土砂降りの最中のような陰鬱な空気が、中隊全体に染み込んでいる。暖かい朝の日差しを浴びるも、どこか虚しさがあり、沸き立つ恐怖心に辟易とした。
第一中隊のヴィエント派フェルミンは迅速に朝食を終えた。屋敷に戻ろうとすると、同じ第一中隊に所属する候補生たちの視線が幾度となく突き刺さる。屋敷にゴザを敷いて寝転ぶ姿は呪いの蝕みもあってどこか諦めすら窺える。
もしこれが平時なら連中に一発喝を叩き込んで、その迷いを吹き飛ばすのにな。フェルミンは己の中で盛り上がる恐怖心を知っているがゆえ、何も語ることはできなかった。
目的の人物の姿を認める。黒髪の男は険しい目で机に広げた地図を見ながら溜息を吐いていた。
「ラファエル連隊長。何か手は見つかりましたか」
「フェルミン、か。もう朝食はいいのか?」
フェルミンは後ろに括った髪を梳きながら、不安げに彼を見つめた。
「あんまりのんびりしていられませんから」
ラファエルは目を優しくした。
「悪いな。水浴びでもしたいだろうに」
「女だからって気を使わなくていいです」
フェルミンは口を尖らせる。ラファエルは軽く笑った。
「助かるよ。皆結構参ってるから――スキピオさまの話は?」
「聞きました。早朝に出たんですよね」
朝に当番から聞いていた。騎士スキピオを中心とした特務小隊が早朝出発し、単独で邪龍討伐を実行するらしいのである。
なんて無茶な。それがフェルミンの感想である。ヴィエント家麾下として、模擬戦の中で何度か騎士スキピオと剣を交えたことはあるが、絶対的な実力差は感じられなかった。
相手は龍なのである。多少強かろうが、人が勝てる相手ではない。それが召喚師ならまだ可能性はあるが――
「そういえば、ラファエル連隊長はお呼ばれしなかったんですね」
「ああ。少し寂しいが、まあ行く意味はないだろうな」
「連隊長なら――」
「相手は邪龍。誰が行っても変わらないさ」
ラファエルは諦めたように、地図から顔をあげた。
士官学校二回生の二番手ラファエル。学年二人しか居ない召喚師でありながら、剣にも長ける英才。頭脳戦にも優れ、小隊戦ではあのクナルを凌ぐと予想されている。奇跡の世代筆頭株である。
当初は敵視していたものの、フェルミンは密かに好意を抱いていた。格別した実力はもはや嫉妬すら浮かばない。ヴィエント家の派閥に組みしたのも彼の誘いあってであった。
そんな彼が弱音を漏らしている。それ程まで邪龍は強大なんだと、こんな所でも実感してしまった。
「誰が随行しているんですか?」
「クナル班だったかな。あとは余りも入っているようだったが」
「そんな混合部隊で勝てるんでしょうか」
「さあな。だが、ルトリシアさまは相当焦っているんだろう。オウルのこともあるしな」
彼は召喚師である。実感している龍との戦力差は誰よりも正しいだろう。
「こちらも絶体絶命の危機だ。なんとか一手、ということだろうが――」
「何が一手なのかな?」
背後から響いた似つかわしくない鋭い声。その殺気混じりの声に背筋が粟立つ。フェルミンたちは、さながら戦時下のような険しさをもって振り返った。
屋敷の入り口には、多数の配下を引き連れ不敵な笑みを浮かべるオウルの姿があった。
右手には抜き身の剣。抜剣している。否、配下の者たちも皆武器を持ち、戦闘態勢を隠しもしていなかった。
寝転んでいた部下たちが驚いて立ち上がるも、皆突然の出来事に冷や汗を垂らしている。ジリジリと後退しながら此方に集まってきた。
「何のつもりだ。気でも狂ったか」
代表であるラファエルが進み出ながら、相手を牽制した。
「質問に答えていただこう。何が一手なのかな?」
「ふざけているのかッ」
オウルはまったく退く気配を見せなかった。口の端を歪めながら肩に剣を置く。
――これは絶対外に漏らさぬよう。
