イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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PHASE4-3:怪獣大決戦 下

 アンヘルは眷属ラディから飛び降りると、エマが囚われているだろう港区の廃倉庫まで駆けた。

 

 闇夜に光るラディの姿は奇異に映ったのか。数人の志士たちが剣を手に走り寄ってきた。昼間は苦戦させられた相手。如何に召喚師の能力が対多数戦に優れるとはいえ、油断はできない。

 

 ラディが宙を舞った。地を這う蛇より素早く駆けると、凄まじい動きで流れた。羽根が光芒を描く。血飛沫が宙で弾けた。風切り羽根のように、人肉をたやすく割いた。人間では及ばぬ、戦闘に特化したゆえの業。アンヘルは手にもつ長剣を震わせながら、種族特性として人を鏖殺するに長けた舞踏を見入るしかなかった。

 

「あいつもだ」

 

 ラディが扉の前で右往左往していた敵兵を尾で跳ね飛ばすと、堂々と正面から廃倉庫に足を踏み入れた。

 

 屯している集団の中に、横たわっている無惨な女と、それに足をかける老人の姿を見た。それは、アンヘルが残した最後の一線すらぶち抜いていった。

 

「その足をどけろ!」

 

 アンヘルは地を蹴って疾風のように駆けると、長剣をエドゥアルドの顔面にぶち込んだ。

 

 凄まじい轟音が廃倉庫の中を流れた。

 

 エドゥアルドはギリギリで刃を受けた。激しい火花がまるで閃光のように散る。凄まじい膂力に怯んだ顔面へ、身体を傾けて渾身の回し蹴りを叩き込んだ。

 

 つま先から甲に向かって、骨のへしゃげるような感触が伝わってくる。転がった老人へ向かってアンヘルは大きく跳躍した。

 

「結構やるけど、あんまり好みの顔じゃないわねぇ」

 

 大人しく見守っていた大男が横合いから走り込んできた。激しく噛み合った剣が音を立てる。

 

 武器といい、容姿といい、クナルを想起させる姿だ。刀身から伝わってくる膂力に、真っ向からの剣術勝負ではあぶないと直感が囁く。

 

(コイツがガイルスの言っていた)

 

 パチリと指を打ち鳴らす。ラディの特殊能力ヒールバリアが展開され、結界のように相手を押し留めた。

 

 タイミングを合わせて、リーンがエマを抱えて逃走する。建築資材が積み上げられている広間の中央で彼女を降ろし、その肩に手を当てた。

 

「あ、んへる、くん?」

 

「エマさん、わかりますか。今回復を」

 

 彼女の背中や腹部は皮膚が破れ、赤い血がべっとりと流れている。目も眩むような怒りで視界が真っ赤に染まった。

 

「また、助けられちゃったね」

 

 エマは虚な目のまま指先を小さく動かし、そして静かに微笑んだ。

 

「こんなの当然のことです」

 

「やさしい、ね。アンヘル、くんってさ」

 

「エマさんが捕まったのは、僕のせいです」

 

 アンヘルは痛々しい姿に目を伏せるしかなかった。

 

「ふふ、真面目だね――あの、さ。もう一つ、お願いしても、いいかな」

 

「なんでも言ってください。どんなことでも叶えてみせますから」

 

「ならね、この子を、貸して。あと、武器も」

 

 エマのか弱い手が緑の獣を掴んだ。定まらない意識の最中にあっても、この獣が回復の力を持つことを分かっているのだろう。

 

 言葉の意味を理解して、アンヘルは拒絶するように頭を大きく振った。

 

「なに言ってるんです、こんな怪我で」

 

「エドゥアルドは、私が止める。だから、武器を、ちょうだい。立ち上がるための、刃を」

 

「ですが」

 

「邪魔が入らないように、して。できる、よね。アンヘルくんなら、さ」

 

 喉を締められたような苦しみが襲った。エマがゆっくりと身体を起こしてゆく。

 

 一度進化したリーンの回復能力は跳ね上がっているが、重症を瞬時に癒すような力はない。彼女は根性だけで立ち上がっているのだ。

 

「私と、一騎討ちよ、エドゥアルド」

 

 弱弱しい足を震わせながら立った彼女の後ろ姿は、アンヘルの胸に訴えかけるなにかがあった。

 

 呼応するように、迫りつつある集団の中から頬を裂いた老人が姿を見せた。負傷した様子はない。一目で業物とわかる鉄塊を引き抜いている。

 

 鼠の逃げる間すらないほど執拗に囲まれた。志士たちの準備も万端だ。

 

 奇襲作戦ではなく、真正面から立ち向かわねばならぬ。そのうえ、一人一人がそう易々とくだせそうにない相手である。それが三十。戦意は昂っている。集団はエマの宣言を無視して、数頼みの圧殺陣形を取った。

 

 やはり総力戦か。そう思ったとき、陣営で唯一の部外者が異論を唱えた。

 

「別にいいじゃない。あんな手負いの子は党首さまがやれば」

 

 今にも躍り掛からんと力を蓄えていた志士たちに水を浴びせたアルトゥールは、野性味に溢れた戦士の微笑みのままに、どんと党首を突きだした。

 

「部外者が口を出すなっ!」

 

「忠告は聞いておいたほうがいいわよ。あの子、ぜっんぜん美しくないけど多分一筋縄じゃいかないわ」

 

 ぺろりと大剣を舐める病的な仕草をかますと、志士たちはうっと唸るように黙り込んだ。

 

「まじめに戦うので」

 

