イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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PHASE1-3:ジェームズ・ボンドに憧れて

 第一期諜報員選抜試験。

 

 即ち、素養の感じられる人物の選定から立ち会っていたことになる。

 

 言葉を飾らなければ、誠に奇妙極まりない試験内容であったといえよう。アンヘルには次の内容が課された。

 

 ――出入り口から試験会場である借用した建物の部屋までの段差の数。

 

 ――誰でも解ける筆記試験の後、その中に書かれていた特定の文字の数。

 

 ――到底不可能な桁数の暗算など。

 

 明らかに無理難題である。

 

 いずれも受験者第一号であるアンヘルには解けなかった。いや、大凡「馬鹿にされている」としか思えない内容ばかりである。結局、問題は適当に流しながら、胡乱な視線を教官に送るしかなかった。

 

 それから随行員として試験官側に参加したアンヘルは――大神祇官に推薦されたため、彼の合格は既定路線である――覆面を被りながら、不可解な試験内容に半ばあんぐりとした選抜者がお祈りメールを受け取る光景を眺めていた。

 

 選抜者はほとんどが候補生であり、一部兵卒の連中が混じっているくらいであった。見知った顔の同期も無惨に散ってゆく。

 

 約三十人。一日掛かって進捗のない試験を見届けるも、誰一人合格に値する人間は居なかった。時間の浪費だと思った翌日、異常事態が発生した。

 

 二日目の五人目である。平凡極まりない相貌の男だったが、驚いたことにこの途方もない質問――不可能極まりないもの――に平然と回答した。

 

 いや、それどころかそれ以上の能力を示して見せたのだ。

 

 建物の段数を聞かれたにもかかわらず、それ以外の壁のひび割れ、歩数、小物について指摘しはじめる。

 

 筆記試験の中の文字数を尋ねられたが、一千にも及ぶ文字列をそらで暗唱してみせた。

 

 暗算については簡単すぎると吹いた。

 

 多種多様な試験内容にもかかわらず、彼はいとも容易く踏破した。しかも信じられぬことに、このような人物がちらほらと現れたのだ。

 

 アンヘル側の認識は兎も角、世間一般において軍国主義国の候補生とは、日本における名門大学に入学した、いわば選良民のような存在である。

 

 一角の剣客として多少の選民意識を持つアンヘルから見ても、この試験を悠々と突破した彼らの能力は一般という尺度から大きく逸脱していた。

 

 こんな奴らがいるなんて。一体、どこに。

 

 正体に検討がつかなかった。士官候補生には見えず、年若い連中ばかりである。急遽の招集に応じられるのだからオスゼリアス在住であろうと判断できたが、それ以外の一切が不明。後になって、彼らは士官学校でも、魔導院でもなく、学術院や私塾に通う者たちで占められていることを風の便りで聞いた。

 

 その中でも、とくに強烈な印象を齎した人物が居る。あの隻腕の騎士ユーシンも多少の驚愕をみせた。

 

「たしか新三回生の伍科アンヘル候補生でしょう。あなたが試験官とは驚きですね」

 

 試験中、ガイルス・グリックスは退屈そうに言った。

 

 士官学校二回生上科の序列一位であり、グリックス商会の次男。あの天才グリックス兄弟の片割れだ。

 

 魔道具研究者の卵――シルバーなんちゃらシリーズのフリークである――エルサに天才と言わしめた彼は、こちらが覆面をしているのにもかかわらず正体を見破ってみせた。曰く、一度見たものは忘れないらしいが、化け物としか形容し難い能力を持っていることは事実だった。

 

 厳しい選抜の末、ユーシンはさらに三日かけて七人選び出した。

 

 選ばれた者たちは、当初指定された何一つ変哲のない建物で訓練を受けることになった。

 

 そこで、アンヘルは化け物たちの真価を見ることになる。

 

 

 

 

「見つかるな、戦うな、もしものときは逃げろ」

 

 歴戦古兵の鏡のようなユーシンが言ったのは、想像上の諜報員とはかけ離れた内容であった。

 

「世には届かぬ領域があり、必要のない領域がある。我らの任務とは情報を得ることであり、戦うことではない」

 

 一月に及ばないほど短い時間。アンヘルは彼らの訓練に随行員として参加しながら、現実の諜報員がどういうものか見てきた。

 

