あはは。えーと、なんかこうやってちゃんと文章にするのって、すごく恥ずかしいね。でも、最後だから、こうやって残させてもらおうと思います。
まず、最初に母さん。
いつも、家では優しく微笑んでいるだけだったけど、本当は私たち兄妹が武芸を習うのが嫌なこと、わかってたんだ。
でも、ごめんね。私、ほとんど家に帰らなかった。家事なんてつまらない、って思ってた。
だから、料理とか全然できなかったけどさ。今は、すごく勉強したいな。
時を戻せたら、教えてね。あんまり飲み込みが早いほうじゃ、ないけど。
次に、父さん。
父さんはずっと弓をやることに反対してたね。ずっと剣をやれ剣をやれって、何回喧嘩したんだっけ? あはは、忘れちゃったや。
でもね。これだけは忘れてないよ。私が最初に優勝した時、一番最初に駆けつけてくれたのは父さんだったね。
あのときは言えなかったけど、認めてもらえたって気持ちになったんだ。
すっごく、すっごく嬉しかった。ほら、だからそれからよく剣の訓練をしたでしょ。剣も大事なんだって、分かったから。父さんのおかげだよ。
こういうのはね、披露宴の時にしたかったんだけど、もうそんなのないから。
だから、こんな形でごめんなさい。父さんのこと、恨んでないよ。最後も、結局苦しそうな顔で見てるだけだったもんね。傷つけあって、お互いさまだから。
育ててくれて、ありがとうございました。
それから、イーサク兄。
私、謝らないとね。ずっと悩んでるなんて、知らなかったんだ。
ずっと、ずっと。悩んでたんだね。
ブリヒッテ姉さんが死んでからずっと。もう、全部壊したくなるくらい。
気付かなくって、ごめんなさい。
言ってくれなきゃわからないって皆言うけど、それって言い訳だと思うんだ。言わなくても、分かってあげられるのが家族だよ。だから、ごめん。
けどね。兄さんを止めたのは後悔してないんだ。
もしかしたら、兄さんのほうが正しくて、私のほうが間違ってたのかもしれないけど。けどさ、あんな麻薬を使ったりするのが正しいとは、思えないんだ。
自分勝手な妹で、本当にごめんね。
もしかしたら、私なんか要らないっていうかもしれないけど。
でも、さ。
来世があったら、また兄妹になれるといいね。
神様の誰かが叶えてくれるといいな。
兄さんもそう思ってくれるかな? 知りたいような、知りたくないような。答えは神のみぞ知るって、これ言ってみたかったんだ。
それから、アンヘルくん。
君にはこの一週間、すっごく助けてもらったね。
最初出会ったときのことを告白するとね、正直どうやって士官学校でやってこれたんだろって思いました。自分でも酷いなって思うんだけど、アンヘルくんの軍戯盤を見てたら心配になるくらいだったり。
それからは、変な子だなって思うようになったよ。ちょっと強引なところもあって、やっぱり男の子なんだなって見直したり、でもあーあって思わされたり、すっごく不思議だった。
でもね、今は違うんだ。
こうやっていっぱい助けてもらったらね、君のいいところが分かってきたの。
すごくぼんやりしてるように見えて、実は繊細だっていうのも知っているし、困ったときには絶対負けないって強い意志を持っているのも。
昔、君にはこう言ったよね。「だからクナル班なんだって」。たしか、こんな感じだったかな?
けど、今はこう思うんだ。「君こそがクナル班、ううんアンヘル班なんだ」って。
ちょっとほめ過ぎかな? けど、君のことかっこいいと思ってる人はたくさんいるんじゃないかな。あ、私もその一人。贔屓目っぽいけど、助けてくれた時の君はすごく頼もしかったよ。
ホント、ありがとうございました。こんな私を助けてくれて。
一つだけ聞きたかったんだけど、君が助けてくれた時、私って劇のヒロインみたいじゃなかった?
