標的を貴族街周辺で発見した、という報告が入ったのはリカルドたちの追跡がうまくゆかず、やきもきしているときであった。
動員した候補生の負傷、進展せぬ捜査状況。逸りに逸った心が、その一報で爆発した。
すぐさま剣を取ったリカルドは、仲間を二人連れ、そのときを今か今かと待ち構えていた。
「エマを解放しろ、アンヘルっ!」
そのときを待ちわびたと、躍り出る。閑静な路地のど真ん中、魔導灯がちかちかと明滅する光の下で二人の男女と対峙した。
男の一人が腕を掲げ制する。もう一人の女を庇うような姿勢。自然と下がった女を見て、胸の奥がじくじくと痛んでいくような気がした。
眼に入るのは女――エマだけだった。それ以外は映らない。
記憶の中の彼女を思い出していた。長く括った黒髪、いつもくだらない冗談に眉を顰めながらも最後には優しく笑ってくれる。押しに弱く、頼み込めば大体助けてくれる。そんな幼馴染。
いつもそばにいてくれる。それが傲慢なことだと気付いたのは、会えなくなってからすぐだった。
失ってから気付く、その存在の大きさ。
その存在に手を伸ばすよう、一歩を踏み出していた。
「エマっ!」
エマが声に誘われて前に踏み出そうとすると、長身の男が視界を遮った。リカルドは怒りのまま剣の柄に手を掛ける。
「なんの、つもりだっ」
「君とエマさんを会わせるわけにはいかない」
アンヘルがちらりと後方のディアゴを一瞥すると、ボソボソとエマに耳打ちした。すると、エマは腕一本が間に挟まっているだけにもかかわらず、ただ顔を俯かせた。
「どうしたんだ、なぜ帰って来てくれないっ!」
「……今は、行けない」
エマは首を小さく左右に振った。
「なんでっ!」
「ごめん、なさい。でもね、これがみんなのためなの」
「どういう意味だっ! もしかしてアンヘルになにかっ」
ぞわりと胸の中で高まる疑惑心が言葉尻を激しくした。頭の中で襲い掛かられ、従うしかない状況を想像してしまう。血走った目でアンヘルを睨み付けた。
「違うの、アンヘルくんは何もしてない」
「なら、なんで」
「ごめん。でも、信じて」
心のままに握った剣の柄が震えていた。リカルドはエマを追って一歩踏み出す。それに合わせるようエマが一歩下がる。
このままではエマが行ってしまう。腕を伸ばし、自らの幼馴染を掴むよう五指を開いた。
「迂闊だ、リカルド」
ヴァレリオットが肩を叩いた。
「だが」
「ディアゴ殿から警戒を怠らないよう言われた筈だろう? 心配するな、我々三人ならば相手に勝ち目はない」
腕を引いて静止してきたヴァレリオットが隣に立つ憲兵ディエゴとこくりと頷き合い、佩刀を抜剣した。
召喚師。二年もの間、ラファエルと同じ能力を隠し続けてきた男だ。決して油断できる相手ではないことなどリカルド自身百も承知である。
だが、関係ない。
金剛流ドモン道場免許皆伝。たとえラファエルに匹敵する実力を備えていたとしても、敗北など微塵も考えなかった。
壁のように聳え立つアンヘルに向かって、厳しい一歩を踏み出していた。
「待ってリカルドっ!」
――今、おまえを助けてやるからな。
リカルドは気迫の籠った咆哮を上げると一気に距離を詰めた。寝かせた刃が灯に照らされてキラリと光る。
だらりと自然に構えていたアンヘルが鯉口を切った。沈み込むように膝を抜くと、胴を薙ごうとした剣戟を鞘から僅かに抜いた剣で迎撃する。
凄まじい勢いで衝突した鋼は火花を撒き散らした。
遠くから見たものには、一瞬花火でもあげたような激しい閃光を想像させただろう。