 訓練内容は多岐にわたる。

 

 数カ国におよぶ外国語、その文化や宗教について。それに付随する医学、心理、哲学などが講義された。士官学校の内容も同じで、基礎戦術などはたった一週間で一、二年の間に習った内容を追い越してしまった。

 

 それと並行して、鍵破り、変装、変わったところでは色事に密事など多忙極まりない訓練が行われた。

 

 まったく付いて行けない。そのうち、アンヘルは聞いているだけになっていた。

 

 彼らの唯一人間らしい所と言えば戦闘能力ぐらいで、そこぐらいしか学術院育ちの人間らしさを認められなかった。

 

 朝から体力訓練に励み、昼からはさまざまな知識を学び、夜には暗号や実演を兼ねた特訓が施されたのである。

 

 生物の限界の一歩先。そんな訓練が行われていたが、彼らは悠々と踏破するどころか、夜になると繁華街へ繰り出した。

 

 起床時間に酒と女に溺れて帰ってくる彼らは、寝ぼけ眼のまま暗号を読み解き、命令書を速読暗記する術を身につけ、夕方には小難しい戦術論を語って見せながら、再び夜の街に繰り出す。こんな日々が繰り返された。

 

 実施される訓練に疲労困憊となりながら、彼らを畏怖の目で見送る毎日。そんな中、なぜかある男と組まされる機会に恵まれた。

 

「先輩、早くしてくださいよ。そんなんじゃ日が暮れますって」

 

 冷笑を浮かべたガイルス――養成校ではガイという偽名を名乗っている――は体内連結式爆破魔道具の模擬装置解除に手こずるアンヘルを押しのけた。

 

 四半刻近く手こずっていた雑魚とは違い、数分で木造人形の胴体に巻きつけられた装置を解体する。工具を適当に放り捨てたあと、彼は組み合わせを決定する教官を睨んだ。

 

「いつもいつも、どうしてアルス(アンヘルの偽名)さんと組ませるんですか?」

 

「貴様はいちいち上官の命令を疑うのか?」

 

「いえいえ、単純な好奇心ですよ。単純な、ね」

 

 飄々としているが、ガイルスの目は笑っていなかった。

 

「必要なことだ」

 

「意味がわかりませんね」

 

「貴様に教える必要を見出せない」

 

「ハア、わかりましたよ。上官どの」

 

 青白い顔を歪めたガイルスは、そのまま背を向けて去っていった。

 

「貴様も質問か?」

 

 ユーシンは居残り組の胡乱気な目を見咎めた。

 

「い、いえ。ですがその。どうして彼とばかり組ませるのですか? 効率を考えても、私はあまりその訓練に――」

 

「ついて行けてない、か?」

 

「は、はい。その通りであります」

 

 当然だという表情で首肯するユーシンに、当初から抱いていた思いをぶつけた。

 

「その、私の能力不足であることは分かっていますが、できれば進度を落としていただかなければ。それか、私だけ別のカリキュラムで」

 

「許可しない」

 

 その疑念を把握していたのか、ユーシンはあっさりと否定した。

 

「貴様に課せられた任務は訓練を受けることではない。ゆえに、貴様への優遇処置など必要ない」

 

「ですが、それでは諜報員として――」

 

「勘違いしているようだな」

 

 ユーシンはぎこちない動きで椅子に座ると、顎をしゃくって見せた。

 

「貴様は選抜試験で明らかに落第だ。そんな貴様が追随できるはずもない。推薦した猊下もそんなことに期待していないだろう」

 

「なら、私はどうして此処に……」

 

「私は猊下に恩義がある。よって猊下に指示されれば従うが、それ以外はその範疇にないのだ。当然、貴様の処遇など考慮に値しない。私はただ有用だと思える方向に使うだけだ」

 

 愕然とするアンヘル。ユーシンは意外にも厳しい顔つきを少しだけ緩め、助言してきた。

 

「貴様の目的はなんだ? まさか言えないのか? ――三流とは、言われたことしか出来ない人間。二流とは言われたことを上手くできる人間。ならば一流とは、言われなくともできる人間を指す。貴様は猊下に目を掛けていただきながら、いつまで三流のつもりだ?」

 

「……それは」

 

「はあ、一つ例を出してやる。貴様らはなぜ士官学校で魔法の概要を学ぶ。大半の候補生は魔法を使えないのだぞ。何の意味がある?」

 

 問われたアンヘルは唸るしかなかった。

 

 多くの候補生にとって、学ぶ魔法概論、魔法戦術論、魔道具工学論などは基本的に意味がない事柄だと思っていた。強いていうならば平均点と科目数を増やす悪魔だと思っているぐらいであり、ただ暗記を繰り返すだけである。

 

 ――いつか使うかも知れないから?