 党首であるエドゥアルドが異貌の男に問いかけた。

 

「当然。ようやくのお目当てかもしれないのだし、セルゲイの仇も取らなくてはね」

 

「わかりました。みなさん、あの召喚士を葬ってあげなさい」

 

 エマがゆっくり距離を取ると、それに合わせて老人の影も追随した。

 

 残ったのは奇妙な静けさと鬼気を持った戦士たちだった。

 

「貴様が報告にあった、我々の正義を妨害したものか? たった一人で来るなどいい度胸だ」

 

 ナンバー二と思われる壮年の男が怒りで剣を震わせた。

 

「……」

 

「ふん。恐怖で口も聞けないか、国の狗よ」

 

 数は今までで最多。質も革命の志士、クナルと同じラシェイダ族の武人と桁違いだ。

 

 黙りこくっていると、相手から侮りのような空気が流れる。

 

 いくら召喚士といえども、孤兵。アンヘルの剣の腕は二人同時に相手取れれば良い方だろう。

 

 真正面から戦端を開いて、勝てる確率は一割をゆうに下回る。それも万全の体制を整え、最高の精神状態を持ってしてだ。

 

「しっかし噂のカオスをやった男がこんな冴えない男とはねぇ。ホントに合ってるのよね?」

 

 唯一、興味深げな表情を浮かべる男であっても微塵も敗北の可能性など考えてはいまい。多勢に無勢というのが、この場を正しく表す言葉であろう。

 

 援護など呼ぶ余裕はなかった。正真正銘、ここにいる戦力はアンヘルたったひとりである。

 

 男たちの居並ぶ姿が見えていないわけではない。ただひとり敵本営に突っ込んで生き残れるなど、常軌を逸している。

 

 たとえエマの嬲られた光景を見て、脳内が怒りで煮えたぎっていたとしても。胸の奥に消えることのない炎が立ち上がっていたとしても。全身が力に満ち溢れていたとしても。

 

 意思の力は戦闘力には決してなり得ない。怒って強くなるのは、空想上の話である。

 

 だというのに、普通感じるはずの恐怖や気後など微塵もない。アンヘルの魂は絶対に負けるはずがないという確信とともに燃え上がっていた。

 

 全能感が全身を貫く。

 

 気力は横溢している。

 

 明らかに条理を外れたことながら、その確信はけして的外れではなかった。

 

 

「召喚」

 

 

 手を右方に振り切った。

 

 青白い燐光が迸り、狭苦しい廃倉庫には収まらない巨大なゲートが出現する。異空間につながっているとしか思えない禍々しい闇の奥から覗いたのは、真紅の龍鱗を持つ恐懼の化け物だった。

 

 煉獄のような燃える顎門がゆっくりと露わになる。ぎらついた濃緑の瞳は宝石のように美しくも獣の凶暴さが滲んでいる。青白いゲートを切り開かんと現出する落ち葉色の爪は、人を突き刺そうものなら容易く人肉バーベキューすら可能なほど鋭利だ。極めつきには怪物の象徴たる皮膜の翼。城ほどもある体躯を羽ばたかせる巨大なそれは、狭苦しい広間に収まらんと小さく閉じられるも、見る人を恐慌させるに足る迫力を持っていた。

 

 一歩、龍が足を動かした。それだけで大地が震えた。

 

「だい、四段階?」

 

 人前でこの力を解放するのははじめてだった。

 

 アルトゥールが瞼を瞬かせ、恐怖に慄くように一歩二歩と交代する。その視線は縫い付けられたように、龍の双眸へ引き寄せられていた。

 

 種族名メテオボルケーノドラゴン。

 

 轟々と燃え盛る火炎の吐息を撒き散らしながら、屋根をぶち破って聳えるその姿。いつかの邪竜と同じ、見た者を跼天蹐地へと追い遣る龍の威容そのものだ。

 

 今までずっとひた隠しにしてきた、力。

 

 周囲の抑圧から逃れる為、隠蔽してきた能力。

 

 だが、一際強大な手駒であるフレアが第四進化形態となったとき、アンヘルの世界は一変した。

 

 経典によれば、覚醒者。

 

 第三進化形態もしくはそれに比肩する眷属を有する、単独でいくさ場の色地図を塗り替える者たち。それを、さらに一つ超えた。

 

 それは召喚師として、そして古の論理使いとして、手のつけられぬ怪物へのまごうことなき一歩に違いなかった。

 

「薙ぎ払え、フレア」

 

 一瞬、生物皆息も途絶する、火山の噴火したような轟音が夜空に轟き渡った。巨大な顎門が食料どもに据えられると、狩られる側へ回ったことを察した彼らは、身をすくませた。

 

 しかし、それだけで命取り。恐怖の巨龍が、火砕流のように敵陣へと迫った。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「冗談じゃないわ!」

 

 遁走、という判断は素早かった。アルトゥールは凶悪極まりない顎門を双眸で捉えたとき、大剣を背負ったまま反射的に踵を返していた。

 

 本能的に宙を舞ったのは大正解だった。

 

 出現した巨大龍の進撃は、生物の頂点に相応しい威力だ。

 

 あと一歩遅かったら、逃げ遅れた志士と同じようにバターのごとく切り裂かれていただろう。

 

 巨龍へ立ち向かった者に尊敬の念を送った。無論、その勇気は蛮勇に類するものであろうとも。巨龍は志士の得物を小枝のようにへし折りながら、ただの一振りで挽肉状に散らかし、絶命させる。痛苦に染まった眼球は白目を剥いて、壮絶だった。

