10回。
アンヘル達が塔の内部に挑み、そして敗走した回数である。
塔の内部は外観より意外に小綺麗で、モンスターが住み着いているとは思えなかった。日の光が届かず、松明を用いてなんとか一寸先が見えるほどの暗闇であったが、道は平坦であり、ふたりにとっては森よりも余程戦いやすい空間といえた。
彼らを阻んだのはモンスターである。といっても、強烈に強くなったわけではなかった。多少の戦闘能力の違いが外部と内部で生じていたかもしれないが、彼らはその違いを感じ取れなかった。
変化したのは数である。戦いにおいて勝利を決定づける因子の最たるものは、この異郷の地においても数であった。それは、モンスター達の魔窟たる『塔』においては覆せないことであった。
しかし、ただ手をこまねいていたわけではない。アンヘル達は内部に挑戦する1ヵ月あまりの間に、多くの力を得た。中でも、大きく変化したのは、装備の充実と彼ら自身の成長であった。
防具は非常に重要である。
農村から出てきたままの装いで、探索に行くにはさまざまな困難がある。石や木々に引っかかるだけで簡単に出血し、まったく衝撃を吸収しない麻の服では本格的な攻略は不可能だとふたりは判断した。そこで、有り金のほとんどを投入し、全身をすっぽり覆う皮の服を手に入れたのであった。小型モンスターしか存在しない『塔』においては、石の投擲魔法が最も恐ろしい攻撃であるため、頭部さえ防護すれば苦戦してきた戦闘もなんとかなった。
そして、とりわけ精神面の向上は著しかった。
ダンジョンにおいては、そこに満ちる力によって来訪者の強化が行われるが、たった1ヵ月程度ではふたりに劇的な進化が進むことはない。強いて言えば、同年代の農民よりも筋力や持久力が上回り、戦士としての一歩を踏み出し始めたといったところである。
それは技量についても同じである。誰の師事も受けず、独力で攻略を続けてきた彼らにとって、効果的に技芸や腕前を体得することは不可能である。
変化したのは精神面。とりわけ戦闘への忌避感と攻撃に対する恐怖心の欠如が進み、一般人よりもはるかに荒事へ精通していった。そのため、相手に対して躊躇せず突っ込み、容易に敵を討ち
しかし、同時に戦闘経験が増したことによって戦況を冷静に判断でき、相手との戦力差が鮮明に把握可能となったため、数の差による被害把握が可能となってしまったのだ。
被害を無視すれば戦闘に勝利することは、決して不可能ではない。数が増えたといっても、所詮『ぶるぶる不思議最弱雑魚モンスター』集団である。有効な攻撃方法は突撃ぐらいであり、武器で防御することはなんら難しくない。
それでも、ふたりが強攻しなかったのはリスク管理を考えたからであった。万が一大怪我をしてしまった場合、ふたりには何のリカバリー手段が存在しない。そして、怪我で仕事ができない体になった場合、飢え死にが待っている。アンヘルは生来の臆病な面から、ホセは意外にも合理的で機知に富んだ思考から、冷静に判断し、撤退という道を選択していた。
継続して攻略を続けられた最大の要因は、新たな力――アンヘルに岩球を投げつけた獣『グリーンカーバンクル』が仲間に加わったことである。敵対していた当初感じていた小面憎い『リーン』――アンヘル命名も、配下として収まれば、愛くるしさの溢れた可愛いやつであった。
アンヘルたちを散々苦しめたリーンの魔法の力は、防具を持たない人間には多大な痛みを与えるが、毛皮や身体を強化するモンスターには無意味であった。しかし、リーンはそれとは別に優れた力を持っていた。『癒しの光』である。一日に何度も使用できるわけではないが、その癒しの力は軽傷に対しては大きな力を発揮した。小さな傷は日々絶えなかったが、リーンを使えば次の日には元気になる。長期に渡る探索を支えた大きな要因のひとつであった。
