ラブライブ!サンシャイン!! Beyond the Horizon 作:Le Nereidi
八日後の土曜日、飛込の東海地区大会が名古屋で開催された。
競技会場は、例年ラブライブ東海地区予選が行われる大ホールのすぐそばの、多目的アリーナだ。縦に並べて設けられた五十メートルプールと飛込プールで、競泳と飛込をあわせて実施する。プール両側のスタンドは、東海四県から集まった高校の水泳部員やその家族、友人たちで七割方埋まり、富士水泳場よりひとまわり大きいアリーナの空間は、競技会独特の熱気が充満していた。
午前中の予選を前に、曜の心身には変調が生じていた。水着の上にジャージを着た状態でウォーミングアップしているときから、寒くもないのに体が震える。止めたくても、止められない。
――どうすればいいんだろう? 落ち着け、落ち着くんだ私……
生徒会長の月は、スカートに半袖の制服で水泳部の応援に来ていた。飛込プールに近い席からオペラグラスをのぞき、予選開始前最後のダイブ練習に臨むいとこの異変に気づく。
濃淡二色のブルーを基調に、魚や貝の模様が散りばめられた競技本番用のワンピースに身を包む曜。複数枚のレンズを通して拡大された顔はこわばり、青ざめている。
「曜ちゃん大丈夫かなぁ……頑張れ!」
たまらず放ったその声も、飛込台には届かない。
同じころ、沼津の中心部・狩野川風のテラスに、遼香はいた。赤い傘を差し、モノクロ写真がプリントされた白Tシャツに黒のロングカーディガン、黒いスキニージーンズという地味な装いで、本降りの雨に打たれ、遼香はひとりたたずむ。
傘の上で、足元の石畳で、音を立てて雨粒がはねる。我入道へ下る渡し船が、
造りかけの特設ステージを前に、遼香は、昨夏この場で目撃した光景をありありと思い起こしていた。暑さが肌に残る夕闇の中、色彩豊かな照明と花火によって浮かび上がる、九人の少女たちの華麗なパフォーマンス――
ジーンズの右後ろポケットで、スマートフォンの着信音がする。
遼香は我に返った。逡巡の末、傘を左手に持ち替えて、鳴り続ける端末を取り、七コール目の途中で電話に出る。
「……」
『今なら、まだ間に合うよ』
菜々実の声だ。
「吉原……私のことは、もういいから……」
『遼香をひとりになんてできない!!』
親友の悲痛な叫びに、遼香はハッとする。それでも、真紅の端末を強く握りしめ――
「私の気持ちは、変わらない」
『遼香……』
「……ありがとう」
通話を切って、遼香は、頭上の傘を少しだけ横へずらし、中空を仰いだ。
「堕天使ヨハネ……ううん、津島善子」
視線の先には、川に面して建つ、善子の住むマンションがある。
「私、あなたと……」
競技が始まった名古屋の飛込会場では、観客席にざわめきが起きていた。
プールの水面に浮上した曜に目をやりながら、月は唖然とする。
「まさか、飛び方間違えるなんて……」
隣で一部始終を見ていた曜の母親は、たまらず両手で顔を覆った。
予選の五本のうち二本目を飛んだ曜は、プールから電光掲示板の得点表示を目にしたまま、顔色を失っていた。得点は0・00――事前の申告と異なる技で飛び込んでしまったのだ。
――なんで? 私……どうなっちゃってるの?