試しや誘いなど必要としない。今の一撃で実力は理解した。つま先からてっぺんまで振り絞った全力で突き進む。リカルドは強く歯を食いしばりながら、旋風のように回転した。
ごうと風を切り裂く音が響く。アンヘルは苦い顔をしながら後方に跳躍した。
「ヴァレリオットっ!」
魔法には、二つの分類がある。
基礎三大属性こそ至高である、と謳うガウス学派魔法。光と闇の人間の本質にある、と謳うオイラー学派。
ヴァレリオットの学んだオイラー学派は、威力、範囲こそず抜けているものの、難易度という点ではガウス学派を凌駕する。そのハードルを才と努力で踏破した彼の秘技は、上級生と遜色ないどころか上回っている。
呪文を唱えていたヴァレリオットの指先から閃光が迸る。紫電の光は四つの線となってアンヘルに殺到する。
相手はギリギリで躱したものの、地面に着弾した衝撃でゴロゴロと地面に転がってゆく。
それを見たリカルドは大上段に構えた。上段、火の構え。激烈な一撃を信条とする金剛流の中でもさらに極端な攻勢剣術。一対一では敗れたことのない構えを取る。
緩めた手首がゆらりと剣を漂わせる。大きく跳躍して必殺の一撃を繰り出そうとする。
片手を突いて立ち上がったアンヘルはその剣を地面に這わせ、大きく振り上げた。
歯を横にして煉瓦の石畳の破片を飛ばしてくる。はっと目を瞑った瞬間、脇腹に強烈な痛みを覚えた。
回し蹴りだ。内臓が破裂したような痛みに膝をつく。さらに膝蹴りが顔面に飛んできた。
激しく呻きながら仰向けに倒れる。鼻が歪んだのか、鼻腔から血が滴り落ちてきた。
意識を刈り取らんと迫る剣、ごろごろと横に転がりながらギリギリで回避した。
地面に剣を叩きつける甲高い音。直後、ヴァレリオットの風魔法が炸裂した。
アンヘルが顔を庇いながら大きく吹き飛ばされる。彼は地面に剣を突き立て、なんとか突風に耐え抜いた。
ゆっくりと膝をつきながら立ち上がる。背後に居た二人が駆け寄ってきた。
「すまん。俺は戦力になれそうにない」
ディアゴがしょんぼりと肩を落とす。彼の中年らしい肉体ではこの高速戦闘についてこれまい。
「いや、大丈夫です。それよりも、アンヘルの奴……」
ぐいと鼻を押しながら鼻骨を戻し、一瞬前のやり取りを思い返す。
瓦礫を利用した目眩し。すぐさま蹴り技を繰り出す体術。魔法を避け切った判断力。剣の実力は兎も角、戦い慣れていることはよくわかった。
(探索者あがり特有の戦い方だ)
技術が劣るならそれ以外で対処するしかない。剣に固執しないのは、魔物相手の探索者家業ではありふれた戦い方だ。
こういう遣り手が重視するのは、なによりも巧さである。命の遣り取りで極限まで集中力、精神力を摩耗させるのだが、野生に生きる魔物相手では人間ほどの消耗を望めない。だから彼らは息を抜いたり、うまく隙を作りだす術に長けている。
「行けるのか」
「動きはもう見切った」
ヴァレリオットの心配を置き去りにして、再度必殺の構えを取った。ゆらりとした頭上の刀身。それは流星のように降った。
金剛流の剛剣。その必殺の一撃を防ぐには、出鼻を挫くか、予備動作で太刀を挟むか、間合いから逃がれるしかない。動き出してからの対処は不可能、だから必殺なのだ。
渾身の力で放った袈裟斬りだった。
神域の剣技に目の色を変えたアンヘルは、必死の形相で剣を真横に掲げ、受けた。きっさきが肘に食い込む痛みを堪えつつ、石畳の上を滑って後退する。
さらに一撃。鋭く放たれた突きが頬、耳を裂いて真っ赤な花を虚空に咲かせる。赤く尾を引いた剣線が薙ぎ払われる。
――止めだ。
真横に薙いだ。澄み切った夜空を割るように甲高い金属音が鳴り響いた。
