「こんなとき、どんな顔をすればいいのかしら?」
その声は地底に響くように冷え冷えしていた。
「笑えばいいと思うよ」
「頭がおかしくなったの?」
「そこはにっこり微笑む場面だよ」
眼前の女性は冷たい目で見据えるだけだった。おそらくだが、こういわれて微笑む奴はファンか綾波ぐらいだろう。
「馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたのだけれど、まさか逮捕されるほどだとは私も思っていなかったわ」
闇に溶かしたような濡烏の髪を靡かせる女性――アリベールは手に持っていた決済用の羽根ペンを置き、気怠そうに前髪をかきあげた。
人間性を減らすような寒いセクハラをかました翌日、アンヘルたちは高級住宅地に聳える屋敷、スリート商会邸宅にやってきていた。
部屋は相変わらず瀟洒で、黒檀の執務机の上には大量の書類。応接用と思われる革のソファは先日の寝床より遥かに心地よいだろう。壁際の書棚には難解なタイトルが並ぶ。知能指数が下がりそうな少女趣味の本が混じっているのはご愛嬌といったところか。
眼前にはアリベールの他に護衛の男が二人。片方はイマノルで、もう一人は記憶になかった。両者とも極度に顔の神経を張り詰めさせ、こちらの一挙手一投足に反応を示している。むず痒い態度に襲われ頭の後ろを掻くと、促されるまま応接椅子に腰掛けた。
「それで、そちらの彼女は……」
アリベールの目がエマを見据える。アンヘルを見た時の呆れたような視線ではなく、非常に刺々しいものだった。
「その、すみません。お世話になります」
恐縮したようにエマが頭を下げる。眉を顰めたアリベールだったが、荒々しく腕を組んだだけだった。
「……まあいいわ。それで、なんの用かしら」
「少しお願いが」
気まずい内容に声のトーンが下がる。アリベールが深いため息を吐いた。
「また借金? そろそろ破産させるわよ」
「そこをなんとか」
「はぁ、わかったわ。言ってみなさい」
立ち上がって懐の書類を取り出す。とそこで、護衛二人が険しい顔つきでアリベールまでの道筋を遮ってきた。
「何やってるの、貴方たち」
「いえ、ですがお嬢さま」
「貴方たちも知り合いでしょう。彼は暴れたりはしないわ」
護衛たちは顔を見合わせる。渋る彼らの言い分はこうで「いつもと人相が違っているから」だそうだ。
それはそうだ。伸ばしっぱなしの無精髭はだらしないし、満足な食事を取っていないから頬は痩けているかもしれない。日中は隠れ忍んでいるから、肌は日焼けが抜け、けして健康的とは言い難いだろう。そこまで考えて、ある思考から逃げている自分に気づいた。
(そういう意味じゃないな)
恐らく、彼らが言いたいのはアンヘルたちが纏っている雰囲気のことだろう。隠れながら反撃の手を伺う今の顔つきは、顔見知りでも気圧されるような凄絶さがあるのだ。
「いいから邪魔よ。それとも出ていくのかしら?」
雇用主からの最後通牒を受けて、二人は引き下がった。さくっと手渡して元の位置に戻る。アリベールは受け取った書類を見て苦い顔した。
「これ、本気なの?」
「無茶なのはわかってる。けど、どうしても必要なんだ」
書類に書いたのは、「ジオグラフィカル・トレーサー」と呼ばれるグリックス商会製の最新式魔道具だ。直径三十センチほどの円形で、それと連携する拳大の魔道具に現在位置を知らせる発信機である。
「これが十個、ね。返す当てはあるんでしょうね」
「なくは、ない」
ルトリシアから借りて、それを返済に当てよう。もし彼女から返済を迫られれば、今度はアリベールから借りよう。そんな無限錬金術を想像した。人はこれを自転車無操業と呼ぶ。
「三日頂戴、それまでに準備しておくわ。受け渡しはどうするの?」
