手を掲げ、真横に振り切る。
その瞬間、胸元に押し付けられた焼印のような熱が膨れ上がり、爆発的な光を発し始めた。
「召喚」
決して使うまいと思い続けたその力。
神意という名の悪の力はアンヘルの呼び声に呼応した。
アンヘルの頭上に薄い燐光が浮かび始める。それがはっきりと世界に現れると、複雑な幾何学模様とルーン文字が描かれた黄金の環が掲げられる。
天空への階段を幻視する。
羽根とラッパが木霊する神々しい異界の向こうから、天使のような美しい女が舞い降りた。
発酵するプラチナブロンドの髪を後ろで括り、宝玉のような瞳で相手を見据え、凛々しく弓を天に掲げる姿はまさしく女神以外の何者でもなかった。
「まさか、まさか貴様、使徒かッ!?」
はじめて聞く、カオス渾身の叫びであった。
女が微笑むと、忽ちアンヘルとクナルの身体が水を纏い始める。流々とした力がまるで血のように全身を巡った。
「ホアンの無念、彼女の絶望が僕を決断させたんだ!」
身体を掠めるように白銀の矢が飛んでゆく。二人は闇に溶かすよう身を沈めると、両方向から突きを繰り出した。
両翼を裂いてから、足と腕に取り掛かる。スペックの違うクナルの強化は常軌を逸しており、たった一太刀で腕一つを切り落とした。
けたたましい絶叫を上げながら、ひたすらに暴れ回るカオス。無敵と思われた邪龍は、血走った眼で怒気を露わにした。
「この劣等種族どもがっ!」
「本性が出てきたな。貴様の気取った口調は見せかけか」
クナルは嘲笑を浮かべながら、全身真っ黒に染め上げた肉体を大きく晒した。
体の至る所から、まるで間欠泉から吹き出す湯水のように血が流れているにもかかわらず、真紅に染め上げた狂相を美しくも歪めた。明らかに人体の限界を超えた負傷にしか見えぬが、闘気を纏って進む男の姿は閻魔すら可愛く見える。異形の咆哮を上げながら縦横無尽に疾駆するクナルは、さらにその禍々しい大曲刀を振りかざした。
カオスは青ざめた顔で、両者を必死に見比べた。一方は使徒。もう一方は地獄の使者そのものである。当初の余裕ぶった薄笑いはかき消え、微塵たりとも王者の風格は感じ取れなかった。
――さあ、ご主人さま。ご指示を。
「援護しろ」
――望みのままに。
アンヘルはホアンの長剣を水平に構えると、一度目を閉じて深呼吸した。血色に歪む視界すらどこか心地よく感じる。感情のまま戦っている自分に酔いしれた。
「貴様がトドメをやるか?」
「いや、君のほうが確実だよ」
「であるな。油断するなよ」
アンヘルは疾風のように斬りかかった。相手。ふっふと荒い吐息を吐いている。切り離された足からは夥しいほどの出血が認められ、龍体であっても焦りの色がはっきりと映る。これほどまでに追い詰められた経験はなかったのだろう。
相手は真っ向から爪牙で挑みかかってきた。悪手だ。顎門か息吹か、とにかく遠距離でも打てる手は幾らでもある。だが、脳髄にまで刻まれた焦りが、カオスの対応を誤らせたのだ。
アンヘルはシィールを呼び出して、迫り来る邪龍の胴体に氷河の息吹を撃たせた。イズーナの魔力がシィールの息吹に乗る。チカチカと光る白銀の世界は、世界の動きを凍結させるような予感さえあった。
動きの遅いシィール。力もないシィール。されど、龍種だ。倍率上昇の影響下にある龍のブレスを真っ向から受けてタダで済む筈がない。
怒りの底に巣食うカオスの怯えを認めながら、アンヘルは光り輝く銀を背景にして、懐へ飛び込んだ。
龍の巨躯がやけに緩慢に映る。脳が加速し、ぐにゃんとあぶられたかのように世界が歪む。
恐怖すらない。紙一重、しかし危なげなく懐に潜り込んだアンヘルは、驚愕すべき速度で必殺の突きを矢継ぎ早に繰り出して、鱗のない柔らかな腹をズタズタに蹂躙した。
