イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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ようやく投稿再開です。途中で推敲に疲れたりしなければ、章の終わりまで連投します。


PHASE1-1:告白なしに青春は語れない

 ○月○日。はれの日

 

 きょう、はじめてじしょを引いてみました。なんでそんなきもちになったのかわかりませんが、お姉ちゃんがなんだか嬉しそうだったので、きになったんだとおもいます。

 

 そこには、こういうふうに書いてありました。

 

「告白」

 

「心の中に秘めていた想いや秘密にしていたことを隠さずありのまま告げること」

 

 むずかしくって、なんだかよくわかりませんでした。かわいくないし、すっごくつまんない。わたしはそう思って、じしょを閉じました。

 

 それなのに、なんでこんなことがうれしくするんだろうって、ぜんぜんわかりません。でも、お姉ちゃんは泣いてました。ぽろぽろ泣きながらふくでずっと顔をふいていました。

 

 イーサク兄もすっごくうれしそうでした。ずっと飛びはねてて、なんだかバッタみたいだなって思いました。

 

 わたしはお姉ちゃんになんで泣いてるのって聞きました。イーサク兄がわるいことをしたんだったら、助けてあげないとと思いました。

 

 でも、お姉ちゃんはすっごくきれいに笑いながら、むずかしいことを言っていました。

 

「想いを伝え合うことができるのは、言語を発明した人類への神様からの贈り物」

 

 よくわからなかったので、お姉ちゃんに書いてもらいました。

 

 なんだかすっごくきれいって、かんじます。

 

 でも、いっぱいしらべてもわからなかったので、いつかわかるかなってお姉ちゃんに聞いたら、大きくなったらねってアタマをなでられました。

 

 いつか、っていつなんだろう。でも、わたしもあんなふうに、お姉ちゃんみたいに笑えるときがくるのかな?

 

 そうならいいな。なんて、思いました。

 

 あしたは待ちに待ったおまつりの日。りかるどとあそびに行きます。きょうみたいにはれるといいな。

 

 

 

        候補生エマ。八才の日記より抜粋。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 階下の桜並木がすでに華を咲かせている。まだ開花の時期ではないとしぶとく居残る蕾たちも限界だろう。都市を運輸、漁業の二方面から支えてきた湖の送る清涼な風が、チラチラと早咲きの華を散らしてゆく。

 

 若草の芽も一晩で伸ばす穏やかなそよ風が、後ろに括った髪を撫でた。艶のある黒髪は風に流れ、燦々と照りつける夕日を浴びて煌々と光っていた。

 

 どれほど、今の沈黙が続いたのだろうか。気づけば一階校舎の影が伸びていた。

 

 大きく斜めに傾いた柱の陰影に自らの指先が少し掛かる。そこだけひんやりとした感触が神経を伝った。それを防ぐ為に手を閉じることもできず、ただ指先の冷気を感じ続けた。

 

 誰か居ないのか。女はふと、周囲を見渡した。

 

 右手側の医務室と書かれた部屋があり、廊下の奥にも似たような用務室が居並んでいる。人通りはなく、放課後の士官学校校舎はがらんと閑寂に包まれていた。

 

 誰もいない。注意を逸らすようなことは期待できない。

 

 緊張から喉がごくりと鳴る。ひび割れたように唇が傷んだ。少しだけ唇を舐めると潤いが戻る。決意を固め、ゆっくりと絞り出すように口を動かした。

 

「えっと、その、ね」

 

 意味をなさない呟きが空気に溶ける。それがなんとももどかしかった。

 

 声を発した女――エマは直視することを避けていた青年へと意識を戻した。

 

 眼前には頭を下げた男が一人。優しげな茶色の髪を真っ直ぐ此方に下げ、右手を大きく開いて突き出していた。

 

 男の手は極度の緊張と興奮から小刻みに震えている。直角まで曲げられた腰からは必死さと悲壮さを読み取ってしまう。いつもは猫背気味で上背を感じたことはなかったが、今日はことさら小さい。

 

「一目惚れ、だったんです。だめ、ですか?」

 

 彼の膝が震え、互いに打ち合っているのを認めてしまって、自分の中の決意がどんどん鈍ってゆくのを感じていた。

 

 返事をしなければ。頭の中でそれだけが反響した。

 

 長い沈黙で男が僅かばかり顔を上げる。体躯こそ大柄であり、頭三つ分も上背があるが、そばかすの残る童顔は年下みたいだ。ちょっと不均衡な鼻梁も可愛げを煽るアクセントであるし、垂れ下がった眦を伝ってゆけば、充血した結膜により仄かに赤みのさす瞳を見つけてしまった。

 

 目尻に盛り上がる雫が庇護欲をくすぐる。だというのに、もう一度「お願い」されれば、深層心理から帰ってきたのは拒絶だった。

 

 びくりと肩が震える。咄嗟に頬へ手を伸ばすと、頬の引き攣りを手先の感覚が教えてくれた。

 

 何を期待されているかなど、明白だ。

 

 彼を泣かせたくない自分もいる。

 

