イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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PAHSE2-2:裏切りの罪咎

「こちらバレンティア騎士団だ。身元を改めたい。すぐさま扉を開くんだ」

 

 階下に望む制服姿の憲兵たちは、皆一様に物々しい雰囲気で抜剣している。ごくりと何かを嚥下する音がする。眼球が乾砂のように水分を吸い込み、瞬き一つで神経が苛まれる。アンヘルは凍りついた身体で、ただ間抜け面を晒して扉の叩かれる方角を見つめた。

 

「此方に宿泊者がいることは把握している。指示に従わない場合、強制連行の措置を取る構えだ」

 

「……」

 

「十数える間に出てこなければ強行突入するぞ」

 

 強まるノックに身体が強張った。次いで、一、二と憲兵の男が数を唱える。アンヘルは外の相手を刺激しないよう小声でささやいた。

 

「僕とエマさんが二人で騒ぎを起こす。君はその隙に脱出しろ」

 

「先輩が、ですか? ここは全員一致協力したほうがいいのでは?」

 

「君の面は割れていない。相手方に人数を誤認させたほうが後々いいと思う」

 

「納得はできますがね」

 

 ガイルスは若干不服そうだった。

 

「何か手でもあるんですか?」

 

「なんとかする」

 

 説得している時間はない。アンヘルは寝ぼけているエマに駆け寄り、無理やり腕を引いた。

 

「捕まりたくなかったら付いてきて」

 

「ふざけないで。信用されるとでも思っているの!」

 

「死にたくはないでしょ」

 

 グッと右手を握ると体を捻りながら左耳の元にまで拳を近づける。握りしめた拳の力を解放するように手を開き、思いっきり腕ごと薙いだ。

 

 ――召喚。

 

 青白い燐光が迸り、狭苦しい部屋には似つかわしくないゲートが二つ出現する。人形大の円形の奥から少しづつその姿が露わになる。

 

 その姿は有り体に言って奇妙だった。その形は異様と形容して詮無かった。

 

 まず目に付くのは血のように紅い尾。浅葱と乳白色の混じり合う体色には合わず、禍々しくも物々しい。手足は歩くことを放棄したのか極度に退化し、飾りのようにぶら下がっているだけだ。代替進化と思われる歪な翼が広げられ、まるで植物人間のような半龍半人のような歪さは、根源からの怖気を誘った。

 

「な、に…………これ?」

 

 エマは瞼を瞬かせ、恐怖に慄くように一歩二歩と交代する。縫い付けられたように眼前の怪物へと視線が注がれていた。

 

 ――いくよ。ラディ

 

 天使のようでいて、龍のようでもある。自然界に発生した生物とは思われぬ歪な化け物が、今ここに現出した。

 

 種族名ラディウス。

 

 アンヘルは無言でエマの手を引っ張りながら、眷属の大きな尻尾に掴まった。

 

 もう一方から出てきた燃え盛る甲冑を纏う剣士「炎の魔剣士」に、床版を剣鞘で叩いて指示した。

 

「僕たちは上空から脱出する。騒がしく逃げ回るから、君はこっそり床をぶち破って一階に逃げて」

 

 当然のことだが、所詮機構の同僚にすぎぬ以上、召喚術の仔細など告げていない。士官学校五学年含めても数人しかおらぬ召喚士が、まさか同僚だと思いもよらないはずだ。だが、ガイルスは目をぱちくりさせた程度で、すぐに納得の色を浮かべた

 

「なるほど。大人しくしていれば一般客と紛れられるってことですね」

 

「連絡方法は?」

 

「明日の深夜、もう一つの隠れ家で会いましょう」

 

 静かに首肯するとラディが羽を揺らす。ふわりと宙に浮かんだエマが絶叫した。

 

「きゃ、何、なによ! ちょっと、変なところ掴まないで」

 

「やれ」

 

 炎の魔剣士が指示に沿って、天井と、ついでとばかりに床に向かって炎を振りまいた。衝撃と炎で天井が崩れ落ちる。すぐさまガイルスが階下に飛び降りた。

 

 エマの腰を強く抱く。彼女は必死に拒否するが、膂力では男に敵うはずもない。羽ばたくことすらなく、重力を忘れたようにラディが浮遊した。

 

 空高く舞い上がる。夜風の涼やかさが焦りで火照った身体を冷やした。慌ただしい憲兵たちがゾロゾロと追ってくる姿を小粒の大きさで捉えた。炎の魔剣士を召還しながら、必死に抱きついてくるエマを咎めた。

 

「ゆ、揺らさないでください」

 

 腕一本でラディに捕まっているせいで、状態はひどく不安定だ。この高さから落ちたら即死なので必死に宥める。

 

「ちょ、ちょっと! やめて、どこ触ってんのよっ」

 

「暴れないでって。あ、もう」

 

「ひ、た、高」

 

「下見たらダメだって! 言うことを聞いてってば」

 

「触らないで、ってだからやめて。下を見せないで! ああ、高いぃ。いやぁぁぁぁぁあ!」

 

 耳元で大きく悲鳴を上げられ、ぐらりと姿勢が傾く。それでさらにエマの悲鳴が高く弾ける。ラディがうざそうな視線をくれた。

 

 ――ああ、見つからないといいな。

 