龍の表情など察することはできない。が、両腕を突いて腹を隠すカオスのそこかしこに恐怖が滲んでいる。地の底から響くような低い声がどこか滑稽にすら思えた。
「嘘だ。まさかこんな筈は……」
「しね」
再び走ったアンヘルの凶刃が、下滑りして振り上げられた。鉄を裂くような、硬質な音がした。
カオスは顔面を激しく顰めながら、絶叫した。
放った斬撃が顎から昇って左眼球の上まで抉ったのだ。びりびりと洞窟内が反響する。悲鳴すらも幼児の駄々のようだった。
地面に降り立ったアンヘルは自分の身体を確認する。ボロボロだ。相手が冷静さを取り戻せば、体力的に厳しい戦いを強いられるのは自分である。
そして、この悪鬼に利する行為など微塵もしてやることはない。
床を蹴って高々と飛ぶ。
剣を逆手に持ち替え、脳天をざくざくに抉り取ってしまう。それで、勝負ありだ。
「舐めるなよッ!」
最後の足掻きとばかりに、身体の中央に嵌る紅玉が大きく光りはじめた。中空に舞うアンヘルの視界を焼くほどの閃光。つい瞼を下ろすと、相手は大きく吠えた。
「”混沌魔球”」
アンヘルの身体を、漆黒の闇の塊が襲った。超重力を持つブラックホールは、光すら歪めその脱出を阻むという。閃光の中から放たれた虚無の球体は、たしかにそれと同質のなにかを感じさせる力であった。
それは、天井の岩肌を丸ごと飲み込んで、音も立てず消し去った。闇はそれでも止まらず、空の彼方へと飛んでいった。
すうっと日差しが差し込む。ぱらぱらと石が崩れてくる。敵を消し去ったことを確信したカオスは、口から血泡を拭きながらも気色ばんだ。
「は、はははっ。やった。やったぞ。見たかっ! これで、貴様も残り一匹。余興などこれで終わりよ――どうして、まだこの場に居るのだ!」
カオスは主人が消え去っても召還されない様子のイズーナを見て驚愕した。
女の手がひゅっと指差す。
「本性どころか、低脳まで露呈しはじめたな」
「っふふ。毒舌ですね」
クナルが女の茶々に嫌な顔をするが、当カオスにはそんなことを気にする様子はなかった。女が指し示した場所を見る。そこには、地面に転がる男の姿があった。
男が幽鬼のようにゆっくり立ち上がる。消えたはずの男。それを見つめる龍の瞳は、不死者に出会った者のように見えた。
「言った、筈だ。あなたは、僕が討つ、と」
アンヘルの右腕には矢が突き刺さっていた。死の瀬戸際、イズーナから放たれた矢の反動によって態勢を必死に変えたあと、類稀な身体操作で身体を捻って闇を躱した。むろん、無傷ではない。真正面から受けた矢傷からは出血があり、掠めた闇が腕や脚の肉を削いだ。綺麗に切り取られた断面からは、赤々とした牛肉のようなものがならぶ。毛細血管から大量の血が流れていた。
しかし、それでも立った。立ったのだ。
痛みと、それに倍する炎が心に立つ。ミゲルの怒り、ホアンの無念。そして彼女の絶望。あらゆる慟哭が感情の導火線に火をつけた。
――打ち倒せ。たとえ、己の肉体が朽ちようとも。
アンヘルは血の泡を吐いた。ざらつく血の味が舌に残る。生ぬるいそれが己の身体を汚した。
だからどうした。剣を取れ。今すぐにでも、あの男を冥府に送ってやるのだ。そうでなければ、なんのためにこれまで剣を取ったというのか。
相棒のシィールが虚空から独りでに現れ、アンヘルの身体を支える。瞬間移動したのか、イズーナが逆側の肩に手を置いた。
――さあ、ご主人さま。最後の最後までお奮いになって。
さらに力が溢れる。死者の念を纏い、憤怒の力を刀身に溢れ返らせ、背後に眷属を付き従えるその姿は使徒に相応しき姿だった。
「それがなんだというのだ! タネが分かってしまえば大した話ではない。もう一度だ。もう一度、我が力を受けてみよッ!」