 

 ふと湧いたそんな予測は、直ぐに否定される。魔道具は兎も角、魔法について学ぶ意味はない。後天的に素質が生まれる可能性は研究で否定されていた。

 

「相手が使ってくる可能性があるからだ。士官学校で敵対勢力が使ってくる戦術、戦法、道具は網羅する。軍の基本だ」

 

 ユーシンは健在の左腕の指を一つ立てた。

 

「”カウンターマジック“。元は反魔法の総称だが、現在はあらゆる対処動作を指す。貴様には諜報に対するカウンターマジック要員として研修させられていると思えばいい。それで気が楽になるのならな」

 

 猊下の考えていることなど何もわからぬ。ユーシンはそう最後に言い捨てて、部屋を去っていった。

 

 どこか釈然としない所はあれど、自身に納得をつけるしかなかった。

 

 

 

 

 ある時、こんな事件が起きた。訓練が開始されて二週間ほど経った時である。

 

 その日は偶々、教官の都合で訓練が休みになった。まだ昼間であり、遊びに行く許可も降りておらず、かといって何もすることのない訓練生、出された課題をさっさと終了させるとゲームに興じていた。

 

「Eの六、竜」

 

 ガイルスという男の能力はずば抜けていた。唯一の士官候補生であり、体力、戦闘力でも群を抜いていたが、頭脳においても明らかに抜きん出た存在だ。

 

 彼は目を瞑ったまま声だけで指示する。ナキアという男(これも偽名)が駒を動かす。これが繰り返され、ガイルスが勝利した。

 

 ――軍議盤に存在しうる盤面総数は大体十の百二十乗ですが、ある程度の実力者が作る盤面はもっと少ない。定番の定石、詰めの盤面、これらを暗記し、終局図まで補完する思考瞬発力が問われる。これが軍議盤の本質ですよ。

 

 退屈そうな彼に対し、軍戯盤で挑むのは愚か極まりないことなのだろう。結局、訓練生はカードで遊ぶことにしたようだった。

 

 その頃漸く課題を終えたアンヘルは、カード勝負に参加させられた。

 

 実はアンヘル。軍議盤と違ってカードには結構自信があった。あまり楽しいとは思わないが、負けたことはほとんどない。

 

 敗色の濃いとき、なんとなく勘が囁くのである。絶対の勝利こそ望めないが、大きく負けたことはなかった。

 

 そうやって意気揚々と遊戯に参加するも、最初こそいい勝負ができただけで、後は驚くほど大負けした。

 

 レギュレーションは一般的なものだ。参加者は手元二枚のホールカードとディーラーの五枚のコミュニティカードで役を作って勝負する。一般的なポーカー勝負だった。

 

 手は悪くなかった。一度は<ストレート>も出た。

 

 けれど、驚くほど大負けした。

 

 良い手が来たときは絶対に降りられ、悪い手の時は決まって高い金額で勝負させられた。勘は激しく働いた。しかし、負ける時はわかっても勝てる勝負が見つからなかった。

 

 ディーラーが代わり、プレイヤーが代わっても、ほとんど勝負にならなかった。

 

 貧すれば鈍すると言うやつで、博打というモノは負けが込むほど泥沼に嵌ってゆく。アンヘルが有り金をすべて吐き出した時点で本日の不運を呪った。

 

 ――こんな日もあるか。結局、博打だし。

 

「運が悪い、そう思ってませんか。先輩?」

 

 にやにやと笑っているガイルスは負け続けたタネを明かした。

 

「どういう意味?」

 

「まだわかりませんか?」

 

 ガイルスは先ほどまで軍議盤でやり込めたナキアと頷き合う。片手の指を変えたり、手首を返したりすることで何かしらの信号を送っていたことを示した。

 