 

 風圧で地面を転がりながら、改めて異形を視界に収める。筋繊維を引き裂くような痛みよりも、まず相手の威容に心を縫い留められた。

 

 巫山戯ている。化け物と相対したアルトゥールは、普段のお遊びのような戦闘から跳ね上がったことに恐怖を禁じえなかった。

 

 あまりにも隔絶しすぎている。セルゲイや、いたぶった士官学校の子猫とは。

 

 まず、なんといってもその巨躯。デカい。デカすぎる。

 

 翼を広げていないにもかかわらず、戸建て二つ並べたぐらいは軽くある。翼は幾分小さめだが、相手が滑空や地上戦に優れると仮定すれば、まあ理解できなくもない。

 

 世界最大の飛行恐竜ケツァルコアトロスの最大翼長は約十メートルと大型バス並みだが、その体重はあくまでも二百五十キロ程度に収まると見られている。

 

 だが、目の前の龍は明らかにトン単位だ。もしこの化け物が空を駆けるというなら、それは流体力学を超越した魔術的なにかが作用しているのであろう。

 

 アルトゥールは自らの経験則から、見たこともない巨大な化け物への推測を、そう立てた。

 

 出身ラシェイダ族は、帝国成立初期に合併された魔物狩りを生業にする一族であるが、そのもっぱらの相手は「龍」に絞られた。

 

 簡潔に述べるなら滅龍の一族なのである。道半ばで出奔したアルトゥールもその知恵はきちんと磨かれている。その対処法も。

 

 脳がめぐり出したときにはすでに駆け出していた。

 

 回れ右、入りくねった倉庫街のほうにである。龍が興味を失ったように視線を逸らす。味方が生きながらに食われ絶叫するのを耳に、一人路地裏で息を吐いた。

 

 逃げて、隠れて、やり過ごす。少なくともアルトゥールにやれることはそれしかない。こんな相手は死んでもごめんであった。

 

 龍は本当にぞっとするような、凶暴きわまりない目付きをしていた。

 

 ぶるりと身体を震わせながら、その目を覗き込んだことを思い出す。まるで毒か電波でも吐き出されているような瞳だ。

 

 人にはおよびも付かぬ領域がある。それは自然であり、運命であり、魔物でもある。龍はまさに人智及ばぬ象徴だ。人を本当に矮小な存在へと変えてくれる。ラシェイダ族の格言には「鷹は自分より大きい獲物を狙わない」というものがある。負ける戦いには挑まないとは孫子にも通づる故郷の掟が、絶死の最中に蘇ってきたのだ。

 

「いたたた。あの龍、マジでイカれてるわね」

 

 わずかに掠っていたのか。抑えた脇腹からは鮮血が滴っている。苦い顔で服を破り捨てると強く巻き、付着した親指の血液を舐めとる。心臓はけたたましく鼓動が鳴るが、焦ってはならぬと火照る身体を必死に諌めた。

 

 相手はもっとも警戒すべき属性だ。教団で学んだ基本事項を思い返す。

 

 相関関係に十分な根拠があるとは言い切れないが、教団内では眷属の各属性に召喚主の性格を表しているものと考えられている。

 

 大体次の通りだ。

 

 木は、優しさ。

 水は、清廉さ。

 火は、熱意。

 

 これはイメージにも合うが、各属性にはもう一つ裏の意味といえるようなものがある。

 

 木は、鈍感さ。

 水は、冷たさ。

 

 何事にも裏があるという通り、良い面もあれば悪い面も持つのである。

 

 中でも危険視されているのが、火属性。

 

 第一印象で熱血ではない人物が、火属性を得意とするような場合、細心の注意が必要とされていた。

 

 火属性が意味するのは、怒り。

 

 あの龍の力の根源は残虐性から鑑みても、怒りに違いない。だからこそ龍は、こちらを手負いのまま見逃した。見逃したときに映り込んだ瞳の色が、狩人の機知に満ちたものではなく、相手を嬲る嗜虐に通づると物語っていた。

 

 そう思えば、背負う大剣がちゃちなおもちゃに思える。百人斬りという異名を持ち、今まで一千に迫るほど血を啜ってきた妖刀ですら、である。

 

 じっとりとした汗が全身へとぷつぷつ湧いてきた。アルトゥールは自分の鼓動が鐘を打つことに嫌気がさした。

 

 絶望的、といって差し支えない状況だ。

 

 あんな化け物と正面からやり合うのはまっぴらごめん。なんとか弱い本体を相手取りたいところなのだが。

 

(最悪なことに召喚主が居ないのよねぇ)

 

 召喚主の男は飛行生物に捕まって夜空の空高くに留まっている。こちらから手は届かないくせして、周到に空から魔法を落とす。徹底的に召喚士の能力を生かしてきているのだ。

 

「ひぃぃぃぃー!」

 

「たすけ、助けてくれーー!」

 

「あぢい、あちいよぉ」

 

 隣の建物が炎の息吹によって建物ごと薙ぎ払われた。本当に見境なしだ。巨龍のしぐさは子供が駄田を捏ねているようで一種可愛げすらあるが、こうも出力が違うと勝負ならない。かの邪龍カオスが優しげに思えるくらいだ。

 

 濛々と周辺から嫌な匂いと共に大炎が巻き上がる。火の粉と悲鳴。傭兵のときに赴いた北方紛争を想起させる、まさに火の池地獄の様相を呈した。

 

