イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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PAHSE3-4:帝国議会の落日

 武芸とは帝国人を人たらしめるもの、と両親に聞かされてエマは育った。

 

「弓って、そんなにダメなことなのかな」

 

 弓術に関して天才的な才能を持っていたエマだが、決してその道を極めることに悩みを持たなかったわけではなかった。

 

 祖父の遺志を継ぐ父に違わず、あの優しい兄イーサクも剣と槍以外の道へ進むと告げた時、苦い顔を隠そうともしなかったのは未だ鮮明に残っている。

 

 下級兵や猟師衆こそ親しみを持って接してくれたものの、道場生、肉親に根付いている近接至上主義は根強かった。子供は大人が思う以上に敏感である。決意したこととはいえ、挫折しそうになったことは数えきれなかった。

 

 リカルドは人間関係にひどく疎いところがある。孤独だったエマに味方はほとんど居なかったといっていい。

 

 例外は、ブリヒッテぐらいだった。慈愛を体現した彼女は、教会奉仕の合間をぬって一緒に過ごしてくれたのだ。

 

「ブリヒッテ姉、今日は何するのー」

 

「ふふ。だめよそんな言葉遣い。ブリヒッテお姉さんと呼びなさい」

 

 武人として幼少期を過ごしたエマにとって、市井の女の子らしい思い出というのは皆無に等しかったが、唯一、ブリヒッテが本を朗読に耳を澄ませたことは覚えている。彼女はどこか夢見がちな部分を残しており、決まって騎士物語を好んだ。読み耽っている間に、ヒロインに自己を投影していまうのだ。

 

「ねえ、この騎士様ってかっこいいでしょう。大きくなったら、エマもこういう人を旦那さまにするのよ」

 

「えぇー、そうかなぁ? あんまりカッコよくないよぅ」

 

「そうかしら。すごくステキだと思うけれど、エマは何が気に入らないの?」

 

「だって、このお話の騎士さま、すっごく頼りないよ。あんまり強くないし、バカにされてるし。お姫様との約束をほっぽりだしたりして、好きになれる部分なんてなーい」

 

「エマったら結構強引なタイプの男の子が好きなのねえ。ふふ、もしかして弟の影響なのかしら。

 でもね、男の子ってこういうお間抜けさんのほうが可愛げあるじゃない? 頼りにならなくても、本当に大切なことには一直線。お姫様も自分も捨てて、平和の為にすべてを賭けるの。中々そういう人はいないと思うわ、使命の為に命を捨てられる人って」

 

 そういえば、交際破棄を賭けてエマとイーサクの間を取り持ったのもブリヒッテだった。もしかしたら、エドゥアルドを説得したのも彼女だったのかもしれない。

 

 今更、どうしてこんなことを思い出すのだろうか。

 

 抜刀しながら振り返る兄の姿を見て、哀切のような感情が膨れ上がる。気を抜くと膝から力が抜け落ち、ヘナヘナとへたり込みそうだった。

 

 そんな心を奮い立たせ、矢筒から一本の鏃を引き抜き、番える。藤頭の先に兄イーサクの姿を据えた。

 

「こうやって顔を合わせるのは、二年ぶりか? 大きくなったな、エマ」

 

「……イーサク兄」

 

 久方ぶりに再開した兄の顔は、意外にも穏やかなものだった。ぱっと見の印象こそ痩せたようだが、微笑み方一つとってしても記憶と何一つ差異は見当たらなかった。

 

 だが、それこそが異常なのだと、はっと我にかえる。革命運動に命を燃やす志士が、熱に浮かされたような面を見せない。内面の炎がありとあらゆる普通を燃やし尽くし、異常を偏在化させたのだ。

 

 きらりと光る澄んだ瞳。幼い頃に憧れた兄の真っ直ぐな眼差しは、帝国を闇に葬り去る灯へと変わっていた。

 

「イーサク兄、こんなことしてもブリヒッテ姉が喜ぶわけない。お願い、投降、して」

 

「昔よりずっと弓の構えが様になっている。そういえば、短剣術はちゃんと磨いているのか? 体術はあんまり得意じゃなかっただろ」

 

「……イーサク兄の気持ちはわかるつもり。けど、こうやって皆を巻き込むようなやり方は賛成できない。エドゥアルドさんも、ブリヒッテ姉も悲しんでるよ」

 

「そういえばもう三回生か。小隊戦も近いんじゃないか? はは、あれは盛り上がるからなぁ。俺も帝都御前試合には興奮したものさ」

 

「――話を聞いてよっ! イーサク兄!」

 

 怒鳴りつけられたイーサクは、一瞬ポカンとした顔でエマの顔を見つめると、癇癪を起こした妹を慰める優しい笑顔を浮かべた。

 

「今更説得なんてしようとするな、エマ」

 

「なんでそんなっ」

 

「俺はブリヒッテの為に行動しているわけじゃない。彼を信じたから、立ち上がっているんだ。俺たちが語るのは、これだけだろ」

 

 イーサクは痩けた頬を僅かに歪ませると、ポンポンと刀身で掌を叩いた。外の戦いの音が間遠に響いている。落ち着き払ったその態度からは、彼の決意が強く表れていた。

 

