幻影戦記~氷と炎の鎮魂歌~   作:ロバート・こうじ

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4話 時の終わりと始まり

2006年5月30日

 

東京都中央区にある葛城道場の二階にある大広間は好気と異物が入り混じっていた。大広間に敷き詰められた緑の畳は門下生達によって、埃や木くずは一つもなく、部屋の隅には空気洗浄機が備えてある。これが7年前まで、悪評だらけの道場とは誰も思わない。

 

中央に竹刀を置いた小学生を、正座をした高校生から大学生までの人達が首を伸ばして見ようとしている。

葛城道場の試験監督を務めた朝田響子に、その場にいた門下生は冷ややかな視線を12歳の少年に向けていた。なぜなら、事前に響子は自分の息子である朝田柚季が来ると話していたからだ。新しい人の品定めをするよりも、門下生たちは彼に鬱屈した気持ちを向けずにはいられなかった。

 

――どうせ試験は易しいものになるんだろ。俺(私)の時は厳しかったのに…

 

皆は同時に同じことを思った。親が子を甘くする卑賎さから実力以上の所に入れ易くする行為は社会の在り方として、ここだけの話では無い。しかし、響子の反応は意外なものだった。

 

「これより、入隊試験を始めます。まずは、ウチの門下生と一緒のペースで一時間以内に10キロのランニングを始めてください」

「――は!?師範、あの子は小学生ですよ?それに、俺達も走るのですか?」

「これは入隊試験の準備運動です。もし門下生となれば年齢など関係ない。それに、身体を温める意味でもランニングは効果的なのよ」

 

恰幅の良い門下生の意図を得ない師範の宣言に、他の者も躊躇を隠せない。師範の準備運動は今に始まったことではないのだが、入隊試験前の少年に自衛隊と同じ距離を走らせるやり方には、油断していた門下生の面を食らわせた。

 

「はい。それじゃあ、一時間以内に15キロのランニングね。私は自転車で後ろを見張ってるわ。皆、頑張るのよ~」

 

門下生達は大急ぎで靴入れのロッカーに向かう。急がなければ、師範はランニングの距離を増やして、さらに練習量も増やすかもしれなかった。高校生や大学生の入り混じった集団に、彼はテクテク、テクテク、全身の汗を流して足を早めた。

門下生の主将は折り返しの7キロ地点から誰かついてくるように聞こえる足音に、彼は後ろを振り返った。軽い足音に主将の薄い影を踏みながらついて来ている柚季がいた。他の集団は彼の後ろを引き離し、自分の速度で走っている。早く着けばそれだけ時間を有意義に使えると、彼はさらに足を早めて、その人影を引き離そうとする。

 

葛城道場の前に給水をする主将は、ほぼ同着して仰向けに寝転ぶ柚季の様子に、小学生の身体能力とは見えていなかった。夢中に走っていた柚季に、同じペースで走りぬいて仰向けになる少年を見ると、紙コップに給水用の水を入れて差し出す。

 

「飲むか?」

「うみゅ…」

 

柚季は身体を起こして、水を飲みほす。主将はタオルで全身を拭いていると、他の門下生もランニングを終えて戻ってきた。

 

「はい、そのまま公園に集合!駆け足!!」

 

自転車を駐輪場に止めて戻った師範は言う。

 

「――皆はそのまま待機!!これから入隊試験の反射神経部門を始めます。私と主将で交互に木製のブーメランを貴方に向けて投げます。50本当てますから、その内の20本を防いで下さい」

「師範。彼に休憩はありませんか?」

「連戦になる状況もあれば、疲れていても相応の対応ができなければなりません。むしろ、彼が疲れている機会こそ、本当の実力が見極められます」

 

 交互に主将と師範は、全力で木製のブーメランを投げつけ、柚季は竹刀の柄を握り締めてブーメランを(しのぎ)に当てて軌道を逸らす。やがて目標の20本になっても、師範は投げ続けてしまい、50本のブーメランを全て防ぐまで終わらなかった。

 その後、スクワットや腕立ての筋肉部門、道場で門下生五人抜きの実技部門の試験内容を言い放つ。門下生達は入隊させる気を微塵もない試験に好気や怪異な視線から、次第に哀れな視線に変わる。

 

