イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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第十三話:邪龍撃滅戦 上

「この男を知っているのか?」

 

 荒い息を吐きながら、一人ホアンの遺体を引き上げ近場の丘に埋めていると、クナルの声が背後から響いた。

 

「知人だよ」

 

「それだけには見えぬがな」

 

 ホアンの最後。その朗らかな表情はアンヘルに深い後悔を抱かせるに十分なものであった。今ももちろん憎んでいる。マカレナを犯し、そして彼女が死んだ一因となった男である。だが、最近の殺伐とした雰囲気から解放された男の顔を見て、どこか憎しみが霧散してゆくのを感じていた。

 

「死者に対してぐちぐちと言うほど重要なことじゃない」

 

「そうか」

 

 ホアンの身体に触れた時、召喚師の感応によりアンヘルの脳に途切れ途切れの記憶が津波となって流れ込んできた。贖罪から善行へと身を投じたこと。平民派となり、差別是正に心血を注いだこと。それからより直接的な過激派に傾倒していったこと。

 

 思うのだ。被害者は常に地獄の記憶に苛まれる。だが、加害者も罪の意識に苛まれ、地獄をみるのではないか、と。

 

 ずっと凍えるような目で彼を見た。それが彼を狂わせた。将来有望な彼を、マカレナの友達でしかなかった自分のせいで。

 

 そんな結論に行き着いてしまえば結局、深い懺悔が舞い降りてくる。大義や合議を持ってして、ただひたすらに相手を追い詰めた。それは名前を変えようとも、本質としては変化せず、ただの殺人かもしれないのに。

 

 真摯に受け止め続けたホアン。そう思えば、彼の苦悩は尋常ならざるものであろう。続いて、畳み掛けるようにして起きた事件の数々。彼はマリサという女を奪われる経験をした。それも眼前で。それでも奪い返そうとして結局女に殺された。さぞ無念だったはずである。

 

 だと云うのに、最後に浮かんだ言葉が謝罪だというのだ。ならば、友人であったアンヘルの供養とは――

 

「他は?」

 

「貴様を待っている」

 

 アンヘルはシャベルで埋めた土を叩くと、最後に手頃な石を拾って地面に突き刺す。ホアンの愛用していた大業物の長剣を腰に差した。

 

 数メートルほどの丘を下ると、草臥れた表情の臨時小隊員たちと目が合った。満身創痍といった形のベップとアルバ。騎士ハーヴィーも意気込みは感じられるが、その負傷は隠しきれていない。自分自身、火傷と裂傷で浅くない傷を負っている。

 

 けれど、そんなことはどうでもよかった。

 

「僕たちに撤退はない」

 

 細事は捨て置く。確認などしない。長とは、下の心情を汲んでやっても顔色を伺ってはならない。追随せぬというのならば其れ迄の話である。

 

 外套を翻してプルトゥ渓谷へ進路を取った。クナルが静かに聞いた。

 

「敵は?」

 

「プルトゥ渓谷」

 

 二刻ほど掛けて尾根を登った。そこから見下ろした光景は、淋しくも美しくあった。

 

 枯れかけた紅葉は錦繍の帯のように谷を沿うて遠く上流まで連なっている。不規則に、だが自然という名のある種合理に則った川の流れが、渓谷の表面をまるで弓形のように描き出していた。流れる水は、透き通る宝石のようであった。

 

 その上流の奥に不自然な洞窟を発見する。周りには多数の敵兵。アンヘルは冷たい声で言い捨てた。

 

「スキピオさま、ベップ、アルバ。ここで退路の確保をお願いします。もし我らが死んだと見れば撤退も特攻もご自由に」

 

「あっ、おい!」

 

 振り返らなかった。クナルも駆け降りるのを横目で見る。一目散に駆け、魔物数匹を斬殺しながら洞窟内に入った。

 

 中に敵は居なかった。入り組んだ洞窟内を駆け巡る。大きな扉の前に立つとそれを躊躇せず押し開いた。

 

「ふふふ、やはりあなた方ですか。弱兵揃いの穢れ供と違い、骨のありそうな人間たちですね」

 