こちらが折れないことを確認したアリベールは再度深いため息をついて、小さく頷いた。
「君が貸してくれた隠れ家に運んでおいて」
「そう、わかったわ」
背凭れに大きく腰掛けたアリベールは、それっきり仕事に戻った。さっさと出ていけという合図らしい。
「ありがとう」
「お礼なんかいいわ」
(心配なんかしてないか)
ちょっと冷たいその態度。いつもと変わらないその態度が今は無性に心を癒した。寂しさがあるのも事実だが、普通の態度が一番助かる。もう一度礼を言ってから立ち上がった。
「絶対になんとかしなさいよ」
感情の籠った声に振り返る。声の主は羽根ペンを持ったまま、しかし、その手をまったく動かさず机の一点を見ている。怜悧だった瞳が大きく潤んでいた。
「――じゃないと、許さないから」
ほとんど掠れて聞こえなかった細い声が、アンヘルの心臓を掴んだ。ぎゅっと絞り込まれるような痛みが呼吸を途絶えさせる。どくんと心臓の鼓動が響いてきた。
「じゃないと……」
彼女の頬を雫が伝ってゆく。ぽろぽろ溢れるそれが、机の上に滴り落ちた。
――ごめん。
その泣き姿を見ないよう、足を動かす。先ほどの軽率な自分を恥じた。何が少し寂しいだ。その浅慮に死にたくなるぐらいだった。
大商会をこの年で動かすアリベールにとって、自分は唯一といってもいい友人である。その人物が指名手配されて平然としていられる筈がない。
なに軽口を叩き合っているのだ。もっと余裕そうな笑顔を見せてやるべきだった。深い後悔が頭を占領する。くそ、くそと手のひらを強く握りしめた。
「ねえ、ちょっと」
「なに?」
「なにって」
付いてきたエマが袖を引いてくる。鋭い目でアンヘルは振り返った。
「付いてあげなくて良かったの? あんなに泣いてたのに……」
「君が気にすることじゃない」
「そんなっ――」
拒絶しながらも、脳内を占めたのはアリベールのことばかりだった。
泣かせてごめん。心配させてごめん。胸の奥からそんな想いが溢れてくる。その身体を抱きしめて慰めてやるべきなのに。今は、留まることすら危険だ。
ゆっくりと、自分の中に炎が宿ってゆく。
心の奥底に封じられた種火の弾ける音がした。閉じた世界に新しい息吹が吹き込まれ、身体中が燃え盛ってゆくのを感じていた。
アンヘルは目蓋を閉じて、ゆっくり深呼吸した。
――大丈夫。絶対、なんとかして見せるから。
「行くよ……どうしたの?」
口元を抑えて立ち尽くしているエマに向き直る。窓から差し込む光が、彼女の半顔だけを照らしている。静かに佇む彼女の瞳には強い憐憫が宿っていた。
「すごく寂しいのね、あなたって」
§ § §
建物の庇に立って雨宿りするアンヘルたちの目に、朝からどんよりするような小糠雨が降り注いでいる。
眠たげに瞬かれたエマの瞳は退屈といった様子を全面に立たせ、此方のやる気まで奪っていきそうだ。彼女からしても同じことが言えるのだろうが。
アリベールから荷物を受け取った翌々日、アンヘルたちはエドゥアルドの名簿片手にアジト追跡作戦を続けていた。
作戦は割合シンプルで、まずは夜中に町中を駆け回り、すでに道場を辞めた過激派志士候補を発見する。それから受け取った追跡魔道具を相手の荷物に混入させることで、アジト特定を試みるというものだった。
先日の見つけた二人の候補はどちらも外れ。もう一人は風態こそ怪しかったものの、ただの風俗通いだった。
この四人目はリストに載っていない人物だが、たまたまエマが記憶していた人物だ。どうやらエドゥアルドからもらった名簿、抜けがあるらしい。この追跡でなんとか結果を出したい。基本的に数打ちゃ当たる戦法なので、試行回数を増やすことが肝要である。
「中々出てこないわね」
「そう、だね」