 本来の入隊試験は準備運動に一時間以内に10キロのランニングと門下生の三人と打ち合いを行い、師範が適性を判断するものであった。筋肉部門を終えた柚季に、淡々と平坦に、師範は息のあがっていない門下生を選ぶ。竹刀を差し出された門下生は戸惑い、視線を泳がせる。道場に向かう師範に、言いよどみながら話し始めた。

 

「師範…その…よろしいのでしょうか?」

「…厳しいけど、これは入隊試験も兼ねて、あの子がどれくらいマシになったか見極める意味もあるの。それに、これで戦えないなら…今はそれまでだったと思うだけ。たくさん失敗して――その失敗を励みにすればいい。どのみち悪い方向には行かないわ」

 

師範の気が悪くならない内にと、門下生は竹刀を握り直すとすぐに柚季と向かい合った。昼に近い時間帯に、外は少し曇っている。雨は降る様子はないが、少しだけ湿っ気がある。畳に足で横線を確認して数分。向かい合った二人は響子の掛け声で互いに地を蹴った。

 

――最終的に柚季は試験を突破した。

 

 それ以降、最年少で入隊の決まった柚季は実力と人懐っこい性格で一年後にレギュラーとなるも、誰一人として意義は無かった。中学生になるまでの柚季は、様々な試合の土地で、いろんな人々や出来事に遭遇し、成熟した精神性を持った男の子に成長していた。

 実力以上に、他人の心情を想う言動に他の門下生は惹かれ、他者の自我を鼓舞していく姿は、次期大将のありさまであった。

 

 

2008年10月18日

 

朝田柚季はいろいろな意味で、普通の男の子とはいい難かった。

 

 小学校高学年から運動の代わりに独学で剣道の修行を重ね、遂には中学一年から剣道部の補欠を務め、葛城道場の総大将を任せられるまでに至った経歴がある。中学生の同期らは柚季個人を認めず、世間の言う親の七光りとコネで成り上がった卑怯者のレッテルを信じていた。

 確かに、葛城道場は過去に多くのスキャンダルを引き起こした有名な道場だ。元々の評判は地に落ちており、師範の朝田響子による功績で立て直されるも、注目を浴びる程に過去のスキャンダルも広まっていた。また葛城道場に所属する柚季は大将戦になる前に勝負が決まってしまう場面ばかりで、戦意のない相手に実力を半分も出さずに勝てるからだ。

 

社会の汚点はネットやテレビの普及を機に、真実を詳しく知りたい好奇心でなく、名前と悪い噂を誰かに広める行為から刺激を得れば、何も知らない受け手の良い暇つぶしとなる。柚季自身は、それを憤懣たるやるせない日々をのらりくらりと躱して過ごしていた。

 

 当時小学生の柚季は葛城道場の大門をくぐり、入隊試験を合格した彼にとっては中学生の先輩が賄賂やおべっかで監督の評価を上げてレギュラーになるよう腐心してきた連中に、独学で学んできた柚季とは実力や格差がつく。書類一枚で入部が決まる中学の剣道と、倍率の高い入隊試験を突破して入隊が決まる剣道では優劣は概ね決定していた。

 久しぶりに何の予定も入っていない朝田柚季は、門下生達の長所を一貫して伸ばす練習メニューをノートパソコンでまとめていた。十人分の練習メニューを書いていると、閉めているドアから一定の音が絶え間なく聞こえてくる。少しうめくも、区切りもいいから今日の課題は終わりにした。せっかくの休みに気分転換をしなければ損というものだ。

部屋に立て掛けてあるアコースティックギターをチラリと見ると、柚季は音のする方に向かった。

 

 

 師範である朝田響子の息子である彼の家は、母親の所属する葛城道場を成り上がらせた功績があっても、質素な二階建ての木造建築に住んでいる。誇らしい所といえば、家族にプライベート用の個室がある程度であり、それも竹刀を素振りする響子の掛け声と、父親の幸一によるエレキギターの音で、ちょっとした軽音の絶えない家庭だ。今日も、空いたドアから竹刀で風をひゅうと唸らせている。

 

「ふん!ふん!ふん!」

「母さん、今日も張り切ってるね」

「あ、ごめん。柚季、ちょっと素振りの音がうるさかった?」

「いや…どっちかと言えば、ふんふんの方だよ。いつもやっているけど、日課なの?」

 

柚季は安心させようと笑みを返した。

 