騎士スキピオが邪龍討伐に出ていることは極秘事項になっていた。優秀な護衛として重石となっているのは事実だし、日が過ぎるにつれ弱ってゆくルトリシアに代わり指示を出すのは彼である。もしそれが外部に漏れれば、どんな蛮行に及ぶかわかったものではなかったのだ。
だが、オウルたちはその様子を完全に把握しているように思われた。
「では代わりに言おう。筆頭護衛騎士ハーヴィー殿が邪龍討伐に出陣したそうではないか」
オウルはその極秘情報を容易く漏らした。
その発言を受けて、ラファエルはピタリと動きを止めた。空いている手が痙攣したように震えている。
「……なんのことだ?」
「ふ、あまり腹芸が得意ではないみたいだなラファエル君。頬が引き攣っているぞ」
ハッタリだ。フェルミン達は指摘されても表情筋ひとつ動かさなかったが、果たしてどれほど意味があったのかは判らなかった。
(やっぱり、どこからか情報が漏れている……)
ルトリシアの病状がバレている件にしろ、今回のハーヴィー出陣にしろ、どこからか情報漏洩が為されていることはもう確実だった。フェルミンは背中に大量の汗を実感した。
「まさか、ここで謀反を起こすつもりか?」
「今更だが、もはや折れるのを待ってはいられない。もし邪龍を討伐されても困るからな」
あまりに潔い宣戦に、ラファエルも目の色を変えて抜刀した。もはや敵を見る剣呑さで相手の様子を伺う。
「この俺に勝てると?」
「君こそなぜ戦うんだ? ヴィエントについた所で未来はないと思うがね」
「俺は貴様のように裏切りを働いたりはしない」
「ふう、やはり降る気はない、か」
オウルはやれやれとかぶりを振った。
「ラファエル君。認めよう、確かに君は強い。しかし、その対処をしていないと考えるのは実に浅はかだ」
オーケストラでも見せないような鷹揚さで、オウルは悠然と語った。
その瞬間、真横から誰かが突き飛ばしてきた。何、と感じる暇もない。二階に繋がる階段の前まで突き飛ばされると、手摺をぶち壊した。
顔を上げる。ラファエルが突き飛ばしてきたのだ。
「ラファエル連隊長っ、なにを!」
「よく見ろっ」
脂汗が滲んで、苦痛に耐えるような声だった。フェルミンは彼を支えようとするが、背中を触った瞬間、べっとりとした感触に戦慄した。
――ラファエルは、出血していた。
誰が、と相手を見る。ラファエルは明らかに背後から斬りつけられていた。オウルの仕業ではない。
信じられないと思いながらも、自分の部下たちの姿を見た。
それを見たとき、愕然とした。
――部下の一人が、血の滴る剣を振り抜いた姿勢で佇んでいたのだ。
「バイルっ、あなた何をっ!?」
喉から悲鳴が漏れる。ありえない。そんな想いが胸中を占める。
一方、バイルは辛そうな顔をするものの、少しづつオウルらに合流を試み始めたのだ。
「ふ、ふははは。傑作だな」
フェルミンは涙目になりながら、裂帛の怒声を浴びせた。
「裏切ったのね!」
「いいや、違うな。強い方に付いただけだろう? 弱肉強食は世の理。お前らこそ泥舟に乗り続けて呑気なもんだな」
くっくっと笑うオウルは、部下たちをさらに散会させ、絶対に逃げられないように布陣を取る。
自分の部下が二人相手側に追加された。ラファエルの部下は今現在警邏か怪我でこの場にはいない。十対二の絶体絶命である。
青い顔をしたラファエルを抱えながら、恐怖で手が震える。剣には自身があるがこの状況では勝ち目など――
「フェルミン。君はルトリシアさまを」
ラファエルが血を吐きながら小さい声で囁いた。
「そんな無茶な。それより今は手当を……」
「大将が獲られれば負けなんだッ!」
ビリビリと鼓膜が震える。ラファエルは死の淵にありながら、戦士の顔で叱責した。
「行け」
「でも」
