どうしてアンヘルが秘密警察に属することになったのか、その説明をしなければならない。そもそもの始まりは告白の二か月前に遡る。
「久しぶりのオスゼリアスですが、年々ここは物騒になりますね。アンヘルさまも後期試験は御壮健でありましたか?」
帝国内で領地保有が認められた五大貴族家の一門ヴィエント家の次期当主、ルトリシア・リーディガー・エル・ヴィエントは頬杖をつきながら、ケーキを口に運んだ。
「いえ」
アンヘルは出入り口から飛んでくるハーヴィーの視線に慄きながら、小さく否定を口にした。
第二回生後期試験が終わった翌日。
士官学校は試験が終わっても訓練が継続される。例年は休暇申請して遠方の実家に帰る候補生も、今年ばかりは小隊編成のため学内に残っていた。
そんな雪解けも始まっている季節、アンヘルは士官学校内の物々しい雰囲気には似つかわしくない応接棟、通称貴族館のテラスに招かれていた。
「ルトったら全然居なかったからね。ボクちょっと寂しかったよ」
丸テーブルの一角、中性的な声でクロエ・シルウィア・エル・オスキュリアが頬を膨らませる。三白眼が猫のように動き、ラドック人特有の砂塵色の指がルトリシアの脇腹を突いた。
「ちょっと、クロエさん」
「にひひひ。こういうのも久しぶりだねぇ」
ちょっと艶かしい声がルトリシアから漏れる。アンヘルは横目でそれを見て、クロエの揶揄い混じりの瞳に咎められるという行為を繰り返した。
ロヴィニ村の一件は、政治的には兎も角、士官学校内ではある程度の収束を見せていた。
帰還当初の反響は大きかった。バアル教団の本格的侵攻の気配や五大貴族家の子息たちを狙った犯行、それに合わせた平民派オウルの反逆など、遠征演習から帰還した第一中隊の面々はてんやわんやの事態となった。ルトリシアら貴族は勿論のこと、アンヘルたち士官学校側も三十人近い死者と罪人を出したということで、聞き込みや調査で帰還後一ヶ月ぐらいは気の休まる日はなかった。
不憫だと思ったのは、騎士ハーヴィーの扱いである。彼はルトリシアをオスゼリアスまで送り届けると、サイレール製造や邪竜討伐の件で再び蜻蛉返りし、もう一度帰ってくると今度は勲章を授与されていた。休む暇なく飛び回り痩せ細る彼を見ていると、英雄の早死にを想像して心底同情したのだった。
ちなみにそれを揶揄ってやると、夜中に閃光弾をぶち込まれるという暴挙に及ばれたので、二度と茶化すのはやめようと思っていたりする。
そんなアンヘル側の心情は兎も角、ようやく事態は収拾の兆しをみせ、ルトリシアも領地から帰還したところでお茶会がなったということだった。
「それにしてもねぇ――」
クロエの猫っぽい悪戯好きの瞳がこちらを捉える。ダラーンと軟体生物のような柔軟さで机に倒れ込むと、腕を立てて半目になった。
「な、なんでしょうか?」
アンヘルは若干狼狽しながら、半笑いをつくった。
「べつに、ルトがボクとのお茶会に誰かを呼ぶなんて珍しいと思っただけー」
「そうでしょうか? たとえそうだとしても、人は斑気なものですから。偶々ですよ」
「ふーん。ま、いいけどね」
という割に、口元のにやにや笑いが消える気配はなかった。
「それよりルト。これからはずっと居られるの?」
「ええ、そうなりますね。もう少しすれば元老院主催の全州議会の時期ですから。それまでは此方に腰を落ち着けないといけないでしょう」
彼女はすでに貴族としての役割を継いでいるため、時折領地に帰ることもあるほど多忙だ。ただ、今年はバアル教団の対策を練るための全州会議がオスゼリアスで開催されるので、少しの間釘付けになるらしい。
「ふーん。忙しいんだねぇ」
「クロエさんこそ、お仕事をなさっては?」
優雅に脚を組みながら淑女らしく膝の上で手を揃え、美しい笑顔を浮かべた。でも、ちょっと笑顔が黒い。それを受けて、引き攣った顔のクロエがそっぽを向く。
「ボク、そういうの得意じゃないし」
長い間疑いの眼差しで見たルトリシアは、最終的に大きなため息をついた。
アンヘルはこっそり闘茶の残りを飲み干す。今回は事前調査が使えずかなり難問だったが、たまたまアリベールに貰った茶葉と同じだったのが功を奏した形であった。
「こんなダメダメさんは置いておいて、アンヘルさま。最近の爆破事件について何かご存知ですか?」
「えぇー、ルト。そんなつまんない話はやめようよぉ」
「ですからね、クロエさん。私はこれから全州会議に挑まなくてはならないのですよ。危険を排除しておくのはもはや義務なのですから」
