ラブライブ!サンシャイン!! Beyond the Horizon   作:Le Nereidi

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#7 迷える人魚(3)

 学校の職員室で、梨子は担任の井上先生に相談をしていた。

「一般論でいえば勧められる話ではないし、ご両親の理解を得るのも難しいとは思います」

「……ですよね」

「でもね」先生は続けた。「三年前、小原さんに海外留学を強く勧めたことがよかったのか、私はまだ引っかかっているの。彼女、お母さまの反対を押し切って、結局戻ってきてしまったでしょ?」

「はい。鞠莉ちゃんには、浦女でどうしても叶えたいことがあった」

「そうね。一つは叶わなかったけど、もう一つは叶えられた。松浦さん、黒澤さん、そして、桜内さんたちと一緒に。彼女、卒業するとき言ってたわ……自分の選んだ道をまったく後悔してないって。とても晴れやかな顔でね」

 フレームレス眼鏡の奥から、教え子を思う気持ちが染みてくる。

「だから、あなたが今どうしても叶えたい、今しかできないことがあるのなら」

 慈しみをたたえたまなざしとともに、梨子の予期しない答えが返ってきた。

「私は、あなた自身の意思を尊重します」

 

 

   ▲▲▲

 

 

 その夜。

 千歌は、灯りを消した自室のベッドに横たわり、かすかに漏れてくる、美しいピアノの音色に心を委ねていた。

 隣の家では梨子が窓際のアップライトピアノに向き合い、(まぶた)を閉じたまま、細い十本の指をしなやかに踊らせ、旋律を紡ぐ。部屋の防音が十分でなく、サイレントモードを解除して弾くときは、ショパンのノクターン、あるいはドビュッシー、サティなど優しく穏やかな曲を選ぶのが常だ。部屋の隅では、春から飼い始めた小さいパグ犬が、ケージで眠りに落ちている。

 静かに最後の音符を鳴らして余韻に浸っていると、パチパチという控えめな拍手が耳に入った。カーテンを開けると、向かい合った二階の外廊下に人影が――ボーダー柄のキャミソールにトランクスという部屋着のかっこうで、千歌が、手を叩きながら無邪気に微笑んでいた。

 

 

 梨子は千歌を、三津浜へ誘った。

 海の家を開いている日中と違って人影はほかにない。自分たちの家の目の前にあるこの海岸で、一年前の出会い以来、二人はしばしば語り合っていた。

「菜々実ちゃん、月ちゃんにはだいぶ心を開いてるみたいね」

「剣道部のときもだけど、月ちゃん献身的に動いてくれて、ほんと頭下がるよ。大変なんだな、生徒会長って」

「遼香ちゃんと曜ちゃんはどんな様子なのかしら」

「今のところ、午前中一緒に走ってるだけだって。曜ちゃん、夏期講習で忙しいはずなのに」

 二人は座り込んだまま、さざ波が静かに打ち寄せる音だけを聞いた。

「三年生なのに。私……なんの役にも立ってない」

 千歌が力なく話し始める。

「予選間際にフォーメーションを変えたから、ルビィちゃんたち混乱しちゃって……あれは私が、止めるべきだったんだ。なのに、意地張って、前へ進むことにこだわって……バラバラになっちゃった」

「私もよ」梨子が答える。「きちんと怒ることができたダイヤちゃんの代わりは私がやらなきゃって、多少無理もしてきたけど……怒り方を間違えたわ、肝心なところで……なんであんなふうに言っちゃったんだろう」