 彼を後押しする強い信念。さらに磨きの掛かった剣術。立ち会う前からぶるりと背筋が震えそうになる。

 

 もはや、これまでか。

 

 エマは血が滴るほど強く唇を噛み締め、身体に眠る力の根源を叩き起こした。

 

 死を覚悟した。自分、そして兄の死を。

 

 自分の恩赦とブリヒッテの慈愛、エドゥアルドの想い、そして幼馴染リカルドの為。

 

 相手の信念がなんだ。自分にだって譲れないものがある。ここで元老院への襲撃を許せば、自分たち家族友人すべてが虚しく露へと消えるだろう。負けすなわち破滅を意味するのである。

 

「イーサク兄。いえ、志士イーサク。私が、貴方の企みを阻止します!」

 

「強く成ったな、エマ。それでこそ俺の妹だ」

 

 静かに微笑んだイーサク。彼の掲げた剣に灯の光が反射したとき、開戦の合図は切って落とされた。

 

 だらりと刃を寝かせるようにして地面を滑ったイーサクが迫る。エマは番えていた矢を極限まで振り絞り、相手の呼吸に合わせて放った。

 

 一筋の閃光。死が男に走った。

 

 かつて、兄が口酸っぱく語った言葉を思い出していた。

 

 ――戦いは、どちらがどれだけ冷静かどうかだ。

 

 イーサクは刹那まで見切らんと目を凝らすと、直撃ギリギリで剣を蛇のようにくねらせた。カランと矢の転がる音がする。それと同時に発達した大腿筋を折り曲げて、大きく一歩を踏み出した。

 

 素早く次の矢を番える。間合いは三十尺(約十メートル)。射られるのは、あと一射か二射。

 

 一直線に駆け抜ける男の胴体を狙って矢を放つ。今度はさらにギリギリ、弾いた矢が頬を掠めてゆく。だが、相手の視線は一時も切れない。

 

 距離が縮まって防ぐのは難しくなっている。次の一矢こそ勝負だ。エマは呼吸を止め、必殺の矢を放った。

 

 イーサク一瞬の逡巡。エマ渾身の一擲が空間を駆け抜けた。

 

 鏃と剣の接触する音。相手の視線が鏃に吸い込まれる。

 

 弾けるような火花が散った。

 

 下から振りあげた長剣が渾身の一撃を弾いたのだ。

 

 完全に勝負は決した。

 

 イーサクは振り上げた剣を返すと、両手でギロチンの裁きを落とす。

 

「俺の勝ちだ、エマ」

 

 勝利の確信を得た台詞だ。けれども勝利の女神は彼に微笑まなかった。

 

 エマはすぐさま懐の短剣を引き抜くと、矢を弾いた反動で一瞬硬直を余儀なくされたイーサクの脇腹へ突き出した。

 

 狙い澄ました一撃。顔色を変えたイーサクは左手を犠牲に紙一重で躱すと、使い物にならなくなった腕をだらりと下げた。

 

「最初から、読んでいたのか?」

 

 真正面から兄に勝てるなどと驕ってはいない。弓を使うという先入観を利用した。士官学校で必要に迫られた戦術。一対一における弓を囮とした短剣術こそ、二年の間に磨き上げた武術であった。

 

 血が滴る短い刀身を虚な目で見つめた。そうでもしなければ、自分を保てそうになかったからだ。

 

 エマは短剣を構え直すと、大きく叫んだ。

 

「もうやめて! 勝ち目はない!」

 

「俺がそんな簡単に諦めないこと、よく知ってるだろ?」

 

 剣を杖に再び歩き始めた。俯きながらも歩みを止めない彼の顔は黒く陰になっていた。

 

 背後の玄関口からドタドタと複数の足音が鳴った。やけに殺気付いている。イーサクが表情を微かに変えたのを見て、首だけで振り返った。

 

「エマさんっ、無事ですかっ!?」

 

 大量の憲兵拘束隊を引き連れたアンヘルが、両手を拘束されたまま叫んでいる。向こうの戦いも壮絶であったのか、闖入者一様にズタボロであった。

 

 無理やり説得して連れて来たのか。「開かずの扉」が開くさまを見つけた憲兵たちは、負傷の身を引きずりながらジリジリと囲いを作った。

 

「兄さんの、負けよ。これ以上、私に剣を振らせないで」

 

「……」

 

「イーサク兄っ!」

 

 嗚咽混じりの悲鳴を受けて、イーサクはカランと剣を落とした。幽鬼のような足取りでフラつくと流れる血も気に留めず両手で髪をかきあげ、がくりと腰砕けになった。

 

「わかって、くれたの?」

 

「……ふ、ふふ……ふははははっ!」

 

 駆け寄ろうとしたとき、彼の口から怨念のように低い笑い声が漏れてきた。両手を大きく広げながら、天に向かって唾でも吐きつけるように大きく吠えた。

 

 狂気の滲んだその笑い声にピタリと身体が硬直する。ステージライトに照らされた悪役のように光が照らした。

 

「まいったよ、まさか妹のお前に邪魔されるとは思いもよらなかった。完敗、降参だよ」

 

 兄の平然としていた瞼が儚げに瞬かれる。澄み切った瞳の奥には確かに強い炎が宿っていた。

 

