イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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第十二話:ホアン・ロペス

 ――世界を良くする。それが、俺の贖罪だと決めたはずなのに。

 

 ホアン・ロペスは、トレラベーガ帝国南部オリアナ州衛星都市セグーラの街に生を受けた。

 

 幼少期の思い出は少ない。父親が鍛錬してくれたような記憶がぼんやりとあるだけだった。父親はほとんど家に帰らず、唯一の接点である鍛錬と云うのは帝国軍古来から脈々と続く伝統であるから、それほど印象的なものではない。巨木のような背中だったことしか覚えていなかった。

 

 時は流れて、十年あまり。

 

 士官学校に入学したホアンは、やるべきことを見失っていた。

 

 一種の受験病のようなもので、現代でも有名大学を目指し日夜勉学に励んだものの、いざ入学してみるとヴィジョンがなく、道を見失なってしまうのと似ている。彼の場合、士官学校の入学とは母からの逃避という意図も含まれていたから、この傾向は殊更強かった。

 

 その上、胸中に宿る強い強迫観念が善行を遂げよと囁けば、孤独のまま目標を探すことに拘泥するしかなかった。

 

 半期終え、すでに内部の派閥が固まりはじめたころである。前期の試験終わり、いくつもの長机が並ぶ教室にて同じ東方一刀流の剣客オウルに苦言を吐かれていた。

 

「なあ、ホアンよ。お前もさっさと身を寄せる場所を探したほうがいいぞ」

 

「わかっているさ」

 

 空返事のホアンにオウルは鼻を鳴らした。オウルとは入学以来同流ということもあって付き合いがあった。彼は能力を隠すような如才のなさを持ち合わせており、ホアンは密かに尊敬を抱いていた。

 

 一方、そのホアン自身は散々な学園生活であった。士官学校は殊更田舎者に厳しい環境で、その訛りや仕草にかけて揶揄するようなことが蔓延っていた。しかも、剣技だけなら真ん中程度の順位は有ったから目を付けられるのは早かった。

 

「あー、今日も上の級に扱かれていたが、動けるか?」

 

「ホント、大丈夫? ダメだったらコイツに言わせようか」

 

「おいエマ、コイツって俺はお前の召使いかよ」

 

「今回の試験、私が助けなかったらどうなったでしょうか? 今度は何も助けてあげないよぉーだ」

 

「うそうそ。本当、すみませんでしたエマ様」

 

「よろしい。下民のリカルド君」

 

「っておい、格下げかよ」

 

 上科の中でホアンを気にかけてくれた者が居ないではなかったが、その助けを借りはしなかった。入学当初、信頼していた人間に陥れられて以来、助けを求めることの難しさをその身に刻み込んでいたのだ。

 

 ――上科とは、蹴落とし合うことである。

 

 担当する教官が言った言葉だった。あのオスカルですら、真っ当な――殺人や暴行が含まれぬ駆け引き――争いならば容認していたのだから、上科が如何に厳しい環境であるかは明白だろう。

 

 身を守る為には派閥に属するということが必須だ。たった一人でいる人間など体の良い的そのものだった。

 

 うだつのあがらない劣等生としての日々。

 

 そんな生活が卒業まで続くはずだったのに――。

 

 救いの天使は唐突に現れてしまった。恐らくそれが、ホアンにとっての転機になってしまったのだろう。

 

 ある日、失意に暮れるホアンはある男の姿を見たのだ。

 

 世に渦巻く不満の種、蔓延する格差、貴族の横暴に絶望的な出世への道。ありとあらゆる物に権力の糸が見え隠れする。それを改善すると声高に上げたエルンストを見た時、我が意を得たり、と思った。平民派として勢力を拡大してゆく彼らに加わり、恵まれぬ人を救ってみせる。

 

 それこそ、時折凍りつくような目で此方を見張っているアンヘルへ残された赦しに思えたのだ。

 

「私に、できることは有りますか?」

 

「真摯な想いさえ有ればあとは何も必要じゃない。ホアン・ロペス。君の志を心から歓迎する」

 