呆れたようなため息を吐きながら、ルトリシアはかぶりを振ってみせた。
「私たちが狙われる可能性もありますから、情報収拾には気を使って――」
「ボクには関係ないよ」
今までのどこか腑抜けた雰囲気ではなかった。帽子の庇の下で、クロエは三日月のような笑みを浮かべる。
「君もそうなんでしょ。たしか、アンヘルくんだっけ?」
「……どういう意味でしょうか?」
「あはは、隠してもわかるって。ルトが気に入る理由もね」
貴族子女にはあまり相応しくない動きでバシバシと背中を叩いてくる。オスキュリア家の護衛が苦い顔をしていた。
さて、とクロエは立ち上がった。
「じゃあボクはいかないと」
「公用ですか?」
ルトリシアが意外そうに尋ねた。
「ううん。家のことだから。ほら、ボクってラドック人だからさ、色々あって」
ラドック人の故郷は、現在民族紛争で大忙しだ。クロエの特異な出自もあって難しい問題なのだろう。
バイバーイと手を振りながら、気楽な雰囲気で去っていった。
それからアンヘルは、ルトリシアと取り止めもない話をした。
平民派と思われる爆破事件のこと。
学内の問題。
それから個人的な成績について、など。
お茶の時間にしてはかなり長い時間を過ごした。そろそろ去るべき時間だろう。アンヘルは一言添えてから立ち上がったとき、ルトリシアがふと思い出したように言った。
「そうそう、忘れるところでした。ハーヴィー」
ルトリシアが顔を上げて呼びつける。騎士は苛立ちを前面に立たせながらも言った。
「貴様の担当教官殿が用事だそうだ。リースフォール公園で待っているらしい」
「公園です、か?」
「私に聞かれても困る。雑事係に伝言を頼まれただけだからな」
なぜに公園だ。用があるなら学内で済ませればいい筈なのに。アンヘルは釈然としないながらも、伝言に沿った。
そのままの足で外出許可を取ったアンヘルは、ジブリーン橋を渡って士官学校からほど近い公園に赴いていた。
後任教官ベルモンドは黒髪の若い男で、北方戦線で任に就いた後、教官として赴任したらしい。あまり面識がなく、細々とした噂話を聞いたばかりであった。
公園には疎らに子供とその母親らしき人物がいるのみであり、職業軍人らしい地肌が見えるほど刈り込んだ若い男の姿はまるで見つからない。
時間指定されていないので、恐らく早く着き過ぎたのだろう。アンヘルのような軍服姿では目立って仕方がない。何気ない仕草であたりを見回す。散歩途中なのか、一人の老人らしき人物がベンチで休んでいた。
ちょうどいい。貴族との会話で疲れていたとろこだった。老人に一言告げると反対側、ベンチの端に腰を下ろす。
伸びをしながら、そっと公園を流れる川に視線を流した。子供たちが水を掛け合って遊んでいる。微笑ましい光景に頬が緩む。
和やかな時間が流れていたとき、真横から、碩学らしい茫洋とした声が響いた。
――この前は助かったよ。アンヘルくん。
隣に座っていた老人から発された、その強烈に覚えのある声に立ち上がっていた。
全身を貫く恐怖と戦慄が脳髄を凍結させ、かわりに生理的反射として震えという現象を齎す。今見ても唯の老人であることは間違いないが、声はそれを否定してくる。
――あなたはっ。
ドミティオス・ガウス・マリアウス
震える唇が、彼の名前をつぶやいた。
老人は深い帽子で表情が伺えないものの、口元だけ淡い微笑をつくる。
「座りたまえ。せっかく変装しているのにこれでは目立ってしょうがない」
突然立ち上がったことで周囲の子供達が奇異の目を向けている。親たちも、青年と老人の間の剣呑な雰囲気に気付き始めた。
さああ、と風に乗って落ち葉が舞い上がる。ぎりぎりと知らぬ間に奥歯を噛み締めていた。
この男に逆らうのは得策ではない。アリベールという弱みを握られているうえ絶大な権力を持つ。アンヘルは不愉快さを押し殺し、ベンチに座り直した。
「……猊下は西部紛争に集中しなければならないのでは?」
「此方にも事情があるのさ」
ドミティオスが帽子のツバを右手で上げて見せる。チラリと見覚えある素顔が覗いた。
「ここから見える景色は平和そのものだね。私が何のために来ているのか忘れそうになるよ」
この男に倣って正面を向いたまま動かなかった。ドミティオスは周囲を欺くための演技だろうが、アンヘルはただ単に顔を見たくなかったからだった。
