――お前に教えられるのか。
という同期の疑問に、むかっ腹が立たないわけではない。優しく微笑むの隊長の顔も、心をささくれ立たせる要因の一つだ。それら悪意ある考えを払拭するため、彼女が啖呵を切ったのは必然といえよう。
ユウマの意気込みはたしかなもので、人生を隅から隅まで見渡しても、ここまでパッションに満ちたときはないと云い切れた。
「剣をふるときはなぁ、こう、腰をぐっとして、腕をぶんとやって、それからずばっとやるんや」
「ええっと、こう?」
「ちゃうちゃう、ズバや。ばーんちゃうねん」
「お姉ちゃん、全然わかんない」
「ええぇー、おかしいなぁ?」
首を傾げながら、ユウマは少年の太刀筋を確かめる。腰がぐっとしていないし、腕はぜんぜんぶんとなっていない。けれど、少年はその事実を理解してくれようとしない。頭が混乱しそうだった。
「なんだその説明……」
苦い顔で見つめる眼鏡。屈折した世界の先には、呆れた瞳が二つ並んでいた。
「なんか文句でもあんの」
「あるだろ。というか、そんなんでわかるか」
エセキエルは貸せと剣を取り上げ、軍隊剣術の基礎となっている袈裟斬りのお手本をはじめた。
「いいか。この技は、相手の肩口から水月(鳩尾)に向かって斬りつける技だ。だから、難しく考えるより、なんでこの技を使うのかっていう部分に集中しろ」
「う、うん」
「肩の鎖骨っては、骨の中でも柔い部分なんだ。そのうえ、その下には大きい動脈がある。それを切り裂くために、上段に構えた剣を左側に腰を捻りながら落として、体重を乗せたまま引く。そう、ちょうどノコギリで刃を返すときみたいなイメージだ。腰を捻って、肩に落として、引く。この三つを忘れるな」
「はい。先生」
「ははは、どうやらエセキエルの方が良い指導者になれそうだな」
休憩用のハンモック――暇つぶし用に持ち込んだ――でぶらぶら揺られているデブログは、茶化すように笑っていた。
柔い土壁の杭など果たして信用できるのか。そんな想いも込めながら、ユウマは暇そうにしている教導官任務の隊長を恨めしそうに睨んだ。
三日連続で迷宮に潜り込んでいたユウマたちは、任務の受けまわりということで、入り口付近のキャンプで拠点警備の任についていた。
周りからも同輩の候補生から視線を浴びているが、デブログは素知らぬ顔。どうやら彼はこういう事前活動をむだだと思わぬたちらしい。暇な時間、少年に稽古をつけてあげているユウマにとってありがたい話であった。
「よし、悪くない。モンスター相手となるとちょっと不安だが、基礎の運動神経は悪くなさそうだ」
「はい、がんばります」
「いいか、あの馬鹿の言うことを絶対魔に受けるなよ」
「かっちーん。あんた今、ウチを怒らせたで」
「お前の指導が俺を怒らせてるよ」
「……」
別にウチが悪いんちゃうもん。言ってることは、ほとんどおんなじやし、それで良いかっこせんとって。
ぐるぐるとそんな思考が渦巻くも、少年はエセキエルの教えに心酔しきっていた。
名選手が名指導者になるとは限らない、という良い例であろうか。選手は自らの感覚で動きを再現すれば良いが、指導者の立場になれば、どうしても言語化能力が必要になってくる。天性の運動神経を持っていた彼女は、誰に教えられるでもなく、なんとなくで動きを再現する能力に長けていた。
エセキエルが違うのはそこである。運動能力もそうだが、動きの再現を不得手とした彼は、あらゆる武芸者の動きを言葉にし、ロジスティックに分解することでしか落とし込むことができなかった。