物陰に身を潜めながら、一つの勝手口を見張り続ける。こうやってずっと待ち続けていると、裏口から脱出してしまったのではという猜疑心が湧き上がってくる。それを必死に宥めるため、アンヘルは深呼吸した。
(アジトが発見できれば、僕たちは晴れて逃亡生活からおさらばだ。なんとしても成功を……)
「ねえ、ねえってば」
思考の海を漂いすぎて、肩をエマが叩いていたことに気づけなかった。猫が毛繕いするように咳払いした。
「どうしたの?」
と、視線を勝手口に注いだまま尋ねる。エマは見張っているのとは逆方向を指さした。
地肌が見えるほど刈り込んだ、いわゆる軍人刈り。季節らしい半袖を纏う彼は、行動の一つ一つがハキハキしていて軍人臭さがプンプンしている。エマは苦い顔で指摘した。
「ねえ、あれ。私たちの同期じゃない?」
「えっと、そうだっけ?」
「あれはレブナントね。結構有名だと思うけど?」
「誰だっけ?」
エマはパクパク口を閉口させると、呆れたように両手を腰に添えた。
「貴方って、全然まじめに学校通ってないでしょ」
「そんなことないけどなぁ」
「いいえ、絶対にそう。やる気がないって、こういうことね」
(学校のことにはあんまり真面目じゃなかったかなぁ)
ドミティオスの一件、遠征演習の一件と仕方ない面が多くあるのも事実だが、一方でやる気が大きく欠如している感は否めない。
「実力があるのはわかったけど、油断してるとホントに留年するわよ」
「あはは、気をつけます」
一先ず頭をちょこんと下げた。筆記はかなり全力なのだが野暮だろう。呆れを漏らすエマを尻目に、キョロキョロ周囲を見渡している候補生を眺めた。
「何してるんだろ? 今、講義中じゃない?」
「そうね。もしかして平民派なのかしら」
「それだったらあんなに周囲を観察するかなぁ」
挙動不審すぎる。むしろ平民派の調査をする憲兵、といった方がしっくりくる。そう思っていると、アンヘルたちはさらに身を縮めることになった。向かいの路地からさらに二人、人員が追加されたのだ。
――あれは憲兵だ。
尋問室でアンヘルを痛めつけたエイという憲兵が、候補生らと何か深刻そうに話し合っている。一言二言話し合うと、彼らは四方八方に散っていった。
(候補生を動員したのか? だけど、そんな情報一つも……)
「ねえ、あれって私たちを探してるんじゃないわよね」
恐る恐るといった様子で呟くエマ。彼女の震えが緊張を伝えてきた。ひどく嫌な予感がする。
なにか分からない力が働いている。でなければ、こうポンポン邪魔が入るわけはない。臍を噛むようにして歯を食いしばると、手のひらに人という字を書いて飲み込んだ。
「落ち着いて。大丈夫、此処にいれば見つからないから……たぶん」
「そこは言い切ってよ」
「物事に絶対はない」
「理屈っぽい男は嫌われるわよ」
「物事に絶対はないこともないかも?」
「歯切れの悪い男も嫌われるわ」
「僕は一体どうすればいいの?」
半分涙目で尋ね返すアンヘル。突如、その目が、ゆっくりと開く勝手口を認めた。標的マージルの姿だ。
彼はコソコソと倉庫の大扉を開くと、中から木箱の大量に入った荷台を出す。荷台の上にはいくつもの木箱がある。遅れて武装した男二人が付き従う。
エマに声を掛けてから、そさくさと移動を開始した。背負った籠の中には結構大きめの木箱に入った魔道具があった。
その荷台が動き出したのを見て、建物の影に隠れながら追跡を開始する。雨が降っているのもあって、人通りが少なく尾行の難易度は高かった。
(スパイ映画だと、傘を差せる雨の日のほうが尾行日和って言ってたのにな)
無情なり異世界。この世界の住人は雨の日でも気にせずゆく。というか、傘なんて上等な物はない。
「それで、どうするの?」
後ろから付いてくるエマが濡れた髪を鬱陶しそうに払っている。標的は港区を抜け、西の郊外に向かっていた。