 すると千歌は、膝小僧に顔を埋めて、弱々しく漏らした。

「私、遼香ちゃん、嫌い」

 梨子は思わず、千歌の方を見た。

「……そんな私が大嫌い」

「千歌ちゃん」

「自分のこと棚に上げて。最低だよ……」

「私だって……目障りに感じた後輩を追い出した、最低な部長よ」

 苦々しい口調で梨子は自らを蔑んだ。

「曜ちゃんがずっといてくれてたら、こうはならなかった気がするのよね」

 それきり、沈鬱な表情で黙り込む。

 穏やかな風と波音がなでるように二人を包み、雲一つない星空が物言わず二人を見下ろす。内浦の海に、いつもと変わらぬ夜のとばりが下りていく。

 やがて梨子は腰を上げ、ゆっくりと渚へ歩み()でる。五分袖のタイトなワンピースをまとった梨子が小さく歩幅を刻むたび、サンダルの裏で静かに砂が鳴る。

「思い出すなー。千歌ちゃんとここで出会って、一緒に冷たい春の海に落ちたこと。あれが、私の新しい始まりだった。千歌ちゃんが、新しい世界への扉を開いてくれた」

 歩調を合わせて付いてくる千歌に、梨子は海を向いたまま、胸の内を吐露した。

「迷ってるの……スクールアイドルを、いつやめるべきか」

 砂を踏む音が鳴りやむ。

「音大の受験って、実技があるでしょ? そのために、ピアノの練習時間をこれからもっと、増やさないといけないの」

「……そうだよね」

「それとも、卒業までスクールアイドル続けて……浪人するか」

「梨子ちゃん」

 千歌の本心が、かすかな声で、口をついて出た。

「……ダメだよそんなの」

 梨子は気づかず、天の川をはさんで瞬く夏の大三角を仰ぎ見ながら、話を続ける。

「私ね、最近思うの。物事には、必ず始まりと終わりがあって……始めたときから、終わりに向かって走ってるんだって。でもね」

 そう言って、心なしか寂しそうに、千歌を振り返った。

「終わらせるって、難しい」

「……」

「それに、曜ちゃんのことも気になるの。夏まつりのライブの前に『最後』って言ってたでしょ? だから、もし……もし私までそうなったら、千歌ちゃんが……」

「大丈夫だよ!」

 千歌が強い口調で遮る。

「あれは、あの日最後の曲って意味だよ! センターであんなに楽しそうだったし、水泳部の活動ももうないし。曜ちゃんは続けるよ! だから……」

 千歌は自分自身にも言い聞かせたあと、激しく首を振りながら、怒ったように梨子に告げた。

「……だから、梨子ちゃんは余計なこと考えなくていい!」

 そして歩み寄った千歌は梨子の両手を手荒くつかみ、固く握る。

「梨子ちゃんは……!」

 言いかけた千歌の脳裏にふと、弁天島(べんてんじま)神社で目の当たりにした昨夏の光景がよみがえった。海外留学を打ち切り浦の星女学院に復学した鞠莉を、果南が責めていたシーンだ。

 

――どうして戻ってきたの? 私は、戻ってきてほしくなかった――

 

 出かかった言葉をぐっとのみ込み、千歌は改めて気持ちを伝えようと努める。

「梨子ちゃんは……」

 その声は弱々しく、それきり、何も言えなくなった。

 さざ波の音に包まれ、見つめ合う二人の影。

 鏡のような海面が一瞬、月の明かりできらめいた。

「あっ、そうだ」

「えっ?」

 千歌は思い出したように、いつもの千歌に戻る。

「前から聞こう聞こうって思ってたんだけど、梨子ちゃんがよく弾いてるさっきの曲、なんて曲? わりと有名だよね?」

「あ……あれ? あれは……」梨子は言いよどむ。「ショパンの、エチュード。単なる練習曲よ」

「練習曲かあ……もっとこう、気の利いた曲名、付いてないの?」

「えっ? ええ、まあ、特には……」

 梨子はひとり焦る。しかし千歌は無邪気に会話を続けた。

「そっか、練習用だもんね。でもいい曲だよね」

「そ、そうね」

「私ね、大人になったら、楽しみにしてることが一つあるんだ」

 梨子の両手をつかんだまま、千歌は、目を輝かせて望みを伝える。

「梨子ちゃんの素敵なピアノリサイタルを、曜ちゃんと二人で聴きに行きたい!」

 夜空でほのかに照らされた千歌の笑顔は子供のようだ。

 梨子は、一呼吸遅れて、笑みを作った。

 

 

   ▲▲▲

 

 

 遼香は日課のジョギングの途中、曜の誘いで、びゅうおの展望回廊に上った。

 びゅうおは本来、港と市街地を津波から防護するための構造物だが、門柱に相当する一対の塔の上部に渡り廊下状の展望室が付随し、地元住民や観光客に親しまれている。

 二人は海向きに並んでベンチに座る。

「吉原は小さいころ家が近所でよく遊んでたんですけど、小学二年で(はら)の方に引っ越していって……」

 

 

 去年五月のことだった。

 一年T組の昼休み。教室の前方ではクラスの人気者が数人の女生徒に囲まれ、スケッチブックを開いて得意のイラストを披露している。

 談笑する同級生たちをぼんやり視界に入れながら、遼香は自分の席で、ひとり考えにふける。

 

――私らしさってなんだろう。

  私にしか、ないものって――

 