自分だとあんまり実感湧かないんだけど、君からみたらすっごく可憐だったのかなぁ。
ふふふ。何言ってんだろ。私。馬鹿みたいだね。
あ、そうそう。一つ忠告。
アンヘルくん。あんまり女の子を悲しませたらだめだよ。たとえばアリベールちゃん。あの子、絶対君の事が好きだから。だから、今の想いは絶対ダメ。それは永遠の片思いとして秘めておいて。
その想い、成就させてあげて。彼女のためにも、君のためにも。
私の、代わりに。
あはは。私って、ホント馬鹿だなぁ。何いってんだろ。
あ、でもでも、もしかしたら私たちお似合いだったのかな。だったら、アンヘルくんもメロメロかぁ。悪いことしちゃったかも。
勘違いだったら、つまんない妄想だって思ってくれていいよ。
けどさ、やっぱり。
アンヘルくんは、私の特別な人ってことになるからさ。
だから、ちょっとは特別に感じたいんだ。
あのね、長生きしてね。私の分まで。
これ、約束だから。
短い間だったけど、楽しかったよ。
本当にありがとうございました。
最後に、リカルドへ。
いっぱい書きたかったんだけど、思いつかなくて。
でもさ、たぶん書きたいことってこれだけだから怒らないでね。
一緒にいられなくて、ごめんね。
エマより
§ § §
アンヘルの意識は、薄ぼんやりした灯りで覚醒した。
目に映るのは煤けた地下尋問室の天井。身体は水分が抜けたように乾いていた。空虚、すべてが空虚であった。もはや何も感じず、何をするのも億劫であった。
あれから結局、何が起きたのか。ずっと天井を眺めていた。
埃っぽい最後の宿の天井。歩いているときの青々とした空。それから、今の土色の天井。すべてが色を失って、ただ砂のように流れていった。
もう長いこと、こうやって椅子に座っている。
土塊に還った気がする。アンヘルは目を閉じた。優しい、優しい彼女の微笑み。それがつぶさに蘇る。
もう涙も流れない。動く感情はガラスのように飛び散った。振り切ってしまった秤は、もう悲しみを呼び起こすことはなく、砂の楼閣のように崩れてゆくしかない。
鼻の奥につんとした痛みが湧き上がった。ぼんやりと天井を眺める。痛みは消えた。何度となしに繰り返した、穴を掘っては埋めるだけの作業だった。
がたりと目の前で椅子が引かれる。アンヘルはぼうっと口を開き、視線を向けることもなく目を瞑った。
「どうして、死んだんだ?」
静かな地下室に中年の声が反響した。どうして、どうしてだったのか。わからない。問われている意味もよくわからなかった。
目を瞑って、強く彼女の容貌を思い浮かべた。彼女は、実家の梅の木にもたれ掛かっている。木陰の下で、風に揺られている。ちらり一枚、白い梅の花びらが彼女の黒髪に舞い落ちた。
優しい微笑みが、アンヘルを見ている。彼女は何かを囁いている。なんて、なんて言ってるの? それを尋ねようとすると、頭の後ろが痛くなった。それで、視界がぼやけてゆく。
強く瞼を閉じた。力を込めれば、よりはっきりと彼女が現れると思ったからだった。視界は暗くなったが、よりその姿は霞んでいった。
「嬢ちゃんがなんで死んだのか、わかるか?」
耳障りな声だった。聞き流すには不快すぎる声だった。
なぜか、そんなことは判り切っている。アンヘルは顔を手で覆い、口の端をにやりと歪めた。
「……襲ったんだ」
「……」
「無防備だったから、弱っているところに漬け込んで、嬲った。そうしたら、自殺したよ」
彼女を思うままに蹂躙した。無理やり地面におさえつけて、嫌がる彼女にのしかかった。
果実にむしゃぶりついて、汚れなき白に歯を立てた。自分のものでもないのに、浅ましく痕を残して、奴隷だという自覚を叩き込んでやった。
彼女はずっと悲鳴をあげていた。自分はそれを愉しんでいた。りかるど、りかるどと泣き叫ぶ姿はどれほど愉快であったのか。
そして超えた最後の一線。それだけはと懇願する意思を無視し、植え付けてやった。
白い靄の中に浮かんでくる光景。何度頭を振っても、振り払っても、振り払っても、卑しく昂ってしまうのが嫌でしょうがない。
机を両手で持って、何度も頭を打ちつけた。頭蓋が割れて、脳漿が飛び散ってもいいほどに打ちつけた。激しく、激しく。自我が消えて無くなるほどに。