彼にとって、武芸とは見て覚えることではなく、理屈で自分に教え込むことからはじまる。教えるのが上手いとかそういうレベルではなく、そもそものスタートラインが違うのだ。指導力に差が生まれるのも必然だった。
「あ、お姉ちゃんの動きもすごかった、よ」
少年の気遣いが多分に混じった瞳が、心に突き刺さる。眼鏡の棘のある眼差しがそれに拍車を掛けた。
「ふん、ウチのほうが強いもん」
「子供かよ」
「うっさいうっさい。ほら、実践するで」
少年に剣を持たせると、打ち合いをはじめる。足腰立たなくなった時点で、ユウマは相手の模擬剣を叩き落とした。
「はあ、はあ、お姉ちゃん、強いね」
「年上やからねぇ。それより、どないして強くなりたいん?」
「それは……」
「ああ、ごめんて。そらそうよね、迷宮探索しとるんやし」
「あ、うん」
「それに男の子は剣を持ってなんぼやもんね。ほらほら、立った立った」
「うー、お姉ちゃん厳しいよう」
「泣き言はあかんで。そんなんじゃ強い男になれへん」
「うえーん」
「泣いたらあかん。いくでー」
それから半刻。少年は大の字になって地面に寝転がっていた。周囲はその光景に飽きたのか、すでに興味を失って各々作業に没頭している。エセキエルは近場の同期に情報収集をかけていた。
「なあ、一個聞いてもええか」
「どうしたの」
「すごい意地の悪いこと言うけどな、こんな訓練せんでもええんちゃうか」
「え、なんでそう思うの?」
「ウチな、召喚師のことあれから一杯しらべてんけどな、たしかにオスキュリア家――って貴族さまのことな。もし召喚術がみつかってしもたら、売り払われてまうけど、買うんはそいつらやねん。だから、こんな危ないことせんでも、売り払われたほうがいいんちゃうの」
「それは」
「強制探索なんて、この世でいっちゃん危ないねん。それよりは、いくらかマシなんちゃう?」
オスキュリア家の強引な政策は一般市民、とくに他領の人間には受け入れ難いのも事実だが、一方で、かの家に転がりこむチャンスを産むのも事実だった。
平民ならともかく、彼は奴隷である。最下層ではない、だけにすぎないのかもしれないが、ユウマにとってはそれが最善に思われたのだ。
「それはできないよ」
少年は力なく首を振った。
「どないして?」
「同じむらの女の子が、商会に居るんだ」
頭をハンマーで殴られたような衝撃が走った。
ユウマに語られたのは、奴隷の厳しすぎる現実であった。
強制探索、というのは危険が多く、ほとんどが死に絶えるスーパーブラック事業だが、ときおり高い能力を身につけて生き残る人間がいるのも事実である。迷宮に真理を見出し、脱走奴隷として生き抜く力を与えてしまう。叛逆すら起こしかねないそれにストッパーが掛けられるのは、当然の成り行きだった。
彼らは、恋人、家族そのいずれかを人質に取られている。少年の場合は、同じ村の女の子。名をエウフェニアといい、今は売春宿の雑用で働く傍、将来はそこで働くために女を磨いていた。
「ぼくたち、戦争でみんな死んじゃったから。だから、唯一の家族なんだ」
まるで当然というように語る少年。厳しい社会の裏側に、ユウマの心は激しく抉られた。
「ゴメンね。ウチ、なんもわかってなくて」
「なんであやまるの。悪いのは逆らった僕らなのに」
「ちゃうねん。そんなこと、言わんといて」
ユウマは少年を全身で抱きしめた。敗北した祖国が悪だとして、彼はずっと生きてきたのだ。
文化洗脳。帝国に叛逆した者たちへ、悪のレッテルを貼る典型的な統治の手管。軍人としてわかってはいても、目から大粒の涙が溢れるのは止められなかった。
「ごめんな、ゴメンな」
「おねえちゃん、ちょっと痛いって」
