昼の海原は快活だ。窓からながめるエメラルドブルーの中、ザバアと飛び出す、巨大なムカデ。それを追いかける、ムカデよりも一回りおおきな海王類。
すこし手前の海面では、巨大な狼の上半身をもつ〈海獣〉がひとつ遠吠えをし、やってきた人間の船を止めている。
ふと、はるか水平線のまぎわで、暴風の柱がたちあがった。またたくまに育ちあがった灰色の円柱は、周囲のすべてを巻き上げて、ついには巨大なムカデと海王類さえ空中にうかばせる。
いつものグランドラインだった。いつだってにぎやかな、私の愛する海である。
ここで生まれそだった私からすれば、もうすっかり、これが普通の海だ。しかし、他の海とくらべれば〝異常〟なのは理解している。
これほど獰猛な海にかこまれながら、どうしてこのグランドラインで、人間が生きていけるのか。それは海とは打って変わり、陸の気候が、非常に安定しているためだ。
ここサン・ファルドが〈秋島〉と呼ばれるように、グランドラインの島々はそのほとんどが、〝固有の気候〟をたもっている。年間をつうじ、気温の変化はすくなく、天候の変化はほとんどない。
この特色をさして、グランドラインの島々は、〈春島〉〈夏島〉〈秋島〉〈冬島〉と分類されていた。
その基準は、レッドラインの上にある〈世界の中心の町・マリージョア〉にて観測される季節変化だ。
〈秋島〉サン・ファルドでは、〈マリージョア〉の秋の日の気候が、一年中つづくのである。
3月も終わりにさしかかると、秋晴れの日が続くようになっていた。どこか淋しげな、からりとした日差しが波をきらめかせている。ぽっかり空いた石壁の窓からは、枯葉のにおいと潮の香りが、ないまぜになって吹いてくる。
海に面した隠れ家は、浄水場の中にあった。石造りの建物は、ゴウゴウと水を吸い上げてはかすかに震える。
分厚い壁にふさがれて、建物の内部からこの部屋へとたどり着くことはできない。それでも水の轟きが、この部屋の中まで届くのだ。
それにかき消され、潮騒がきこえてこないことだけ、すこしさみしい。
今年に入ってからずっと、私はこの石壁の部屋に閉じこもっていた。時折、夜の海へ泳ぎに行くくらいで、あとは日がな一日、本を読み、窓から海をながめるだけ。
これまでの人生でもっとも、退屈な日々である。
いつもの私なら耐えられずに、とっくに海へと出ていただろう。はじめから陸に長居することもなかった。しかし、そうしないには理由がある。
退屈でよかったのだ。
今年だけは、退屈なままでよかったのに。
その願いは、一羽の青い鳥によって破られる。
ながめる窓の向こうから、よく晴れた空の一部が、飛びだしてくるようだった。
海を越えてきたのだろう。
透きとおる空色の、内側から光を放つ、風切羽。ながくたなびくその尾羽は、ふしぎと風がなくとも浮かびつづける。
南国の浅瀬をきりとって、太陽のかがやきを閉じ込めたような、ふしぎな鳥。
それはまっすぐ私にむかって滑空し、無骨な石の窓枠にとまった。
黄色い足が、石の上にカツンとおりたつ。高さ80センチほどの窓は、〝彼〟には少し窮屈そうだ。ジロリと私をねめつける瞳。
その体から、音もなく、炎があがる。
青い炎だった。
真昼の中でもはっきりと色のわかる、ことばにならぬ青さ。ぐにゃりと歪むのは光ではない、青い鳥の肉体そのものが、ひとりでに歪んでゆく。
鳥らしい、黄色くか細い足が、ムクリムクリと膨らんだ。
血肉が沸騰するかのように、膨張をくりかえす鳥のシルエット。
ファサリとひとひら、ながい羽根が床へとおちる。空色と陽ざしの色のまじった羽根は、はじめから幻だったかのようにとろけて消えた。
代わりに床へと降りたったのは、日に焼けた肌色の、男の足。