アンヘルは手で鞘を引き上げると、胴体ギリギリで受けた。強化術の賜物か、鞘をぶった斬ること叶わず弾き飛ばすだけに終わった。
「やめてリカルドっ!」
エマが叫ぶが、止まる気はなかった。
無我夢中で追撃して、長剣を振り下ろした。
――召喚。
アンヘルが渋面で呟く。
剣が相手の首に吸い込まれる直前、真横から現れた青白い燐光の溢れるゲートから剣が差し出された。
燃えるような赤い剣。それが振り下ろした剣と噛み合う。頭上ギリギリで止められた。
吹き飛ばされていた男の目に力が宿った。
「リカルド、引けっ!」
後方からヴァレリオットが叫ぶ声ぶ。
一手遅い。アンヘルの口がそう模った。
ゲートから現れた炎纏う剣士が競り合う剣ごと大きく薙いだ。鋒から膨れ上がる炎、それが津波のように迫る。
――しまっ。
制服の上着を取り出して頭に被った。皮膚の焼け爛れる匂いがする。姿勢を低くして耐えるしかできなかった。
ふわっと炎が消滅する。立ち上がったアンヘルが駆け出していた。背後からもヴァレリオットの気配。
けたたましい金属音が意識をクリアにする。アンヘルとヴァレリオットは互いに至近距離で見つめ合いながら、激しく鍔迫り合いをしていた。
「私とリカルドが二人で掛かってなお苦戦するとは、想像以上の強さなようだ」
「それは、どうも」
「勝ち誇るのは構わないが、勝敗が決したわけではない」
ヴァレリオットが至近距離で魔法を発動させた。手のひらから放射状に放たれる炎。アンヘルは炎の魔剣士を盾にしながら、時計回りに避けた。
「君は彼を。私は眷属を相手にする」
小さく頷くと、飛び起きて走った。お返しとばかりに剣を返す。
壁際に追い詰めるよう位置を変え、剣で牽制した。
背中を壁につけたアンヘル。正眼に構えるとその鋒を向けた。
「お前の負けだ、アンヘル」
眷属はヴァレリオットの相手で手一杯だ。彼方の手札はすでに把握した。この位置からでは此方の剣を防ぐことはできない。
男の額からひやりと汗が流れ落ちる。真っ向勝負における彼我の実力差は格下の相手がより理解しているだろう。構えられた剣から力が抜ける。
だが、この絶望的な最中にあって男は意外にも笑った。
「……それは、どうかな」
(まだ何か奥の手を?)
アンヘルが左腕を柄から話すと、ぎゅっと握りしめる。口元が静かに呪文を口ずさもうとする。
油断ならない濁った目に柄を握る拳が震える。その瞬間であった。
「リカルドやめて。じゃないと、この人を殺すわ」
エマの声が背後から響いた。彼女はディアゴを仰向けにして、その足を胸に置いて短剣をつきつけていた。狼狽し切った表情だが、鋭い眼光が鋒を見つめている。
「俺を気にせずやってくれっ!」
横隔膜を圧迫されているのか、掠れ声を絞り出したディアゴ。リカルドたちは全身が凍りついたように固まるしかなかった。
「ごめん。でも、しょうがないの」
剣を握った指一本一本から力が抜け落ちてゆくようであった。気づけばからんと剣を落としていた。
ぐっと唇を噛む。ディアゴは必死に自分のことを気にするなと叫んでいるが、そうするわけにはいかない。このまま彼を喪えば、憲兵への協力という大義を失うことになる。
リカルドの脳裏からあらゆる思考がデリートされ、ただ絶望が支配した。
眷属を召還したアンヘルが加速し、地面に叩き伏せられる。彼は腰に体重を掛けながら耳元で囁いた。
「ここは引いてほしい」
「お前っ、エマを奪っておいてよくそんな口をっ!」
「静かに。憲兵には聞こえないようにして」
アンヘルは大きな声でヴァレリオットとディアゴに武器を捨てるよう指示を出すと、ゆっくり距離を取らせた。その距離が数百メートルほどになると、説明を再開した。