 放っておけば、今隠れている路地裏も火の海と化すだろう。逃げたところで空から追ってくる。手があるとすれば湖なのだろうが……。

 

(あっちもねぇ、なんだか嫌な予感がするのよね)

 

 静かに波を立てる暗黒の湖畔を眺めた。そらに浮かぶ月を水面に映し、ひっそりとたゆたう湖の中は、業火の炎に巻かれている倉庫街とは対照的なまでに落ち着いている。泳ぎも苦手ではないアルトゥールからすれば、水中への逃亡も悪い選択肢ではない。

 

 それでも二の足を踏むのは、戦士の勘というものだろうか。火山龍、飛行生物、女を治癒する生物と相手はすでに三体も召喚している。通例召喚師は二体、もしくは力の弱い眷属三体が限度だろうと言われている。普通なら水中の四体目など考慮にも値しない思考だ。だが、もし自らの勘が正しければ、という考えにとらわれ続けていた。

 

 判断がつかない。相手は高い実力を持ちながら、まったくの無名である。召喚術を隠し、己の剣一本で成り上がったのだろう。世俗の評価を気にするには武芸者一様に通ずる想念ゆえ、経験の中に類似する人間が思い当らない。

 

 圧倒的ともいえる恐竜大行進と平凡そのものの風貌が交互にチラつく。相手の思考がまったく想像できない、というのは不利に過ぎた。

 

 途方もない声量の雄叫びが轟いた。

 

 雑魚どもすべてを飲み切ったという合図だろう。隠れていたとしても、いつかは見つかって喰われる。決断のときは迫っていた。

 

「教団がどうなろうと知ったことじゃないけれど、古巣が負けた相手に滅ぼされるってのは愉快じゃないわよねぇ」

 

 アルトゥールは覚悟を決めて己の内に眠る力を最大限まで解放した。

 

 みるみるうちに体表面が真っ黒へと変色してゆく。皮下に通っている血中魔力が鉄のように硬化し、馬力と防御力を人外の領域まで押し上げる。

 

 呪術、黒龍化。

 

 幼少期から血中物質の性質を変える変異誘発剤を日常的に服用し、試練と称される儀式を乗り越えたものたちだけが扱える秘術である。

 

 生存率は純血かつ氏族の子孫でも八割を切る。半分ラドックの血を受け継ぐアルトゥールが生き残れたのはまさに奇跡の産物であるが、全身強化には半端者ゆえに大きなリスクを孕んでもいる。

 

(そういえば「あの子」に似てたわねぇ)

 

 ふと、街中で出会った同族と古い記憶の人物が被った。自分が一族を出奔する原因となった、歴代最強と呼ばれる氏族の天才。その彼女の顔を。

 

 そう考えると、これは運命なのだろうか。はじまりと終わりが連環している。アルトゥールはぐっと相棒を握りしめた。

 

「運命かどうか、確かめてみましょうか」

 

 路地の先に巨大な龍の瞳が映り込む。狂気の笑みを浮かべながら、アルトゥールは死地へと飛び込んだ。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「なんだ……これは」

 

 憲兵のディアゴは戦慄くようにして、遠くで繰り広げられる怪獣大決戦を眺めていた。

 

 陸では王者のように翼をはためかせる火山龍、水中からは支配者のように顔を出している水龍が雁首を揃え、ちっぽけな一匹の人間に襲いかかっていた。

 

 相対する男も只者ではない。全身から夥しいほど血を流しながら、狂気の笑みを浮かべて雄叫びをあげる姿はこの世の生物とは決しておもえなかった。

 

 間にある人工物の行方などお構いなしだ。残るのは更地と燃え滓、高波で流された跡地だけ。関係ない一般市民――脛に傷の一つぐらいは持つが――たちが逃げ惑うのを助けてやることもできない。

 

 幼い頃、ディアゴも勇ましい勇者に憧れたことがあった。巷ではやる物語に触れては、いつかは自分もそういう世界の住人になりたいと。

 

 剣一本で身を立て、国を守るために信念を貫いた騎士の物語。

 

 卑しき身分ながら、類稀なる頭脳を武器に宮廷社会を成り上がった物語。

 

 最強の魔法師として、あらゆる敵を薙ぎ払う物語。

 

 そんなもの冗談じゃない。今は本気でそう思える。

 

 もし生まれ変わるとしても、地を這う虫かなにかで十分だ。

 

 あの高みに登るまで、彼らはどんなことを犠牲にしてきたのだろう。私生活、友情、愛。片方の当たり障りない来歴しか知らないが、あの若さで至った過去を思えば憐憫しか湧いてこない。

 

 すべてを捨て、努力を積み重ねた先にあるのが運命だとすれば、自分は踏みつけられながらも気楽に生きられる虫でいい。

 

 だってそうだろう。人間自由じゃなければ、生きてる価値なんてない。

 

 冴えなかろうと、つまらなかろうと。

 

 選択権があってこその、人間だ。

 

「っと、いけねぇ。俺らも仕事で来てるんだ」

 

 ディアゴはパンパンと両頬を打ち、背後で固まっている部下たちに喝を入れた。孤軍で戦い抜く男の動きを見るに、終幕は目前である。もたもたしていてはことを仕損じる可能性もあった。

 

 問題ない。狙いは怪獣大決戦ではなく、もう一箇所だ。

 

「準備はいいですかな」

 

 確認をするため一度振り返った。臨時ではあるが、今現在は自分たちの上司である若い男は短く頷いた。

 

 作戦決行。

 

 長きに渡った戦いの収束は目前だ。

 