「だがな、我々の計画は成った。我々の革命はすぐそこに迫っているっ。我らの、勝利だ!」

 

 兄の宣言に底知れぬ恐怖を覚え、己の腕を掻き抱く。イーサクはまるで世界のすべてが滑稽だといわんばかりにケタケタ哄笑をあげた。

 

「まったく察しが悪いな。すべては茶番、今まで起きたことすべてが我らの掌の上だったのさ。これほど大規模な襲撃計画。たとえエマたちの捜査がなくとも、いずれ露呈してしまうことは了承済みの話だった。謀は密なるを貴ぶというだろう? それぐらいの用心深さがなくては、この腐った帝国をひっくり返すなど夢のまた夢。我らの信念を甘く見てもらっては困る。

 稀しくも、こうやってエマたちが目の前に現れてくれたお陰で、計画の成功を確信できた!」

 

 考えてみれば、エマたちが手に入れた情報の中でまだ繋がりないモノがいくつかあった。たとえば援軍であるラファエルを襲撃した者たちの行方だ。いや、それ以上に何か忘れていることがある。イーサクの言を信じたというよりも、こうやって事実を振り返ると不安で肌がささくれ立った。

 

「だからそれは何なんだっ」

 

 取り押さえられているアンヘルが鋭く叫ぶ。

 

「うん? たしかお前は報告にあった……そんなことはどうでもいいか。そんな身になってまで必死だな」

 

「聞いているのかっ!」

 

「コラ、貴様! 動くんじゃない!」

 

 取り押さえられながらも罵声をあげる男に、憐れみを湛えた瞳でジッと見つめていた。

 

「どうやら状況が飲み込めていないらしい。国の狗として脳に支障をきたす程洗脳されているのか? すまないな、俺はお前を解放してやれそうにない」

 

 静かに懐の短剣を取り出した。

 

 きらりと刀身が照らされる。まだやるのか。そうエマが思った瞬間、くるりと持ち主に向けて刃を反転させた。

 

 寂しそうなイーサクの微笑みが浮かんだ。

 

 自害だ。

 

 絶対に殺させるなと誰かが叫んだような気がしたが、エマの体は一歩も動かなかった。

 

 コマ送りのようにその刀身が兄へと迫る。

 

 完全に閉じられた瞳が、物語の終わりを告げた。

 

「じゃあな、エマ」

 

 小さな別れの言葉を聞いた。

 

 その瞬間、議場へと続く最後の扉がゆっくりと開かれた。

 

 

「――彼らの目的は“魔剣の強奪”ですよ。先輩」

 

 

 聞き覚えのある声。ゆっくりと真っ赤な絨毯を降ってきたのは、ポケットに両手を突っ込んだ痩身の男だった。

 

 背後から突如として表れた男にイーサクは突き刺そうとしていた短剣を取り落とし、余裕なく狼狽した

 

 ガイルス・グリックス。

 

 彼はニヒルに笑いながらチッチッチと人差し指を振って見せると、計画の全貌について語り始めた。

 

「彼らの目的は“議会襲撃”と見せかけて、手薄になったバレンティア騎士団本部の魔剣を強奪することなんですよ」

 

 

 

 § § §

 

 

 

 ハシュドルベルの十指。

 

 宗主を除けば、その義理の兄である大司祭ハシュドルベル・バアルを頂点とし、彼を支える十本指が教団を統括している。

 

 その目標は、教団の理念に真っ向から歯向かい、教団誕生以前から虐げられてきた宗敵トレラベーガ大帝国であった。

 

 大陸最大の邪教の徒であるジョルダーノ・ファラー・アット・アルトゥールは、背中の中心にまで届く長い黒髪を梳きながら、無機質な瞳で護衛対象であるセルゲイ・シャフィコフを凝視していた。

 

「作戦はうまく運んでいるようね」

 

「当然だ。この私が手ずから考えたのだぞ」

 

 セルゲイは赤いレンガ造りのバレンティア騎士団本部を見上げた。

 

 いつもは物々しい警備で埋め尽くされている本部も、今日ばかりは議事堂の警備に駆り出されていて、数えるくらいにしか人影は見えない。

 

 対して、こちらの人数は五十近い。セルゲイの召喚術を併せれば、あっという間に平らげてしまう人数だ。

 

 つまりは予定調和。歯応えのない作戦に、アルトゥールは失望のため息をこっそり吐いた。

 

 今回の事件の始まりは、すべての能力を兼ね備える幻の十八魔剣の一報を聞いた事に端を発する。

 

 州担当の準十本指であるセルゲイは、騎士団内の警備を薄く出来ないかと目論み、オスゼリアス内に蔓延っていた志士らと接触を図った。教団内で製造が開始されたサイレールの提供を行い、彼らと共同して本部に保管されている魔剣強奪の計画を立てた。

 

 のだが、結局幻の十八魔剣は虚偽であったことが判明。目論みは潰えることになるかと思われたが、セルゲイは方針を変更。オスゼリアス内に内紛の種を撒きつつ、残った六本と封印中の魔剣「蘇芳」が保管される憲兵本部襲撃計画を立案したのだった。

 