息を切らしたカオスが全身の力を振り絞って、再び両足立ちになる。あの力はそう何度も撃てるはずがない。
狙いは、自分だ。
これを凌げば、必ずや勝機は見える。躱すのではない。正面から叩き伏せるのだ。
弱音など此処にすべて置いてゆけ。そんな相手を喜ばせる真似になんの意味がある。断じて、そんなことは許されない。
アンヘルは全身の力を収斂させ、ホアンの長剣に込める。軋むほどに気が高まる。その音はホアンの慟哭そのものだった。
「トドメは君に任せる!」
返事は必要ない。なにか言ったかもしれないが、脳がそれを遮断した。無音。必要だと思う音だけを脳味噌が拾う。天頂から差し込む日差しを浴びて、男は剣を掲げた。
最後の勝負だ。
駆け出した。相手の巨体が紅玉を丸出しにして、閃光を放ちはじめる。必殺の構えだ。
――消えよ。
間遠にその響きを聞いた気がした。関係ない。相手の放った闇の球を真正面に見据えた。シィール、フレアを脇に召喚し、過去最大のブレスを前方に放つ。そして滑るように飛び込んだ。
眷属の魂の息吹。気に食わぬ神意。絶望や諦観を持ってこの世を去った人たち。すべてを長剣に込めて、突きを放った。
衝突。全身を引き裂くほどの衝撃が到来した。
闇、水、炎と光が混沌に混ざり合う中で、アンヘルは道を切り開かんと必死に力を込め続けた。
軋む。
ホアンの剣が軋んでいる。
カタカタと唾が鳴り、鋒に集中した力が相手の闇に飲まれ消し飛ぼうとしている。
「なんと愚かよ! 我が魔力に剣で立ち向かうなど」
そうかな。たしかにセオリーからは外れる。魔法に対して物理で立ち向かうなど馬鹿丸出しだ。常識で考えれば、剣は折れ、闇に飲み込まれることは決まっている。
だが、この剣の嘶きを見よ。人の無念と絶望が混じりあった剣の魂は、決して魔剣などに引けはとらない。剣と腕さえ残ればあとはすべてをくれてやる。
永遠に思える拮抗。闇の中を彷徨うような絶望感に身を浸しながらも、その胸に宿る復讐の炎は、決して消えはしなかった。
足掻いて足掻いて、その先にアンヘルは光を認めたのだ。
――さよならだ、アンヘル。
刀身が半分ほど消滅する。無茶をする男への加護であったのか。微かに、別れの台詞を聞いた気がした。
「うわぁぁあああああッ!」
世界が唐突に開けた。つうっと涙が伝う。これが、今生の離別だ。
――君を許せそうにはない。
――いつまでも、マカレナを奪った君を恨むよ。
――だけど、あの世があるなら平穏な日々を、彼女と。
そう、そっと願った。
アンヘルは必死に突き出した剣を真横に薙いで、取り巻いていた闇を斬り払った。帳が掻き消された。先には、狼狽しきった龍の顔があるだけだ。
世界が加速する。肉弾となったアンヘルは、頭から突っ込む形でその長剣を振るった。
真横に振られたそれは、無防備な龍の胸元、その紅玉に深々と突き刺さった。
透明感のある、高い音がなった。
アンヘルの刃が、ついに邪竜に突き刺さった証明であった。
邪竜はよろよろと後退すると、その胸に突き刺さった剣から醜い鮮血を滴らせる。罪人が杭打ちされているような、惨めな姿であった。
「ばか、な。この私が……人間如きに、やぶれる、など……」
「貴様の方が、劣等種だったようだな」
クナルがニッと粗野な笑みを見せた。麗人には珍しい賞賛と確信の笑みである。
そのまま大きく跳躍すると、男は日差しの中に入り込んだ。逆光の中であっても、雄々しく刃を掲げて見せたそれは、まさに、天の裁きのように眩く見えた。
「申し訳、ありません……ハンバニル、さま」
クナルの大剣が流星のように降った。隕石のような衝撃が巨大な龍の頭蓋に叩き込まれ、その邪悪な相貌を粉砕した。