 憲兵たちの姿が見えなくなるまでアークライトに向かって進んでゆく。

 

 闇の帳を下ろしたオスゼリアスの上空を飛んで、アンヘルたちは空の彼方へと旅立っていった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ファッション・ホテルから客が飛び出してくる様子は、そこら一帯を包囲していた憲兵ディアゴの目にもはっきり見えた。次いで、囲んでいた現場武装兵からけたたましい警笛が鳴らされると、赤い炎が立ちのぼり始める。

 

「ディアゴ隊長っ!」

 

「わかってる」

 

 見晴らしの良い場所に佇む部下が、上空に舞う塊を指差す。やはり脱獄の手段は召喚術か。にわかには信じられなかったが、こうやって直視してしまえば信じざるを得ない。

 

 唇を噛み締めながら、吐き捨てるように指示する。

 

「まずは消火だ。それから宿泊客や店員に怪我人がいないか確認しろ」

 

 慌ただしい部下の後ろ姿を眺めながら、士官学校の報告書から受ける印象と大きく違う犯人に対し、危険度をさらに上昇変更した。

 

 ――なんとも躊躇のない奴だ。

 

 被害はないだろうが、普通の人間なら泊っている宿に放火などしないだろう。脱獄の手段もそうだ。倉庫の爆破ゆえ死者こそ出なかったが、一歩間違えれば大惨事だったのだ。

 

 主張が下手、能力的には落第寸前、武芸にもそれほど優れていない。報告書を端的に纏めるとこの通りだ。

 

 だが、憲兵としての長い経験が、この男は数多くの修羅場を潜った戦士であると告げていた。こういう手段を選ばない輩ほど厄介な相手はいない。

 

 あのエマとか云う上科生と較べれば、なんと可愛げのないことか。

 

 これまでにない強烈な敵に対し、ディアゴは己の中の強い正義感を高ぶらせる。

 

 腰に佩く騎士団の誇り、それに手を添えながら、強い決意を示すように息を吐いた。

 

 ――この俺が牢獄にぶち込んでやる。

 

 その真横。逃げ惑う客に紛れた細身の男には、最後まで気が付かなかった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「落ち着きましたか?」

 

 水辺の側で青い顔をしているエマに飲み物を差し出す。目元は少しばかりの腫れが認められ、頬は紅潮している。上空という場所で失態を晒したのがかなり堪えたらしい。

 

 チュンチュンと小鳥の鳴き声を断続的に聞きながら、ゆっくり彼女の隣に腰を下ろす。小川の水が涼やかな音を奏でて、時折バシャンと魚が飛び跳ねた。

 

 夢にまで見た朝チュンを体験しながら、アンヘルはオスゼリアス外縁区の橋下にて、朝日が作り出す陰影を眺めていた。

 

(さあ、これからどうする、か)

 

 手を後ろについて息を吐いていると、か細い声が聞こえた。

 

「その……ごめん、なさい」

 

「いえ、ああいう体験ははじめてでしょうし」

 

 意識が曖昧にぼやける。現実と夢の境を彷徨っているように思考が定まらない。時折白線が視界を遮り、壊れたブラウン管のように途切れ途切れの映像を脳内に投射してくる。

 

 身体の感覚は靄を掛けられたように気怠く、だというのに目は興奮で異常に冴えた。腕を上げて伸びをすると、関節の弾ける音と共に疲れが僅かばかり消える。何度となく繰り返した気休め、その場かぎりの行為に縋りたくなるほど、疲労は蓄積していた。

 

 そのまま背後に倒れ込む。土で服が汚れるが、もはや如何でもよかった。

 

「すいません。服を買ってくれば」

 

「ううん」

 

 彼女の服装を横目で確認する。裾が擦り切れたボロのワンピースは、当初の爽やかな印象など見る影もない。生々しい肢体が端々から覗いていて、大通りを歩かせることは憚られる姿だった。

 

「後で調達に行きます、なにか希望でもあれば」

 

「なんでも、大丈夫」

 

 エマは体育座りした膝に顔を埋めながら小さく呟く。その瞳は小川を流れてゆく落ち葉を眺めていた。

 

「そうですか」

 

「……」

 

「お腹空きましたか?」

 

「……」

 

「昨日から何も食べてないですよね?」

 

 気まずい静謐が支配する。小粋なジョークでもと思って、咄嗟に親父ギャグが出た。

 

「朝食が取れなくて、超ショック……すいません」

 

 瞳に鋭い光が宿ったのを見てすぐ謝罪する。結局、事務会話に徹した。

 

「僕たちの事情は昨日説明した通りです。現在、我々は組織立って、サイレールの摘発に注力しています。私が貴方にやったことを許していただけるとは思っていませんが、それも陰謀阻止のためのことでした。これはエマさんにとっても益の多いことです。協力の暁には減刑をお約束しますし、国家のためにも意義あることだと思います」

 

「……」

 

「協力は、していただけませんか?」

 

「……」

 

「あの……」

 

「……一つだけ、聞かせて」

 

 静かに聞いていたエマだったが、ゆっくり腰を浮かせて距離を取る。

 

「貴方、一体何者なの? 如何して私たちを調査していたの?」

 

「説明したと思いますけど?」

 

「誤魔化さないで」

 

