1987年4月1日
名前というのは、人生において非常に大切なものだと思う。
かつては幼名や諱のような文化もあったが、現代では生まれたときに付けられたものと一生付き合っていくというのが一般的だろう。
それはとても掛け替えのないもので、色んな思いや願いを込められて託されるもの。
だというのに前世では通称DQN……もといキラキラネームと呼ばれる、「知ってる?改名って家庭裁判所で出来るんだよ?」と余計なお節介を焼きたくなるような、酷い名前を付けられる場合もある。
いや……訂正しよう。この世界のどこかにも恐らく、あったりするのだろう。多分。
そうは読まねぇだろ、という振り仮名が振られている、
漢字のチョイス、頭ハッピーセットかよと罵りたくなるような、
読み方が解らなくて嫌な思いをするのは珍地名だけで十分だろうに。
無難でいい。奇を衒わなくていいのだ。人名なんてものは。
個性が出るのと、悪目立ちするのは、全く違う別物なのだと。
心の底からそう思ってる。
だから────まさか自分自身の名前が、
今朝、両親が買い物のために外出した。俺抜きで。
連れていかれる予定だったが、一人で留守番をしてみたいと試しに言ってみると二つ返事でOKを貰えたのだ。
普段から年不相応に落ち着いているのを見せられているせいか、両親の判断基準がブレているような気がする。まぁ、結果オーライだ。
しかしそういう主張をしてみた割に、特にやりたい何かや特別な理由があって居残った訳ではない。家の中で、一人になれる時間が欲しいと漠然と思って行動しただけだった。
何より────子守から解放されて夫婦水入らずで過ごせる時間というのは、母親のストレス軽減に繋がるという見解がある事を知っていた。
健やかな家族関係を維持したい俺は、そういう気配りは欠かせなかった。
という訳で、特別やる事というものがないのだ。学習、運動、情報収集はしっかりと時間を取って継続的にやっている。
手持ち無沙汰に悩んでいると、ふと俺は未だに自分の名に宛がわれた漢字を知らなかったな、と思い至った。
うん……いやぁ……よくもおよそ3年半もの間、知りたいとも思わず、知ってしまう事もなく過ごせたな……と、我ながら呆れるばかりだ。
だが今までは、正直なところ興味がなかったと言うか、優先順位が高くなかったのだ。
勿論、
3歳半の子供が絶対読まないような難解な本や資料を読んだり、年齢不相応な運動や鍛錬をするときは徹底して親の目の届かないところでやってきた。
注意深く、周囲に気を配りつつ、だ。
名前を漢字で書けるという、早熟アピールが不要であったが故に、知ろうともしなかった。
だからこそ、今回は良い機会なのだろう。一度湧いた興味は止められない。
思い立ったが吉日という言葉もある。
俺は家宅捜査を即断即決し、そして────。
────正に、今。
俺は両親の寝室にあるタンスの前で打ちひしがれていた。
手に握るは母子健康手帳。
当然、表紙には俺の名前が記載されている訳だ。
そこには、四文字でこう書かれている。
【
「Oh……」
手帳が手から零れ落ちる。
思わず欧米的なオーバーリアクションで天井を仰ぎ、目を両手で覆い隠してしまえば、宙に放り出された手帳は必然そうもなろう。
衝撃的なものを見てしまった。逃避が必要だったのだ。
あぁ────今日はエイプリルフールだったな。
大正時代から続く由緒正しい行事である。当然、
しかしそれにしても……随分と質の悪いネタじゃないか……四月馬鹿特有のジョークとはいえ、コイツはキツイ……仕込みだよな?これ。ハ、ハハ。
そんじょそこらの怪談話なんて目じゃねぇぞオイ……嫌な汗が止まんねぇんだがよ……。
しかし……だがしかし。一度だけなら誤射もとい、目の錯覚ではないだろうか?
勇気を振り絞ってもう一度確認してみるべきでは?
