イセカイ&ドラゴンズ   作:原田孝之

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第六章:アポルォ双神殿
日常編第一話:小隊戦協奏曲


 雲一つない黄色がかった夏の空は、少しの皺もない、たいそう薄い膜のようであった。連峰の上で、金色がカッと輝いている。光の加減であろうか。観覧席で座す男は、燦々と照りつける太陽の眩しさに目を伏せていた。

 

 逸らした視線の先、伝統ある戦技場では肉と鋼、硝煙、それら非日常の血腥い匂いが渦巻いている。三十反の陸面には樹々が植えられており、端二箇所には土嚢の急造砦が聳えていた。これらは、ずっと候補生の成長を見守ってきたのだろう。でこぼことした地面の凹凸一つ一つが、過去を物言わずに語っていた。

 

 講義中の真っ只中に繰り広げられるゆえ、いつもはぽつりぽつりと閑散な客しか入らない公開試合だが、今日は低学年から卒業生まで勢揃いする。

 

 中でも、後期から始まる総当たり戦、プレミアムリーグのトップ五組で繰り広げられる争いは、所詮ダービーマッチと呼ばれ、凄腕の候補生を輩出した歴史を持つ。

 

 この度は、リーグ開幕前の部隊の練度を最終確認するプレシーズンマッチ。

 

 その、第三試合。

 

 奇跡の世代である三回生の筆頭、第一小隊リカルド班と第三小隊ニコラス班の決戦が繰り広げられていた。

 

『おぉーっと! これはリカルド小隊、奇策に打って出ました。中央で陣取っていた主力を迂回。敵本陣に襲撃を掛けます』

 

 通称ゴール裏と呼ばれる砦側の観覧席から、総勢五百人近い候補生が割れんばかりの歓声を沸き立たせた。

 

 基本、真剣の使用は禁じられているので、純粋に武芸の技を競い合わせる小隊戦は娯楽としてハイクオリティである。

 

 そのうえ、強化術を使った高速戦闘戦は、兵卒連中などとはレベルが桁違いだ。攻守の切り替えがシームレスで、組織的連動も一個の集団と成っている。その精度、例年と比肩できる類のものではなく、数百年の歴史を紡ぐ名門オスゼリアス校であっても群を抜いていた。

 

 すぅんばらしい、と背広に身を包んだ壮年の軍人が舌鼓を打っていた。横に並ぶ候補生などもしきりに頷いてはメモを取っている。

 

「完成度が高すぎるわね。迂回の速度、先頭を援護する連携。ありとあらゆるものが桁違いだわ」

 

 だが、どうやら例外もいるらしい。チャラそうな候補生などは、身体を背凭れに預けながらチューチュー果実水を啜っていた。

 

「そんなことよりこの後デートしない? 結構良い喫茶店を見つけたんだよなぁ」

 

 力余ってメモ用紙にペン先を貫入させた女性候補生は、くっきりとした青筋を浮かべた。

 

「少しでも情報収集するべきでしょう。折角五人組のお手本がいるのだから」

 

「意味ないって。隊長殿はやる気ないし、なによりアンヘルさんがあんな感じだし。ああ、そういや新人が入るって。だから六人ね」

 

「……聞いてないわよ」

 

 女性候補生はこめかみを抑えて耐えている。現在、二部にあたるチャンピオンズで不戦敗の山を築き上げている彼らの苦境は、一部でしのぎを削る自分にも届いていた。

 

 少々憂慮していたが、班員全員が気を病んでいるわけでもないらしい。裏で流通しているとまことしやかに囁かれるトトカルチョ片手に、チャラ男はターバンを巻いた候補生に耳打ちした。

 

「ってか、レベル高いか?」

 

「……技術は高い」

 

「そりゃ個人は頭抜けてるけど、組織は無理してるだろ」

 

 その瞬間、一層ボルテージが引き上げられた。一番槍を征く隊長リカルドが、魔道銃の牽制も意に介さず、閃光となって土嚢に取り付いたのだ。

 

 砦内のフラッグを占拠するか、敵小隊を全滅させることで勝敗が決する小隊戦では、前者の方がより好まれる。ドラスティックな展開であるうえ、攻略目標の占領は教官からの評価点が高いのだ。

 

 ヴァレリオットは一瞬だけ場の空気に呑まれ掛けたが、膝を握る手を慌ただしくさすって、大きく咳払いをした。

 

 ――リカルド、無理がすぎる。

 

 予感ではなく、何度となく戦術分析し続けた結果、導き出されたのは残酷な顛末であった。

 