ホセに召喚士の能力を隠していることに対してうしろめたさを覚えないと言えば嘘であったが、アンヘルはもはや意固地となっていた。ホセは一番の友人――そもそも友人と呼べるほどの人物は他にいないが、商人の言葉から中々に言い出せないのであった。そのうえ、実質的な召喚士としての能力はホセに対して寄与していた。シィールの魚取り能力は勿論のこと、リーンの癒しの力も、ホセが眠った後使用すれば良かったのである。アンヘルは嘘をついていることに申し訳なさを感じていたが、召喚能力の恩恵を与えていたためその感情はしだいに相殺されていったのであった。
さまざまな要因から成長を遂げ、安定して塔の前の門番どもを排除可能となり、金には幾ばくかの余裕があった。一度の探索において、町民の日給よりも少し高い額を受け取る事ができていた。当然ながら、連日探索を行うことは体力面から考えても不可能であり、気候や準備の関係からも難しい。
よって、数日に一度のペースで仕事につくふたりには、十分な金があるとは言えなかったが、それでも上京してきた農民よりは安定した生活を送れていた。
そんな最中、11回目の挑戦でホセは言ったのだった。
「……人、ふやすかぁ」
それは、たったふたりの探索に限界を感じ始めていた気持ちの吐露であった。
ホセは、探索に出ない間、瞬く間につくった友人――アンヘルは話で聞いただけで会ったことはない、と飲む打つで時間を潰していたが、それにも半月ほどで飽き街で仕事を探すようになっていた。そして、その探索者としての能力を生かし、街で用心棒の助っ人を何度か引き受けている様子だった。
ホセは常々、ビッグになりたいと大成願望を覗かせていた。アンヘルは、この願いを探索者として成功したいとおもっていたが、それは勘違いであることに漸く気が付いた。ホセは、どんな手段であったとしても成り上がることを目的としていたのだった。
されど、用心棒稼業は中々に難易度が高かった。金の取り立てや酒場の護衛には、実力よりも相手が手を控えるほどの見た目が肝要である。『塔』への探索に赴き、街で暮らす住人とは格別したほどの実力を備えているホセだったが、その風貌は唯の子供である。どれほど実力があろうとホセでは不十分であった。
そこで、ホセは組織に重宝されるよう、仕事のない農民上がりの若者を集ってグループを作ろうとしていた。そのために、子分を抱え込む資金が必要であり、金を集めたがっていた。そこから出た言葉だった。
ホセは、街から帰った次の日アンヘルに最低ひとりの仲間を探すように言いつけ、出かけていったのだった。
「……新しい仲間なんて、いないよぉ」
そういってうなだれる。アンヘルはホセが倉庫を出ていった後、口入れ屋に来ていた。
「……おいおい、いきなり来て飲んだくれるたぁ、いい度胸じゃねえかよ」
呆れたような口調でゴルカは言った。その言葉の中には、出会った当初に含まれていた嘲りはなかった。
アンヘルはナタリアや町民からの視線から学び、服装の重要性に気づいていた。人口の多い都市においては、村とは異なり出会う人すべて覚えることは難しい。彼らが、何によって農村出身者を迫害しているかといえば、それは服装である。
簡潔に言えば、アンヘルのみすぼらしい出で立ちをみて、町民は差別していたのである。魚で食費をカバーできるアンヘルは、その余裕を使って、普段着とは別の外行きの衣裳を仕立てたのであった。その効果は抜群で、普通の農民とは違い、教養のあるアンヘルの立ち振る舞いは、顔以外はいいところの坊ちゃんのようであった。
また、アンヘル達は農民出にしては稀なほど、探索者稼業をこなしていた。通常の人間であれば、力仕事と同じ報酬の命懸けの仕事を続ける事はできないが、若さと勢いで1ヵ月もの間継続していたのだ。そのため、口入れ屋の連中からは根性のあるやつとして、仲間と認められ始めていた。
――それなら、見習いにしてほしいとは思うが……。
「でもさぁ」
「でももクソもねぇよ、しかも酒じゃなくフルーツ水とはなぁ。てめぇも男なら、酒飲んで売り上げに貢献しやがれ」