 ――だというのに。

 

 心の中は微塵も傾かない。

 

 伸ばされた手に対して、どういう対処を取ろうか結論することができない。真摯に想いを伝えてくれた彼を裏切るのは忍びないのに、想いは定まっている。

 

 この思いは水をかき分ける手のように不毛なものだとはわかっているつもりだった。けれど、心衷でぐちゃぐちゃとした塊になれば普段のように振る舞うのは難しい。

 

 口角を上げて無理やりに微笑みをつくる。光風霽月こそ金剛流青嵐弓術の基礎だが、まだ女として花開いていない彼女には心を無にする術はあれど、作る術は持ち合わせていない。

 

 それでもなんとか取り繕い、彼の肩に手を置こうとして空をきる。顔を上げさせて「ゴメンね」と一言あれば、それで済む話であるのに。

 

 だめ、だめなのに。

 

 優柔不断な押しに弱い性格を今は恨んだ。

 

「エマさん、お願いします!」

 

 目の前の男は懇願した。

 

 やめて、だめなの。このまま行ったところで不幸になるだけだから。

 

 エマは心中で願った。意味はなかった。心中で象られた言霊は、しかし相手に伝わることなく、ただ闇へ溶けてゆく。

 

 強まるのは男の支配。自分の手を無理やり取って、さらに言葉を紡いだ。

 

「エマさん、僕と付き合ってください!」

 

 もう、わからない。

 

 どうすればいいのか、わからない。

 

 迷った末、結局その男に対し「お友達から」という遠回しなオーケーを出してしまう。ぱぁと顔を綻ばせた彼は、大きくガッツポーズを作って飛び上がった。

 

 その男――『アンヘル』の嬉しそうな顔を見て、こう思う。

 

 どうしてこんなことに。

 

 エマは頭によぎる、これまでの経緯を振り返り始めた。

 

 

 

 

 

 士官学校に入学して以来三度目。そして、誕生以来十七年ずっと見続けてきたオスゼリアスの初春である。街の郊外一帯に広がる界隈には、二百年の歴史を持つ由緒正しい国立機関が存在する。

 

 その中の乱立するコンクリ建造物ではなく、一際古びた建物――倶楽部などに使っている――旧講義棟の窓からエマは外を眺めていた。

 

 二階、談話室と呼称される娯楽部屋にはボードゲームなどが多数置かれており、歴史と権威のある軍議盤も漏れなく備えられていた。

 

「王手」

 

「ちょ、ちょっと待ったっ。今のなし、なしだからな」

 

 往生際悪く慌てている男――リカルドは相手の了承を得る前に駒を一手巻き戻す。こういう光景は幾度も繰り返されたもので、向かい合う男もその強引さに半笑いを漏らしている。

 

 手に持つ本「慶用戦理戦術参考全其ノ一」に視線を落としながら、目下のところ愚形による突撃戦術しか持ち合わせぬ格子縞の盤上に呆れ混じりのため息を吐いた。

 

「あんた往生際悪くない? ささっと負けを認めたら?」

 

 リカルドはいつもの癖で爪をかみながら、忌々しそうに顔を顰めた。

 

「待てって、まだ負けてないんだって」

 

「そこから最高でも五手詰みよ。あんたの負けず嫌い、もう病気じゃない?」

 

「うるさいな。これは漢同士の神聖な戦いなんだっ。邪魔するなよ」

 

 といいながらも、彼は神の一手を見出そうとする。

 

 救いようがないな。エマはかぶりを振る。

 

「これで僕の十二勝目だね」

 

「うるっせ。今日こっから二勝すれば、俺の勝ち越しだ」

 

「ふーん。僕に勝てるかな?」

 

 悠々とふんぞりかえっている男――アンヘルは如何にも得意げだ。彼の盤面がもう少し良ければ、少しは尊敬できたろうか。両者の実力を鑑みて、エマは重々しいため息を吐くことしかできなかった。

 

 アンヘルとリカルドがこうやって放課後軍議盤を打つようになって、ちょうど一月になる。

 

 剣術では比肩する者の居ないリカルドだが、軍議盤は苦手で、放課後ひそひそと勤しんでいるのはエマだけが知る秘密であった。

 

 六種十六個の駒を駆使して王を詰める、古来からの戦術遊戯、軍議盤。新年のある日、リカルドたちが恒例の特訓のため談話室を訪れると、アンヘルという男が一人定石並べをしていた。そこからなんだかんだあり、二人は対局する運びとなった。

 

 最初はもつれにもつれ、アンヘルが取った。

 

 リカルドははじめて出会う好敵手カッコ笑いに対し、本気になった。

 

 くそ泥仕合の後、二人は意気投合した。驚くべきことに入学前から面識を持っていたのである。力の拮抗、話も弾めば、当然の結果だった。

 

 その日以来、二人は約束を取り付けるや否や三日に一度のペースで対戦していた。

 

(友達ができるのはいいんだけどね)

 

 アンヘルは純朴に映った。裏で何かを企んでいる同期たちとは違い、守ってやりたくなるようなヤギのような存在である。

 