その勢いのまま、胸、腹、尾までを一刀で叩き割る。アンヘルたちを苦しめ、ホアンたちを地獄へと誘った狂気の先兵は、完膚なきまでに滅ぼされたのだ。
§ § §
「さあ、俺たちもお楽しみと参りましょうか」
強く、強く唇を噛み締める。そんな気丈な決意を虚しく、男が手首を地面に押さえ込む。男の体躯が大きな影を作った。
下卑た笑みで顔を近づけてくるオウルが大きく映る。
もう、手は存在しないのか。
ルトリシアは抑え込まれた手を握りしめるしかない。はらりと流れる涙が、悲壮さを表していた。
「クソっ」
そう思った瞬間、オウルは顔を険しくすると一息で後方に飛びのいた。
直前までオウルが居た場所に矢が殺到する。遅れてがやがやと木々から幾人もの足音が聞こえてきた。
「無事か、ルトリシアッ!」
増援として駆けつけてきたのは、シュータル派の代表エルンストだった。周りには、エルサ班の面々や裏切りを働かなかった派閥の人間も居る。
オウルたちは舌打ちしながらも、気を失っているフェルミンからも離れ、抜刀。同時に素早く陣組を行い、敵に備えている。
エルンストが魔法行使の準備を察したのだろう。先ほどまでの嬲る気配は消え、臨戦態勢に突入していた。
「ルトリシアさま、御無事で」
マニュエル連隊長がこちらに駆け寄ってきて、助け起こしてくれる。治癒が身体を癒す。フェルミン候補生も同じように助けられていた。
「貴方たち、こそ、よく無事で。他は、どうしましたか」
「も、申し訳ありません。気づいた時には、手遅れで」
助け起こしてくれた女性候補生が涙目で事情を説明してくれる。屋敷で防衛に当たっていた人物は皆重症であるそうだ。なかでもリーダー格であるラファエルは、行方知れずらしい。
ルトリシアは弱弱しい動きながらも、女性候補生の手を握ってやり元気づけてやる。自分が、ここで折れないためにも。
一方、オウルらは態勢を整え終えたのか、じりじりと間合いを狭めてくる。
「オウルッ! 見下げ果てたぞ、まさかここまでやるとはッ!」
「ふ、今更ですね」
エルンストに糾弾されたオウルだったが、鷹揚に尋ねるだけだった。
「そんな下らぬことよりも、どうやって気づいたのか教えて頂けませんか? 貴方は敵軍の斥候に赴いていたはずだが」
ぎりと唇を強く噛みながら、腹立たしそうにエルンストが答える。
「彼らのおかげだ」
エルンストはエルサ隊の面々を示した。
「ロヴィニ村から報告を持ち帰った彼らが、気づいたのだ。貴様のその稚拙な策略をなッ!」
「なるほど、なるほど。たしかにそいつらが帰還するとは考えていませんでしたよ」
オウルは両手でお手上げと示しながら、戯けて見せた。
エルサ班はホアン捜索のためロヴィニ村に訪れていたが、結局ホアンを見失ってしまい、仕方なく野営地に帰還した。するとそこで周囲を警戒するエルンストたちと遭遇したというわけである。
まさかずっと居なかったエルサ班が帰還するなどとはオウルも考慮の埒外であったらしく、その隙をつかれた格好だ。
「とはいえ、貴方の腕では到底我らに叶う筈もありません。ま、ロペスでも居れば話は別ですが」
オウル派の人間は七人。一方、エルンストが引き連れてきた人数は、配下五人にルトリシア派閥の中心数人、それからエルサ班四人。数にして倍差があるが、それを意に介した様子はない。
「さすがに全員死んでは怪しまれるので、貴方には避雷針として生き残って頂きたかったのですが、仕方ない。男はサンドバックにして、女は慰安婦にでもしますかね」
「ウチな、アンタのことがずっと気に食わんかってんッ! ぶっ飛ばしたるッ!」
これまで後ろにいたユウマが叫んだ。ぶんぶんと槌を振り回しながら、エルンストを押しのけて進み出る。