「はぁ。……おかわり」
そう言って、アンヘルはフルーツ水を頼む。ゴルカは呆れながらも、空になったカップへ注いだ。
「で、なんで悩んでんだ?」
「流石にふたりじゃ、進むのが厳しくて……。人を増やしたいんだけど……」
ゴルカは頷いて、納得の表情を浮かべた。
「まぁ、そうかもな。……大体の連中は5、6人で組んで仕事するからなぁ。いくら『塔』とはいえ、ふたりじゃ苦しいだろなぁ」
そういって、ゴルカは就業時間にもかかわらず酒をついで飲み始めた。彼とは、近頃飲みあう仲となっていた。
ホセが街にいる間新しい仕事を探したように、アンヘルも時間を潰すためいくつか試したことがあった。
まずは、武術である。道場に見学へいったのである。アンヘルは、道場で見た光景を中々忘れることはできなかった。しかし、通う金などありはしない。よって、物陰からコッソリと様子を伺い、基礎技術らしきものを持ち帰って鍛錬した。身体を動かすのは嫌いでなかったし、博打や酒に興味を持てないアンヘルには十二分に娯楽となった。正確な指導を受けている訳ではなかったので、意味があったかわからなかったが。
しかし、一日中身体をいじめるのは精神的、体力的に無理があった。打ち合う相手もいないのだから当然である。そこで、無聊を慰めるため口入れ屋に通い、情報を仕入れることにした。当然、見習いでもないアンヘルに、金に直結する仕事の情報を与える者など存在しない。それでも、気のいい探索者達は、アンヘルの塔における研鑽に対して感心を示し、アドバイスをおくったのであった。
縁故とはどの時代においても、大きな力を持っていたのであった。
ゴルカはどんな時も店に詰めている関係上、アンヘルとよく顔を合わせ、仲良くなったのであった。
「いいことなんじゃあねえの、先の事を考えるならよぉ」
「それは、そうなんだけど……」
「なら、何が問題だってんだ?」
「いや、その……」
悩みを告白するには勇気がいった。まるで友達がいないことを告げるみたいであった。実際に、ホセとゴルカ以外で気安く会話できる友人はいなかったが。
「えっと、その。ひとり仲間を探さなきゃいけなくて……。それで」
「そんなの、そこら辺の農村から来てるやつらをひっぱりゃいいだろうがよ。少しくらいいるだろが、知り合いがよ」
「え、ええっと」
そうなのである。多くの農村から来た住民の多くは、彼ら同士でコミュニティを作り、情報交換や仕事の斡旋まで行っているのである。それは、街から白眼視される弱者の防衛行動の一種であるのかもしれなかったが、人見知りの激しいアンヘルはコミュニティに参加したことがなかった。
アンヘルが彼らを頼らずとも独力で生活可能だったことが、人間関係を狭めさせてしまった要因でもあったが。
「いや、その……知り合いが、いなくて……」
「はぁ!? もう街に来てから1か月近く経つだろうが! いままで何してやがった?」
「そ、そうなんだけど……、いなくて」
アンヘルは顔から火が出そうなほど赤くなった。身体がぎゅっと縮こまった。
「おまえぇ……。一ヵ月で知り合いがいないって、やばすぎだろぉが。もしかしてまともに喋れる奴なんて俺以外いねぇのか?」
「い、いや、そんなことは……」
「なんだぁ? マジで大丈夫かよ。そんなんじゃ生きていけねぇぜ」
そうやって説教する体勢にゴルカは入る。酒が進むと、こうやって講釈を垂れるのがゴルカの癖だった。
「そんなんじゃよぉ、女なんて一生できねぇよ。いいぜぇ、女の肉ってやつはよぉ。ジュースなんて飲んでやがる、お子様のお前にゃ分からんだろうがな」
「別に、酒が嫌いって訳じゃないよ。好きじゃないだけで……」
「そういうとこが、ガキだってんだよ。まあ、お前にゃ気になる女なんていねぇんだろうが。――俺がお前ぐらいんときゃよ、自慢の棒でそこらの女どもを突いてヨガらせたもんだったがなぁ。もったいねぇぜ、いまヤっとかなきゃよ」