「配置に着きました……協力者どの」

 

 不審そうな志士の一人が声を掛けてくる。向こうもまた、利害が一致しているからといって、こちらを信用しているわけではなかった。

 

(まだこっちにほうが食い甲斐はあるのかしらねぇ。やだやだ、こんなブサイク。私は珍味好きじゃないのだけれどねえ)

 

「突撃しろ」

 

 不遜にセルゲイが指示すると、志士側の指揮官が渋々頷く。解き放たれた兵士たちは一目散に赤塗りの本部へ駆け込むと、お飾りとばかりに残されていた残兵を瞬く間に斬り殺した。

 

「行けっ、我が眷属よ」

 

 その中でも水際だった活躍をしたのは、セルゲイが召喚した二匹の眷属であった。

 

 闇の番人。

 

 巨大な円盾を手に、これまた巨大な鏡のように光る大剣を携えている。兜の両脇からは歪な角が飛び出しており、中には何が入っているのか想像するのも恐ろしかった。

 

 番人は剣で盾を打ち鳴らしながら、入り口の扉を粉砕し、まるで稲穂でも刈るような無造作さで人の命を摘み取った。

 

 作られた屍の道を、まるで王のように歩く。

 

 そう、セルゲイは召喚師である。それも、極めて優秀な。

 

 総眷属数は七体。同時召喚数は力のある眷属なら二体、抑えれば三体までを可能とする。

 

 練達した召喚師に並び立つ才能を示し、次期十本指にもっとも近いと噂されていた。

 

 当然、奇襲を受けた憲兵本部の兵たちは皆殺しの憂き目にあった。

 

 セルゲイ一人ならなんとかなったかもしれない。だが、周囲をアルトゥールが固め、歴戦の志士たちが走り抜けてゆく以上、戦いはワンサイドゲームの様相を呈した。

 

(退屈ねぇ)

 

 アルトゥールは恐慌で前後不覚になった男を叩き斬ると、ふぁさっと髪をかき上げた。

 

 不意に悲鳴が絶え、志士たちが得物を降ろす。敵が居なくなったのだ。アルトゥールたちは本部の奥へ、屍を乗り越えて進んだ。

 

「フハハ。私もこれでついに十本指か、ほら、もっとゴミどもを殺せ」

 

 高笑いをあげる男の横顔が、今日はやけに心をささくれ立たせる。いつもは弱者をいたぶる下衆な嗜好も嫌いではないのだが、退屈な今となっては不快の根源に思えた。

 

 すでに立ち塞がる者たちは消え、志士たちが魔剣を保管している場所を忙しなく探して始めた。

 

 アルトゥールたちは少し待つと、戻ってきた志士の一人に案内されるまま、目的地に足を早めようとした――ところで、ある一点の影にジッと目を凝らした。

 

 地下に繋がる扉には、楷書で「地下保管室」と書かれている。通常なら降りてしまいたいのだが、廊下の奥にふと違和感を覚えた。

 

「おい、早くしろ」

 

「ちょっとお待ちなさい。出てきなさいな、そこにいるんでしょう?」

 

 アルトゥールは影に向かって問いかけた。

 

 すると、長い廊下の向こう、から見覚えのある男が鼻を鳴らして現れた。

 

「ふん、生意気な奴の誘いであったから信用はしていなかったが、掛かった獲物は大きかったようだな」

 

 アルトゥールと同じ褐色の肌に輝くような銀髪。巨躯といって差し支えない隆々とした筋肉に取り回しの悪そうな大剣。

 

 ラシェイダ族。その男が背後に仲間を連れ立って現れたのだ。

 

「なん、だと。なぜコイツらが此処に現れる?」

 

「計画がバレたのね。この様子を見ると、ここは囲まれているわね」

 

「なにっ! くそ、貴様らの誰かが漏らしたのかっ!」

 

 セルゲイが志士の一人に詰め寄った。

 

「我らが裏切るわけなかろう!」

 

「ならどうして計画が読まれている! 私の計画は完璧だったのだぞ! 貴様らが裏切った以外にあり得るものか!」

 

「なにおぅ!」

 

 セルゲイの瞳が暗く増悪で塗りつぶされてゆく。彼にとってこの戦いは、大司祭に認めてもらうための大事な聖戦である。羽虫のような者たちに汚されるなどあってはならないことだった。

 

(醜いわねぇ)

 

 アルトゥールはチラリと退路を見ると、セルゲイの襟をぐっと掴んだ。

 

「逃げるわよ」

 

「なっ! ふざけているのかっ! ここまで来て逃げるなどと――」

 

「よく考えなさい。魔剣がここにある保証はない。地下には罠が仕掛けられているかもしれないわ」

 

「お前は私にしたがっていればいいんだ。口答えするな!」

 

「あのねぇ……」

 

 アルトゥールが腰に手をやって軽蔑の視線を送ると、クナルが感心したように剣を抜いた。

 

「一人ぐらいはまともな奴がいるようだ。おい、雑魚どもの相手は任せるぞ」

 

 クナルは同じように若い男女――ベップとアルバ――の二人に指示すると、獣のような皺を顔面にいくつも刻み、唸りながら迫った。

 