「気が合うわね。私もよ」
「おいおい、ソニア。冷静になれよ」
「いいえ、エセキエルさん。ここは戦うしかありません」
エルサ班が皆戦意を露わにする。歴戦とは決して言えぬが、下位五十の候補生では、優れていると言われるエルサ班。それにエルンスト派の人間が追加されれば、多少は怯んでしかるべきだろう。
だが、オウルは鼻で笑っただけだった。雑魚を相手にするだけムダと、闘気を前面に出す。エルサ班の威圧も関係なしで、オウルが一歩踏み込んだ。
「さっさと蹴りをつけるぞ。さすがにエルンスト派が集結すれば苦しい。お前らは雑魚を蹴散らせ」
「は、わかりました」
部下が指示に沿って左右へ散る。それが開戦の合図だった。
オウルは大上段に剣を掲げながら飛んだ。
蝙蝠のように外套をはためかせて飛ぶと、雄叫びと共に剣を振り下ろした。流星が落ちたような轟音に遅れて、濛々と白煙が舞う中心地にオウルは姿を表す。
「まず一人」
集団のど真ん中に着地したオウルは、剣を真横に薙ぎ払う。逃げ遅れたエルンスト派の一人がバターでも割かれるようにして脳髄をぶちまけられた。
エルンストが必至の形相でオウルの剣筋に合わせる。火花を散らしながら両者の直剣がぶつかり合った。
さらにオウルは持っていた剣の力を抜くと、サマーソルトの要領で固まっていたエルサ班に突っ込む。薙ぎ倒すようにユウマとエルサを吹っ飛ばすと、着地際に右足だけでもう一度跳躍して、大きくエセキエルを蹴り飛ばした。
「ウソっ」「ソニア、大丈夫かっ」「みんな下がって、ウチがッ」「ユウマさん、危ない」
残ったソニアに向かって剣を打ち合わせると、軟体動物のようにグニャンと手首を操作して、真上に剣を絡み取った。
「雑魚が」
続けざまに放たれた蹴りがソニアの脇腹に吸い込まれる。彼女は藪の中へ転がるようにして消えた。
「まさに鎧袖一触だ。貴方もいつまで持つかな?」
エルンストこそ辛うじて受けたものの、後はおもちゃのように吹き飛ばされるエルサ隊。なんとか受けたエルンストも手首を痛めたのか、険しい顔をしている。
「くっ、オウルぅう!」
「ははは、足掻く足掻く」
一刀、二刀と直ぐに撃ち合う。が、その差は誰が見ても歴然。圧倒されるエルンストは剣を絡め取られると、脛を切りつけられ蹲った。
「くっ」
「ほら、プレゼントですよ」
オウルは畳みかけるように膝で顔面を打つ。エルンストはゴロゴロと地面に転がった。
「さあ、残りは誰かな?」
絶望的な状況だった。格が違う。せめてエルンストたちの武闘派がもう少し居ればなんとかなったかもしれないが、捜索のために人員を分割していたのが不幸だった。
「残念ですね、ルトリシアさま。死ぬ前に女の悦びを教えて差し上げようと思ったのですが、この状況ではそんなリスクは負えません。冷凍保存して遺体を好事家にでも売りますよ」
歩み寄るオウルを眺めるしかない。こう警戒されては、最後の魔法も当てることは叶わないだろう。
すとんと肩の力が抜ける。
それが諦めとなったのか、走馬灯のように世界がゆっくりと流れる。
今まで、貴族としていついかなる時も気を抜かずやってきた。どんなときでも頭脳を働かせ、権力を行使し、魔法を使って。
だから、わかっていた。
困ったとき、都合よく助けなど来ない。神などいないのだ。あるのは、擦り切れた虚しい現実だけ。ご都合主義のハッピーエンドなど、起きようもない。
だから祈らない。願わない。意味のない行為は必要ない。
ただ、少し疲れただけ。
「ここまで、ですか」
(彼らには、申し訳ないことをしましたね)
今戦っているはずのアンヘルたちに、心の中で謝意を告げる。
空が綺麗だ。これが最後の景色か。そう諦めたとき、ふと影が差したのだ。