死にたい、消えてなくなりたい。憲兵たちに取り押さえられても、怒りに狂って暴れた。額から伝わる血が自らの罪禍を強く見せつける。血は青く、まさに悪魔の色彩であった。
「自分を傷つけるためだけの嘘は、よせよ」
憲兵ディアゴは首を横に振った。
「遺書には、お前に対する恨言なんか一切なかった。むしろ感謝が書かれていたぐらいだ」
「違うっ! 僕は本当に――」
「俺たちはお前を裁きたいわけじゃない。事情を聞きたいだけなんだ」
ディアゴはもう一度説明を繰り返した。血の匂いがするという近隣住民の報告で、エマと遺書を見つけたこと。リカルドとヴァレリオットに報告するため、詳細をアンヘルに尋ねていること。どうでもいい、もう何度となく聞いた説明を。
事情なんて知らない。ただ、罰して欲しい。裁いてほしい。
これほどの大罪。想う人がいる少女を無理やり辱め、死へと誘ったこの自分を。悪だ、罪なのだ。地獄に突き落とし、煉獄の炎で身を焼いてもまだ足りぬ極悪を背負ったのだ。
断頭台でも、拷問でも足りない。世界は自分を罰せねばならない。はやく、早くしてくれ。自分が誰かを不幸にしてしまう、その前に。彼女を、死なせる前に。
息すら、呼吸すらしていることに恥じた。生命を持っていることに恥じた。のうのうと生き長らえていることに恥じた。
世間はなぜ何も言わないのか。こんな愚か者を庇ってどうする。殺さねばならないだろう。自分を、悪を。
ぎちぎちと爪で頬を引き裂いた。鋭い痛みだけが心を癒してくれる。肉を抉って、抉って。失血に意識が朦朧とすれば、召喚すればいい。回復して、無限に痛みをあたえよう。それしかない。それしか。
組み付く憲兵を吠え立てる。悪を斬り殺さない憲兵どもを怒鳴る。叱責する。憐れみの視線をくれるディアゴに噛み付く。
「もう、だめだな。仕方ない、坊ちゃんに報告を――」
理解できていないのはお前らだ。正義を、正義を為さねばならない。そう叫び続けた。去ってゆくディアゴの背中を永遠と詰る。
もう何度も繰り返した言葉。
それは古びたドアが闖入者により開かれたことで遮られた。
「ああ、ご主人さま。ここにいらっしゃったの」
冷ややかな、鈴のような声が開かれた扉の奥から聞こえた。金色の髪を靡かせ、冷酷な顔つきの少女は、いつもとは違う優しい微笑みを浮かべている。
眷属、双星の女神イズーナ。
少女は両手でなにかを持っている。いや、それは理解し難かっただけだ。もちろんその何かは知っている。
モノだ。今は無機質なモノ。
しかし昔は、そうではなかった。脈打ち、息をしていた。美しい心を持っていた。魂のある、誰にも侵せぬ清らかさを持っていた。
少女エマ。
その遺体を、イズーナは大切に抱き抱えていたのだ。
「おい、アンタ。何モンだよ」
「退きなさい、人間」
アンヘルはすべてを忘れて立ち上がっていた。
いやでも忘れられぬ記憶。あらゆるすべてが連結した瞬間、悲しみを上回る激情が噴いた。
だが、イズーナの歓喜のほうが早かった。
「さあ、ご主人さま、御喜びになって。復活のときよ」
それはいつかの巻き戻し。夢の中でゼウスがマカレナを再生させたときのように、エマの身体が巻き戻ってゆく。
流れた血がキラキラと輝き、冷たくなった命の灯を再現する。白くなった肌は赤みを取り戻し、燃えるような熱をその体に吹き込む。
神の御業。復活のとき。
エマの身体は元の姿を取り戻してゆく。死した肌は赤みを差し、胸が再び動き出す。ぱちりと瞼が動き、長いまつ毛が揺れる。開かれた目は、抜けるような蒼穹であった。ゆっくりと視線を交差させる。
すべてが元通り。見た目がほんの少し、変わっただけでしかない。ほんのちょっとした違いだけ。
でもそれは、致命的なまでに違っていた。
イズーナが高らかに叫ぶ。神々しい光の環が浮かび、清廉そのものな水の衣が周囲を取り巻きはじめる。
「これが、こんなことが許されるのか……」
アンヘルは幽鬼のように呆然とつぶやいた。
覚束ない動きで辺りを彷徨い、狂乱の目つきで高笑いをはじめる。
「ご主人さまったら、どこが可笑しいの」
可笑しい? それは可笑しいさ。どんな喜劇よりも愉快だし、どんな道化師よりも滑稽だ。誰もが笑えるだろう、この光景を見ればな。