 針鼠のような鋭い闘気の奔流に、近くの志士たちは反射的に反応した。

 

「貴様ら数人如きが増えたところでぇぇえええ! 我らの正義の前に屈せよっぉぉぉおおお!」

 

 銀髪の下に隠れていた口元が、ふっと歪んだ。

 

 意識はしていない。ただ本能がヤバい、と叫んでいた。

 

 クナルは冷酷な瞳で向かってくる志士たちを一瞥した。狭苦しい廊下の中で、巨大な大剣が槍のように構えられる。そしてそれは閃光となった。

 

「逃げなさい!」

 

 大曲刀が命を狩らんと鎌首をもたげた。

 

 志士たちは皆目を見開くと、一瞬心臓を鷲掴みにされてように戸惑い、流されるまま鋼の一突きを受けた。それだけに止まらない。その刺突は見えぬ光となって、間合いの外まで駆け抜けた。

 

 透明な刀身がその場に存在したかのような、一撃。

 

 達人にしか成しえぬ「飛ぶ斬撃」を浴びて、半数近い人間が地面に沈んだ。

 

「たった、一撃で……だと?」

 

 指揮官の男が剣を構えたまま、化け物の類を見てしまったような掠れ声でつぶやいた。

 

 数人でアンヘルを苦戦させた歴戦の志士十数人を、たとえ躱せないほど狭く長い廊下であったにせよ、ただ一突きで葬ったのだ。

 

 指揮官の男は恐怖に駆られて怒号をあげると、仲間を引き連れて、遮二無二突撃を開始した。

 

「あああああ!」

 

 意味はなかった。どこから現れたのか、クナルの背後から複数の人影が姿を見せたのだ。いや、それは前方だけではなく、後方からもであった。

 

 飛んで火に入る夏の虫と化したアルトゥールたちは、前門後門を挟まれたのだ。

 

(狭いところでこの数はしんどいわねぇ。セルゲイも役に立たないし)

 

 騒ぎ立てているセルゲイを見下ろす。

 

「ちょっと手荒くなるわ」

 

 アルトゥールはバカの首筋に手刀を落とした。意識のない彼を脇に抱えながら、壁に向かって走った。

 

「こういうのは別に退路を作ろうってね」

 

 渾身の力で壁を踏み抜くと、その先に新たな部屋が現れた。さらに続けて向こう側の壁も蹴り抜く。アルトゥールは怒号を背景に本部詰所を駆け抜けた。

 

 どれほど走り抜けただろうか。

 

 いつの間に集まったのか、敷地をぐるりと囲んでいた兵士数人を薙ぎ倒し、狭い路地へとたどり着いていた。

 

 久方ぶりの窮地に熱い汗が流れ落ちる。その口元は妖しく歪められていた。

 

「う、うん?」

 

 脇に抱えていたセルゲイがもぞもぞと動きはじめた。彼は自力で足を地面に着けるとゆっくり立ち上がり、此方を睨んできた。

 

「お前、私に逆らったなっ!」

 

「いやねぇ、助けてあげたのに」

 

「ふざけるな。それよりここはどこだっ! 早くもどれっ!」

 

「あのねぇ、そんな自殺行為できないでしょう?」

 

「私に逆らうんじゃない。いいか、お前の背信はあとで追及するからなっ!」

 

 そう言い捨てるとセルゲイは背中を向けた。

 

 アルトゥールは次期十本指の護衛剣士ではあるが、召喚士至上主義の教理を持つバアル教団に至ってはその地位は然程高くない。神の御意思に背いた「背教者」として訴えられれば、粛正され、血の海へと沈む羽目になるだろう。

 

 所詮は雇われの剣士の身。一族に失望し、闘争の渦中に身を注いだ自分には相応しい最後であるのかもしれないが――

 

「それは困るわねぇ」

 

 思考を置き去りにして、身体は動いていた。

 

 考えるまでもない。人生とは、自分だけのものである。アルトゥールは己の相棒を強く握りこむと、セルゲイの無防備な背中に電光石火の勢いで振り下ろした。肩口から食い込んだそれは、まるで据えもの斬りのように叩き割り、地面に黒々とした血潮と内容物を吐き出させた。

 

「……どう、して」

 

「あらやだ、やっちゃったわ。まあでも、ちょうどよかったのかしら?」

 

 小さく喚く頭部を踏みつけにしながら、大剣に付着した汚い血を拭い、その解放感から空を見上げた。

 

 狭い路地から見える空は、ここにあっても澄みきっていた。

 

 アルトゥールはぺろりと舌で唇を舐める。その瞳はさらに歪んでいた。

 

「さあ、これからどうしましょうかぇ」

 

 こんなつまらぬ計画など、無に帰したところで大した痛手ではない。それよりも、自分の求める血はいずこにあるのか。美しい血が流れる闘争の場とは、いったいどこに。

 

 解き放たれた獣は、次の獲物を探していた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 すべてお見通しだ。狙いも、何もかも。

 

 それは終幕を告げる合図であった。ガイルスの言葉を聞きおえたイーサクは、喉奥から狂人同然の絶叫を放った。

 

「ばかなぁぁぁぁああああ!」

 