 可愛らしい子だとは思う。こうも眼前で酷い泥仕合を見せられなければ、だが。

 

 盤上の攻防を見た。今度はリカルドが優勢。残ったのは竜と僧侶二つ。凄まじい損耗戦――泥仕合ともいう――であった。

 

 ――あいつに負けず劣らず、アンヘルくんも酷い腕。

 

 今度はアンヘルが唾を吐きながら食ってかかる。

 

「も、もう一回、もう一回だってっ」

 

「へへぇ~、『僕に勝てるかな』っていう威勢はどこ行ったんだ?」

 

 エマは頭が痛くなった。

 

「もういいでしょ。夕方だし、疲れた」

 

「明日は休みなんだぞ。もう一番くらいまだいけるっって。あ、お茶淹れてくれ」

 

 黒髪のツンツン頭を背凭れに掛けながら、椅子の前足半分を浮かして頼んでくる。

 

 さすがにムカついて、近くにあった彼の水筒を机に叩きつけた。

 

「はい、どうぞっ!」

 

「ひっ」

 

 アンヘルが手足を縮めながら、椅子の上で小さくなった。

 

「あ、ごめんさい。そんなつもりじゃ」

 

「おいおい、何しおらしく振舞ってんだ? あ、もしかしてアンヘルに――」

 

「違うッ!」

 

 どうしてまったく興味ない軍議盤対決に来ていると思っているのだ。無神経バカ男に内心パンチしながら、再び窓際の席に戻る。

 

「あぁ、こえー。そんなんじゃ嫁のもらい手はいなくなるよなぁ」

 

「そんなこと言ってたら、また叩かれるよ」

 

「聞こえてるんだけど?」

 

 小声で囁き合っているリカルドたちを睨め付ける。男らしく豪快に笑い飛ばしたリカルドは再戦とばかりに駒を並べ始めた。

 

 再開される戦い。凡戦に胡乱げな瞳を向けていたのだが、ふとエマは身を乗り出して、昨日の不思議な出会いを思い出した。

 

「そういえば、新入生にすごい子が入ってきたのよね。たしか――テルスさんだっけ。昨日会ったんだけど、なにか知ってる?」

 

「んあ? ああ、あの首席のやつか。超美人の」

 

「そうそう。わかる?」

 

「あー。遠目から見たぐらいだわ。アンヘルはなんか知ってるか?」

 

 リカルドが象の駒を進めながら、適当な調子で尋ねた。

 

 突然、窓から強い風が吹き込んでくる。エマのくくった髪が巻き上げられた。遅れて、ゆっくりとアンヘルが口を開く。

 

「知らない」

 

 氷のように冷えた声だった。稀にみせる、劣等生の彼には似合わない怖い表情だ。盤面に集中しているリカルドは気づかなかったが、エマはそのごく僅かな時間の変化に背筋が寒くなった。

 

「え、えっとじゃあ……」

 

「というかエマ。昨日ってどこで会ったんだ? 昨日は下級生と合同なんかなかっただろ?」

 

 しまった。藪蛇を踏んだ。

 

 ぎくりと表情を硬直させる。集中している二人は気づいていないようだが、あまり長々と黙っていても突っ込まれる。エマはさきほどの寒気も忘れ、適当な言い訳を考えはじめた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 タン、タタンと規則正しいリズムが届く。機嫌の悪そうな顔をした短髪の女が厳しい顔で腕組みして、右のつま先で地面を叩いているのだ。

 

 本日は小隊戦に向けた三回生の懇親会である。参加は自由ながら開幕まであと少しとあって、どこも情報収集に余念がない。

 

 そんな中開かれる集まりはすべてにおいて優先される。であるからして、会場の廊下で屯するなどもってのほかであった。

 

(彼女はソニアさんね。やっぱりクナル班はリスキーだったみたい)

 

「そんなにカリカリしなさんなって。それより、この後食事でもどう? 良い店見つけてさ」

 

「結構よ。あいつはまだ呼びに言ってるの?」

 

「アンヘルさん……じゃなくて、アンヘルはまだ掛かるんじゃねえかなぁ。ほら、ウチの隊長は気まぐれだろ?」

 

「やってられないわね。アルバ、貴方が呼びにいってくれないかしら?」

 

「……むり」

 

 ふるふるとアルバが首を振る。クナル班の個性的な面々はやる気があるソニアとやる気のないベップ、アルバの両極端に別れていた。

 

(彼女も大変みたいね)

 

 そもそもとして彼らは服装からして変だ。大事な懇親会なのに、ベップは上着を腰巻きにして、スラックスの第二ボタンを開け放っている。アルバにしても民族ターバンを巻き、襟詰の下には鎖帷子のようなものを着込んでいる。かたやナンパ直前、もう片方は戦時下の格好と頭がおかしい。

 

 自分たちも廊下で立ち往生していることも忘れ、深くソニアに同情した。

 

「どうします、エマさん。もうリカルド隊長は放っておいて入りますか?」

 