 もう見ていられない。胸が苦しくなって鉄火場から目を逸らした。

 

『おっと、これはどういうことだ! 躱されたと思われたニコラス班がなんと引き返している。リカルド班ピンチ、占領目前で十字砲火を受けています』

 

 かの班の特徴は、剣術使いリカルド神速の吶喊攻撃である。そこを起点に浸透し、面制圧を成し遂げる破壊力は常軌を逸していた。

 

 いる、のではない。現在、その能力は著しく減退している。隊長の速度に誰も追随できないのだ。

 

 無論、下位を相手取ったときには露呈しない。圧倒的戦闘能力で諸々粉砕してしまうからである。だが、ニコラスほどのトップ層と争うとき、小さな欠点であっても致命傷に至ってしまう。

 

『ニコラス隊長、迂回突撃を読んでいたのでしょうか。包囲殲滅という形でリカルド班隊員を討ち取っていきます。美しい、なんと美しい戦術でしょう。リカルド隊長、なすすべがありません』

 

 伸び切った連携網に向かってカッと大火球が投げ込まれた。退路を塞がれ、六人の小隊員に包囲されたリカルドは、仲間の屍を背にジリジリと後退するしかない。

 

 誰の目にも絶体絶命と映る。そして、ニコラスの指先から放たれた電光で闘いの幕は降ろされた。

 

『あーと、ここで教官から終戦の笛が吹かれました。リカルド班は悔しい敗戦。ヴァレリオット班、フェルミン班に続いての上位層三連敗です。圧倒的優勝候補と謳われたその復調はあるのかぁ!』

 

 エマを失った彼の、迷宮の出口は未だ見えない。肩で息をする渦中の君を眺めながら、ヴァレリオットは寂しそうにため息をついた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

 士官学校第一戦技場から程近く、歓声が降ってくるところに小隊員の集うロッカールームがある。といっても、弓吊りの木製天井が特徴な、あちこち軋む古小屋でしかないのだが。

 

 第四試合開演を知らせる銅鑼が耳を突いた。沸き立つ不安を踏み均しつつ、ヴァレリオットは意気消沈しているであろう敗者側の元に出向いていた。

 

 ユースタスの蛮行と並ぶほど受けた行状は悪辣で、彼自身の人柄と相まって多くの同輩から尊崇を集めている。人が捌けるまでときを要するだろうという推測は正しく、入り口が塞がるほどの人集りであった。

 

 ヴァレリオットが無言で最後尾に並んでいると、すすっと道を開けたことに、米粒ほどの悲しみを覚えた。

 

(それにしても注目が集まらないな)

 

 いつもならばモーゼのように人垣が割れるものだが、群衆の視線は内部に釘付けとなっている。どころか、嘲るような笑い声すらここまで届いた。

 

 ヴァレリオットは無理やり割って入ると、嫌そうな顔をした候補生の面相を記憶しながら、ひょいと入口から覗き込んだ。

 

「惨めな姿だなリカルドくん」

 

「……なんだと」

 

「僕を叩きのめすと啖呵を切ったあの気概、どうやら臆病風にでも吹かれて露と消えたようだね。まったく、犬畜生であっても、はじめた喧嘩の矛先はそう易々と収められぬものなのに」

 

 目にしたのは、軽侮の色を強く浮かべた、気取っている細面の男の姿であった。

 

 ――気狂いのニコラスか。飽きもせず嘲弄とは、性根が腐っているな。

 

 ヴァレリオットは、吐き気を催すような男の下卑た表情を見て苦虫を噛み潰した。

 

 ニコラス・オーウェンスは、人種の坩堝たる帝国において異彩を放つ思想、テンパレッド州外部を排するという考えを強く継ぐ、いわゆる純血主義者、であった。血管の浮く青白い肌と神々しすぎてどこか人工的にも映る金髪は、特徴的な金壺眼と合わさって、一見するだけで異相と断じるべき容貌であった。

 

 くい、といつも吊り上がる口の端は、その心胆を言葉なしに物語っている。自分とて勝つためには手段を選ばぬと言われるが、手段を選んだ末下劣な道を態と歩むニコラスに比べれば、多少マシであろうと思っていた。

 

 なんにしても、消沈する敗者を貶すなど褒められた話ではない。負けん気が強いリカルドなどは剣呑な空気を前面に立たせ、今にも激昂せんと滾らせていた。

 

「ニコラス。対戦後は気を遣って然るべきじゃないのか」

 

「三下は黙っていてほしいな。私は君の隊長にだけ用があるんだよ」

 