「そうよ~毎日の積み重ねが大事なんだから。少し抑えようか」

「大丈夫だよ。部屋でヘッドホンするし…構わず続けていいよ」

 

柚季はそれに答えた。響子は首を振り、扉を閉めると、再び軽快な素振りと掛け声を響かせる。

 

Ура(ウラー)Ура(ウラ―)Ура(ウラ―)!」

「…掛け声の問題じゃないんだけどな。何でロシア語?」

 

 深々と嘆息した柚季は部屋の椅子に腰を掛けると、アコースティックギターの弦を弾きながら、ヘッドホンから流れる音楽を楽譜に起こしていく。

 人間は一つのことのみに集中し続けることはない。何かしらの興味や関心を寄せて複合こそが成長にあり、固着のし過ぎは判断を衰えさせ、成長の可能性を潰させる――それはあくまでも傾向であり、裏返せば一般論に過ぎない。

 

世間から朝田響子の息子である朝田柚季は、親と同様に剣道をするべきという話を耳にする。柚季自身は剣道の枠組みに師範である母の看板を背負う呆然としない一体感だった。だが、様々な場所を訪れ、様々な物に触れ合う内に一般論は持論として妙に馴染んでいた。

 

 試合会場に向かう道中に土地や文化の中でも建物や自然以上に、音楽に居心地の良さを感じていた。刀は風を切り上げるたびに、心を奪われ、彼方へと想いを馳せられるが、音楽はまるで風に包まれて自然の一部となったようになる。

 楽譜起こしを終えれば、ただ何となく気分転換に街に出かけてくる、と父親に声をかけると二つ返事で承諾した。地元の閑散とした緑のある場に、コンビニや食料品店で暇をつぶせないのは当然で、食べ歩きをするか、剣道か音楽の書籍を見つけたいという目的が決まっていなければ、街に着いてから決めようとしていた。

 

 

日曜日の昼、電車に揺られて着いた繁華街の奥行きを覗こうとするとどこまでも続いているようだ。人混みの中を歩いていると徐々に意識は自分の内面に向かっていく。こうして人はいるのに独りよがりな感じがするのは何故だろう。人混みから安全地帯に逃げた柚季は、意識を外側に向け始めると、二人の大人に声を掛けられた。

 

「すみません。ちょっとよろしいですか」

「えぇ、いいですよ。どうかしました?」

「私達は、この辺りは初めてでして…この辺りに赤ちゃん用のお店を知りませんか?無ければ、本屋でもいいです」

 

赤ん坊のお店か本屋に行く二人は夫婦なのだろうか。もしや、お互いに不倫関係ではないのか。一瞬だけ連想した馬鹿馬鹿しい思考を辞めて、二人の顔を見る。ほっそりとした痩型に、全体的にスラリとした印象を受ける中性的な顔つきな男性に、女性のほうは標準的な体形で、短髪で茶色の髪は若々しくうっすらと化粧をした頬をしている。

 

「ここの繁華街を越えて道路を渡った場所の近くに小さなデパートがありますが、ナビでも分かりにくい場所です。僕も本屋に用がありますから、一緒に行きますよ」

「それは助かります。お願いしますね」

 

三人は人混みを注意しながら歩くも、歩くたびに肩が当たりそうになるほど窮屈さに柚季は早々と立ち去りたかった。ようやく広々とした道で信号待ちをしている時に、ふと男性に話しかける。

 

「ちょっと踏み込んだ話ですが、赤ちゃん用具を買うのは…お子さんが生まれたからですよね。それは最近ですか」

「一週間前に生まれたばかりだよ。葵と前から名前を話し合っていたから――あぁ、葵は妻の名前だ。嬉しくて今日は、病院で和人の様子を見た帰りのついでに、買い揃えようと思って」

「ホントにこの人はマイペースでね。昔からちっとも変わらないの。急に、日用品を買い揃えようと言い出した癖に、ここの場所は初めてで分からなかったのよ」

「えっ!?」

 

思わず、大きな声が出た。

 

「ほら、見なさい。ほれ、見なさい。これが普通の人の反応よ。いっつも、いきなりで準備もしないで当てずっぽうなんだから」

「まあまあ。葵がしっかりしてくれるお蔭で、無謀でも何とかなるって思わせてくれるからだ。逆に葵じゃなかったら、こんな風なことはしないよ」

「…何言ってるの!私だって、行人さんじゃなかったら付いていかないから」

 