 彼女は肩膝立ちとなり、さらに警戒を強めた。

 

「述べた通りです。僕たち秘密警察機構はバアル教団が流通させている『サイレール』を調査していました」

 

「それは聞いた。私が知りたいのはそんな建前じゃない」

 

「調査した原因はサイレール摘発のための学内平民派の監視でした。ヴァレリオットさんも調査しましたし、リカルドさんも調査しました。その結果貴方が浮上しました」

 

「それも聞いたわ」

 

 エマの目に剣呑な光が宿り始める。

 

 思考を遮っていた眠気を気合で吹き飛ばして、険しい表情で睨んだ。

 

「なら何が知りたいんですか?」

 

「貴方の正体よ」

 

 すっと短剣が抜かれた。鋭い銀光が入ってきた。彼女は逆手で抜いた短剣を真正面でクロスさせながら、特殊部隊の隊員のように近接格闘術の構えを取った。

 

 それを受けて、ぶっきらぼうな口調に変える。

 

「士官学校ではクナル班所属。特殊警察機構においては特務随行員の立場。これ以上に隠し事はしていない」

 

「そんなことを聞いてるんじゃないの!」

 

 エマが両拳に力を込めながら、ヒステリックに叫んだ。

 

 ビリビリと鼓膜が震える。エマは汗と汚れでヘタれた髪を激しく振り乱しながら、目の端に大粒の涙を浮かべた。

 

「貴方は何なの! 一体何者なのッ? 私は学内にいる召喚師なんて数人しか知らない。ラファエル、ガルバロ、オービス。皆超有名人よ。アンヘルなんて名前、聞いたことない!」

 

「それは……」

 

「何が起きているのかわかんないのよ! いきなり逮捕されて、次の日には脱走して、それから告白してきた男の子がまさかスパイ? ぜんっぜん意味わかんないの!」

 

 バシャンと一際大きな水の飛沫が飛び散る。地面を叩くエマの足が地面の振動をもたらし、畔に落ちていた石が川へと沈んだためだった。

 

「リカルドとずっと話してた。いい奴だな、優しい奴だなって。気弱で、おっちょこちょいで……でも、芯のある奴だって! それが――」

 

 エマが血走った目で短剣の先を見据える。ゆらりと戦闘態勢になった。

 

「全部、ぜんぶウソ。リカルドと楽しく話していたのも、私に告白したのもぜんぶウソ!

 あいつはね、君のことを友達って呼んでた。あいつが士官学校の同期をそんな風にいうところはじめて見た。寂しいことだけど、士官学校ってそういうところだから。でも、いつか私にもそんな友達ができたらって思ってたの!」

 

 ボロボロと涙が溢れてゆく。彼女は涙を拭うこともせずキッと睨み続ける。

 

「なのに、なんで!」

 

「すみません」

 

「――今更謝ったって!」

 

 顔を泣き腫らしながら、エマが突っ込んできた。

 

 涙ながらも鋭い殺気を伴う動きに身体が反応する。しゃがみ込むと短剣を躱す。こめかみの横を通過した短剣がくるりと反転。鋒が脳天を狙っている。

 

 肘で相手の腕ごと刃を阻止すると、すぐさまエマがサマーソルト。脇腹を狙った足を強化で防ぎ、そのまま掴んで投げる。

 

 ゴロゴロと地面を転がったエマは、立ち上がりながら絶叫した。

 

「なんなのよ貴方はっ! こんな力があってずっと――」

 

 右ストレートを首だけで躱す。彼女はそのまま飛び上がると、下段、上段、大上段と連続で回転蹴り技を繰り出す。着地した彼女の額には大粒の汗が浮かんでいた。

 

「こうやって、強いくせに皆を騙して。それで優越感に浸っていたのね」

 

「僕は貧民だ、だから――」

 

「だったら、自分が見下してないって言い切れる? 嘲笑っていなかったって言い切れるのっ!」

 

 エマが大きく跳躍。逆手に構えた短剣を両手で持ち、飛び上がりながら突き刺してくる。

 

 その手首を必死に掴む。勢いを殺しきれず地面に押し倒された。腰元にのし掛かったエマが、渾身の力で鋒を突き刺そうと力を込めてくる。

 

 殺意と嫌悪の篭もった瞳が揺れている。目元から溢れる雫がアンヘルの頬を濡らした。

 

「僕だって好きでやっているわけじゃない。すべてはバアル教団の陰謀を暴くためだ」

 

「便利な免罪符ね、それっ」

 

「どういう、意味だ」

 

 鋭いナイフにドクンと心臓が高鳴った。息もできず、嘔吐するように反駁する。

 

「なんでもしていいんでしょう? 建前があれば、友情を裏切って、恋心を踏み躙って問題ないんでしょうっ!」

 

「君には悪いことをしたと思ってる。けど、しょうがなかったんだ!」

 

 ギチギチと鋒を止める腕から筋肉の軋む音。力比べでは勝てそうにないと判断した彼女は、短剣を持つ両腕に体重を乗せた。

 

「そうやってずっと言い訳してきたんでしょう。心を弄んで、ずっとずっと――」

 

「僕だってやりたくなかった!」

 

「ウソよっ――貴方はそうやって周りを利用してきた。ええ、そうよ。貴方は天性の嘘つき。人でなしよ。貴方を好きになった女の子が、不憫でならない!」

 