 エルンストの勢力は脆弱で大した影響力を持てずにいたが、徐々に世論が傾いてゆくとこちら側につく人間が居ないではなかった。

 

 大きかったのは、シュタール家ら法務系の貴族がこぞって平民派に傾いたことだろうか。行政官族と門閥派の溝が深まると一気に二極化したのだ。よって、エルンストはそれまで実家の支援を得られずにいたが、一気に勢力を強めてゆくことになる。

 

 さらにロウウィート事件以降、親門閥派であった五大貴族、佐皇派も静観を決め込み、一気に情勢はわからなくなった。

 

 チャンスだ。ホアンはそう息巻いていたのだが――

 

「どうしてでありますか、エルンストさま! すでに仲間は大勢集まりました。あのような非道を繰り返す聖カトー騎士団の連中を放ってはおけません!」

 

「何度も言ったはずだ! 手段を誤った正義に結果はついてこない。間違った手段によって齎されるのは、歪んだ現実だけだとなぜわからない」

 

「私には、エルンストさまの仰ることが弱腰に映ります! オスカル教官が聖カトー騎士団の手によって殺されたのは明白。その上、元老院はその行為を庇いだてしています。断じて許される行為ではありません!」

 

「くどいぞ! 俺たちの方針は変わらない。元老院に対して陳情を出すだけに留める」

 

 オスカル教官の死。それは大きなニュースとなって流れた。付随する聖カトー騎士団の非道や剣客モルドレッド公の行った悪鬼そのものな残虐行為が衆目に晒されたのも大きかった。

 

 さらにホアンの心を抉ったのは、それらを正した志士たちに下された屈辱極まりない沙汰であった。

 

 オスカル教官殺害を目論んだ団長および幹部暗殺事件。巷ではロウウィート事件と呼称される事件において、元老院は天誅を下した勢力への見せしめとして人事介入を行い、平民派の多い西方軍の幹部から名の知れた人間まで尽く飛ばして見せたのだ。

 

 それに激怒した帝国西方軍の一部将軍はアッグア領にて蜂起するも、全戦力を集中させた門閥派によって殲滅、解体され、将軍は斬首の刑に処された。

 

 ――これの何処が正義だというのだ。

 

 エルンストさまには、正義や理想はあっても、それを実行する手段を持ち合わせていない。そんな思いが沸々と湧き上がってくる。

 

 救わなければならない。成さねばならない。遂げねばならない。そんなやり切れない憤りだけが渦巻いていた。

 

 ならば、どうする。

 

 ホアンはそう思いながら、東方一刀流道場で剣を振っていた。士官学校で真剣に訓練すればやっかまれる。ただひとり、そんな感情で腕を磨いているとき、壁に体重を預けながら腕を組むオウルが言ったのだ。

 

「なあ、ホアン。お前も限界を感じてるんじゃないか」

 

「何がだ」

 

「シュタール様よ。あの人は立派だが所詮は貴族。俺たちのような地を這う者たちの気持ちに寄り添ったりはできやしないのさ」

 

「……黙れ」

 

「お前も薄々気づいているだろ? ユースタスのクソ野郎にはいつも『いつか必ず』だ。馬鹿げているよな。いつかが来るか分からねえ奴も居るっていうのに」

 

「……」

 

 オウルは元々ホアンより先にエルンスト派へ属していたが、その過激思考からすでに離名している。最近は三都東方流という、剣よりも国学を優先した分流と付き合っていることを、風の便りで聞いていた。

 

 ホアンは俯きながら、相手の真意を確かめた。

 

「どうすればいい?」

 

「俺がフランシス先生に話を通してやる。お前は東方一刀流でも中々の腕だ。歓迎されるだろう」

 

 数日後、街の商業区の宿で会ったのは五回生や四回生に囲まれたフランシスという候補生であった。

 

「フランシス先生。こいつが同級のホアン・ロペスです。剣ならば二回生でもそうそう敵う奴は」

 

「そうですか」

 

 頷いたフランシスは優しげな双眸ではあったが、その奥には強い光が渦巻いていた。

 

「ロペス候補生。あなたの志、信じてもよろしいのですね」

 