「行くんだ! 君は何のため軍に入った!」
ラファエルはよろよろと立ち上がり、眷属を召喚した。
オウルが意味不明な状況に陥ったとでもいわんばかりに嘲笑を浮かべた。
「まだ現実が見えないのか?」
「俺を舐めているだろ? たった十人ぐらいで勝った気になるな」
「おいおい、そちらは手負い。勝機などないと思うがね」
ラファエルがわざと自信満々に仁王立ちした。フェルミンを心配させないような、そんな態度。
「ラファエル隊長」
「行け。君の仕事を果たすんだっ!」
「っすみません。ご武運を」
フェルミンはもはや振り返らず、二階への階段を駆け上った。
涙がつつっと頬を伝った。いくら何でもたった一人で叶うはずがない。悔しくて、悔しくて、握りしめた手から血が滲んだ。だが、振りかえるわけにはいかない。彼はわかっていて、自分を送り出したのだ。
フェルミンは寝室に飛び込むと、半朦朧としたルトリシアの身体を抱えて、窓から飛び降りた。
屋敷から幾度も爆砕音が響く。余りが外から回ってきたのか、数人が追いかけてきた。
振り返ることはできない。フェルミンは後ろ髪引かれる思いを振りきり、森の中に駆け込んだのだった。
§ § §
「逝ってしまいましたか」
油断なく待機していたレイナという魔族が、そっといった。夢魔の最後を物悲しげに見ている。サキの全身は白化粧のように灰の塊へと変化し、砂上の楼閣が崩れるような軽い音を立て、崩れていった。
広場では、ベップらの尽力により機械人形が討たれたようである。ガラガラと金属の崩落が見えた。
「残りは、貴様一人だな」
剣の血を払うと、ハーヴィーは大上段に構えた。向こうからはぞろぞろとベップたちが戻ってくる。場は四体一。勝敗は決したように思われた。
「先も言ったが、貴様らの主人の居処を吐けば見逃してやろう。我とて騎士。いくら魔族といえども、女子供の命までは取ろうとは思わぬ」
頭にあったのはサキと呼ばれた女の最後である。彼女の男を憎んで去っていた最後が脳裏にこびりついて離れない。どこか、虐げられた過去が吐かせたように見えたのだ。
主人ルトリシアを蝕む元凶だというのに、心の底から憎む気持ちにはならない。ハーヴィーは優しい表情で宣告した。
「ふ、ふふ。馬鹿にしてくれますね。人間」
それを侮りと見たのか、レイナは不敵に笑ってみせると、両の手を大きく広げ、歌劇のように高々と返答した。
「機械人形を、そして、同胞サキを屠ったことは認めましょう。たしかに、あなた方は強い。邪法に身を窶した卑しき者どもと侮ってたことを謝罪します。
ですが所詮ただの人間。この私の前ではそのような些細なことは無意味なのですッ!」
レイナは己の頭に生える二対の角に両手を掛けた。それをギリギリと真横に引っ張ってゆく。その角は血を撒き散らして千切取られようとしていた――
「スキピオさま。どうしたんですか、これは?」
隣に並んだベップが、渋面をつくっている。背中には青い顔をしたアルバの姿があった。力を使い果たしたようだった。
「無事なのは貴様だけか」
「はい。とはいっても負傷ではありません。ですが戦力になるのは私だけです」
「そうか。では、あの女がなにか企む前に片付けるとしよう」
「あっ、お待ちください!」
ベップがアルバを安静にさせるのも見届けず、ハーヴィーは、ついと前に踏み出す。サキの死に感傷を覚えたのは事実だが、優先順位を間違ったりはしなかった。
剣を真っ向から振り上げる。
猛犬のような勇ましさと刀剣の鋭さを持って跳ねた男の身体は、流星のような銀線を描きだした。
――すまぬな。
勝利を確信したハーヴィーは、頭蓋を叩き割ることを止め、腕と脚を斬り裂くことにした。顔に一抹の虚しさのようなものが浮き上がる。
女の手がゆっくり反応した。左掌で刀身を受けようとする。意味のない抵抗だと、その瞬間は思った。
