「へぇ、蟻に詳しいなんて意外だね。でも、意味がわかんないんだけど」
「魔物狩りとは、生態調査と似通っている。貴様が無知なのだ」
クナルは鼻を鳴らしながら、此方を見下してきた。
「話の腰を折るな――いいか、この集団は重要なことを見失った、蟻以下の存在だ。貴様も見たのではないか? 外の腑抜けた光景をな。それに、シュタールの坊やも鞍替えしたとあっては、惰弱極まりない方針となるのは明白だろう」
個々の生存よりも集団の勝利を目指す彼らしい意見だが、たとえは意味不明だ。ここで聞いてるじゃないか、とは思ってはいけない。藪蛇だ。
「シュタールさまは、そういう薄情さとは無縁だと思ったけど?」
と、言いながらも、これは相手の穴を探そうとしているだけだなと思った。
龍災には、大隊規模の派遣が通例となっている。それに加えて今回、魔軍とよばれる部族単位の魔物集団を率いているのだから、精鋭の派遣を検討する必要があるだろう。
それでも、ルトリシアの魔法があれば勝機はあっただろう。つまり、邪竜との初邂逅こそが、唯一のチャンスであったのだ。
アンヘルはそんな事情に今更ながら気づいて歯がみした。
一方、エルンストらの舌戦は激しさを増していった。
「呪法は恐ろしいものだ。だが、それは俺たちには関係のないことだ」
「貴族は常世、手を取り合い武威を示してきたではありませんか」
エルンストの怒りが篭った意見に、ルトリシアは淡々と返した。顔色は化粧で誤魔化してあるのか、何時もより尚白い。
「誰がそんな風に決めた。そもそも現状では、邪龍相手には戦力が足りなすぎる」
「それは――」
「ユースタスの自業自得だということは、分かっているはずだろう」
エルンストはすでに議論が終わっていると思ったのか、席から立ち上がった。
「これは意見ではない。提案でもない。あの男のために、付いてきてくれている者たちに死ねとはいえん。撤退の決断をしてもらう」
「――却下します」
「なぜだ」
「婚約者を差し置いて、逃げることはまかりなりません」
立ち上がったエルンストをただただ真摯に見つめた。
此処にいるルトリシア派だけが、この絶望的な状況を理解している。この話し合いの邪魔はしないが、ハーヴィーなどは義手がギリギリと嫌な音を立てている。唇は歯の圧力で白くなっていた。
嫌な雰囲気を両者放っている。もしかしたら何か起きるかもしれない。
そんなときである。突然屋敷の外から声がした。
「おぅおぅ、これは上からの御言葉ですなぁ」
声をした方角へ、場の全員が振り返った。彼らの発言を遮って、議論へ参入する人物に心当たりがなかったのである。
しかし、エルンストらは闖入者を認めると、苦虫を噛みつぶしたような表情となった。
その男は、中肉中背だが神経質そうな細く尖った顎、狼のような鋭い目をしている。純帝国風の金髪を総髪にし、肌は白く、背筋をぴんと伸ばしているからとても自信があるように伺えた。所々の若白髪が、眼力と相まって鮮烈な第一印象を齎す。
現れたのは、エルンスト麾下のオウル連隊長であった。
何より、貴族に対してこの態度である。まったく尊敬の念が感じられない姿はどこか勝算を持っているように伺えた。
「オウル、下がっていろ」
「そうは行きませんな。我らの命が掛かっているのに、あなたの主張は惰弱にすぎる」
エルンストから叱責された男は、さらさらの直毛の金髪をかき上げながら芝居がかった仕草で部屋に入ってきた。ぞろぞろと、配下の者たちが続くようにして入ってきた。
「おい、どけよ」
「……」
入口の前で屯していたアンヘルの顔へ唾を吐きつけると、そのまま鼻で笑いながら議論している奥まで進んだ。配下たちの哄笑が響いた。
アンヘルはあまりの不快さに内心暴れまわりながら、袖で拭った。やけに強気な態度である。この男は、ルトリシア派に属している東方一刀流の志士を恨む傾向があるとはいえ、らしくない態度であった。
「下がれ、下民」
突然会話に介入してきたオウルに、騎士ハーヴィーは主を庇いだてするようにして剣を抜いた。
「いいんですかな。そのような態度で?」
「なにを言っているッ」
「今は猫の手でも借りたいはず。そうではありませんか、ルトリシアさま」