 纏うオーラが只人などと比肩できないという証なのか、異論を唱えた小隊員はうっと身を退かせた。

 

 ニコラスと彼とでは悲しいかな、格というものがちがうのである。

 

「リカルドくん、僕は実に残念なんだ。この士官学校で唯一敬服に値する君の実力が、こうも稲穂のように刈られるのを待つだけになってしまうとはね」

 

 注目を一身に集めることが快感であるのか、ニコラスはニヤニヤ笑いを浮かべながら、同質の魂を持つ部下たちと顔を見合わせた。

 

「俺たちを馬鹿にするためだけに来たのか」

 

「馬鹿にする? それは言い得て妙だね。そう、僕は君を嘲笑いにきたのさ。女を寝取られてメソメソと泣き喚くだけの、君のこと――」

 

 ニコラスの嘲笑に対し、リカルドは顔を沸騰させたかと思うと、徐に立ち上がって拳を振り抜いていた。そこに残心はない。荒々しく肩で息をするさまは怒りというより、悲哀を思わせた。

 

 場は、いっせいに動きを止めて顔色を失っている。エマに関する話題すべてが禁句であることを、身に染みて知っていたのであろう。ひっと息を呑んだ小隊員が身を退かせるが、爪先を椅子に引っ掛けてひっくり返った。

 

 がらがらと棚の荷物が雪崩れ込んでゆく瓦礫の中で、ニコラスだけがどもり気味の怒りを紡いでいた。

 

「き、き、き、貴様ぁっ。この僕の、僕の美しい顔をぶったな。これは許されざる行為だぞ」

 

「うるせぇ!」

 

 リカルドは膝を震わせながらロッカーに立て掛けてある模擬刀を手にすると、阿修羅のように目を見開いて怒鳴った。

 

「ちょ、ちょっと待て。殺す気か、そんなモン手にしてっ」

 

「邪魔すんな、離れやがれ!」

 

 トドメをさそうと摺り足で近寄るリカルド。彼の目はもはや怒りの大炎に呑まれており、しがみつく仲間のことなど眼中にない。ぐるりと周りを見渡すと、皆および腰でゴタゴタは御免だとばかりに沈黙を守っている。

 

「待ちたまえ」

 

 狂犬リカルドの前に割って入ると、仲間のバリケードで身を守っているニコラスを見下ろした。荷物に埋もれている彼はビクビクと肩を震わせている。煽っておいて相手が激憤すると恐怖に駆られる、という小心者なところもヴァレリオットは嫌悪している。

 

「ニコラス、君のやっていることは小隊戦のマナーに悖る。私の方から教官へ報告しようか?」

 

 瓦礫の中に埋もれていたニコラスは、頬を抑えながらのそりと立ち上がった。

 

「僕は殴られた側だぞ」

 

「私は儀礼と誇りを尊ぶ。敗者に鞭打つ行為を、君の先祖は是認してきたかな」

 

 ニコラスは長い間ぎりぎりと歯軋りさせてから、心の隅に残っていたであろう忍耐を酷使したのであろう、屈辱に顔を染めて去っていった。

 

 ハラハラとことの成り行きを見守っていた同輩たちは、ヴァレリオットを拍手喝采しながらも、選民思想を剥き出しにするニコラスに対して、

 

「は、ざまあみろニコラスのクソが」

「近親相姦野郎はひっこんでやがれ!」

「さすがはヴァレリオットさまですわ。イケメン、抱いて!」

「えっ、お前あっちの人だったの?」

 

 と侮蔑の嘲笑を浴びせた。多少変なのも混じってはいるが。

 

(あのような者が威張れるところではなかったのだがな)

 

 ヴァレリオットは、失われてしまった格式のようなものを懐かしみながら、ふうと小さくため息をついた。

 

 革命騒動以来、士官学校に通っていた平民派は表面上活動を取りやめた。貴族のお歴々が士官学校を思想の火薬庫として認定し、派閥のトップを僻地へ任官させたからである。今、士官学校で残っているのは、地方からの補充生ばかりで、派閥や思想に疎い連中ばかりである。

 

 これも士官学校の闇であろう。貴族階級の派閥システムが機能していれば、ニコラスのような異常者が日の目を見ることもなかったのだから。

 

「ま、けどよ。やっぱ、あそこまで遊ばれちゃおしまかもな」

「落ちたもんだぜ、リカルドも」

 

 ――ちっ、野次馬どもめ。

 

 琴線に触れる言葉を捉え、ヴァレリオットは、

 

「見せ物じゃないぞ」

 