アンヘルは凍りつく憲兵どもの中央で、劇の主役のように大声で笑い転げた。
「こんなことが現実に起きているんだ。笑わなくてどうする! 笑えなくてどうする!」
一人一人を指差しながら笑う。それしか、それしかできない。観覧席で凍りつく彼らを指さして絶叫した。
「お前も、お前も笑えるだろう。すべて許されるんだ。神意さえ、神意さえあればな! それさえあれば何を成しても構わないんだ!」
「どうしたのご主人さま。御喜びになって」
「ふざけるな、貴様らは悪魔だ! これで喜べるやつがどこにいる、これこそ、これこそ……」
「アル?」
蘇ったエマ、いや、イズンは可愛らしく小首を傾げた。少女の柔らかい感触が全身を襲う。男を刺激するその感触は、自らが一度味わったものにもかかわらず、魂の底までを極寒に誘うものでしかなかった。
純真で、無垢で、何の汚れもなく神聖で。目の前の彼女に比べれば、エマなど汚れも汚れた只人に過ぎぬだろう。
けれど。
アンヘルの目には少女が、もはや汚物と等しく映った。
「アルなのですー。久しぶりなのですー」
「こら、イズン。ご主人さまの御前よ。もっと敬意を払いなさい」
「はーい姉さま――あれ、アルどうしたのです」
狂ってる。イカれている。乾いた笑みの中に、自分がおかしくなった可能性だけを願い続けた。
おかしい。おかしいだろう。この結末は。
誰が得をするんだ。誰が利益を得るんだ。ありえない。現実感がなさすぎる。
いや、違う。利益を得る人物がたったひとりだけいるじゃないか。そう、たったひとりだけ、身近に。
そう考えればすべての辻褄があう。あらゆる目的が、因果が一点に収束してゆくのだ。
つぶらな瞳で主人を見つめる眷属たち。彼らは、どんなことをしてでも主人様の願いを叶えるためにいるのだろう。
――使徒は、愛を力に変える。
その事実を思い返したとき、アンヘルの口から狂ったような笑い声が込み上げてきた。
そう、この物語は自分のためにあったのだ。使命を達成するため、使徒に遣わされた力の結晶。それを実現するための器に、エマはなったのだ。
それはつまり、この物語が喜劇的なまでにある人物へと収斂してゆくことを示していた。
アンヘルは笑った。天井を見上げながら、狂ったように笑った。
この物語は僕のためにあったのか。僕に眷属を与えるため、僕に力を与えるため、神が試練を与えたのか。
数多の魂と。
幾重にも重なる情熱と。
少女の虚しき絶望を、ただそれだけのために。
なら、これで満足だろ。笑え。笑えよ。思い通りなんだろ。なら、笑えよ。
望み通り、使徒として力を持ったさ。最強の召喚師に、一歩近づいた。なら、いいだろ。
何とか言えよ。なんとか。
お涙頂戴を見て、感動したって。お前たちが見せてくれたショーは最高だったって。
言ってくれよ。運命のように、彼女たちの命には意味があったんだって。
頼むよ。頼むから。お願いだから。
彼女に、そう言ってくれ。
死んでよかったなって。
よくやったって。
そうじゃなきゃ、報われないじゃないか。
そうじゃなけりゃ……
§ § §
「もう一度、言ってみやがれ!」
頬に脳天まで揺さぶるような、強烈な一撃が入る。アンヘルは歴史ある士官学校校舎の三和土床に転がって、黄ばんだ柱に手をつきながら手の甲で出血を拭った。
殴りつけたのは、士官学校三回生主席のリカルドだった。彼は肩を怒らせ、もはや極悪人を見る血走った目でアンヘルを見つめている。炎天の校舎を凌駕する、強烈な殺意であった。
背後には、彼の同班と思しき人たちや、彼をリーダーと仰ぐ若武者たちが集っている。皆一様に敵意を漲らせ、今にでも抜刀しそうな勢いだ。周囲で見守っている群衆たちも、彼らを止めようとはしない。この場の全員がアンヘルの敵であった。
それでもアンヘルは堂々と腕を組んで、口を大きく歪めた。
「エマは君に愛想を尽かして、僕に傅いたんだよ。君はあまりにも釣った魚に餌をやらなかったみたいだからね」
「……お前は、それが目的で俺に近づいたのか」
「いい具合だったよ。どうして食べてしまわなかったんだい? あんなに、熟れてたのに」
「殺すっ」
左拳がこめかみにぶち込まれた。アンヘルは壁に背を打って、肺の空気を残らず吐き出す。涙すら浮かべたリカルドが胸ぐらを掴んだ。