 血が抜けて蒼白に成った身体を振り乱し、髪をぶちぶち引きちぎりながら立ち上がる。口内から血泡を吐きながら短剣を振りかざした。

 

 なぜだ。どうしてだ。我らの計画は完璧だったはずだ。あの人が描き出した、帝国を膿をすべて焼き尽くす正義の戦い。決して負けるはずのない聖戦の炎がついえてしまった。

 

 信じられるはずもない。今まさに死したメルクリオだけではなく、吶喊作戦を敢行した志士百人以上すべてがむだ死にとなったのだ。視界が闇に飲まれ、一寸先の未来も見えぬほど真っ暗となった。

 

「嘘だ嘘だ嘘だうそだうそだぁぁああああ! まちがうはずない。うそに決まってる、お前らおれを騙そうとしているんだろっ。

 そう、ちがう、ちがうんだ。ありえない。あり得るはずがない。ひ、ひひ。ちがう、あの人はぜったいに正しいんだ」

 

 喚き立てながら子供の癇癪のように短剣を振り回した。混乱する、頭が正解を導き出せない。なぜ、なぜこんなことになっている。がたがたと膝が震える。狂ったように全身が痙攣する。

 

「醜いなぁ。さあ、取り押さえてくださいよ」

 

 ガイルスの後ろから、続け様に護衛たちが姿を現す。算段良く中にも子飼いの兵隊を残していたらしい。精鋭兵が抜刀して向かってきた。

 

「近づくなっ!」

 

 イーサクは首筋に手を掛けてビリビリと服を破り捨てた。彼の奇妙に膨らんでいた胴には、細長い筒状の魔道具が括り付けられ、その先から伸びるチューブが体内に繋がっていた。

 

 体内魔力式、爆裂魔道具。

 

 通称「自爆魔道具」と呼ばれ、自身の魔力を起爆剤として魔道具内に貯蔵された魔力を発動させる兵器である。

 

 女の息を呑むような鋭い悲鳴が上がった。

 

「一歩でも近寄ったら、ばくはつするっ! ひ、はは、そうだ、しょせんお前らにそんな覚悟ないんだろ。はは、ははは、そうだ。おれの正義が、こんなところでおわるはずがない!」

 

「――テロリスト風情がつけあがるな」

 

 警備兵の一人がさらに一歩進めた。迷いもなく、剣を横青眼に構える。彼らの目には、絶対に議場へ通すものかという強い意志があった。

 

「我ら帝都東方軍っ。テロリストの要求に屈することなどないっ!」

 

「待ってっ!」

 

 エマの静止は警備兵たちの雄叫びに掻き消された。

 

 黒い波が一斉にイーサクへと迫る。たった一瞬の動揺が、自爆魔道具を起動させる時間すら奪っていた。

 

 無情な鈍い鋼が黒髭危機一髪のように突き込まれた。

 

 ずん、ずん、と。

 

 肉を穿つ音が立て続けに響いた。

 

「かぁ、はっ」

 

 くぐもった蛙のような悲鳴が流れた。憲兵ら決死の攻撃は、イーサク最後の炎へ向かって無情にも水をかけた。

 

 剣を突き立てた男たちがゆっくりと離れてゆく。

 

 イーサクは夢遊病患者のようにふらふらと地面をうろつくと、血の染み込んだ紅い絨毯へ沈んだ。

 

 なぜ、こうなった。そう思えばある一つの思い出が降ってくる。

 

 春の涼しい日だった。

 

 湖畔から流れてくる風は町中の皆を癒してくれる。春の真昼間、優しい日差しが照りつけていた。

 

 少年の身体は傷だらけだった。祖父の大望を叶えんとする両親の指導は厳しかった。永遠と続く鍛錬に身体中の水分は蒸発した。

 

 優しかった父の形相は鬼そのものだった。水も飲めず、ただ身体を虐め抜く指導はまだ幼い少年には過酷にすぎた。理由は単純だ。道場の試合に負けて以来、父は失望を露わにすると激しく少年を打ちのめした。疲労と睡眠不足、脱水症状で時折ぐらりと視界が白濁した。

 

 水が欲しい。道場側の木陰で打身を癒す少年はただそれを願った。いつもであれば、近くの井戸で喉を潤せるが、父に禁止されている身とあっては不可能だ。いや、そもそも其処まで歩けそうにもない。記憶にある川遊びの思い出が、少年を余計に荒ませた。

 

 すぐ戻らなければ。道場の柱に手をつき、生まれたての鹿のように立ち上がる。少年の眼には、なんの感情も浮かんでいない。暗い闇だった。

 

「ねえ、大丈夫?」

 

 声、優しい少女の声だった。

 

 少年はボロ雑巾になった身体を無理やり動かし、その人物を見た。

 

 知っている。通っている道場の娘で時折差し入れを持って来たり、試合の応援に駆けつけた。雇われ剣客の息子である少年にとって、主筋の令嬢のような存在だ。

 

 慈善行為に熱を上げ、武芸を磨こうとしない少女を両親は蔑んでいたが、一度道場で会えば「ブリヒッテちゃん」とペコペコ頭を下げていることを少年は知っている。

 

 身分こそ同じなれど、二人の間に聳える壁は大きく高く。

 