「はい。たとえこの身が朽ちようとも帝国の為働く所存です」

 

「結構。あなたに任せたい仕事があります」

 

 幾ばくかの期間を置いた後、ホアンは「救国」実働部隊の隊長となって現地に赴いていた。

 

 晩夏の真夜中である。吹き荒ぶ横風に霧雨が傾き、時期外れの寒波もあって半袖のシャツでは肌寒い日であった。

 

 黒のフードにコート。その中もそこらの仕立て屋で揃えた麻の上下で揃え、靴も軍用ではない革靴にした。

 

 行政区元老院議会議事堂からもっとも近い料亭「蘭月」の出入り口がはっきり確認できる狭い路地の軒下で、ホアンは救国に志を捧げる同志たち七名に対し、静かに息巻いていた。

 

「これから行うは正義の剣。悪虐非道の徒である元老院貴族リエル・ローフォルを膺懲する。今此処に至って、気後れしたと申す者はいないな」

 

 其処此処から、おう、と短く答えが返ってくる。それを聞くと、厳しい目つきのまま灯りの灯る窓を眺めた。

 

「そろそろ、だな。此処からわかるか?」

 

「はい。暗くてわかりにくいですが、あの紋様は間違いなくローフォル家の者です」

 

 玄関先に馬車が付けられそれに店の者に見送られながら乗り込んだ男の身元を、仲間の目利きが断定した。

 

 御者が馬車に乗り込み、出発しようとしている。護衛たちも数人居るが、時間もあってかそれほど警戒しているようには見えない。作戦決行の時である。

 

「自由、平等、忠国しからずんば死を。我らを虐げる国賊共に天の裁きを」

 

「天の裁きを!」

 

 ホアンたちは一斉に覆面を被ると、バッと軒下から飛びでた。

 

 予定通り妨害魔道具を起動する。その波動によって相手側も勘づくが、突如として発生した戦いに相手も戸惑っていた。

 

 瞬く間に仲間が護衛三人を斬った。それで勝負は七対三。御者とローフォルは大した腕を持たないと聞いていたから、残りは筆頭護衛の男だけである。

 

 が、さすがに事態を把握した護衛の力量は大したもので、実質一人にもかかわらずたった一振りでこちらの戦力を半減させた。

 

「何者だ、貴様ら! 此方のお方を何方と心得る!」

 

「逆賊には神罰あるのみ!」

 

 こちらの戦力は三人が候補生。残りの四人が兵卒教練を受ける東方流の剣客である。そのどれもが、たった一太刀で三人を屍に変えた相手の実力に慄いている。この流れを変えるのは自分だと一人で踏み込んだ。

 

「き、きさま」

 

 その時にはじめて人を斬った。手にこびりつく嫌な感触、血の匂いに死した後の苦悶の表情。すべてが鮮明に記憶されている。紙一重で相手の剣を躱すと、ホアンの剣は相手の首を正確に切り裂いていた。

 

 どさりと崩れ落ちる護衛。その死体を睥睨しながら、ローフェルに歩み寄る。

 

「や、やめてくれ。頼む! 金なら、金ならいくらでも恵んでやる。待て、もしかして女か! そう、最近亜人どもをダース単位で奴隷にした。屋敷へ戻ればすぐにくれてやるから――」

 

「口を開くな、この外道が」

 

 後退る男の額を真っ向から叩き割った。二度目の殺しに大きな忌避感はなかった。

 

 後日。ホアンは数日の潜伏を経てフランシスに呼び出されていた。

 

「よくやってくれましたね。貴方には今後より大きな仕事を任せたいと思います」

 

「ご期待に添えるよう、努力してゆく所存であります」

 

 フランシス先生、と媚び諂いながらもホアンには彼に対する敬愛など持ちえなかった。過去の主人と違ってどこか驕奢な面があり、軍資金を懐に入れていることを知っていた。彼も人間だから多少の贅沢をするなとは言わないが、どこか志の低さが透けてしまうと、軽蔑が膨れ上がるのは仕方なかった。

 