 ディアゴはようやく訪れる休暇に思いを馳せながら、炎が立ち登る倉庫街へと足を踏み入れたのだった。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「ふう、あちらでも戦いが始まったようですね」

 

 エドゥアルドが疲れたようにため息を吐くと、遠方の倉庫街で立ち上がる火炎を眺めながらそう呟いた。

 

 遠く離れた埠頭では、漣が打ち付ける音だけがかすかに響いている。空には満天の月。かすかに掛かる雲が月光の直射を翳らせる。

 

 突如、どかんと巨大な爆発音が轟いた。アンヘルの語った「遠くで戦って欲しい」という台詞が、決して大袈裟ではなかったのだ。士官学校で手を抜き過ぎだろうと、場違いの呆れが思考を支配してしまった。

 

 フルフルと頭を振って思考を集中させる。エマは集中治療で疲れ切った緑の獣をひと撫でし、貰った短弓と矢筒を確認した。

 

「私たちも、もう終わりですね。これほどの騒ぎを起こせば憲兵が集まってくるのもすぐでしょう」

 

 エドゥアルドはお仕舞いとばかりに両手をかかげ、大仰にかぶりを振った。

 

 エマは幽鬼のような朧の目で、ゆらりと老躯を中心に捉えた。

 

「イーサク兄は、死にました」

 

「知っていますよ……なんです、その目は」

 

「詫びのひとつでも言ったら、どうなんですか」

 

「罪を贖うのはそちらのほうでしょう。血の繋がった家族でありながら、正義に横槍を入れ、その意思を簒奪したばかりか、命まで潰える結果を齎した。貴方は真の裏切り者です」

 

「……あなたのせいで、イーサク兄は死んだ。あなたが、兄さんに改革という欺瞞を植え付けたから」

 

「私は彼に正しき道を示してあげただけなのです。貴方こそどうして気が付かないんですか? 正義は元老院にあるはずもなければ、国家にあるわけもない。我々が、真に国家を憂う軍人こそが、統治するに相応しいのです」

 

「それが目的なの! そんな、くだらない理由が」

 

 この老人は狂っている。まさに頑迷の極まった老害だ。

 

 惨たらしい最後を思い浮かべる。兄は決してあんな死に方をして人間ではなかった。師範代として、剣客として高い実力と教養を備えていた。人好きのする性格だった。ブリヒッテにも好かれる好青年だった。

 

 それが変わってしまった。兄は洗脳されたのだ。

 

 己が恋人の死に際して、弱り切った心に改革という耳障りの良い種を植え付けられた。乾いた砂に水が染み込むよう思想へ恭順し、そして殉教した。

 

 これの何が正義か、改革か。

 

 幼馴染であるブリヒッテへの想いを、まさか義父に利用されたのだ。怒りが自らの状況と重なり合って、抑えきれないほどに募る。

 

 こんなやつの所為で、家族は離散した。父は諾々と指示にしたがって討ち取られるだろう。母はどうなったのだろうか。もしかしたら、父は最後とあって心中させた可能性もある。すべては崩落だった。

 

 エマは黙ったまま短弓の弦をぴんと弾いてから、師を見る目ではない剣呑さで矢を引き抜いた。

 

 エドゥアルドからうすら笑いが引っ込む。老獪な薄目がさらに細められ、相貌からは熱が抜け去った。

 

 いつもの自分なら戦えなかっただろう。ブリヒッテの、そしてリカルドの父親である。自分も弓の教えを乞うた、まさに恩師である。

 

 しかし、今は違った。怒りが脳内を満たした。イーサクの無念が倍になって膨れ上がるようだった。

 

 一際大きな波が埠頭へ立ち、飛沫を上げながらきらきらと月光に照らされた。地面を濡らす。その瞬間、じゃらんとエマの脳髄で銅鑼が鳴り響いた。

 

「エドゥアルド、あなたは私が討ち取ります!」

 

 エマは半身になって弓に矢を番ると、心を水面のように落ち着けた。身体に突き刺さる痛みと辛苦が大海の凪となる。何も感じないわけではない。痛みや悲しみは友として真横にある。ただそれに追随せぬだけなのだ。

 

 金剛流青嵐弓術。何事にもこころ揺らさず、動じず。常に心掛けてきた奥義だ。だが今は奇妙なほどに心が従う。脳内では青白い怒りの炎が宿るというのに。ペンキで上から塗り潰したようでもなく、ただただ平静だった。

 

 ステップ、相手までの射線を作り出した。見えた一条の筋。完璧だ。ここまで一切の手ぬかりがない。エマは心のまま弓を引き絞った。

 

 矢は溶け、風のようにさああっと流れた。闇夜に紛れたそれは不可視、かつ空気の乱れひとつ起こさない。それこそ、まさに弓術の秘奥であった。

 

 エドゥアルドは顔色を変えて、剣を盾にした。今ほどは長剣至上主義ではなかった時代、彼の得物は長さこそないが、肉厚である。死神を辛うじて退かせたその体勢は、大きく崩れた。

 

 このとき、エマには敵の弱点となる部位が光って見えた。古代、伝説の弓使いは眺視に優れるばかりか、相手の呼吸、筋肉の細動をつぶさに観察し、深い闇の向こうからでも弱みが手にとるよう分かったという。

 

 今彼女がその領域にあるか定かでないが、歴戦の古豪は年若い少女の掌で転がされていた。

 