「取り敢えず……これください」
出店の前で立ち止まったアンヘルは、出店のおっさんに向かって串焼きを指さした。オスゼリアス名物のピックル鳥の串焼きだった。
まいど、という威勢のいい声で返事をした店主。エマは見事といって差し支えないタレ塗り、ひっくり返しの技術を眺めながら、アンヘルの暴挙に対し口をあんぐりと開いていた。
「貴方ねぇ」
「はい、代金です」
さっさと受け取って追跡を再開する。ちょうど振り返っていた標的たちに良い目眩しとなったのだが、エマはあまり納得してなかった。
「わざわざ買い食いする必要はないじゃない?」
「そうかな? 腹が減っては戦はできぬというし、尾行のカモフラージュになる。一石二鳥だと思うけど」
「だからねぇ。ああもう、なんでもいいわ――あ、ちょっと、タレ溢さないでよ、みっともない」
「あ、ごめん」
エマがハンカチで口元を拭ってくれる。くすぐったくて手を口元にやると、相手と手が触れ合って頬が紅潮した。
「ご、ごめんなさいっ」
「い、いえ、自分でやりますから」
ハンカチを受け取って勝手に拭う。エマは目を伏せながら、小さく縮こまっていた。
気まずい空気が流れる。屋根から流れる水滴が、水溜りに落ちてぴちゃんと弾けた。
「ね、ねえ、追いましょ」
「そ、そうですね」
テンプレラブコメから気を取り直して、足を早める。狭い川沿いの路地を抜けたあたりで、前方からの人影に気づいたアンヘルたちは小道に飛び込んだ。
「ねえ、あれって」
「うん。候補生だ」
名前は出てこないが、見覚えはある。エマは顔だけを出して、前方から迫ってくる男が標的とすれ違うのを見た。
「ベルナルドじゃない。早くどっかに行ってよ」
「ちょっと待ってエマさんっ!」
飛び込んだ路地の奥に人影が映った。先ほどやり過ごしたはずのレブナントが背後からやってきたのだ。エマの肩を叩いて背中を向けさせる。
「おい、そこの君たち」
静かに顔を伏せてやり過ごそうとするが、無情にもレブナントが声を掛けてくる。低く響く声にびくりと身体が硬直した。
――ねえ、どうするのよっ。
――こうなったら最終手段しかない。
――ねえ、ちょっと待って、何する気なのっ?
「男女の二人組にその背格好、もしかしてエマ候補生、か?」
レブナントの手が肩に掛かる。ぞわりと悪寒が広がった。
もうだめだ、やるしかない。手に持っていた先ほどの串焼きの棒を逆手に握ると、強化術を発動させた。
「待って――」
エマの静止を振り切って、身体は相手を無力化しようと動いた。肩に置かれた手を払うと、相手の口を左手で塞ぐ。そのまま強化した串を相手の無防備な膝の横に突き込むと、強制的に閉じられた口から苦悶が漏れ出た。
さっと後ろに回って、首に腕を回した。全力で腕の筋力を引き絞ると、絞められて呻く男の声が小さく漏れ出た。
「それじゃ死んで――」
「エマさんは路地の外を見張っててっ」
男の抵抗が徐々に弱まってゆく。エマの恐怖と戸惑いに満ちた表情を見ながら、男が地面に崩れ去ったところで力を抜いた。
「はあ、はあ」
アンヘルは近くにあった樽の蓋を取り外すと、気を失っている男を中に詰め込んだ。少なくとも二、三時間は目を覚まさない怪我だ。
詰め込み終えて顔を上げたとき、エマは苦い顔をしていた。
「やり過ぎよ、貴方」
「今は手を選んでいられなかった」
「だとしてもよ。彼に何の罪もないわ」
「わかってる」
エマを置き去りにして、アンヘルは路地から顔を出した。候補生の追跡人はどこかに立ち去っている。標的もまだ通りの向こうに姿を見つけた。
「そろそろ住宅地区だ。手筈通り頼む」
「……わかったわ」
まだ言い足りなそうなエマ。彼女を置いて、魔道具の入った籠を背負いなおした。
「せーので行くよ。準備はいい?」
「……任せるわ」