 それでもはじめての「救国」で得たものは大きかった。闘死三名、重症一名を出したが、筆頭護衛を倒した実力は大いに評価され、平民派倒院論者ではかなりの地位を得た。だけでなく、ホアンの心衷にあったのは確かな実感である。

 

「おい、聞いたか? ローフェル議員が死んだらしいぜ」

 

「ああ、結構悪どいやつだったんだろ。大きな声では言えないけど自業自得ってやつだろな」

 

「しっかし、奴の荘園で働いてた奴は本当にラッキーとしか言いようがねえよ。後見は割とおおらかだって噂だし、天罰だな、こりゃ」

 

「言えてるぜ」

 

 そんな会話が平民出身の候補生から囁かれるようになり、心の中で燻っていた感情が一気に解放されたような気分になった。

 

 ――見ていてください、エルンストさま。私の手で貴方の理想を実現してみせましょう。

 

 それから一月。「救国」実働部隊の勇名はオスゼリアス中に響き渡った。

 

 晩夏に一件。初秋に二件。どれも警護の険しい中実行された。その尽くが紙一重だったが、すべての凶刃をくぐり抜けあらゆる敵に罰を加えた。

 

 このとき、ホアンの中では、世を良くしているという快感が膨れ上がっていた。敵を撃ち倒すと世界が浄化されているような気分になるのである。それは本当のところ、自分が汚れていくことによる罪の意識の希釈化だったのかもしれないが、当時の彼には知るよしもなかった。

 

 絶頂期にあったホアンだったが、それはほんの短い間。いうならば儚い夢であった。

 

「ホアン君、君は少し過激ではないかね」

 

 ある日、いつもの料亭でフランシスは唐突にいった。

 

「フランシス先生。それはどのような……」

 

「そのままの意味だよ。君のやり方は急進的すぎる。ここ一月の間に三件。我らにも計画があるのだ。少し控えたまえ」

 

 横に並ぶオウルも深く頷いている。したり顔で揃って戯言をほざく二人にホアンは激昂した。

 

「どうしてです! 彼らのやり方は極悪そのもの。一時の間身を隠して居ても、脅威が去ったと知れば再び暴虐を尽くします。今ここで、膿をすべて取り除かねば――」

 

「聞こえなかったか? これは、代表であるフランシス先生のお言葉だ。君のような一候補生が口を挟んで良い問題ではない」

 

「オウル同士の言う通りです。我々には深遠なる計画があります。我々への嫌疑も深まっており、日夜警邏が厳しくなる様子。ここは同意して頂きます」

 

 周りには屈強な東方流の剣士が控えており、その場で反論することの愚かさを理解していたホアンは引き下がった。しかし、その失意はエルンスト派閥にいた頃よりも殊更大きいものであった。

 

「なぜだ! なぜ皆わからない! 今ここで悪の根源を取り除かなければ、国は根本から腐りきってしまうというのに!」

 

 その夜、そう喚き散らしながら枕を濡らして、疲れ果てて寝た。それが幾夜も続いた。真っ暗な闇の世界でホアンは、ただ一人こんなことをしている場合ではないと叫び続けた。

 

 そんな嘆きにも疲れたある日。自分は必要とされていないと知ってもなお、なにか下仕事でもしようとフランシスを訪ねた。

 

「不肖の身ではありますが、身を新たにして働く所存であります」

 

「構いませんよ。貴方の実力であれば、できることはいくらでもあります」

 

 屈辱ではあったが、フランシスに頭を下げたあと部屋を辞した。帰り際である。今後の方針をオウルに相談したかったため引き返した。そこでオウルとフランシスの密談を聞いてしまった。

 

「さすがフランシス先生。まさか、あのじゃじゃ馬のホアンを腑抜けにするとは」

 

「いえいえ、貴方も中々信頼されている様子。見ましたか、否定された時の顔。絶望の色がありありと見えました」

 

「傑作でありますな。そしてホアンのお陰で平民派の勢いは増すばかり。先生はなんの労力なく志士を集められた」

 