 憂鬱な気分で持参の弁当を開けようとしたとき、懐かしい声が響いた。

「遼香ーっ! 久しぶりー!」

 顔を上げると、つぶらな瞳と人懐っこい笑みに昔の面影を残す幼なじみが、机の間をすり抜け駆け寄ってきた。背はずいぶん伸びている。

 菜々実とは八年ぶりの再会だった。

 

 

「しばらくして、津島善子がスクールアイドルを始めたのを知って……」

 

 

 七月の宵、遼香は菜々実と、提灯(ちょうちん)の光が連なる狩野川風のテラスの桟敷席にいた。

 主目的は花火鑑賞ではなかった。

 対岸から川面(かわも)へせり出したステージで、九人に増強されたAqoursが、色とりどりに変化する照明に囲まれながら、メロディアスでエモーショナルな楽曲を華やかに歌い、舞う。曲の展開に合わせて、夕闇の空を鮮やかな大輪の花と破裂音が彩り、火薬の匂いが一帯に立ち込める。

「素敵……」

 隣で陶酔の声を漏らした菜々実の手からオペラグラスをひったくり、ステージの右手に位置する善子を追う。

 教室の隅で湿っぽく謎のオカルト本を読んでいた陰キャで孤独な同級生が、今やアイドル衣装に身を包み、華々しいパフォーマンスを繰り広げる。その姿は自信に満ち満ちてまぶしい。

 ゆっくりとオペラグラスから目を離し、遼香は呪った――きらびやかな善子を薄暗い客席でただ眺めているだけの我が身を。

 つい四ヶ月前までは徒党を組んで校内を闊歩し、カーストの頂から周りを見下ろしていた、しかし今では才媛ぞろいの特進コースに埋没し、地味なその他大勢の一人にすぎなくなった、そんな自分を。

 

――こんなの認めたくない。

  あの子ができるんだったら、私にだってできる。

  私だって輝ける。

 

  輝きたい! 

 

 歌が終わり、拍手が起こる。遼香は身動きできなかった。

 帰り道、遼香は視線を落としたまま、雑踏の中を菜々実と歩いた。

「同じ高校生とは思えなかったね、Aqoursって」

「……うん」

 生返事するのが精いっぱいだった。

「特に、センターで歌ってたポニーテールの人。大人っぽくて、身のこなしがきれいで、声もかわいくて。あんなふうに、私もステージで踊ってみたいな」

 菜々実の声が子供のように弾む。それは素朴な憧憬にすぎなかったのかもしれない、けれども、遼香の意志を固めるには十分だった。

 二人でテレビの前に立ち、流行りのアイドルの振りを見よう見まねで夢中になってトレースした、いつかの情景が鮮明によみがえってくる。

「……やろう」

「……え?」

 足を止め、握りしめた右手を胸に当てる。数歩先で振り返った菜々実を見据え、しっかりと、まっすぐな気持ちを伝えた。

「やろう、私たちも……スクールアイドル」

 

 

磯谷(いそや)は吉原と同じクラスで、曲が作れるって聞いて、無理を言って同好会に入ってもらいました。三人でラブライブにエントリーはしましたけど、事前審査で落とされて」

「その磯谷さんが転校しちゃって、入れ替わりに私たちAqoursが来て、善子ちゃんとも再会したんだね」

「……はい」

 

 

 春休みのある日、遼香と菜々実は「静真高等学校 浦の星女学院分校」の木札が掛かる門の前に立った。敷地の中では、浦の星と静真の生徒たちが協力しながら、(きた)る沼津駅前ライブ用の大道具を完成させつつある。

 崩れ落ちそうな木造のボロ校舎を目にして、遼香は憤りを隠さない。

「何考えてんだよ、保護者会のババアは! 部活が弱いからって、こんな場所に追いやることないだろ! 全国優勝した部だってあるのに!」

「でもさ、実績ある部とそうでない部が浦女とうちは真逆だよね」

「今のところはね。今に見てろよ」

 建物に入ると、とある一室の奥に、懐かしいお団子髪(シニヨン)を見つけた。地味な臙脂(えんじ)色のジャージを着て、窓際の明るみで黙々と針仕事をする津島善子――もの静かでどこか神秘的なたたずまいは、別れて一年たっても変わっていなかった。

「ごめん、ちょっと待ってて」

 小声で菜々実を廊下に待たせて、遼香はそろりそろりと歩み寄る。

 板張りの床がぎぃと鳴り、気づいた善子と視線がぶつかった。思わず足が止まる。

 遼香は、笑顔を作り、声をかけた。

「……元気そうじゃない?」

 

 

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