 ルイスは巨大な石造の椅子に腰掛けながら、膝に乗せたマリサという夢魔の胸をまさぐり続けていた。女の瞳には正気が失われている。

 

 相手を叩き割って、細切れにしてから魚の餌にしたとしても尚腹の虫が収まらぬほどの不愉快さを秘めながら、ゆっくりと進み出る

 

 部屋は洞窟の中だというのに驚くほど広かった。ドーム球場ほどはあるだろうか。よく見れば、そこかしこに人の手入れが見受けられる。遠い昔、祭壇か何かで使われていたに違いなかった。

 

 ルイスは女を突き飛ばすと、自然な動作で包帯を取り、悠然と立ち上がった。

 

「まだ完全とはゆきませんが、大方は回復しました。さて、お相手致しましょう」

 

「ここは、真っ暗だ」

 

 アンヘルは天上を見上げながら、ゆっくりとつぶやいた。

 

「はい? ああ、ここは一応土着宗教の祭壇だったようですよ。とはいっても、数百年も昔のことなので何を信仰していたかも不明ですがね」

 

「そういう意味じゃない」

 

 仄かに蝋燭が灯る洞窟をアンヘルはゆっくり眺めた。

 

「薄汚いトカゲ野郎には、お似合いの墓場だと思っただけさ!」

 

 アンヘルは「召喚」と叫んだ。虚空に青白い門が開かれる。長年の相棒たる若水龍シィールと荒っぽい若火山龍フレアが顕現した。同時にクナルが異形の咆哮を伴って駆けだした。

 

「礼儀知らずの愚か者を叩きのめすには十分な広さだと思いますがね」

 

 ルイスは己の腕を鱗で覆うと爪牙を鋭くさせ、醜い樽腹には考えつかぬスピードで走った。

 

 クナルの大剣とルイスの爪が噛み合った。大凡人間たちの衝突とは思えぬ音が洞窟内を反響した。闇に鋼の摩擦で火花が散る。

 

「私としてはそれほど興味を惹かれぬが、あの馬鹿も熱くなっているようだしな。さっさと始末してやろう」

 

「あれ程圧倒されたのを忘れたのか、吼えますねぇ。その威勢がいつまで続くか、尚更試してみたくなりましたよ」

 

「ほざけ!」

 

 クナルは両手を大剣から離すと、身体を旋回させて回し蹴りを放った。身長一九〇に迫る巨躯の蹴りは、強化術も合わせれば象すら浮かす馬力がある。

 

 だが、この相手はアンヘルたちが戦ってきた相手とはまるで次元の違う存在であった。あのイズーナにすら匹敵する実力を持ち、しかも相手の手抜かりも期待できない。となれば、人間種を超越した敵を真っ向から打ち倒さねばならないのだ。

 

 ルイスは、クナルの踵を腕一本で受けた。その腕には龍鱗が浮かんでいる。クナルはギリギリ歯を食いしばりながら、さらに力を込めた。

 

「クナルッ」

 

「わかっている!」

 

 掛け声と共に背後へ脱したクナルと入れ替わるようにして、アンヘルは抜刀した。左右両方向から龍が迫る。三位一体となった召喚師の同時攻撃である。

 

 相手が本気になるまでにケリをつける。龍の肉体で勝負となれば、勝ち目はさらに薄くなるだろう。

 

 体重とはつまりパワーである。とはいってもアンヘルも軽量ではない。筋肉はともかく、背丈は一八〇近い。全力の踏み込みから、切り込んだ。

 

「柔いですねぇ。あの方とは、比べるまでもない」

 

 だが、龍や悪魔などが犇く怪物の坩堝ではなんと儚げな肉体であろうか。アンヘルの武力など容易く屠られる。

 

 目を疑う光景であった。青と赤の奔流に自身が描き出した流星の如き刃。会心の一撃に他ならないそれは、容易く受け止められていた。

 

 ――両手で龍の頭を抑え、剣を大口で噛んで。

 

「そんな、馬鹿な」

 

 渾身の力で剣を推し進めようとするが、万力に捕まったように毛程も動かせない。唖然とするアンヘルの眼前で男がにちゃっと笑った。

 