抗議の声を上げながらも、ちょっと鼻の下が伸びている少年。そんなことすら愛おしい。ユウマは、彼の小さな身体を、ぎゅっと抱き寄せ続けた。
§ § §
「おねえちゃーん」
遠くから、耳に聞き慣れた言葉が入り込んだ。教導官任務最終日。疲れ果てて馬車で眠りこけている後輩から、声のする方角へと視線を移した。
今は大半が休耕地となっている棚田の坂道。点々と放牧されている一角豚――帝国の牧畜主産業――に紛れて、少年がわずかに整備された砂利道を降っていた。
五賢帝時代に敷設されたスカリウ街道とはいえ、もはやその叡智は過去の遺産である。ユウマの心配虚しく、少年は劣化で泥濘んだ地面に足を取られ、背負っていた藁かごの中身をぶちまけた。
「ああもう、そんなに急いでどないするんよ」
後輩を押しのけて馬車の最後尾まで進んでゆくと、ぴょんと飛び降りた。慣性系からの離脱は姿勢制御を難しくするものだが、さすがの身体能力で手一つ付かず走り出す。
ユウマが駆け寄ったころには、少年は赤くなった鼻を擦りながら、転がり出た魔石を集めていた。
最後の一つを拾い上げながら、ユウマは言った。
「どないしたん?」
「えへへ。その、お姉ちゃん、今日が最後だっていうから」
「やから、追いかけてきたん」
「うん」
彼の目には、ユウマが別れを告げなかったことに含みがなかった。ただ、「最後に一言」という子供の無垢な感情だけが珠のように輝いていた。
ぐっと喉の奥が締め付けられたような感覚に陥る。
デブログ隊長の厚意を放り投げても、少年の巣立ちを見届けなかったのは、その無垢さに痛みを覚えるからだった。
士官として、上級民として、立場ある存在。だというのに、自分だけが良ければ構わないとして生きてきた過去。世界は広く、見識は狭い。その事実を認識すればするほど、己が如何にちっぽけな存在かと気づくのである。
ユウマには、少年に投げかける言葉を持たないように思われたのだ。論理的ではなく、ただ感情的に。こんな自分を尊敬しないようにという、繋がりのない結論が。
たった一週間の出来事だが、食料事情が改善されれば、肉付きは幾分ましになった。筋肉のつき方も悪くない。剣才に恵まれているとはいえないが、召喚術も合わせれば十分な実力を得ることになるだろう。
それ以上は考えないようにした。そこまでが、ユウマの限界だった。
「剣、持っとるんやろ」
「え、うん」
「抜きや。最後の、試験や」
ユウマは自分の得物を抜いた。模擬剣ではなく、得意の戦鎚である。ふううと堆肥の匂いが一陣の風と一緒に流れた。
鉄塊を肩に担いだ姿を見て、少年はごくりと唾を呑む。動揺と困惑がありありとわかる。
言語化できないだけで、ユウマの分析力はエセキエルの比などではない。指先の震え、顔の強張りひとつで何を考えているのか推察は容易であった。
「ちょ、ちょっと待ってよお姉ちゃん!」
「問答無用や」
ユウマは激しく跳躍した。大地を蹴って、回転しながら振り下ろした戦鎚には、重力と遠心力がこれでもかと与えられている。少年を脅しつけるよう、反応ギリギリで叩きつけた。
少年は転がって避けた。砂が見栄えの良くない麻服にこびりついている。砂塵を撒き散らしながら、ユウマは大きく一歩を踏み出した。
「ええか、戦いってのはな、いつも急に起きるもんなんや」
「う、うわ!」
戦鎚の一撃と見せかけ、ショルダータックルがモロに入った。肺の空気を残らず吐き出し、空中へ弾き飛ばされる少年。見せかけの険しい顔で、大の字の彼を睨みつけた。
「最後まで、諦めんなや。やなかったら、絶対、生き残られへん」
少年はパチクリと瞼を瞬かせている。まだわからないか。それは当然だ。ユウマ自身、何が言いたいのかまとまっているわけではない。それでも、内から溢れ出る何かが身体を突き動かしていた。