喧嘩をしているようで、第三者の柚季からは客観的にただイチャついているようにしか見えなかった。しかし、悪い気はしない。中学校の同級生は悪い噂を信じているせいか、彼女はおろか、仲の良い友人もいない柚季には微笑ましい光景であり、彼の願望でもあった。

 

 講師でも関わりを拒絶されていた柚季は入学した半年後に、生徒のイタズラで冬季試験のカンニング疑惑を擦り付けられ、一時期は退学の危機もあった。その時は、学校指定の小型カメラの映像をまとめた情報でアリバイを証明し、退学も免れた。裏切りにも、柚季はめげずに人との関わりを諦めなかった。

 人は簡単に嘘に騙される弱さの他にも人を信じる強い心がある――と、柚季は固く信じて疑わなかったし、自らが率先して行動を起こせば認識は変わると、同級生との会話をするよう努めてきた。

 

しかし、現実はどこまでも過酷で残酷だった。

 

 カンニング疑惑で柚季を退学にできなかった事態をおもしろくない生徒達は、周囲を巻き込んで自分達に都合の良い噂を流し始めた。高貴な家柄を鼻にかける優遇生と、優秀な血筋を引いている優等生や学年で一番の秀才への取り巻きから柚季に対するヘイトはより拍車がかかり、初対面の人でも脅すように睨まれたし、柚季の学校生活はひどくなった。

 柚季は講師の授業でも、あの息の詰まるような雰囲気やニタニタした笑みを、なんとか無視しようと努力するのがうんざりだった。入学して一年が経とうとするも、早くも転校か中退か、はたまた飛び級での卒業を画策しようとしていた。

 

「はい!信号が青になりましたよ。渡りましょうか」

 

 繁華街の中央交差点が、多くの車を行き来した後、ようやく信号は青に変わり、柚季は後方に移動する。どうにも赤ん坊を産んだ幸せの絶頂なのか、浮ついた感じが気になっていた。周囲の安全確認もあるが、往来時にスリにでも遭えばつまらない買い物となるに違いない。

 

――頼まれた以上は、仲の良い夫婦の買い物を何とか楽しんでもらいたかった。

 

 歩道の半分を渡り切った柚季は、中央分離帯の反対から速度を落としていない車に、竹刀を振り下ろされるような冷気を感じ取った。

 

「下がって!」

「え?」

 

 突然の警報を分かりかねない夫婦は呆気にとられるのも構わず、柚季は乱暴に背後から夫婦の服を掴み、片足を踏ん張る。両腕で大人を引き寄せた少年の身体は、前へと進む。

 後ろに引かれた葵が叫んだとき、目の前の人物は人影のように消えた。鉄製の白銀狼に襲われて殴られると、柚季は内部から掻き乱される浮遊感に必死にアスファルトの感触に集中する。次第に手足は痺れ、内臓と地の感覚は一つになっていく。瞼を閉じていないにも関わらずに奥行きの見えない真っ暗な景色に聴覚は一切の音を受け付けない。

 

ただ、温かい水に全身を浸されていた。

 

 

警察による鑑定により、事情聴取から被害者は鳴坂葵・鳴坂行人は打撲と軽傷。朝田柚季は意識不明の重症となる。車を運転していた菊岡誠二郎は18歳であり、免許を取ったばかりの青年だ。素性を調べれば菊岡の父は陸上自衛隊の陸将を務めている。この人物に警察は難色を示した。最も階級の高い陸上幕僚長に近い人物であり、政権に太いパイプを持っていることから、下手をすれば警察自体が解体されかねないのだ。

電話で息子の父親に事の成り行きを伝えた警察は、彼の言葉に身の凍る思いがした。

 

「私の息子はまだ若い。それに今回は車のブレーキの故障が原因ではないか。たかだかブレーキ故障と言う他人のミスで、子の輝かしい未来を奪うのは可笑しい話ではないのかね」

 

 検察官からの電話を一方的に切った彼は、次に重傷者の治療に切り替え、専属の弁護士に電話を入れる。弁護士には菊岡に関する全ての情報隠滅を依頼した。さらに、国会で機密に計画しているとある実験――クライオニクス実験を車に轢かれた死に体で試そうと提案した。実験自体は社会を食いつぶす寄生虫に行うも、電圧コントロールの乱れから失敗に終わっている。だが、彼には今度こそ成功する自信があった。