「主催はニコラスよ。リカルドなしで弱みを見せたくないわ」

 

 もう少し時間がかかりそうだと考えたエマは、廊下で待機している彼らに近寄った。向こうもこちらの存在に気付いていたのか、両者とも隊長がいないということで同調し、挨拶そこそこに情報交換を行うこととなった。

 

「ええっ、まだ六人目が見つかっていないの?」

 

「私もずいぶん探したのですが」

 

 ソニアはずいぶん意気消沈した様子で力なく首を横に振った。彼女が新人探しにどれほど尽力したのが透けて見える。六体六の小隊戦で人数が足りないなど狂気的なハンデだ。

 

「どうして? 結構有名だから、入りたい人は居るんじゃない?」小声でソニアにだけ聞こえるよう尋ねた。

 

「隊長の意向で、弱い奴はいらない、と」

 

「あー、言いそうね」

 

 頭の中でクナルのイメージを思い浮かべる。三年も同じクラスに属しているが、いまだ理解できない変人だ。

 

「でも皆和気藹々としてるみたいでよかったじゃない。ほら、クナル隊長って結構おっかなそうだし」

 

「そんなことありません」

 

 ソニアは強く否定した。彼女の語るところによると、どうやら外からの見た目に反して、上位下達が徹底されているらしいのだ。

 

 たとえばベップである。ソニアにナンパをしてみたり、アルバに絡んでみたりと騒がしいように当初は思えたのだが、よく観察すると決してそれ以上に広がることはないのである。終始無言のアルバも例外ではなく、決して好いているようには見えないベップにしか話しかけない。次に重要なのは、彼らの主体性のなさだった。何かを申しつけるとき、必ず「参加者は?」と尋ねる。そして、彼ら以外が参加しないと聞けば必ず拒否するらしいのだ。

 

「それは、大変ね」

 

 意外だ。エマは本心からそう思った。

 

 リカルドの知り合いであるアンヘルが参加できたり、どちらかといえばあまり出世に興味がない人物で構成されていると思っていた。一般的にやる気のない班は内情も温いことが多い。

 

 これは大事なことを聞いた。もしかしたらクナル班は小隊演習の台風の目になるかもしれない。

 

 嫌な予感をおぼえたとき、窓の向こうに士官学校の敷地塀を乗り越えようとする人影を見つけた。

 

 ――今日にかぎってっ!

 

「エマ副隊長っ?」

 

「ごめん。あとで懇親会の内容を教えて」

 

 エマは班員の一人に頼み込むとその人影の後を追った。同じように塀を乗り越え、無断で士官学校外へと飛びでる。閑静な郊外の街並みの向こうに、追っている男の人影がちらりと映った。

 

 何事もなかったかのように足を早め、男の後を追ってゆく。角の先を曲がった瞬間全力疾走し、その背中を捉える距離まで詰めた。

 

 男は規則正しい歩行で道の端を歩き、一直線に商業区へと向かっている。すでに陽が落ちかけているいま、このまま往復すれば帰りは深夜になるだろう。

 

 明日も厳しい訓練が控えている候補生がなぜこそこそと街中へ。巷に流れる噂が真実味を帯び始めていることに恐怖していた。

 

(やけにウロウロする、結局どこへ向かうの?)

 

 かなり長い間尾行が続いた。途中で男の着替えを挟んだとはいえ、何度も同じ道をぐるぐると回っているせいか、時が過ぎるのははやい。警戒心はありえないほど強かった。

 

 と、突然男が酔っ払いどもの集団に紛れ込む。あまりの急な出来事にエマはびっくりして走り寄った。

 

「あの、すみません!」

 

「なんだい嬢ちゃん?」

 

 酔っ払いどもを掻き分けた先には、十字路が広がっている。夜の闇に紛れているのか、どの方角に男が向かったのかわからない。

 

 こちらの杜撰な尾行など気づかれていたのだ。

 

 エマは大きく舌打ちをした。酔漢どもの好色な目が、怒りに満ち溢れた音でさっと逸らされる。

 

 今日こそ何かが掴めるかと思ったのに。大きな歯軋りを鳴らしながら帰途へとつこうとすると、背後から物々しい音がした。

 

 得物が鞘から解き放たれる音。誰かが剣を抜いたのだ。

 

 ひやりと流れ落ちた汗。それを感じる前に男の一人が質問した。

 

「憲兵のディアゴだ。こんな夜更けに候補生が何をしている」

 

 なんだ憲兵かと振り返ると、首元に長剣の鋒が突きつけられた。

 

「動くな、外出許可証を見せろ」

 

 うっと喉が詰まった。エマは現在、無断で塀を乗り越えた候補生の尾行をしていた。許可証もなければ、動機も信用されまい。とんでもない事態になった。

 

 眼球だけを左右に動かしてみるが、三人組の憲兵たちが囲んでいる所為で観衆が輪を作っている。皆職人なのか、助けの手を差し伸べてくれそうな人はいない。酔っ払っているせいか暴言が聞こえてくるくらいだ。

 