 エドゥアルドは苦い顔で舌打ちした。早く立ち上がれと足を空いた手で叩くが、それより早く鏃が飛翔した。老躯は大きく後方へ飛びずさるが、鋭い先端が頬を抉った。

 

 くぐもった悲鳴が流れる。

 

 時折舞う飛沫の中でエマは相手を観察し続けた。距離は十メートル。年老いて瞬発力は落ちたが、練達の技は錆びていまい。近寄られれば必死である。

 

 さらに一矢投じた。エドゥアルドが無理やりに身体を捻り、埠頭の横の桟橋に足を掛けた。ぐらりと姿勢が揺らぐ。

 

 ――それは、大きすぎる隙だ。

 

 エマはここまでの最速で弓を引き絞った。

 

 回避など許さない。相手に許されたのは利き腕ではない側の、蜥蜴が自らの尻尾を切るような防御だけだった。

 

 手のひらから肘まで、骨が入ったかのように貫通する。食いしばるような悲鳴が漏れ出る。エドゥアルドは憎々しげにエマを睨んだ。

 

「強く、なりましたね」

 

「……師範、ぶらないでください」

 

「ふふふ、現代戦において不利と言われた弓使いが、相手を近寄らせないまでの領域へ至るとこうなるのですか」

 

 エドゥアルドはすこし誇らしげに笑うと、血の滴る腕をさすり、腕が動かないことを確認した。

 

 ちらりと老獪な目が周囲に視線を飛ばす。

 

 何を探っているんだ。エマがもう一本矢をつがえた瞬間、エドゥアルドはぐっと唇を噛み、大きく叫んだ。

 

「ですがね、貴方には経験が足りない。力を十全に生かすという、弓士にとって必要な地の利の経験が!」

 

 エドゥアルドの身体がぐらりと傾くと、そのまま湖の中へと一直線に落ちた。

 

 エマは慌てて敵の落ちた水面を伺う。相手は痛みに喘いで落下した風ではなかった。むしろ逆。自分から飛び降りた形である。

 

 水面は衝撃でおおきな波紋が立っている。深い闇の中では水中の影など形もない。よしんば居所が掴めたとしても意味はなかった。一般的に銃弾は水面付近で弾ける、もしくは威力を減衰させられ人肉を穿つほどの武器になり得ない。水中で有効なのは魚雷のような爆発兵器だけなのだ。

 

 どうする。エマは一歩退いた。その戸惑いを水中の刺客は見逃さかった。

 

 飛魚のように躍り出たエドゥアルドは、激しく吠えながらその長剣を振りかざした。

 

 まずい。エマは弓を投げ飛ばしながら、必死に懐の短刀を引き抜いた。逆手に持った刀身が老躯の刃と絡み合う。ガキンと硬質な音とともに火花が散った。

 

 重い。重すぎる。相手は上段。此方は支えるだけと、重力の分相手に利する体勢ではあるが、それだけでは説明できぬ重さである。激しい鍔迫り合いで、短刀を握る両手が真っ白になった。

 

 押し返せ。ぐっと足腰で踏ん張った。

 

 しかし、その判断に後悔する。見透かされたように相手の剣から力が抜けた。エマは強かな相手の技量につんのめると、無防備に晒された胴体へ鋭い膝蹴りが撃ち込まれた。

 

「がはっ……!」

 

 エマは勢いのまま地面を転々とする。衝撃で短刀などどこかへ飛んでいった。両手をつき、満身創痍といった老躯の立ち姿を見上げる。

 

「どうやら私の勝ちのようですね。さあ、これで冥府に送って差し上げましょう」

 

 ずずっ、と老体を引きずるざらついた音が響いた。掲げられた刀身に月明かりが反射し、鈍く光り輝く。

 

 エマは苦痛を堪えながら、祈るように腰の矢筒へ手を伸ばした。

 

「弓はもうありませんよ」

 

 目を閉じる。エマに届いたのは、キャウンという物悲しげな獣の声だった。

 

 緑の獣、眷属リーン。アンヘルから託された獣は、主人の元に帰ることなく、停泊する船舶に身を潜め、今際の際まで機会を伺っていたのだ。

 

「まだ居たのですか、この害獣が!」

 

 エドゥアルドが剣を薙ぎ払い、纏わりつく獣を一蹴した。

 

 ありがとう。そう心中で呟く。獣は光となって元の世界へと旅立った。

 

 力の限り矢を引き抜くと、肩を鞭のようにしならせて打ち出した。まるで身体自身が弓になったような感覚。流星のように流れた矢は、無防備なエドゥアルドの腕に突き刺さった。

 

 ぎゃああ、という悲鳴を耳に地面を転がった。手は投げ飛ばした弓を拾い上げる。最後の一矢。それが狼狽する老人の胸に据えられた。

 

 ――そうです。あなたには兄イーサクと違って、弓使いの資質があるのかもしれませんね。

 

 ――ふふ。二人は本当の姉妹みたいですね。

 

 ――すばらしい。あなたはまさに今与一だ。

 

 いつかの記憶が脳内で再生される。視界が汗や湖の水ではないもので滲んだ。

 

 なんでこんな記憶が。憎い、憎いはずなのに。思想に狂った老躯が、純真な兄を誑かした。

 

 なのに。自分を教え、導いてくれた姿は決して嘘ではなく。

 

「どうしたんです、今ここに至って怖気付きましたか? でしょうね。所詮、あなたの正義が、我々の貴き誓いに敵うはずもない!」

 

 とんとん、ともはや剣を握ることも叶わないエドゥアルドだったが、まるで怨念を背負っているかのようによろよろ駆けた。

 