「――ッ君になにがわかるっ!」

 

 魂まで切り裂くような糾弾にたまらず絶叫する。彼女の顔に軽蔑が強く浮かんだ。

 

「何もわからない。知りたくない。けどね、貴方みたいな人は周りを不幸にする。過去を振り返ってみなさい。皆不幸だったでしょ! 皆を不幸に、したんでしょ!」

 

「黙れ!」

 

 過去を揶揄するような発言に怒髪天をついた。過去の記憶が掘り起こされてゆく。心の奥底に封じたはずの塗炭の苦しみが引き出されてゆく。

 

 マカレナ、イズナ、テリュス、ホアン、オスカルにユーリ。あらゆる顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返した。

 

 頭がガンガン揺れる。魂が引き裂かれるような痛みを覚える。心臓を貫かれたような叫びをあげる。

 

 壊れる。

 

 壊れそうだった。

 

 これ以上言わせてはならない。気付いたとき、反射的に身体が動いていた。

 

「僕のことが、君なんかにわかってたまるものか!」

 

 必死に抑え込んでいた短剣を右にそらすと、エマの脇腹を思いっきり殴りつけた。痛みに喘ぐ彼女へ頭突きを食らわせて、身体の上から退ける。背筋だけで跳ね上がるように立ち上がると、駆け出して彼女の右脇腹を蹴り付けた。

 

 はぁはぁと荒い息を吐く。激憤に染まった声を放った。

 

「僕は今まで最善を尽くしてきた。努力してきた。君みたいに平穏な暮らしをしているやつが、僕を非難するな!」

 

「言うじゃない、劣等生の分際で」

 

 肩袖で口元の血を拭いながら、エマが吐き捨てる。

 

「いくらでも言ってやるわ。貴方の所為で周りは不幸になっていくのよ!」

 

「君にだけは言われたくない!」

 

 アンヘルは闘牛のように突撃の態勢を作ると、クラウチングスタートの要領で掛け出した。

 

 エマがカウンターとして突きを繰り出す。その瞬間を見計らって、両手の力だけで地面を叩き進路をずらした。

 

 刹那の合間で創出した隙に思いっきり突っ込む。肩にエマの腹部が衝突して、彼女は肺の空気を残らず吐き出した。

 

 そのままトリケラトプスのような突進でエマを持ち上げると、畔の傾斜を転がって小川の中に彼女の身体をぶち込む。

 

 相手の捲れ上がったスカートも気にせず膝で片腕を押さえ込むと、近場の木の枝を眼球の真上に添えた。さらさらと流れる水に浸した男女は、田舎の川で遊ぶ和気藹々とした雰囲気はまるでなく、さながら血の河で切り結ぶ勇者と魔王だった。

 

「これで、満足? なら殺しなさいよ」

 

 エマが力を抜いて水面に全身を委ねる。怒りで突きつけた枝がフルフルと震えた。

 

「たとえ力では敵わなくても、永遠に怨念を吐き続けてやるわ。貴方の所為で皆不幸になる。貴方は不幸を呼び寄せる男なのよ!」

 

「なら、君こそどうなんだ!」

 

 女の頬を空いた手で思い切り張った。胸倉を掴み上げて怒鳴り散らす。

 

「君のやっていることはなんだ! 周りを騙して『サイレール』密売に手を染めている。たしかな証拠はなくても現状推定有罪だ!」

 

「そんなの知らないって言ってるじゃない!」

 

「そんなわけないだろ! 君のことはずっと調査していた。夜に出歩く君の姿、リカルドの周りで怪しい人間が彷徨いていたのは確認されている。君こそリカルドを騙す一人なんじゃないのか!」

 

「そんなわけない! 私は――」

 

「なら、なんであの廃倉庫にいった! 君が追っていたあの男は誰だ!」

 

「それは……」

 

 アンヘルは枝を放り捨てて、唇に接吻するほど近い距離で見つめ合う。自分の激怒が相手の瞳に反射して映る。

 

「サイレール密売は超一級犯罪だ。君こそまわりに迷惑を掛けているだろ」

 

「だから、知らないって……」

 

 エマの声が弱々しくなってゆく。さらに頬を張った。

 

「そんな言い訳が通じると思っているのか!」

 

「わかんないったら、わかんないの!」

 

 悲鳴のような絶叫が劈く。エマの瞳に戦意が戻った。

 

 彼女は川の中に落ちていた石で頭を殴りつけてきた。脳震盪によって視界がぶれる。ゴロゴロと転がり、小川の中で両手をついた。

 

「私はリカルドの周りに起きている変な事件を調べていただけ。だから夜中に抜け出していたの!」

 

 水を吸った服の裾を絞りながら、エマが立ち上がる。額を石で切ったのか鮮血を滴らせているも、その戦意に翳りはない。

 

「密売所を回った理由もそれか」

 

「そうよ。何かが行われているみたいなのは掴んだの!」

 

 ゆらりと幽鬼のように立ち上がる。転がった際に抜けた肩を無理やり嵌めて、バシャバシャと小川を進んだ。

 

「なら、あの廃倉庫を見つけた理由はなんだ!」

 

「兄さんを追いかけたの!」

 

 ――にい、さん?