 ゴッ、と。強烈な粉砕音が骨伝導によって頭の奥まで響いてきた。脇腹に相手のハンマーのような拳が突き刺さり、気づけばサッカーボールのように軽々と弾き飛ばされた。

 

 身体中を裂くような衝撃だ。アンヘルは壁にめり込むように叩きつけられると、血反吐を撒き散らしながら地に手をついた。

 

 遅れて、衝撃からパラパラと土が舞う。近くにあった蝋燭が倒れてさらに薄暗くなった。眷属たちが周りに吹き飛ばされてゆく。よろめきながら立ち上がろうとするも、続いて飛んできたクナルが腕に掠って脱臼した。

 

 濛々と舞う土埃が潮のように去ると、そこには惨めに地面を這う男の姿があるだけであった。

 

「どうしましたか。私はただ少し撫でただけですよ。だというのに、このようにのたうち回られては興醒めですねぇ。少々は無聊を慰めることができると思いましたが」

 

「黙れ。このトカゲ野郎」

 

 アンヘルはよろめきながらも、壁に手をついて立ち上がった。クナルもすっと立ち上がる。自分から飛ばされたのか、アンヘルよりもダメージは軽い様子だ。

 

(どうすればいい。相手は、こちらの攻撃を苦にもしていない)

 

 何か突破口が必要だ。クナルへ無言のメッセージを送る。

 

 ――何か手は?

 

 ――首だ。それも、貴様では無理だろう。時間を稼いで無防備な頸椎を叩き斬るしかあるまい。

 

 ――隙なんてないよ。

 

 ――見出すしかないな。

 

 相手の実力は圧倒的にすぎた。よくルトリシアはこんな化け物を撤退させたものである。

 

 手が震える。知らず、臆病な心が溢れている証拠だ。

 

「怯えていますね。ふふふ、それが当然です。私は『あの方』の命を受け、穢れ供を始末する任にあるのです。使命すら持たぬ雑魚が束になっても叶わぬというものでしょう」

 

 愉快げな言葉と反対にすでに戦う気は失せてきているのか、龍化を解いたルイスは倒れ伏した女の側にどかっと尻をついた。

 

 女の顔を持ちあげ、アンヘルたちに向けさせる。土と涙に塗れたその表情は、世界に絶望したようですらあった。

 

「見てくださいな、マリサ。これが裏切り者の召喚師に相応しい最後ですよ」

 

 ルイスは好色な笑みを浮かべながら、マリサの身体に手を這わせた。フルンと肉が揺れる。ボロボロになった衣服の脇から手を差し込んで、さらに女の体を貪った。

 

「どうですかな。羨ましいですか。あなた方のような低俗な思考など知るよしもありませんが、卑賤な者どもはこうやって愛の行為を見るだけで催すものでしょう?

 ――ふふふ、良いことを思いつきました。あなた方もそこで交わってはいかがです? それが愉快であれば、助命して差し上げましょう。貧相な脳味噌で私を楽しませることができる、唯一の劇であるとは思いませんか?」

 

 マリサの呻き声を聞きながら満足そうに男が微笑む。あふれ出る憤怒に、アンヘルは剣を地面に叩きつけながら立った。

 

「便所に頭を突っ込まされた気分だ」

 

「気に食わぬが、同意しよう」

 

 アンヘルたちは両者空いた拳を打ち付け合い、呼吸を新たにする。勝機が見えなくとも戦い抜かねばならない。いや、絶対に勝たなくてはならないのだ。

 

 足の筋骨が膨れ上がる。筋が違えようとも関係ない。同時に粒子が全身から立ちのぼる。強化が膨れ上がったのだ。二人はダメージを負ったとは伺わせぬスピードで吶喊した。

 

「ふ、ふふ。その意気です。そうですよ。見せてください!」

 

 相手はマリサから手を離すと、再び身体を龍化させた。

 

 ルイスの指先から伸びていた爪牙が漆黒に染まってゆく。まるで周囲の闇を吸い込んでいるようだ。そして、黒よりも深い闇へと落ちた爪は周囲の風を巻きこむようにして放たれる。