 

「死に体の治療についてだが、私の知り合いに電子設計に詳しい人物がいる。幼稚園に入る予定の娘がいるそうだが、共働きをしていた妻に先立たれた男だ。若くして大学教授をしておる青二才だが電子工学の発表が上手くいかずに、金もなくて貧しいはず。普段であれば必ず断るが――妻と死別して弱り、娘の養育費を稼げなければならない環境では、すぐに飛びつくだろう」

「分かりました。示談につきましては、こちらにお任せください」

 

彼は携帯電話を操作し、その人物に連絡した。

 

「もしもし。今の時間は良いかな――重村くん」

 

 電話越しから張りの無い声に、彼はニンマリと笑う。ここまで弱りきっておれば、実験に協力し、彼には安定した収入と娘の平穏が約束される。成功した暁には、政権内での名声を得られれば、息子の誠二郎は政界へと根回しを行え、菊岡家は安泰となる。

 さらに、クライオニクス実験で被験者は亡くなっても、三年間だけ継続すれば国の認可がおり、日本の医療は世界に注目され、治療が困難な様々な病気の医療実験を行える。全てに得のあるビジネスの成功に、彼は上機嫌で対話を繰り返した。

 

 

2022年10月13日

 

風も匂いも感じない暗い大地。見渡すかぎりに奥行きを感じない空箱。ただ、青白い画面だけが現実の様子を映し出してくれる。狭い部屋に押し込められた場所で体育座りをする柚季は、その画面を茫然と眺めていた。

 

意識を無くした日から、いくつの時間と月日が経ったのだろう。初めてこの空箱にいた時は、取り乱した。画面越しに白衣を着た医師から、クライオニクス実験の子細を事務的に淡々と語られた日には、言葉は頭から抜けていたし、誰もいないのを確認してから堪えきれない嗚咽を漏らした。

 

 無限にある時間に現実と向き合って来れば気持ちが楽になり、初日ほどは落ち着いた。だが、一人になれば自然に流れ落ちる涙があり、それを決まって止めようとはしない。たった一人だけ時の流れに取り残されたこの場所では、何をしても空腹は感じず、眠れることもない。無限にある時間に、柚季は思い起こす。家族や葛城道場の仲間との日々を。勝手にいなくなってしまったことを。いつも通りの日常を送れると思い、家族と気楽にいたことを。

 ここは自分の愚かさを許していい。永遠にして瞬間の時間、安楽という名の罪悪感で――朝田柚季は涙に暮れて懺悔し続ける。もう戻れない日々に後悔をのせて。誰もいない孤独に怯えて。

 

 

2022年11月6日

 

 睡眠や空腹の感じなさにつまらなさを高じていると、外の映像をスライドさせて新しい刺激を模索したくなる。どことなく住みにくさを紛らわそうと悟った時、詩や音が生まれて、一つの音楽を完成させていた。また、プログラムの木刀をインストールさせてもらい、素振りや試合のデモンストレーションで暇を潰す日々を過ごした。

 今日もスライドさせていると、白衣男性の画面に差し替わり、その医師と向き合う。身体の定期検診と思っていた医師の声は、予期していた柚季の要件とは違っていた。

 

「そーどあーと・おんらいん…ですか」

「次世代型VRMMORPGだよ。聴覚、味覚、視覚、触覚、嗅覚――人間の持つ五感の全てを感じられるゲームでね。今日はその稼働日で、世間ではその話題で持ちきりだよ」

「へぇ~先生も興味あるんです?」

「私はそうでもないよ。ただ、このゲームは現実世界に近い動作で仮想世界を楽しめるからね。医師としては、これが発展してくれれば、四肢の動かせない子どものリハビリになるんじゃないか…と興味はあるかな」

 

と口の内で静かに言い、右手からゲームソフトのパッケージを柚季にも見えるように向け、

 

「この病院でも、リハビリを兼ねてゲームのソフトを支給してもらってね。何人か声を掛けているのだが…柚季君はどうだ?」

「え?僕がですか?」

「君は剣道をしていたのだろう?このゲームは主に剣を使うらしくてね。良ければやってみないかい?」

 