 

 一瞬、予想外の返答に判断を見失った。飛びかかってきたエマの回し蹴りがテンプルに直撃する。神経を抜き取るような衝撃にたたらを踏んだ。

 

「家族が心配だったの!」

 

 更なる追撃に血を撒き散らす。

 

「兄さんはずっと、ずっと引きこもってた! だから、外に出歩いて大丈夫か心配だったのよ!」

 

 脇腹に右踵がめり込んだ。膝をつきながら、必死に後ろへ跳ぶ。エマはさらに激昂した。

 

「それの何がいけないって言うのよ!」

 

「――ちょ、ちょっと待って」

 

 突如として降ってきた情報によって、まるで血中に液体窒素でも流し込まれたかのように思考がクリアになる。

 

 彼女の手を掴み取りながら慌てて尋ねた。

 

「兄さん、ってもしかして君のお兄さん? 五つ上のイーサクお兄さんで間違いない?」

 

「そうよ!」

 

 険しい顔のエマが必死に抗っている。アンヘルは両腕を脇に抱え込みながら、額を寄せた。

 

「イーサクさん。つまりエマさんのお兄さんで、リカルドの義理のお兄さんでもある。今はリカルドの実家で家業を手伝っているって調査にはあったけど……」

 

「だから何なのよ」

 

「お兄さんは外出の形跡がなかった。けど、実はあった。そういうこと?」

 

「そうよ!」

 

 ――繋がった。

 

 リカルドの周囲で起きる事件の数々。金剛流や東方流など、平民派と繋がりの強い人物が中心にいると考えられていた

 

 だが、リカルドが怪しいとは考えにくかった。彼はそういう陰謀とは程遠い性格であるし、上位陣としのぎを削る以上、活動に力を注ぐことはできなかった。

 

 親族というのは盲点だった。一応父親エドゥアルドに関しては調査したが、時間が足りずガイルスはシロと断定。イーサクは「貧民街の獣」事件以来、半引きこもりのような生活をおくっているらしく、調査早々標的から外されたのだ。

 

 もしも彼が中心人物であれば、リカルドの知り合いに怪しい動きをするものがいても不自然ではない。

 

 やっと『サイレール』撲滅の筋道が開かれた。あのバアル教団の陰謀を潰せる。

 

 あとは彼女を説得するだけだ。なんとかして、彼女を――

 

「このままじゃ、リカルドが死ぬぞ!」

 

 静謐の支配する朝焼けに怒声が響いた。怒りで我を忘れていたエマの瞳に理性が戻る。

 

「どういう、こと……」

 

「そのままの意味だ」

 

 掴んでいたエマの腕を振り回して投げる。綺麗に着地しながらも、動揺を隠せないエマの顔を見つめた。

 

「君は忘れているようだが、超一級犯罪における首謀者は連座が通例だ。君の兄イーサクさんがサイレール密売の首謀者、もしくはそれに近しい人物なら、義理の弟であるリカルドも必ず罰を受ける」

 

「でも、イーサク兄がやったと決まったわけじゃ」

 

「そんなことを言っていられる場合じゃない」

 

 エマは目を伏せたまま、苦悶に眉をゆがませた。

 

「現状では裁判制度に期待などできない。憲兵や司法は全州会議に向けて事態の沈静化を必死に図ろうとしている。冤罪でも、略式裁判で死刑になる可能性は十二分にある」

 

「でも」

 

「拙い言い訳はやめてくれ」

 

 彼女の中に燻っていた炎が消えている。落ち着いた声でゆっくり語りかけた。

 

「君は現状、推定死罪だ。君の追っていたイーサクさんがもし見間違いでも、それは変わらない。脱獄、捜査妨害、不審行動。捕まれば、君はほぼ確実に死刑宣告を受ける」

 

「それは貴方がっ」

 

「現状から目を逸らすな!」

 

 その怒声にエマは肩を震わせる。血の気が引いたように顔を青ざめさせていた。

 

「君が留置場に留まっていれば、嘘の自白を強制されていた。僕もそうだ。非正規秘密警察に属する以上、任務失敗は見捨てられるのと同義だ」

 

「そんなの、わかんないじゃない」

 

「そう思うなら、今すぐにでも捕まってみたらどうだ。でも、少しでも周りのことを考えられるなら、冷静に行動してくれ。これはチャンスなんだ。あの廃倉庫で、君は殺されそうになっていた。つまり、何かしらの事実を掴んでいる可能性があるんだ」

 

「そういって、誤魔化すのね」

 

「もしもその情報によって事態の収拾が図られれば、総督令恩赦によって、君の死罪は免れる。お兄さんが首謀者だとしても、彼の罪を島流し程度に減罪できるかもしれない」

 

「……」

 

「僕を許せないなら、好きなだけ恨めばいい。好きなだけ殴ってくれていい。でも、君にとっても協力することは最善だ」

 

 エマが感情を凍らせた瞳で立ち尽くす。しばらくの間、無言で互いの瞳を見つめ合った。息積もる沈黙。服から滴る水滴が、小川の流れに飲み込まれていった。

 

 長い沈黙の後、彼女は絞り出すようにいった。

 

「あなたを、信じられない」

 

「信じる必要はない」

 