「ふふふ。あの男の実績が大き過ぎるのは懸念の種でしたが、まさかああも容易く押さえつけられるとは。雑用をさせるには、惜しかったかもしれませんね」

 

「っははは」

 

 その会話を聞いた時、心中にあったのはあらゆる失望だった。

 

「くそ、くそっ。何が救国だ! 神罰だ!」

 

 ホアンは寮の家具すべてを叩き割りながら、そう叫び続けた。髪はあまりの荒れ様にボサボサになり、目は刃のように鋭くなっていた。

 

「馬鹿にしやがって! これが貴様らの本性だ!」

 

 本当のところ、フランシスたちには遠大なる計画が存在し、その破綻を恐れてホアンを封じ込めた可能性もある。だが、彼らの行動原理にはホアンの日増しに高まる名声に嫉妬したようにしか思えなかった。

 

 ここで反逆することもできただろう。だが、「救国」実行部隊隊長を解任され、指南役に任ぜられた今勝機はなかった。それからは本当に平民派なのかもわからない志持たぬ候補生を相手にした。

 

「平民派に入った理由ですか? オウル隊長に憧れたからですね。すごいですよね。平民なのに一科でも上位に食い込んで」

「俺は単にいい派閥だと思ったからです。貴族は嫌いだし、なにより平民で固まれる。居心地も悪くないですよ」

「自分は友人に勧められました。友人の言う通り訓練もちゃんとあっていい感じです」

 

 ――馬鹿にしているのか、貴様らは。

 

 怒鳴りつけなかった自分を心底褒めたい気分だった。どいつもこいつも大した志を持たぬ連中ばかりで、挙げ句の果てには勧められたから入ったと抜かすような輩が紛れ込んでいる始末である。

 

 これなら兵卒教練科のほうが骨のある連中だ。たとえ実力で上回っていたとしても、コイツらには夢も理想もない。ただ楽だから入っているだけだ。

 

 そんな加盟者にいい顔をして、裏では加盟費で豪遊を繰り返すフランシスたちも。

 

 相変わらず陳情や裁判ばかりに傾倒して、大して国を正す気配も見せないエルンストたちも。

 

 そして、結局なにも変えられない自分も。

 

 なにもかもが嫌になった。すべてを投げ出して故郷に帰りたい。そう何度も思う度、どこからか凍てつくような目を感じて踏みとどまるのだ。

 

 ――だが、おれはもう。

 

「迷っているのみたいですね?」

 

「あ、ああ、いや別に何もないよ」

 

「誤魔化さないでください。ここには、私たちしか居ないのですから」

 

 日が暮れた夜。ホアンはマリサ邸で夕食後のひと時を楽しんでいた。

 

 マリサから茶の入ったカップを受け取り、ゆっくり飲んだ。真正面には両手を組んで座る彼女が映る。優しくそっと微笑んでいた。

 

「勘弁してくれ」

 

「ダメですよ。折角の機会なんですから」

 

 此方が拒否の姿勢を示すとすぐ引き返すマリサだが、この時の様子は変だった。仕方なく、ポツリと本音を漏らした。

 

「俺は、こんなに遠い所に来てしまったんだなって」

 

「ふふ、なんですか。それ」

 

「いや、悪い。なんでもないよ」

 

 頭を振りながらそういった。こんなところだけは見せられない。そうやって意識を切り替えようとすると、マリサが唐突に立ち上がって背中を向けた。

 

「私にはホアンさんの悩みをわかってあげられません。ですけど、助言はできるかもしれません。

 こんな話があります。女は現実を見るもの、男は夢を追うもの。そう言いますよね」

 

「あ、ああ」

 

 マリサはくるっと振り返った。

 

「私はこんな話信じていません。女だって夢を見るし、男だって現実を見ます。結局、人の性格は生まれ育った場所がでます。けど――」

 

「けど、どうした?」

 

「お母さんが言ってました。子供は、そういう風に教育するべきだって。女の子には現実を、男の子には夢を追わせるのが大成への第一歩だと」

 

「俺が、子供だと言いたいのか?」

 