草の中に埋もれて寝転がる少年。ユウマは、粉砕とばかりに戦鎚を思いっきり振り下ろした。
「召喚!」
少年の悲鳴が世界を劈いた。戦鎚と腹の隙間に、眷属の尻尾が入り込む。
横薙ぎの爪をスウェーで躱しながら、ゆっくりと立ち上がる少年に向かって吠えたてた。
「そうや、アンタの力はそんなもんやない。絶対に諦めたらアカンねん!」
「うわあぁぁぁああああ」
少年の絶叫を浴びながら、ユウマは緑龍に吶喊した。龍の穏やかな、けれど、無機物を見るような昆虫的眼差しが背筋を震わせる。こういうとき、頭をカッカさせて突撃できたのは遠い昔に思える。
怖い。怖い。負けるのが怖い。
負けたせいで、誰かが傷つくのは怖い。
でも、戦わなくても、負けてしまうことも知っていたから。
緑龍の巨体とユウマの戦鎚が絡み合う。
激しい咆哮を至近距離で浴び、耳の奥から血が流れ出す。足関節を粉砕しようと迫る戦鎚と、胴体を切り裂かんとする爪が音を奏でた。
少年の涙ながらの顔が、脳に焼き付く。それでも、伝えるべきことがある。ユウマは激しく飛び回り、荒々しいダンスを続けた。
一秒にも、一分にも、一時間にも。長く無限に感じられるが、それでいて一瞬のような時間。訓練は、龍特大のタックルで幕を下ろした。
直撃を受けたユウマには、無防備に寝っ転がって、空を見上げることしかできない。
青いなぁ。晴れ晴れした気持ちで、すうっと一筋光り輝くものを流した。
ふと影が差す。少年が、恐々としながら見下ろしていた。
「おねえ、ちゃん?」
「アンタは、強いで。ウチに勝てるんやから。やからな、何があっても諦めたらあかん」
これは御祝儀みたいなもの。いくら召喚術が協力とはいえ、所詮外部ツールみたいなもの。圧倒的速度と破壊力を誇るユウマ相手に、本体を守り切れるはずもない。
最後の教導。その事実を悟り、少年は俯いて黙りこくっていた。
「ウチのことは忘れ。世の中には、もっとええ師匠がおる。アンタは羽ばたいていけるんやから」
「そんなこと、ないよ」
「あるんよ」
ユウマは言い切った。涙で濡れている少年の顔を、そっと腕を伸ばして拭ってやった。
「戦わな、あかんで」
少年は首を縦には振らなかった。仕方ないと思う。口下手な以上、上手く伝えられないことはわかりきっていたから。
それでも、何か残せたはず。ユウマは微笑みながら、そっと草木に身を任せた。
§ § §
「ウチが欲しい、言うことか」
「ええ。それも、突撃の主攻として」
士官学校での一幕。面識のないフェルミン隊長は、そこはかとなく疲れた様子で、そう言った。
嬉しくない、と言われれば嘘になる。今は誰しも所属する班を選別する時期。より早く決まれば安心できるし、上位の班となれば迷う理由もない。
「不安かしら」
即答しない様子を見て、フェルミンは言った。
「ありがたい、とはおもてます」
「ヴィエント様の麾下は気に入らない?」
「そういうわけや、ないけど」
ユウマは俯いて、ブーツの爪先を見つめていた。
「仕方ないわね」
「すんません」
「いいわ。貴方はずっと派閥争いに関係なかったものね。いきなりウチ、というのに尻込みするのもわかる」
フェルミンは理解のあるほうだった。どことなく、ソニアのような印象を受けるのは穿すぎだろうか。親近感を抱かせるなにかがある。
頷いてしまおうか。そう何度も思ったが、身体は動かなかった。考えておいて、というフェルミンの言葉を最後に、ユウマは街路を歩いていた。