シャラリ。足首についた飾りがゆれる。
筋肉質なその足には似合わないはずのアクセサリーが、なぜかこの男にはよくなじむ。
特徴的な金髪のモヒカン頭は、いつも通り、セットされていないのだろう。剃りあげた頭のてっぺんから、あちらこちらへと髪の毛が飛び散っている。
ボタンが開け放たれたシャツの胸には、大きな刺青〈タトゥー〉。
紺の十字。
それにかぶさる、逆さ三日月。
男の肌に刻みこまれているそれは、大海賊〝白ヒゲ〟のシンボルだ。
青い鳥から、人間の男へ。
またたくまに姿を変えた、この男は、顔なじみだった。
白ヒゲ海賊団、一番隊隊長、〈不死鳥マルコ〉。
この海で、否。
この世でもっとも、恐れられる悪党。
〝海の皇帝〟と呼ばれるうちの一人、大海賊〈白ヒゲ〉の、〝右腕〟である。
「オメェがこんな胡散くせェ島に居るとはよい………一体なにを予知してた?」
酒と潮風に焼かれたしゃがれ声で、マルコはじろりと部屋をみまわす。気だるげな一重まぶたの下の目は、視線で人を突き刺すほどの威容を放っている。
ロッキングチェアから動かぬ私を、マルコは責めるようだった。
「突然、おれがやって来ても、驚かねェとは……。オヤジの言った通り……こうなることを〝知って〟たのかよい……!?」
「こうなること……?」
思いがけぬセリフに身を乗り出せば、マルコの目の下が、赤く腫れているのに気がついてしまう。
この世には、人知を超えた果実がある。
悪魔の実。
一度、それを口にした者は、超常の力を得る。
食せば、動物に変化する能力を手に入れる、ゾオン系・悪魔の実。
マルコはそのうちの、〝不死鳥〟へ変化する能力を手にした、〈悪魔の実の能力者〉の一人だ。
白ヒゲ海賊団のホームグラウンドは、グランドラインの後半。サン・ファルドが位置するグランドラインの前半からみれば、天を穿つ大陸、レッドラインによって分断されたその向こう側である。
マルコは、悪魔の実の能力で、鳥に姿を変え、この海を飛んで来たのだろう。
グランドラインの後半から、レッドラインをこえてまで。
大海賊の最高幹部が、自ら、わざわざ。
只事じゃないのはわかっている。しかしマルコが運んできた話の内容が、どうも、私の予想していた内容とちがうらしい。
「こうなるって………どういうことだ?」
マルコはじっと、私を睨んだ。鳥の姿になったときと、よく似通った、空色の瞳。
その奥には怒りのような、諦めのような、悲しみの苛立ちがある。
私はおもわず立ち上がった。
「………待て。白ヒゲのおやっさんから、聞いたんだな? 私の……〝予言〟のことを」
うなずきもしない男にむけて、ことばを紡ぐ。
「だったら………私の〝予言〟通りにはならなかったはずだ、その未来を、回避してもらうために、事前に、白ヒゲのおやっさんに、話をしたんだから」
マルコはまだうなずかない。私は知らぬ間に歩みより、いつのまにか、マルコの胸ぐらを掴んでいた。
ムリやりわし掴んだマルコのシャツが、歪む。手の中でボタンがひとつ、バキリと割れる。
「おい、マルコ………。そうだろ!?」
男の眉が、しかめられた。空色の目はそらされて、暗くよどむ。
はじけ飛んだボタンの破片が、石壁のどこかにカツンと当たる音がした。カツンカツンとはじかれて、やがて静まる。
「………ウチのオヤジ………〈白ヒゲ〉からの伝言だ。………10日前、サッチが死んだ……。そして、5日前、ウチの二番隊隊長、ポートガス・D・エースが、船を飛び出し………今どこにいるかもわからねェ」
のどが乾いた。手の感覚がなくなった。
サッチが、死んだ?
あの、エラの張った、アゴのしゃくれた、海賊らしくねぇほどにお人好しな、あのコックが。
サッチが死んだ?