 エマは返す言葉を失っていた。静かに小川をかき分け、彼女に手を差し出す。

 

「僕たちは友人じゃない。無論、恋人なわけでもない。互いに目的が合致しただけの、利用し合うだけの関係だ」

 

「ビジネスライクってこと?」

 

 小さく首肯する。アンヘルにとって彼女の兄の罪など如何でもいいことだ。それは相手も同じで、サイレール摘発など知ったことはないだろう。

 

 此方は情報を手に入れる。相手は恩赦を期待して協力する。ただ、それだけの関係。そこに信頼などあろうはずもない。

 

 少し前、紛いなりにも男女の友好を交わし合っていたのは幻だったのか、つくづく皮肉な状況だった。

 

「僕が死んでも君は目的を果たせばいい。君にとって僕は路傍の石と変わらないんだ。当然、僕も同じように動く」

 

「非道ね」

 

「自覚はある」

 

「……わかった、わ」

 

 エマは無表情だった。静かに此方の手を取る。その手は意外にも熱かった。

 

「貴方のためじゃない。自分の為、兄さんが関係ないと証明するため。それが、協力する理由」

 

 それでいいと頷く。人が協力するために必要なのは情じゃない。利害だけだ。それは、男女であっても変わらない。

 

 握手を交わして合意した。その手を離そうと引くが、彼女はそれを許さなかった。むしろ引っ張り込まれる。

 

「けど、約束して」

 

 気付いたとき、黒髪に隠れた瞳が此方を睨みあげていた。

 

「私はあなたが最低だって知ってる。私たちを騙していた人でなしだって」

 

「そう、だね」

 

「――でも、リカルドは違うわ」

 

 とん、とエマが身体を押した。深瀬に足を取られて、身体がよろめく。

 

「リカルドは何も知らない。だから――」

 

 彼女の黒髪が綺麗に舞った。

 

「だから――いつかどんな形でも謝ると、約束して」

 

 エマの身体が沈み込む。深瀬に取られていた足を払われて、身体が重力に引かれるだけになった。視界の端に彼女渾身の右フックが映る。

 

 ――やばっ。

 

 鼻先から爆竹でも食らったような熱が広がる。一発くらいは仕方ないか。その痛みを甘んじて受け入れたアンヘルだった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「相変わらず美しい光景だ」

 

 光悦を浮かべた男は巨躯をかがめ、狭苦しい店内に足を踏み入れた。

 

 三尺もない、狭い陳列棚の合間を縫う。両脇の武具は鈍色の光を放ち、今にでも血を吸いたいと叫んでいるように見えた。物々しい品から曰くのありそうな妖刀まで、逝かれた収集癖を証明するかのようだ。禍々しい愛刀もこの中に入っては埋もれてしまうやもしれぬと、男は一人頬を緩めた。

 

 鋼のような美貌を持つ男――クナルは、店内を横切り、さらに奥の鍛造所まですすむ。炉に火も入れず椅子でうたた寝している男を叩き起こした。

 

「おお、テメェか。相変わらずデケェな」

 

「私の愛刀はどうなった」

 

「完成してるぜ。ちょいと待て、あんなバカでけえモン俺一人で運べないんだよ」

 

 店主であるウィルキンはゆっくり立ち上がると、受付や店舗護衛らと一緒に身の丈ほどある大曲刀を運んできた。

 

 クナルはそれを受け取って、刀身をゆっくり撫でる。漣を打ったような波紋に重厚感。輝く鈍色の刀身を受け、妖艶に微笑む。

 

「おい、絶対にここで素振り――」

 

 するなよ、と忠告される前に振っていた。周囲の大気を巻き上げるように鋼が降る。遅れて暴風のような闘気が迸った。

 

「て、てめぇ」

 

「素晴らしい出来だ。この感触こそ愛刀よ。無論、レイシャルも悪くないがな」

 

 大曲刀を背負う。ビビった様子の護衛と怒り心頭のウィルキンを発見した。ちなみにだが、レイチェルというのはサブ長剣の名前である。

 

「店をぶっ壊しやがったら、十倍にして弁償させるからな」

 

「その時は間抜けに請求しておけ」

 

「……金貸しの俺がいうのもなんだがよ、てめぇ絶対ロクな死に方しねえぞ」

 

「屠殺場よりは上等な死地を迎えると思うが?」

 

「……まさかと思うが、俺が豚と同じ死に方をするって言いたいのか? ふん、俺はそんな醜くもなけりゃ、飼われるような弱さは持たねえよ」

 

「知らぬのか? 豚は三匹も揃えば狼も喰らうほど凶暴であるうえ、意外に綺麗好きだぞ」

 

 鼻白む店主を無視してクナルはさっさと踵を返す。

 

「金を払うまで一歩も店の外には出さねえぞ!」

 

「間抜けにツケておけ」

 

「本当にロクな死に方しねえぞ――ってちょっと待ちやがれっ」

 

 ドタドタと駆け寄ってきたウィルキンは、肩をむんずと掴んだ。

 

「待て待て。アイツにツケはもう効かねえよ」

 

「なぜだ?」

 

「テメェ、知らねえのか? 今日商工会ギルドのほうから連絡が回ってきたが、あの野郎憲兵どもに手配書回されてやがる――っち、昨日知ってたら請求額を上乗せしたのによ」

 