渋い声のエマ。やっぱりさっきのは悪手だったかと思いながらも、アンヘルは魔道具を渡し、近くの樽を持ち上げた。
ゴロゴロと荷台の音が近づいてくる。それがもっとも近づいたとき、一気に路地から走り出た。
「う、うわぁ」
どんがらがっしゃんとけたたましい音を立て、荷台の荷物と持っていた樽が転がる。ぶつかった衝撃で地面に倒れながら、アンヘルは大袈裟に足を抑えた。
「い、いたたたたた。足、足がぁ」
「てめぇ、飛び出してきやがって何都合のいいことをいってやがるっ!」
「折れた、絶対折れたよぉ。おかあさーん」
「け、何がおかあさーんだ。マジで叩き切ってやろうか、あ?」
護衛の内の一人が凄んでくる。その背後でエマが魔道具入りの木箱を持って様子を伺っていた。
「ホントに痛いんですよぉ。ほら、見てください、絶対曲ってますから」
「あ? どこがだボケ」
「えぇ、ちゃんと見てくださいよ。ほら、ここに」
といいながら立ち上がる。男は額に青筋を浮かべた。
「てめぇ、今やってることを冷静に振り返りやがれ」
「えーと、どういうことでしょう?」
「てめぇの足は折れたんだろ? ならなんで立てるんだ?」
「……気合い?」
「マジで叩っ斬るぞ、この当たり屋やろうっ!」
男の右腕が霞むと、巌のような拳が頬にめり込む。その瞬間、衝撃を殺すように後ろに飛んだ。
「やめろっ!」
荷台を運んでいた男が怒鳴った。
「いつまで遊んでいる。さっさと荷物を積み込め」
「だ、だがよぅ」
「俺たちには優先すべき任務がある。そんなくだらん浮浪児に構うな」
(浮浪児って……)
確かにボロの古着を着ているが、それだってもう少し言い方ってものがあるだろう。そう思いながら、エマが後方の路地で合図したのを見て、ピューと風になって遁走した。
めたくそに走り抜けた後、エマと合流したアンヘルは肩で大きく息をしていた。
「首尾はどう?」
「ばっちりよ。貴方の拙い演技以外わね」
「……そんなに下手だった?」
「大根役者っぷりはすごかったわ。人をイラつかせる反応もね」
エマは空元気ながらも小さく笑みをこぼした。色々あったが、作戦は取り敢えず成功を見たことになる。
それから二日間。
このようななんちゃって演技を重ね、計三人の荷物の中に追跡魔道具を紛れ込ませることに成功。アンヘルたちの任務は終了し、ガイルスたちの強行突入を待つだけの身となった。
――その筈だった。
§ § §
――ガイルスは一体何をしているんだっ。
ギリギリと歯軋りの音がする。知らず気が立っていたのか、左足が貧乏ゆすりをしていた。
決死の演技(笑)によって、過激派と思われる人物の荷物に追跡用の魔道具を忍び込ませたのがここ二日の出来事。現状、めぼしい人物はすべてあたり終え、これ以上の捜査続行は不可能な段階に来ていた。
(エドゥアルドさんから貰った名簿はほとんど役に立たないし、ガイルスは全然姿を見せない。どいつもこいつも肝心なときに……)
あれからガイルスは姿を見せない。貰った名簿はどれもハズレで、エマが記憶を辿った人物だけしか過激派らしい人物は見つからなかった。
そのうえなぜか増員された候補生たち。さらに強まる憲兵の警戒など、此方の包囲網がどんどん狭まっているのを感じる。気を抜いた瞬間、強い恐怖が湧き上がってくるのを止めることはできなかった。
落ち着けと大きく深呼吸する。焦ってもいいことはない。現状を整理するよう、手元の魔道具を眺めた。
黒い長方形板なそれにはソナーのような波が表示されていて、明々と点が点滅している。それが三台。今日になってようやく停止したその点は、どのボードにも同じところに位置しているように思われた。
「ねえ、これからどうするの?」
彼女の目の下には濃い隈。日中は捜査、夜半は警戒と限界まで身体を酷使した生活を送っている。女性の身だけあって、その体力は限界に近い。