「ふざけんなよ。んなワケねぇだろ。私は〝そうなる〟と、伝えてあったはずだ……〝そう〟ならねぇように動くと、おやっさんは言ってた。………だから〝そうなる〟ワケがねぇよ」
私より頭ひとつ分、マルコの背丈は大きい。下から男を見上げるが、視線はあわない。マルコは虚空を睨んでいる。
あれからもうじき、3年が経つのか。私は過去に3ヶ月ほど、白ヒゲ海賊団の本船に滞在していたことがある。
滞在中、マルコとはよく話をした。タチの悪いウソをつくような、バカな男じゃないと、知っている。
仲間が死んだ、などという、胸糞の悪いウソをつくような奴じゃない。
のどの奥は、魔界につながっているのだろうか。
「……殺されたのか」
おどろおどろしい声は、誰の声かと思ったら、私の声だった。
「サッチは、殺されたのか、だれに………」
うまれる前の記憶なのか、なんなのか、私の頭の中には昔から、〝学んだ覚えのない〟奇妙な知識があった。
この世界とはまったく異なる惑星、〈チキュウ〉の、さまざまな知識たち。
その中の一つ、チキュウで広く親しまれていた、とあるマンガ作品の舞台は、私の生きるこの世界に酷似している。
タイトルは〝ONE PIECE〟…………この世界、この時代、これから起こる事件たちの一部をつづった物語。
あのマンガの内容が、未来に対する〝予言〟となっていることは、これまでの人生の中で確認している。
〝ONE PIECE〟には、マルコという男も登場していた。サッチという男も登場していた。そして……サッチが死ぬことも、誰かに殺されることも、サッチを殺す相手のことも……記されていたのだ。
知っている。知っていた。だからこそ、そうならないよう、あらゆる手を打ってきた。
なのにどうして
手に燃えるような怒りがともる。両手をつかってシャツを引っ張り、マルコの視線を引きずり下ろす。
「サッチが、死んだだと」
潮風がふきこんでくる。男の髪がゆらりと震える。
「マルコ、てめぇ……サッチが死んだと、死んだと……言ったか?」
一層ちかづいたマルコの目は、赤く充血し、物を言わない。
私は今、混乱している。それを自覚している。それなのに手の震えはとまらず、支離滅裂なことばが口から出て行ってしまう。
わかってる。わかってる。マルコがそんなウソをつくはずがない。
だけど、でも………
白ヒゲの船にのっていたとき、私にもっともちょっかいをかけてきたのは、マルコではない。
腹の立つほど笑い上戸な、海のコック。
当時、まねかれざる客だった私のことを、白ヒゲのクルー達は遠巻きに警戒していた。私も私で、初対面の海賊たちと、馴れあうつもりはもっていなかった。
そんな中、おかまいなしに近づいてきたのが、サッチだ。
人の背中をバシバシ叩いて、あーだこーだと言いくるめては私を雑用にかりだして、拒絶の空気をかもしだす白ヒゲクルーたちの中に、嫌がる私をムリやり引き込み、やりたい放題してくれやがった、お節介ヤロウ。
あの頃の私は、人と笑いあうのが苦手だった。
きっとサッチの目には、意地をはり、はった意地の捨て方がわからなくなっている、不器用な小娘に見えたのだろう。
リーゼント頭をした海賊コックの、余計なお世話をたっぷりとうけたおかげで、たしかに私は、生きるのがすこし楽になった。
その間、〝お手伝い〟と称し、どれだけの芋を運ばされたか知れない。怪力男も嫌がるような重たい荷物を何百回と運ばされたのだ、いいや、運んでやったのだ。
貸し借りはとっくにチャラである。
あらためて感謝するつもりなど、サラサラない。サッチは恩人じゃねぇ、ただの友人。
またいつかいっしょに酒をのもうと、約束してわかれた、友だち。
相手は、海賊だ。いつ死んだっておかしくない。それでも私はなぜか、サッチに迫る、死の運命を知っていたのだ。
それを防ぐため、できることはした。
また必ず会えると、信じていた。
それなのに、サッチが、死んだ?
わかってる。マルコがわざわざ知らせにきたのだ。ウソや間違いなわけはない。だけど……
「マルコ!」
昼の12時を回ったらしい。ゴウゴウと響いてきていた浄水場の水の音が、ゆるやかに勢いをうしなって、止まる。
かき消されていた潮騒が、うっすらと耳に届きはじめる。部屋の外ではどこぞの海鳥が鳴いている。
マルコはぐしゃりと、顔をゆがめた。
「オメェも、泣いてくれるんだなァ……。サッチのために……おれたちの、仲間のために……! 泣いてくれるんだなァ……!」
目元を手でおおったマルコは、分厚い肩を震わせて、涙をこぼす。
ボタボタと、私の肩にも落ちてくる雫たち。
見下ろせば、私のTシャツの胸にも、雫の落ちたあとがある。
塩辛そうなその雨は、私の目からも降っていた。