空高く、雄大に舞う龍の姿。
それを皆が認めたとき、信じられないような表情でかぶりを振ってオウルは瞠目していた。
「まさか、まさか貴様はッ! 死んだ、はず……」
「ここで真打参上だ、オウル!」
これまで余裕を見せていたオウルの表情が一変する。一歩、二歩と後退しながら、剣を天に向け狼狽を露わにしていた。
空からの救世主は、討ち取られたと思っていた男ラファエルであった。彼は血みどろながらも、空駆ける眷属に跨り雄々しく叫んだ。
「召喚士を相手にするなら、首を切り落としておくんだな!」
信じられるのは自分だけ。ずっとそう思ってきた。
何かを信じてもいいのだろうか。今見える景色にはそんな風に思わせる力があった。
§ § §
「本当にご苦労でしたね」
「いえ、結局は私怨でありますので」
あの邪龍討伐作戦から二日、アンヘルは近在のガンジログゼロ村の一室で椅子に腰掛けながら息をついていた。横には顔色の回復したルトリシアが久々にバチッとした制服姿で佇んでいる。彼女の目の前には香りの漂う紅茶があった。
現在、側仕えであるハーヴィーや他の姿はない。労いのお言葉を頂戴するにあたり、部屋の外に出された格好だ。窓から差し込む月明かりが目に毒だ。二日ぶりの目覚めで、久しぶりの明かりに慣れない
「それにしてもよろしかったので? 邪龍討伐など快挙なのですが」
「構いません。それに私がやったと言い張ったところで誰も信じないでしょう」
ルトリシアが言っているのは、今回の顛末についてである。今回の黒幕である邪龍、バアル教団という襲撃を退け、打倒したとなれば一候補生としては伝説とも言えるべき功績である。が、アンヘルはこの事実を捻じ曲げ、この功を残らず騎士ハーヴィーに押し付け、口裏を合わせたのだ。
元々、邪龍を討伐したのはアンヘルとクナルである。クナルは名声に興味はないし、アンヘルにとっても恨まれている騎士に恩を売れるとなれば悪くない差配である。勿論、ベップやアルバには報酬は必要だが、どうも彼らも目立つのは避けたいようであったから、ヴィエントおよびリエガーからの金品で落ち着いたようである。
あまり派手に動きたくない、というのは全員の一致であった。
「ところで、私以外の人間はどうなりましたか」
「全員無事ですよ。お馬鹿隊長を除けば、大した負傷ではありませんしね。アンヘルさまが一番死の淵にいらっしゃいました」
帰還では騎士ハーヴィーに迷惑を掛けた記憶がぼんやりある。クナルも戦闘中は澄ましていたが、相当重傷だったらしく終わるなりぶっ倒れていた。自分でもよく裏工作する余裕があったものだと思っていた。
ちなみに、これは後日聞いた話だが、オウルらとの決戦によってラファエルら他も大層負傷したらしい。それでもアンヘルの治療を優先してくれたのは、功労者だからか、それともそれ以外なのか。
「そう、ですか」
「何か懸念でも?」
「いえ、そういう意味では」
懸念ではない。後悔というべき感情であろう。ホアンやマリサのこと。すべてが突然にすぎた。まだ整理には短すぎる。
都合よく、ルトリシアは勘違いをしてくれたようで、補足してくれた。
「バアル教団、それからオスゼリアスで流行するドラッグ。我らのことがなくても大成果です。一先ずはお喜びになってくださいな」
「そう、ですね。有難う御座います」
「礼を言うのは此方の方ですよ。もし何か願いがあればお聞き致しますが?」
「宜しいので?」
「なんでも、という訳にはゆきませんが。進路、金品、後ろ盾。可能な限り手を尽くしましょう」
アンヘルはトントンと指で頬を打った。これは、今までの関係とは違う。一時的だが、あのルトリシアと対等の関係を結んだのだ。昔の駒とは違う、そんな関係を。