深呼吸し、一拍置く。
俺は決意し、再び手帳を拾い上げた。
【
「
なんという……。
なんということでしょう……。
これが俺の名前に当てられた漢字だというのか。
神は死んだ。悪魔が微笑む時代だ。
とんでもなく酷い漢字チョイスだ……。
ある意味DQNネームより困ったモノだろう、これは。
こいつは俺、間違いなく学校とかで馬鹿にされそうじゃないか?ガキって思慮足りないし容赦もないし。
確かに……おかしくはない。常用漢字だし。響きもいいし、何よりエイジと読める。
前の世界でなら衛士と書いてエイジと呼ばせるのも、特に問題はなかっただろう。
というか実際に存在もしていた。歴史に名を残す人で、そういう名前の人が何人かいたのを覚えている。
けれども、だ……この世界でこの二文字が意味するものは、
人類の盾にして剣たる、選び抜かれた誉れ高き兵士達の名だ。
そういえば父は徴兵時に衛士適正ナシと判断されており、泣く泣く戦術機と携わることが出来る整備兵になったというエピソードがある。
この名前を付けた理由としては、息子に夢を継いで欲しいと言った所だろうか?
新生児に付けられる名前というのは世界や国家────そして、
俺はその風俗習慣の一環を、我が身を持って体験させられてしまったとでも言うのか。
それにしても職業の名前をそのままつけるのは流石にどうなんだよこれ。
端から捻る気なんて毛頭もない、ド直球ネーミングだ。
困り果てて頭痛がしてきた。
「……あがー……」
将来、ウサミミESP娘が呟くであろう呻き声を発しながら頭を抱える。
……このネーミング、両親が狙ったのだろうか?
似たような漢字構成で不殺と書いて殺さずとか読むのをとある剣客漫画で見かけた。
ならば不破と書いて破れずとでも読んでみようか。
なるほど、涙が出るほど完璧である。有り難くない事に。
死の八分を名前のご利益だけで突破できるのではないか、というプラシーボ効果が期待出来ちゃいそうなほどに素敵な名前だ。
ああ、衛士になれればの話だけどな。
まだなれるかどうか一切解らない段階だろうって話だ。
というかこの名前で衛士適正検査弾かれてみろ。赤っ恥なんてものじゃないぞ。それこそ改名ものだ。
そもそも、あの検査は努力とかそういったものを超越したところで適正が決定されていたような気がする。
一体何が要因となって適正があると判断されるのか謎だ。異常に優秀な三半規管? 尋常じゃなく突出した空間認識能力? さっぱり解らん。
どうせ後々徴兵される時に衛士適正検査は避けられない。だから適正があれば儲けもの程度に思うのが賢明か。
その結果次第では、衛士になるという選択肢が俺の前に広がる一つの可能性としてあるだろう。そのぐらいの認識でいい。
忘れられがちだが衛士というのはエリートコースの一つ。歩めるならば歩んでみるのもいいだろう。
俺の目的達成のためにも、階級が上がりやすいのに越したことはない。
だが、その道は極めて法外なチップを要求されるのを決して忘れてはいけない。
掛け金は俺の命。そしてオッズは大穴もいいところ。なんてデンジャラスなコースだろう。
BETAに貪られて二階級特進なんぞ御免被る。
お父様、お母様。そんな茨の道を、積極的に歩めと仰いますか?