 

 大気を割って迫る奔流。それは誠信じられぬが、鎌鼬のようにして空間を飛んだ。

 

「”龍爪”」

 

 強化術を極めた達人は剣の射程を伸ばせるという。それは己が剣気によって刀身を拡張し、不可視の斬撃となって飛翔するということなのだろうが、人類を超越した龍種にとって児戯に過ぎぬことだったのだ。

 

 アンヘルたちは必死に左右へバラけた。伸びた穂先はそこを寸分違わず駆け抜け、背後の壁まで疾駆し、ダンボールでも食い破るように破壊した。岩肌に恐竜の爪痕を残してゆく。

 

 だが、それで終了となる筈もなかった。着地すると同時、さらに爪牙が飛来した。次々と到来する死の旋風は、激戦区の戦場のようである。身を縮めて隠れたいも、脚を止めることは即死を意味した。掠めた脇や腕から夥しいほどの出血があるも、回避に全力を注ぎ込んだ。

 

「ほら! ほら! どうですか! まだ逃げ回りますか!?」

 

 攻撃に思考を移す余地もない。疲労からか脚が止まり始め、致し方なく召喚術を行使した。

 

(頼む。シィール)

 

 息を整えるだけだ。という言い訳を残してアンヘルはシィールの影に隠れる。水龍が必死に身を縮めて龍の攻撃に耐えていた。「きゅうう」という苦悶の悲鳴を聞きながら、必死に主人のため身体を張るその瞳を懸命に見つめる。切り裂かれた肉から血潮が噴き出し、アンヘルの足下に伝う程となった。

 

「なんと醜い。これが召喚師のエゴですか。やはり穢れに身を窶した者は、情というものがないですな!」

 

 クナルは流石の身体能力で躱しているが、距離を縮めることは叶わずにいる。

 

 シィールの悲鳴が徐々に小さくなってゆく。血みどろの体躯と、隠れているアンヘルの顔にも夥しいほどの血潮が吹きかかる。

 

 アンヘルは息を整え終えると、シィールを消した。

 

「はぁぁああ!」

 

 一目散に駆け抜ける。もはや、ガードのことなど気にしては居られなかった。企鵝の構え。アンヘルたちがもっとも得意とする戦術である。

 

 だが、そんな甘い目論みはついえた。

 

「その動き、見たことがありますね」

 

 ルイスは嘲笑を浮かべた。

 

 アンヘルを一瞥すると、背後に飛ぶ。狙いは、クナルだ。

 

 一気にクナルと距離を詰めると、爪牙を放った。その素早さは今までの比ではない。クナルの数太刀の抵抗虚しく、強烈な刃を胴体にぶち込んだ。

 

 大量の血飛沫が舞う。さらに鉄を打ったような音が鳴って、吹き飛んでいった。

 

「たしか、人鳥の習性から取ったのでしたかね。一人を突っ込ませて後続が討ち取る。人間らしい戦術です」

 

 その声は遅れて聞いた。懐にルイスが飛び込んでいたのである。それからのショルダータックルは身体に響き渡った。見た目こそ人の身だが、その衝撃は十トントラックに匹敵し、地面に転がった後には視界が白濁するほどのダメージを負った。

 

 喉から血がせり上げてくる。耐えきれずに吐いた。内容物と血が夥しいほど流れ、真っ赤に地面を染め上げる。

 

 頭脳が割れんほどの警鐘を鳴らす。逃げろ、逃げろと。痛みと出血で怒りや感覚が麻痺し、ただ本能だけが噴き出してくる。

 

 圧倒的な実力差にねじ伏せられた。男は眼前で、もはや油断しきった態度でこちらを見ている。

 

 勝てる気がしない。脳裏をふとそのフレーズがよぎった。

 

「お逃げ……お逃げください……」

 

 地面に倒れていたマリサが呟いた。すでに何処を見ているのかもわからぬ瞳の色だが、恨みと痛みの混じり合った声にはどこか寒気を感じさせられた。

 