真横を向いて、三寸ほど先の彼女の瞳を見つめた。貴族らしく何も伺えない。が、恐らく信頼があるのだろう。この瞬間だけであっても、二人には確かに身分を超えた関係となったのだ。
「幾つまで、望めます?」
「……強欲ですね。意外です」
ルトリシアは呆れた表情を見せた。
「いいでしょう。気の済むまで言ってみなさいな」
「い、いえ。そういうつもりではなく」
「ならば何です?」
「小さきことですが、いくつかお願いが」
急に冷たくなった視線に頭を下げた。どちらがお礼するのか判ったものではないが、アリベールに続きこの眼が苦手なのである。
その情けない態度を見て、ルトリシアは再び呆れを見せた。
「まあ、良いでしょう。それでどのような事を?」
「色々あるのですが、まずは勝利の乾杯でも?」
美女に注いで貰った酒で勝利の祝杯を挙げよう、ぐらいの気軽なものである。が、それを言った瞬間、ルトリシアの雰囲気は今までの茶化した冷たさではなく極寒そのものになった。
「本気で、仰っているので?」
「え、ええ」
「……はぁ。まさか、ここ場面でこのような要求をされるとは。一難去ってまた一難ですか」
敵でも見るような目で睨むルトリシア。アンヘルは怯えながらも、意味のわからない状況に戸惑うばかりだった。
「いいでしょう。この距離で暴れられれば敵いません。ですが、お忘れなきよう。この屈辱。決して消えることは有りませんよ」
ルトリシアはすっと立ち上がると、制服の上着を脱ぎ捨てアンヘルの顔面に投げつけてきた。それを除けたとき、彼女は寝台に腰掛けながらスラックスの釦を上から外していた。
一つ、二つと外される。純白の肌が月光に晒される。冬の華のように白く清冽な冷たい匂いが漂ってくるようですらあった。三つ目まで外された時、恐ろしいほど冷えた目が此方を見据えた。
「こんなケダモノにはじめてを捧げるとは思いませんでした」
胸の下、半分まで外された。その美しさには、手つかずの清らかさすら滲んでいた。口紅などは引かれておらず、淡い華ように軍人らしい飾り気のなさだったが、それが逆に彼女の積もったばかりの雪のような幻想的で楚々とした美しさを示していた。思わず、見惚れる。
そこでようやく、意味が分からなくてショートしていた脳が再起動した。
「あ、あの!」
「なにか? プレイの指示で?」
「い、一体、何を、しているんですかッ」
「は?」
比喩ではなく、本当に世界が凍ったようだった。無言で戸惑うアンヘルと機能停止したルトリシア。
「は?」
もう一度言ってから、本当にアンヘルが困惑しているのを察したのだろう。現状を正しく理解すると、プルプルと釦を外していた両手が震える。そして喉から朱色が昇ってきて、頬が一気に紅潮した。
白くて細い指が、近くの陶器を握って潰した。
「アンヘルさま」
「は、はい」
彼女は、今まで見た中でもっとも優しく微笑んだ。
「目を瞑って頂けますか?」
はい、と言う暇もなかった。衝撃――
気付いたとき、アンヘルは突風によって壁まで吹き飛ばされていた。けたたましい音が鳴ってから、ズルズルと地面に落ちる。柱にぶつからなければ、壁をぶち抜く勢いだった。
「ルトリシアさま、なにか有りましたかっ!?」
「なんでも有りません。下がりなさい」
鋭い声で扉の外まで寄ってきたハーヴィーに指示しながら、ルトリシアは着崩れた服を直した。乱雑に紅茶の入ったカップを取ると、飲み干してからひび割れるほど乱雑に置いた。
苛立たし気に椅子へと座り、足を組んだ。
「アンヘルさまに貴族慣習の理解を求めたのは間違いでしたね」
「あ、あの、どういう意味で」
「オウル候補生の言葉を忘れましたか? 古くからの慣習で一対一でのお酌は”信頼”を意味します。とはいっても信頼とはその、アレなのですが……」