 紺の制服に身を包んだ男たちが、グッと近寄ってきた。まずいと思って、反射的に身をよじった。

 

「貴様っ、抵抗するなら逮捕する!」

 

 ディアゴの長剣が閃いた。一直線に無防備な喉へ向かって突きが繰り出される。

 

 エマはあまりの恐怖に目を閉じた。

 

 一瞬、死すら覚悟した。

 

 ガキン。鉄の弾ける甲高い音が響いた。

 

「クソ、仲間かっ!」

 

 目を開いた時、こちらの喉を突き破っているはずだった長剣をディアゴは地面に落としていた。近くに転がっているのは一本の矢。誰かがこちらを援護して、刀身を弾いてくれたのだ。

 

 これ幸いとばかりにエマは右側の男に足払いをかけると、転がるのも見届けずに街路を駆けた。

 

 観衆の拍手と憲兵の怒声を耳に全力で走り抜ける。自慢ではないが、エマの走力は弓使いだけあって群を抜いている。所詮憲兵の中年には、一度開いた差が縮まることはなかった。

 

「はぁ、はぁ、さすがに、つかれた」

 

 エマは近くの路地裏で壁に寄りかかりながら、荒い息を吐いていた。

 

 これだけ距離をとれば、さすがの憲兵も追ってこれないだろう。どっどっと早鐘を打っていた心臓が落ち着いてくると、さきほどの援護が気になってきた。

 

(誰が助けてくれたんだろ。知り合い? でも弓使いに知り合いなんて……)

 

「無事だったみたいね」

 

 突然、闇の中から声がした。それは美しい声だった。エマは路地裏の闇の奥に目を据えた。

 

 コツコツと規則的な足音が響いてくる。かすかに月明かりが照らす場所に姿を見せたのは、エマと同じ制服に身を包んだ少女だった。

 

 女は片手を頬に当てながら、慈悲を見せる女神のように微笑んでいる。稲穂のような金色がかった茶髪を後ろに束ね、長いまつ毛を瞬かせている。歳の頃は一つ二つしただろうと思うのだが、やけに艶冶な雰囲気を持つ。

 

 白い指の嫋やかさと細くて折れそうな手足。内からの滲む力の奔流。清流の清らかさと洪水の荒々しさを持つ彼女は、まるで闇から滲み出てきたような神秘性を持ち、はらからの人間であるとは微塵も思えなかった。

 

「誰、あなた」

 

「ふふふ、そういえば名乗っていなかったわね。私はテリュス。一回生の後輩に当たるのかしら?」

 

 闇の中であっても自ら光を放ち、輝いているような少女だ。身動きできないエマの肩をポンと叩き、耳元で囁いた。

 

「感謝はいいのよ。だって、当然の役目ですもの」

 

「……」

 

「感動して声もでない、といったところかしらね」

 

 くすくすと笑いながら、少女は表通りのほうに去ってゆく。

 

 ミステリアスで電波な彼女。そこらの酔っ払いにでも絡まれたような、不可解さだ。

 

 何もないところで出会ったら、間違いなく頭のおかしい人間だと思うだろう。

 

 なのに。言っていることはなにも理解できないのに。エマが感じているのは、間違いなく共感であった。

 

「よかった、あなたがいてくれて。ご主人さまも喜ぶわ」

 

 ――ねえ、そう思うでしょう?

 

 彼女の影には、他よりも明らかに月明かりの降り注ぐ量が多い。エマにはそれが、後光のような荘厳で神聖なものにしか見えなかった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「へー、昼休みの間に会ったのか?」

 

「だからそうだって言っているでしょ。しつこいわよ」

 

 結局それから半刻ほど。なんだかんだ泥仕合になり、最終的にリカルドが勝利を収めた。

 

 そろそろ遅い時間ということになり、お開きになる。

 

 濃緑色の棚に軍議盤を仕舞い込んだとき、談話室の引き戸が音を立てて開け放たれた。

 

「こんな所でヒソヒソ練習とは、下手の横好きにも困ったものだ」

 

「……ヴァレリオット」

 

 エマたちは声のした方角に振り向いた。忌々し気にリカルドが名を呟く。不快感を押さえつけるよう歯を食いしばっていた。

 

 ぞろぞろと小隊を連れて入ってくる。その先頭ヴァレリオット・アウレリオ・ラブロックは、側面を刈り上げ前髪の長い、端正な顔つきで笑っていた。

 

 下級貴族、それも行政官族と武官族を往復する一族で、どちらかといえば力のある貴族らしいことは風の便りで聞いていた。歴史や伝統を重んじ、決闘の習いである白手袋を常に身につけ、瀟洒な指輪で着飾っている。序列は四位。実践偏重のラファエル班とは違い、正統なリカルド班のライバルといえた。

 

「何の用?」エマは無表情で尋ねた。

 

「いやいや、今度の開幕戦。君たちの様子はどうかと思ってね」

 

「お前たちには関係ないだろ」

 

 リカルドが吐き捨てるようにして、顔を背ける。

 

「行くぞ」

 