 ルイスは、そんな彼女の後頭部を力任せに蹴った。鈍い音が鳴って地面に顔面がめり込む。頭から激しく出血し、美しい顔を真っ赤に染め上げている。

 

 くぐもった呻めきが流れる。そのまま彼女の髪を掴み上げると、苛立たしげにその顔を睨みつけた。

 

「ふう、あれほど愛してやったというのにまだ反抗しますか。賎民には、どれほど良い教育を施したとしても無意味なのでしょうね」

 

 太い手を挙げるとパンと女の臀部を張った。瑞々しい、しかし悍ましい音が反響する。怖気すら呼び起こさせる動きだ。

 

「もう、この村に未来などありません……あなたは、ホアンさんのご友人で、しょう。お逃げ、お逃げください」

 

「黙れ、この淫売が!」

 

 ついに立ち上がって、女の体を蹴り飛ばした。転々と転がる女。それでも、彼女は言葉を紡ぐことをやめなかった。

 

「この村は、最初から死んでいました……教団の教えにしたがい、禁制品の製造に手を染めていました……そして私は、善良な皆を手にかけました。それどころか、ホアンさんまで」

 

 女は声を殺して泣き始めた。

 

 アンヘルは色を消した瞳で見た。

 

「どういう、事だ?」

 

「――ふん。まあ、冥土の土産にでもしましょうか。簡単な話ですよ。我ら教団の帝国攻略の橋頭堡として、このロヴィニ村が選ばれました。憲兵の目は届きにくい立地でしかもコクの葉栽培にはうってつけの気候。すべての条件が一致していたのです。とはいえ、彼らも利益を享受しました。文句を言われる筋合いはこれっぽっちありませんがね」

 

「なん、なんだ。その、教団というのは」

 

 男は、やれやれと首を振った。

 

「――バアル教団ですよ。言わずとも知れたことでしょう?」

 

 

 

 § § §

 

 

 

 アンヘルたちが死闘を繰り広げているのと同時刻。こちらも佳境を迎えようとしていた。

 

 息を詰めて状況を見守る。すでに身体も動かせなくなってしまったことに、ルトリシアは腹立たしかった。背負われて、揺さぶられているだけでも辛い。だが、守られている自分自身が弱音を吐くわけにはいかなかった。

 

「フェル、ミン、苦労を、掛けますね」

 

「い、いえ、そんなことは」

 

 雑林を抜ける頭上には、澄んだ青い空が広がっている。ルトリシアは熱っぽい頭に鞭打ちながら、必死にフェルミンの首にしがみついた。

 

 息が荒い。これだけの動作だというのにひたすら億劫に感じる。本能で察してしまう。もし追いつかれてしまえば、立ち会うどころか逃げることすら叶わないだろう。

 

 フェルミンの脚はすでに限界だ。顔色も相当悪い。当初の予定ではエルンスト派への合流を目指したが、それだけは避けるため進行方向を制限してくる。これでは、終着は時間の問題だった。

 

(身体を奪われるのは、いいでしょうが。しかし、死ぬわけには)

 

 ルトリシアは頬を伝って流れる熱いものに気づき、それが涙であることに愕然とした。なんという弱さだ。こんなくだらない場所で死ぬわけにはいかないのに。

 

「ルトリシア、さま。山を、山を登ればもう一度隠れられます。ご心配、なく」

 

「ありが、とう」

 

「大丈夫、大丈夫ですから」

 

 フェルミンも眦に涙を溜め込んでいた。もう先が長くないことは両者理解しているのだ。ここから大逆転の手など見つかりようもない。逃げ回ってはいるが、徐々に包囲網は狭まっている。

 

 ルトリシアはその頬を撫でて、涙を拭ってやった。フェルミンの優しい笑顔が映る。彼女の献身のためにも、ここで死ぬわけにはいかない。

 

 そう考えた瞬間である。ついに恐れていたことが起きた。

 

 天空から飛来する一本の矢。それが、山を駆け上っていたフェルミンの右脚に突き刺さると、ルトリシアの身体は中空に放り出された。

 

 その意味を理解した瞬間、血が凍った。

 

「フェル、ミン。だい、じょうぶ、ですか」

 