二人が帰ってきたら必ず、どういった経緯でこんな名前をつけたのか、問い質してやるのだ。
俺は決意を胸に居間にて両親を待つことにした。
「まぁ────夕方まで、帰ってこないんだが」
息巻いて握った手帳を持ったまま居間に来たのがいいが、再び手持ち無沙汰になってしまった。
……スーパー尋問タイムまでまだまだ時間がある。
さて、どうするか。特別することもない。
既にこの年齢で出来そうな鍛錬は一定量、継続的に行っている。
本格的に兵士の体を作るようなトレーニングは、流石に余りにも早すぎる。
こんな時期から無茶をやって体を壊すのも莫迦らしい。
体を労う事も鍛錬の内、というヤツだ。
だったら脳のトレーニングでもするか。最寄の図書館なら集中して勉強が出来る。
しかし、留守番を仰せ付かった身としては外に足を運ぶ訳にも行かないか。
なら家の中で……と思ったが、これが無理なのだ。今この家に存在するその手の類の書物など既に手垢がつくほどやり尽くした。
片っ端から読み漁った。整備士だった父が拵えたであろう戦術機の整備ノートのようなものすら。
知識だけなら第一世代機の整備工程を理解出来てしまいそうなレベルで、
……時間は成るべく有益に使いたいところなのだが、時には怠惰に過ごしてみるのもいいだろうか。
と言っても、時代や世界情勢のこともあり、中流家庭の我が家にある娯楽なんぞTVやラジオがいいところである。
80年代ということもあって、ネットのような上等なものは当然ない。
将来的に普及する可能性についても、あまり期待しすぎないほうがよいだろう。
この世界では当分の間、TVとラジオが大衆にとって最も馴染み深い娯楽家電となるだろう。
まぁ俺の場合はその二つに新聞を加え、情報収集としての意味合いで使うことの方が圧倒的に多いが。
政治、軍事、世界情勢……調べなければいけないことは依然として数多ある。
歴史の流れはある程度把握してる。だが逆に言えばある程度でしかない。圧倒的に空白の時間が多いのだ。
それを埋めるためには多種多様な情報を集めざるを得ず、娯楽に費やす時間はそうあるものでもない。
ただ最近始まった国営放送のラジオドラマ「いつか君と…」。
これだけは毎週欠かさず、純粋に楽しむために聴いている。
このラジオドラマは衛士と整備士の恋物語だ。こいつが中々面白いのである。
まぁ父曰く、整備というのは激務であって衛士と恋愛する暇があるならその時間で体を休めて作業効率を上げた方がいい、とか夢もヘッタクレもないことを懇切丁寧に教えてくれた。
その直後、希望を打ち砕くような教育に悪い情報を与えるなと母からキツくお灸を据えられていたのにはちょっと同情した。
けど残念だ。今日は「いつか君と…」の放送日じゃない。
この時間だと他に何かやってるだろうか。チャンネルを回し、周波数を弄る。
『それでは明日の天気図です……』
「……まだニュースがやってるだけマシだと思っておくか」
情報集めの時間だ。
さて、何か目新しいことはないものか。
今年に入ってから政治関連でのニュースはいくつかあったが、肝心の軍事関連はさっぱりである。
F-15が技術検証という名目で今年中に試験導入されるはずなのだが、機密やら何やらに引っかかっているのか動きが全く見えない。
まだ4月に入ったばかり……今年の半ばすら過ぎていないが、それを考慮しても何らかの情報は既に流れていておかしくない。
大して有益な情報でないと判断されたのか? 確かに放送で国民に伝えてどうなるといった類の情報ではないが……。
何はともあれ早く耳に入れたいのである。そうなる、と解っていても確認しないと気になってしまうのだ。
出来るだけ早急に続報が欲しい。
しかし軍事関連と言えば去年の日米合同演習だ。中継こそなかったが案の定、記録映像をニュースで流してくれた。
TV局、有能である。やってくれるものなんだな。
そのおかげで巌谷大尉の活躍を、画面越しとは言えこの目で見ることができた。
やはり性能で劣る機体で格上の機体相手に、腕の差で勝つというのは胸に込み上げてくるものがある。
それにあそこで負けていれば純国産機開発の道が絶たれていた可能性は極めて高い。
あの一勝は日本帝国にとって、とても価値のある一勝だった。
『続いてのニュー……去年……れた……次期主力戦術機選……国防省は……』
……噂をすれば何とやら。TVに感あり。
ニュースキャスターが興味深い言葉を放ってくれた。タイミングが完璧である。
これで漸く技術蓄積が足りずに停滞していた不知火の開発が進み始める訳か。
でも、そこまでやっても結局は拡張性の確保までには至らなかったんだよな……。
こればかりは日本の技術力が純粋に足りなかったからで、俺にどうこう出来ることでもないから仕方ないが。
俺一人がどうこうしたところで、技術力の底上げなんて出来るわけがない。
それは、ただ只管にトライアル&エラーの繰り返しをすることでしか解決出来ない、とても尊いものだ。
これから富嶽、光菱、河崎の三社はF-15のライセンス生産で技術力を蓄積させ、そして見事に不知火を作り上げる。
だから結果が解っていたとしても、今は純国産機開発への第一歩が始まったことに喜んで───。
『────本日付けで
「────────────────────────は?」
……何つった今。
ちょっと待て。
F-15と────
何故、F-16まで!?