 もう、相手は間合いの中だ。

 

 撃ち抜くしかない。だというのに、つがえた弓はガタガタと震えた。まるで狙いが定まらない。

 

 力が入らない。いや、抜けてゆく。そういえば、どうして自分は戦っているんだろう。今どうして、怒りに打ち震えているのだろう。

 

 そう、兄イーサクのことだ。彼は兄を騙くらかし、無惨な死へと導いた。その報いとして、自分は戦っている。

 

 しかし、彼は私たちを育ててくれた。歪んだ思想だったのかもしれないが、それでも空虚な日々を送る兄を助けたのは眼前の老人だ。であるならば、その意思は決して間違っているとは言い切れない。

 

 仇なんて、別にいいのかもしれない。エマはそう思った。

 

「エマ、最後まで諦めんなよ」

 

 間違いなく幻聴だ。いつも隣から発される、自信満々の声。

 

 しかし、エマはその言葉を受けて、はっと意識を浮上させた。

 

 ――私は、もう一度。

 

 瞳に意思が戻る。引き絞った弓から、一直線に星が流れた。

 

 運命という流星が。

 

 もはや防御をかなぐり捨てたエドゥアルドの胸に矢は立ち、貫いた。傷口から血がドロドロと流れ、老躯はよろめきながら地に伏した。

 

 勝敗は、決した。

 

 終幕を迎えた。

 

 老翁に勝利の女神は微笑まず。そして。少女に敗北の死神が迫りはしなかった。

 

 これで、最後。エマの勝利だ。

 

 しかし、甘い勝利の美酒に耽溺することはできなかった。襲ってきたのは、毒酒を無理やりあおらされたような、敗北に類する苦い勝利であった。

 

「は、はぁはぁ、ふふ。あなたの勝ちみたいですね。リカルドは才能があると思っていましたが、あなたの才能も決して劣ってはいない。さすが、私の弟子です」

 

「エドゥアルドさん……どうして……」

 

 彼の眼には、さきほどまで宿っていた狂気が消え去っていた。いつもと同じ、道場で穏やかに門弟を見守っていた双眸である。

 

 いまさっきのやり取りが、夢か幻かと思わせんほどの空気感。そこに、エマは吹き消えそうな命の灯を見た。

 

 エドゥアルドはレッスンとばかりに、駄々をこねる生徒へ首を振った。

 

「何も言わないでください。すべて過去のこと、すべてが潰えた後なのですから」

 

 エドゥアルドは語った。

 

 加熱する世情、戦を知らぬ門弟たちを逸らせぬため、一党を指揮するしかなかったこと、過去の戦友から死後を託され、革命の旗を掲げるしかなかったこと。

 

 現状から、彼は自らを騙した。若き頃掲げた軍の正常化。出身者の政治参戦に貴族階級社会の解体。死んでいった英霊の遺志を絶やさないため、戦うしかないと嘯いた。嘯くしかなかった。

 

 それが、いかに破滅的な未来を招くか知っていながら。

 

「所詮私は妄執に取り憑かれた老害です。ただ固執し、愚直に戦うことしか選択できなかった。貴方やリカルドを誘わなかったのは必然です。世界を変えるには、正しく未来を憂う若者の自立しかありえない。だから、私は悪の総領府へ通うことを許した。世界を広く観て欲しかったから」

 

 世界が間違っていることは、誰もがわかっていた。誰が彼を責められよう。国家が老人のように衰え、そこかしこが限界間近で軋みをあげていることを誰もが知っていたのだ。

 

 やり方が間違っていたか? 否とは言えずとも、誰にも是とは言えない。諾々とお上のやり方に添い、疑問を抱かずに日々を生きるには楽ではあれど、それは自ら口を塞いで沈没するような行為に他ならない。

 

 彼らは自らの生命を打ち捨てて、未来に賭けたのだ。たとえ、逆賊やテロリストのそしりを受けても。

 

 エマはスルスルと尻餅をついた。もう光を映さないエドゥアルドの瞳は、どこか憑き物が落ちたように晴れやかだった。

 

「今更ですがね、あのとき語ったことは、けっして嘘ではありません。私にはできなかった。苦しむイーサクに、革命という断頭台への道のりを示してやることでしかできなかった。

 薬を使うのは悪かったと今も思います。しかし、彼はもう壊れていた。憲兵機構の是正を訴えたと言いましたが、濁さずいえば、それは薬物中毒の狂乱そのものだった。それなら、もう一度壊した方が幸せかもしれないと思ったのです。けれど、それは欲目ですね。娘が居なくても、一人に欠けたとしても、陽の光の当たる道を歩いて欲しかったという、叶わぬ夢を見た私の」

 

 老人は涙を見せなかった。ただ、目を細めただけ。そんな些細な仕草だけが長い戦いに疲れた老戦士の悲しみを表すものだった。

 

 萎びた体躯は枯れ木のように生気がない。衣服を濡らす湖水はしたたかに地面を濡らす。それは彼の身体から命が溢れ出ている証左であった。

 

「歳は、取りたくないものです、ね。もっと若ければ、未来ある彼に、もっと良き道を示せた」

 

 すっと、蝋燭の火がかききえるように。

 

 音もなく、老人は息を引き取った。

 

 死の淵に至り、朦朧とした意識の中、彼は過去のすべてを回顧した。

 

 彼の語る通り、止まれなかったのだろう。立場と能力、人生のすべてが老人を革命という炎の中へ追いやった。

 