そういってポンポンと馬鹿にするように背中を叩く。
「ぼ、僕だって気になる子ぐらいいるさっ」
ちょっと頭に来て、アンヘルは言わなくてよいことを返してしまう。アンヘルのその返答が気に入ったのか、ゴルカは興味津々といった様子を見せた。
「へぇ、どこのだれだい?」
「え、いや、その……」
「おぃ!? 男だろ、さっさと言いやがれ」
背中を叩いて急かしてくる。
「その。その、『菜の花亭』の、ナタリア、さん……」
勇気をふり絞って言った。友達がいない告白よりもさらに恥ずかしかった。今日はまちがいなく厄日だった。
ゴルカはアンヘルの返答に一瞬ぽかんとした後、大爆笑した。ゴルカは腹を抱えて笑う。ガランとした店内にゴルカの野太い笑い声が響き渡る。目に涙を浮かべながら苦しんでいた。
「な、なにが、おかしいんだよ!?」
「はっはっ! いやあ、悪い悪い」
口では謝罪しながらもその顔には笑いが乗っていた。彼はなんとかこらえながら、神妙な顔を無理やり作り続きを言った。
「なぁ、悪いことはいわねぇからやめとけって。どーせ無理だからよ。ナタリアちゃんっていえば、ここらのアイドルだしよ。なんでも、この街の騎士様が求婚したって噂もあるくらいだぜ。お前なんかが相手にしてもらえるわけねぇよ」
アンヘルは否定されたのに腹がたって言い返す。
「で、でも、店に行ったら色々喋ってくれるし……」
「かあぁ! これだから、ガキはよぉ。そんなン、トークに決まってんだろ、営業トークによぉ」
「そ、そんなの、見てないゴルカには分かりっこないじゃない!!」
「いいや! わかるね。そんなの、店の酌婦じゃ普通のことだぜぇ。それに、ナタリアちゃんがお前ぇみたいなナヨナヨ好きになるなんざぁ、天地がひっくり返ったってありえねぇ! 俺みたいな男らしい奴なら、惚れるかもしんねぇがよ」
「う、う、うるさい! ナタリアさんはそんな人じゃない」
机をバンと叩いて立ち上がる。飲んでもないのに、アンヘルの顔は真っ赤だ。ゴルカはおもしろそうにおちょくってくる。
「まぁ、なんにしてもおめぇみてぇな短小野郎じゃナタリアちゃんは振り向きもしねぇさ。ほら、悪かったよ、今度いい女がいる店に連れてってやっからよ」
ゴルカはからかいながらも慰めてくるが、アンヘルは収まりがつかなかった。懐から金をとりだすと「お勘定」と言いながら机に叩きつけ、店を出ていく。アンヘルの背後からは、楽しそうな声で「まいどー」と声が聞こえた。
クソと地面を蹴る。
通りは人通りが多く、騒然としていた。頭を冷やしながら、周囲を物色する。
――そんなのさ、わかってるんだよなぁ。高嶺の花だってことはさぁ……。
ナタリアは誰が見ても垢ぬけた容姿をしている。健康的に焼けた小麦色の細い手足、なだらかな撫で肩は落ち着いた印象を思わせるが、快活な笑顔がその印象を反転させる。その整った容貌は、綺麗どころが揃っている【菜の花亭】においても抜きん出ていた。肉感的に十分とはいえない体つきなので好みでない男性もいるだろうが、毛も生えそろったばかりのアンヘルにとっては気にならない要素であった。
そのうえ、彼女は向日葵のように明るい性格をしていた。アンヘル達よそ者はときに差別を受ける。生活や服装の基盤を整えた今でこそ、差別を受けることは減っていたが、浮草稼業を続けるアンヘルを排除する風潮はある。それを理性で抑えながらも見え隠れする偏見の目も同じだ。しかし、最初から無縁でいることのできる場合もあった。稀にしか見かけられないが、アンヘルにとって彼女はそんな存在であった。
ナタリアに会うことはアンヘルにとって、最大の楽しみとなっていたのだ。少々チャンスを夢見るのは、年頃の少年にとって致し方のない。
ぶつぶつと呟きながらも、その足取りに迷いはない。勝手知った風に街を歩いてく。ひと月も経ち、お上りさん全開行動はなくなり、街に完全に溶け込んでいた。探検雑貨を販売している行きつけ店の中年女性が、アンヘルに気づいて声をかけてくる。アンヘルは、彼女にちょっとした世間話を返し、通りを歩く。