 ――イカサマだ。

 

 アンヘルはあまりのことに一瞬、卑怯とすら思わなかった。

 

「嵌めたの?」

 

「ギャンブルの必勝法は誰を下げるか、ですよ。手や確率で勝負するわけじゃありません」

 

 冷笑する相手にアンヘルは低く唸った。周囲の学生の目はひどく冷ややかだった。

 

 一発ぶん殴ってやろうか。そう何度も思いながらも、なんとか堪えた。

 

 翌日である。一晩寝て冷静になると所々に違和感を覚えたアンヘルは、ナキアに事情を尋ねた。

 

「昨日の話を聞かせてほしいんですか?」

 

 彼らが不正をしていたのならば、アンヘルの勝ち目はない。しかし、実際には所々で勝利を重ねていた。その点がどうも奇妙だったのである。

 

「軍議盤でガイ(ガイルス)に負けたとき、手紙を渡されましてね」

 

「どんな内容?」

 

「先輩をハコにしたらちょっと話を合わせてくれって内容ですよ。今更ですか? あれは先輩を揶揄っただけですよ。正真正銘、僕たちは本気で勝負してましたから」

 

 そこでようやく、周囲が顔を見合わせて冷笑した理由がわかった。アンヘルは昨日完全に実力で敗北したにもかかわらず、相手が適当に作った出鱈目に騙され、勝手に憤慨していたのだ。さぞ間抜けに見えたことだろう。

 

「ま、先輩も年長者なのはわかりますがね。世の中は実力主義なんですから、あんまりイキがらないでください。正直、見てて情けないですよ」

 

 それ以来、アンヘルは彼らが何かをしていても決して近寄らなかった。

 

 彼らと自分とでは、生きている場所が違う。

 

 国の為の軍人でもなければ、金のために命を賭ける探索者でもない。真理を追い求める科学者でもなければ、利益を追求する経営者でもない。

 

 類稀なる頭脳を持つ自分だけを信じた虚無主義者。

 

 あのドミティオスに通づるところがある化け物たち。

 

 得体の知れぬ不気味な連中に、アンヘルは一人恐怖していた。

 

 

 

 

 

 

「私が、ですか?」

 

 アンヘルは呆然と聞き返していた。

 

 訓練が始まってから三週間ほど。ユーシンが告げた言葉には、訓練生全員に大きな驚愕を齎した。

 

「何か問題が?」

 

「そういうわけでは、ありませんが」

 

「ならば任務に取り掛かれ」

 

 士官学校に蔓延る救国主義者、倒院論者たちの密売ルートを探れ。アンヘルに下された任務は、実地訓練という名の繰り上がりであった。

 

 秘密警察の任務には、多種多様な内偵能力が必要とされる。政治結社や思想団体に潜り込むとなれば、頭脳的側面以外にも、多少なりとも腕っぷしが必要となる。

 

 サイレール密売も喫緊の問題であるとはいえ、半年程度は訓練が必要だろうと考えていたのだが。

 

「補佐はガイ。貴様だ」

 

「承知しました」

 

 アンヘルたちはたった三週間ほどの訓練を終え、晴れて内偵任務に就くこととなった。内容は士官学校内に内在する平民派の監視で、上科の中でも比較的灰色から白に近い人物が目標となっている。

 

 これまでの外部調査によれば、彼らの周辺で『バアル教団』の違法薬物が供給されていることが確認さている。軍と憲兵の仲は魔剣紛争以来最悪で捜査の手が入りづらく、候補生ゆえの自由から流通に都合がいいらしい。

 

 よって、候補生という立場を利用し、学内で彼らに接近することが内偵への近道であることから、繰り上がり採用が決定されたらしい。

 

 午後。教官の元に集められたアンヘルたちは、最後の確認を行っていた。

 

 重点は学内での横の繋がり。平民派の温床である東方流は勿論、三都東方流、金剛流に雑流までもしらみ潰しにする。学外は教官に長年付き従う部下や訓練生の援護を期待できるが、それ以外では単独任務となる。

 

 それを聞かされたあと、ガイルスは静かに不満を漏らした。

 

「なぜ先輩が主任になるんですか?」

 