「僕たちは今、エマさんの冤罪を晴らすために動いている」
「それは此方のセリフだ。お前がやっているのは周りを混乱させるだけだ!」
彼らが犯した罪は当初の禁止薬物密売に加え、脱獄、公務執行妨害、候補生への暴行、街中での騒動など多岐に渡る。これ以上放置していては冤罪が認められても死罪になりかねなかった。
アンヘルは小さく謝罪しながらも、顔を押さえつける腕に力を込めた。頬の地面の感触がひどく冷たい。
「この事件、君の義兄さんであるイーサクさんが関与している」
「なにっ?」
まったく想像していなかった名に一瞬呼吸も忘れて瞠目した。ぽつりぽつりと小糠雨が降り注ぎ、降水時の匂いが漂う。
「彼女は君の為に動いている。邪魔はしないでほしい」
「なにを根拠にそんなことを」
「僕は平民派を監視する役目を請け負っていたんだ」
すっと上に乗っていた体重が消え去る。顔を上げるとアンヘルが此方を見下ろしていた。
「もう一度言うよ、これ以上邪魔はしないでほしい」
「お前を、信頼しろというのか?」
「……」
冷たい顔をした男に一歩も身動ぎできなかった。悲しそうな顔をしたエマが俯いたまま身を翻す。二人は闇の中に消えていった。
膝から崩れ落ち、後悔が吐き出される。どうして、どうしてと。蹲りながら二人が去って行った方角に腕を伸ばした。
なんでエマは俺を頼ってくれないんだ。
もしアンヘルの言葉が本当だったとしても、なぜ。
自分ではなく、別の男を。
気づいたとき、眼前が歪んでいた。頬が濡れている。泣いていたのだ。
人前で泣いたことなどもう思い出せそうもない。姉のブリヒッテの葬式ですら、こうやって号泣した自信はなかった。
けれど、今指先の隙間に消えてゆく人影を見ていると、涙がこぼれ落ちるのを止めることはできなかった。
霞む視界の先で蠢く男は、姫を攫ってゆく魔王の姿そのものにしか見えなかった。
何が、魔王だ。
正義は、勇者は必ず勝つ。
正しいのは、おれだ。
四肢に力を込める。幼馴染を取り戻せ。そう言霊のように呟いた。
「やめるんだ。今行けば、私たちの誰かが死ぬことになる」
ヴァレリオットの細剣が眼前に立ち塞がるよう突き刺さっていた。
そんなことはわかっていた。苦い顔で見送るディアゴやヴァレリオットも逃したい訳ではないだろう。
再び視線を眼前に戻す。残ったのは人影が絶えた街路の闇。エマを求めて伸ばしたままの手が震えていた。
彼女は自分を信頼してくれなかった。長年の幼馴染である自分ではなく、つい最近知り合ったばかりの男の手を取った。
それはわかっていても。
今は苦くて堪らなかった。
§ § §
さらさらと沢辺を流れる緩流の音が耳に届き、星明かりに照らされた水面が鋭く光っている。
夜空では薄く積もった雲が半月を覆い、時折こぼれ出る月光が地面を照らしている。
郊外の川辺には人の声どころか街あかりすら届くことなく、ただひっそりとした蛙の鳴き声が響いているだけである。
全州会議を翌日に控えた夜。アンヘルたちはいつか二人で争い合った橋の下に居た。それも丸一日。その間、エマはずっと膝を抱え虚な目で小川を眺めるだけであった。
アンヘルは調達したパン――盗んできた――の一つを彼女に差し出し、もう一つを口に運んだ。
「眠れ、ませんか?」
「……」
「会議は明日ですから、休まないと」
「……うん」
覚束ない手つきで食料を受け取ったエマは、ボソボソと岩でも食べるようなスピードで齧った。