ゲーム自体は詳しいことはないも、この時ばかりは好奇心に胸を高鳴らせて、柚季は剣を扱う世界を思い描いていた。剣を使う世界とはどんな情景が心を揺り動かすのだろう。仮想世界の太陽は肌に熱を持つのか。風は身体を吹き抜けるのか。ここで暇を潰すより、プレイヤーと交流をしながら新しいゲームで剣の感覚を取り戻す方が、有意義であると選択した。

 

「分かりました。是非、お願いします」

「分かったよ。柚季君の使っている機械はメディキュボイドと言ってね。医療用だが、ソフトを接続すれば遊べるものだ。おっとこうしている間に時間がきたし――早速、繋げよう」

 

医師はゲームソフトをコンピューターの取り出し口に入れる。ロード画面に身体を引き寄せられるような感覚に、意識を手放した。

 

 

 青い光に包まれながら視界に飛び込んでくるのは、18世紀の中世ヨーロッパを意識したと思われる街並みに降り立った。ここはソードアート・オンラインが舞台、浮遊城アインクラッドの最下層、「はじまりの街」の中央広場である。

 周りを見渡せば肌色のレンガ通りに黒い四角柱のオブジェ。そして黒い天上の背後には黒いドームに、プレイヤーにアイテムを薦める商人などが視界一杯に広がっていた。

 

「分からない事ばかりだから情報が欲しいなぁ。できれば、ゲームに慣れている人に声を掛けて付いていきたい…しっかし、皆が同じ顔に見えるし、誰がそうなのか分からないな」

 

 全身をメディキュボイドで覆われてログインしたプレイヤー名『ユズル』は、名前を登録しただけであり、ゲームで自身の分身をアバターとして作成する必要はない。顔は現実世界と大差はないも、黒い艶のある長髪は決定的に違っていた。

 後ろに長く伸びた髪はサラリとした鈴の音を鳴らせ、いつまでも撫でていたくなるほどの柔らかな毛をなびかせる。とはいえ、半ばこのままでは情報を集められないと途方にも暮れていた。

 

「おーい、そこのあんた!」

「え、俺のことか?」

 

広場でも軽快な声にユズルはその声の主を探して周囲を見渡す。背後から、声を掛けられた目つきの凛々しいプレイヤーは振り向いてから困惑した。赤いバンダナに爽やかな顔立ちの目立つプレイヤーからの興奮気味さを控えながら言う。

 

「あぁ、あんただ。迷いなく外に向かおうとするあたり、βテスターだろ」

「まあそうだけど…」

「おぉ、それなら話は早い。いきなりで悪いが俺VRゲーム自体が初めてでな、色々教えてくれ」

 

ユズルはすぐ、二人のプレイヤーに向かって走り出した。。

 

「すいませーん、自分も初めてで…よければ混ぜてください」

 

と、わざと大きな声で二人の足を止める。赤いバンダナのプレイヤーは少し驚いた顔をするも、しげしげとユズルを見つめていた。

 

「俺は一緒でも大丈夫だが、キリトはどうだ」

「別にいいぞ、クライン。俺の名前は…」

「そっちがクラインで、あなたがキリトだね」

 

何だか久しぶりの感覚だ。ずっと一人だったせいか、嬉しさのあまりに相手の話を聞き終える前に答えてしまう。そんな心情のユズルに、キリトは困惑した風に口をへの字に曲げた。

 

「えっと、そっちの名前は何だ?」

「そうだった。まだ自己紹介をしていなかった。僕はユズルだよ、よろしくね」

 

 長髪の少年――ユズルははにかみながら答える。少年は知らない。目の前にいるキリトこそ、かつて交通事故から守った鳴坂葵と鳴坂行人の子どもであることを。

 プレイヤー名『キリト』――鳴坂和人は知らない。この同い年の少年が自分の運命を変えた恩人であることを。

 

二人の少年は、14年の年月を経て、相まみえた。

 




【補足】
・クライオニクス実験
未来における蘇生に望みをかけて、極低温で人体を保存する技術。日本にはまだ施設は存在していませんが、遺体を冷却後、海外に送るサービスは提供している。

エピソードゼロ:投稿優先の期待値調査

  • 孤独な少女(シリカ編)
  • 人の温かさ(リズベット編)
  • 働くAI(ユイ・ストレア編)
  • 超食べたい(ヒースクリフ編)
  • 受け継がれる幻影(???編)
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