居酒屋の前には暖簾が下げられている。そろそろ夕刻。街の職人衆が夜の店に繰り出すころだろう。オスゼリアスの夜の雰囲気は、住民の彼女にお馴染みだった。
陽気な歌声が街中に響いている。軍人になったのは、決して間違いではないと確信できる。立ち止まった景色は、守りたかったすべてだとわかるのに。
この悩みは、一体なんなのだろう。かき混ぜられるような感覚に、ユウマは煩悶とし続けた。
「火事だ、火事だ!」
「どこだ、くそ。人がいい気分のときに」
「あっちの商会屋敷が集まってるほうだ!」
街火消の連中が慌ただしく街路を駆けてゆく。その先、北東のほうから濛濛と黒煙が立ち上っていた。
なぜ、踵を返さなかったのかはわからない。なんとなしに、ひそひそと井戸端会議に勤しむ女衆へ声を掛けた。
「火事やいうとぉけどなぁ。ユティスさん、なんかしっとります?」
「わかりまへんけど、メイ商会って言うてますで。ウチはあっちのほう詳しくなくてなぁ」
「そっちもそないですの。煌びやかで憧れなんどすけどなぁ――ってお嬢はん。どこ行きますの!」
ユウマは最後まで聞かずに駆けていた。違う、そんなはずはない。嫌な想像を振り払いながら、ひたすらに駆け続けた。
空が夕焼けに染まっている。紅蓮から滴ってくる熱を浴びて、ユウマは立ち止まっていた。
「おねえ、ちゃん?」
路地から顔を出した少年は、胸の中に事切れた少女を抱えていた。虚無の瞳と、力を失った首。だらんと垂れ下がった少女の頭からは、生気をまるで感じなかった。
ユウマは、ごくりと唾を嚥下した。苦い空気が、胃のなかに溜まってゆくようだった。
「あはは、あはは、お姉ちゃん。お姉ちゃんだ」
「アンタ……」
「ねえ、見て、お姉ちゃんの言う通り、逃げてきたよ」
「……」
「ねえ、聞いてるの」
無邪気な少年の声音。無垢だったあの頃とは違い、怖気を誘う寒々しさが混ぜ込まれていた。
「商会、燃やしてきたん?」
「うん、そうだよ」
「どないして?」
「お姉ちゃん、言ったじゃない。生きるために諦めるなって。あそこにいたら死んじゃいそうだから、逃げてきたんだよ」
「……」
「ほら、見てよ。エウフェニアはこんなに怪我させられちゃった。でも大丈夫。お姉ちゃんが教えてくれた技があったら、外でもやっていけるからさ」
そういいながら、少女の頭を揺すっている。力なく揺さぶられ続ける彼女は、首に濃い青あざが浮かんで、まがってはいけない方向へと折れている。
エウフェニア、いや、すでにモノへと帰った彼女が、どんな痛苦を受けたのか。想像すらしたくない。変態的行為の生贄になったのか、それとも癇癪を受けたのか。なんにしても、若き彼女には痛ましい最後が訪れたのだ。
そして、少年は狂ったのだろう。現実と幻想の区別が付かず、服を血染めにしてもへらへら笑っていられる彼は、もう無垢だったあの頃の彼ではないのだ。その事実に、ユウマは虚しく佇むことしか許されなかった。
「何人、殺したん?」
「そんなの、わすれちゃったよ。別にどうでもいいでしょ」
「偉い人も、皆なんか」
「そりゃそうでしょ。悪い奴らなんだから」
目を細めて、少しだけ見上げた。身体中の水分はすべてが蒸発して、涙の一滴も浮かんではこなかった。
商会の代表、もしくはそれに近しい者を殺害したとなれば、少年の有罪は確定である。たとえ、庇ったところで意味はないだろう。
奴隷の叛逆は、どんな理由があろうとも奴隷の罪に帰着する。彼に訪れるのは、避けられぬ死一択なのだ。
どうしてバアル教団のような邪教が興隆するのか、今わかったような気がした。彼らのように絶望した者が、ありとあらゆる一切を破壊しようと門を叩くのだろう。少年と同じ境遇の、彼らが。
「ごめん、な」