アンヘルは静かに土手へ腰を下ろした。日中雨が降ったからか、湿度が上昇していて微かに肌がベタつく。気温以上に感じる不快なその暑さ、眉を顰めながら蓄積された疲労を息に籠めて空に溶かした。
長い、長い夜だ。
言葉もなく、目的もなく過ごすには長い時間。
愛ある男女ならば暖かみある行為に耽って、その疲れを癒やし合うことができるのかもしれない。
けれど、アンヘルとエマの間にあるのは協力関係でしかない。
エマは、イーサクという家族の為。リカルドという幼馴染のため。アンヘルは、エマを通して友人だったマカレナを重ね合わせて。
どれ程仲が進展しても、傷を舐め合う獣にしか成れない二人の間。それは決して縮まることのない心の距離であった。
「僕は寝ます。おやすみなさい」
と腰を上げようとしたとき、袖を引かれた。エマは俯いたまま、指先を衣服の上からすっとすり合わせた。
「なにか?」
「……ううん。なんでも、ない」
弓師の繊細な指先がゆっくりと離れてゆく。アンヘルはにっこり微笑みながら、腰を再び降ろした。
「そういえば、エマさんってどうして弓を使っているんですか?」
「……今更、どうして?」
「身の回りのことは聞いたことがなかったので。言いたくなければ構いませんけど」
「……」
なんとも寂しげな風情に耐えられなくなったのだろうか。それとも最後の戦いが迫って怖気付いたのか。彼女はぽつりぽつりと自分の身の上を語り始めた。
「私の家はね、リカルドとは違って本当はただの農民なんだ」
エマの実家は、元々が帝国南岸の漁師の束ねであり、近在ではもっとも栄えていた土豪であった。それが武芸に通じ、上流階級への一歩を踏み出したのは祖父の代からであったらしい。
軍国主義国家における武芸の重要性は語る必要もないが、同時に金の力がまったくないことを意味しない。身を立てることを決意し、脇差一本で野に下った祖父の冒険は困窮を極めたそうだ。
東奔西走。陣借りの傭兵として戦場を渡り歩き、やっとのこさ家を持てるほどの戦功を打ち立てたときには齢四十を超えていたそうだ。
孫であるエマが生まれたとき、すでに祖父は没していたらしいが、その苦労は幾重にも日記に綴られていた。
「だからね、うちの家……っていうほど伝統ある家じゃないんだけど、すごく剣に対する拘りが強くてさ」
弓を撫でながら呟くエマには、強い哀愁が漂っていた。
彼女の語る所によれば、弓を学ぶ迄に紆余曲折あったらしい。二代目――つまりエマの父――は士官学校に入るほど余裕がなく、紛争で知り合ったエドゥアルドのドモン道場にて師範の座に付き、財を蓄えた。そして漸く長年の結実、学問を習えるような身になってからの子供イーサク、エマは掌中の玉である。そんな存在が、邪道とも言える弓を極めるというのは禁忌にも近かった。
「弓は、軍ではあまり好まれませんから」
弱者の武器。前世中世における人をもっとも殺した兵器といえば弓であるが、強化術という超常の力がある以上武芸者の反応速度、防御能力の前には無力であり、南部騎馬異民族の乗馬弓術の勇名のせいか、どこか卑怯という印象すら付き纏っている。剣一本、槍一本で戦ってこその軍人、武人という精神が帝国にはあるのだ。
「だからね、私が弓をやりたいって言った時、すっごく反対された。父さんはずっと口を聞いてくれないぐらいだったし、道場の人もそう。でも、イーサク兄とエドゥアルドさんだけが後押ししてくれたんだ」
イーサクは恐らく兄の欲目だったのだろう。エドゥアルドの心意は不明であったが、一人ぐらいは賛成してやらねばと思ったに違いない。渋る両親を跳ねつけ、なんとか弓に漕ぎ着けたエマはしがみつくように励んだそうだ。
「どうして弓に拘ったんですか?」