「――進化『リリス』」
眼前で繰り広げられた現実は、信じ難いものであった。
叩きつけられた刃は、水仕事もしたことのないような皺一つない手によって遮られ、毛ほども傷を与えることはできなかったのだ。
口を開け広げたハーヴィーの目に女の威容が克明に映じられる。
美しかったボブのブロンドが伸び、朝日に照らされている。千切取られた角は牛を思わせる厳しい大角へと生え変わっていた。体内から漏れる、おどろおどろしい陰鬱な気。全身の隅々まで闘気を纏わせていることで放たれる、人外の業に思えた。
大きく邪悪な翼が広げられる。骨が浮かび上がり紫の膜だけが張られたそれは、ジョン・コリア作の「リリス」を思わせる出立ちを想起させた。
ハーヴィーに信じられないという感覚が魂にまで刻まれた。それは、後方から続こうとしていたベップも同じである。勝利という階段からあと一歩で叩き落とされたような絶望感を味わう。
何もできず、ジリジリと退がるしかなかった。位違い、という現実をまざまざと見せつけられたのだ。
「この姿は今の私では負担の大きいものです。ですが、あなた方の力に敬意を称してお見せ致しました」
レイナは冷気すら感じさせる冷厳さを伴って、そう告げた。足元の大蛇が彼女を中心に蜷局を巻いてゆく。その頭に手を這わせると、一転、目つきを鋭くさせた。
「サキの意趣返し、させていただきましょうか」
腕が大きく広げられた。闘気が噴出する。それに合わせて、細身の身体が巨人の歩行のように見えた。
世界が、止まった。女だけが編集で切り取られたような動きを見せる。常識の中の生物には信じがたい動きだった。
繰り出される手刀を受けたハーヴィー。
太刀で受けたにもかかわらず、ゴム毬のようにはるか彼方へと吹っ飛ばされた。
教会の扉に突っ込む。ぎいいと重苦しい木の摩擦音が響く。遅れてベップも飛ばされてきた。飛ばされた場所が悪く、彼は後頭部を壁の端にぶつけ昏倒した。
パラパラと漆の下にある木が崩れる。風が吹き抜けると、砂塵の立ち昇った中心に腕を振り抜いた女の姿があった。
「この程度ですか?」
「ほざけ!」
ハーヴィーは全身の力を振り絞ると、足腰に気合を叩き込んだ。主人の敵を討ち滅ぼせ。そんな騎士精神にしたがい、剣を杖にして、反抗精神を立ちあげた。
「ヴィエント家の筆頭護衛騎士として、邪龍を打ち倒すまでは死ぬわけにはいかぬッ!」
震える足腰に喝を入れて走り始めた。剣を天頂にかかげ疾駆する。そして、つつっと間合いを見極めると両足で踏み切って飛んだ。
女はその度胸に白い歯を見せると、正面から叩きつけてきた男の剣を二本の指で摘んだ。
指二本による、真剣白刃取り。
ハーヴィーには唖然としながら涼しい顔で立つ女を見上げることしかできなかった。万力に絡められたように固着している。精神状態から溢れ出る膂力を持ってしても、ミリ単位で動かすのが精一杯であった。
「あ、あ、あ、あぁ」
「素晴らしい腕前ですね」
相手から絶望的といえるほどの密度で闘気が放出された。逃げなかったのは、騎士としての矜持故か。だが、生物の根源的恐怖に抗えたのはその程度であった。
極度の恐怖と狼狽でいつもの冷静さがなくなってゆく。剣先は震え、足腰からは力が逃げてゆく。正面からの手刀を何度も幻視し、自身の死を幾多も予期する。
芸を凝らせば、多少の力は削げたであろう。だが、今のハーヴィーには踏みとどまることで精一杯だった。
「化け物か、きさま!」
歯が噛み合わず、かたかたと鳴る。身体を恐怖の蛇が這い回り、のたうち回っているような感覚を覚えていた。
「バケモノ、ですか。一応言っておきますが、私の力は、それほど優れているわけではありません。しかし、超越種である我らに肉薄しようなど、天に手を掛けるに類することであると認識を改めるべきでしょうね」