「調査対象の多くは三回生に固まっている。貴様は二回生で学内の事情には詳しくない。対照的にアルスは新隊編成がある。周囲を嗅ぎ回るには十分な身分だ」

 

「先輩は伍科生ですし社交性も低い。私のほうが知名度もあって、声は掛けやすいと思いますけどね」

 

「貴様のその自信、嫌いではないがな」

 

 ユーシンは眼光を鋭くした。

 

「諜報員としてはまったく不要だ。いつか貴様の過信が己の足を掬うことになるだろう」

 

「だから補佐だ、と?」

 

「意味のないことをするのは趣味ではない。どうしてアルスと組ませ続けているのか、よく考えるんだな」

 

「ですが――」

 

 ガイルスはギラギラとした目で此方を睨んだ。

 

 目線を下にやると、彼は右拳を充血するほど握りしめている。それほどまでに悔しいらしい。

 

 それを認めたユーシンは会話をやめ、扉のノブに手を掛ける。

 

「黙って仕事をこなせ。それが将来のためだ」

 

 扉の閉じられる音が大きく響いた。ガイルスが歯軋りをして、その背中を睨みつけている。退出後、小さく舌打ちをした。

 

「ま、先輩、ここはどうかお手柔らかに」

 

 ガイルスは右腕を差し出した。アンヘルもその手を握り返す。

 

 その手は、ひどく冷たかった。

 

 

 

 

 

 

 諜報には、ロマンやスタイリッシュさなど微塵もない。

 

 アンヘルは任務開始数日で、そのことを嫌と言うほど叩き込まれた。

 

 どこかの007など論外、類まれな容姿やセクシャルアピールで情報を引き出す美人局ですら夢物語という事実は、諜報員の内実を知れば知るほど当然かと思う反面、少しばかり寂しいのが真実だった。

 

 戦国時代、あの有名な甲賀忍者の主任務は行商人に扮して噂を聞き込むことだったという。一般に流布する派手な、あるいは超人的な総見とは異なり、諜報任務は科学者のような見地の積み重ねにある。

 

 中でもアンヘルたちの任務は身辺調査。目立たず、相手の交友関係を調査する。相手も警戒しているし、その上調査していることが判明すれば偽りの情報を流されたり、最悪逃げ出される可能性もある。絶対に発見されない幽鬼のような存在であることが寛容だった。

 

「ヴァレリオットはどう?」

 

「流儀こそ金剛流ですが、それよりも門閥派の意を汲む傾向が強そうですね。北方領土戦線や西方軍に親族は居ませんし、思想も救国主義や軍人至上主義とは程遠いです。確実でこそありませんが、学内での調査は切るべきかと」

 

「これで五人目、か。調査しなければならないのはやっぱり……」

 

 アンヘルの視線が一人の男の名前をなぞった。

 

「前みたいに気取られないでくださいよ」

 

「分かってる」

 

 腰かけ椅子の反対側、口を動かさないガイルスは、頬杖をついたまま明後日の方向の川を眺めている。

 

「軍議盤で仲良くなれたみたいですが、人間関係は洗えそうですか?」

 

「今やってるよ」

 

「早くしてください。今回ばっかりは先輩が頼りですから」

 

 捜査線上に浮上したのは、三回生序列第一位のリカルドだった。最近薬物事件で摘発された過激派の中に彼の家の道場出身者が居たのである。

 

 現状では過激派の犯行が目立っている。教団を忘れるわけにはいかないが、もしかしたら密売の目的は教団の資金確保なだけの可能性もある。とりあえずの治安維持措置。全州会議のことも鑑みて、アンヘルたち学内調査組も過激派の禁止薬物摘発に心血を注いでいた。

 

 ――だけど、あのリカルドがそういう性格だとは到底。

 

 休日、金剛流を学びたいと頼み込んで、彼の実家の道場に赴いた。

 

「いやいや、ようこそいらっしゃいました」

 

 出迎えてくれたのは、道場主にしてリカルドの父エドゥアルドだった。彼は少々禿げ上がった額に手をやりながら、優しそうな微笑みを浮かべた。

 

「アンヘル君と申しましたかな? 休日でも訓練とは、さすが候補生ですね」

 

 リカルドの性格は軍議盤で大方予想できていた。

 