「あはは、つまんない理由なんだけどね」
幼い頃の話。エマの幼馴染であるリカルドは、すでに金剛流道場にて$ーーー$の座にあった。同時期のホアンと比べても遥か上、余人では生涯を賭けても辿り着けぬ領域である。
「だからね、私が剣を学んでも追いつけない。横に並んで、一緒に戦うのは無理だろうって思った時、弓を見つけたの。これだったら後ろから援護できるんじゃないかって。幸い、才能はあったみたいだしね」
スポンジが水を吸い込む如く成長したらしい。それから一年でオスゼリアス中の大会を総なめにすると、若くして今与一の名を得るに至る。あとは身辺調査の通り、探索者として腕を磨き、士官学校の上科候補生となった。
「それなのに、どうしてかな」
今まではどこか楽しげな雰囲気すら漂っていたエマの表情が陰る。淡い星あかりに照らされた半顔はひどく暗かった。
「今なんで、なんで私って、その力をリカルドに向けてるんだろってさ」
彼女は強く膝を抱えて、その中に顔を強く埋めた。嗚咽のようなしゃっくりが静かに響く。
アンヘルは肩に手を伸ばそうとして下すことを繰り返した。
「エマさん……」
「明日失敗したら、もう会えないのかな。あんな、終わり方なのかな。そんなの、イヤだよぉ」
エマの苦しみの声が涙まじりに落ちていった。
突然、川の向こうから突風が吹き渡った。夜空にはうっすらとした雲と宇宙の闇が溶け合っている。ふと月が雲に隠れ、世界が深い闇に沈んだ。
アンヘルは突然立ち上がって土手を駆け降りると、小川の中に靴を脱いで入り、大きく手を広げて振り返った。
「こういう時は楽しい話をしましょう。ほら、いいませんか? 雲の上はいつも晴れだって」
裸足のまま駆け上がると座り込むエマの手を引いて無理やり小川まで引っ張る。
ばしゃばしゃと激しく水を掻き分けながら、戸惑う彼女に問いかけた。
「僕はこうやって友達と川で遊んだことなんてありませんでした。小学校のときは勉強ばかりでしたし、中学校のときは部活。此方に来てからはずっと戦ってばかりでした」
エマは引かれるまま小川の中に足を踏み入れた。アンヘルの語る「学校」や「部活」という単語に困惑し、それ以上に迫る涼やかな水の感触にあたふたとしていた。
「でも、前に川で戦った経験はあって。実は川辺の戦いは経験があって、寂しい人生だなって思ってたんです」
イズーナとやり合ったときの事を微かに思い浮かべる。クナルと揃って激情に走り、郊外の河川で感情を叩きつけた記憶だ。未だその記憶は熱と痛みを持って消え去ることはない。
「エマさんの場合、結構扇情的な格好だったのでいい思い出に入るかもしれませんが」
「ちょ、なに言ってるのよっ」
エマは両腕で身体を隠すと頬を赤く染めた。
彼女を放ってさっさと小川を進んでゆくと、小石が積み重なっている上に乗った。涼やかな風が駆け抜けてゆく。
こうやってプライベートなことを話し合うのははじめてだなと、ふと思った。
「エマさんは何か、ないんですか? 別に楽しい話じゃなくてもほら、明日上手くいったらコレ遣りたいとか、ココに行きたいとか」
「そんな急に言われても」
「なんでもいいんですよ。一つくらいありません?」
今まで、二人の間で日常に関する話題などありはしなかった。互いに何も知らない。身辺調査の無味乾燥としたプロフィール、そして取り繕った仮初の趣味しか。
ぐずるエマに向かって優しい微笑みを向けた。彼女はいったん俯いてから、絞り出すように答えた。
「お花見に、行きたいわ」