「もしかして本当に好きだったのかい? それなら悪いことをしたね。けどほら、飽きたらくれてやるからさ」
「お前は、エマのことをなんだと思って――」
「所詮孕み腹だ。いや、性欲処理機かな」
ぎりぎりというリカルドの歯軋りが鼓膜を打った。言葉を紡げば紡ぐほど、心臓が抉られるようであった。
口を開くたび、目を開くたびに憎悪が倍になって返ってくる。それでも、言わねばならない。自らが成した悪行を裁き、エマが望んだ未来を実現するため。
「エマに会わせろっ!」
「無理だよ。彼女は僕の故郷に帰した。なにせ、親族皆死んでるからね。身重の彼女に一人は辛い」
「……なら、どうしてお前が近くにいてやらない」
「いやだなぁ、そんなの簡単じゃない。僕には軍人として学ぶことがたくさんあるんだから。エマとキャリア。取るのはキャリアに決まってるでしょ」
「おまえぇっ!」
リカルドは半ば発狂したように泡を吹くと、思いっきり頭突きを見舞った。そのまま馬乗りになると両拳を振り回した。
「お前にとって、エマはなんなんだ! 都合のいい女か!」
「聞かなくても、わかるでしょ」
悪魔のような問いに、リカルドは電力を失ったロボットのように動きを止めた。充血した目とは裏腹に、蒼白となった顔面が罪悪を責め立てていた。
「エマはね、意外と口技が上手いんだ」
――キスはドラッグの味しかしなかった。
「意外と淫乱だしね。ほら、下着も大人びたやつだったよ。あんな幼女体型なのに」
――そんなこと覚えてない。
「君には、ずっと愚痴ばかりだったよ。ほんと、どんなに悪いことばかりしたんだよ。呆れるね」
――一度だって、君の愚痴なんか聞いてない。
言いたくない。こんなこと、言いたくないんだ。言葉一つが、神経をずたずたに引き裂いてゆく。言わねばならないとわかってはいても、辛くて辛くて仕方がない。
見上げるリカルドの顔は奇妙に歪んでいた。
もっと、もっと憎んでほしい。この悪鬼を。君の想い人を奪った、大罪人を。
その資格がある。あらゆる復讐が許されるだけのそれが。アンヘルは卑しい笑みを浮かべながら、内心で懺悔を唱え続けた。
「だからほら、君も忘れなよ。所詮一匹のメスだ」
「殺す、殺すっ、殺すぅぅ!」
リカルドはもう正気を失って拳を振り回した。強化術も体術も使わぬ、本能的な暴力。いかに武術的素養の高い彼でも、そんなチンケな技では候補生に大した痛みを与えられるわけもない。
それでも、その一撃一撃は身体の芯まで響き渡った。痛みを通り越し、それは快感にまで至る。それが、どれだけ汚らわしいことなのかに気が付き、より深い痛みが全身を突き刺した。
――ごめん、リカルド。
――僕だって、叶うことならエマさんに会わせてあげたい。
――でも、エマさんのあの姿を、変わってしまった姿を君に見せるわけには……
無限にも続くかと思われた殴打は、断罪人の息切れで幕を下ろした。エマという名前を何度となく繰り返す男。地面にへたり込んだ彼を、同情する者たちが助け起こした。
「こんなクズ相手に手を汚すな、リカルド」
「心配すんな。この先、俺たちが生きていることを後悔させてやる」
「いこうぜ」
同行人たちは、思いのまま寝転がるアンヘルを打ち据えてゆくと、唾を吐き捨てながら去っていった。
どんな痛みよりも、去り際のリカルドの目が一番苦しかった。これが、ホアンの経験した苦しみなのか。
永遠に続く。まさに地獄のような日々だ。
アンヘルは軽蔑の視線に晒されながら、痛む身体を引き摺った。その姿はまさに敗残兵であった。
「君って、サイテーだね」
「オスキュリア、さま」
「名前は呼ばないで。いくら君がルトの知り合いだからってね」
物陰から姿を見せたクロエは、裏表ない辛辣な声で非難した。さっと割れるように人がはけてゆく。アンヘルは罵声を背景に帰路を急いだ。
「アンヘル」
「……シュタール、さま」
「失望した。いや、それがお前の本性だったとはな」
角で待ち伏せていたエルンストは、怒りをそのままに腕を組んでいた。ユースタスを睨むときと同質の感情が瞳に秘められていた。
「一度は戦列を共にした身、弁解があるなら聞こう」
「……やってみたかったんですよね」
「何をだ」
アンヘルはにやりと口角をあげた。