会話によって冷静になったアンヘルは、これからどうしするか考える。
――店に行こうかなぁ。けど、まだ早いしなぁ……。
【菜の花亭】の開店は日が暮れてからである。まだ、日も高いためアンヘルは手持無沙汰になった。ふと、なんとなく店の間の路地裏を見た。
そこにはふたりの男がいた。
ピタリと寄り添っている
ふたりは誤解の余地がないほど、寄り添って身体をまさぐっている。そして腕を絡ませながら、互いの股間のふくらみを蛇のように掴んだ。奥まった場所で行為に及んでおり、他の人は気づかない様子である。
アンヘルはギョッとして、立ち止まった。まさに常軌を逸していた。あまりの光景に、アンヘルの純朴な精神はガラスのように砕け散りそうであった。
「いけない。ヘッド、こんなとこじゃ。あっ」
「そんなことを言って。ここはこんなに固くなっているぞ。ほら……」
ヘッドと言われた男は、夏に差し掛かろうかといった暑さの中、荒く呼吸しながらリンヘルの唇をベロベロ舐め始めた。ヘッドの二股でわれたような醜く長い舌は頬を経由し、耳へ辿り着く。ネチャネチャと粘ったような湿った幻聴が頭に注がれた気がした。
若い男は、その大きな身体に似合わない手つきで、その瞳を蕩けさせながら相手の起立を丹念に撫で上げる。両者の下半身は卑猥に蠢いていた。
――えぇええ! うそでしょ!?
アンヘルはそう叫びだしたいのを我慢しながら、神がもしいるならこの場に現れて、奴らに神罰を与えてほしいと心のそこから願った。
しばらく待って、まったく、なにも起きないことにアンヘルは真理へ辿り着いた。神などいないのだと。
(ええっ! うそでしょ! こんな、こんな場所でアームストロング砲と肉団子の大運動会ってなんだよ!! こっちはこんなに悩んでるのに、リンヘルと次会ったとき、どうすればいいんだよぉおお!!)
リンヘルはアンヘルと名前の響きが似ていることから、食事を幾度かおごってくれた気の良い人物であった。それがアンヘルのリンヘルに対する印象である。それは、この光景を見るまではであったが。
そんなアンヘルの事情を斟酌せず、ふたりの男たちの手はベルトに伸びる。カチャカチャという金属音が、異様に汚らしく聞こえた。熊のような下半身が視界に入る。あまりの異常さ加減に、気が狂いそうだった。
アンヘルは目を閉じた。そして、口を絶対に開かないよう、手で封じた。開けば、吐きそうだったからだ。向きを変えると、全速力で走る。地獄から遠ざかるように全力で。
何も考えずに走った。通り過ぎる人を突き飛ばしながら走り抜けた。そして、大通りに来ると手を地面について息を吐いた。食べた物が少し出てきそうであった。アンヘルは涙目になりながらもこらえた。
最低な気分だった。本当の厄は遅れてやってきた。
そうやって俯いているアンヘルに声がかかった。地獄に咲いた一輪の花だ。
「あれっ? アンヘル、アンヘルじゃない!」
そう言った女――【菜の花亭】の看板娘、ナタリアはアンヘルに駆け寄ってくる。仕事中ではないためか、髪を下ろしている。手には大きな買い物袋を持っていた。服装もいつもの派手な服装とは違い、固い印象を与える。
「もおぉ、ダメじゃない! こんな大通りで座りこんだりしたらっ!」
そう言ってプリプリと怒った表情をする。彼女はこうやって、感情表現豊かにコロコロと表情を変えた。
「ねぇ、どうしたの? 大丈夫?」
アンヘルは立ち上がって、服の埃を払った。
「う、うん。大丈夫、大丈夫だから」
「どうしたの、こんなところで?」
今度は心配そうに聞いてくる。顔には不安が貼り付いていた。
「い、いや、大丈夫だから。心配しないで」
「でも、普通じゃないよ、こんなところで。何かあったんじゃないの?」
「じ、地獄から抜け出して来たんだ。これ以上聞かないで」