 仰ぎ見るだけの存在であった少女は、静かに微笑んだ。

 

「喉、渇いてるの?」

 

 少年は知らず、こくりと頷いていた。少女は待っててと言い残すと、屋敷から小さなコップを抱えて戻ってきた。

 

「はい、どうぞ」

 

 身体が硬直した。隠れて水を飲んだと知れれば、また殴られる。少女はそんな内心を見透かしたのか、「黙ってればバレないから」と、なみなみ注がれたコップを握らせた。

 

 もう止められない。どこから湧いて来たのか、枯れた筈の涙をポロポロ溢しながらむしゃぶりついた。

 

 同時に虚しくなった。父が武芸を遣らせるせいで、こんな目にあっている。つまり、自分に武芸を押し付ける原因、その娘であるのに。

 

 ただただ悔しかった。

 

 幼気な弱々しい少女にすら同情される、自分の情けなさが。

 

 ふと、聞いたことのある小さな歌声が、空から降ってきた。礼拝堂の賛美歌だ。微かに残る天使の彫像を思い出す。

 

 子供の歌だけあって上手くはなかったのだろうが、その時の少年には世界にこれよりも神聖なものなどないのだと、心の底から信じて疑わなかった。

 

 気づいたとき、少年は身を震わせて蹲っていた。世界の苦難から解き放たれた開放感と、奇妙な幸福感に支配されていた。

 

「泣かないで、ね?」

 

 柔らかい手が自分の手に重ねられる。再び彼女見た時、その真っ黒な髪と雪の様に白い肌がまるで女神にすら思えた。

 

「お名前、教えてくれる?」

 

 少年は、そのとき少女に恋をした。

 

 少女の貴き笑顔を、何が何でも守って見せると。

 

 それが、すべてのはじまり。それだけが、少年イーサクの願いだった。

 

 ――なんで、こんなところに来てしまったんだろう。

 

 なあ、ブリヒッテ。

 

 

 

 

 

 ピタリと頬にイーサクの血が付着した。倒れたときに飛び散ったのだ。

 

 その瞬間、アンヘルの脳内にイーサクの幼き記憶が流れ込んできた。凄まじく後味の悪い結末であった。

 

 召喚師の感応。

 

 いつからか身についた力は、戦いの最期、すべての因果を知らせる能力であった。

 

 妄想と断じてしまうことはできない。幼馴染である二人の、生々しく儚い出会い。いつも見えるわけではないが、時折こうやって他人の人生が自分と重なり合う。

 

 こんなときこそ思う。召喚師の能力など、欲しくはなかったと。

 

(くそっ)

 

 ぎりりと唇を噛み締めた。徹頭徹尾、最後の最後まで後味の悪い結末であった。

 

 男に突き刺さった刃からは、夥しいほどの命が溢れている。その瞳はカッと見開かれ、なんとしてでもブリヒッテを救わんと叫び続けているようであった。

 

 目を逸らすことは許されない。どんな理屈があろうとも、相手を容赦なくへし折った勝者には、その死を背負う責務がある。

 

 アンヘルは枷をつけられたままエマへ近寄ると、手の中の短剣を取り上げた。

 

 顔色は病院のように白く、唇は溺死体のように青紫だった。意識があるのか、ないのか。彼女の眼球は景色が進んでいこうとも、動くことはなかった。

 

 唖然と兄の最後を見続けたエマは、ゆっくり一歩進むと、やがて両膝から崩れるように座り込んだ。

 

 微動だにせず虚な目で遺体を見つめる。目尻には大粒の涙が盛り上がってゆき、肩は呼吸に合わせて鋭く上下した。

 

 次いで、アンヘルに向き直る。言いたいことなど、すぐにわかった。

 

 静かに首を真横に振った。

 

 イーサクの骸に駆け寄って、泣きじゃくることは許されなかった。歩けばすぐ。しかし、その距離は永遠だ。死体を検分しようと警備兵が取り囲む。エマは彼らを詰るよう、嗚咽混じりに涙した。

 

 アンヘルは戒められ、彼女を慰めてやる手段を持たなかった。じっと見届けるしかできない。幼馴染の悲劇の結末、それを細部の細部まで覚えておくことしか。

 

「さすがは先輩と褒めておくべきでしょうか? 外では獅子奮迅の活躍だったようで」

 

「ガイルス……」

 

「おっと、そう責めないでください。我々は諜報員。騙し騙されこそ日常でしょう?」

 

 ガイルスは何かしらの書類を憲兵たちに見せると、アンヘルの両手に嵌る手枷の鍵を受け取った。

 

 後ろ手で縛られていた枷が外されると、ディアゴが苦い顔で首を振り両脇で抑えていた男らが消える。

 

「彼女の恩赦も心配ないでしょう。自分はあと一仕事ありますが、先輩は一度休んで大丈夫ですよ」

 

 ヒラヒラと手を振っている。最後の最後まで気に食わない男だ。小さく舌打ちをこぼすと、エマの腕を引いた。

 

「あんへる、くん?」

 

「もう行きましょう。ここに居ては邪魔になります」

 

 戸惑う彼女の手を引いて、議事堂の敷地を脱した。

 