「違います。私はただ――初心に帰るべきだと言いたいんです。最初の目標、最初の夢。誰かを倒したかった、誰かに勝ちたかった、誰かになりたかった。なんでもいいんです。軍人さんになってやろうとした夢、いいえ、違いますね。軍人さんになろうと思った最初の理由は何なんですか?」

 

「それは」

 

「男の子には夢を追わせよ――子供の頃のちっぽけで、でも巨大な夢。それがはっきりすれば、悩みは晴れるかもしれませんよ?」

 

 彼女がはじめて長丁場で喋ったから、よく覚えていた。

 

 帰り道でなんども反響した。それから何度も事件が起きて、考える時間はなかったけれども。じっくり考える時間があれば、なんとなく頭の中に浮かび上がってくる。

 

 この世を良くするために、平民派の穏健派や過激派を放浪し、救国という手段に手を染めたのか。

 

 ――いや、違う。

 

 軍人として、出世コースを歩むために努力したのか。

 

 ――いや、違う。

 

 剣術は、おもしろいから学んだのか。

 

 ――いや、違う。

 

 全部違う。持っているものはすべてまやかし。欲しかったものは、すべて手のひらから溢れていった。自分の悍ましくて浅ましい性格ゆえに。

 

 本当は、ただ――

 

「ただ、なんなんですか?」

 

 記憶にもない言葉を誰かが紡ぐ。それは、マリサなのかも知れないし、マカレナなのかも知れない。いや、それ以外の誰かなのかも知れない。

 

「……俺は、誰かと……いや、誰かに認めて欲しかったんだよ」

 

「貴方のことを皆認めなかったんですか?」

 

 女がゆっくりと尋ねる。無邪気な質問が弾劾に聞こえた。

 

「認められていた。認めてくれていたさ。けど、俺がぶち壊したんだ。全部!」

 

 アンヘルは尊敬してくれていたと思う。剣を教えたのも、街を教えたのも自分だし、そもそも仲が悪くなるような原因はなかった。あれさえ起こさなければ、楽しい毎日が送れた筈だった。

 

 エルンストには目を掛けられていたように思う。後から参加した身ながら、かなり優遇されていた。その優遇を当然のことと受容し、さらに求めた。正義を掲げ、正当な手段を持ってして世を正そうとする清洌な願いそのものを、真っ向から否定して。

 

 そして、母親である。嫌いだった。顔すら見たくないと思う。だというのに、懐かしくてたまらない。母は裏切ったという自覚があったのだろうか。しかし、自分はそれを気にも留めず責め続けた。針の筵だったろうによく耐えたものだ。母は同じ家庭で永遠と耐えた。自分はアンヘルの眼差しに二年持たなかったというのに。

 

 胡乱げな瞳で天を眺める。憎らしいほど美しい大空だ。白い雲、傾いた日。あらゆるものが美しい。答えはすぐそこにある。欲しいものは此処にあったのだ。

 

 家族、恋人、友人そしてたわいない日常。

 

 それこそが、本当に自分が欲した何かなのだ。

 

 それさえ知っていれば、間違えなかった筈なのに。

 

 ふと、強い風がながれる。渓谷の風情のない風だ。水面というこの世を短い間たゆたう己にとって、もっとも許せないなにかに思えた。

 

 視界の端に、ぼろぼろの擦り切れた服を纏った男が写った。火傷のあとも窺えるが、すでに視界は靄がかかって人相を確認することもできない。だが、なんとなく自分が知っている男であることはわかっていた。

 

 最後の力を振り絞って、プルトゥ渓谷を指指す。少しばかり笑いが込み上げてきた。醜い自分だと思っていたが、最後となれば人は変われるのか。すでに表情筋は動かないし、喉は朽ちたが、たしかに笑い声を上げた。

 

「……あ……っちだ」

 

 俺は先に行くよ。ダメなやつで済まなかったな。

 

 お前は、しくじるなよ。そんなこと、言われなくてもわかってるかもしれないけど。

 

 あと、エルンストさまも助けてやってくれ。あの人を嫌っているのは知ってる。けど、悪い人じゃないんだ。だから。

 

 ――さよならだ、アンヘル。

 

 

 

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