「寝取り、ですよ」
ぐわんと視界が揺れた。後頭部をしたたかに打ちつけ、ちかちかと世界が光で満ち溢れた。唾を吐き捨てながらさってゆく彼の侮蔑が、とてもしんどかった。
身体を引きずって歩く。死者の念が絡みつくような姿だった。
「あそこまでやる必要はあったのか」
「ヴァレリオット、さま」
寮の前で待ち構えていたのは、すべての事情に通づるヴァレリオットだった。エマの依代化については伏せているものの、ディアゴと同じく大まかな顛末を知っているものの一人であった。
「君があそこまで背負う必要はなかっただろう」
「そう思うなら、隠蔽は徹底してください」
「ああ。君の献身には感謝する――エマ候補生の死は、誰にも漏れない。無論、リカルド恩赦の詳細もだ」
「礼は、言いませんよ」
「むしろ私が言うべきなのだろうな」
「……」
「ありがとう。こんなことではなんの慰めにもならないのだろうが」
返事はしなかった。深海を進むかのように、のろのろと地面を這った。自室の部屋にまでたどり着く。扉に凭れ掛かるよう相棒が目を閉じて待っていた。
「わざわざ貧乏くじを引いてきたのか?」
「……」
「奴に言ってやればよかったであろう。貴様が無能だから、自分の女が地獄に堕ちたのだとな」
「……」
「ふん、愚かだな」
そのまま、アンヘルは寝台に飛び込んだ。目を閉じれば、すぐさま夢の世界へと旅立たせてくれる。それはもう、美しい夢へ。
――あはは、あはは。アンヘルくーん。
――ありがとね、私を、助けてくれて。
――兄さんを、エドゥアルドさんを、助けてくれて。
――リカルドを助けてくれて。
――アンヘルくん、だーいすき。
アンヘルは布団を頭に被せて、うめくように何度も何度も身体を震わせた。彼女の鈴のような声が頭にリフレインする。
何よりも助けたかったはずの彼女。夢に潜れば、それが叶うように思えたから。
そして再び朝が来る。決して彼女が生きていない世界線。その現実から逃れるよう、アンヘルは深い夢の世界へと逃避を続けた。
夜風に身体を浸しながら、ルトリシアは大きくため息を吐いた。夏日の蒸し暑さは、最新式の冷房器具でも茹だるような気温である。
いや、それよりも。呼気から失望が流れ出てゆく。渋い顔で告げる騎士の報告は、これまでの計画をご破産にするものであった。
――これは良くない思考ですね。
候補生エマの死。優秀な手駒の損失以上の感傷に浸ることは許されない。貴族として、身分ある者として愚かしい感情を消し去り、開け広げられた窓の外を見上げる。
これからはさてどうするか。自分が内密に援助してきた者の悪評は、士官学校内に轟きわたっている。その共同姿勢は派閥や思想を超える勢いだ。いかに名家とはいえ、大ぴっらに援助の姿勢を見せるのは如何なものか。
ルトリシアは頭の中で幾度も問答を重ねた。灯もつけずこうやって思考を巡らすのは、時間に厳しい彼女には珍しいことだった。
延々答えのでない問いを繰り返していたとき、コンコンと扉がノックされる。ルトリシアは訝しみながらも立ち上がった。
(こんな時間になんでしょうか)
淑女であるルトリシア相手に、こんな夜半に部屋を訪ねるなどもっての外である。数年前、陣中視察の緊急の一度以外は記憶になかった。
大した用じゃないなら首にしてやろう。思考を遮られた恨みもあって過激な考えに囚われていたルトリシアだったが、扉を開け広げた先には誰も見当たらなかった。
先ほどのノックは聞き間違えとは思えない。気味の悪い事態に眉を顰めながら、再び扉を閉めた。
とん、と何かが着地するような音がする。ルトリシアは、ばっと振り返った。
「あなた、は」
窓から侵入してきたらしき男が、目の前に佇立していた。その目は、ひどく暗い。深淵を覗き込んだような深い闇だ。ルトリシアは見上げながらも、大きな男の存在感に一歩二歩と退いた。
男がぐっと両手を掴むと、なすがまま頭の上で交差させられた。壁に押さえつけられたルトリシアは、緩い夜着の隙間から入り込む男の手に身を固くした。
まずいと思うも遅かった。男の手中に収まってしまった女には、抵抗の手段などありはしない。ただ、喰まれる感触に身震いしながらも、鼻をくすぐる茶髪に、これから起こる行為を想像するしかできなかった。