 彼はオスゼリアスの名流、金剛流ドモン道場の次男に生まれ、幼少期から怪物的才能の剣で大きく名を馳せた。

 

 身分的には平民だが、かの道場は帝国西方軍に大きなパイプを持ち、当主エドゥアルドは爵位を持たないものの親族には多数の名誉爵位、勲章を持つ者がいる。その影響力は生半可な下位貴族を上回るものだった。

 

 母親と姉はすでに故人だ。義理の兄が一人居るらしいが、二年ほど前から引き篭っているらしい。

 

 幼い頃に闘技会で優勝してからはもっぱら幼馴染のエマと探索者家業に精を出し、交友関係が広い。大らかだが強引。この辺りは武力が重要視される探索者業の影響だろうという見込みだった。

 

 こう見ると一見単純な脳筋候補生だが、意外に強かな面も持ち合わせていた。

 

 アリベールから聞いた話だが、彼と接触後、スリート商会に彼の友人達が聞き込みに来たらしい。これが彼の手なのか、それともエマら参謀の仕事だったのは判然としなかったが、この時勢で急に近寄ってきた男の経歴ぐらいは調査するようだ。

 

 ――けど、陰謀とかには向いてないと思うな。

 

 見た目で決めつけるのは論外だが、身辺調査で決定的な証拠が明らかになることはなかった。勘だけで言えばシロに近い。

 

 金剛流の体験を終えたあと、アンヘルは再び定期報告に赴いていた。

 

「どうでしたか?」

 

「リカルドが関わっている可能性は低い、と思う」

 

「確証はありません。むしろ状況証拠だけ見ればクロに近いでしょう」

 

「そう、なんだよね」

 

 リカルドを捜査線上から外せないのには理由があった。調査を進めることで彼がクロ寄りになってゆくのである。

 

 一つ、禁止薬物の出所が、憲兵の手も出しにくい士官学校中心であること。

 

 二つ、リカルドの実家が筋金入りの軍人家系、救国主義予備軍であると看做されること。

 

 三つ、リカルドの身辺には夜中に徘徊する怪しい人物が多数存在すること。

 

 リカルドの友人、同門、その親族など「サイレール密売」に関与している証拠こそ掴めないものの、なんらかの活動に関与していることは確実だった。

 

 その上、彼らの家の特権階級のような立ち位置が捜査を複雑にする。

 

 彼らのような軍人家系は内輪に多数の門弟を抱え、オスゼリアス各地に複数の拠点を保有している。夜な夜な彼らを尾行しても、彼らの敷地に入り込まれれば中で何をしているのか調査することは不可能だった。

 

 この世界では「土地」に関する意識はアメリカ並みに強く、無断で敷地に侵入すれば斬り殺されても文句を言えないぐらいなのである。

 

 しかも相手方はバレンティア治安維持隊にも影響力を持つ。非正規の秘密警察では、逆に捕まってしまう可能性もあった。

 

 あれこれ状況証拠を鑑みれば、リカルドの容疑を否定することはできない。むしろ、中心人物の可能性すら浮上する。

 

 しかし、まったくの無関係であったり、囮の立場であった場合、彼を引っ張ることはむしろ相手への警戒を招くことになる。

 

 焦りが募る。このままでは手がかりを得ることはできない。アンヘルはすでにリカルドたちと直接軍議盤でやり取りし、実家まで押しかけている。事態が逼迫しているとはいえ、諜報員としては例外とも言えるべき状況だった。

 

「捜査対象を広げるべきかもしれません」

 

「それは……」

 

「気が乗りませんか?」

 

 喫茶店の灯りの下、珈琲を飲んでいたガイルスはそう問いかける。

 

 気乗りはしない。相手に聞き取られない程度の音量で小さくつぶやいた。

 

「やるよ」

 

 机の上の新聞に目を通す。デカデカと描かれているのは『天罰』という文字。爆破事件に対する表明として、元老院に送られてきた手紙の一部だった。

 

 手をこまねいては居られない。アンヘルは決意を固めることにした。

 

「まずはエマ。彼女から調査を始める」

 

 彼女はここ近日、リカルドの元を離れて行動している。証拠を確保するために行動するべきだ。

 

 それが、エマへの告白三日前である。

 

 

 

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