「おいおい、つれないな。俺たちは学友だろう。放課後に語り合ってこそだ」

 

「ふざけるな。お前たちの妨害行為を忘れるとでも思ったのか?」

 

 そう言い捨てて、リカルドは彼らの真横をすり抜けてゆく。アンヘルもそれに続こうとする。

 

 が、彼の体がふわりと宙を舞った。

 

 足をかけられ、地面に鼻を打つアンヘル。ぎゃっと間抜けな音が聞こえた。

 

 ――アンヘルくんっ。

 

「貴様、何をやっているっ!」

 

 エマに先んじて怒鳴り声が響いた。予想外の援護にアンヘルが「え、そっち?」と素っ頓狂な声をあげている。

 

 怒鳴ったのはヴァレリオットだった。縮こまる取り巻きを押しのけ、アンヘルを助け起こした。

 

「済まないな。これで鼻血を拭きたまえ」

 

「えっと、ありがとう、ございます?」

 

「礼を言われるようなことはしていない。此方の教育不足だ。少ないがこれを、新品に替えてくれ」

 

 ヴァレリオットは懐から金子を取り出した。

 

「あ、はい、どうも」

 

「本当にすまないな――リカルドくん。今回、私たちの不手際もあるから退くが、次はこうもいかないと思ってくれ」

 

「貴方のやっていることは非道だわ」

 

「勝つための悪虐と言ってほしいな」

 

「――さすが口は回るな」

 

 更なる追加にエマたち、ヴァレリオットたちも振り向いた。そこには引き戸に手を掛けて、気軽そうに笑う男の姿があった。後ろには女性候補生。どちらも見覚えがある。

 

「よう。おもしろそうなことやってるじゃんか。俺たちも参加させてくれよ」

 

 召喚師ラファエル。

 

 ヴィエント家の派閥筆頭株にして、この士官学校における召喚師の一人である。剣に長け、学問はほどほどと奇跡の世代代表の一人といっても過言ではない。背後に序列八位のフェルミンを引き連れた彼は眉上で切りそろえた前髪を触りながら、颯爽と机に腰掛けた。

 

「何の用かな?」ヴァレリオットが静かな声で尋ねた。

 

「別に何もない。ただ気になっただけさ」

 

「ほう、君ほどの実力者が意外と暇なんだね」

 

「それはそっくりそのまま返すぜ」

 

 肩をすくめたラファエルは、異常なほど好戦的な眼をしていた。

 

「しっかし、あのヴァレリオットも打倒リカルドってことか。いやいや、ちょっと寂しいね」

 

「ラファエル、結局お前は何がしたい?」

 

 リカルドも相手の戦意に乗せられて気が昂っていた。

 

 机から飛び降りたラファエルはゆっくりと室内を歩き、ピタッと両派のど真ん中で立ち止まった。

 

「宣戦布告さ」

 

「なに?」

 

 リカルドの声が険しくなる。ヴァレリオットもただならぬ表情を浮かべた。

 

「去年、結局俺は実技ではリカルドに負け、筆記ではヴァレリオットに負けた。しかも総合では四位だ」

 

 言葉とは裏腹にラファエルがにやりと笑う。彼の自信は一切減じていない。そう伺わせる表情だ。

 

「だが、それは今まで規定のルールで戦っていたからさ。小隊戦では召喚術も許可される。今年は俺が一位になる、という宣言に来たのさ」

 

「自信過剰ね」

 

 目に余る態度を見かねて、つい口を挟んでいた。

 

「おいおい、エマちゃん。今は俺たち三人の頂上決戦だぜ。いくら君でも口出ししないでくれよ」

 

「ラファエル隊長、そういう言い方は……」

 

「いてて。ああ、そうだな。すまんすまん」

 

 背後のフェルミンにつねられた彼は片手で謝罪ポーズを作った。けれども、目は一切笑っていない。あくまでも形だけだ。

 

(すごい自信。噂に聞くロヴィニ紛争や小隊親善試合で相当自信を付けたのね)

 

 例年通り、新学期早々三回生上位と五回生上位との間で小隊戦の親善試合が行われた。これは厳しい基礎訓練が待っている新候補生への見せ物でしかなく、大抵の場合五回生が胸を貸してやる程度の催し……のはずなのだが、この男ラファエルは五回生序列二位に圧勝した極め付けの化け物であった。

 

 じわりと冷や汗が流れ落ちる。三方から発される圧力に、エマらは知らず部外者のようになっていた。

 

「君が強いのはよく知っているよ。無論、軽んじたつもりもない。明日には君のところに伺うつもりだったさ」

 

「それが気に入らないんだよ。こっちが一番じゃなきゃな」

 

「お前はそこまで順位を気にするタイプだったか?」リカルドが不思議そうな顔をした。

 

「キャラじゃないんだが、ちょっと上にアピールしときたいんでね」

 

 不甲斐ない自分を自嘲するように首をすくめると、大きく威圧するように目を見開いた。

 

「ロヴィニ紛争もあってよ、あれには本当に苦労させられた……」

 