待ってくれ、意味が解らない。知らない、俺はそんなの知らない!
試験導入?何故だ、そもそも最終選考に残っていたのはF-15とF-14だろ。
なのに何故ここでF-16の名前が出てくる?
どういうことなんだ……何で、こんなことになってる!?
『────比較検証トライアルの結果を熟慮した後に実戦部隊へと引渡される模様です。今回の余りにも迅速な実戦運用の流れは、激化するBETAの東進を危険視した国防省の────』
───待てよ、待ってくれ!
有り得ない、もうこの段階で既に実戦部隊引渡しが確定しているだと!?
初めは技術検証目的だったはずだろ────ッ!!
ギシリと、TVに押し当てた両手が軋む。
────動揺のあまり、興奮して無意識にTVに掴みかかっていたようだ。
「……畜生ッ!何なんだよ、これは……!」
頭がおかしくなりそうだ。悪夢だ……悪夢であって欲しい……けれど、想像以上に力を入れてしまっていたのか両手が痛む。
……紛れも無い、現実なんだな。
認めたくない、これを認めたら、俺はこれからどうすればいいのか解らなくなる。
「───ッ……何、取り乱してんだ……」
頭を冷やそう……まずは一度落ち着いて自分の知っている───いや、
日本は停滞した国産機開発のために技術検証の名目でF-14とF-15から後者を選抜し、12機を試験導入。後に技術格差を目の当たりにして188機を追加受注、最終的には予定調達機数を絞って120機のF-15を配備することになる。
……蓋を開けてみればどうだ。
実戦部隊引渡し前提でのF-15とF-16の比較検証トライアルがこれから始まる?
俺の知っているオルタネイティヴ、アンリミテッドの歴史にはこんなことはなかった。
F-15Jしか存在しておらず、F-16なんて影も形もなかった。
第一、F-16は次期主力戦術機としてエントリーすらしていなかった……していなかった、
確かに、時系列的には矛盾はない。F-16は去年に米国で実戦配備され、それと同時に他国への輸出を精力的に行った。
今この段階では特に居座古座も起きておらず、イデオロギー関連で両国────日本と米国の関係はまだ良好の範疇だ。
F-4導入時に欧州の戦況悪化で、後回しにされたことを根に持ってる層は少なからずいるが、深刻という程ではない。
だから日本帝国の生産ラインを巻き込んで、F-16の絶対数を早急に増やしたいという目論見が存在するという可能性自体は、別に不思議ではない。
しかしまだ1年しか経っていないのにこれは異常な速度だろ? 余りにもトントン拍子に事が進み過ぎている。
一体いつから水面下で調整していたというのか。
頭が突撃級の前面並に硬いエセ国粋主義の老害だって相当いるはずのに。
───いや。もっと根本的な問題に注視すべきだ。
そもそもこの歴史じゃ、オルタネイティヴ、アンリミテッドが始まる未来へと────
「……待てよ、おい、まさか……」
そう。オルタネイティヴでもアンリミテッドでもない。
似て非なる未来、全く異なる未来へ繋がる歴史を辿るというのなら。
「……そんな、嘘だろ……ッ」
怖い。震えが止まらない。
「────だとすれば、この世界は」
どうしてこうなるのだろう。
俺のような異分子が紛れ込んだせいなのだろうか。
今回のことは単なる予兆に過ぎないとでも言うのか。
そして、これから更なる未知の深淵へと突き進んで行くのか。
この世界は……オルタネイティヴやアンリミテッドの過去を基にしながらも、既に道を違えてしまっていた────。
「───────
俺の切り札であるはずの『未来情報』が、単なる『正史の歴史』に変わった瞬間だった。