そう言ってこの会話を終わらせようとする。ナタリアは怪訝そうな顔をしたが、アンヘルは頑として言わなかった。
――こんな、下品なこと、ナタリアさんには言えないよね……。
ごまかすために、何でもない風に笑った。そんなアンヘルにナタリアはしょうがないなぁというふうに笑った。
「じゃ、ちょっと手伝ってよ。買い物っ」
そう言ってアンヘルに買い物袋を差し出し、歩き出す。もう先ほどの話は忘れたかのように、ルンルンと軽い足取りだった。
「アンヘルはこの辺に来ることってある?」
「う、ううん。あんまり、かな?」
大通りは高級店や食材の小売店が並んでおり、アンヘル達探索者には縁遠い区画であった。特に、節約とばかりに魚ばかり食べているアンヘルは、大通りで買い物をしたことはなかった。ホセは魚嫌いで、金ができるとさまざまな店に出向いている様子だったが。
「じゃあ、いろいろ教えてあげるっ! あっちの服飾店は流行りものばっかりでいいし、あっちの小物店は……」
ナタリアは嬉しそうに周囲の街を紹介してくれる。この街で生まれ育った故の知識と愛情が言葉の端々に現れていた。その、きらきらした笑顔がアンヘルに輝いて見えた。
「……で、それであっちの……。って、聞いてるのっ! せっかく教えてるのにっ!」
「ご、ごめんなさい。聞いてます、聞いてますから」
「もおお。ほんとうにぃ!? じゃあ、あの建物は?」
なんとか、説明を絞り出す。見惚れていたなんて、アンヘルは思われたくなかった。アンヘルの答えはなんとか合格点を得た。
「ふうん。いちおう、きいてるみたいね、一応だけど!」
そうやって、クルッと向きを変える。どうやら、機嫌を損ねたようだった。なんとかしようとアンヘルは話題を変えた。
「え、っと。ナタリアさんって昼間よく来てるの?」
「だーかーら、ナタリアで良いっていってるじゃないっ」
そう言いながら、彼女は逡巡したような顔をした。
「何時もはもっと遅くに来るんだけどね。料理の買い出しとかもあるし。けど、最近なんか視線を感じるっていうか……」
「ええ!? それって大丈夫なの?」
「大丈夫、心配ないって。こうやって昼に来てるんだし。こういうの、たまにあることだからさっ。それに、きょうは、立派なナイト様がいるみたいだしっ」
そういってからかうような笑みを向けてくる。人差し指をちょんちょんと向けてくるのが、アンヘルの心を躍らせた。
「で、でも全然ふつうじゃないよ! そんなの」
「まぁまぁ、大丈夫だからっ。それに、この街に堅気の娘に手を出すような人はいないって」
そう言ってクルクルと回る。整備された歩道の端にある段差へ登り、平均台をすすむようにゆらゆら歩く。彼女のスカートがはらりと舞った。
「で、でも、心配だよ」
アンヘルは、気負ったように周囲を確認した。人通りはあるが、みんな普通にみえた。
「もう、そんなに心配しなくていいよっ。ふつうにしよ、ふつうに、ね」
「いや、でも……」
「はい、この話はもう終わりっ。さっさと行こう!」
そう言って彼女は段差から飛び降りると、踵を翻して進んでゆく。強い女性だなぁとアンヘルは彼女の新たな一面を知った。
そうやって、たわいのない会話を繰り広げる。アンヘルはこの世界に来てから、最も幸福に溢れた時間であった。
しかし、その時間は無粋な声に遮られた。
「おい! きさま。なにをナタリアさんにちょっかいを出している。この、不審者め!!」
その声とともに、外套を翻し、腰に携えた木刀を引き抜いた。アンヘル達が気づいたときには木刀を大きく振り上げ、飛びかかっていた。やられる、とアンヘルが目を瞑った瞬間、ナタリアの制止がかかる。
「待って!! この人は違うのっ!」
男が降り下ろした木刀はアンヘルの額ギリギリで止まった。
目を明けたアンヘルが目にしたのは、怪訝そうな顔をした赤毛の男であった。
道場で異彩を放っていた男、その人であった。