「だからどうした」

 

「……アイツから回収できねえんだよ。そら、アリベールの嬢ちゃんも今までの借金くらいは支払ってくれるだろうが、これからの分支払うとは限らねぇ。つまり、テメェは金を出すしかねえのさ」

 

「ふむ、道理だな」

 

 クナルは一度だけ振り返って、しかし何もせず踵を返した。

 

「おい、テメェ」

 

「ヴィエント家に間抜けの名でツケておけ。あの女ならなんとかするだろう」

 

「はぁ? ヴィエント家っておい。意味わかってんのかっ!」

 

 完全に無視して店の外に出た。街角は昼時の飯を求めて彷徨う人ばかりで熱気が鬱陶しい。初夏に差し掛かりつつある証拠に湿気が髪を粘着かせた。

 

 周囲の女性から向けられる黄色い歓声を、まるで路傍の石でもみるような無機質な目で無視し、一人先ほどの発言を振り返っていた。

 

(っち、あの間抜けめ。一人で愉快なことに巻き込まれているとは腹立たしいな)

 

 それと引き換え、クナルに予定されているのは大して面白味のない小隊戦である。ラファエルだか、なんだかが宣戦布告に来たような、来なかったような。そんな記憶を掘り起こした。

 

(不幸吸引機がないと、事件もそうそう起きん)

 

 アンヘルが聞いたら「それはそっちだろ」とブチギレそうな発言をしながら、雑踏の中を眺める。

 

 そこに二つの人影を認めて立ち止まった。背中の大曲刀に手を伸ばす。

 

 二つの人影も同じように立ち止まった。周囲の人々が左右を通り抜けてゆく。しかし、クナルと二つの人影だけは別の空間に切り取られたように静寂を保っていた。

 

 猛禽のような鋭い笑みを浮かべた男が進み出た。

 

「報告を聞いたときもしかしたらと思ったけれど、本当に同郷だったのね」

 

 やけに高い声だ。女性的な長い緑の黒髪に褐色肌。上背は一八〇以上ある。肩が露出し、胸元の大きく開いた服を纏っている。筋骨隆々とした肉体からは、奔流のようなエネルギーが渦巻いていた。

 

 背中にはクナルと同じ巨大な大剣。同族、それを強く意識した。にやりと口を歪める。

 

「アルトゥール。ここで騒ぎを起こすつもりか?」

 

 後ろにいた男が詰問した。神経質そうな男で黒いローブを纏っている。司祭のような風貌だが、前髪が長く陰湿そうで、どこからどう見ても真っ当なミスラス教徒には見えなかった。

 

「いいじゃない。標的を見つけたのよ」

 

 アルトゥールと呼ばれた男が小さく駄々をこねる。

 

「根拠はなんだ?」

 

「強いて云うなら、勘かしら」

 

 返答を鼻で笑うと僧服の男は踵を返しながら「行くぞ」と高圧的に告げるが、一向に動こうとしない相棒を見て苛立ちを露わにした。

 

「まさかと思うが私に逆らうのか?」

 

「そんなつもりはないのだけれど、下手人を見つけたのよ。何もしないでいいの?」

 

「お前は私に従えばいい」

 

 アルトゥールと呼ばれた男はお手上げとばかりにハンズアップ。僧服の男はさっさと雑踏の向こうに消えていった。

 

「ふふ。また会えるのが楽しみね色男さん。同族のコレクションなんて三体目かしら。こんどは血の沸く戦場で――ああ、お仲間の使徒さんにも宜しくね」

 

 チャイナ服のようなスリット深めの服を翻し、男が去ってゆく。雑踏の中にはクナル一人だけが残された。群衆は誰一人気付いていなかったのか、何気ない元通りの街角が戻ってくる。

 

 その中で、クナルは鮮烈に笑っていた。

 

(あの邪龍からの連環か。間抜けがまたネギを背負ってきたな)

 

 強く匂い立つ戦いの気配を感じて、退屈だった日常が色付いてゆくようだった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 正午になって、アンヘルたちはようやく行動を開始した。

 

 古着屋で調達した麻の上下はいかにも貧民といった装いで、デートのときの初々しさは消し飛んでいた。無論、二人の間に漂う空気が変わってしまったのも一因ではあるのだが。

 

 人通りの多い街角を進みながら、輻射熱による微かな陽炎をみる。隣では、帽子を被ったエマが視線を慌ただしく散らしていた。

 

「エマさん、あんまり周囲を見ないで。いつも通り胸を張って歩けば大丈夫だから」

 

「でも、こんな真昼だし」

 

「精巧な写真があるわけじゃないし、憲兵は不審者を職質するものだよ」

 

「写真?」

 

 アンヘルは手をひらひら振りながら忘れてと返す。興味を失くした彼女は少しの間言いつけ通り真正面を向くが、すぐに警戒を始めてしまう。

 

 自意識過剰だ。他人というのは凶悪犯の人相より箪笥に小指をぶつけることを心配する。此方側に気を払っていないのだから斟酌するだけムダだ。アンヘルは首を回しながら、確認を重ねる。

 

「君が廃倉庫で聞いた話だけど」

 

「また? もう隠し事なんてしてないわよ」

 

「情報の整理こそが肝要だよ」

 