「隊長っ」

 

 フェルミンが目の色を変えて叱責するが、今度のラファエルは取り合わなかった。

 

「それでよ、一応対策の為に出回っている情報を精査してみたんだよ。経典を読んだり、事件を調べたりな。ああ、五月蝿いのはなしな。危険思想にのめり込んだわけじゃないからさ」

 

 周囲の勘ぐりを鬱陶しそうに手で払った。バアル教団は召喚師崇拝の教理である。外に漏れると異端視されるような行動だ。

 

「教義には興味がないんだが、一個だけおもしろいモンがあってね」

 

「それは何かな?」

 

「召喚師っていうのは、実は見た目ほど強い奴らじゃない。無制限に召喚できるようで、主人の能力によって呼び出せる数、種族や力に限りがある。だから大抵の場合、召喚主のほうが強かったりして眷属は補助にしか使わないこと多いんだよ」

 

「だからなんだ。そんなことは俺でも知ってる」

 

 苛立ったようなリカルドの声。ラファエルは慌てんなとジェスチャーした。

 

「けど、ある時点からそれは転換する。二度の進化を経た眷属、もしくはそれに匹敵する能力を持つ眷属。それと契約できた召喚師を経典では『覚醒者』って言うらしいぜ」

 

 ――覚醒者。二度の進化した眷属を持つものたち。

 

 彼はこの前の親善試合にて、一度進化を果たした龍「ホワイトドランゴン」を従わせていたが、その姿は入学以来長い間変わっていない。

 

 それがもしかしたら、この一ヶ月の間に――

 

 召喚師としての極みに達しつつあるのかもしれない。そんな考えが心の中に湧く。恐れからか、無意識のうちに指先が震えていた。

 

「こんな話を今した理由、是非考えてほしいもんだな。ライバルさんたちよ」

 

 言ったとおり、これは宣戦布告だ。しかも絶対に負けないという自信を持った、相手を動揺させるための前哨戦でもある。去年以上にラファエルは強敵だ。エマは熾烈化する小隊戦を予期した。

 

 じゃあな、と手を振りながら去ってゆく。と思ったのだが、何を思ったのか後ろ歩きで戻ってきて予想外の人物に注目した。

 

「それにしても……」

 

「ラファエル隊長、どうしたんですか?」

 

 フェルミンが不自然な動きをする彼を尋ねる。彼はなんと、胡散臭気にアンヘルを見つめていた。

 

 じっくりと舐めまわすように見つめると、馬鹿げた考えだといわんばかりに頭を振った。

 

「いや、まさかな――悪いね、なんか巻き込んじゃったみたいで」

 

 今度こそヒラヒラと手を振って去ってゆく。詰まっていた空気が解放されたような感覚すらあった。

 

「なかなか油断ならないようだな」

 

 ヴァレリオットも疲れたように肩を落とした。

 

 ――勝つ為ならどんな手も使ってくるヴァレリオット班。

 

 ――召喚師として真の能力を発揮してくるであろうラファエル班。

 

 ――そして、同班に序列一桁の上科を二人揃えたリカルド班。

 

 今年の小隊演習は例年とは別格の騒ぎになる。エマの胸中にそんな予感があった。

 

「そこの君、巻き込んで申し訳なかった。医務室に行くことをオススメする」

 

 気勢がそがれたのだろう。ヴァレリオットたちはアンヘルにもう一度謝罪すると、すぐに去っていった。

 

 急に静かになった部屋で、エマはヘナヘナと椅子に座る。疲れたぁと伸びをした。

 

「はぁ、ラファエルって本当にガキね。フェルミンの苦労が偲ばれるわ」

 

「……」

 

「ねえ、聞いてる? リカルドってば」

 

 エマが振り向いたとき、リカルドは凄絶に笑っていた。歯をむき出しにして、まるで好敵手でも見つけたように。

 

 こいつもガキだったわ。

 

 でも助けるんですよね? フェルミンの声が幻聴になって聞こえてきたような気がした。苦笑いしながら彼の背中を叩く。

 

「リカルド、聞いてんの?」

 

「っああ、どうした?」

 

「どうせあんたのことだから、これから鍛錬するんでしょ。アンヘルくんは私が付き添うから、行っていいわ」

 

 渋るアンヘルを一言で黙らせてさっさと帰り支度をする。

 

「だが……」リカルドはバツの悪そうな顔をした。

 

「長い付き合いだからわかるって。ほら、こっちは任せといて」

 

「あ、ああ、悪いな。アンヘル」

 

 何度も謝りながら去ってゆくリカルド。エマは苦笑いしながらも、いつも自分を引っ張ってゆく彼の力強い背中にぬくもりを感じていた。

 

(それにしても……)

 

 ちらりとアンヘルを見る。彼は興味なさそうに、というよりは医務室に行きたくなさそうな顔をしているだけだった。

 

(あんなことがあって、とぼけたような顔って変な子ね。ニブイってもんじゃないでしょ)

 