 と邪魔者を散らした。その勢いは火を噴くドラゴンのようで、見物客は泡を食って逃げ出した。

 

 残された場は、葬式のように静まりかえっていた。ニコラスの言は醜悪でこそあったが、苦しみの狭間で彷徨う彼らの窮状を、これでもかと突いていたのだ。

 

「リカルド……」

 

「今は止してくれないか」

 

「だが」

 

「頼むよ」

 

 僅かばかりの感謝を告げられたヴァレリオットも、部外者には立ち入れぬ空気に遭い、建物の外に締め出された。

 

 どうしようもなく気になって、数人の野次馬たちと一緒になって聞き耳を立てた。

 

 今の自分は、果てしなく惨めだ。こんなこと細作でもやらない。家政婦や侍女の真似事である。それでも、ヴァレリオットは貝のようにじっと待機した。

 

 長いときが経ってから、エマの後釜である現参謀――壱科のグリード――が淡々とした声で切り出した。

 

「なあ、リカルド。人数を最大まで埋めないか? やっぱり五人だけじゃ勝てないって」

 

 機を見計らっていたのであろう。リカルドを慰めていたときと違って、表情に真剣味が差している。

 

「……その話は、もう終わったはずだ」

 

「け、けどよ。いつまでも引き摺っていられないっていうか。俺たちは進んでいかなきゃならないだろ」

 

「……」

 

「新しい人選は俺に任せてくれればいいからさ。ほら、心機一転ってやつだよ」

 

「……言いたいことは、それだけか」

 

 リカルドは、手にしていた模擬刀の鋒を仲間に向けた。般若のように怒らせた顔は、恐怖というより、哀愁を引き出す面持ちであった。

 

「あいつの代わりなんて居ないんだ! 誰にだって代われない。そんな存在、居ないんだ……」

 

 紡ぐ言葉を失ったように、リカルドは語気を無くしていった。彼の糾弾を受けたグリードは、ただ俯いたまま、「悪い」と謝罪の言葉を口にした。

 

 ヴァレリオットは耳を塞いで、その場を後にした。

 

 復活の兆しなどありそうもない。翌週、リカルド班がはじめて下位班に敗れたことで、噂は加速しはじめていた。

 

 

 

 § § §

 

 

 

「ラブロックくん。この頃、自分の剣が曇っていることに気がついていて?」

 

 小隊、とは士官学校の肝となっている制度である。危険を察知し、能力を偏らせ、粘り強く耐え抜く。妨害魔道具圏内の、ありとあらゆる状況下で柔軟に単独行が叶うよう設計されている。

 

 それらエリートとされだしたのはいつ頃であろうか。上位小隊に個室が充てがわれている時点で、当初の理念を超えた特権が与えられていたことは事実であった。

 

 彼も、利益を享受する一人だ。暇を持て余したときなどは、決まって部屋を閉め切り、気散じに詩を書くことが多かった。

 

「はあ」

 

 墨を掃いていた筆を置き、ヴァレリオットはマスターキーを持つ人間の入室を認めた。扉が僅かに開いている。ドッキリ好きな悪趣味極まりない性格が発動して、音もなく侵入することを画策したのであろう。

 

 壁際で腕を組み、豊な胸をぐっと押し上げた女性は二十代から三十代ぐらいであろうか、どことなく自分と似た顔立ちをしていた。

 

「勝手に入らないよう言いつけておいたはずですが」

 

「あら、偉くなったわね。教官に命令できると勘違いしているのかしら」

 

「……教官と候補生には保つべき距離感があると思われます」

 

 第二小隊ヴァレリオット班の指導教官シラクサは、横に流した長い黒髪をかき上げながら背中側に回ると、耳元でふうっと囁いた。

 

「また縮めてみる?」

 

 青少年を揶揄う声音は、心底楽しくて仕方がないといった風であった。婚姻指輪を外しているようなところも用意周到である。ラブロック遠縁にあたる彼女は、剣と頭だけで成り上がった才女だ。が、色々弄ばれた経緯もあって苦手意識がつよかった。

 

 ヴァレリオットは無造作に椅子を引いて、顔を突き合わせて正対した。淑女としてはどうかと思うが、訓練校時代から浮名を流していた彼女は、男を手玉に取ることを得意としていた。理詰め以外の対話ではおもちゃにされるだけである。

 

「なんの用です」

 

 ふふっと微笑みに隠された内心は判然としない。むかしから、こうだ。面食いを自称して、伴侶として選んだのは容姿も能力も平々凡々とした地方軍人であった。考えること、喋ることすべて突飛で、そのくせ核心を突いてくるのである。