「なんで謝るの?」
「ウチが悪かってん」
ユウマは、店の前に転がっていた箒を手に取り、掃く側を手刀で切り落とした。
「お姉ちゃん、僕を助けてくれないの!」
「ゴメンな」
「……お姉ちゃんも、そっちの人だったんだね」
少年の声は、暗い。すべてが信じられぬと、そう言っている声音だ。
「ならさ、死んでよ」
召喚、という響き。少年の真隣に青紫の虚空が開かれ、そこから巨大な緑龍が姿を見せる。昆虫のような感情の失せた瞳。
射竦められて、身体を緊張させるでもなく、ただ力を抜いた。
何もせず、ただ目を閉じる。ごめんな、あの世まではウチが守ったるから。最後のひととき、そう心に誓った。
けれど、身体を引き裂くような衝撃はいつまで経っても襲ってこなかった。
代わりに少年の慄くような声。正面で何かが起きたのだ。ユウマはゆっくりと瞼を上げた。
「あんた、は」
大きく細い背中、草臥れた制服に貼り付けた薄気味悪い笑顔。男は、特徴的な茶髪を鬱陶しそうに振り払いながら、首筋から血を噴水のように吹き出す龍を見下ろしていた。
「無事ですか。ユウマさん」
制服姿の同期、アンヘルは気負いなく言った。
「あんたが、これやったんかいな」
「ええ」
とくに感慨もない、と言った様子である。視線をくれることなく、じっと少年を見据えている。
「今、僕は憲兵……のようなものに属しています。彼がメイ商会の叛逆奴隷ですか」
粒子となって異界へ帰ってゆく眷属を一瞥したアンヘルは、圧倒的簒奪者の雰囲気で少年ににじり寄った。
返事は求めていない。そう背中で語る彼は、ユウマに注意を払わない。少年の悲鳴が路地に木霊した。
「う、うそだ。グリが、死ぬわけない!」
「死んだわけじゃない。送還されたんだ」
「な、なんなんだお前! そもそも、どうやってグリに勝ったっていうんだ!」
「眷属は、大抵の場合主人の警戒する方向しか見ない。どれほど強力だろうと、主人が弱ければ、奇襲を受けることになる」
尻餅をついた少年はジリジリと後退してゆく。
このままでは。思わず、男の肩を掴んでいた。
「邪魔するんですか」
「……そういうわけや、ない」
「なら離してください」
「それも、できへん」
アンヘルは困り顔で微笑を浮かべた。
これだ、こういう所だ。ずっと気に食わなかった、その理由。コイツは、こういう場面で笑える男なのだ。
気に入らない。反射的に、ユウマは箒の棒を振り回していた。
「危ないですよ」
アンヘルは剣を掲げて防御していた。その目は、恐ろしいまでに感情が失せていた。
流れ込んでくる相手の感情。ユウマにとって、それは生理的嫌悪を感じさせる不気味なものだった。
「アンタ、冷たいなぁ」
「……」
「剣を合わせるとな、皆何考えとるんかわかるんよ」
「だから、なんです」
「心がない奴ってのは見たことある。闘うことになんの意味も見出せへん奴や。そう云うやつは、剣に向いてない。けどな――」
アンヘルの無表情はぴくりとも動かない。模擬戦で初対戦した頃と同じ、壁を打っているような感触だ。
「頭おかしいで。人斬っても、何も思わんのやろ」
「勘違いですよ」
「いや、絶対にそうや。それも、斬りたいゆうて斬っとるんやない。イヤイヤ、やっとるんや」
「……」
「アンタんとこの、隊長と一緒や。気狂いやで、あんたら」
「僕が気に入らないから、逆らうんですか」
「ちゃうわ」
「なら、なんです」
「戦うのはウチの仕事や。キチガイは引っ込んどれ」
アンヘルの手から刀剣を奪い取った。抵抗はほとんどなかった。それが、殊更気に食わなかった。
怯えた表情で、尻餅をついている少年を見下ろす。意味はないと知っていても、心の中で何度も懺悔を繰り返した。