想定外の回答に一瞬ポカンとする。一応ながらこの異郷の地でもお花見行事は存在するのだが、往来で飲酒――というより酔っ払い――が好まれない世界事情ゆえに、どちらかと云えばマイナー行事である。
その疑問が分かったのだろう。エマは静かに首を振ると微笑んだ。
「私はね、普通にお花を見たいの。あんまりお酒とか呑んで騒ぐのはね……」
「へえ、なんだか乙女な趣味ですね」
「悪い?」
「いえいえ。でも、もう桜は咲いてませんよ」
日本で考えれば、現在は五月並みの気候である。桜もほとんどが散り、残り滓のような物悲しい雰囲気が桜の木からは漂っている。
「私が見たいのは桜じゃなくて、梅。それだったら、まだ咲いているところあるからさ」
「梅の時期ってとっくに終わってませんでしたか?」
エマは苦笑いしながら夜空の向こうを見つめた。
「祖父が植えたらしいんだけどね、家の梅の木、狂い咲きって言われるぐらい開花が遅いの」
身振り手振りでその大きな梅の木のことを説明する彼女は、それだけが農民であった名残であることを教えてくれた。
それらを黙って聞き終えたアンヘルは、どうして梅の木が見たいのかを尋ねた。
「えぇー、そこまで説明するの?」
「桜が好きって人は多いですけど、梅が好きっていうのはあんまり聞かないので」
「そうかなぁ」
恥ずかしいのかポリポリと頬を掻く。あーとかうーとか唸りながら、俯いたり顔をあげたり忙しない。
「言えないことですか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「なら、いいじゃないですか」
「強引よね。アンヘルくんって」
「あの時は演技ですけど」
「それ以外のことも、だと思う」
彼女は無理やり弓道場に誘われたことを思い出しているのだろうか。それとも、押しに弱い性格を悩んでいるのだろうか。
幾ばくかの逡巡の後、エマは態とらしくため息をつくと、覚悟を決めたように前を向いた。
「ブリヒッテ姉の受け売りなんだけどね、梅の花って春の一番最初に咲くらしいの。私、昔から春が一番好きだったから、それを告げるなんてすごく素敵だなって。だから、好きになったんだ……何、変だったら変って言ってよ」
「ロマンチックですね」
「馬鹿にしてるでしょ」
ぷっくりと頬を膨らませたエマは気恥ずかしげにそっぽを向いた。
「だから梅が好きなの。これでわかった?」
「ええ。ただまあ、春を告げる花という意味では福寿草がすでに在りますし、梅の咲かない熱帯地域では適用されない事柄ですが」
「……アンヘルくんってさ、ホントに空気読めないよね。そういう理屈っぽいの、絶対嫌われるよ」
ぎくりと身体が固まる。もしかして童貞な理由はここにあったのだろうか。
エマは静かに微笑んだ。
「でもね、ありがと。励ましてくれんたんだよね」
それ以上、言葉にする必要はなかった。
アンヘルが掛けたのは励ましの言葉であり、エマが返したのは空元気の痩せ我慢でしかないことは、ふたりともわかっていた。リカルドとの衝突で彼女が今までにないほど憔悴していたことなど明白である。そして、それに付ける薬がないことも。
笑顔も心の底から浮かべているわけではないのだ。振り切れない想いが泥のように底へ溜まっている。気を紛らわせるのが、所詮場当たり的な対処であることを痛感させられた。
「エマさん」
「もう言わないで、寝ましょう。イーサク兄の為にも、明日は頑張らなきゃ」
そういってエマは小川を上がっていった。虫の音が小さく聞こえる。全身で春の風を感じながら、明日の成功を強く祈った。
そして審判の日を迎える。
エマ、そしてアンヘルの人生を決める、闘争と裏切りの一日が幕をあげる。