女の手刀がうねる。その掌は、研ぎ上げた剣よりも鋭く、戦鎚の衝撃を遥かに上回ることを、しっていた。
音を立てず、迫る。傷口から噴水のように血が噴き出る光景を幻視した。
――申し訳ありませぬ、ルトリシアさま。
諦めとともに、目を閉じた。
ここに至って、今までの敵がどれほど恵まれていたのかを思い知らされた。此度の相手は、いままでの常識が通用する相手ではないのだ。
そして、それを悔やんだところで、何も得られぬことを察していた。最後に思ったのは、それでも、我が主人への後悔である筈であった――
――止めたのは、巨塊のような大曲刀であった。
ガキン、と到底肉と刃がぶつかりあったとは思えぬ音を立て、女の手刀が弾かれた。すぐさま、ハーヴィーの身体が後方にすっ飛んでゆく。首をつかんで投げられたらしい、と気が付いたのは、地面に転がりながら悠然と佇むクナルの姿を見てからである。
「邪魔をしますか」
女は後ろへ飛びながら、警戒感を露わにした。着地してからはすでに全集中をクナルへ向け、構えをとっていた。
一方、悠然と身の丈ほどの大曲刀を肩に担ぎなおすクナル。欠伸すら浮かんでいた。
「戦うつもりがないのかと思っていました」
「雑魚に構っても仕方あるまい。と考えてはいたが、露払いを考慮すれば生かしておいたほうがよかろう」
「そうですか。噂に聞くラシェイダ族とは些か違うようですね。もっと戦闘狂のようなものかと――」
「能書きはいい。さっさとかかって来い」
「ふふ。いいんですか? それがあなたの最後の言葉となりますよ」
「ちっ、自己顕示欲のつよい女だ」
女はその一言で顔色を変えると、上体を屈めて走りだす態勢を取った。疾走。女性には似合わぬ強烈な速度である。距離を瞬く間にゼロとすると、手刀を振りあげた。
「駄目だ! その女に一人で敵うわけが!」
「黙って見ていろ」
迫り来るレイナ。それを、クナルは悠然と迎え撃った。両手で構えることもなく、それどころか、半身のまま注意を払うこともなく、ただ大剣を振り上げた。
勘に触ったのか女の顔が険しくなる。首筋を狙って放たれた手刀が大気を割る。そして、両者は、トラック同士の強烈な激突音と共に、位置を入れ替え、立ち止まった。白煙が濛々と立ち昇っている。
女がゆっくりと振り返った。顔には嘲笑がある。手刀からは僅かに血の痕が残ってる。見れば、クナルの頬が僅かばかり裂けていた。
固唾を飲んで見守っていたハーヴィーに絶望が広がる。あのクナルですら子供扱いか。圧倒的な相手の実力に戦慄を覚えた。
しかしそれは、レイナの奇妙な変化によって変わっていった。ハーヴィーは、その眼を大きく見開いた。
「馬鹿な……ありえない……いつだ、いつやった!」
女は余裕を無くして、顔中に栗粒の汗を浮き上がらせ、引き攣った声で大きく叫んだ。ズルズルと、女の身体が傾いてゆく。すとっと、まるで芋虫が落ちたように、手刀と反対側の腕が転がった。ペンキをぶちまけたように赤が地面へ広がる。
対照的に、頬を薄く斬られたクナルは心底興味が失せた表情だった。大曲刀は真っ赤に染まっていた。
「雑魚だな」
振り返ると、クナルはさらに剣を投じた。
上段から、袈裟斬り。真横に薙いでから、切り上げる。都合、三つの斜線が身体に引かれると、女の身体は不良品のプラモのように崩れはじめた。
残ったのは胴体だけである。魔族の再生能力によって死なぬ、しかし、自殺や反抗をさせぬ封殺状態であった。
目にも止まらぬ、神速の剣撃。ハーヴィーを圧倒したはずのレイナとクナルには、大人と赤子のような差が存在していた。
「心底くだらぬ。こんな雑魚に手間を掛けさせるな」
クナルは剣を背負い直すと漏れたあくびを隠そうともせずに、いった。