「る、ルトリシアさま」

 

 ルトリシアは必死の思いで這い寄るも、彼女は膝を押さえたまま立ち上がれそうになかった。矢は膝を打ち抜いている。処置しなければ、誰かを背負って走ることなどできようもない。

 

 後背で、ドタドタと重たげな靴音を耳にした。捕まるまで時間の問題だ。今すぐここから離れなくてはならない。

 

「お逃げ、ください。私はもう、歩けません。ここで殿をつとめます」

 

「フェル、ミン」

 

「貴方だけでも、お逃げを……」

 

 フェルミンはそういうと、剣を杖にしながら立ち上がった。ここで殿を務めるつもりらしい。全身から死兵の空気を発散させていた。

 

 その背中を引き留めることなど許されなかった。あるのは励ましだけである。一言だけ別れを告げると、自分も剣を杖によろよろと立ち上がった。

 

 進む。進まなければならない。何度も地面に倒れ込みながらも、立ち上がり続けた。

 

 自分ほどの魔力持ちならば、探知を使えば一発で居場所が判明してしまう。隠れるのは下策。かといっても逃げ続けることも叶わない。なにより働かせるべき頭脳が死んでいる。万事休すか。そんな思いが何度もよぎった。

 

「ま、だ――」

 

 荒い息を吐いて転けたとき、目の前から雑踏を踏む音がした。ハッと息を呑む。だが、なんの意味もなかった。

 

「大分苦労させられたが、ようやく追いついたぞ」

 

「フェルミン隊長は死にていでしたが、最後まで折れませんでしたね、オウルさま」

 

「ま、所詮は女。むしろラファエルの方が苦労させられた」

 

「結局は怪我した部下を人質に取らないと無理でしたから。まじめに戦ってればどれだけ被害が出たか」

 

「済んだことだ。それより、付いてきても分け前はないぞ」

 

「わかっています。私は取り敢えず、フェルミン隊長で我慢しますよ」

 

 そういうと、オウルの付き人らしき男は味方が運んできたフェルミンを転がした。縄で雁字搦めになている。すでに意識はないのか、白目を向いていた。

 

 眼前に現れたオウルは、しゃがみ込みながら髪を引っ掴んで顔の目の前まで動かす。男の顔が大きく映し出された。

 

「やめ、なさい……」

 

「ああ、申し訳ない。あいつは中々曲者で。ま、前戯としてアイツらの行為でも眺めましょうか?」

 

 オウルが頭を掴んだまま、顔の向きを無理やり変えてくる。その先では、意識のないフェルミンにのしかかろうとしている男の姿がハッキリと見えてしまった。

 

「さあ、俺たちもお楽しみと参りましょうか」

 

 男に腕を引っ掴まれて転がされた。ルトリシアは熱い息を吐きながら、強い目で睨みつけた。

 

 ――貴様にくれてやるのは身体だけだ。たとえ下賤な連中の慰み者になったとしても。

 

 ルトリシアは強く唇を噛み締めた。

 

 強く、強く。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ――バアル教団ですよ。

 

 この男は一体なんと云ったのか。凍りつくアンヘルに、男は演劇のように続けた。

 

「我らの怨敵トレラベーガ帝国。それを支える支柱二本を崩すときがついにやってきたのです。今日は、なんと素晴らしき日だ!」

 

 ルイスは声高に歌い上げながら、マリサを巨大な手でしたたかに打ち据える。彼女から痛々しい悲鳴がこぼれ落ちた。

 

「だと言うのにッ、すぐに裏切りを働いた愚か者が! ほら、どうです!」

 

「うっ、うっ」

 

「なんとか言ったらどうなんですか!」

 

「あ、あ、ああ」

 

 何度も打って満足したのか、ルイスはふうと視線をアンヘルたちに戻した。すでにマリサは虫の息で、荒い息を吐くだけの機械に成り果ている。

 

「どうです。次は貴方ですよ――」

 

 そう告げようとした男が固まった。背後に、一人の男が幽鬼の如く立っていたのだ。

 

「最後の詰めが甘かったな」

 