オウルは騎士ハーヴィーの手前で止まり、慇懃無礼に膝をついて騎士の礼をとった。
ルトリシアは憤るハーヴィを手で制しながら、彼に尋ねた。
「なにが望みです」
「これは、これは。さすがに話がはやい」
ルトリシアは、彼の遠まわしな態度に含みがあるとすぐに気が付いた。下々の連中にこういう態度を取られるのは経験がないのか、眉が気持ち寄っている。
(もしかしたら、ヴィエント様の病状が漏れたのかもしれない)
その予感は、中らずと雖も遠からず、といったところであろう。慎重な男が、貴族に対して正面から要求を突きつけるなど他に考えられない。
「杯の御下賜、その栄に預かりたいと存じます」
「なっ!」
驚愕して二の句が継げなかったのは、傍で聞いていたハーヴィーだった。彼は言葉の意味を理解すると、みるみるうちに顔を紅潮させてから、すぐさま相手を叩き斬らんと怒気を発した。
ルトリシアは険しい表情で相手を見つめた。
「驕っている訳ではありませんね」
「もちろんですとも。相手は邪龍、全力で当たっても尚厳しい敵でありましょう。ならば、それに応じた礼を尽くすのが役目では?」
オウルは強気である。杯の御下賜というのは、アンヘルはまったく知らない事柄であったが、それがルトリシアたちにとって易々と認められないことなのは察しがついた。ベップたち貴族系の人間は揃って驚愕しているから、よほどの重大事を所望したらしい。
立ち上がると、固まっているハーヴィーの真横を素通りし、ルトリシアの白い顎に手を這わせ顎をくいっと上に向かせた。ふたりの視線が交錯した。
「無礼な」
ルトリシアはその手を鋭く払った。不快なモノを見る眼をしている。
「さすが、帝国の宝玉とまで呼ばれた貴方は美しい。私ども下民など常々仰ぎ見るしかありませなんだが、こと此処に至っては立場など関係ありません。お近くで拝謁できて、とても光栄でございますよ」
「オウル、控えろッ!」
エルンストが顔を真っ赤にさせてオウルの肩をつかんだ。両者は相当不仲であると噂で聞いていたが、確かにオウルが振り返りながら相手を見る表情は悪感情しか浮かんでいなかった。
ルトリシアは掴まれた顎を袖で拭ってから、じっと黙って机を見ていた。その後、一度目蓋を閉じると、もごもごと口の中で相手の言葉を反芻するようにして、咀嚼した。
「ルトリシアさま」
「……」
「なりませんぞ」
「……」
「ルトリシアさま!」
ルトリシアはハーヴィーの問いかけにを一切無視して、ただひたすら思案に耽った。数瞬後、目を再び開けると、その宝石のような目を沈痛な色に染め上げて、いった。
「オウル候補生。論決は後ほど伝えます。下がりなさい」
「はっ、良いご返事を期待しております」
オウルは、にたにたとした粘着質な笑みを誤魔化さないまま、堂々と去っていった。部屋の中の全員が、彼を憎々し気に見つめている。
「よい部下を持ちましたね」
ルトリシアは、とげとげしさを隠さないままエセキエルにそういった。エルンストは、相手の弾劾に苦い顔をしながらも、言い訳を吐かなかった。
「謝罪はしよう。だがな、おれたちの意見は変わらない。即座に撤退を求める」
「私は、すべてを生かしたい、と言っているのです」
「不可能だ。おれは、学んだ。ここは勝負するべき場面じゃない。一度帝都まで撤退し、正規軍を派遣するべきだ」
彼にも苦い経験があったのか。人が肥っている、とでもいうべきなのだろう。派閥の長として、この沸騰しつつある士官学校内で国事を論じている間に現実的な視線と夢想的な視点を持つようになった。昔なら、この男は部下の身を省みずに戦いへ走った可能性もある。
「あなたも長なら、現実を見ろ」
そういって、エルンストも派閥を引っ提げて去っていった。
ルトリシアに付き従うマニュエル連隊長がちいさく息を吐いた。彼女らの声にならない悲鳴が、徐々に漏れ出していくのを感じていた。アンヘルは、上着の襟をゆっくりと直しながら、部屋のなかに充満する諦めのような重々しい空気に耐えた。
その場で会議は解散の運びとなった。アンヘルは部下にひっそり報告を済ませると、指示役にしたがって休息をとることになった。
*師団規模の場合、らしいですが。大隊規模の場合は損耗率10割が全滅なのかな? 調査不足ですがお許しを。