 街は奇妙なほど静けさを保っていた。すでに議事堂で大規模の戦いがあったことは知れ渡っているのか、周辺には多数の野次馬が集まっていたものの、街は人影が失せた廃墟のようであった。

 

 アンヘルとエマの間に、会話らしい会話はなかった。俯いたまま歩く二人は敗残兵そのものだった。

 

「今まで、ありがとう。アンヘルくん」

 

 彼女の実家にたどり着こうとしたときである。エマは淡々と礼を述べた。

 

 整理を付けたという風ではなかった。兄の結末を心の中で飲み下せぬまま、ただ虚なままで言葉を紡いだようにしか見えなかった。

 

 結局のところ、何が解決したのだろうか。そう自問するハメになる。

 

 アンヘルがやったことなど、妹に兄を殺させる手伝いをさせたに過ぎない。感謝を述べられるだけで、鬱屈とした感情で心が澱んでゆく。

 

「お兄さんのこと、残念でしたね」

 

「……うん」

 

「遺体の方は早めに返すよう努力します。辱めを受けることないよう、しますので」

 

「……うん」

 

「恩赦状は明日にでもお届けします。ほとぼりが冷めるまで、家でじっとしていることをオススメします」

 

 春の涼やかな風が流れるも、傷を負った二人には身体中を嬲る颶風にしか感じ取れなかった。

 

 突然、目の前から怒鳴り声が聞こえてきた。声高い声は少年のもので、次いでさらに年若い少女が泣きべそを掻き始めた。

 

「だからこんなところで走るなって」

 

「だってぇー」

 

「もうしょうがないな。ほら、掴まれって」

 

「ありがとぅ、お兄」

 

 どうやら町民の子供らしい。兄とおぼしき少年は、転んだ少女を背負いあげると暢気な鼻歌を歌い始める。痛みでぐずる妹らしき少女の顔は徐々に綻びはじめた。

 

「イーサク兄……」

 

 ぽつりと呟きながら兄弟を見つめるエマ。彼女が何を考えているかなど、手に取るように理解できた。

 

 心底羨むような表情、目の端からすっと涙が一筋流れた。押し殺したような彼女の叫びに、アンヘルは痛々しくて堪らなかった。

 

 なんでこんなに世界は無常なんだろう。

 

 家族という、たった一つの関係にすら、世界はたやすくヒビを入れる。欠陥住宅のように軽々と。まるで、人間という生物そのものが欠陥であると突きつけんばかりに。

 

 妹に兄を殺させる。不条理が作り出す神様の悪戯をただ呪った。

 

「リカルドにエマさんの安全を伝えましょう」

 

 むりやり張り切った声で、彼女の顔を覗き込みながら、沈み切った両手を掴み上げる。

 

 思考も出来ぬほど、忙しない日常に戻してやれ。自身の経験から覚えた痛みへの特効薬を処方した。

 

「エマさんは家の前で待っててください。僕が一走り士官学校まで行ってきます」

 

 有無を言わせぬまま頷かせる。アンヘルは腰の長剣を預けると、彼女の背中を押してから走り出した。

 

「じゃあ、また後で」

 

 アンヘルは痛む身体に鞭打って、士官学校までの道のりを駆けた。

 

 の筈だったのだが……

 

 四半刻後。とぼとぼと反対方向に戻ってゆく男の姿があった。

 

(当たり前だけど、服めちゃくちゃボロボロのままだった)

 

 士官学校へ入ろうとすると、警備兵に止められた。この世界の情報伝達力は原始時代のままだ。指名手配が解除されたことなど数日待たねば広がるまい。

 

 とはいえ、この格好で士官学校に潜入すれば瞬く間に制圧されるだろう。信頼できる友人が一人でも居ればと後悔することになった。

 

 ということで、仕方なくエマの元に虚しく戻っているところだった。果てしなくダサいが、少しの辛抱である。甘んじて軽蔑くらいは受け入れよう。

 

 角を曲がってエマの実家へとたどり着く。彼女は家の前で自分――というよりはリカルド――の帰りを待っているはずだ。

 

 さも急いだとばかりに最後だけ走る。彼女が待つはずの場所に辿り着いたとき、ふと違和感に襲われた。

 

「あれ、エマさん?」

 

 きょろきょろと周囲を見渡す。彼女の姿はなかった。

 

 もしかして家を間違ったのか。デート時の記憶と建物を見比べるが、間違っているとは思われない。家の標識を確認してから扉を強くノックした。

 

「どうしたん、だろ……」

 

 家の中にも人の気配はない。家人が出かけていても不思議ではないが、エマが居ないというのは理解できない。

 

 そう思ったとき、信じられないものを発見してしまった。

 

 膝をついて、それを拾い上げる。無造作に打ち捨てられていたのは、アンヘルが渡した筈の長剣だった。

 

 周囲には点々と血痕が連なっている。

 

 地面の砂を掌でかき分け、じっと目を凝らす。何度確認しても真実は一つしかなかった。

 

 強く踏み込んだ、争ったような跡。引き摺られた痕跡。

 

 意味するのはたった一つだ。

 

 ――エマさんは、誘拐された。

 

 まだ事件は終わっていない。その事実を認識して、すべてが崩落してゆくようであった。

 

 

 

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