橋の下から夜空を見上げる。煌々と光る星空も、今日に限って積もった雲が遮るせいでどんよりと濁っている。今にも雨が降り出しそうな天候だ。
(これから、どうする)
仕込んだ魔道具はまだ作動しているが、見つかってしまえばそれまでだろう。あまり広まっていない魔道具なので勘違いするかもしれないが、それは希望的観測といったものだ。
いや、答えはわかっている。ガイルスが居ない以上、アジトに潜入できるのは自分たちだけだ。それを危険だと逃げ道を探しているに違いない。
ぎゅっと拳を握った。果たして辿り着けるのか、この状態で――
「もう決まってるんでしょ?」
エマがこちらの袖を引っ張っていた。なにもかもお見通しか。
女は強しだな。アンヘルは沈鬱な表情で小さく頷くと、静かに闇へと繰り出していった。
「ここが、そうよね」
目的地は意外にも都市部の近くにあった。最初はなんでもない住宅地を指しているのかと思ったのだが、エマが、
「ここってたしか、昔地下貯水計画がされたところじゃ」
ということを述べて、地下施設の存在を推測した。そこでアンヘルたちは、近くの地下につながる通路を探し、地下につながるマンホール――という名の石の蓋――を開いた。
絶えずごぉぉと唸るような風の音が響いてくる。アンヘルたちはぬかるむ地下に降りると、旧貯水計画があったらしい煉瓦壁に沿ってゆく。
道は幾重にも分岐しているが、魔道具のお陰で道を見失う心配はなかった。
「ねえ、地面に車輪の跡があるから魔道具要らなかったんじゃない?」
「やめて、絶対に必要だったんだって言い訳してるんだから」
一人づつ最後まで追跡すれば、いつか辿り着けたかも。彼女の疑問を考えないようにしながら、縋り付くように魔道具の点を追った。
「と、あそこね」
召喚師した「炎の魔剣士」の炎を頼りに進んでいたのだが、遠くに人工の火を発見する。仄暗いそれは、魔導灯の灯りにおもえた。
「反応はどう?」
「うん、位置は一致してる」
二人して頷き合うと、さっと身を躍らせた。
物陰に身を潜めながら、敵のアジトらしき場所へ潜入。
警備はまばらだ。地下の空間ということもあって、完全に油断しきっているのか。それとも人員を減らすことで隠密性を高めているのか。兎に角、アンヘルたちには好都合である。
数人の警備を闇夜でやり過ごし、さらに奥へ潜入する。じんわりと汗の滲んだ掌が緊張を伝えてきた。
アンヘルはぐるりと周囲に視線を巡らす。そこにはうず高く積まれた木箱の山があった。
「これが全部、ドラッグなのね……」
顔を真っ青にして肩を抱えているエマは震え声で呟いた。無理もない。アンヘルにしても同じ気持ちだった。
これだけの量。もし全部街に流れれば、アヘンを流された上海のようになるだろう。
バアル教団。
カオスのやり口を見てその悪辣さを知っていたつもりだったが、ここにある悪意はその比ではない。身が凍りそうになる思いだ。
ただ、疑問になることもある。今まで先延ばしにしていたことだが、よく考えると理屈が合致しないのだ。
(平民派はどうして協力しているんだ?)
過激な面が見られる彼らだが、紛いなりとも国を憂う志士なのである。それがなぜ、サイレールの大量密売による国家転覆に繋がるのだろうか。まったくもって理解不能だ。
サイレールを資金源とするなら理解できるが、サイレールで人々を陥れるなんて、ただの蛮行としか――
アジトの中央にあった幔幕、その中からボソボソと声が聞こえた。アンヘルは口の前に指を一本立ててジェスチャーすると、会話に耳を凝らした。
「……準備…………魔道具……」
「…………イーサクさんの指示はどうなって……」
「……援軍…………見取り図……魔剣……」
(なんだ、何を言っているんだ?)