曜は、自らの状況が把握できないほど、混乱の極みにあった。
「スクールアイドルのパフォーマンスってこの程度かよぉ。
三島市民文化会館の大ホール。
ラブライブの静岡県予備予選を一緒に見に行くかどうか、先月近所の公園で語り合っていた二人の高校生――レイと華穂は、この日、一階席のいちばん後ろに座っていた。
ベリーショートの縮れ髪が特徴のレイは、正直で辛辣な感想を口にした。肩に届くさらさらヘアの華穂が、左隣からささやきかける。
「いよいよ次ね、レイちゃん」
「うちの学校のグループだろ? ディフェンディング・チャンピオンってヤツか。これまでのと違ってレベル高えんだろな」
「うん。ただ……」
「ただ?」
「なんとなく……胸騒ぎがするの」
スピーカーを通して、女性の声で事務的なアナウンスが流れる。
「十三番、静真高校、Aqours & Mermaids。曲は『Get over it!!』」
やがて、客席がざわつき始めた。
応援に来ていた、三年U組のよしみ、いつき、むつ。
善子の同級生の
ステージ上の光景を目にした多くの観衆が、当惑している。
「ウソ……これでやるの?」
「どうして?」
面食らう、こむぎと雪奈。
華穂は祈るように、白い両手を胸の前で組んだ。
Aqours & Mermaidsが出ていったあとの楽屋に、ライトブルーの衣装が一着、吊るされている。
それは、昨年夏の予備予選でAqoursが――同日、ピアノコンクールに臨む梨子を欠いた八人で――『想いよひとつになれ』を歌った際、曜が着ていたものだった。
名古屋のアリーナでは予選の三本目の演技が始まっている。
曜の順番はすぐに回ってきた。観客席から母親といとこが心配そうに見つめる中、曜は吸水タオルを握りしめた右手で胸を押さえたまま、最も高いプラットフォームへ、階段を上っていく。懸命に呼吸を整えようと努めるが、動悸は激しく、震えは治まらない。緊張と動揺と混乱と恐怖で、メンタルは押しつぶされそうになっていた。
直前の選手が飛び終わり、曜は飛込台の上に立つ。
――千歌ちゃん……私、怖いよ……!
細かく震えるオレンジ色の吸水タオルをしばし見つめ、そして手放した。タオルはまっすぐプールへ落ちていく。十メートル下で揺らめく水の塊が、今だけは硬く冷たい凶器に見え、足がすくむ。
曜の耳には、アリーナに飛び交う、観衆からの励ましの声援すら聞こえてこなかった。
飛込台の先まで進み、百八十度向きを変える。二本目で誤ってやってしまった飛び方・205B――後宙返り二回半・えび型――を、改めて行う体勢に入る。
曜はぎゅっと目を閉じ、横へ広げた両腕を震わせながら、心の中で叫んだ。
――千歌ちゃん……千歌ちゃん……助けて!
曜は、振り回した両腕と膝の屈伸で勢いをつけて後方へ身を投じる。後ろ向きに回転しながら伸ばした脚を抱え込み、最後にそれを解き放つ。
入水――
バランスを崩した肉体が派手に水面を叩く音とともに、高く白くしぶきが上がった。
▲▲▲
その夜、曜は月と一緒に、新幹線で三島駅まで戻った。
三嶋大社を模した駅舎の前で、先に帰宅した母親が迎えに来るのを待っている間、千歌に電話をかけた。ここ何日も降り続いた雨は、すっかり上がっている。
「千歌ちゃんごめん、連絡遅くなって。ちょっとバタバタしちゃってて。今、三島に着いたとこ」
『……そうなんだ……私のほうも、いろいろあったから。連絡できなくてごめんね』
曜は一呼吸置いてから、思い切って今日の結果を報告する。
「あのね、私……予選落ちしちゃった」
努めて明るい声で告げてみたつもりだった。
『……えっ』
「いつもの調子が出なくて、なんか緊張しすぎちゃって……あり得ないこと、やらかしちゃって」
『……』
「まあね、これが私の実力だから。しょうがないよ」
そう言ってはみたが、気持ちは全然すっきりしない。千歌に余計な気をつかわせてしまっていることも自覚できている。つくづく自分がふがいないと思う。
『……曜ちゃん』
「何?」
『応援しに行けなくて、ごめんね』
「……ああ、それは気にしないで。しかたないよ。でも千歌ちゃんの想いは、名古屋までビンビン伝わってきたよ。ありがとう!」
『うん』
それにしても、千歌の声にいつもの張りがないのが、少し気になる。失意の底にいる自分に寄り添ってくれているのだろうか。
「千歌ちゃんたちは、どうだった?」
『……』
応答が、ない。
「千歌ちゃん?」
やがて、返ってきた返事は――
『――――』
「えっ……それどういうこと?」
曜は月の方を見る。
月は、黙ったまま、無念そうに首を横に振る。
それは、曜にとって考えうる最悪の事態を告げていた。
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次回 #6「今を楽しめ!!」