最後のほうはゴニョゴニョと言うだけであった。アンヘルにもここ迄説明されれば理解できる。というか、オウルの発言を後で精査していれば済んだ話だった。
無意味に負傷したアンヘルはなんとか立ち上がる。なんとか元の椅子に腰を落ち着けた。
「申し訳、ありません」
「帰ったら礼儀作法一式叩き込みますから、そのつもりで」
笑顔が怖いとはこういうことを言うのだろう。さすがのアンヘルにも言葉がなかった。
「ちなみに、なんですが」
「何です」
「さっきのやり取りを忘れて、というのは?」
たぶん、頭を打っておかしくなったのだろう。そうに違いない。胸に手を伸ばす、そんな蛮行は身体へ届く寸前に払われた。
「自殺願望がありまして?」
「冗談、冗談です。ははは」
「笑えるとでも?」
ドン引きするくらいには低い声だった。たぶん、これ以上は藪蛇だろう。アンヘルは態とらしくキリッとした表情を作り、声に真剣味を持たせた。
「本題ですが――シュタールさまの処遇はどうなりますか?」
「……どういう意味でしょう」
「誤魔化さないで頂きたい。シュタール(エルンスト)さまを処分されるおつもり――いえ、リエガー(ユースタス)さまにそう吹き込むつもりでしょう?」
今回の一件、辛くも勝利を拾ったアンヘルたちだが、それでちゃんちゃんとなるはずもない。恐らくルトリシアたちはそれを利用した方法を考えている筈なのである。
未だ目を覚さぬが、ユースタスが目を覚ませばエルンスト派閥の消極性を揚げ足に取り、攻撃を進言するだろう。そうなれば彼女は手を汚さずに平民派の勢いを削ぐことができる。現在、ラファエルによって両手両足を切断され、猿轡をされたオウルら証人も存在する(無論、今現在のアンヘルはそのことを知らない)。罪の捏造などお茶の子さいさいだろう。
こういう考えが読めていたから、政治に巻きこまれぬようスケープゴートである騎士ハーヴィーを連れて討伐に赴いたのだ。ただ、ホアンの記憶の残滓に触れて、エルンストの助命を頼まれた。恨みはあるが、それを無碍にはできなかった。
「だとしたら、どうします」
「処罰はオウルら下士官に留めて頂けませんか。それから、ホアン候補生の脱走嫌疑の解除と故郷への見舞金を」
「これは政治問題ですよ、一候補生が首を突っ込んでいいとは――」
先ほどとは違う、しかし、こちらも恐ろしい表情である。貴族の顔といって差支えあるまい。
けれども、アンヘルは一歩も引くつもりはなかった。
「引くつもりはありません」
「本気、のようですね」
敵対も辞さないつもりである。ハッタリだが、邪龍討伐の勇名は効いた。ルトリシアはふう、とため息をついてから同意を示した。
アンヘルは目を閉じて、礼を述べた。
仕方有りませんね、と言いながら彼女はティーカップに酒を注ぎ手渡してきた。慣習など関係ない平民への祝杯であろう。
それを受け取り無言になった。窓の外に綺麗な夜空がある。電飾のない空は星の輝きが天の川のように連なって見えるほどだ。一等星が、たとえ目を閉じてもぼんやり浮かんでくるほど眩く輝いていた。
――たとえ、織姫と彦星のように引き裂かれても、彼らならいつか。
そう、願うしかなかった。
「乾杯」
チンと杯のぶつかる音をたてながら、ルトリシアが優しく、いった。
アンヘルは星の彼方を穏やかに眺めながら、小さな嗚咽を漏らして、苦味と悲しみが混じったそれを味わっていた。
帝国暦314年
偉大なる召喚師として名を馳せるアンヘル。士官学校二回生では、彼に数多の困難が降りかかったが、名を馳せることはひとつも記録されていない。ただ一つ、小隊の雛形が結成されたことだけが記されていた。