 すっと立った男は、真っ向からその一撃を受けたクナルであった。

 

 巨大な大剣が掲げられている。振り返る間を与えず、ルイスの首に振り下ろされた。

 

「はい?」

 

 刃はあの鋼鉄すら上回る鱗に食い込んだ。最後の最後でルイスは躱そうと努力したが、背中から脇ばらまで内臓が覗くほどに断ち切られ、多量の出血を伴ってよろめいた。

 

 唖然とした様子のルイス。死んだ筈の男に付けられた致命傷並みの傷をボンヤリと眺めながら、瞠目した。現実は変わらず、傷とそれを付けた相手を交互に見つめた。

 

「勝負は首が離れるまで油断せぬものよ」

 

 クナルは鉄拳を降ろした。鉄塊のような右拳が相手のブクブクとした頬を思いきり振り抜いたのだ。

 

 巨体がボールのように跳ねてゆく。相手が地面に沈んだのを確認してからアンヘルはなんとか立ち上がった。

 

 クナルに「なんで無事なの?」と尋ねるも、苦い顔の無視が返ってくる。仕方なくマリサの元に駆け寄ってリーンの回復を与えた。

 

「どうして協力してくれるのですか?」

 

「……当たり前のことを、しているだけです」

 

 マリサは血泡を吐きながらも、悲しげに小さく首を振った。

 

「貴方は敵だったはずです」

 

「敵なんて、この世には居ません。居るとするならば、それは私のような穢れた者だけです」

 

「それは」

 

「内なる私の悪の気がホアンさんを殺したというのなら、私こそが敵なのです」

 

「――でもいい」

 

 彼女にホアンの剣を持たせると抱き起こし、真正面から見据えた。

 

「君を助けることが、彼の最後の望みだった。僕に裁く権利はない。罪の意識があるなら生きて欲しい」

 

 優しく声を掛ける。マリサはワッと嗚咽を漏らすと、手で顔を覆って泣きじゃくり始めた。

 

 ――私、私。ごめんなさい。本当に御免なさい。

 

 深い悲しみの声は胸を打った。ホアンの記憶が流れ込んできたアンヘルには、彼の苦悩が同期し、彼自身になったような幻覚すら思わせた。それでも、彼女を慰める行為ができるはずもなく、ただ木偶のように立ち尽くすだけであった。

 

 今ならばわかる。彼の最後。その朗らかな表情の意味が。

 

 やっと見つけた安寧の地。背伸びして保ち続けた地位の無意味さに気付き、やっと己の本心を打ち明けられたのだ。そして、彼女が陥っている状況にも気がついた。魔族と人族の恋。そんなものは不可能だということは、ミスラス教徒であれば常識である。滅びは目前、だと云うにもかかわらず彼女をその螺旋から救いだそうとした。

 

 そして、アンヘルはその残酷な結末をただ直視した。

 

 ただひたすらに懺悔を繰り返す彼女の瞳は、もはや生きている生物の色をしていなかった。虚な瞳はただひたすらに深淵を覗き込んだようであり、その姿は、急に歳を取ったようにすら思えた。

 

 ギリギリと耳障りな摩擦音がした。知らず、噛み締めた奥歯が軋む音であった。

 

「ふ、ふはは。滑稽、滑稽ですねぇ。これが卑しき者どもの最後の後悔ですか。まさに、最高の戯曲に他なりませんよ!」

 

 ルイスの哄笑が響き渡る。男は重傷を負いながらもなんとか立ち上がっていた。背中から脇腹にかけての深い傷はすでに肉が盛り上がり始めており、龍種に相応しい再生能力を見せている。

 

 アンヘルたちは再び構えをとる。必ず仕留めて見せる。その意気込みは決して嘘ではない。

 

 だが――

 

「まだです。ほら、やりなさい――」

 

 相手はまったく動いていない。だと言うのに、死の予感が唐突に迫った。警戒心から剣を持つ手に力を込める。しかし、事態が好転する予感はなかった。

 

 すとん、と右足の力が抜けた。右脚が急に熱を持ったのだ。太腿が焼けたように熱い。下を見れば突き出た刃の先端があった。

 