 

 ヴァレリオットが眉を顰めていると、シラクサは無言のまま窓に腰掛け、夏空の中に息吹を溶かした。視線は眼下に望む訓練場へと向かっている。

 

「昔から変わらないわね。そういうところ、すごく愛おしい」

 

「今更昔話ですか」

 

「歳を取れば人は昔を懐かしむものよ。それをしないということは、あなたもまだ若いのね」

 

 貴方もでしょう、という言葉を紡ぐことは憚られた。曖昧に塗り固めてきた箇所を穿るのは、ヴァレリオットにしても本意でなかった。

 

 シラクサは胸元から煙管を取り出すと、手慣れた風にマッチ棒で火を着けて、煙を更す。

 

「私は今のほうが好きよ。どうしたって色褪せるもの」

 

「……」

 

「過去に浸るのが、男は好きね」

 

 ふうと、夕焼けを眺めて黄昏れる彼女の横顔は、言葉とは裏腹に遠い過去へ旅立っているように思われた。

 

 誰の影響を受けたのか、気怠げに煙管を燻らせる彼女の姿は、知っている姉貴分とは違っている。

 

「でもね、その弱さを受け止められるのは女だけということ、忘れないで」

 

 シラクサは大人ぶって講釈を垂れるくせして、ほとんどを曖昧にぼかしたままだ。叱ったりはしない。いつだって、すべてを悟っているという顔をする。

 

 それが彼女なりの叱責であるということは、ヴァレリオットも分かっていた。

 

 その日の夕暮れ。候補生寮へと向かう集団に混じって、三和土造りの階段をヴァレリオットは降りていた。

 

 その表情は憂鬱そのものである。貴族寮に居を構えるゆえか、隣室の奔放な先達には迷惑していたのであった。どうやら市井の淫売を連れ込んでいる様子。これここに名誉ある士官学校の没落も極まったというところであろう。

 

 礼儀、伝統、格式というものを愚直に守る性格が直帰を遠ざけたのであろうか。無意識のうちに、足は訓練場へと向かっていた。

 

「リカルド……」

 

 言葉をかけたとき、男の意識はすでに消えかけているように思われた。リカルドは、水平に構えていた長剣をすうと足元にまで引くと、脱力した状態で轟然と横たわる巨岩を眺めていた。

 

 疲労は、すでにピークを通り越したのであろう。相貌には感情と思われるものが浮かんでおらず、ただ無心で構えを取っている。であるのに、剣を虚空に構えた姿は平素と寸分違わず、武術においてもっとも重要な姿勢を完璧に体得した姿であった。

 

 目を凝らすと、巨岩に数本の線が入っている。力を込めれば流れてゆくであろうバランスで、絶妙に起立しているのだ。護身剣として金剛流を嗜むヴァレリオットなどでは、想像の外の領域に達していた。

 

「ヴァレリオットか」

 

 真剣を鞘に納刀すると同時に、ずうん、と大岩が斜めにずれ、バラバラに分かれて倒れてゆく轟音が響き渡った。

 

「何か用か?」

 

「用ってほどじゃないが」

 

「なら放っておいてくれないか。剣を振りたい気分なんだ」

 

 長い間鍛錬に没頭していたのだろう。襟足から滴る透明な液体が首筋に伝っている。

 

 リカルドの実家、金剛流ドモン道場の親族はすべて牢獄に繋がれている。ゆえに彼を指導する人間はおらず、今は独流で腕を磨いている。

 

 だが、久方ぶりに見た素振りは、ヴァレリオットの記憶の中でも一際輝いているように思われた。

 

 剣に魂が乗っている、とでも形容しようか。身を包んで立ち登るような集中力が、極限にまで研ぎ澄まされて、剣気となっているのである。

 

 ヴァレリオットは息を呑んだ。その、生死の狭間で生きる迫力に。

 

 ヴァレリオットは世を儚んだ。その、悲哀極まる脆く弱いつるぎに。

 

 今の彼と肩を並べられる人間など、居ようはずもない。疾く、疾く駆けてゆく。すべてを置き去りにして。

 

 そして、遂には気がつくのだ。振り返ったとき、後ろに誰の追随もないことに。ぽつんと一人、立ち尽くしていることに。

 

 ヴァレリオットは黙した。そして、語る言葉を持てなかった自らを恥じた。

 

 その日、何の進展もなかったことを記そう。

 

 翌日、リカルド班参謀グリードが班から脱名したことを、風の便りで聞いた。

 

 

 

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