「けれど、この平和もたった一人の死によって壊れてしまうかもしれないと君は知っているかな?」
「……第一次カルサゴ戦争のことですか?」
「さすが候補生だ。勤勉といって差し違えない。帝国……といいながら、その時代はまだ共和国か。トレラベーガ共和国とカルサゴ教国との周囲属国を巻き込んだ大決戦が、まさか名もない零細貴族の無礼打ちから始まっているとは古代人も想像だにしなかっただろうね」
第一次世界大戦がセルビア少年兵のたった一発の銃弾ではじまったことは、現代人なら多くが知っていることだ。薄氷の上の平和など、ほんの小さな火薬で吹き飛んでしまうのは歴史が証明している。
「何が仰りたいので?」
「君はせっかちだな。いきなり本題に入るのは子供ぐらいだよ?」
「ならば子供で構いません」
「勝手に子供の定義を変えないで欲しいな。帝国では成人を十五と定めているだろう?」
アンヘルは血走った目で睨め付ける。ジリジリと照らす太陽が、頭に巡った血を加熱させた。
しょうがないな。ドミティオスは薄笑いを浮かべながら、小さく嘆息した。
「君は最近の事件について知っているかな?」
「テロ活動のことでしょうか?」
「それもあるんだが、もっと大きなことについてだ。そもそもロヴィニ紛争のことをどの程度把握しているのかな?」
問われた内容が不明瞭であったので、アンヘルは無言で応えた。苦笑いをしたドミティオスは代わりに話を続ける。
「ロヴィニ村で発見された――」
彼が語ったのはアンヘルも知っている事件の全体像であった。
バアル教団のカオスと呼ばれた邪竜が部下の魔軍を使ってヴィエント・リエガーという帝国の五大貴族殺害を企み、それを阻止するため決死の大将特攻を試みたのは記憶にも新しい。が、実際ところ其れ程単純な事件ではないのである。
ロヴィニ村では高品質ドラッグ『サイレール』が製造されており、その撤退跡からあそこは教団の資金源であったと判明している。また、邪竜カオスには眷属特有の召喚紋が刻まれており、教団の遠大な計画の一部が露呈したに過ぎないことがより鮮明になったのだ。
ドミティオスはそのことについて一度整理してみせたあと、本題を述べた。
「君は軍人だから、単純化するダブロイド思考はお手の物だろうが、世界をそう皮相的に考えてはいけない。複雑なことを複雑なものとして捉えることこそ、事態の認知閾を上昇させる」
「意味がわかりません」
「君はあのロヴィニ村にしか『サイレール』製造工場が存在しないとでも本当に思うのかい? いや、そもそもあの村だけで年間十数トンという量を誰が消費していると思うのだね」
そう問われて、もう一度事件を整理してみた。
サイレールはかなり純度の高いドラッグで、末端価格はかなり高額になる。ロヴィニ村の衛星都市セグーラの街ごとき資産では到底消費し切れない量だ。
となれば、どこか大都市に供給されていると見るべきである。帝都や西方の五大貴族領は南部から距離がありすぎる。しかも大抵は治安が安定していたり、市民の資産が十分でない可能性もある。となれば、唯一条件が合致するのは――
「まさかオスゼリアスに供給されていると? しかし、そこまで流行の兆しは……」
エセキエルが時折漏らしていた雑談を思い出す。あくまで、末端の売人が摘発される程度のシロモノであり、そのような国家規模の問題であるとは微塵も考えられなかった。
「ないね、今のところは。一見そう見える」
チラリと横目で見ると、ドミティオスは口を結び、警戒感を露わにしていた。
「先週のことだが、オスゼリアスで大量のサイレールが発見された。それも数トン規模になる。
流通側が注力するのは流通ルートの確保だ。違法ドラッグを安全に用意するため君ならどうする?」
海路(正確には湖路)、陸路。どれも警戒が厳になればそう簡単な話ではない。極少数なら兎も角、大量に運び込むのは困難を極める。
輸送は現実的に不可能だ。そう考えたとき、脳裏に閃きが走った。
「まさか」
「その通り、前もって大量に仕込んでおく以外に方法はない。これが密売の常套手段だ。警戒前なら検問を抜けるのは簡単だし、一度中に入れれば探すのはほぼ不可能だ。オスゼリアスの内情は複雑で、平民派の活動もあれば商人の利権もある。元締めの元老院すら一枚岩ではないしね」
帝都などはある程度強権を振るってもいいが、オスゼリアスは今や帝国の火薬庫と化している。流通の中心でもあるのだから、狙い目としては十分に考えられた。