「あ、ああああ、ああああぁああ!」
女の、ヒステリックな絶叫が響き渡った。それは、己の自負心と、絶望的なまでの巨壁に相対したときの混合が飲みくだせなかったように見えた。
「さっさとこの女から情報を取れ」
「あ、ああ」
指示されてしたがうハーヴィの脳裏には、己の中に湧いた感情をかき消せないでいた。まざまざと見せつけられた圧倒的実力差。それを見る眼差しには、あってはならない畏敬の念が込められてしまっていた。
そしてそれは、恐怖に慄きながら叫びまわる女こそがもっとも感じていることだった。
「化け物、バケモノよ。寄るな、寄らないで!」
恥も外聞もなく叫ぶ女。彼女の顔には特大の氷塊でも落とされたような、戦慄があった。
「あなたのような化け物を、カオスさまに会わせるわけにはいかないッ!」
そういうと女はうぐっと苦悶を漏らして毒々しい血を石畳に巻き散らす。目が虚になった。
「おい!」
ハーヴィーの静止虚しく、女からブクブクと血泡が溢れ出す。どうやら舌を噛んだらしかった。
「この様子では、喋れまい」
舌を噛むという自殺は基本的に出血による窒息であるから、適切な処置をすれば死亡する可能性は低い。ただ、舌を噛み切った以上、そう易々と情報を聞き出すことは難しいだろう。
クナルは瞬く間に首を落とした。
灰化してゆく。男の横顔はただひたすらに無感情だった。
「雑魚どもを叩き起こせ。さっさとあの馬鹿を追うぞ」
「あ、ああ。そうだな」
戸惑ったままその背中を追った。どんな戦場を切り抜けてきたんだ。そんな修羅への恐怖をこの時ばかりは覚えた。
§ § §
(すまない。すまないアンヘル。だが、マリサを殺させるわけには……)
エセキエルという候補生からくすねた閃光弾によって窮地を脱したホアンは、心中で懺悔の言葉を紡いでいた。
アンヘルは確かに特務、と言っていた。そして敵前逃亡の疑いあり、とも。そう言われてしまえば、ヴィエントらの一報を聞いて村に無断で駆けつけ、特務隊のアンヘルを囮にしてしまった。軍法に則れば斬首間違いなしだろう。
そして、最後に響いた糺弾の台詞が耳から離れなかった。
――また僕を裏切るのか!
あれほど心に突き刺さった台詞はこれからも聞くことはないだろう。一度目は恋人を。二度目は本人を。もはや、生きて彼に顔向けできる日は来ないに違いない。いや、そもそもあの場から逃げ延びる可能性はゼロに近いだろう。
頭の中に、己の父親と母親の姿が何度も映された。誠実であった父、不誠実であった母。今の自分は他者からどう映るのか。確認するまでもない事実が何度も鏡面で反射されているようですらあった。
だが、それでも。
自分を癒してくれたマリサ。自分を裏切ったマリサ。そんな彼女を、俺は――
整理のつけられぬままマリサを追っていると、湖の畔に差し掛かった。いくつも漁用の船が止まっている。日差しがキラキラと水面を反射して、奥のプルトゥ渓谷と合わせて幻想的な空間を作り出していた。
マリサは、浅瀬で脚を膝まで浸した状態で俯いていた。
「ま、マリサ!」
「ホアン、さん」
女は悲壮な顔をはっとあげて、ホアンの姿を認識した。泣いていたのか目は腫れている。眦からつうっと雫が落ちていた。
「マリサ」
ホアンは靴が濡れることも忘れて走り寄った。頭の中の悔恨などはすべてが吹き飛んでいる。嫌がる彼女を無理やり抱き寄せた。
「や、やめてください! 離して!」
「俺にはわかるんだ! 君のその顔を見ただけで、後悔しているって。君はずっとそうだった。村人を殺したと嘆いていたのも、さっきの辛そうな顔も。俺は全部忘れてない!」
頭の中でマリサの表情がリフレインした。ずっと彼女をみていた。街の外について離すときに朗らかな表情、代官屋敷へ行くときの沈み切った表情、村人を殺してしまったと後悔する表情。そのどれもが、嘘には見えなかった。