 草食動物でももっと敏感だろう。エマは呆れ混じりに医務室へと向かう。結構渋ったアンヘルだったが、最終的には肩を落として向かった。

 

 その後である。問題なしのお墨付きを医師からもらったあと、二人して寮に戻ろうとすると彼が唐突に言ったのだ。

 

 エマさん、僕と付き合ってください、と。

 

 

 

 

 

「じゃあ、明日の昼に」

 

 気づいたときには、すでに遅かった。男は無理やり手を掴んでくると、ぶんぶんと嬉しそうに振る。草食系だと思っていたが、消極的承諾をしてしまえば、流れるようにデートプランを取り付けられてしまった。

 

 これ以上は。エマは早めに相手の手を振りほどき、用事があると端的に告げた。

 

 気遣いや社交辞令に含有させる嘘。

 

 しかし、アンヘルはその言葉を聞いた瞬間、気を抜いていれば分からぬほどの一瞬だけ、喜色に富んでいた目の色を変えた。

 

 ぞっとする輝きだ。鋼の鈍さと泥沼の深淵さがない混ぜとなっているようであった。

 

 それも一瞬のこと。男はさきほどの鋭さがなかったかのように、再び満面の笑みを浮かべてにっこりとした。

 

「用事、頑張ってください」

 

 どこか照れ臭そうに言った。

 

 今度こそ自然な笑みを浮かべる。自分の幼馴染であるリカルドの親友。彼が信頼しただけあって、性根はとても気遣いのできる優しい子である。無論、自分にとっても背景関係なく好ましい人物である。

 

 競争意識が強く、また時勢により思想が加熱する軍においては得難い縁であることは間違いない。

 

 ――それでも付き合うっていうのは想像できないな。

 

 いつか、今日先延ばしにした結末を告げる日がやってくる。その時の彼を想像すると、胸が苦しくなる。でもそれが、思いを告げられた者の責任だと分かっていたから。

 

 女は踵を返して男に背を向ける。ふと彼の言動を思い返す。告白されたときには当惑し、気にしている余裕はなかったが、よく考えれば如何にも意味が通らない。男とはリカルドとの親交から繋がった縁であり出会った当初は会話も交わさなかった。であるのならば、一目惚れなど……

 

 背後から大きな声が響いてきた。

 

 ――明日の昼、大広場の戦女神像で待ってますから。

 

 現実に引き戻された女は、忘れさろうとしていた心の憂鬱を表面に映し出してしまう。振り返らない。この顔を見せて、男を無意味に悲しませる趣味はなかった。

 

 振り返らず、ただ、声だけで応えた。

 

「楽しみにしてる。アンヘルくん」

 

 

 

 

 

 エマが背を向けて去ってゆく。楽しみにしていると言わせてしまった己に嫌悪感を覚えながら、それを消すようにじっと拳を握った。

 

「結局泣き落としですか、先輩」

 

 背後から声がかかる。声変りしていない少年の甲高い響きだ。振り返らずとも、アンヘルにはそれが誰か判っていた。

 

 柱の影から滲み出るようにして現れた男は、ゆっくりと真横に並び冷笑を浮かべた。

 

「結果オーライですが、見てる方が恥ずかしくなりますよ」

 

「ガイルス、君は僕の補佐だ。口出しはやめてくれ」

 

 アンヘルの声は先刻よりもずっと冷えていた。

 

 並んだ男は童顔かつ彫りの深い顔立ち。生白い肌に赤みがかった茶髪を片目だけ隠すようにした髪型、すらりとした体型。士官には見えないが、意思の強い瞳が彼の学者的印象をガラリと変えた。

 

 ガイルス・グリックス。

 

 一級下にして機構では同僚にあたる彼は、ポケットに両手を突っ込みながら口の端を歪めていた。

 

「まあ、そう興奮なさらず。先輩思いの後輩、その献身だと思ってくださいよ」

 

「僕達は遊んでいるわけじゃない」

 

 ガイルスは猫のようにしなやかな身体をすくめてみせて、ニタニタ笑う。アンヘルはその態度に歯軋りをした。

 

「聞いていたかもしれないけど、報告だ。明日の正午、彼女と共に街を見てまわる。身辺調査準備は?」

 

「これですよ」

 

 待っていました、と言わんばかりにガイルスが書類を渡してくる。

 

 受け取って文字列に視線を走らせる。書類には士官候補生エマの詳細な経歴が書かれていた。

 

 好み、交友関係、親族。思想や宗教観、能力や成績に社交性。すべてが見えるわけではないが、ある程度は把握できる内容。

 

 そして、空白になっているところ。平民派過激思想「救国主義」との関わり、そして『サイレール密売』関与の証明。それこそ、アンヘルが行なっている任務の目的であった。

 

「明日の内偵、汚名返上できるよう祈ってますよ」

 

 ガイルスはそう言い捨てると、踵を返し去っていった。

 

 ――秘密警察機構の実地研修。特務随行員アンヘルの任務は、サイレール密売の容疑が掛かるエマを調査することである。

 

 それはつまり、倫理を無視したスパイ活動であった。

 

 

 

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