 葛藤があったはずだ。懊悩にあったはずだ。自分の指示一つで死んでゆく同胞の姿を見て、何も思わなかったはずはない。

 

 けれども立った。彼は走るしかなかった。仲間を連れ、同志を連れ、同胞を連れ、きり立った崖へ走るしかなかった。

 

 なんの益もなく、なんの価値もないと知っていても。狂老と化し、雄叫びをあげるしかなかった。

 

 伏せられすでに黒く濁った瞳は、過去の妄執に囚われることなく、ただ未来を指し示す灯となるのだろう。そう、願うしかない。もう、今となっては。

 

 エマはそっと老人の手を握った。ひび割れ、かさかさとした弱い手のひらだった。

 

 強く胸に抱いた。壊れ物のごとく大切に、けれど、熱を伝えるように強く。

 

「あっぁぁぁあぁあああ!」

 

 喉から言葉にもならない嗚咽が溢れ出てきた。

 

 なんで、なんで。

 

 どうして。

 

 エマは地面に蹲った。

 

 和やかな過去が脳裏を過った。

 

 エドゥアルド、ブリヒッテ、イーサク、リカルド。皆が道場で腕を磨いた。ブリヒッテだけは料理の腕だったが、そんなことはどうでもいい。

 

 美しい夢のような過去だった。

 

 そして、もう叶わぬ世界だった。

 

 エマは顔を覆って喉を大きく震わせる。

 

 闇の帳に轟く声。女は一人、業火の炎立ち登る港を背景に、陰鬱な跪く姿をみなもに映す。月下のあえかなる湖風がさらさらと悲鳴を流した。

 

 痛切な慟哭は、世界の崩壊を切り取ったかのように、長く、長く続いた。

 

 

 

 

 

 帝国暦315年。

 

 帝国全土を震撼させ、臣民すべてを恐怖の渦へと叩き込んだ未曾有の大事件。その解決に、未だ士官にもならぬ少女が家族を討ち、師を討ってまで国家を救ったことは誰にも知らされることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「エマ、さん」

 

 こときれた狂老の手を抱き、現世の為す史実になすすべなく項垂れる少女。業火に照らされたその横顔は沈鬱で、この世に生持つものではなかった。

 

 炎の翳りにおあられ、姿は闇の中に溶け込むよう消えては現れを繰り返す。存在は希薄で、まるでそこに存在していないかのようだ。

 

 燃え尽き、灰と化しても許せぬ世界を戦いに戦い抜いた老躯の亡骸と、慕いながらも食い止めるしかなかった弟子の最後。本当に、許されうる結末はこれ以外になかったのか。答えの出ない問いにぐるぐると脳がかき混ぜられる。

 

 山積した疲労でもなく、蛮族決死の一矢でもなくて。アンヘルは沼に染み込むような足取りの重さによろめいた。

 

「アンヘル、くん……?」

 

 足音に気付いた少女が、静かに涙を流している顔をあげた。戦いに染まり、魂魄の隅々まで警戒を叩き込まれたその姿勢に、もの言えぬ冷たさのようなものが心衷に入り込む。

 

 彼女を抱き抱える必要性と、求められる人間が自分ではないことに懊悩し、ただ声もなく立ち尽くした。

 

 やり場のない虚脱感。一言で表すならまさにこれである。

 

 妹に願いを踏み躙られた兄イーサク。

 

 弟子に阻まれた師エドゥアルド。

 

 正義の為と心を偽ったが最後、選択の余地なく彼らを葬り去ることになったエマ。

 

 そして、すべての賛同を受けられずとも、己の命を投げ打ち、胸に抱く正義へ殉じた数多の命。

 

 願いを摘み取った罪禍が、楔のように深く、深く埋め込まれた。

 

「帰りましょう……もう、終わったんです」

 

「……うん」

 

 すべての幕引き。国家の平穏、ほんのひとときのそれに踊らされた人々は、決して語られることはない。だがそれでも、正義はあったのだ。彼らなりの、彼女なりの。

 

 いつか救われるときが来るだろう。時計の針は決して止まることがない。チクタク、チクタクと無限に進み続ける。時の洪水が、彼女の地獄を押し流してしまえることを、アンヘルは願わずにいられなかった。

 

「……なに、あれ?」

 

「どれのことですか」

 

「あれ、なんだけど……」

 

 夜目の効くエマがいち早く指摘した。

 

 炎の端に、闇を切り裂く人工的な光が蠢いている。時を置かず、それは組織だったものであるとアンヘルの目にも判断できるようになった。

 

 アンヘルは飛び上がると、鬼気迫る表情で抜剣した。エマの動揺が空気に沿って流れている。目視で影を捉えたとき、悪しき予感は現実のものとなった。

 

 五十を超える量産の魔導灯。皆揃ったような紺の制服に身を包み、左腰に帯刀している。頭には軍帽。

 

 憲兵、バレンティア騎士団。

 

 彼らは散開し、アンヘルたちを取り囲むように輪を作った。しかし、その雰囲気は今までと大きく異なる。どこか遣りきれない、そんな雰囲気を強く醸し出していた。

 

「すまない、エマ候補生」

 

 包囲を掻き分けるよう進み出たのは、白皙の美丈夫――ヴァレリオットだった。

 

「君には、リカルドの為、生贄になってもらわないといけないんだ」

 

 未だ癒えぬ傷跡に、塩を塗り込んだのは悪魔の言葉。暗がりという運命の魔の手は、エマを掴んで離さない。

 

 

 

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