ボソボソとした声で何を言っているのか判然としない。回り込んで相手の顔を伺っていたエマがフルフルと顔を振る。どうやらイーサクではなかったようだ。
どうにも不気味だ。もっと情報を。
アンヘルがそう思った瞬間、幔幕の向こうから狂気の滲む意気込みが轟いた。
「我らを虐げる元老院に裁きの鉄槌を!」
ガシャンと手に持っていた杯を地面に叩きつける音が届く。エマはびくりと肩を震わせていた。
幔幕の向こうで男たちが去ってゆく気配がした。これ以上こうやっていても、情報など入手できないだろう。
「どう、なにか聞き取れた?」
「いや――」
エマと会話しながら、不可解なことが膨れ上がってゆくのを感じていた。
――我らを虐げる元老院に裁きの鉄槌を?
――我らを虐げる民衆に、ではなく?
今彼らがやっているのは、民衆に対する攻撃だ。あれほどのサイレールが撒き散らされれば、困窮するのは民衆に他ならない。だが、ドラッグの危険性を理解している元老院に大したダメージは与えられないだろう。
過激派は頭がイカれてしまったのか。いや、相手を過小評価するのは最低最悪の下策だ。もしも、今やっていることが元老院への鉄槌に繋がるとなれば。
(いや、無理だ。どうやってもサイレール如きじゃ元老院には被害が出ない。数年単位なら兎も角、あの意気込みはもっと直近の……)
ここまで考えてある思考に陥った。今考えていることの何か、前提条件が間違っているのだ。
云うならブラック・スワン理論。あり得ないと思っていた前提を覆すことで、予期できない事実が現れる。
此処までの情報はサイレール、救国主義、バアル教団。そんなモノが頭を流れてゆく。
「ねえ、ねえってば」
思考に耽っているとエマが肘で小突いてきた。
「あ、うん。どうしたの?」
「早く逃げたほうが良くない? いつまでもいたら捕まっちゃうよ」
「そう、だね。もう、任務は終わったし」
任務は終了している。この長かった一週間の逃亡生活はサイレール保管所を見つけることで終わりを告げたのだ。
「あ、そっか。私たち、“サイレールの保管所”を見つけたんだもんね。イーサク兄さんは見つからなかったけどこれで恩赦か。なんか、ちょっと呆気ない終わり方だね」
疲れたようにエマが呟く。そのとき、悪魔のような閃きが脳内を走る。
「ま、さか……」
アンヘルはよろよろと歩き出していた。周囲の確認もおざなりに、ゆっくりと近くの木箱に手を掛ける。
木箱の上蓋に短刀を差し込んで、無理やり引き剥がした。物音と共に木屑が周囲に飛び散る。
その中身を見て、全身から血が引き抜かれたような気分になった。
「ねえ、あんまり煩くすると――」
此方の表情を見たエマは身体を凍りつかせていた。今、自分がどんな表情をしているのか想像したくない。多分、恐怖と憤怒と絶望に濡れた表情をしているのだろう。
手の戦慄きが、今見えている光景を現実だと教えてくれる。これが、嘘偽りない現実なのだと。
心底恐怖した。バアル教団と救国主義者のその情熱に。一体彼らの何が、この行為へと駆り立てるのだろうと。
間違っていた前提条件。
それはサイレールの輸送だ。
アンヘルたちは、標的にした人物がサイレールをこのアジトに運び込んでいるのだと思い込んでいた。
無意識の内。彼らが荷物を運ぶものなど、それくらいしかないと。
だが、冷静に考えれば一箇所に集約する必要など微塵もない。分散して保管しておけば、摘発の際ダメージを抑えられる。
ならどうして、この警戒が険しい時期に物資を輸送させたのか。都市中心に近い、秘密の地下施設に運んだのはどうしてなのか。
答えはたった一つしかなかった。
――輸送していたものが、サイレールじゃない。
開いた木箱の中にあったのは大量の魔道具。火薬、魔力充填式爆破具、体内連結式の自爆魔道具。それが夥しいほどに詰め込まれていた。
戦争を企むような武器の山。それが、箱一杯に積め込まれていたのだ。
元老院を狙った作戦。サイレール密売資金を元にして、今の時節にしか成し得ない目標などたった一つしかなかった。
「彼らの狙いは――」
――元老院議員、使節、皇族までが一斉に集まる、『全州会議』だ。