「そのためにここへ?」
「私はお礼をしに来たんだよ。これは雑談さ」
「多忙な貴方が、まさかそれだけのために?」
ドミティオスが立ち上がる。アンヘルは座ったまま男の背中を睨みつけた。
「だといったら、どうする?」
「巫山戯ないでください」
一瞬、風が下から吹き上げ、アンヘルの髪を煽り立てた。立木の葉が擦り合わされゆらりとゆれる。
「言っただろう。お礼だ、とね」
「必要ありません」
「いや、君は受け取っておくべきだ」
ドミティオスは懐から鞘入りの短剣を取り出して、放り投げる。アンヘルは右手で鞘を掴み取った。
「君は見たはずだ、あの『バアル教団』の悪辣さを。彼らは本当に手段を選ばない。この帝国を滅ぼすためならなんでもする」
ドミティオスは一転して熱の籠った目を向けた。
「『バアル教団』の策略をなんとしても阻止しなければならない。サイレールが無秩序に流れ、教団の資金となれば……いや、彼らが流通させている理由を突き止めなければロヴィニ村の再来がここで起きるだろうね」
「それは……想像にすぎません」
「やめてくれたまえ、君も本当はわかっているんだろう? もしもこのまま手をこまねいていれば、君が士官学校に入った理由を諸々踏み潰してゆくだろう。守りを抜かれた市街地での虐殺は、この世の地獄といっても過言ではないよ?」
ロゴス村の光景がフラッシュバックした。迷宮から溢れ出た地獄の軍団の濫觴が、このオスゼリアスで現実のものとなる。ブルリと身体が震えた。
「その短剣は君に権力を与える。君はその権力で大事なものを守る。悪くない取引だと思うがね?」
「……」
そこだけ街から切り取られたように静寂を保つ。小さく鳥の鳴く音が虚しく響いた。
「細事に拘泥できないことは、君がよくわかっているはずだ」
反抗心からの反論を、ドミティオスの目が見透かしてくる。
「我々は北方、西方と戦線を二つも抱えている。このオスゼリアスに向ける戦力など存在しない。だというのに、まさか君は座して待つのかね?」
アンヘルは震える手に収まる短剣を見た。
黄金に輝き、七つの剣が円環となっている。意匠は凝っており、嫌でも権威や歴史を感じさせた。
ドミティオスはうっすらと笑みを浮かべる。
「軍内に秘密警察が組織される。主に政治犯を捉えるためだが、一部は今回の事件に回す予定なんだ。特務随行員という立場を君に用意した。示された場所へ行けば、君は諜報員としての立場を得るだろう」
小さなメモを投げ渡される。二日後、街中の一角を示す地図が描かれていた。
「君がどう使うかは自由だ」
もう一度、メモを見た。
目を通している間に、ドミティオスはすでに眼前から消え、舗道の向こうへと歩み去っていた。
――頼んだよ。
そう、小さく聞こえた気がした。
§
ドミティオスに指定されたのは、周囲と何一つ変わらない建物だった。赤塗りの煉瓦と黒屋根の三階建て、周囲はこぢんまりとした商会に挟まれているから、注意深く観察したところで違和感など微塵もない。
扉を叩いて中に通され、受付らしき中年と会話しても何一つ其れらしさは感じなかった。物語の中で想像していた薄暗さや冷たさは一切なく、むしろ日差しを良く取り込んだ廊下である。
中年に案内された部屋で、その男に会うまでは。
「貴様、馬鹿か」
壮年の男が開口一番そう言った。伸ばした髪を後ろに撫でつけ、所々白髪が入っている。上背こそそれ程ではないが、肩幅が特別広く大きい。頬には薄い傷があり、地味目な背広を着用している。
大きな黒檀の机を挟んだ向こうで、その男が教官のような厳しい声を上げた。
条件反射のように敬礼するアンヘル。それを見て、壮年の男はより顔を歪めた。
「まさか軍服で来て、そのうえ敬礼までする阿呆とはな。猊下も何を考えているのやら」
アンヘルはその意味に気づいて、すぐ格好を崩した。
低い声で恫喝するように呟く。何一つ変哲のない場所で佇むその男は、まるで生まれた場所を間違えたような違和感がある。
それを肯定するかのように男の右腕側の背広はごっそりと抜け落ちている。アンヘルは男の雰囲気に呑まれていた。
「まあ、猊下の考えを覗いてみるのも一興、か」
独り言のように呟いた男は、アンヘルに紙束を投げつけると、ゆっくりと両手を机について立ち上がった。
「明日から選定を行う。貴様にも参加してもらうぞ」
隻腕の騎士ユーシンとの出会いと秘密警察機構への入隊。養成校に入ったのは、ちょうど告白の二月前のことだった。