「……そんなの、気のせいです」
「それならそれで良い。人は見たものだけを信じる。俺も、そうだってだけだ」
「でも」
「もう良いんだ!」
マリサの抵抗が弱まり、バシャバシャと響いていた水の音が去ってゆく。その小さな頭は、胸の中に収まっていた。
背中に腕を回しながら、キツく抱いた。優しい言葉を投げかける。
「これは悪い夢だ。君の言っていた街へ行こう。俺が案内するから」
「でも、私は夢魔で……汚れて、います。知っているでしょう。私は何人もの男の人に身を捧げて」
「そんなのいいさ。気にすることはない。だから、もう忘れよう。なにも言わなくていいんだ」
そう声を掛けると、マリサはうっうっと声を殺して泣きはじめた。静かに、しかし、寄り添い合う二人の姿は一輪の睡蓮のように儚く美しかった。
「ずっと、ずっと一緒にいよう。だから――」
「……」
――ありがとう。ホアンさん。
そう口が動いたように見えた。遅れて、腹の中が焼けたような感触を覚えた。
「えっ――」
喉に血泡が逆流してきた。贓物が沸騰したように熱い。一方で、視界が一気に閉ざされたような意識だけが残っていた。
足元から崩れ去ってゆく。
その眼には、血に濡れた手刀を掲げている女の姿が映っていた。
「どう、して――」
「え、あ、ご、ごめん、なさい。私、そんな、つもりじゃ」
マリサは顔面を蒼白にしたまま、血に濡れた手で顔を覆った。べったりと顔が血で彩られてゆく。霞む視界で、大粒の涙を零す彼女がやけに美しく思えた。
――つまらない三文芝居でしたね。マリサ、プルトゥ渓谷まで戻りなさい。
どこからともなく声が響いてくる。怨霊のような囁きだった。その言葉が発されてから、マリサの意に反して足が勝手に動きはじめた。
「いや、どうして、勝手に! ホアンさんがっ、ホアンさんを助けないと!」
マリサの気配が遠ざかってゆく。水面に漂うホアンには、それ以上の情報を拾うことは叶わなかった。身体の中の物が広がってゆく。辺りは、血で澱んでいった。
身体中が焼印でも押されたかのように痛む。敵は少なくとも二十斬った。背中、腕に数え切れない切傷をこさえ、出血を抑えるために傷口を焼いた。
それでもギリギリで切り抜けたアンヘルは、女を追って湖の畔にまでやってきていた。
バシャン、と腕が水に叩きつけられる音が鳴った。
それを見たとき感じたのは、怒りでも、失望でもなく、ただただ喪失感であった。
水をかき分け、目的に向かった。湖に咲く紅い華。美しく佇むそれは、どこか開放されたような朗らかさがあった。
その華の土手っ腹に痛々しく開けられた穴。白濁した瞳、微かに蠢いていた唇に掲げられた指先。彼の運命という名の星が流れたことを如実に示していた。
腰に差してあった剣が水の流れで足元にたどり着いた。血の揺蕩う中彷徨ってきたそれは、呪いのようでもあり、また、加護のようでもあった。
「……ホアン…………」
怒り、悲しみ、苛立ち。あらゆる感情が砂となり、崩れ去ってゆくようであった。湖風の創る流れが彼の身体を攫ってゆく。アンヘルは彼の身体を捕まえると、歪んだ視界でただただ声を殺した。
それから彼を背負った。水が傷に染みて涙が溢れる。アンヘルは小さく「召喚」と呟いて、シィールを呼び出した。
ゲートの中からくりっとした瞳が此方を見据えた。アンヘルはその頭を撫でる。いつもなら目を閉じて感じ入るシィールだが、今日は何も言わずに、ただ主人を見返した。
素朴なメロディーを聴いた気がした。それはいかなる奇跡か、召喚師の感応が作用した。シィールの魔力を通じ、背中に背負ったホアンの記憶が流れ込んできたのだ。世界はぼやけ、聞き覚えのない声が近くで聞こえ始めた。