 手を立てて頼み込む。押しに弱いのか、下手に出られた彼女は嫌そうな顔をしながら説明を開始した。

 

 あれから一悶着あったものの、アンヘルはなんとか事情を聞き出すことに成功していた。仮の逢引の別れ際、実兄らしき人物を見かけたこと。廃倉庫で不穏な情報を聞いたこと、などを話してくれた。

 

「その“自由、平等、忠国しからずんば”っていうのは、救国主義のキャッチコピーだね。あと神罰、もしくは天罰とか言ってれば確実だと思うけど」

 

「襲撃とか、元老院はどう云う意味?」

 

「それはまあ、いつか議員を襲撃するんじゃない?」

 

「じゃないって、適当ね」

 

「僕らの目的はサイレールだから。あとはまあ、追々って感じかな」

 

 肩をすくめて見せると、エマは失望したような顔をした。国の狗のくせして忠誠心に薄いのがムカつくらしい。

 

「あとはどう? 援軍とか、魔剣だとか言っていたけど」

 

「現状じゃなんとも。襲撃のための戦力急募ぐらいしか想定できないなぁ……それよりも、イーサクさんの関与についてはどう?」

 

 頬を掻くエマが気まず気に目を逸らした。アンヘルの脳髄にイヤな予感がよぎった。

 

「あれだけやり合っておいて恥ずかしいけど、正直イーサク兄かどうかわかんないのよね」

 

「え゛、そうなんですか?」

 

「なんで敬語なのよ」

 

 気味の悪そうな顔で彼女が一歩引いた。

 

「だってしょうがないじゃない。兄さんって引きこもってるから一年近く会ってないし。そもそも暗かったし、別人って言われても納得できるわ」

 

「それは、不味いなぁ」

 

 乾いた笑いが漏れた。もしもイーサクが無関係ならば、現状、無意味に指名手配されていることになる。ちょっと笑えない状況だ。

 

 二人して話し合っていると、ようやく目的地に辿り着いた。アンヘルは門の前でそれを見上げる。

 

「本当に行くの?」

 

 エマが不安そうに尋ねた。

 

「虎穴に入らずんば虎子を得ずっていうでしょ?」

 

「貴方って諺で返すの好きよね。それが格好いいと思う年頃なのかもしれないけど、一々話の腰を折っているだけってこと、知っておいた方がいいわ」

 

 ぎくりと顔を強張らせる。

 

 もしかして、馬鹿の一族格言帳披露癖が移ったのだろうか。それなら死にたいほどの屈辱である。洋風袴でも捲ってやろうかと内心思った。彼女はズボンなので意味ないが。

 

 そんな葛藤を無視して、エマは慣れたように屋敷の扉に手を掛けた。

 

 庭の外側に張り巡らされた白塗りの煉瓦壁。高さ六尺程のそれは、一般的な小学校の校庭ほどの敷地を囲んでいる。中に聳え立つは木造と煉瓦造りの入り混じった家屋。質実剛健と言わんばかりのそれは、ところどころ黒の柱が埋め込まれており、岩のように厳しい。

 

 別になんでもない住宅地区にある建物。門の横には闊達な字で「金剛流道場ドモン道場」と書かれている。リカルドの実家の道場は、二度目にもかかわらず気圧されるような荘厳さがあった。

 

 ぎいっと門の横に備え付けられた勝手口を開き、エマが顔だけを覗き込ませる。気勢の乗った雄叫びが道場の方から飛んでくる。彼女はその反対側、家人たちが暮らす屋敷の方角を伺った。

 

「誰もいないわ」

 

 ちょいちょいとエマが手招きする。二人はそっと敷地の中に滑り込んだ。

 

 壁伝いに庭内を見物し、時折現れる門弟らを茂みの中でやり過ごす。西日が差し込む縁側にまでゆくと、広い洋風庭園に辿り着いた。

 

 暖色の赤煉瓦の路に映える花々。時節に合わせたそれらは丁寧に手入れされているのか、剪定に跡がそこかしこに見受けられた。路の端には小さな如雨露が落ちている。先ほどまで誰かが水をやっていたのだろう。

 

 目的の人物はその庭園の中にひっそり佇んでいた。

 

「何者ですか?」

 

 アンヘルたちが忍び寄ると、背を向けたまま鋭く警告した。

 

 壮年だが、やけにはっきりした声だった。その男がゆっくりと振り返る。

 

 年老いており、髪は側頭部を残して禿頭になっている。優し気な風貌にきらりとした頭はどこか冴えない先生のようだが、ピンと伸びた背筋は、武に長ずるものであることをはっきりと示している。

 

 その物腰、知性に武威。失礼ではあるが、テリュス家の道場主とは別格のカリスマが伺える。

 

 リカルドの父エドゥアルド。

 

 彼は招かれざる客の姿を認識して、意外そうな顔をした。

 

「あなた方は……」

 

「ご無沙汰しています。エドゥアルドさん」

 

 エマが静かに頭を下げる。エドゥアルドは戸惑いを引っ込めると、優しい微笑みを浮かべた。

 

 ふわりとした花の香りが立ち籠める。頭を上げたエマは彼の目をじっと見つめた。

 

「イーサク兄のことを、伺いに参りました」

 

 

 

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