 同時に、背筋がゾッとするほど冷える。収斂された殺気そのものが塊となって背後で高まる。

 

 考える暇はない。新手か、と思って必死に転がりながら剣を返した。

 

「待て! 間抜けっ――」

 

 慌てた様子のクナルが鋭い声で静止した。だが、止まることはなかった。

 

 視界の端で捉えた華奢な女の首。そこから、噴水のように鮮血が溢れ、溶けたような顔で正面から崩れる女の姿を見た。

 

「あ、ああ、あああっ」

 

 ――新手の正体とはマリサであった。

 

 アンヘルの反射的な返しは、マリサの喉を正確に切り裂いていた。元から致命傷に近い負傷を負っていたのだろう。虚な瞳のまま地面に沈んだ彼女は、みるみるうちに形を失い、細かな灰へと変化した。

 

「なんで、どうして貴方がッ!?」

 

 ガラガラと膝から崩れながら、アンヘルは叫んだ。叫ばずにはいられなかった。敵陣のど真ん中にありながらも蹲り、嗚咽をあげる。手が恐怖でカタカタと震えた。

 

「なぜ不思議に思うのですか? 主人は眷属への絶対命令権を持ちます。召喚師の貴方が一番よくわかっていることでは?」

 

 その言葉にハッとしたアンヘルは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「お前が、やったのか」

 

「やった? 何の話ですかね?」

 

「彼女にやらせたのは、お前の指示かっ!」

 

 男は高らかに笑いながら、嘲りを見せた。

 

「あの男を殺したのも、そして今貴方を刺したのも、私の指示ですよ。――ああ、ついでに言っておきますと、村の住民を殺させたのも私の指示ですよ。しかしまあ、性格というのは如何に重要か思い知らされました。次の眷属化には気を付けますよ」

 

 眷属化。その言葉を聞いた時、クナルの視線が鋭くなった。

 

「……どういう意味だ、それは」

 

「はい? ああ、素養のありそうな人物を眷属にする。神降ろしと同じ原理ですよ」

 

「もしや、あの女どもは元人間か?」

 

「ついでに言えばサキやレイナも。わかりませんでしたか?」

 

「――人間を生贄にしたのかッ!」

 

 アンヘルの絶叫が虚しく響く。

 

「むしろ救いをくれてやったつもりなのですがね。この穢れた世界でのうのう暮らす劣等種族どもに――そもそもサキは自身が望んで眷属化したのですよ。ほら、男を死ぬほど嫌っていたでしょう? 彼女は男どもにマワされ続けて精神崩壊の寸前でしたが、それを救ったのが眷属化というわけです。まあ、マワされたのは、良質な眷属制作実験だったというのがお笑いですがね」

 

 ふふふ、ふふふと男は笑った。

 

 もはやアンヘルたちは完全に感情を消した顔つきでルイスを見た。いや、カオスと呼ぶべきか。瞳は氷河のように凍りつき、逆に身体の中は灼熱の炎に焼かれている。視界は真っ赤となり、もはや真っ直ぐ歩けもしないほど強烈に歪んだ。

 

「貴様に言ったことを訂正しよう。私も興味が湧いてきた」

 

 クナルは反吐をはきながら、忌々しそうに顔を歪める。

 

 アンヘルはマリサに持たせた筈だった剣を足から引き抜き、自分の腰の剣を捨てた。そして、ただ、モノを観察するような目でカオスを眺めた。

 

「僕も訂正するよ」

 

 すべては感情のあるままに。

 

 激憤が頭頂からつま先まで貫いたとき、己の決意は固まっていた。

 

「さあ、辞世の句は読み終わりましたか? 踊りましょう。これがフィナーレです!」

 

 最後まで嘲りを見せたカオスが身体を龍化させる。腕だけではない、全身を膨れ上がらせたあの邪龍の姿である。

 

 同時、アンヘルの胸元に焼印を押し付けられたような熱が膨れあがり、青白く発光をはじめた。

 

 ――ようやく覚悟が決まったようね、ご主人さま。

 

「あの男だけは、僕らがここで討つ!」

 

 

 

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