「お姉ちゃん、助けてくれるの?」
「そうやで、心配せんとってな」
ユウマは跪きながら、少年の額を優しく撫でる。
少年はうっとりと身を任せ、瞼を閉じた。安心したように少女と並んで座るその姿は、守りたかった尊き何かに思えた。
――お姉ちゃん、どうして僕たち死ななきゃいけないの。
――生まれてきたことが、悪いことなのかな。
――僕たちが生まれた意味って、なんなのかな。
――ねえ、お姉ちゃん。
目を閉じて、深呼吸する。その感触一瞬一瞬、すべてを忘れぬために。
一閃。
ユウマは、少年の尊き碧血を、その身に浴びた。
§ § §
春。涼しい風が髪を撫でてゆく優しい季節。
少年が息絶えてから、それほど時を置かない時期のことだ。ボランティアを終え、新年を迎えるところとなったユウマは、期限が迫った返事をするため新たな上司の元に馳せ参じていた。
「あれから色々考えたん、です」
閑寂とした士官学校訓練場を見下ろしながら、ユウマは長く語り続けた。辿々しい、決して論理的ではない語り口。適度に相槌を打ちながら、フェルミンは気長に頷き続けた。
「強くなりたいから、入る。そういうこと?」
「そう、です」
「私たちの班は高いレベルを要求される。ラファエル隊長とも連携していくつもりだし、貴方の望みは叶うわ。けど、どうして強くなりたいの?」
どうしてか。それは、とても難しい問いであった。
少年の最後を見たからか。それとも、自分の迷いに踏ん切りがついたからか。結局なんだったのか、いまだ言葉にはできない。
あのとき手に残った感触を思い出す。指をこすり合わせると、今この瞬間であっても、ぬめりとした感覚が蘇る。
唐突な最後だった。たぶん、これが本質なのだ。自分が追いかけてきた、自分が歩んできた道の行先は。
生理的嫌悪を引き出す男は、たった一歩、自分より現実をわかっていた。だから、あんなにも冷たい感触を持ちえるのだろう。
いつまで経っても好きにはなれない、あの感覚。でもそれは、少し前の自分が相対すれば、今の自分にそう感じるのだろう。
ユウマはひっそり掌を眺めた。長く、息が続く限り眺めた。
「戦い云うんは、突然やってくる。やから、強くならなあかんねん、です」
「なにかあったの?」
「なんもない、やなくてないです」
「そう」
フェルミンは隊証を手渡してきた。学年と番号が振られ、ヴィエント家の紋章である風と長剣の意匠が施されている。彼女が主人の重用されているのは明白、という証だった。
「胸襟につけておいて。なくさないようにね」
「わかったわ」
「あと、その言葉使いも直すように」
「あはは、きぃつけます」
腰に手を当てて、怒りを全面に立たせたフェルミンだったが、ポーズだったのだろう。それほど拘らず先導をはじめた。
彼女の背後に続きながら、ユウマは静かな廊下を進んでゆく。階下の庭に視線を下ろせば、新二回生と思しき若者が鍛錬を積んでいた。
「少し、印象と違ったわ」
フェルミンは立ち止まると、ぽつりと背中を向けたまま言った。
「印象?」
「もっとこう、先陣を突っ切る……」
「考えなし、ってこと?」
「そう、ね。言葉を飾らなければ」
今も言葉遣いがなっていないし、とフェルミンが続ける。
ユウマは、いつも快活で満点の笑顔を浮かべている。だが、今日このときに限って、珍しく静かに微笑んだ。
「人は変わるもんなんよ」
将来はわからない。今の決意が、たとえ下がることでも。前へ進むしかない。それが、今を生きる者の義務だから。
ユウマもまた一人、旧エルサ班から道のりを別ち、新たな方角へと歩き始めたのだった。